プロローグ

 ……は、恥ずかしいから嫌だ……。
 なんで? いいじゃん誰も聞いてないんだし。恥ずかしがらずに話してみてよ。
 ……お前が今聞こうとしている。
 そんな屁理屈言ってないで。ほらほら、さっさと吐け。お兄さんとても聞きたいんだよ。あ〜あ、このままだと夜眠れないな〜〜お兄さん。明日の仕事に響くな〜〜。まいったまいった。
 …………。
 ……なんだねその疑惑に満ちた目は? ほぉ〜、そんな態度をとるか。――じゃあ、僕と君との関係とは今日でお別れだな。
 ! 待って! 話すから、全部話すから! ……だから……行かないでくれ。
 ……はいはいそんな泣きそうな顔をするなよ。ほんと、甘えんぼだな、なつ君は。
ま、そこがまたかわいいんだけど。
 そ、その言い方止めろ……。気分が悪くなる……。
 ……で、昔の事。早く話してくれよ。
 ほんとに話さなきゃ―――。
 もちろん、だめ♪。
 ……わかったよ。笑うなよ
 OK。
 
………あれは―――

     ―――あれは俺がまだ人であったころの時間の話―――



『次は、Y駅。Y駅です―――』
 次の停車駅を知らせる放送が車内に鳴り響く。
乗客の一部はそれに耳を傾け、一部は聞き流し終わる。日常的な展開がそこにあった。
 時刻は五時半ば。太陽の灯が今にも落ちそうな時間帯だ。
そして、電車の中の乗客達は、夕方だけに皆疲れた表情を浮かべている。
一部では今日リストラでもされた様な深刻な表情を浮かべ、ため息ばかりついている人。その逆に、今日宝くじでも当たった様な嬉々に満ちた表情を浮かべて思い出し笑いみたいなことをしているものもいる。一喜一憂、感情の色はさまざまだった。
「きゃあ! やめてください」
 シーンとした空間に、ひとつの悲鳴が車内に響き渡る。そして、大半の人々が悲鳴の聞こえた先を見ようとした。
「いいじゃないのちょっとぐらい。ケツ触ったぐれーでピーピー喚くんじゃね」
 乗客達の視線の先には、ガラの悪そうな青年三人組が、学校と部活の帰りと思われるスポーツバックを手にした二人の女子高生に絡んでいる姿があった。自分の長身をうまく使い、女子高生たちを包囲するようにプレッシャーをかけている。
女子高生の二人は、とても恐怖に満ちた表情を浮かべている。そして青年組は、興奮した狼モードに入っていた。
「なあなあ、俺たち今暇なんだよ。今からでもいいから遊ばない?」
「っ! 結構です!」
 二人の内一人の女子高生が逞しくも反抗するが、全身は恐怖に震えていた。
それを確認した青年三人は、ニヤニヤと笑みを浮かべた。より興奮に色を染めていた。
 車内の人々が、そろって目を泳がせる。……かかわり合いにならない、なれば自分たちもなにかされる、それは嫌だ、怖い……そんな非常な、欠落した空気が車内の人々に浮かぶ。
誰も助ける気配を見せなかった。
 女子高生の一人が、そんな非常な乗客達に対して、必死に助けを求める姿はとても滑稽なことであった。
 青年三人達はそれを察したのか、さらに興奮と喚声あげた。
「どぼどぼ……」
「あぁ?」
 青年達と女子高生のガラ声と悲鳴が飛びかう車内に、液体のようなものが流れる音が響き渡る。青年組の一人がそれに声を上げ、反射的にあたりを見渡す。
 すると、先刻までオレンジジュースが入っていたと思われる空き缶が、青年達の真下を転がり、また、そこら一帯にオレンジジュースをバラまいている状況がそこにあった。
「うぉ!」驚きの声を上げて、慌ててオレンジジュースの湖から足を出す青年達。そしてそれによりスキができ、青年達から解放されて逃げ出す女子高生二人。慌てて青年の一人が「待ちやがれ!」と叫ぶが、そんな古臭いセリフに待つ奴などいない。しかも女子高生達の走って行く先は電車運行車両方面、つまり一番前ほうだった。
追いかけて車掌にでも見つかれば警察ざたになる可能性があるだろう。
それを悟ったのか、青年達は追撃を諦め、苦い顔になった。
 一瞬、時間が止まる。
そして数秒ほどが立った時、青年達がみるみると形相を引きつらせ、すでに中身を出し尽くされたオレンジジュースを足で踏み潰し、怒りをあらわにした。
「だれだ! ジュースなんか零したクソ野郎は!」
 鬼のような双眸で周囲を見渡し、睨む青年達。視線を促すたびに乗客達がビクビクと反応する。
……きょうび今日この時間、この電車の乗客は、ほんとに小心者揃いである。そして、今日、電車でのチンピラはそうとうにタチが悪い。
乗客たちの反応はもちろんなし。チッと青年組の一人が舌打ちし、そして意味もなく「オラオラオラ!」と叫ぶ。
電車は混沌とした悪意に満ち満ちていた。

"うるさいな"
「……ん?」
"だまれよ、ボケ"
「あれ……?」
 青年組3人の内一人の赤ジャケを着た青年が、せわしなく耳もとを触り、頭をかいていた。内の仲間がその行動を訝しみ、「どうした?」と訊ねた。
「? いや。なんか妙な耳鳴り……っていうか声が聞こえない?」
「は? なにいってんだ、お前?」
"おい……"
「ほらまた!」赤ジャケの青年はびびり声を上げ、またせわしなく耳もとを触りながらキョロキョロと挙動不審げにあたり見渡していた。
"聞こえてんのか"
 また声がした! 赤ジャケ青年は叫ぶ。「どうしよう、どうしよう……」
今にも泣きそうな声を上げる。
だが、仲間はさっぱり分からないでいた。頭の上に「?」の文字を浮かべていた。
「だ、だれだ。誰だこの野郎!」
"……よく聞け"
「なんだ、なんなんだよ……!」
 赤ジャケの青年は歯をがちがち鳴らして全身を震わせていた。
顔は青ざめ、表情は400mを猛ダッシュした後の様な憔悴した状態になっていた。
「お、おい、大丈夫かよ」
 内一人の仲間がちょっと心配と不安を感じたのか、赤ジャケの青年に近づいた。
もう一人の仲間も異変に気づいて「どうかしたか?」と言いながら近づいてきた。
車内の乗客もヤンキーどもの空気の変化に「なんだなんだ」と小声をあげていた。
 ――刹那、
 その時、赤ジャケ青年はうっと呻いた。
"いまから――"
「は………」
"そいつら……お前の仲間を――"
「う………」
"ぶん殴れ……"
「うわあああああ―――――――――――――――!!」
 突然の猛襲。
赤ジャケ青年は、すぐ隣の手を差し伸べようとようとしていた仲間の一人に襲い掛かった。その拳には手加減はなく、ただただ理性を失った動物のごとく暴れている。やられる仲間もなにがどうしたのか理解できずに、ただやられるだけ。ぼーっとしてて、もう一人の仲間が一抹ほど遅れ、二人の……いや、一人の仲間の暴走に対して慌てて仲裁に入る。だが、暴走者の拳により、えげつな血しぶきがまた舞った。
その時「誰か警察、警察呼んで!」尋常でない光景に耐えられなくなったのか、乗客の一名がしきりに「警察警察」と連呼して、電車の前方へ走って行った。
「そうだ! 警察だ!」と叫び、なぜかもう一人走っていく姿も見られた。
 残りは何もできず、ただただぼーっと光景を眺めていた。

『Y駅〜、Y駅です。降り口は右側です―――』
 いつのまにか、電車はY駅に止まっていた。
プシューと自動ドアが開き、降りる人がズカズカとプラットホームの中になだれ込み、乗る人が車内にズカズカと乗り込んでいく。
「あああああああ――――――――――――――!」
 だがしかし、一番後ろの車両だけ、乗り降りの動きが一転していた。一人の少年が降りたあと、突然大声で叫びながら走ってくる血だらけの青年が出てきたからだ。
「俺を助けてくれ! 誰か俺を助けてくれ!」と少年はプラットホーム全体に向けてまた叫ぶ。床に正座で座り込み、今度は床をしきりに殴った。
 奥の方から駅の警備員が駆けつけてきて、青年は少し抵抗して呆気なく捕まり終わった。暴れる青年が連れて行かれたあとにプラットホームは、唖然とした空気が包んでいて、シーンと静まり返っていた。
 ……この一人の常識を超えた暴走による被害。顔面ボコボコ全治一ヶ月一名、暴走に巻き込まれ軽い裂傷3名、電車の窓ガラス2枚の破損。そして……一人の精神暴走者。
 この単純で、みぞう未曾有で奇妙な事件は大題的に日本中に広がった。
 そして、これがこの物語の始まりの狼煙のひとつとなった。

一章 出会い

……私はここで初めて、社会の厳しさ、難しさ、そして、くだらなさを体験で実感した。

「そんな、約束と違います!」
 私は目前にある丸いフォルムをもった大テーブルを強く両手で叩く。あまり広くないこの所長室という狭い空間にその音はよく響いた。
「約束? 約束というのは、先日に電話かなにかで伝えた『口約束』のことかな?」
 私の前に座るこの男、河本正はあきらかに馬鹿にした口調で言う。
きっと、自分が女だからという理由に対しても嘲った笑いだ。
 嫌みったらしい……。
 河本は目頭を軽く押さえながら言う。
「私のこの美術館と君の所属している『ユーロカンパニー』とが共営する。うん、確かにいい話だとは思ったよ、最初はね」
「……なにか不満でもあるんですか?」私は恐る恐る訊く。
「ふっふっふ、あるよ〜、それもおおいにね!」
 突然、河本の顔が歪む。
 その迫力に、私は怯んだ。
「ふと思ったことだが、私のただの美術館なんかと共営契約なぞして、君たちはなんの利益があるのだ?」
「それは先日も話したように、我々ユーロカンパニーの営業の手を広めるため工作です。幅広いメディアを手に入れ、我社の発展が目的だと。あなたの美術館との契約もそのひとつです」
「そこだよ、そこが矛盾しているのだよ」
 河本の言葉に、「えっ」と言葉を詰まらせる私。河本はくっくっくと失笑していた。
「そもそも美術館と、商業会社のユーロカンパニーが共営を求めることが非常におかしい。まったく関係もないし、どう考えても商業の利益・利潤になんかにはなりそうもない。幅広いメディアだって? だったらもっと他の事があるだろうが」
「そ、それは……」
「あれじゃないか? 共営と偽って、私の美術品を勝手に海外かどこか、それともオークションか? とにかく良いような口車で、売買する気じゃないのか? あとで融資を送ると君の会社は言っているが、契約のさいの美術品に対する要項がないのはどーいうことだ? これは、下心ありありではないのか?」
「そんなことは!」
「ないと、言い切れるのか?」
 河本は強い調子で言う。言い切れない……。私は胸にムカムカしたものが湧き上がる気分になり、とても気分が悪くなった。思わず胸を抑えた。
――完全に見透かされている……って、そりゃあそうだ。こんなの誰にだって分かる詐欺行動だ。要領も考えもあったものではない。始めから自爆してるようなものだ。
「…………」
「……答えはでたな。契約はもちろんNOだ。早く帰りたまえ」
「…………」
 私は素直に退散した。予想していたことだが、今日一日がなんの意味もなくなった時であった。
 河本に背を向け、部屋の出口まで足を進める。
すると突然、河本があっと声を上げた。
「そうそう、最近美術品ばかりを狙う泥棒がこのあたりに出没しているらしい。もしかしたら、ここにも来るかもしれない。もし発見し、早急に教えてくれると私の考えが変わるかもしれないぞ? 試しに探してみてはどうかな?」
「…………」
 あきらかな皮肉……。私はまた胸の痛みを感じながら、急いで部屋をあとにした。態度をだしちゃいけないのだが、思わずドアをきつく閉めてしまった。



いつのまにか、時刻は九時二三分を回っていた。外はすでに完全な闇の世界へと変貌していた。
 ここは都内に立つそれなりに立派な美術館、または博物館でもある。
なぜ博物館ともいうのか、それは妙に古いもの、時代誇張した物品も置いてあるからだ。
それだけに、ここは本当に広い。デートの場所には向いていないだろう。こんなところ回ってたら、一日が美術品で潰れてしまう。金はかからないが、ちょっと寂しいデートであろう。
そして、私はその中の一角の通路に設置してあるベンチに腰をかけていた。
ちょうどよく、近くにあった自動販売機でホット缶コーヒーを買い、その場で一口飲む。まだ二月の寒い季節だ。体の芯から温まる心地よい気分に陶酔しながら、私はとぼとぼとベンチにまた戻った。
一息大きく吐く。
 ――はあ〜、今日も疲れたよ〜。
 ……とんだ災難だった。やっぱり、あんな詐欺契約なんかでこんな大きな美術館の管理者を落とせるわけがない。新しい新社長はかなりバカと今完璧に決まった。
――たく、なにが「大丈夫だよ。あそこ社長、かなりバカだから、契約書よく読まないでハンコポンしてくれるよ。こう、ポン! みたいに♪」だ。
 だあぁ――――――――――――――。
 お前がバカだっての! ……って一度あのハゲに言ってみたいわね。今度変装して目の前で言ってみようかしら。「お前バカ! デブ! =成人病!」
……きっとすっきりするでしょーね。毛穴びっしり開くほどの快感ものだろう。
 ……なにアホなこと考えてんだろ? 私。
 
私は現在「ユーロカンパニー」商社に勤めていて、名は綾瀬美夏(あやせ みなつ)、そこでの職業は秘書というそれなりにかっこいい仕事をこなしているのだ。
 最初は私も「ラッキ〜秘書だ!」なんて思ってやってたけど、これがとんだ落とし穴だった。
 私が入って二ヶ月で突然社長が変わったのだ。それも前とくらべてずいぶんとデ……いや肥えた人で、しかもどう考えても頭が悪そう、ていうか悪い。おまけに手癖も悪いし、目つきもやらしいし、ハゲだし。セクハラオヤジを絵に描いたような生き物。そんな社長に変わってしまったのだ。
 まだ前の社長の方が普通よりちょっとかっこよかったし、頭もよかった。だけど雰囲気は地味だったかな。それでも今のよりは百倍ましである。
「ふう〜」
 また一息つく。
一息ついて始めて気づいたが、夜中のちょっと暗めの美術館というのは、かなり恐い。たまに聞こえる見回り警備員の歩く音を聞くと、なにかと勘違いして寒気が背中を駆け巡る。
 ――そろそろ帰ろーっと。
 ベンチから立ち上がり、缶コーヒーの空き缶をくずかごへ。そしてまた「ふう〜」とため息をして、出入り口の方に歩を進めた。
今日はほんとにため息ばかりしてる自分に内心苦笑する。
――早く帰って、寝るとしましょう。

「カサカサ……」
「ん?」
 私はふと思い留まる。でかいゴキブリが歩く音? じゃない、なんの音だろう?
 私はあたり見渡した。が、ほとんど暗くてなにも見えない。しかし、私には妙な音、妙な気配が感じ聞こえていた。
 足音はちょっと雑音でも入れば、絶対に聞こえないほどの音量だった。まさに虫が歩くような音そのものだった。
 虫が歩くような音……人でいえば、しのび足で歩いている時の音……。
 ……最近芸品ばかり狙う泥棒がね―――。
 あ〜〜! もしかしてこれがあの泥棒? っていうか、泥棒なんて本当にいたんだ。わあ〜、なんか運命感じちゃう。
 ……もし捕まえてくれたら―――。
 ……アホですか。なんで秘書が泥棒つかまえなきゃ……ちょっといいかも。
むー、夜目に忍び込む泥棒を敏腕秘書が捕まえる。うーん、ちょっとかっこいいかもね、友達とかに自慢とかできるね、人生に華が咲くね。
 よし! いっちょ捕まえてみますか! もしくは犯人逮捕に協力という形で、助太刀しますか!
 そうと決まればいざ仁上に勝負! さあくるがいい泥棒。私のこのカモシカの様な足のキックをその薄汚れた顔にぶち込んでやるわ! だてに中学の時に意味不明に空手習ってないわよ、しかも初段だよ。聞いた話だけど、これはその辺のチンピラ10人相手にしても勝てるレベルなのよ。もちろん試した事はないけど。
 ……て、私は誰に向かって言ってるんだ?
 とにかく勝算は十分にある!
「カサスタカサスタ……」
 熟練された忍び足の音がじわじわ近づいて来る。私は相手に警戒させないように、ぎりぎりまで何も知らないふりをしてその場で待機していた。
私の攻撃範囲はだいたい2mぐらい(もちろん適当)。相手に不意打ちを仕掛けるには十分な距離だろう(これもご都合思想)。
 いける! この分だと、予備就職先に警察官が入る!
 内心で拳を上げながら、私は勝利を確信していた。

ぐさ……
 突然、なにかがウエストのあたりに刺さった気がした。

"そこをどけ"

「! 痛い!」
 なにかが刺さったかと思ったら、突然頭の中の脳が振動するような衝撃がきた。ぐわんぐわんと頭が揺れる。その場に立つのが辛い。
――なんなんのこれ?
 今にも意識を失いそうだった。とその時、片目だけを開いた目の先に、一瞬人の姿が写った。
泥棒!? 唯一開いていた片目はぼやけていて、背格好、顔なんかは見えなかったが、それは泥棒に間違いないと私は思った。直感でそう思った。
 もしかしてこの頭の痛みは泥棒が! さっき刺さったのは毒入りの針? 最近の泥棒はこんな毒薬攻撃なんかするのか。しかもいきなり。ずいぶんと荒い行動である。
「くっ! この!」
 私は渾身の力を振り絞って、泥棒に向けて足を伸ばす。すると、実はすでに倒れようとしていた私が伸ばした足がたまたま泥棒の疾走先を妨害したのだ。
泥棒はバタンと倒れた。同時に私も床に倒れる。
 やった! 結果オーライだが成功した! 
内心でガッツポーズをとり、急いで人を呼ぼうと息を吸い込んだ。私一人で捕まえようと思ったけど、この泥棒はそんな生易しい相手じゃない。
相当のプロだ。それとせこい。
ぐさ……
 また何か刺さった様な感触がした。

"喋るな! 動くな!"

(! ああああああああ!)
 さっきよりも強い振動。頭が割れそう、脳が割れそうだ。
 それに声がでない。体の感覚がほとんどなくて、動くこともできない。
痛みでさっきまで気付かなかったが、よく聞いてみれば、なにか命令形で声が聞こえる。そうか、これが泥棒の技なんだ。
「ちっ、てこずらせやがって。なんなんだこの女は?」
 泥棒の声……? なんか子供みたいな声だ。そういえば足を引っ掛けた時、妙に軽かったな……。
 ということは、泥棒は子供!? そんなことって……。
「…………」
 泥棒がなにか喋ってる。でももう何も聞こえない。耳も毒で聞こえなくなったみたい。
 ……目は、まだ見えるみたい。最後に泥棒の顔を見ておかないと。もし、ここで泥棒が逃げた時ために、参考人として泥棒の顔を……この目で……。
 私は体の軸を器用にずらし、泥棒が視界に入る角度にあわせる。見えた、やはり背丈の短さ、体の細さから、やっぱり子供にしか見えない。本当に子供なの?
と、私と泥棒の目があった。泥棒はなぜかびっくりした様な顔をしてこっちを見ていた。私は泥棒を睨みつけながら、なんとか特徴とかを覚えようとした。
だが、突然目の前に黒塗りが鮮やかな鉄の塊が現れた。それは、世間で言う人殺しの道具、拳銃だった。
 私は目を見開いた。そして悟った。
 ――あ、私、ここで死ぬんだ。以外とわかりやすい死に方だな。なるべく痛くない方がいいな。ちょっとその辺願ってみようかしら。
「バン……」
 たぶん、こんな音がしたのだろう。そう思いながら、私は意識を失った。



 ――ここに来てからだ。この妙に違和感のある変な感じ。
 俺はテキパキと準備を整えながら、その感覚に戸惑っていた。
 目の前にはずいぶんでかい建物がある。最近出来たらしく、作りが現代的で綺麗だ。
美術館らしいのだが、ただの美術館ならこんなに敷地はいらない。博物館でもいらないと思う。
 ……何かがあるのだろう。
 息を整え、頭を冷静にし、身を引き締める。
 よし……!
 準備が整った。
 とりあえず、予定で決めていた裏口に回った。
 しばらく進むと、ドアが見えてきた。
ここは数日前からの調べで昼夜とわず出入りの激しい入口がある。だからいつも鍵が開いていることはすでに知っていた。
たぶん、従業員用の入口か、なんかなのだろう。
 俺はなんなくそこを通り抜ける。一瞬人が目に入ったが、うまく気配を消せば夜中に見つかる事はまずない。
 美術館内は真っ暗だった。照明はある程度ついていたが、それでも足元がやっと見えるくらいの明るさだ。最低限の電力で過ごし、経費削減のつもりなのだろう。都会の建物は全体的に日当たり、月明かりが悪いから、ちょっとでも明かりを付けてないと何も見えないのだ。
 忍足で歩く。目的地は社員用エレベーターというところだ。
ここがなんとなく怪しい。わざわざ専用なんて……そうゆうのもあるかもしれないが、目標のアテがないのでここに行くしかないのだ。元々、今回の進入も下調べのつもりできたのだ。
 軽快な足取りで、まったく音をたてず、俺は進む。
 順調だった。だが、ここに来て最初の壁。
 目の前に人が立っていた。背格好、体格からしてたぶん女。その場で直立して立っている。何をしてるのか? と一瞬思ったが、今はそんな事どうでもよかった。
 俺は腰にさげた銃を手にとり、構える。狙いを女に定め、思念と共に発射。
 銃口から弾丸は出ず、かわりに細い先端が尖ったワイヤーが発射される。
 ワイヤーは女の腰あたりに刺さる。そして俺は一気に交わらせ、相手に対して命令を下す。
"そこをどけ"
 効果が現れた。女は激しく苦しみ、頭を抱えながらその場から崩れる様に離れようとしていた。
……あれ?
 なんか違う、予想外のことだ。
これは……女はなぜか抵抗していたのだ。普通ならこんなに苦しむ事はないはずなのに、女はその場に意地でも留まろうしている。
 わけがわからなかった。
 ゾク……。
 そう思ってたら、またさっきの奇妙な違和感が背筋を通る。
「うっ……」
 俺は急いでこの場から離れたい衝動にかられた。忍足を止めて、全速力でその場を駆け抜けようとした。
 だが……。
がつ……
「うわっ」
 無我夢中で走っていたせいか、目の前の障害物、女の右足に足を引っ掛けてしまった。受身を取ろうとしたが体制が悪く、そのまま大仰に転倒してしまった。
 俺は思わず呻き声を上げる。
 ……最悪だ。こんなくだらない失敗したのは初めてだ。
俺は急いで体制を立て直した。
女はまだいた。抵抗による頭痛が酷いのか、頭を抑えながら小さく呻いている。
そして、その口が大きく息を吸い込み、大きく開かれようとしていた。
 ――こいつ! 大声を出す気だ!
俺は内心慌てて銃を抜く。銃口からワイヤーが飛び、女に刺さる。
"喋るな! 動くな!"
 女はまた激しく背を曲げて苦しむ。だが、苦しみ声が口から出なかった。すでに声帯が一時的マヒに陥っているのだ。
 ……少しやりすぎてしまった。これ以上やると、女の精神事態にダメージを与えてしまう可能性がある。
 俺は女に歩みより、目の前に立つ。女に銃口を向けながら見下す形で見た。女は小刻みに震えながら、こちらを見ようとしていた。
 目が合った。顔もはっきりと見えた。
 俺は激しく狼狽した。
 その理由、そいつは……知人だったから。
「み、美夏……?」
「おい、さっきなんか音しなかったか?」
「え? そう? どのあたりそれ?」
 人が近づいてきていた。物音に感づいてこちらに向かってきているのだろう。
 俺は狼狽していた精神を覚醒させる。冷静になれ、と自分に言い聞かせた。
 女を見た。すでに気絶している状態だった。
 ――こいつも隠さないと……。
 俺は腰に銃をしまい込み、女の腕を掴み、自分の背中にまわす様に担いだ。少し重かったが、なんとかなる程度だったので大丈夫だった。
 俺は考えた。そして、自分がなにかに興奮してることに気付いた。
「ははっは……」
 俺は笑っていた。
 ――こんな所でこいつに出会えるとは、思ってもみなかった。
 そして、笑いながらこうも思った。
 俺は、なんてラッキーな奴なんだ、と。



……ここはどこだろう? 天国?
 手探りしてみる。地面がありコンクリートのひんやりとした冷たい感触があった。
また手探りしてみる。ちゃんと足があった、ちょっとすり傷があって触るとヒリヒリしたが、ちゃんと若々しい私の足がしっかりとは生えていた。
 生きている……。
 ――あれ? 私さっき、撃たれなかったっけ?
 体を動かしてみる。まったく痛みはない、深い傷なんてどこにもない。
さっきまで泥棒と格闘していた時の頭痛も完全に消えていた。
 あ! 泥棒! そーいえば泥棒どうなったんだろう? もしかして逃げたかな? まさか捕まったかな? でもあの泥棒、かなりやり手だったから、たぶん捕まらないだろうな。ここ警備性悪そうだし……。
「……こ……うん」
意識がだいぶ回復してきたせいか、周りの音もだんだん聞こえるようになってきた。
「……そう、ちょっとトラブルがおこったから、今日は帰るよ」
 声がした。男の……まだあどけない少年のような声。
あれ? どっかで聞いたことある声だな……。
 もぞもぞと体を動かしていくと、腰のあたりになにかがぶつかった。ぶつかった何かが「ん?」と声をだして、私を見下す形で見る。
そこで、目を瞑ってたせいでぼやけていた私の視界も鮮明になってきた。
私は声がした上を見上げた。目があった。
 そこには、耳のところにインカムみたいな物をつけて、それに向かって「いや、なんでもない」と話している少年がいた。
顔立ちから、中学生くらい。髪はぼさぼさにほったかされたショートヘアーで、やや茶色がまざっている。体には黒いジャケットを身にまとい、内側が開いていて、そこから普通の500円ぐらいのTシャツが覘いている。下がこれまた軽そうな黒いジーンズみたいなやつで、腰にはずぶといベルトがあり、数個のポケットが装着されていて、そこにいろんな小型の電化製品が差し込まれていた。
 その姿はまさに、私が一度なんちゃって死の間際に見た、泥棒と酷似していた。
「あああああああ――――――――――――――!!」
 思わず叫ぶ。だが、素早い動きで口を少年――泥棒に塞がれた。
「予想はしてたが、まじで叫ぶな。死にたくなければな」
 少年は呆れたような声で制す。私は口を塞がれたまま、「んんん〜!」と抵抗を示したが、ふと少年の腰についた黒光りする鉄の塊を見て、全身を凍らせた。抵抗を止める。
 そして、視界がはっきりしてきて気付いたが、私とこの少年はどうやらこの美術館に数多く設けられている小部屋の様な小さな一角にまるで隠れているみたいにいるようだ。目の前には大きな絵が一枚どーんと置いてある。絵の趣味はあまり良くなかった。
 と、目をキョロキョロさせてる私に、少年は言う。
「おい、今からいっしょに逃げるからな。ちゃんとついてこいよ。お前の安全は保障できないからな」
 さっぱりわけのわからないことを少年は言った。とりあえず、いろいろ聞かないと話しにならない。私はジェスチャーで、『絶対叫ばない』を示して、少年の口の拘束をといてもらう。
「ふぅ〜、苦しかった。……それで、一緒に逃げるってどういうこと? なんで私が泥棒なんかと一緒に逃げなきゃいけないわけ? そもそもなんで私とあなたは、こんなすみっこに隠れてるようにいるわけ?」
 質問は山ほどあった。なんてたって始めてみる泥棒さんだ。しかも意外の意外でその泥棒がまだ初な少年なのだ。
とりあえず、現状状況からまず知らなきゃいけないが、それが終わったら朝までインタビューしたいくらいだった。
「一緒に逃げるのは、お前が俺の姿を見てまだ生きてるからだ。そして、なぜこんなすみっこにいるかは、俺が身を隠すためでもあり、お前が逃げ出させないために見張るためここまで連れてきたからだ。分かったか?」
 私の質問に一文で答える少年。口調も冷静で淡々としている。
あっさりほんとと思われる返事に、会話が終わる。
私は次の質問を懸命に選んだ。一番聞きたいことは「今まで、まとめて全部でいくらぐらい盗みましたか?」だけど、そんなこと聞いたら気分悪くするかもしれないので止めておこう。
「私、気絶してたよね」
「ああ、してたな」
「あれ、あなたがやったの?」
「あれって?」
「あの、いきなり頭痛起こして妙な幻聴が聞こえる……」
「ああ……そうだけど。っていうか、幻聴は違うぞ、あれは俺がお前の中にかたってる声だ」
 ――また意味不明……。この話はパスにしといたほうがいいわね。
「一緒にこないとどうなるの?」
「ここで冷たいカタマリになるだけだ」
 少年は淡々と無表情で答えた。
「…………」
 私はとたんにこの場にいるのが恐くなった。最初にはなかった寒気……冬の寒さなんかじゃない。
私はこの少年に恐怖していた。
――これが泥棒という生き物? まるで悪魔みたいな奴じゃない。
「…………」
 思わず、じりじりと後退していた。だがすぐに、後ろの壁にぶつかる。内心で悲鳴を上げた。
 少年も、自分が非難されてると気づいたのか、体を私の方へ向け、目線を私と正面に合わせた。表情はあいもかわらず無表情だ。
「……恐いか?」
「…………」
「大丈夫だ。今は、なにもしない」
 にこっと笑った。
「えっ――?」
 私は目を見開いた。びっくりしてしまったのだ。
この少年がこんなふうに、普通に笑うなんて、思ってもみなかったからだ。
 だが、ふと思う。
 ――やっぱり、この子も人の子なんだ、と。
今はこんな泥棒なんかして、自分の顔を見られたからって人を脅したりしてるけど、それは仕方のないことなのだ。生きるための手段なのだ。過去にどんなことがあったのかは分からないけど、この少年は立派に、今を生きているのだ。
やる事はあれだけど、素直にえらいな、と思った。
少年はすぐに目線をはずす。すぅと立ち上がり、外の様子を伺っていた。
外の方ははっきりいって静かだ。人の気配などまったくしない。
これに私はちょっと笑ってしまう。
それが照れ隠しによる行動と分かったから……。
――とりあえず、信用してみますか。この子、嘘はついてないみたいだし。
 私は「よし!」と気合を入れて立ち上がった。
少年が訝しげに上目ずかいで私を見ていた。こうして並んでみると、ほんとに小さい。身長差15cm以上はある。
「一緒についていってあげる。って、どうせついていかないと、私殺されちゃうんでしょ?」
「…………」
「私、今の人生にはほどよく満足してるんだぁ。だからこんなところで死んだら、たぶん成仏できないと思うの」
 これは半分嘘である。人生に対しては不満ばかりだが、中途半端な時に死んだりするのは、やっぱり情けないし悔いが残ると思う。それが半分の本当。
 それ以外にも、理由はあるが、現時点ではそれで十分であろう。
「せっかくだから、ここ出たあと、どこ行くのか教えてくれない? 簡単な目的地ぐらい知っておかないと、不安だからさ」
「……俺のアジトへ行く、とりあえずな」
 そう言って、少年は耳についたインカムのあたりをいじり、「今から帰る」とだけいい、顔を私に向けてきた。
「……よろしくね」
 私は右手をさし出した。顔には笑顔を浮かべる。
「…………」
 少年は無表情で私の手を見つめていたが、結局握手はしてくれなかった。
照れてしまったみたいだ。
『ジリリリリリリリリッッ――――――!』
「!」「!?」
 突然、非常警報サイレンの音が鳴り出した。私も少年も、何事かと上を見上げながら警戒する。
『一階、12番フロア付近に侵入者発生。一階、12番フロア付近に侵入者発生。警備員、係員の者はすみやかに発見、対処を行ってください―――』
「な、なに?」
 ――12番フロア? ……て、ここじゃん!? なんか壁に『12』って書いてあるじゃん! どーいうこと?
「……どーいうことだ?」
 少年は私に睨みをきかせてきた。私は手やら顔やらを動かして、思いっきり否定した。私のわかりやすい狼狽ぶりに違うなと納得したのか、少年はもう何も言わなくなった。
「事情が変わったようだ。この分だと、早くここから逃げなければ、有無聞かれる前にお前も捕まるぞ」
「ええ―――!?」
「時間がない。誰か来る前に急いで逃げるぞ」
 そう言って、少年は一目散に走っていった。
「ま、まってよ、君! おいてかないでよ!」
 考える暇もなく、私は流されるままに少年に着いていった。



真っ暗で広い廊下を、私は無我夢中で走った。
こんなに走ったのは、高校の持久走大会以来であった。
実際、途中で警備員に遭遇してもうだめかと思ったけど、この少年が……。

 しばらく走っていると、曲がり角から一人の警備員が飛び出した。「あ、う、動くな!」
と叫びながら、腰から警棒を抜いていた。
 それを確認した目の前で走る泥棒少年は、躊躇いもなく腰のあたりに手をのばしていた。
「ちょ、ちょっと何する気?」
 私は驚きの声を上げる。いきなり走りながら、少年は腰にさげたあの黒塗りの拳銃を取り出し、なんのためらいもみせずに銃口を警備員に向けたのだ。
いきなりものほんの拳銃だと思われるものが飛び出したせいか、警備員は「ひい! け、拳銃?」と情けない声を上げて最初勢いのあった動きを止めてその場で怯む。なるほど、脅しに使ったのか……とほっと思っていた矢先に、
「パシュン」
 と、間の抜けるような音を出しながら銃弾発射。私は顔が一瞬にして青ざめる感覚にさらされた。
「ぎゃああああ―――――――――!」
 警備員の絶叫する声。私は反射的に目を逸らした。
「なにやってんのよ! 撃つことないでしょ!」私は前で走ってる少年に向かって怒号を吐く。
「は? なにが?」
少年は走りながらちょっと振り向いて、ほおけた顔で私を見た。自分がやった事になにも感心を抱いていないらしい。
「なにって……さっきいきなり撃ったじゃない! いくら妨害してきて邪魔だからって、B級アクション映画みたいにいきなり発砲はないでしょうが」
「撃った?」少年は走りながらうーんと考え、ああと頷き、「勘違いだ。俺が撃ったのはお前が知ってる本物じゃない。……ほれ、これだ」
 ひょい、と渡されたのは拳銃……じゃなく、それは拳銃の形をした物。トリガーを押すと銃口から先の丸くとんがったワイヤーみたいな物が飛び出す、おもちゃだった。
「なにこれ?」
「見てのとおり、拳銃型のおもちゃだ。……後ろ、見てみろよ」
 少年に促され、あまり見たくない後ろを見てみた。
するとそこには、床に寝転がり、頭を抱えながらただただ絶叫する警備員がいた。予想通りの光景に、私はすぐに痛々しい気分にかられ、目をそらそうとしたが、警備員の「ぐあぁ〜頭、頭を撃たれた〜〜!!」という叫び声が耳に入り、私は目線を反射的に戻した。
 よく見ると警備員は何もケガなど――ましてや拳銃などに撃たれてなんていない。それなのに、頭を抱え込むように掴み、ひたすら苦しんでいたのだ。「頭が! 頭ががぁぁぁぁ」
「誰かが介抱してあげるまでずっとあのままだ。これで邪魔な奴らが一箇所に集まる。いまのうちに逃げるぞ」
「あれ、どうなってるの?」
「説明しただけで、理解するか? お前」
 少年は問うように言う。
私は考えた。おもちゃの拳銃でありもしない痛みに苦しませる……どうやっても普通の方法ではそんな事できそうにない。
すくなくとも、私は知らない。
「……あとで詳しく教えてちょうだい」

時刻はすでに十時をまわっていた。
あたりは街燈の光、街の建物から漏れる光で明るい。これからが都会の眠らない街の本領発揮の時間帯だ。
あたりでは風俗の勧誘やらのホスト組がちらほら散らばっていた。
そんな中、私は息を荒くして苦しみにふけっていた。
やっとのことで、私たちは外へ抜け出した。汗をかいた体に冬の冷たい空気がすーと体に流れ込む。しかし、全力疾走してきたおかげで、全身は火照っていた。おかげでぜんぜん寒くない。むしろ心地よい気分だ。だが……
「ぜーは、ぜは、はぁ、はぁー……」
 足に力が入らない。呼吸がうまくできない。とりあえず「もう年だな〜」なんてことは考えたくない。
これはただの運動不足なのだ。そうに違いない。
「年のせい?」
 と、少年心にもないことを。
私は少年を睨む。人が嫌な考えを、しかもついさっきまで考えてた事を平気で言い当てるとは……。
 侮れん!
 そして、私がこんなに死にかけてるのに、少年はまったく息が荒くない。全身には余裕が満ちている。「やっぱ若いな〜」なんて考えたくない。
だって私だって若い軍団に入ってるんだから。21なんだから。
「違うよぉ〜、これはうん、どう、ぶそくが原因……」
「ふ〜ん……」
 少年はまったく興味がないようだ。私はその態度に少しカチンときたが、所詮はガキ子供の言うこと、と内心に言い聞かせ、平常心をたもった。
 少年が言う。
「さっきも言ったように、今から俺のアジトへ行く。場所はここから一駅離れた所、すぐ近くだ。み……じゃない。あんたの残りの体力でもいける距離だろ?」
「バカにしないでちょうだい。これでも毎日徒歩15分かけて駅に行って、満員電車のプレッシャーに耐えて生きてる女よ。それなりに持久力は備え維持してるつもりよ」
「そんな息荒くなってるくせに?」
「こ、これは、日頃の疲れが溜まってるせいなの! 君、いちいち突っかからない!」
 叫んだら余計息が荒くなった。やっぱ毎日徒歩15分程度で体力の維持なんてペテンなことだわ。
明日からは競歩15分にしとこう。
 私と少年は、とりあえず駅に向かって足を進めた。少年が前を歩き、私が重い足取りでついていく形で歩いた。
「! そーいえば……」
「?」少年が訝しげに振り向く。
「名前、まだ聞いてない。君なんていうの?」
「…………」
「? どうしたの? あ、もしかしてこれも生業の問題とかで言えないとか?」
「いや、別に……」
「じゃあ、教えてよ」
「…………」
 黙り込む。そしてなぜか悲しい顔をした。
 ――私、なにか変なこといったっけ?
 少年は俯き、ちょっと悲しげな表情だ。
やっぱり何かカンに障るような事を言ってしまったようだ。
 そう悟ったとたん、私は内心で慌てた。理由がわからない事にも狼狽していた。
と、とにかく……。
「ごめん! ごめんね!」
「え?」
「名前なんてどーでもいいよね! ごめん、もういいよ」
 とりあえず謝る。やっぱり理由はわからないが、悪い事をしたら謝るのは常識だ。
たとえ相手が非情な泥棒だとしても、悪いと思ったことは悪いと思う。少なくとも、私はそれを信条にしている。
 当の少年はびっくりしていた。だがしばらくすると、だんだん顔がほころびだし、そして……
「あははははははは!」
 大笑いをした。
 なにがなんだか分からず、私は目をぱちくりさせる。だが、当の少年は腹をかかえて爆笑している。
 理解不能。
「ぜんぜん変わってないや。あははははは〜〜〜」
「かわ? え?」
「いやなんでもない」少年はまだ微笑を浮かべながら、手で空を仰いだ。
「お前はなんていうんだ?」
「え?」
「お前の名前だよ。名を尋ねるときはまず自分から、っていうだろ、だからお前からまず言え」
 ……なんか急にタメ口になった気がするのは気のせいか。
 でも、どうやら怒ってるわけではないようだから、私は少し安心した。
「あ、綾瀬美夏……」ちょっと戸惑いながらもそう答える。
「俺は川辺夏久(かわべ なつひさ)だ」

二章 地下アジト

都会の夜の空は寂しい。まわりのネオンの光、無駄にでかい建物で星が見えないから
だ。そのぶん、夜でも中心街のあたりは騒がしく活動を続けている。しかし、どこもやばそうな店ばかり活気よいのは気のせいか。
駅を降り、ついたのはほぼ中心街のど真ん中だった。が、私はちょっと疑問を覚えた。
こんなところに普通の人が住む建物なんか建てられるのか? それとも合法的に事務所という形でアジトと名乗っているのだろうか。
考えてみたが、全部憶測の考えにしかならなかった。
少年……もとい川辺夏久は、私を置いていきそうな勢いでずんずんと歩いていく。「待って」と言ってやっと止まってくれるが、ちょっとは気を使ってほしい。私はまだ、ここに越してきたばかりで、都会を歩くのはあまり慣れていないのだから。
私が待ってを6回ほど言ったところで、夏久は完全に止まった。私は危うくぶつかりそうになりながらも止まる。
どうやら到着のようだ。
私は上を見上げた。ちょっとカビがはえた壁。年季の入った雰囲気のある建物。まさに最初に考えた事務所そのままの建物がそこにあった。
「ここがアジト?」私は建物を指差しながら言った。
「いや。ここもいちおう私有物だが、アジトはここの地下十階だ」
 夏久はずんずんと建物の中に入っていく。私もそれに続いた。
 中は真っ暗で、人の気配がまったくない。
そして、地下に降りるための、階段とかがない。
「どーやって地下に行くの?」
「エレベーター」
 周りを見渡すと、たしかにエレベーターがある。だがしかし、エレベーターの階数表示板を見ても地下を表す階数が書いていなかった。
 不安が募る。だが前を歩く少年はずんずんとエレベーターまで歩き、開きボタンを押して中に入る。
 私はどうしようかと、逡巡した。
だが、夏久から「早くこい」と催促が飛ぶ。
 仕方なく私はエレベーターに乗る。ボタンのところを見たが、やはり地下行きのボタンはない。
「そっちの壁に手を広げて立て」
「へ?」
「早くしろ!」
 怒声を上げる夏久。
「わ、わかったわよ、そんなに怒らないでよ……」
 私は素直に指示に従った。
私が位置つくと、夏久は一つ頷く。そしていきなりエレベーターのボタンがある下あたりを蹴っ飛ばした。
すると、蹴ったあたりの壁が経こみ、エレベーターが妙な機械音を出す。
 その時突然、壁からガションガションと妙な音をたてながら、ジェットコースターで使う、人が飛んでいかないための安全柵みたいなものが現れ、私の両腕、両足ががっしりと固定された。
「な、なにこれ!?」
 言いながらふと夏久を見ると、夏久も私と同じで完全固定されていた。思わずぎょっとしてしまう。
「喋ると、舌噛むぞ」
 ドアが閉まる。なぜか近くでモーターが回るような音が響き渡る。
私は猛烈に嫌な予感がした。いや、すでに感じ取っていた。
ゴーン…………ガクン
 モーターが唸りを止めた。そして、
「ドシャ――――――――――――――――――――」
 エレベーターは真下に落下した。まさに落ちるというかたちで。
「きゃあああ――――――――――――――――――」
 私は悲鳴を上げた。
 ふとエレベーターの階数表示板を見た。しばらく落下していると、階数表示板の上のあたりがパカっと突然開き、そこからB1とかB2の新たな数字が現れた。
全部で25まであった。その数字が1から2へ点々と色を変わっていく。
 ちょうどB10のところがピカっと大きく輝いた。
 ガックン……エレベーターが止まる。
私は激しく呻いた。止まった瞬間の反動は半端ではなかった。それは一瞬、魂が抜けたような感覚である。
 安全柵がガションガションと外れる。支えを失って、私はその場に倒れた。
恐さを乗り越えて、死を体験してしまった気がした。。生きてる感覚に喜びと憂いがこみあげてくる。
「大丈夫か?」
 夏久が「やっぱりこうなったか……」という感じの表情で私を見下ろしていた。
「……なんな、なのよ、これ……」
 やや答える言葉が欠落していた。
「フリーフォール型時間短縮エレベーターだ。このエレベーターがいちおう主出入口だから、まあ、がんばって慣れてくれよ」
「…………」
 私は、この先ちゃんと生きていけるのか、だいぶ心配になった。



 エレベーターの外は、まるで鍾乳洞のようなところである。
 しかし途中まで歩くと、白い壁が現れて、近代的な人の手が入った造りになり、私は少し安心した。
とりあえず、人が住める場所はあるようだ。当たり前だけど。
 それにしても……。
 まさかこんなところに住みかにしてるとは、驚きである。まるで秘密基地だ。いったいどうやってこんな場所を発見したのか……あとで聞いてみよう。
 また、ちょっとした楽しみができた。
この時すでに、自分が今捕まっている事はすっかり忘れていた。
「ついた……」
 夏久が呟いた。
 正面に目をやる。そこには大きな引き扉あった。
……がしかし、その扉は見た目があまりにもさびた色でボロボロだった。まるでまったく使っていないような重い雰囲気を漂わせている。
 私は思わず顔をしか顰めてしまう。ほんとに中は人が住める場所があるのか。というより、この扉はちゃんと開くのか。ものすごく不安になる。
「……呉地の奴、また趣味の悪いことを……」
「えっ?」
 すると突然、夏久はちょっとキレた表情になって、舌打ちひとつ鳴らし、扉に近寄っていきなり、
ドバキャン!
 扉を蹴っ飛ばした。
 すると、扉が突然ぐにゃりと曲がる。そしてどさりという音をたてて前べりに倒れた。
見るとそれはただの錆色をした扉の絵だった。粘着液かなにかで、本当の扉の前にはっつけてあったらしい。しかしなんで?
 そして本物の扉が現れた。いたって普通のちょっと黒っぽい鉄の扉である。
「ちょっとここで待ってろ」
 夏久はそう言って、一人で扉の中へ入っていく。私は素直に……ちょっとじゃなく、
扉にこそっと聞き耳をたてた。しかし、扉の奥はかなり深いらしく、なにもまったく聞こえてこなかった。諦めて扉に背中を預けて待つ事にした。
 しばしの静寂。
 が、突然扉ごしに騒がしい音が響く。ドンガラガッシャンといろんな物がぶつかり合唱しあう不協和音がここまで響き渡った。
 私は思わず、わっと驚いて扉から体をはずす。
 シーンとまた静寂が訪れる。私は扉を不審げに眺める。
 すると、突然扉は開き、そこから夏久が顔を覗かせた。
「いいぞ、入れ」
 私は慌てて少し緊張ぎみに頷く。そして胸をどきどきさせながらそっと扉の中へ体を進めた。
「靴は脱いでそこにおけ。中はこのスリッパで行動しろ」
「おじゃましま〜す……」
 靴を脱いで、スリッパを履き、ずかずかと入り込む。内心は緊張と興奮でいっぱいだった。
 しばらく歩く。すると、大きな広間に出た。
 あたりを見渡してみる。瞬間、私は無意識にすごいと思った。
 まず、広さは半端ではなかった。入り口からここに来るまで部屋は4っつぐらい見えたのだが、ここはその内のひとつ、たぶんリビングルームだろうか。そこは学校ある大教室並の奥行きと広さだった。
 部屋の雰囲気は静かでやや暗い。しかし、ゆったりとした感じだ。
天井にはバーなんかにあるプロペラがくるくる回っていた。よく見れば酒がずらりとならび、カウンターみたいなものも設置されていた。周りの雰囲気と重なり、それはとてもマッチしていた。
「すごい……」
 声にも出して言ってみた。本当にとにかく凄いのだ。
「勝手に感慨してないで、早く入れ」
 夏久は入り口前で止まる私はせかした。
「え? あ、あうん……」
「ここから奥行った処に客室があるから、そこで待ってろ」
 淡々と指示を出す夏久。私は始めて友達の家にきた時みたいに、挙動不審じみた動きで指示に応じる。全身にはまた緊張からくる冷や汗みたいなものが流れていた。
 私はきょろきょろしながら入り口内に足を進める。
 リビング内、中へ入ればまた景色が変わる。よく見ればいろんな風景画もはりつけてあった。街を写した絵、山の川の絵、その中でも海の絵が多かった。
夏久は海が好きなのだろうか。ちょっと意外な趣味である。
「俺は荷物を置いてくる。お前は客室に行ってろ」
「あ、うん」
 そう言って夏久は廊下みたいな通路を通って、ある部屋に入っていく。たぶん彼の自室だろうか。
私は夏久が消えるまでじっと見つめたあと、指示された客室に足を進めた。
 奥へ進むとたしかに部屋があった。ここが客室らしい。
私はずんずんとそこへ進んだ。
 そして、いきなり……。
「ところでなつ君。客ってだれなの――――」
 客室のドアなしの大口の様な入り口の角っこから、突然若い男性が顔を覘かせた。
 目が合った。若い男性は目をぱちくりさせて私を見ていた。
私も目をぱちくりさせて男性を見た。
「…………」「…………」
 見つめあったまま、沈黙。
「なに入り口前でまた止まってんだ?」
 荷物置いて戻ってきた夏久が私の後ろに立っていた。「早くいけよ」とせかす。
「なつ君……」
 若い男性が未だ私を見つめながら夏久の名を呼ぶ。その時始めて夏久は男性の存在に気づいた。
「客って、この人? この女の人?」
「ああ、そうだけど……」
 うろんげに答える夏久。この見れば分かる様な質問の意味が理解できないでいるようだ。
 若い男性は私と夏久を交互に見る。すると、突然顔が歪み、とてもにやっとした表情に変わる。
そしてその表情のまま、顔をゆっくりと部屋の方へ沈ませていった。
 ――いったいなんなのだろうか?
 さっぱり意味がわからない。後ろに立つ夏久も同様のようだ。
「なんだ? お前なんかいったのか?」夏久が訊く。
「さあ? ……ところであの人だれ?」
 疑問を疑問で返す。
 すると、客室の中から、
「ああもしもし文ちゃん? 元気? え? 明日にしてくれ眠い? ちょっと待ってちょっと待って、これ一刻を争う事件事件!  ……えーとね、よく訊いてよ。なんとあのなつ君が今日いきなり若い女性をさら――――――――」
 男性が誰かと話してるような声が聞こえたと思った直後。突然、激しい打撃音が客室内で鳴り響く。
私はまたわっと驚いた。そして、いつのまにか夏久が後ろにいないことに気づく。
 ドンガラガラガッシャン!……連続したものすごい騒音。私は慌てて客室内に入った。
 見ると、さまざま家具にまざって男性がボロボロで倒れている姿があった。
「どこをどう詮索すれば、そういう発想になるんだお前は! あー!」
 夏久は顔を真っ赤にして怒っていた。
「え? 違うの? 人攫い……」
 男性は、ほうけた顔で夏久の真意をさぐっていた。
「……嘘、ではないようだね」
 夏久は「アホか!」とまた罵声を吐き、男性を蹴る。男性は痛そうにわき腹を抑えて転がっていた。
 そして、夏久はさっきから隅っこある電話機からぶら下がった受話器を乱暴に掴んだ。
「文雄さんか? ああうん、その話は……違う、それは呉地の勘違い、だからおめでとうじゃなくて! 違うって! ああもう、今度説明するから。じゃ」
 がちゃっと受話器を下ろす夏久。そして深くため息を吐いていた。
そして、疲れた視線を入り口の前で立ち尽くす私に向けてきた。
「もしかして、私のせい?」
 彼の目は、そう訴えているように私には見えた。



 いろいろとごたごたが前半起こったが、やっと落ち着いてきたようだ。
 で、今私は、またせわしなくあたりを見渡していた。
 リビングとは対照的だが、ここも凄く豪勢な作りであった。
このソファーなんかいくらするんだろう? うん百万ぐらいしそうな勢いだ。
 ――やっぱり、泥棒ってけっこう儲かるのだろうか?
 ちらっと横を見る。そこには世間で泥棒といわれる職業につく川辺夏久が座っていた。目を粒って、黙想みたいな事をしている。
 とりあえず、この子の収入は半端じゃないのだろう。
しかし、その背格好ゆえか、全然すごそうにも、そんな金持ちにも見えない。まず、全然泥棒に見えない。どうみてもただの中学生ぐらいの少年である。
「……ん? なんだ?」
 夏久がこっちを向いて疑問の声をあげる。どうやら無意識に彼の事を見つめていたらしい。私は慌てていいわけする。
「コーヒーおまたせ〜♪」
 と、顔面にさまざまな傷を負ったあの男性が現れた。手には3っつのコーヒー入りカップの入ったトレイを持っていた。
 男性の人は慣れた手つきでコーヒーをテーブルに置く。
私は「あ、どうも」と会釈する。
男性はにこりと笑みを返してくれた。
 とりあえずコーヒーを手に取る。よく考えれば、非常に喉が渇いている事に私は気づい
た。
美術館で全力疾走にここアジトでのエレベーターフリーフォール……原因はたぶんこれ
だろう。
 コーヒーを一口飲む。ちょうどよい温度の液体が体の中に入り込み、全身を温めた。
「おいしい……」
 喉が渇いてるせいもあるが、このコーヒーはほんとに美味しかった。ちょうどよい苦
味と甘味、かぐわしい良い香りも普通のコーヒーと比べて一味違う。
 こんなコーヒー、生まれて初めて飲んだ。
「うちのコーヒー豆はこだわり品だからね」
私の考えを読んだのか、男性が自信げに答えた。
「そうなんですか」
私も素直に納得した。これだけ住居が豪勢なんだから、ただのコーヒー豆にもこだわりをみせても不思議じゃない。
 また一口飲む。これなら毎日飲んでも飽きそうにない。ほんとに美味しかった。
「……じゃ、呉地も座れ。説明するから」
 さっきまで目を瞑って沈黙していた夏久が口を開いた。
 呉地? この人の名前か。呉地なんて珍しい。
さっきから呼ばれていた言葉だが、名前だったのか。
全然分からなかった。
 夏久に促されて、呉地も「はいはい」と言いながら私と反対側にあるソファーに座った。
 話す準備は整った。
「――まず自己紹介だ。呉地、この女は綾瀬美夏。いっとくが、さらってきてないからな」
 ……どうやら相当に気にしてるらしい。
呉地は苦笑にしながら「はいはい」と頷いた。
「で、美夏。このいやらしい男が伊豆野呉地(いずの くれち)。いちおう俺とここに住んでいて、俺のパートナーでもある」
「いやらしいは余計だよなつ君。それに『でもある』ってなに? 僕は出会った時から君のベストパートナーと思ってたんだけど」
 ちょっとショックな表情で問う呉地。
 私は呉地を見た。ほっそりとした長身、180はあるだろうか。年は私よりちょっと上だろうか。透き通るように綺麗な黒のロングヘアー、遠くからみてもさらさら感が伝わってくる。そしてなによりも、顔立ちがとても整ってる、一般的に見ていい男といえるだろう。
性格はたしかにちょっと変わった人だが、悪い人には見えない。私は素直に好感をもてた。
「よろしく、美夏ちゃん」
 呉地は私の視線に気づいて破顔一笑で答えた。
私は慌てて会釈する。
 ――またじっと見つめていたみたいだ。どうも今日は詮索に集中しすぎて我を忘れてしまう。
「……話進めるぞ。で、なんでこいつを連れてきたかと言うと……」
 私は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。連れてきた理由……夏久は『自分の素顔を私が見たから』と言っていたが、それだけで私をこんな地下アジトなんかに招待するなんてのは実際ついていきながら不思議に思っていたのだ。
 ――いったいどうするんだろう? 体にメス入れられて肝臓とかを取り出す? って、これはただのヤクザ極道だよね……。泥棒って盗む以外何するんだろう? 
よく考えてみれば、私泥棒の事、なにもしらない。
 いったい……。
「――――――というわけで、捕まえてきた」
 思考がいっきに現実に戻る。いけない、話を全然聞いてなかった。今どこまで話進んでるんだ?
「ふむ……」
 正面を見ると、呉地が目を瞑り、右手を顎に当ててなにかを思案していた。
 そして、突然目を見開き、私に視線を向けた。
「それにしてもすごいね。ただの20代の女性がなつ君の足をひっかけて止めて、なおかつ素顔まで見るなんて……実際、とんでもない事件だな、これは」
 とんでもない……と言いながら、呉地はとても楽しいそうであった。
「美夏ちゃんは、なんか格闘技とかやってた?」
「え? あ、はい。いちおう中学の時に空手やってました。段位は初段」
 あまり空手の事は人に話したことはない。理由はやはり世間的に女が空手とは不条理な組み合わせだと思ったからだ。
私はただ護身用に覚えただけなんだけど……なぜか初段までとってしまった。それなりに才能があったのだと、今は思う。
役に立った事は、体育の時だけだったけど……。
「そう……それでも、かなりありえない話だね……」
「え?」
 ――そーいえば、なんでこの人は否定ばかりするのだろう。
そんなにこの少年がすごいのだろうか。
「何を焦っていたのやら……」
「そんなことより――――」
 突然、ちょっといらだたしげに呟く夏久。
「まずこいつをどうするか、それを考えなきゃいけないんじゃないか?」
「そうだねぇ、なんだかんだ言って、連れてきたからにはなにかさせてあげないとね」
 呉地はまたうーんと考え込む。夏久もまた眠るように目を瞑ってしまった。
 ――なにかさせる? ということは、ここで働けという意味だろうか? いや、そんなことよりまず……、
「あの〜……」
 私は申し訳ないようにゆっくり手を上げた。それに対し、呉地と夏久が顔をこちらにむける。
「私は、いつ解放されるんですか?」
 たぶん、これが私の中で一番の重大問題であろう。
いくら私がもの好きな性格かなんかでも、一生こんなところには絶対いたくない。なんてたって、私は今、背中に拳銃突きつけられた状態といっしょだから、捕まっているのだから。
そんなの絶対嫌だ、誰だって嫌なことだ。考えられないことである。
「俺がきめる」
 こっちを向いて、夏久がそう呟いた。
「え?」
「お前の解放日は俺がきめる。お前を信用できると俺が判断したら、素直に解放してやる」
「そんな……」
 私は内心呆気にとられてしまった。
 ……勝手である。理不尽である。ただ顔を見られただけで、人の自由を自分が決めるなんて。自由を奪うなんて。そんな理由、むちゃくちゃだ。
「おいおいなつ君、それじゃあ美夏ちゃんがあんまりじゃないか。もともと君が勝手に巻き込んだことみたいだし、彼女も好きでこんな心気くさいところにいるわけじゃないんだから、ちゃんと意見には公平に答えてやらないと、だめだよ」
「じゃあ? どうする? 時間をかけないと、俺にはこいつの判断なんかできない」
 ぎろっと呉地を睨む夏久。それに対し、呉地もうーんと顎を押さえて唸る。
「とりあえずあれだね。美夏ちゃんのプロフィールとか調べる必要があるね。もし僕らをしってるものども関係の人間だったら、いくらなんでもほいほい放すわけにはいかないから」
「……勝手にしろ。俺はもう寝る」
 夏久は憮然とした態度でソファーから立ち上がり、そのまま自分の部屋の方へ戻っていった。その背中に呉地が「おやすみ」と声をかける。私はただ背中を見送った。
「さて、美夏ちゃんももう寝るかい? 寝るなら部屋いっぱい余ってるから好きなところ使うといい。もし眠くないなら今から僕の部屋に来てほしいんだけど。あーもちろん、不純な意味じゃないよ、君の素性とか調べるには、なにかと本人の身分を証明するものが最初っから分かってた方がなにかとやりやすいから、だよ」
 ――よく口の回る人だ。私まだなにも言ってないのに……。
「で、どうする?」
「あ……じゃあ、いっしょにで」
「分かった。たぶん一時間ぐらいで終わると思うから。大丈夫、君の気にするプライバシーとかはまったく覘いたり弄ったりとかしないから。あくまで住民的、社会的な部分だけを調べるだけだから」
 ニコっと、人を安心させるような笑み。
 私は曖昧な会釈を返した。
ほんと、よく喋る人である。

 ここは呉地の部屋である。
 機械類、化学薬品、妙なオブジェ、さまざまなものが点々と置かれ、設置されていた。まるで私室というより研究室である。なにかの薬品の匂いが鼻腔を擽った。
あまりこういう匂いは好きではない。
「そこの椅子、使って」
 呉地に促されるまま、私は床に放り出させる形で置かれた丸い椅子に座る。呉地は机に置かれたコンピュータにスイッチを入れて、私と向き合うかたちで椅子に座る。
「悪いね、こんな汚い部屋で。なにぶん、いろんなことをやってると部屋のことなんか目に入らなくて」
 呉地はそう言って苦笑する。
私は「いえ、そんな」と相槌を打つ。
「機械の起動までにちょっと時間かかるから、その間になにか質問とかない? いろいろ気になってること、あるでしょ?」
「いいんですか?」私はいちおう確認をとっとく。
「どーぞ。別に僕らは秘密結社とかじゃないからね。それに僕はみてのとおり、お喋りが大好きだから」
 ニカっと呉地は子供の様な笑みを浮かべる。
「ぷっ」私は思わず笑ってしまった。
 呉地のおかげで、少し堅かった雰囲気が一気に和んだ。
 そして、私は頭の中で整理していたたくさんの疑問や質問したい事をひとつずつしぼりだした。
「呉地さんは、普段なにをしてるんですか? 部屋を見たところ、趣味に一貫性がないみたいなんですが……」
「普段? 普段は夏久のサポートと、なにか作ったりしてるね。ほら君もここに来るとき乗ったでしょ? あのエレベーター。あれ僕が作ったんだよ」
「ええ――!」
 私はそれを聞いて声を出して驚いた。その音量は、アパート中なら近所の方が殴り込みのブーイングを言いにくるくらいである。
 そして思い出される先刻の恐怖。けして絶叫マシンが大嫌いなわけじゃないが、あれはエレベーターの中という構図のせいか、普通の落下マシンより倍恐かった。
「美夏ちゃん、顔青いよ? 大丈夫?」
「いえ……」
 とりあえず、あまり思い出したくない記憶である。
 私の大丈夫じゃない表情を見て、呉地が「うーん、やっぱり」と唸る。
「あれはタイム・イズ・マネーをテーマにして作った僕なりにけっこう気に入った作品なんだけど……。やっぱ女性の方には刺激が強いみたいだね。今度普通のエレベーターを設置しとくよ」
「はあ……」
 そーしてくれると助かるが、エレベーターってそんな簡単に作れるものなのだろうか? ちょっと疑問である。
 
 コンピュータの起動が終わったらしい。
 呉地はとりあえずネットを繋げて、自分が使う人物検索のソフトというものを起動する。呉地はカタカタと手馴れた動きでキーボードを叩く。私はその姿とコンピュータの画面をぼうっと交互に眺めていた。
 しばらくすると、呉地がいろいろと質問してきた。会社名や年齢、出身地などなど。とにかくいろいろ調べるつもりらしい。
あまりいい気分ではないが、「これぐらいは調べないと、解放は難しいね」なんていわれたからには、答えるしかない。一生の内ひとつの不幸、とでも思えばそれなり楽なものである。
あまりこういう発想は好きではないが。
「商業社ユーロカンパニーか。経営状態は上がったり下がったりしてるけど、とりあえず安定してるね。この不景気に会社事態も子会社を何個か持っていて大きいし。周囲の信頼関係も上々だ。こんな所での秘書なんてずいぶん立派じゃないか」
「私もそう思います。今でも、なんで私みたいなのがこんな大企業に就職できたか不思議でなりません。でも……」
「でも?」
「えーと、この会社、ちょっとおかしいんです……」
「おかしい? 君がさっき話していた美術館詐欺共営のことかい?」
「それもありますが、一番に変なのはここに働いてる人たち、従業員なんですよ。
私の会社、見た目から見てもその辺の会社よりずっと大きいんですが、従業員が極端に少ないんですよ。どれくらいかはよく知りませんけど、廊下なんか歩いてても一日に2,3人しかすれ違わないくらい」
 ――給料はしっかり貰えていたから、あまり気にしてなかったけど……。
「―――確定したね」
 呉地がなにかを呟いた気がした。
「ということは、もうそろそろ……」
 バン! 突然部屋のドアが勢いよく開く。
ドアの外……そこにはお風呂上がりらしく、髪の毛が少し湿った夏久が立っていた。
なぜか少し慌てた様子だ。
「呉地! テレビ! テレビ見てみろ」
 と、夏久がせかす中、すでに呉地は部屋に一つ置かれた小型のテレビに電源を入れて、チャンネルを合わせていた。状況をすでに理解していたみたいである。
 当の私にはなにがなんだかさっぱりであった。
 テレビから音声が聞こえ出した。
『―――りかえします。今日Y市のバイパス通りにある美術館『ムラミシ』に、突如泥棒が侵入したそうです』
 今日の事だ。もうニュースになっているらしい。
『犯人は、ここの関係者でもあまり知られていない秘宝『風靡の光』を持ち去り、逃走を図ったそうです。逃走のさい、犯人は一人の警備員を射殺しております』
 ――射殺?
「どーいうこと、これ……」
「…………」
『現場にいたもの、各々の目撃証言によれば、犯人は二人で、そして内一人が……』
 ……この時、私には何がなんだかさっぱりだった。自分の目、耳がおかしくなったのかと思った。だが、しかし……。
『内一人は、商業社ユーロカンパニーの社員、綾瀬美夏21歳だと分かりました』
 現実がそこにあった。

3章 全て受け入れる心

 朝の日差しは……ここにはなかった。
 でも今は朝だった。
 そして現在私は……

ゴトゴトとたぎる鍋。トントンと包丁により微塵切りされる野菜にその他もろもろ……。
 台所はせわしなく働いている。そしてその中で一番動いてる私。
 起きて30分しか立ってないのに、もう額にはなれない汗が流れていた。
 料理なんて久しぶり。しかも複数の多めの料理は高校時代以来である。
 私はそれとなく楽しい気分だった。
 というより、料理とは楽しいものなのだ。しかも食べてくれる人がいればなお良い。それは完璧な趣味になるだろう。
 と、うきうきしながら作っていたらオーブンがチン! となる。
朝食の完成である。
「呉地さーん、夏君。ご飯できましたよ〜」
 私は急いで各部屋をノックしながらまわる。
 そして急いで戻り、料理をリビングにあるちょっと太めのテーブルに並べる。
 それなりうまく出来たつもりだ。少なくとも、不味いとは言ってはくれないだろう。
 それだけ自信がある出来だった。
「女の子の料理、女の子が作った料理〜♪」
 と、最初に部屋から出てきたのは、妙な歌を口ずさむ伊豆野呉地さん。表情は実に嬉しそうである。なんだかずっと楽しみにしてた雰囲気だ。っていうか、思いっきり不純な歌を歌いながらスキップで歩いてくる。
「おはよう……」
 と、次は……というより最後に出てきた人物の川辺夏久君。こちらはうってかわってローテンションである。顔色が少々悪い。悪い夢でも見たのだろうか?
「おはようございます」私も起きてきたみなさんに挨拶した。
 そして私の横をローテンションで歩く夏久を捕まえる。
「夏君、顔色悪いよ、どうしたの?」
「夏君はやめろ!」顔を真っ赤にして怒鳴る夏久。「……お前、昨日の事忘れたのか? 今日もどーせそのことニュースあってると思うけど」
 私は一瞬口ごもる。だが、顔には出さない。
「忘れてないよ。そんなことより、ご飯食べてよ、せっかく私が作ったんだから」
 かわりにニコっと微笑んでみる。
 夏久はそんな私を見て、なんとも言えない表情になり、口をもごもごさせて、逃げるように洗面所に向かった。
 私はその背中をしばらく見送り、そして夏久の言った『昨日』のことを思い出してみた。
 昨日……その日はほんとにいろんな事が起こった。今こうして私が未だこの地下アジトにいるきっかけになった昨日。今日という日が来て、現実がやっぱり変わっていない世界をデジタルビジョンから眺めてとてつもなく不安になった原因を作ったのも昨日だ。
 昨日……その日は、私の『覚悟』の日でもある。



 ニュースから流れる音声の声は、最後のあたりいまいち聞き取れていなかった。
 でもニュースは正直だ。テレビは正直だ。いくら耳が遠くて聞こえなくても、否応なしに現実に表してくれる。
皮肉なことに……。
「なんで……? どうして?」
 私はやや声が掠れていた。体からだんだん力が抜けていき、ぺたりとその場に膝を下ろす。そして、ただただぼーっとテレビを眺めていた。
「……やられたね」呉地が苦悶の声をあげる。「美夏ちゃん調べてて、こうなることはだいたい予想できたけど、こうも早く手を回すとは……」
 あーっと言いながら、椅子の背もたれに体を預ける呉地。
「どういうことだ呉地?」夏久が呉地に聞く。「もしかして美術館で俺の存在に気づいていたやつの?」
「確定的にそうだね。……それと、この事件の原因は、僕たちだよなつ君」
 深刻だよ、これは……。呉地は諭すように呟く。
 夏久もなにも言えず、ただ沈黙した。
 テレビの音だけが流れる静寂に近い部屋。
その中ですーっと私は立ち上がる。
「……私……帰ります」
 私はおぼつかない足取りでドアを出ようとする。呉地と夏久が「え?」と声を上げて一瞬固まっていたが、すぐに私の前に邪魔に入る。
「待ってくれ。今出て行ったら、君も捕まる。それに僕らと君をはめた連中が黙っちゃいない。今いくのは危険だよ」
「はなしてください……。私、なにも悪い事してないんです。それに、ちゃんと理由とか説明すれば、警察の人とか分かって解放してくれます。無実なんですから」
「バカかお前。こっちは人一人殺して、しかもよくわからん秘宝なんかを盗んだ事になってんだぞ。今の不利な状態で自首なんか言ったら、そっこく留置所行きだ」
 罵倒のごとく罵る夏久。私の前に立ちふさがり、入り口を通そうとしない。
 私の中に、なんとも言えないイライラと怒りが込み上げてくる。だいたい……こいつが。
「だったら、あんたが行きなさいよ! あんたが警察に自首すればそれでいいのよ!」
 気が立って、思わず自分でもむちゃくちゃな事をいっていた。
「な……俺をだしにする気か! 俺はあそこにはなにもしてないんだぞ! 自分の都合のいいことばかり言うな!」
 当然やっぱり、夏久はキレて、食ってかかってきた。顔を歪ませ、今にも殴ってきそうな勢いである。
 でも、私は引かない。
「とにかく、そこどいてよ」
「忘れたのか? お前は今俺に捕まってるんだぞ」そう言いながら、腰から拳銃を取り出す夏久。
風呂あがりのぶんざいで腰に拳銃とは、物騒な少年である。
 だが拳銃をつき尽きられた。先刻見せられたのはおもちゃだったが、こいつが拳銃二丁もっていたことを私は知っている。こうやって至近距離で私を脅してるということは、こちらは本物なのだろう。だが、どっちにしろ彼の武力は半端ではない。
 あきらかに不規則な力の差……。
「……そうやって、どうしようもない人たちを抑えてきたの?」
「……抑えてきたんじゃない。制してきたんだ」
「いっしょだよ」
「そんなことはどうでもいい。とにかく、その無意識か知らない拳をさげろ」
「…………」
 私は無意識に握った拳をさげた。同時に夏久も拳銃を下げる。
 鬼気に満ちた周囲の空気が、緩和されていく。
 だが私の気持ちは、冴えないままだ。
「……悪いことをしたとは思っている。俺もここまでおとし貶めるつもりはなかった。だから……これだけは信じてほしい。なんとかする」
「…………」
 燐としたまっすぐな視線をぶつけてくる夏久。
だが、俯いたまま私はなにも答えない。答える気になれない。
 と、ここで黙っていた呉地が一歩私に歩みより、私の肩にそっと手を置いてくる。
「不幸なのは君一人だけじゃない。僕もなつ君も、いちおうこの予想外の事件の被害者なんだ。君がどうしようもなく不安なのは分かる。だがそれで相手の思い通り動こうとする行為は見逃せない」
「相手って……?」
「この問題が偶然じゃないってことさ。君は知らなくていい」
 話を逸らされてしまった。
 ……流されているような気がした。世の中に、そしてこの人たちに……。
 こんなにも無念な気分にさらされたのは初めてだ。
「さあーて……。なつ君はもう寝な、疲れてるでしょ。――それと、美夏ちゃんは、すまないけれどまだ話があるから残ってて」
「俺はここにいちゃ、だめなのか?」
「湯冷めしちゃうでしょ? それにやるのはただの身元調査の続きだよ」
「……分かった。……おやすみ」
「おやすみ」
 バタンとドアを閉め、夏久は自分の部屋へ戻っていった。
 部屋の中は二人のみになり、少し静かになった。
 呉地が「さて」と一声上げて、私にまた椅子に座るよう促してきた。でも私は俯いたまま動かない。
 ――その時、
全身がなぜか震えていた。どうしようもない震えだった。
 呉地はそんな私をじっと見つめていた。しばらくすると、私の目線と合わせるように前かがみになって前に立つ。
「悔しいかい?」
 いきなり、言われてしまった。
「…………」
「拳銃を持った人間は強大だ。こっちがじたばたしている間に、トリガー一発で人の人生に終止符を打ってくる。持ち主がただの少年でも、それは可能だ」
「なにが言いたいんですか?」やや苛立たしげに言う。
「君はなつ君の事を、どうみてるのかと思ってね。どう思ってるんだい?」
「別に……ただの少年としか、思っていません」
「あんな子供がいると思う?」
 可笑しそうに笑う呉地。
「……ちょっと、大人ぶってて態度がえらそう、あたりですか。でも最近ではあんな子供普通じゃないですか」
 私は適当に思った事を言う。
「そうかい? 僕はあんなすごい子供、見たことないな」
 いいながら、呉地はコンピュータに顔を向けた。手を機敏に動かしながら、私と話をしようとしていた。
 沈黙が続く。
「一つ、昔話でもどうだい?」
「…………」
 私は答えない。だが、私の有無を聞く前に、呉地は勝手に話し出した。
「僕となつ君とあって、そう……もう4年になるね。僕はその時自分のいた居場所を失っていて、ふらふらとホームレスみたいに歩いていた。金はあったけど、マンションやアパートも借りずに、ただふらふらしていた。バカみたいでしょ?」
 呉地は一人苦笑した。だが、指の動作は止めない。
「である時だ、なつ君にあったのは。
その日も僕はふらふらと歩いていた。たしかその時は街の中心街で空は夜中だった。凡庸に回りを見ていた時、ちょうどなつ君を見つけた。隠れるように建物の間で蹲っていたよ。その時のなつ君は体中傷だらけでね。まるで集団リンチされたあとのようだった」
「え?」
 私は思わず声を上げた。
「僕が近づくと、傷隠すように体を固めていたよ」
「それって……実際、ケガの原因はなんだったんですか?」
 思わず興味の表してしまう。しまったと、内心で呻いた。
 呉地は、のってきた私が嬉しいのか、一瞬笑顔になる。
「走ってるときにこけて、そのまま車に引かれたらしい」
 ぷぷぷと、呉地は笑う。その光景を想像してしまったらしい。
「それ、ほんとですか?」私は疑いの目を向ける。
「ほんとほんと。気になるなら本人に聞いてみな。たぶん真っ赤な赤面だしたあと、僕にやつあたりしてくると思うけど」
「こうバキッって感じで」うまく自分の手を動かし、状況を再現する呉地。
それは本当にありえそうな場面である。
「最後にとび蹴りを一発ガーンと」
 だが、再現に集中しすぎて、呉地は椅子から転倒してしまう。どかどかといろんな物体とぶつかり、かなり大袈裟に倒れる。
 限界だった。
「ぷっ……あははははは」
 無意識に私は口をあけて笑っていた。
慌てて口に手を当てて、平常心を装う。だが時すでに遅く、ニヤニヤしながら呉地が私を見ていた。
「やっぱり、怒った顔より、笑った顔のほうが君は素敵だよ」
「…………」
「お〜痛かった〜」
 ……今の私はたぶん、顔が真っ赤で湯気がでていることだろう。
 完全に、してやられた気分である。
 
話が逸れたので、呉地が強引に戻そうとする。
「で、あいつはもうそのころから泥棒の道に自分を染めていたらしい。だが、やはり世界が世界だけに、やることなすことうまくいかず、いっつもなにも成果がなくただボロボロになるだけで終わる毎日だったらしい。その日も発見されて死にものぐるいで逃げてる時に事故ったらしいよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」私は慌てて立ち上がる。「4年前って言ったら、あの子小学生ですよね? そんな時から天下の泥棒って……」
 私はてっきり、その辺で万引きみたいな事でもしてるんじゃないかと思っていた。
 だが、どうやらそれは凄い誤解だったらしい。
「小学生? ……ああ、そうかそうか。違うよ美夏ちゃん、あいつはあんなナリだけど、年は22歳の好青年なんだよ、ほんとは」
 え? と言葉を漏らす前に、私は固まってしまった。そして頭の中が過去で記憶された夏久の言動の数々がフラッシュバックのごとく駆け回る。
 ――あいつ、騙してしてたのねぇ〜〜〜!
「そんなにショックだった?」
「大ショックです! あいつ、私より年上のくせに「もう年なんだから……」とか言ってたんですよ。私はその時「子供の言動」と思って聞き流してたんですよ。子供で少年って思ってたんですよ」
「はは、それはまた、あいつらしいデリカシーのない発言だな」呉地は半笑いで答える。しかも、キーボードをうつ手の動きを止めない所が、またすごい。
 だが頭に血が上った私の脳では、そんな細かいことに対する気配りはすぐに消えた。
「まあ、仕方ないさ。生きてきた時間はたしかに22年だが、精神年齢はまるっきり君の思う『少年』なんだから」
「? どういう意味ですか?」
 私は問いかけた。
 と、ここでなぜか沈黙。
私はしばらく待っていたが、だんだん不安になってきた。
脳裏に、自分はまた軽率な発言をしてしまったのかと思い、内心で慌てて過去のログを調べる。
 だが、先に口を割ったの呉地だった。
「……そうだね、しばらくここにお世話する事になるんだ。知っておいた方がいいかもね」
 と、呉地がキーボードの動きを止めた。そして視線を体ごと私の方へ向ける。
 その眼差しは、さっきまでひょうきんな呉地の姿はなく、真剣な、まじを語る様が見て取れた。それにつられてか、私も内心で緊張した。
「一つ訊くよ」
「はい」
「君は……なつ君のあの力を見たかい?」
 なんの事なのかはすぐに理解できた。コクリとうなずく。
「そう……。君はあれをどうみている?」
 少し考えてみる。
「……生まれ持つ、不思議な力とか?」
 正直、私の処理能力だけでは、その程度の答えしか思い浮かばなかった。
「超能力かい? へぇー、美夏ちゃん、以外と頭軽いんだね」
 呉地は「ははは」と笑う。そんなに以外な事なのだろうか? 
でもオカルト系って思われるよりは、この反応はだいぶましなのかもしれない。
 そう思うことにした。
「でも、たぶんそれははずれだよ。第一僕はオカルトなんて信じてないから、そういう発想は理解できない。偶然の産物、可能性なんてありえないんだから」
「あれ、科学的な根拠が絡んでる力なんですか?」
「絶対、とは言えないけど、9割方そうだと僕は思うよ」
 呉地は机の引き出しから何かを探し始めた。そして一枚のペラペラしたビニールシートみたいなものを取り出した。
「どうぞ」
 呉地はそれを私に手渡す。なんだろうと思い手に取り見てみると、それはレントゲン写真だった。
 そこには誰かの頭の中、つまり脳の写真が映し出されていた。
 私はこれがなんなのかと、呉地に問い詰める。
「それは、なつ君の頭のレントゲンだよ」
「脳障害でも起こしたんですか? あの子」
 目を細め、うーんと唸りながら凝視してみる。一度母のレントゲンを見たことあるが、それとまったく同じである。違うのは画像が腸内でなく脳なだけ。
「違うよ、その写真は彼が熟睡してる時にこっそりと隠し撮りしたやつ。結構苦労したんだよーこれ撮るの。ちょっと物音立てた瞬間、有無を言わせぬ勢いで鉛球をビシュビシュと……」
「で、これなんなんですか?」
 また興奮しながらリアル再現してる呉地をピシャリと止める。ほっとくと長くなるのは、ちょっと問題である。ちょっとこの饒舌な性格はなんとかしてもらいたい。
 呉地は少し残念そうな表情になったが、すぐに話に戻る。
「その写真の中央とちょっと横のあたりを見てごらん」
 私は言われるままに見てみる。
 すると、ざっと見ていた時は気づかなかった、うっすらと浮かぶ長方形型の小さい影が写っていた。
 これは……良性の腫瘍? いや、違うな、いったいなに?
「それがなつ君の秘密兵器」
 淡々と呟く呉地。
「まさか、こんな小さな物が? っていうか物?」
 指をさしてつっこむ。
「たぶん、極小サイズのチップコアだろうね。いろいろ知り合いの医者から聞いた話だけど、このチップコアは、見事なくらいに記憶を司る神経中心にがっちりはまってるらしい。つまり植物が土に根を張った状態になってるわけ」
「取れないんですか?」
「今の医療で基準外な技術が必要らしい。知り合いどもは「なんで生きてるんだ?」って口をそろえて唸っていたよ」
 ……驚きである。思わず感慨の息を吐いてしまった。
 本人はどんな気持ちなんだろうか? こんな得体の知れない物が自分の脳みその中に棲んでるなんて。痛くないのだろうか? 不愉快とか、不快感はないのだろうか? 体に影響はないのだろうか? 
あ……。
「まさか! これが原因で彼の成長は……」
「おー素晴らしいよ美夏ちゃん。意外と、勘は鋭いんだね」
 ビンゴビンゴと喜びながら、また机から何かを取り出す。そして、取り出した何かを私の手に握らせる。
「商品♪」
ただの飴だった。
 ……バカにされてるのだろうか。
 だが呉地はまったく気にした様子も見せず、話を進め出した。
「見てのとおり、なつ君の成長は中学生ぐらいで止まっている。つまり思春期の間にある成長期が来てないんだ」
「その原因が、この……」
「いや、そこまで決め付けられない。ここから先は全て憶測の推理にしかならないな」
 少し間をおき、
「……憶測ではあるが、僕が考えた推理論だと、たぶんこのチップも関係はしてると思う。だけど、なつ君は君も知ってる通り典型的な泥棒人だ。勝手に人の私有地に入って、勝手に人の財産を奪う事を生きがいにしている。
普通、泥棒なんて好んでやる人間なんていない。そこにはなんらか理由か意図があるはずだ。トラウマだったり願望だったり……約束だったりね。そんな感情がいろいろ作用して、自分の成長を止めた。あるいは止まった」
「そんなSFみたいな事、あるんですか?」
 私は首を軽く左右に振る。とてもじゃないが、この推理には妄想としか言いようのない非現実な様子しか感じられない。
「こんな感じの例は、実際たくさんあるよ。世界は広いからね」
 呉地は苦笑する。
「それに。……人間は脆い、少し体に穴が空けば激痛で動かなくなり、少し汚染された場所にいけば、すぐに病気にかかって動かなくなる。どこをついても弱点だらけだ。それでも、絶滅せずに生き残って、さらに増え続けるは、なぜだと思う?」
 いきなりの哲学っぽい事を言われ、私は動揺してしまった。
なぜ、そんな話を……。
「えーと、知能があるから、考える力があるからだと、思います」
 だけど、私は考えに浮かんだ真面目な答えを言った。
 呉地は頷く。
「それも大事で重要、いや一番重要だろうね」
 だが――、呉地は続ける。
「やっぱり一番は、一生懸命っていう志を持っていたから、だと僕は思う。
必要なこと、正しいこと、それが間違いでも自分の信念はそう思わないと思える心、それが弱い自分を支えてきた証なんじゃないか。力の強いだけの人間の支配下を作らない、人生の流れから生まれた言葉と意味」
 僕はそう思うよ……。そう言って呉地は微笑する。だが、どこかその表情は儚げで、なにかを懐かしむように私は見えた。
 悲しい顔……。
「そして、彼、川辺夏久にはその『一生懸命』がぎっしり詰まっている。なつ君がどんな生活を送ってきたかは、さっき話したね。少し考えてみてくれ。考えれば、なつ君の生き方は今の人間にはどう足掻いても不可能な行為なんだよ。普通は途中で諦めるか、のたれ死ぬかのどっちかで終わる。もちろん、僕も、君もね」
 呉地はふうーとため息をひとつ吐く。
 私は、なんとも言えない気持ちになった。
 想像も出来ない世界観である。情景である。
 だから、私には分からなかった。呉地の言ったこと。夏久の過去の悲劇。
 ――だって、私は普通の、平凡な人生を送ってきたごく一般の人間だから。こんな話されても、うまく感傷的にはなれない。曖昧な思いしか、浮かばない。
 そのまま、私は俯いてしまう。
 ――なんか、私彼に凄く酷い事いった気がする。
たしかお前が捕まれ〜とか、言った。感情的なってたから仕方ないかもしれないけど、すごく最悪の自分がそこにあった。
……バカみたい。
情けなくて、涙が出そうになった。
 そんな私に感ずいて、呉地が少し慌てて笑う。
「ちょっと、話がずれちゃったね。もう止めにしよう」
「あ、はい」
 私は頷く、と、反射的に時計を見た。すでに時間は12時を回っていた。朝6時に出る私にとっては、すでに寝る時刻である。
時間がわかった瞬間、頭はぼーっとしてて重いし、目をしぱしぱする。
 それを察してか、呉地が手を招く。
「今日はもう寝ていいよ。君もいろいろあったから疲れたでしょ? ここから出て隣の部屋使っていいから」
「でも、まだ私の身元とか調べがまだ……」
「そんなの明日でいいから。それにだいたい君に聞かなきゃいけないことは聞いたし、残りは僕一人でもなんとかなる。事件の解決が遅れたりするわけじゃないから、気にしなくていいよ」
「え? じゃあ私、なんのためにここに……?」
「僕とのプライベートチャット(おしゃべり)のため、じゃだめかい?」
 そう言って、少しおどけてみせる呉地。
 私は、ああなるほど、と頷いて苦笑した。
 呉地は椅子から立ち上がり、うーんと背を伸ばす。軽く首を左右に何度か傾け、ボキボキと音を立てる。
「さあ立って」呉地が促す。
 私はそれにならって腰を上げる。
「部屋の中にシャワーとかあるから風呂はそれを使って。さあ、早く寝て、夜更かしは女性の天敵だよ」
「わ、わ、押さないでください」
 背中をドンドン押され、無理やりドアの外に追いやられてしまう。
「あ」と呉地が叫ぶ。
「言い忘れてた。美夏ちゃんの明日仕事メニュー。明日は朝早く起きて僕たちと、あもちろん自分のもね、朝食を作ること」
「え、なんで私が?」
「明日は美夏ちゃん、会社とかいけないから、退屈しちゃうでしょ? だからとりあえず、『家政婦』ってことで君を雇おうと思ったわけ」
「か、家政婦〜?」
 私は目を丸くして唸る。
――そんなのいつ決めたんだ?
 っていうか、どう考慮して家政婦なわけ? すごく不純な動機でいっぱいな気がするんだけど……。
 そんな私の気持ちをしらず、呉地はニコニコと笑みを浮かべてる。
「ここに住む以上、何もしないという勿体無い行為は許さないから。働かざる者食うべからずだし、僕は差別が嫌いなんだ」
「そ、そんな……」
「いいね?」
「…………」
 有無なんて言えたもんじゃなかった……。
「……分かりました」
「はーい♪ OK、決まりだね。――というわけで、明日はよろしく〜」
 とても嬉しいそうな表情を最後まで残し、ドアは非常に閉まる。
「ああ、それともう一つ」
いきなりドアがまた開いた。
「わあ!」
「あ、ごめんごめん。ちょっといい忘れてた事が」
「な、なんですか?」
「うん、美夏ちゃん、その敬語は辞じゃないでしょ? 今日からタメ口でいいから。じゃあ」
 バタン。
言いたい事を告げ終わると、呉地はまた非情にドア閉めた。
 しばらく待ったが、もうドアは開くことはなかった。
シーンとあたりには静寂が満ちていた。
 私はがく、とその場で俯き、うな垂れた。
 ――私、すっごく絶対、流されてる、よね……。
過去を振り返ってみる。空しさばかりこみ上げてきた。
 ドアの前にいても仕方ないので、私は呉地に言われた隣の空き部屋へ重い足取りで向かった。
 そしてため息。
 どうして私は、こう押しに弱いのだろう? 
 つくづく自分の情けなさを知る、今日このごろであった。
 ……………。
 あ!
 いろいろありすぎて、うっかりしてた。
 まだ、起きてるだろうか?

 コンコンと、ドアをノックする。
 すでに時刻は1時をすぎていて、訪問なんて非常識な時間帯ではあるけど、これだけは言っておかないと、私としては気がすまない。
 出てきてほしい。
 その願いが通じたのか、ドアはゆっくりと開かれた。
 そして中から一人の少年。夏久が出てきた。
「……なんだ? 呉地とのは終わったのか?」
 やや不機嫌そうな雰囲気。寝てたのだろうか? 年齢は二二歳なんだから、一時に熟睡は流石ににないと思ったのだが……。
 でも心は子供って言ってたから、睡眠時間が精神的面に配慮してたら、寝てても仕方ないか。
「あ、うん。いちおう、ね」
 私は曖昧に返事する。
「なんの用だ」
「えーと、用、用はね……」
「…………」
「……えーと」
 ――やばい、タイミングはずした!
「…………」
 夏久は不信げに私を睨む。ちょっとキレぎみだ。
 早く言わないと……。
「あ、あのさ。呉地さんから聞いたんだけど、あんた二二歳で年上なんでしょ?」
 ――なに言ってんだわたしは〜〜〜〜〜!!
「……そうだけど、だから?」
「だから、その……いちおう私より年上だから、敬語で話した方がいいよね? やっぱり」
 ――土つぼに、土つぼに嵌ってるよ〜〜。
 夏久は「はあ?」と分けがわからない様子である。
 私の背中に一筋の冷や汗が流れる。
「……別に、今までどおり「あんた」とか「君」とか「ガキ」とかでいいよ」
「私、ガキなんて一言も言ってない……」
「内心では言ってただろうーが」
 ズキンと胸が痛んだ。ど真ん中図星である。
 一筋どころか、大量の冷や汗が背筋を流れる。
「それに、俺は実際こんなナリだし、敬語で呼ばれるほど偉くも立派でもない。こんなろくでもない仕事してるし。邪険される方がお似合いな奴なんだよ」
 憂いに満ちた表情で、自虐の笑みを浮かべる夏久。
 悲しい顔だった。
それはどこか、さっきの呉地にとても似ている気がする。
「邪険なんて、そんな……」
「泥棒だぜ? そんな事やってる人間を敬う奴なんて、この世にいないだろ」
「…………」
 なにか言わなきゃ! と思うのだが、語彙の少ない私にはうまく台詞がまとまらない。
 沈黙が続いた。
 その沈黙を肯定と取ったのか、夏久はさらに自分を虐待するような台詞を吐く。
「俺はお前に悪いことをしたんだ。つまりお前は俺を恨んでるんだろ。なんなら『クソガキ』と呼んでくれてもかまわない」
 彼にとってはたんなる冗談みたいな開き直り行為かもしれないが、これはよくない。
 ……たえられなかった。
「いちいち自分を苛めないでよ」
 私は自身がびっくりするほどの、冷淡な声でそう呟いていた。
 ベラベラと愚痴っていた夏久は、開きかけた口を止め、ゆっくりと閉じる。そして睨むように私を見る。
 ……目は逸らさない。その視線を私はしっかりと受け止めた。
「誰もあんたのこと、そんな嫌いでもないし、だめな人間だなんて思ってない。あんただって、内心は「自分はそうじゃない」とか思って、ちゃんと自分を持ってるんでしょ?」
「…………」
「分かってるんでしょ? だったら普通でいなよ。誰もそれが不自然だなんて思わない、むしろ今の虚勢をはるあんたが不自然だよ」
 しばらくの静寂。
「……言いたいことは、それだけか」
 低いトーンなのに、胸に突き刺さる様な声。私は反射的に怯んだ。背筋にぞっと悪寒が走る。
 夏久の双眸がさっきより鋭くなった。まるで獲物を狙う獣の目である。
「どこまで俺のことを聞いたか知らないが、余計な説教はごめんだ。他人に命令されるのもごめんだ」
「ご、ごめんなさい……」
 ……調子に乗りすぎたのかもしれない。当たり前だ、彼がこんな性格になったのは、どうしようもない世の中にせいだから。彼の言うとおり、他人である私が口出しすること事態、余計なお世話なのかもしれない。
 私はその場で、しょんぼりした鬱な気分になった。
 何も言わなくなった私を見て、夏久はふぅと嘆息を漏らした。私から背をそむけ、部屋に戻ろうとする。
「……でも」
 ピタっと止まり、横目で、
「悪くない説教ではあったよ」
「あ……」
「ありがとな」
 少し頬を朱に染めながら、夏久はドアを閉めようとする。
 だが、慌てて私はドアを掴む。だが勢いあまってドアを前に突き出してしまい、引きドアである扉は、閉めようとする夏久の顎にヒットしてしまった。
「あ、ごめん」と慌ててとりあえず謝るが、「てめぇ……」夏久はじわじわと悪意を全身から発散していた。だが今はそんなこと気にしてられない。
 用件を……。
「明日!」
「はあ?」いきなり大声で叫ばれて、夏久は間の抜けた声を出す。
「明日は、私が朝食作るから、絶対食べてね! 朝はちゃんと7時に起きるのよ。分かった?」
 言われた事が、いまいち頭に入らなかったのか、夏久は目を丸くしていた。
 だが、すぐに憮然としたいつもの顔になり、分かったと了承してくれた。
 私は嬉しさを満面に表し、喜んだ。
「それだけか?」
「あと、今日は悪い事言ってごめんなさい」
「……気にするな。俺は気にしていないから。それだけか?」
「うん、とりあえず」
 ……他にもいちおうあるが、今は止めておこう。
「……じゃあな」
「うん、おやすみ。なつ君」
 バタン……。
聞こえなかったのか、反論はこなかった。それとも、別にこう呼んでもいいのだろうか?
 ――明日から、私もこう呼ぶようにしよう。分かりやすいしね。
 なんだか気分がとても良かった。
 明日は、なにやら素敵なことが起こりそうな予感である。
 ……嫌な事も多分に多そうだが……。



 ふらふらした足取りで、俺はベッドへ向かった。
 内心から、止めようのない感情が溢れてきた。今にも、パンクして爆発しそうである。
 耳が熱い。鏡を見たらどんな顔してるんだ、俺? きっと凄く情けない貧弱な表情を浮かべているだろう。頬骨がひくひくしている。この感情は、
 歓喜……。
 ……だめだ。
笑いが喉から噴出してきた。すでに臨界点を突破しようとしている。
「あはははは―――――――――」
 初めてである。こんなバカ笑いする自分。止めようのない感情の奔流。
 俺は笑い続けた。他人がいたら、キチガイかなんかだと勘違いするほど笑いつづけた。しまいには、目から涙も流れてきた。慌てて右手で拭った。
 ベッドの前まで来て、俺は笑いながらぶっ倒れた。俺の体重でベッドがギシギシと軋む。予想よりベッドが硬く、その衝撃で一瞬笑いを止まる。
 状態を仰向けしてみる。
 また笑いがこみ上げてきた。
 だがふざけたことに、突然部屋の中に今はあまり聞きたくない音声が鳴り響く。
『こんにちは、こんにちは、こんばんは。う〜〜う〜〜〜う〜〜』
「……また人の部屋になんか仕込んだな。今度は送信機か?」
『いいや、送受信機だよ、正確には』
「つうことは、さっきまでこと、聞いてたな」
 俺はどこかにある送受信機に向けて吐く。
 送受信機から「もち」と声がした。もちろん、この声の主は伊豆野呉地に間違いない。
 伊豆野呉地その人は、俺にとっていちおう仕事のパートナーと、ここで一緒に住む同居人という存在だ。
 本人に聞いた話だが、呉地は元特殊研究員かなにかに所属していたらしく、研究員だけあって、その頭脳は明晰である。
とにかくなんでも知ってるのだ。
 それに加え、物を作るということにかけては天才である。例えば身近な物で言えば、高速フリーフォール型エレベーターなんかは凄い。利点はあまり理解できないが、とにかく凄い。作ろうと思えば、未来の便利道具にも劣らない代物を作れる……と、当人は自負してるらしい。
 だが、難点なところがある。それは、
『なつ君、夜中なのにうるさいよ? いきなり爆笑音が部屋に響くからかなりびっくりだったよ。なにか面白いテレビでもあってたの? ちなみに僕はなつ君の笑い方が途中で裏に入っていた処がかなり笑えたね。あそこで咳き込みでもしてたら僕腹が裂けて死んでるところだったよ、いやほんとまじで。ぷっ………ははは! ……で、ところで何で笑ってたの?』
 とにかく、会話が回りくどいのである。会話の中で、肝心の用件はいつも一番後に行くという。なんとも人をイラつかせる喋り方をするのだ。
 だが、どんなにイラついても、あちらの方がかなり上手なのだから、抵抗しても意味がない。素直に聞き入れなければならないのだ。
 ……実に問題である。
「ずっと聞いてたんだろ? このちくり魔野郎が」
『はいはい、ずっと聞いてましたよ〜。話聞きながら、なんども吹き出しそうになったよ〜』
 ちくり魔というあたりには、認めてるようだ。
「……すでに吹き出してるじゃねえか」
『そんな事より、ねーねー彼女はどうなのよ?』
 呉地はどこかのおばさんにみたいな口調で言う。顔は見えないが、絶対今ニヤけてるだろう。
 そう考えてたら腹が立ってきたので、俺はなにも答えず黙った。
 俺がわざと黙ってると思ったのかは知らないが、呉地は話しだした。
『僕的感想を述べるとだね、彼女は……いい子だね、うん。
 ……だけど、酷かもしれないけど、あれは君とはつり合わないんじゃないか? どうみても普通の若女だよ』
 ――胸中に針がささる。
「……わかってるさ。そんなこと」
『まだ、漲(みなぎ)ちゃんの方が、君にはあってるよ。……この事件が終わったら、彼女は諦めた方がいい。そっと元の生活に返してやるべきだ』
 いつもと違う、大まじめな呉地の気持ちが伝わってくる。彼が真面目に話しをすることは、常識的に正しい事と示唆される。忠実な正解と言ってもいいのだ。
 そして、俺もそれは正しいと思う。わかっていた。
 だけど、納得はできない。喜んで頷くことなんてできない。
「いやだ」
『なつ君……』憂いの篭った声。
「俺は、やっと手に入れたんだ。自分の欲しいものを。
 それを他人の事情、本人の事情かなにかで、みすみす捨てることなんて、俺にはできない!」
 いつもは、呉地に対してまともに勝負しようと思わない俺でも、今回だけは譲れない。とても傲慢な行為だが、そんなの知ったことじゃない。
 俺は、あれが欲しい。
『……本気のようだね』
「ああ」
 少し怒気を込めて肯定する。
『彼女、君の言ってた、あの子?』
 ――やはり、気づいていたか……。
「……ああ、たぶん。まだ確定はしてないけど、名前もいっしょだし。……お前もしかしてそのことまで……!」
『いや、そこまでは。彼女がそれっぽい反応見せれば言おう思ったんだけど……何も言ってきやしない』
 悲しげに答える呉地。
「たぶん、忘れてるんだろうな。……仕方ないことだ」
 ――そんなふうに、考えたくないけど……。
「そう……」
 機械ごしに呉地のため息。
『はいはい分かったよ。まあ、とりあえず僕は君を制するのは止めるよ。もう、なにも言うまいて』
 はははと微苦笑する。
『しかし、本人意見だけは君がどう否定しようとも変えられない。彼女が嫌といえば、そこは認めないといけないよ』
「…………」
『分かった?』
「……うん」
 俺はしぶしぶ返事をする。
 呉地はうんうんと嬉しそうに納得の声をあげる。
『あ、それと……』
「なんだ?」
『なつ君さ、今日電車の中で暴走したでしょ?』
 俺はぎくり反応する。
『ニュースであってたよ。突然青年が「何かが聞こえる」と言い出した途端、狂人のごとく暴れまわったと。青年の仲間をあとが大きく残るほどの重傷を負わせた』
「知らない。たぶん漲の仕業」
 俺は嘘をついた。
『残念、今漲ちゃんは海外を飛んでますよ〜〜』
 自分から墓穴を掘ってしまった。
『まったく、何が気に食わなかった知らないけど。だめだよ、一般人に悪夢見せちゃ。強引な感情をぶつければぶつけるほど、君の能力は殺人的威力を発揮するんだから』
「……以後、注意します」
「よろしい。じゃ、おやすみ〜〜。ま、今のうちは美夏ちゃんの好感度上げることを考えておきなさい」
 ぶっと音がする。呉地がマイクの電源を落としたようだ。
 部屋内に、静寂が訪れる。
 俺はしばらく、じっと同じ姿勢で固まっていた。
呉地に言われた事を考えてみた。
「好感度って、なんだ?」
 それだけが、全然意味が分からなかった。

 ……こうして、長い一日の夜が明けた。



 現時刻午前七時三十二分……。
 朝食の時間である。
 自分的に多めに作ったと思われた朝食は、あっさりと全部平らげられてしまった。思わず私はその光景を見て驚愕してしまう。
 ちょっと多めに作ったサラダと、ちょっと多めに焼いてしまった食パン、挟んで玉子サンド。アレンジでハムも。
それと、誤って自分の弁当を作る感覚で作ってしまった、から揚げと卵焼きと炒めハムとコロッケ。しかも個数は4人分ぐらい作ってしまった。
いったい、どう考えて料理すればこうなるのか、自分でも疑問である。
 使った事のない台所の雰囲気に呑まれてしまったのか、張り切りすぎてしまった。どれもこれも機材が良く、包丁なんか専門の鍛冶屋で打たれた刃物の様な切れ味だった。それは、ワンルームマンションに住むそれなりに料理好きの私には感慨するしかない迫力だったのだ。
 どーして私はこう、意志が弱いのだろう……。
 だが、そんな私の心配は杞憂に終わってしまった。

「ごちそうさまぁ〜。いや〜やっぱ女性が作る料理が最高だね! 特にこのちょうど良いボリュームが気遣いやすい女性のたまものだね、うんうん」
「はあ……」
 そう相槌をうって、私はもう一度見事に平らげられた料理皿を見る。
 ――いくら男の人でも、ここまで食うとは……。
 
最初、テーブルに並べられた料理を、顔を洗って戻ってきた夏久が見てぶっと吹き出した。私は苦笑いで誤魔化そうとしたが、予想外に当の夏久はすぐに真顔になり、
「……ちょうどいいかな、やっぱ」
 と、納得したような一言を漏らした。
 その時は意味がさっぱり分からなかったが、二十分後の今は完璧に理解できた。
 だいたい私が出した料理の4分の三は、この伊豆野呉地の腹の胃に納まってしまったのだ。
 恐るべし大食いっぷりである。
 意外性たっぷりな点も、侮れなかった。
 
 ……さらに、呉地がらみの事件が続く。
「……これ、なんですか?」
 私は額に汗をたらしつつ、呉地の両手に持たれたそのヒラヒラした物を指差す。
 呉地は嬉しそうに説明を始める。
「ふふふ、これはね、いつか絶対誰かに着せようと思っていた女性の無敵オプションってところかな」
 と、自信げに呉地。
 呉地が持ってる物は服だ。だがただの服ではない。全体が真っ白で清涼な雰囲気をかもち出しており、実にヒラヒラしてて生地が薄い。今の時季にはちょっと寒いデザインだ。上半身とスカートが統一しており、上半身中心にはでかいリボンがあり、スカートの先は薄い青色で表してある。
 つまり、オタク心を擽るようなデザインの……メイド服だった。
 手にとって見てみる。そしてすぐに判断した。
「絶対、私には似合わないと思うんですけど……」
「そんなことない。これこそ君のイメージにぴったりだね」
「どこが、どうぴったりなんだ……」
 とてもとても理解に苦しんだ。
 だが、結局は時間の問題で、呉地の押しにより私はこれを着る事になった。

「うっ……」
 慣行一番に唸ったのは、部屋を出た瞬間にであった夏久だった。手にはコーヒーカップ持っている。
一瞬飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになっていた。予想通りの反応である。
 私は猛烈に恥ずかしかった。たぶん顔面は真っ赤であろう。
 私の今の格好は、ほとんどマニア専門のコスプレに近かった。しかもかなりノリノリの、やる気満々に丁寧なコスプレだ。
 知り合いがこれ見たら、絶対おでことか触ってくるだろう。「頭大丈夫?」とか直球の一言をかけて……。
 この姿では、絶対外へは行けない。
「……お前も、嫌なら少しは抵抗とかしろよ」
夏久の哀れみの篭った一言。
私的にこの言葉が一番痛い。
「う、うるさいな、仕方ないでしょ。呉地さんがどう断っても諦めないから……仕方なくなの、これは」
 言い訳くさく、私は言う。
「恐ろしくギャップだらけだぞ、その格好」
 ――はう!
 ど真ん中ヒットだった。
「や、やっぱり。普通の人ならそう思うよね……」
 私はがくりと肩を落とす。分かってはいたのだが、こうはっきりと事実を言われると、一女性としてはちょっと悲しいことである。
 どうせ、背が高め私にはこういうの似合いませんようだ!
 愚痴ってみる。空しさだけが自分を包んだ。
 ……とりあえず、この服が自分に馴染んでくれることを期待するしかない。
 しばらくこれ着なきゃいけないらしいのだから……。



 電気もついておらず、ただ真っ暗の部屋。そこに男はビジネスデスクの椅子の上に体を預け、目を瞑り座っていた。
 男はまだ若々しかった。ぱっと見20代中半と、いったところか。
 しかし、男からはっせられる雰囲気は、どこか常軌を逸していた。真っ暗のこの部屋に居るせいなのか、はたまたこの男が元からこうなのかは分からない。
とにかく普通ではなかった。
 突然、部屋内にピピっとコール音が鳴る。男はそれに視線を向ける。
「見つかったか?」
 低い声で言う。コール先の相手から、いいえの言葉が出る。コール先から出る音声は、心なしか、やや声が震えていた。
 男は舌打ちする。
「早く探せ。連中は俺に感ずいてきた。俺自身の時間もわずかだ。事は一刻を争う」
 了解しました、コールが言う。ピっと鳴って切れた。
 男はまた目を瞑り、椅子に背中を預け、沈黙を維持した。
 だが、突然口もとが歪む。
 笑っていた。声は出さず、ただただ微笑していたのだ。
「絶対、見つけてやる。見つけてやるぞ」
 そう言って、押し殺すように男はまた笑った。



 ゴーン、ゴーン……。
 午前十時の鐘がなる。私はソファーに座り、鐘を鳴らす大時計をぼーと眺めていた。その視線は実に空ろである。
 ――つ、疲れた……。
 なにかといって、朝の前半はいろんな出来事(アクシデント)があった。
 これは仕事らしいが、こんなに肉体的にも精神的にも労費した仕事はやったことがない。すでに呉地に渡された非売品制服(マイナーオプション)は激しく汚れ、埃がちらほら目立っていた。
 改めて思う。
 ここってすごい……。

 まず、呉地に言われた仕事は、掃除だった。
 住んでるのがたったの男二人だけあって、ここはまったく清掃とかやってないらしい。たまに軽くリビングルームとか、個人の部屋を掃除するだけで終わってるらしい。
つまり必要最小限の清掃しかしてないのだ。
 そこで飛んできた私という存在。
 問答無用で受け取らされるクリーニングアイテム一式。呉地が私のために用意してくれたものだ。
 ここ十階だけでいいから……と、呉地は言った。隅々とかまでいかなくてもいいから、とにかくぱっと見綺麗ぐらいによろしく……ともいった。
 私は軽々とOKした。掃除はそんなに嫌いではなかったし、なによりここを見学できることがとても楽しみだった。
 とりあえず、リビングから、ここは適度に掃除が届いているからすぐに終わる。
 次に各部屋。まず呉地の部屋。ここはいろんな必要なのか不必要なのかわからない機材や品物があったので、ちょっと手間がかかった。私にはガラクタにしか見えない物を、呉地は全部いるとか言うもんだから、なお手間がかかった。
 次に夏久の部屋。ここは……掃除は不必要だった。十分に綺麗である。
私が「綺麗好きなんだ?」と聞くと夏久は「元々何も無い部屋なんだよ」と答えた。なるほど、たしかにテレビと服と小物棚しかなかった。
掃除は必要なく良かったが、もう少しなにかしら居場所を飾れば、と私は思った。
 そして、私の部屋と、その近辺の部屋。私はテキパキとこなす。ここまで簡単に楽しく成し遂げられた。
 次は……と、ここから問題だ。呉地が言うに、ここから他はまったく手を付けていないらしい。ドアすら開けていないとか。なにが出るか分からないから気をつけて、との事だ。
 私は「どれくらい開けてないんですか?」と聞いてみた。呉地は「うーん、明治時代くらいかな?」と答えた。
 緊張感が、一気に高まった。
――明治って、いつ?
 何を根拠にそんな昔なのか、さっぱり分からなかった。分からないから、なお恐怖感が高まった。
 だが、やらねばならない。
 っというより、ちょっと見てみたい一心があった。刺激を求める人間の嵯峨、みたいな気持ちがあった。
 残りの部屋は4っつ。ごくりと息を飲み込んだ。
そして、私はその内の一つのドアを……開けた!
「びゃ――――――――――――――――――――――――――」
 なにか、得体のしれない動くものが一斉に飛び出してきた。私の視界が完全に見えなくなるほど……。
それは、大量のねずみとハエとゴキブリの大群だった。
 私は危うくその場で気絶して、そのまま食われるところだった。しばらくその場で足を痙攣させて、ドキドキしながら冷静なろうとした。
 ……予想はしていたが、これは常人にぶっつけ本番は無理がある。病弱体質者だったら、まじで死んじゃう。
 だが、私は違う。持ち前の根性で開き直った。
 私はとりあえずいろんなところに分散したねずみやらをある程度捕らえるため、でかい掃除機(呉地マテリアル)を手にとった。
 使い方はシンプルだった。なんとボタンが一つしかない。ある意味シンプルすぎて、ボタンを押すのが怖かった。
 だがそんな事を言ってる場合じゃない。なぜか気合の一声と共に掃除機スイッチオン! 豪快な音をたてて、掃除機が始動する。
とりあえず、目の前でちょこちょこ闊歩している奴から……と思ったが、ねずみたちはすでにこの掃除機に抵抗にしながら吸い取られてる真っ最中だった。
 それだけではなかった。この掃除機、吸引の威力も、吸い込む方向も勝手に修正していた。私はただ手にもってるだけ。たったそれだけで、動くもの達は、一網打尽のごとくこの掃除機の餌食になった。
 この間、ものの二十秒である。大量の小生命体が、掃除機の中でごたごた暴れていた。
『任務完了です。マスター』
「わ!」
 突然、掃除機がしゃべった。驚きのあまり掃除機の取っ手を落としてしまう。掃除機が『いたい』と叫んだ。
 きゅい〜ん、と騒音を立てながら、掃除機が言う。
『マスター、自分は精密機械です。扱うならそれなりに丁重に扱ってください。それと目の前にいたからやっちゃったけど、掃除機はねずみとかゴキブリとか吸う道具じゃありません。おかげですでにフィルターがパンパンです』
 わけが分からないまま、掃除機に説教されていた。だが私はほとんど話しを聞いちゃいなかった。
「おや? さっそく使ってるね〜」
 休憩タイムなのか、いつのまにか部屋にこもってたはずの呉地がこっちに近づいてきていた。
 掃除機が勝手に呉地の方へ向きをかえた。
『おはようございます、元マスター。はい、早速使われてます』
「元マスターやめな。これからは呉地……いや、呉地様と呼びなさい。呉地ムッシュでもいいぞ」
『了解、呉地様』
「あのー呉地さん。これなに?」
 私は恐る恐る指を刺しながら尋ねる。掃除機が『指を刺さないでください。不吉ですから』とまた文句を言ってきた。
 呉地が言う。
「僕の作った人工知能を搭載したただのその辺にある掃除機だよ。今まではこいつにここを掃除させてたんだ」
「へぇ〜。……でもこんなマシンがあるなら、私いらないんじゃないですか?」
『そうですね。マスターははっきり言っていりませんね』
「……掃除機のくせにいちいち勘にさわるわね」
 私はそう言って掃除機を睨んだ。掃除機はきゅいーんと音をたてて、少し私と距離をおいた。
「いや、こいつには予め用意した『掃除をする』っていうプログラムしか入れてないんだ。いちおう学習プログラムは入れてるけど、ほとんどが白紙だ。だからいちいちあれをしろ、これをしろと命令を与えてやらないと何もしないし、ヘタすると至らない事ばかりするから、面倒なんだよ」
「なるほど」
『ということは、私はバカなんですか? 元呉地』
「そうだね、人の事を過去の人物にするあたりが、かなりバカだな。それと僕は呉地様だよ」
 少し怒気をこめながら言う呉地。表情は笑顔だが、眉間には皺がよっていた。そんな心情も知らずに掃除機は『了解、元呉地』と答える。
完全に間違った覚え方をしていた。
たしかに、たかが掃除機の人工知能だけあって、かなりバカのようだ。
ふぅ〜と、ため息まじりに呉地が言う。
「ま、こんなナリで扱うのにちょっと大変かもしれないけど、見てのとおり掃除機としての性能だけは保証するから自由に使って。それと、こいつの言うように今は美夏ちゃんが『マスター』ってことになってるから。だいたいの命令は君の言うことしか聞かない」
「はあ……」
 私は曖昧に頷く。
 チラっと、掃除機を一瞥してみる。
『マスター、命令を。それとフィルターの交換を』
 掃除機がせわしなく唸る。
 だが突然命令を、と言われても、未だ扱き使われることしかやらされてない私に取って、命令なんてどうしたらいいかよくわからなかった。
 ど、どうすれば………あっ!
「そういえば、この子名前とかないんですか?」
「ん? そうだね……僕は掃除機って呼んでた。それとなつ君がたしか『しゃべるポンコツ』って読んでたね」
「それ、名前じゃなくて、製品のキャッチコピーみたいじゃ……」
「そうだね」
呉地はあまり興味なさげに答える。
 このままだと、ちょっと可哀想で寂しい。
「じゃあ、私がなんかつけます」
「おお、いいねそれ。よかったな、女の子にお前名前つけてもらえるぞ」
『名前ですか。私的にはハム太郎がいいですね』
「お前がハムスターだったら、そうつけてやってもよかったな」
『残念です。私はハムスターではありません』
「ちょっと二人ともだまっててください」
 わけの分からない会話をする二人を私は叱咤した。二人は「はい」と言って素直に黙り込む。私はその間うーんとまじめに名前を考えた。
「そうじ……じきそう……そうく……くりにんぐ……そうくり……くりーにんぐ……しんしん……しんこあ……くりこあ……ん? くりこあ?」
 私はいろいろと考えながらそれを口にだしていた。そして、ピーンとくるものがやっときた。
「決めた! くりこあ、クリコアにしよう。正式名称はクリーニング・コア!」
「なにそれ?」
『なんですかそれ?』
 二人同時に疑問の声をあげてきた。
 私は困った。
「何って……え? 気に入らなかった? この名前」
 じっとりと汗が流れる。もしかして、私ネーミングセンスまったくなし?
「いや、そうじゃなくて。その名前の由来と意味を、問いているんだけど」
『そうですよ』
「名前の由来って……うーん、掃除機で心を持ってるから? かな」
「安易だね」
『適当ですね』
 口を揃えていわれてしまった。
「う、うるさいな。せっかくつけたんだから文句いわないでよ。おしゃべりポンコツよりましでしょ」
「そりゃそうだ」
『そういうことにしておきます』
「…………」
 呉地はともかく、掃除機にまでそっけなくあしらわれてしまった。
 どうしようもない腹立たしさ込上げてきた。
「とにかく、今日からしばらくあんたの名前はクリコア。いい?」
『OK。私の名前はクリコア。メモリーにインプット完了』
「よしよし」
 と、丁度その時、時計の針が11時をさしていた。
 そろそろ昼食の時間である。呉地用にいっぱい作らないといけないから、早めに作っておかないといけない。
「そういえば呉地さん。夏君はどこいったんですか?」
 朝食と部屋を掃除にきた時以来まだ見かけていない。つまりこのアジトにはいないということだと思うのだが……。
「なつ君? ああ彼なら……君のために働いてるはずだよ」
「は?」
「つまり、敵状視察にいったのだよ。なんだかんだ君に文句言ってるけど、責任は感じてるみたいだね」
「はぁ……なるほど」
 私は考えた。
 敵状視察って……敵なんてどこにいるかわかってんの?



 ほぼ上空を見るような形で、夏久は空を見上げていた。そこにある物は、とにかくでかく偉大なまでの存在感を発散していた。
ここはE駅付近に立つ、この辺でもけっこう有名な建物、商業社『ユーロカンパニー』の目の前、玄関ホール前だ。
あたりでは会社員やらがせわしく交差しながら歩いている。なるべく邪魔にならないような位置で、夏久はそんな人々の動きをじっと眺めていた。
そのまま、しばらく傍観をきめこむ。
十分、二十分、三十分と時間がすぎていく。夏久は滅入ることなく、真剣な表情をその場で維持していた。
 そして……ついに四十分がすぎるというあたりで、周囲に動きを感じた。
 夏久がニヤリと笑う。
 数人ではあるが、何人かが出入り口のあたりでどよどよと喚いていた。
夏久はそのあたりを凝視する。見ると、一台の高級車を止まっていて、それを何人かが囲んでいるようだった。
囲んでいるのは、たぶんマスコミである。
高級車の中から誰かが出てきた。だがその瞬間マスコミどもがどわーっと押し寄せる。SPみたいな奴らが、うざったげにマスコミをあしらう。
 高級車の中からでてきたのは……二人いた。
 一人は、どこからどうみてもデブと言えるほどのデブで、顔が醜く、いかにも成金でセクハラしまくりのジジイという感じのおっさんだった。特注サイズのスーツみたいな着ていて、冬なのに酷く暑苦しい雰囲気だ。
 そしてもう一人が、前者とくらべてすらっと痩せていて背が高く、物腰もおちついてて、なにより端整された顔立ちが目を引く。つまりは美形の兄ちゃんだった。
クリーニングされたスーツが、びしっと決まっていて男がみてもかっこいいと思える優美な姿だった。
 しかし、そんな感情は当の夏久にはない。あるのは、
 疑惑、疑い。
 他人を信じてこなかった泥棒の先入観がまずこれだ。
 成金オヤジを先頭にして、美形兄ちゃんが後ろへ続き、その左右をSPみたいなのが固めていた。
 夏久は睨むように、その二人を見つめる。
 そしてちょうど二人が自分の立つ目の前にさしかけた時、美形の兄ちゃんの方がこちらに顔を向けてきた。
 目が合う。
美形の兄ちゃんは微笑んでいた。こちらは睨んでいるのに、屈託のない笑みを浮かべていたのだ。
そしてすぐに前方に視線を戻し、何事もないかの様にスタスタと会社内へと入っていった。
背筋に、ゾクっとしたものが通り過ぎた。
「…………」
 ……感覚で分かった。たぶんあいつが首謀者か、その片棒あたりだろう。さすがは自分をはめただけあって、大した殺気である。
 ……何者であろうか? ここの社長はたぶんあのデブの方だろうが、あの兄ちゃんはいったいなんだ? 美夏の話でも、あんな人物に関する事は聞いてない。あれだけ存在感があるんだ、知ってるなら話してるはずだ。
ということは、知らないのか。
「すいません」
「はい?」
「あの社長の後ろを歩いてる人って、誰ですか?」
 夏久は近くでタバコを吸っていた中年男性に尋ねた。いきなりこんな所で子供に(22歳の大人だが)に声を掛けられたせいか、男性は慌ててタバコをもみ消していた。
「あ、ああ、彼は副社長だよ。最近就任したんだ。噂ではあの社長の孫らしいのだが……私も見たばかりなので詳しくは知らないんだよ」
「……ありがとう、おじさん」
 低い声で言い、会釈する。
夏久はその場を去った。中年男性が「最近の中学生は礼儀正しいねぇ」と唸っていたが、夏久は気にしなかった。
 とりあえず、今日はいったん引くことにした。



 夏久が密偵みたいな事をしている某時刻……。
 アジト内ではせわしなく掃除機の音がなっていた。
はっきり言って一般家庭で流していい騒音ではない音量である。その理由はフィルター3回も替えてまで、かたっぱしから吸い取ってるこの強力さが問題だろう。直径20センチぐらいのものなら、なんでも吸ってしまうこの掃除機、クリコアの手加減のなさがいけないのだ。
 そしてちょうどその時、うるさい掃除機音が鳴り止んだ。
「終わった〜〜」
 私は歓声を上げた。
『終わりましたねマスター』
 隣のクリコアも、抑揚なく答えた。
 ちなみに終わったというのは、ここ地下十階に設けられている各部屋が、すべて清掃完了したということだ。
 っていうか、ほとんどはこのクリコアにやらせていて、私は昼食の用意をしていたのだが、それでも定期的に命令を与えないとほんとに働いてくれないクリコアにいろいろ命令を与えるのは、それなりに骨が折れた。
特にフィルターを3回も交換するのに、かなり応えた。
 ちなみに昼食もすでに完了といったところだった。それと昼食を作っていたから、あの汚れてボロボロの制服は洗濯機行きになっている。今はいつものスーツ姿の上にエプロンを着用していた。
「お? やっと終わったのかい?」
 いつも突然沸いて出てくる呉地が、これまたどこからともなく沸いて出てきた。
「はい、ここは全て終わりました」
「うんうん、流石だね。……で、昼食の方は?」
 予想通りの一言が返ってきた。
「出来てますよ。なつ君が帰ってきたら、食べましょう」
「ほんと? ああ〜なつ君早く帰ってこないかな……」
 呉地は体を子供みたいにうずうずさせながらまたどこかへ行ってしまった。大食いだけに食い意地も立派なものらしい。
 でも、これはけして悪いことではない。欲望を発散するのは人として大切なことだ。溜めにためて、ストレスの塊になるより遥かにましである。たぶん、呉地もそのあたりを自分で理解して、ああやって微笑ましく振舞っているのだろう。
 誰かにもそうして欲しいために。
 と、その時。玄関の方で扉があく音がした。夏久がやっと帰ってきたらしい。
 私が目をやると、夏久はいつもの憮然とした表情でリビングに現れた。
 私が「おかえりなさい」と言うと、夏久はチラっと一瞥してすぐにどこか行ってしまった。
 なんだか刺々しい態度だった。
なにかあったのだろうか?
 と、考えてるとき、足首あたりをツンツンと突かれた。見るとクリコアが掃除機の先を使って私を突付いていた。
『マスター、私にもご飯をください』
「ごはん? ごはんって、あんたなに食べるの?」
『機械ですから、もちろん電力です。どこかに充電器があるはずですから、そこまで連れてってください』
「どこかってどこ?」
『どこかですよ』
 私はため息を吐く。
「なんで充電器の存在は知ってて、ある場所は知らないのよ。……ああ〜もう、あとで呉地さんに聞いておくから」
『あとではだめです。もうすぐ私は……時間……切れ……止ま……』
 だんだんと音声が途切れ途切れなっていく。そして、プシューという音を立てて、クリコアは掃除機の先をぐったりと倒れさせ、
『…………』
「? おーい、どうした?」
 つんつん足で軽く突付いてみた。
『…………』
 クリコアは完全に止まっていた。
 しばらくすると、クリコアの背中にある液晶プレートみたいな物が光を放ち、点灯した。
 私はそれを訝しげに覗いてみた。
 そこには『電気くれ〜〜〜〜』と、まぬけ極まりない日本語が書かれていた。
私はそれを見て危うくこけそうになった。
 ――まったく、止まる前にもっと早く言いなさいよ……。
 仕方なく私は、呉地の所まで掃除機を運ぶことにした。
 と、その時、私はあるとんでもない事に気づく。
 ――なんか、今現在静かでない?



「入るぞ、いいか」
 ノックもせず、適当な確認だけを取って、俺は呉地の部屋に入った。
 中はいつもの通りガラクタみたいな物が散乱していて散らかっていた。が、ふと見ると物品事態に埃などがまったくなかった。一瞬疑問に思ったが、すぐに美夏が掃除の仕事をしてることを思い出した。
 それなのに、このガラクタがまだここにあるということは、全部いる、ということなのだろうか。
俺にはただたんに捨てる根性がないだけに思えてくる。
 と、俺がいろいろ部屋の事で詮索していると、呉地はパソコンに集中していた顔をこちらに向けてにっこり笑っていた。
表情には出ていないが、顔が少しやつれていた。
 ……寝てないのか。
 気遣いのつもりなのだろうか。だがそれで体を壊されてもこっちが困る。
こういうお節介な所もこいつの問題点である。
 そこがいいところでもあるのだが。
「おかえり、今帰ってきたの?」
「ああ。――それで、あいつの会社に行ってみた」
「ふーん、詳しく話してみてよ」
 俺は呉地に今日の事を話した。ユーロカンパニーという会社が、見た目からは普通のでかい会社であること。途中張り込んでいた時見かけたそこの社長と思しきデブと、怪しい若い男の事を。全てを、なるべく鮮明に話した。
 呉地が情報を噛み砕くように頷く。
「なるほどなるほど。写真とか撮ってきた?」
「あ……ごめん、忘れた。でも顔は覚えてるから、人物検索の顔写真見れば分かると思う」
「おいおい、なつ君。それは無理な話だよ」
「なんで?」
 言ってる意味が分からなかった。
 理解しないでいる俺に、呉地がやれやれという感じで答え出す。
「なつ君の話が本当なら、そいつが相手関係者である可能性はかなり高いよ。
つまりいいかい? なつ君が睨んでいたのに、そいつはこっちを向いて微笑を膨らませていたんだろう? これ絶対にありえない事だよ。っていうかね、まず君なんか相手になんかされない。歩きながらの会釈なんてもってのほかだ。どこのどいつがまったく知らない怖い顔で睨んでる中学生くらいのガキんちょに微笑むんだ。もしたまたま見たとしても、まず普通なら顔には出さないかも知れないが、狼狽しながら目をそむけるだろうね。ま、つまり、そいつは君の事を知ってたわけさ」
「どこで?」
「美術館の中ででしょ、たぶん。……で、そのあたり考慮すれば、相手のその行動は挑発。意図はまだ分からないけど。わかったかい?」
「なるほど、わかった」
 俺は素直に納得した。だが『ガキんちょ』という言葉には少しむっときた。
「それより、そっちの方はどうなんだ? 見た感じ徹夜してたみたいだけど」
「ああ、うん。もう眠くて眠くて……コーヒー二十杯位飲んでしまってカフェインばっかとりすぎていてまさに健康不良状態? だからちょっと―――」
「余談はいいから、早く結果を言え」
 俺はピシャリと口を止めさせる。すでに長年の経験から止めるタイミングというものをマスターしてしまっていた。
 呉地は残念そうな顔で一瞬口ごもる。
 だが、すぐに観念して、本題に戻った。
「収穫ね……うん、何も掴んでないよ」
「はあ? だってお前……」
「うん、ちょっと侵入プログラム作ってた。奴さんの所、相当堅い頭してるみたいだから」
 俺はこの一言に、驚愕する。
「おいおい、それほんとか? あのプログラムが必要ってことは、相手は相当の明晰者か、でかいスーパーコンピュータでも所有してるってことじゃ……」
「ま、そういうことだね」
 ずずずーと、コーヒーを啜る呉地。呉地もそれなりに内心で狼狽してるみたいだ。
「ま、君が考えてる事で訳すと、天使様を助けるにはそれ相応のリスクがあるってことさ」
「…………」
 ……上等だ。
 相手がやり手なら、こっちは燃えに燃えるといったところだ。
 俺は右腕の拳を、強く握り締めた。
「それで、そのプログラムは完成したのか?」
「ああ、いちおう設計は完了した。あとは結合するだけ。今夜あたりに全て終わるだろう」
「侵入ついでにそこのコンピュータを全部壊してやれ」
「可能だったら試してみるよ」
 そう言って呉地は笑った。
俺も少し微笑を浮かべた。
 するとその時、ドアからノック音響いた。「呉地さん、いますかー?」と、美夏の声がした。呉地がいるよと答えて、中に入るよう声をかける。
「呉地さん、この子の充電器ってどこにあります?」
 入って来た美夏を見ると、手に妙な物体を所持していた。みるとそれは、俺が『しゃべるポンコツ』と呼んでいた頭の悪い人工知能を持ったあの掃除機だった。
「充電器? そいつ止まったの? 充電器なら、ほら。そこの棚の横にあるよ」
「これですか?」
「そうそう。はめ方は掃除機を立てて、背中の穴にきれいに刺さる様にはめればOK」
 呉地の指示に従いながら、ぎこちない手つきで充電器に設置しようとする美夏。俺はそんな美夏の後ろ姿をじっと眺めていた。
 ――ん……元気みたいだな……。
 と、視線に気づいたのか、美夏は「ん?」と声をあげて顔だけを俺の方へ向けた。
 目が合った。
 俺、ちょっと慌ててしまう。
「なに?」
「別に……なんでもない」
「ふーん、言いたい事があるならはっきり言ってよね。私、他人に眺められながらいろいろ想像される趣味、ないからさ」
 意地悪げな表情でやゆ揶揄を言う美夏。これに俺は少しムっときたが、実際見てたのだから反論できなかった。
「おやおや、なつ君の弱盲点「なにかと人を背後からみちゃう」を指摘されてちょっと精神的ピンチだねぇ〜。ここはあれだね、助け舟がいるねぇ〜」
 と、ニヤニヤしながら話にわって入ってくる呉地。
俺は「はあ?」と疑問の声をあげた。
すると、呉地はパソコンの方へ目をやり、カタカタと何かを起動させようとしていた。しばらくすると、左腕でクイクイと画面を見るよう促してきた。双方共にだ。
 俺も美夏も、分け分からずの顔で画面を見てみる。
 画面は、このアジトの出入口であるエレベーター前を写していた。どうやらエレベーター前のカメラの映像をインポートしたらしい。
 しばらく画面を見つめてみる。すると、ありえない人物がそこに写った。
 美夏だった。
 エレベーターに近づき、ボタンを押しながら「あれ? あかないなー」と唸っていた。しまいにはエレベーターに一発蹴りを入れていた。
「これは数分前に写された映像です」
 呉地がまるで案内人のような声でそう呟く。
 その瞬間、俺の脳裏に怒り心頭の文字が刻まれる。
 俺は隣を見た。美夏がすでにいなかった。
急いで後方を振り返ってみる。美夏が慌てながらドアの外の出ようとしていた。が、突然真上から降り注ぐ鳥かごみたいな鉄格子にあっさり捕まってしまった。
この鳥かごは呉地がこのアジトのいろんな所に常備設置されているそのうちの罠一号である。
 美夏は青ざめた表情で「あ――――!」と叫んでいた。
 俺はその鳥かごにゆっくりと近づく。背中にはゴゴゴゴゴと効果文字が浮かんでいた。美夏が怯えた表情で俺を見ていた。
「……どういうことだ?」
「外の空気を吸いたくなったもので」
 汗をダラダラ流しながら弁解する。しかし、言い訳になっていなかった。
「お前は、いまいち自分の立場を理解してないみたいだな……」
 そう言いながら、俺は腰を収めた物に手をかけた。
「ふ、服を取りに行こうと思ったのよ! これ本当よ!」
「だから?」
「う……。だ、だから……つまり! 私の服をどうにかしてほしいわけなのよ! うん」
 俺から見ても、完全に思考が空回りしてる事がわかった。言い訳がヘタな奴の言い訳ほど、醜いものはない。
 だが、だいたい理由はわかった。用は普段着が欲しいらしい。呉地に聞いた話だが、女は服に過剰な拘りを持っていて、世間ではそれを見栄というらしい。
この美夏もその一人なのだろう。
 だが、
「がまんしろ」
 そんなの知ったことではない。
「そ、そんな〜。せめて下着ぐらいは持ってこさせてよ、私の部屋から。今着てるの昨日と同じなのよ」
「!」「ぶっ!」
 俺は絶句し、呉地はコーヒーを吹き出して驚いていた。
 ……つまり、今着てるのは汗とか女性ホルモンとかそーいう系のエキスとかで成熟した下着、基パンツ……。
「いかん」
「うん、これはいけないね」
 俺と呉地は大きく頷く。
「……なに想像してるの。すいませんけど、ちゃんと洗ってますよ」
 明らかな軽蔑の目で俺と呉地を見る美夏。その視線は、とても痛かった。
 額に汗が走った。
 男性人の思考はあっさりと見破られていた。
 俺はものすごい惨めさと情けなさでいっぱいになった。隣の呉地もあはははと苦笑を漏らしていた。
 ――仕方ない……。
「……服なら、十二階の方にたしかいっぱいあった。それを使え」
 そう言ったあと、呉地に罠をとるよう促し、俺は美夏を十二階まで案内した。

 十二階にエレベーターが止まる。ドアが開いたとたん、俺はズカズカと足を進めた。遅れて美夏もついて来た。
 ここ十二階は、アーケード状に作られたショッピングセンターになっている。今歩いてるあたりにあるのは主に服類、雑貨類などだ。奥にいけば、まだいろいろある。
道は廊下状になっており、各々の曲がり角がある。ヘタすると迷ってしまう様なところだ。
 しかし、ここが作られたのは相当の昔だ。服など、すでに風化してると思われるだろう。だけど、ここはなぜか俺たちが来るまで完全無機質の空間になっていたらしく、今でも物は健康状態なのだ。地下の構造を利用したのか、なぜそうなのかは分からない。
 とにかく……。
俺に言える事は、昔の人の知恵とは凄いもの、それだけだった。こういうところは他の階にも多々ある。
 数分ほど歩いて、衣類が置いてある所にたどりついた。
 本人が先導して探し出す。俺はすみっこでその光景を眺めていた。
 しばらくすると、下着類はあったらしい。でもデザインが古臭いと文句言ってきた。俺には理解できなかった。
 しかし、上着類は俺から見てもちょっと微妙だった。どれもこれも、やや貴族誇張の入った服ばかりだったからだ。まともなのはドレスっぽいやつと、日本伝統の『浴衣』があった。
気に入ったのか、美夏はそれを持って帰ろうとしていた。
 収穫は上々だった、と思う。美夏はそれなりに満足のようだった。あまり期待していなかったのだが、やはりこのアジトは奥が深かった。
 用も済んだので、持ってきたバッグに衣類を詰めて、エレベーターを向かった。
 その途中、美夏が苦い顔で呟いた。
「前から気になってたんだけど、このアジトって、いったいなんなわけ? たくさんの部屋があるし、こんなショップもあるし、どう考えても昔の古物に思えない点が多いのだけど……」
 今ごろ気にし始めたらしい。まあ、たしかにここは問題の決定打になるであろう。
 美夏は顎に手を当ててうーんと考えていた。
 俺は横目で見ながら、どうしようかと逡巡した。
「……じゃあ、見せてやろうか。ここのメインスタジオってやつを」
「へ? なにそれ?」
「気になるなら、荷物を置いて十五階まで降りて来い。準備して待っているから」
 適当に言を告げながら、俺はエレベーターのスイッチを押した。
 


 衣類を詰めた服を自分の部屋に置いて、私はマイペースでエレベーターに向かった。呉地の手により、私が弄ってもエレベーターは動いた。しかし、一階までのボタンは起動しなかった。それなりに期待しながら押してみたのだが、結局捕まったままの私だった。
 エレベーターに乗る途中、呉地に「どこ行くの?」と聞かれた。
私は「十五階。夏君がこいって」と答えた。
呉地はどうでもよさげにふーんと相槌をうって、「いってらっしゃい」とだけ呟いた。
 モーター音と共に私は降下した。そろそろこのエレベーターとも、ちょっと馴染んできていた。
さすがに好きにはなれないが……。
 チン……。十五階にたどり着いた。
 エレベーターから出ると、道は一本道だった。横は銀色の壁でびっしり、ところどころの錆が目立っていた。
……この階は他とくらべてかなり老朽化しているようだ。
 あたりは暗い。建物の古さにある異様なオーラが伝わったのか、歩きながらちょっと怖い気分になった。
 しばらくすると、明かりが見えてきた。あそこで夏久がまっているのだろうか? とにかく光を見て少し安心した。
 ……光の外へ出る。
 暗い目が、眩しさに目をふさがれた。
「………!」
 しばらくして、目が慣れてきた。そして、初めて光の外を見る。
 瞬間、私は絶句してしまった。
 まず、私が今立っている場所は、石造りで出来た階段みたいなところだ。それはずーっと先まで続いていて、真ん中に『円』を空かした状態で広がっていた。
つまり、簡単に言えばドームの観客席みたいなところである。
 そして、真ん中にある円形状のリングみたいなもの。だいたい直径三十mぐらいの広さだ。地面は堅そうな砂で、ややこげ茶っぽい色の砂だ。
 そして、そのリングの中で、血みどろになりながら戦っている屈強そうな男二人。獣の雄たけびに近い唸り声をあげながら、一心不乱で両者共に相手に襲い掛かっている。
 なにがなんだかさっぱりだった。
「お? やっと来たか」
 口を開け、唖然としながらリングを眺めてると、観客階段の上の方で夏久の声が聞こえた。
慌てて振り向くと、妙な機械を隣にして、夏久がちょこんと座っていた。
 と、手をクイクイとさせながら、夏久がこっちに来るよう促してきた。
 私はリング内を何度か一瞥しながら、夏久のもとまで歩いた。
 近くまでくると、今度は座るよう促してきた。夏久を隣にして私は座り、再度リング内を見た。
「すごいだろう? これ」
 得意げに夏久が言う。まるで自慢する子供だった。
 私は素直に「うん」と頷いた。
「でも、なんなのこれ? なんで戦ってるのあの人たち? っていうか誰?」
「あの二人はただの映像、ホログラムだ。でもずいぶん昔にあの二人は存在していたのはたしかだ。ここで今の様にタイマン勝負をしていたのもたしかだ。この、コロシアムで」
「コロシアム?」
 言われてみれば、ここの作りはローマにある拳闘場そのものだ。本物は見たことないが、映画なんかで出てくるのとは、まったく同一である。
なんで最初っから気づかなかったのだろう?
 リング内で白人の男の方が相手側である黒人の男の背後を捉えた。腰のあたりを両手で掴んで、いっきにジャーマンスープレックスをかました。
あまりにもスムーズな動き。テレビのプロのプロレス試合でも、こんな可憐ジャーマンは見たことがない。
 だが、さらに驚いたのは、相手の黒人がその華麗な技を見事避けたことだ。体を捻って、両腕にパワーを注いで、全身にかかる重圧を支えたのだ。
 半端ではなかった。
見ていると、体が熱くなってきていた。
「空手とかやってたら、強いやつ見るとやっぱ目の色変わるな。女でも」
 夏久がなにか言っていたが、私は全然聞いていなかった。
 と、突然リング内の男二人が消えた。拳に熱を込めながら観戦していた私は思わず「あ!」と声をあげてしまった。
 夏久が機械のスイッチを切ってしまったらしい。
「だが、隣で見ててちょっと雰囲気が危ない。この続きは次回ということで」
「そんな〜、もう一回見せてよ」
 私は両手を合わせて、夏久に必死の懇願をした。
「だめ」
「ケチ」
「ケチでもよろしい。俺は元々試合見せるためにここに招待したわけじゃないからな」
 機械のボタンをポチポチ押しながら話す夏久。
私は少し残念な気分になった。
「ちゃんといつか続き見せてやるから、そうふてくされるな」
 夏久は言いながら笑う。
 私も潔く諦めて、頷いた。
「気に入ったか? ここ」
「まあね」
「もうだいたい分かってるだろうが、ここがこの地下アジトのメインスタジオだ。建設時期は明治ぐらいって、呉地は言ってた。もちろん、こんな施設に関しての歴史はない」
「でも、いったい何のためにこんな大きなものを……」
 私は一人、頭の中で理由を探した。だがなにもでてこなかった。
「……たぶん、娯楽だろうな」
 夏久は視線をリング内に向けて話だした。
「なあ、金持ちが最後に辿る道って知ってるか?」
「ん〜〜、さあ?」
「死遊(しゆう)さ、死ぬまで遊び続ける。金はいくらでもあるんだ、仕事なんかやっても仕方ない、だから遊ぶ、死ぬまで。
だが、死ぬほど遊ぶといっても、この日本では法律や規則、成り立ちなんかのおかげで許容範囲がせますぎる。だから金持ちどもはここを作った。
何者にも囚われない最高のフリーパーク。それがここさ」
「ふ〜ん……」
 今いちピンとこないが、なんとなくは分かった。
夏久の話がもし本当なら、金持ちとは嫌な種族である。
常に退屈の文字が回りを歩いているのだ。それを取りさらうために遊ぶ、生活のために働いてお金を貰う我々庶民と似たようなものみたいだが、私的に前者の方がなにかと窮屈そうで気分が悪そうだ。
ただたんに私には合いそうにない、縁がないだけかもしれないが。
「――泥棒も似たようなもんだ」
「なにが?」
「金持ちどもとさ。国の秩序に辟易して、我欲のために他物を盗む。いっしょだ」
 夏久は自嘲ぎみに言う。視線は未だリング内一点だった。その横顔は無表情である。
 だが、この言葉に私は疑問を感じた。
「夏君、我欲のために物盗んでたの?」
 この言葉に夏久は激しく反応した。勢いよく私の方へ振り向き、びっくりした表情でしばらく見つめてきた。私もちょっとびっくりして、ほんのちょっと横に移動してしまった。
「……きついこと言うな。お前」
「え?」
「そんなこと言われたの、始めてだ。……いや、正確には昔に一回だけあるか」
「それって、いいこと?」
「ん〜〜まあ、いいことかな。俺の唯一のいい思い出みたいなもんだし」
「相手は女の子?」
「……するどいなお前。実はエスパーとかじゃないのか? 俺みたいに」
「もしかしたらそうかもねぇ〜〜」
 私はおどけた言い方でそう言った。
 夏久は少し苦笑ぎみに笑う。
「じゃあ、そのエスパー様に聞いてみようか。
俺のその、『思い出の女の子』は、しばらくするとどこかへ行ってしまいました。そしてその時の最後、俺にある約束をします。さてそれはなんでしょうか?」
 まるで教科書の問題を朗読するように言う夏久。
「そんなの分かるわけないじゃん」
「エスパーなら、俺の心でも読んで分かるはずだろうが」
「そんな都合のいいエスパーは、現代社会に存在しません」
「いいから答えろよ」
 夏久はヒラヒラと手を振る。
 ……なんだか適当にあしらわれてる気分がしてならない。
 だがとりあえず、私は目を瞑って考えてみた。
「"またいつか合おうね♪"」
 それなりに感情を込めていってみた。
「適当に答えるな」
「なんで適当に答えちゃいけないのよ」
「俺が問題として出すんだ。そんな簡素なセリフなわけないだろうが。もう少し捻りを入れた事を言え」
夏久は少し怒気を込めながら言う。
何を怒っているのだろうか? 
私はなんだか、警察で事情徴収でもされてるみたい、とふと思った。夏久の言動はどうも遠回しに詮索を促してる、気がする。
「まじめに答えろ、まじめに」
 何かを期待してることは確かなんだけど……。
「むうじゃあ、これなんかどうでしょう」
 ――その時、
 ……ふと、頭のすみで生まれた言葉。私はそれをこの場で出そうと思った。
 軽いノリだった。今度もまた夏久に「まじめに答えろよ」と言われるのを予知していた。
 だから一言、そう告げた。
 その瞬間、夏久は目を見開き、しばらく放心状態となっていた。

 "今度会うとき、私は泥棒になったあなたを、捕まえてやるわ"



 とっさに、「そろそろ戻ろうか」と言ってしまった。
 そう言った手前、美夏は「正解? もしかして正解?」とうるさかったが、俺は無理やり無視しようとした。そのまま美夏をおいて行く勢いで出口に向かった。美夏は後ろの方で怒った声を上げていた。
"今度会うとき、私は泥棒になったあなたを、捕まえてやるわ"
 実を言うと、正解は知らなかったのだ。
 なんと美夏が答えても、適当にあしらおうと思っていたのだ。
 だけど、あの一言は違った。脳裏に深く食い込んだのだ。
 この手ごたえは、たぶん正解なのだろう。
 やっぱり、あいつは美夏だった。十五年前、俺が唯一覚えてる子供時代を一緒に過ごした時の少女だったのだ。
 あの時と同じ、顔も面影がとても現れてて、あまり変わっていない。
だから分かったのだけれど。
 ……うれしかった。
 帰りのエレベーターに一緒に乗ってる時、感情を面に出して喜びたかったが、そんなことしたら変に思われるのでなんとか自制した。部屋に戻るまでがんばって耐えた。
 昨日と同じ、部屋でまた笑ってしまった。このままだと自分がおかしくなるんじゃないかと、ちょっと不安に思ったが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
 
だけど……。
 気がかりな事がある。
 彼女は……俺のことは覚えていない。
 さっきも、思い出してはくれなかった。俺と違い、うっすら記憶がないだけじゃない、完全に覚えていないのだ。
「どうして、どうしてなんだよぉ〜……」
 自分が、とても惨めでならなかった。



 点々と時が過ぎ、夜になった。私がここに来て、2回目の夜である。
 私的に意外と充実した一日であった。メイド(?)の仕事というのも、やってみれば楽しいものである。
 この制服は、やや品性にかけるけど……。
 私が自分の部屋で、その制服を脱いでる最中、ドアからコンコンとノックがなった。
誰だろう? 夏君かな? 
私は「はーい、誰ですか?」とドアに向かって呟いた。
「僕だけど、今から僕の部屋に来てくれないかな? すぐ済むと思うから」
 ノックした相手は呉地だった。
「あ……わかりました」
 私があいづちを打つと、呉地は「なるべく早くきてね」と付け足して、すぐにドアの前から去ったようだ。
 急いで、と言われたので、私はすぐさま脱衣途中の制服を脱いで、普段着に着替えようとした。が、よく考えればまともでラフな服がほとんどないことに気づいた。
ショッピングセンターの所から持ってきた服は、どれも派手で、露出の激しいものばかりだったから、状況的に下着ぐらいしかまともなのはない。……あえて選ぶとすれば……。
「これかな? でもこんなの着た事ないや、私……」
 衣類の中で、一番まともな部類に入ると思われる服を手に取り、私はしばらくうーん、唸った。
結局、鏡の前などで試着やら着せ替えなどの事をしてたら、ずいぶん時間がたってしまい、呉地が二度呼びにくるはめになった。
ちなみに、最終的に決まった服は、清純さまるだしのシルク状のヒラヒラした感じの服になった。
縁のない服なので、なんていうのか、わからなかった。

私は少し急ぎ足で歩き、呉地の部屋に向かった。
ノックして部屋に入る。そこには、コンピュータの前で何かをしている呉地と、椅子に座ってその画面を見つめる夏久がいた。
とりあえず、私は遅れたことに対して謝罪した。呉地は空を仰いで苦笑まじりに許してくれたが、夏久はそっぽを向いたまま何も言わなかった。
なんだか、雰囲気が固い。
「とりあえず、こっちに来て座って美夏ちゃん」
「あ、はい」
 いそいそと動き、ちょうど夏久の隣に位置する場所に私は座った。
 私はチラっと夏久を見てみた。
表情はいつもどおり無表情だが、どこか刺々しい雰囲気だ。
まるで他人を近寄らせない、そんな感じである。
――いったいどうしたのだろうか?
ちょっと、心配である。
「美夏ちゃん? どうしたの?」
 はっとわれに返る。呉地が訝しげに覗くように私を見ていた。
――いけないいけない、ぼーっとしてしまった。
 私は慌てて大丈夫ですと言ったあと、早く話しを進めるよう呉地に促した。
 呉地はちょっと釈然としない様子だったが、すぐに気を取り直して今回の用件を話し出した。
「うーんとまず、今から僕がすることはハッキング。ターゲットは美夏ちゃんの会社であるユーロカンパニー。ここまでいいかな?」
「もったいぶるな、さっさとしろ」夏久が野次をとばす。
「まあ、そう慌てないで」呉地が手を仰いで宥める。
「あの、ハッキングなんて、大丈夫なんです? いちおう犯罪なんでしょ?」
 こういう事に関しては、私は途方もない無知だが、ハッキングが何なのかぐらいは知っている。
いけない事とか……。
なにがいけないのかは、全然知らないんだけど。
「まあ、確かに犯罪ではあるね。だけどこれぐらいやらないと、相手の尻尾は掴めない。現に僕らは相手に犯罪的行為でしてやられている。あまり使いたくない言葉だけど、毒は、毒でしか制せないんだよ」
「遺憾なことですね……」
 私がそう言うと、呉地は「そうだね」と、少し寂しげに笑って答えた。
 ちょうどその時、「完了です〜〜」と可愛いらしい声がコンピュータから聞こえた。
 その瞬間、呉地は私から目をはずし、コンピュータを見た。
呉地はカタカタとテンポよくキーボードを叩く。画面にはさまざまな情報が交錯し、しばらくすると、画面真ん中に大きく「OK」という文字が出た。
呉地はポンとボタンを押した。
 すると、画面は突然真っ暗になり、しばらくすると元の青い画面に戻りだした。
『全てのスペックの読み取り完了。コピーは正常に行われました。カミングアウトソフト起動。目標ユーロSNCタワー。
 モードはマルチ。出力は相応に74%で固定。
 固体識別、4、5、6、7、8、9、―――20。OK?』
 私にはさっぱりわからない文字の羅列が現れ、消える。度々に現れる「OK?」の文字だけ確認できた。
だから私はときどき首を傾げながら画面を眺めた。
「……美夏ちゃん、今全然わかんないやって、顔してるでしょ?」
「え? あ、いや……」
 唐突に画面を見ながら問いかけてきたので、私は戸惑った。
すると、画面を見ながら呉地がくすっと笑った。
「もうすぐ、判りやすい映像出すから。―――これで、OKと」
 呉地の声と共に文字の羅列が消え、画面は真っ白になった。
 そして、画面に現れたのは、3DCGで構成された、どこかの建物の地図みたいなものだった。
私はそれを見てあっと声を上げた。
 その地図に、私は見覚えがあったからだ。
「これって……会社の中?」
「あたり」
 呉地が一言そう言った。
 私はじっと画面を見つめる。よく見ると、地図の中の至る所に『点』で表した妙な動くものがいる。単調な動きで、前や横に動いている。
「これ、なんですか?」
「この会社のウイルスバスターを画像で再現したものだよ。ウイルスバスターは知ってるよね? コンピュータを防衛する装置のことだよ」
 なるほど、と私は頷いた。
「で、この地図の中で今から何を?」
「だからハッキング」
「これ、ハッキングしてるんですか?」
「まだしてないよ、これからするんだよ」
 そう言って、呉地はマウスを操り、何かをし始めた。
 ――まだしてなかったんだ……。
 隣にいる夏久が「なに興奮してるんだ?」と言ってきた。
 ……どうやら自分は興奮していたらしい。言われて悟り、俯いて恐縮してしまう。
 ちょっと反省。
『ムキュ!』
 突然、ちょっと形容しにくい音声が聞こえ、私は顔を上げた。
 すると、画面にもう一種類の動く物体が一斉に現れていた。
 物体はウイルスバスターの『点』に比べて、やや形が整っており、その形はあえて言えばパックマンの人型バージョンみたいな感じだ。
可愛いと言えばちょっと微妙なところである。
 それにしても、物体の数は半端ではなかった。だいたい数十匹(なんとなく動物っぽいのでぴき)ぐらい。
物体が動き出した。だがその動きは『点』に比べてでたらめで支離滅裂だった。地図の中を縦横無尽に動きながらムキュムキュと鳴き声みたいな音声を出している。
「これ、なんですか? あんまり可愛くないけど……」
画面を指差しながら、私は尋ねた。
「自家製ウイルス。可愛くない? まあこの画像は適当だから仕方ないか」
 私は画面のウイルス呼ばれるものを見た。
――やっぱり可愛くはないな……。
普通にパックマンならまだマシなんじゃないだろうか?
 ウイルス達は、地図全体に広がり、地図内の所々を壊しまくっていた。ボカンボカンと単調な効果音を出しながら、それなりの連携プレイで行動していた。
 とその時、デタラメに動いていたウイルスの1匹が、会社のウイルスバスター発見されたのか、地図内を追い掛け回されていた。
必死で汗マークを出しながら逃げるウイルス。
それを無心で追いかけるウイルスバスター。
 なんだか、子供が鬼ごっこしてるみたいで、見てて笑えた。
 しかし、状況はウイルスに否があった。バスターの方が、ちょっと動きが早いのだ。当のウイルスの方は、一生懸命逃げているのであるが、図体がでかいせいか、やや遅い。
 ウイルスはあっさり捕まってしまった。
 ガリガリと音を出しながら、ウイルスはムンクの叫びみたいな表情になりながら、まるで虫に食われるてるみたいに、ボコボコ穴を空けながら消えていった。
 バスターが最後の一切れを食べた(破壊した)。
だがその瞬間、
「びしゃ〜〜〜……!」
 突然、食べられてしまったウイルスの中から、大量のちっこい物体が現れたのだ。
それはどんどん湧き出す様に死んだウイルスから出てきて、ウイルスを食べたバスターを一瞬に飲み込んでしまったのだ。
 私は思わずその光景に口を開けて驚愕した。
「ふぅ〜、やっとかかったね」
 呉地はそう呟き、嘆息をつきながら背を伸ばした。
「このウイルスは、一人でもやられないと、対した意味をもたないからな。ここのセキュリティがあまりにアホでちょっと焦ったよ」
「手ごわいんじゃ、なかったのか?」と、夏久が呟く。
「手ごわいのは、あっちのプログラマーさんだよ。ここのセキュリティはおとりさ」
「ねえねえ、それより説明してくださいよ。これどうなってるんですか?」
 二人が喋ってる間に、私は好奇心丸出しで訊ねた。
 呉地が言う。
「このウイルスの根本的に言える技、能力は、簡単に言えば擬態なわけさ。
 順々に説明するよ? まず、識別番号の異なる数十体以上のウイルスを作り、それを放つ。相手側からすれば、ハッカー達のクーデターかなんかだと思うだろう。しかも、その会社が何かと恨みとか持たれてたりするなら効果抜群だ。あっさりこっちのノリに食いついて来て、全力を持ってウイルス退治をしようとするだろう。
 だけど、倒そうと思ってもこのウイルスはそう簡単にはいかない。このウイルスには自動書き換えを行う二重偽装のプロテクトがしてあるんだ。意味わかる? 簡単にいえば、弱点が常に変化して、凄く防御力が高いってこと。これを捕らえたり、倒したりするには主動プログラムでも持ってこないといけない。つまり人間様が出てこないといけないんだ。さっき、一匹だけバスターがウイルスを追いかけてたでしょ? あれは主動を受けたバスターなんだ。
 しかし、これはこっちの罠。一匹でもこっちの擬態ウイルスを退治でもすれば、たちまち中に保有してある増殖ワームウイルスが発生して、その瞬間あっちのシステムはボン! その隙に本体はメインに侵入……わかった?」
 呉地は私にも分かるように懇切丁寧に説明してくれた。
 当の私は、大量の情報吸収に、頭が痛くなりそうだった。
 しかし、なんとか私でも理解できた。
「ほとんど漫画ですね……」
「現代の技術のほとんどが、漫画化してるといってもいいよ」
 くすっと笑う呉地。
 これほどの事を成し遂げたあとでこの余裕の笑顔。
彼にとって、これは序の口なのだろうか?
 この人に対して、凄いという言葉だけでは片付けられない。あえていえば、
 もの凄い。
「さてさて、では遠慮なく進入しますかね」
 呉地がキーボードを叩くと、一匹のウイルスが突然、機敏に動き出した。たぶん、これが本体なのだろう。
さっきまで邪魔だったバスターはフリーズ状態で固まっており、本体は難なく横を通りすぎていた。
 しばらくすると、本体は階段の様なものを永遠と上りながら地図の六十階に位置する場所に来ていた。
左右の角を右へ曲がり、そして、ある部屋の前で止まる。
この場所に私はとても見覚えがあった。
ここは……社長室である。
 本体が社長室に入る。すると、突然何かを入力する画面が出てきた。
 呉地は何の躊躇いも見せず、そこに何かを入力していく。しばらくすると、画面にOKの文字が出た。
「あ! なんか出てきた」
 画面からOKの文字が消えると、地図の一階よりも下、さっきまで何もなかった空間に突然新しい場所が現れた。
 けっこう広い場所である。会社内の地図と比べて、だいたいその三分の一ぐらいの広さだ。
 しかし、こんな場所、私は知らない……。
「これは、いったい……」
「これが、君の所属していたユーロカンパニーの正体さ」呉地が言う。「この大きさからすると、これは研究ルームだね、たぶん。ここまでこそこそしながらすることと言ったら、法外な実験とかでしょ」
「実験って……?」
「それは聞かない方が、いいと思うよ」
 ――つまり、あまり良い事ではない、ということか。まあ、法外だからそうなんだろうな。
 私には理解できない世界である。
 ……刹那、
『警告! 外部からのプログラムハッキングです。アクセスナンバー不明。索敵無効。対処方法は皆無』
 突然、ビービーと警告音のような音共に、画面に妙なメッセージが現れた。
 それに合わせ、呉地が即座に対応にはいる。
呉地はガタガタとキーボードを叩いた。
『無効、許容範囲を超えています』
「あれ?」
 呉地は疑問の声を上げ、訝しげな表情で唸る。
 またガタガタとキーボードを叩く。
『無効。ナンバーが解読されません』
「……まずいな」
 そう呟いた呉地の額に、初めて冷や汗みたいなものが流れる。
「どうかしたんですか?」
「……ミスった」
 そう呉地が一言告げた瞬間、突如地図内で活動していた擬態ウイルス達が次々と「ムキュ〜」と奇声音とともに消滅いった。
あっというまに、ウイルスは本体のみとなった。
「おい、大丈夫なのか?」
 夏久が声を上げた。
「大丈夫、じゃないから―――」
呉地の顔色は苦渋の色に満ちている。
「大丈夫じゃないから……?」そんな呉地に、私は恐る恐る聞く。
「逃げる!」
 カチっと、呉地はキーボードの隅っこにある、付属のボタンを押した。すると画面に、
『モードをエスケープモードへ変更』
 という文字が出てきた。
その瞬間、本体ウイルスの体が突然ぶれだし、テレビのノイズみたいな歪みを全身に纏っていた。
歪みの中で本体ウイルスはだんだん薄くなっていた。
消えようとしているらしい。
だけど、その刹那、
『がしっ』
 といった感じに、突然地図のどこからか現れた『手』に、本体ウイルスは捕まってしまった。
「あ」「あっ」「え?」
 皆、一瞬のことに絶句の声を漏らしてしまった。
『抵抗はやめたまえ、ハッカー君』
『手』からなのか、コンピュータから若い男の声が聞こえてきた。
『いや、メサイアプレート4215、マスター伊豆野呉地と読んだ方がいいかな?』
「よしてくれ、照れるから」
 呉地は苦笑しながらそう答えた。
それに反応して、画面の声が笑った。
こちらの声が聞こえてるらしい。
呉地を見た。額にはひどい量の汗が流れていた。
 相手は……誰? 知り合いなのだろうか?
「……誰だ?こいつは」
 かなり小さい声で、夏久が呉地に呟いた。
「古い知り合い……でもないか、ただの同僚かな」
『寂しい事言うな、元パートナーの私に対して』
『手』はくっくっくと笑った。
「そんなことより、その手どけてくれないかな。僕逃げたいんだけど」
 呉地はわざとらしく惚けたように言った。
『くっくっく、相変わらずだね君は。……嫌だといったら?』
「バイバイ」
 淡々とそう告げ終わると、呉地はまたカチっと、右端にある付属のボタンを押した。
『自爆モードに変更。メモリーブース発射後、爆発します』
 すると、本体ウイルスは、明滅し、画面全体を巻き添えにしながら爆発した。

「あいつ、誰なんだよ? 呉地」
 コンピュータの電源をOFFにしている呉地に、夏久は訊いた。
 あのあと、本体ウイルスは、ある程度の記憶だけを持ち帰って、残りのパーツはエネルギーに換え、敵のバスター『手』に向けて放った。映像で見た限りでは、破壊はできなかったが、一瞬の隙はつく事ができたらしく、なんとかここの場所も知られなかった。
幸いにコンピュータも破壊されずに終わった、らしい。
 とにかく、助かった。私はそれだけ納得した。
「古い同僚」
「そうじゃない。何者なんだって、訊いてるんだ」
 やや苛立ちを込めて言う夏久。
「…………」
 だが、呉地は黙したまま何も言わない。
「おい!」
「やめなよ、夏君」
 ここで私は話の間に割って入る。
 すると、夏久は睨んだ目を私に向けてくる。
私はその視線にびくっとちょっと怯んだ。
しかし、言葉は続ける。
「呉地さん、可哀想じゃない」
「可哀想? なに悠長な事言ってんだ!」
「そうじゃなくて。呉地さんの気持ちを察しなさいって言ってるの」
 私がそう言うと、夏久はちょっと考え、はっとする。
 どうやら理解したようだ。
「君気づかなかったかもしれないけど、呉地さん、さっきの人と話してる時、口調は余裕を見せてたけど、体は凄い汗だった。見てて凄く辛そうだったよ」
 ――さっきの人に対する、嫌な思い出でもあるのだろう。
 私がそう言い聞かせると、夏久は戸惑うように、視線を泳がせていた。最後にはその場で俯いてしまった。
「―――気にしなくていいよなつ君」
 声がした方を見ると、呉地が微笑んで立っていた。
呉地は俯いたままの夏久に歩みより、そっと頭を撫でる。
夏久が顔を上げる。
「……ごめん、何も考えてなくて」
「いいって」
 そう言って、また夏久の頭を撫でる。
だがさすがに恥ずかしいのか、二回目は顔を赤くしながら拒否反応を見せた。
呉地はちょっと残念な顔をする。そして、視線を私に向けてきて、
「気を遣わせてしまったね。……ありがとう」
「あとで埋め合わせ、お願いします」
私は微笑まじりに、冗談発言をしてみた。
「今度、豪華なディナーでもご馳走するよ」
呉地も冗談っぽく、微笑んで言った。
 空気が柔らかくなり、私は内心ほっとした。
 だけど、次の呉地の一言で、私はさっきより酷い戦慄を覚えた。
「さっき話していた相手。彼は……僕が昔殺した男なんだ」



―――この話は……そうだね、およそ七年前に戻るよ。ちょうど、なつ君と出会う三年前だね。
 当時、僕は北海道にあるK市という処のある場所に住んでいた。
 詳しい場所は秘密ね。理由はだいたい分かるだろ?
 そこは、ここのアジトみたいに地下が存在しており、ここよりも遥かに大規模な施設だった。
……そうだね、普通の大学くらいの広さかな。
 僕はそこの研究者だった。これはなつ君にも前話したよね。
で、やってた仮題は主に医学関係と、機械の発明。
昔っから好きだったんだ、作る事。医学の方は専門なんだ。
 大体、そこで一年くらいは安定した生活を送ってたよ。けっこう楽しかった。そこに行くまでは普通の大学院生だったからね。
設備も整ってるし、雰囲気は地下の中とは思えない清涼感があって、綺麗だった。嫌でもやる気のでる場所だったよ。
 でも……それから半年後のこと。
 同僚の先輩から、「お前は優秀だから、そろそろサポートでもつけないか?」と言ってきたんだ。僕はその時は別にいらないと思って拒否ったんだ。
その頃の僕は一人で研究する方がなにかと集中できたし、好きだったんだ。
昔はかなり根暗な性格だったんだよ。これほんと。
でも、その人強引な先輩で、勝手に二人ばかり連れてきたんだ。しかも同年代の男と女。
その時ぷっつりきてね、僕はその先輩に対して怒りまくったよ。「馬鹿にしてるのか」って。
なんでだって? その時僕はカップル研究者を連れてきたんだと勘違いしてたんだ。根暗だった頃の、変な先入観ってやつ。だけど本人達に否定されて、恥ずかしい思いをした思い出があるよ。
で、その二人の名前。女の方が新居希(あらい のぞみ)。男の方が森羅浩平(しんら こうへい)。
そして、この森羅浩平っていうのが、さっきの男さ。
最初は赤の他人からスタートだったんだ。
二人は優秀だったよ。僕が言う問いに対して、すべて即答していた。凄く素直な性格だし、研究意欲も溢れていた。
いつも見えない物を追いかけてる様な性格なんだ。……夢を持っていたんだ。
その時の僕は持っていなかった。二人みたいな決定的な目的を。
……当時の僕は、失敗を恐れていて、いまいち行動力に欠けていたんだ。偽りの完璧だけを演じていたんだ。
夢が無いのは、たぶんそのせい。
だけど、彼らの直向きに夢を求める、その意欲を見た瞬間、初めて他人を羨ましいと思ったんだ。
こんなふうになりたい! って心底から思ったんだ。
そして、そう思った次の日、僕は自分を変えた。
変えようと決めたと言った方がいいかな。気が狂ったみたいに、未知のものを追いかけていた。当の二人は「どうかしたんですか?」と、心配してきたよ。
――で、その時僕はこう言ってやった。
"君達に教えられたよ。これからのこと、自分自身のことを"
……まあ、これは半分御礼みたいなものだったんだけど。本人らは理解していなかったけどね。
まあ、今では自分でも考えられない、情けない話さ。

事件の始まりは、二人が来てから半年ちょっとの頃だ。
突然、告白されたんだ。希に……。
 動揺したよ。なにせ、僕は彼女の事を『女』と見ていなかったからね。
一研究者のサポーターという目でしか見ていなかったんだ。
 だから、僕は返事をしなかった。
 だけど、やはり意識はするようになっていたよ。たまに手と手が触れ合っただけで、顔を真っ赤にしていた。
ほとんどガキの反応だよ。ま、それだけ昔の僕は初だったわけ。
幸いな事にこんな態度をとる僕に対し、彼女は笑って接してくれたよ。
 僕には勿体ないほどの、とてもいい子だった。
 しばらくして、僕からもう一度告白したんだ。彼女はOKしてくれた。
 その次の日、デートをしたんだ。デートといっても、研究所内にあるリフレッシュルームの公園の散歩しながらの談笑だけだけど……楽しかったよ。
 僕は幸せの絶頂にいた。
 だけど……だけど、森羅がこれを妬んだ。
 森羅は、希が好きだったらしい。僕は知らなかったけど、けっこう前から希に対してかなり必死なアプローチもしていたそうだ。
だけど、希は理由を言わず、ことごとくそれを断っていたらしい。そして、
「私、伊豆野先生の事が好きなの。彼から告白もされて、付き合ってるの。だから……森羅くんとは、もう……」
 そう、彼女は僕とデートした夜にはっきりと告げたらしい。
 そして、その日から森羅は姿を消したんだ。



 そして……。
 森羅が消えてから一ヶ月ほど立ったとき……。
悪意が唐突に訪れた。

 その日、僕と希はいつもどおり研究に励んでいた。
 その頃には、僕と希は深い関係まで成長していた。
 体験もすませ、近いうちに結婚する話まで上がっていた。
 そんな幸せな空間に、
「プシュー」
 突然、研究室の自動ドアがノック信号なしで開いたんだ。
「あれ?」
 僕は訝しく思い、ドアの方へふと目を向けた。
 すると、そこには、無表情で突っ立てる、森羅がいた。
その光景はまさに異様だった。
真っ白の服の上から点々と塗りたぐ手繰ったようについた赤い色。しかも、右手には黒々しい拳銃みたいなものを握り締めて……。
「プシュン!」
 僕が驚きの声をあげる前に、それは一発発砲していた。
見たいなものでなく、本物だった。
弾は僕の顔の横をすり抜け、僕の後ろを通りすぎた。
僕は慌てて振り返る。その時目に映ったものに、僕は絶句した。
弾の命中で吹っ飛ぶ希の姿が、映ったのだ。
 希は衝撃の反動によって、体をくの字曲げて吹っ飛んでいた。研究室のデスクに体を激しくぶつけてやっと止まる。
そして、弾痕から夥しいほどの出血。
 動かない……完全に絶命していた。
「!!!」
 僕は絶叫した。とっさに森羅の方へ振り向く。すると、また弾丸が顔の横をすぎた。
 戦慄が走る。
――さっき顔を動かしていなければ、自分も希のように……。
 僕は森羅を睨んだ。森羅は無表情のまま、マガジンを入れ替えて、スロットを引き、初弾を装填していた。
 それを見て、僕はとっさに体当たりを仕掛けた。森羅の体に、がっちりそれは食い込んだ。僕と森羅は、ゴロゴロと床を転がった。
 ゴロゴロと転がっていくと、壁が近づいてきた。
「ゴツン!」
運がよかったのか、タイミングよく壁にぶつかったのは森羅の頭だった。
 うっと初めて呻き声を上げる森羅。頭の衝撃により、右手に握られた拳銃がぽろっと落ちる。
僕は千載一遇のチャンスと思い、森羅の腕を足で踏みつけながら、拳銃を奪い取った。
 戦況がいっきに有利になった。
 銃口を森羅の顔に向ける。それでも森羅は未だ無表情だ。
「動くな。動くと撃つぞ」
 定番の台詞を吐きながら森羅を脅す。
「なんでこんな事をした。答えろ!」
「…………」
「なんとか言えよ!」
 口調を荒くしながら、僕は銃口をさらに深く突きつけた。
 すると、次の瞬間森羅が思わぬ行動に出た。僕の脚で固定した左腕を無理やり抜き出し、銃口を自分から逸らしたのだ。
僕はとっさに一発銃弾を発射してしまうが、それは床を穿っただけで終わる。
 僕は反射的に拳銃を自分側に引いた。これが幸いして、森羅の拳銃落としのための前蹴りをうまく逃れた。
しかし、これにより森羅はまた自由になった。
 僕は急いで弾の再装填を行い、ハンマーを押した。だがふと森羅の方を見ると、森羅は懐から新な銃を抜き出している最中だった。
 ――まだ銃を隠しもってたのか!?
僕は素早く拳銃を構えた。あちらも、無駄の無い動きで構えようとしている。だが、こ
ちらの方が早い。
 ドクン……。
 唐突に、自分の周りにスローモーションが訪れる。引き金を引こうとする自分。急いで構えようとする森羅。
 これだけを行う時間が、スローモーションの中で、永遠に感じられた。
 だが……。
「プシュン!」
 感覚が戻る。こちらの銃弾が先に発射され、森羅のど真ん中に命中。
森羅はすでに撃つ寸前だったのか、その衝撃で仰け反りながら、天井に発砲していた。森羅の予備銃の方にはサイレンサーがついていなかったらしく、轟音が響きわたる。
 ドタリと森羅は倒れる。その中心から赤い水面が生まれる。
 即死。 
 初めて、人を殺してしまった。
「はあ……が、はあ……」
 僕は緊張により、息を止めていたので、いっきに吸い込んだ。
 僕は拳銃を両手握ったまま、へなへなと崩れるように床に座り込む。喉がとても渇いた。もう一歩も動けない状況だった。
 しばらくして、銃声を嗅ぎ付けて来た他の研究員がやってきた。研究員達は最初、いきなり電気銃を一斉に僕に向けてきた。
僕は奮闘していたから知らなかったが、この部屋を出れば死体の山が転がっていたらしい。研究員達がピリピリしてる理由が分かって、僕はちょっと冷静になれた。
「その男が犯人だ。もう絶命しているが……。服についた血液を調べれば、犯人だという事が分かるはずだ」
 あとは……と続けながら、ふと希の死体を見た。僕は無残な姿に目を細めながら、
「それと、彼女を綺麗にしてあげてくれ。明日中には、葬式をあげてやってくれ……」
 そう告げたあと、僕は気絶にするように眠りについた。
 こうして、事件は終わった。

 あれから色々調べた所、殺人犯はやっぱり行方不明になっていたあの森羅だったよ。
 薬物を打った痕跡もなかったそうだ。注射の跡は一つあったけど……。しかし、これだけじゃ、どういう理由で暴走したのか、まず証拠とかにはならない。
 結局は未曾有の事件として、適当に処理されることになった。
 そして、僕は事件後にこの研究所をあとにしたんだ、内密でね。
 さすがに、研究なんか出来る場所じゃなくなったからね……。
……とまあ、こんな感じで。
 説明終わり。

四章 ビギナーズ・ミッション

 シーンと部屋内を静寂が包んだ。
 呉地は話を終えると、俯いてため息を一つ吐いた。
「……やっぱり、ブルーなっちゃうんだねぇ、みんな」
「当たり前だ。こんな話のあとに大笑いで繋げるのは、みなぎ漲ぐらいなもんだ」
 夏久が毒づいた。
「だから話たくなかったんだよ」
 はあ〜、と再度ため息を吐く呉地。
「……その話で出てくる人、本当にさっき話してた人なんですか?」
 顎に手を当てながら、私は呉地に訊いた。
 さすがに、死人が生き返って今日突然現れた、っていうは信じがたい話である。常識的に死人が生き返るなんて有り得ないし、有るとしたら大問題である。
 呉地が言う。
「あくまで声だけしか聞いてないし、それが似てた、だけしか言えないけど。……なんていうのかな、直感みたいなもので彼は彼だ……そういう感じがさっき話している時したんだ」
「曖昧ですね。でも仕方ないか……」
「実際この目で見ないと、こうとしか言いようがないよ」
 呉地は苦笑した。私は頷いて納得した。
「……呉地」
 突然、夏久が一歩前に進んで呉地を呼んだ。
呉地は「ん?」と夏久に顔を向けた。
「明日……いや正確には明後日の深夜、行っていいか?」
「行くって……どこに?」
 そう呉地は聞き返した。すると、夏久は突然私に向けて指を指してきた。
私は思わず「え?」と声を上げた。
「こいつの会社」



 ここに来て、二日目の朝……。
 今日も昨日と同じ仕事をこなす。
 朝は多めの朝食を作り、掃除をして(昨日比べて、クリコアが言う事を理解するようになったからだいぶ楽だった。ゴミも少ないし)、昼にはさらに多めの昼食、そのあとは休憩。暇だったので、呉地と談笑。そして夜はまた多めの夕食……。
 そして深夜……。
 
 夜の十二時……。
 私の部屋のドアからノック音が鳴り、呉地にリビングに来るように言われた。私はちょうど、お風呂に入るろうと思ってた時だったので、ちょっと遅くなりますと告げた。呉地は納得してドアから離れていった。
 リビングに来ると呉地が待っており、その隣で夏久が拳銃をばらして、なにか点検みたいな事をしていた。
 私が近づくと、
「はい、これ」
 突然、また呉地からペラペラした何かを無理やり渡された。
 私はそれを訝しく思いながら、とりあえず広げてみた。
それは、また服だった。
 上と下が一体になった黒いスクール水着みたいな物に、上半身の方だけレザージャケットみたいな服が被さってる。ジャケットにはたくさんのポケットがあり、材質がいいのか、とても軽い、水着の方も同様だ。
 しかし、これが何なのかと聞かれれば、
「何ですかこれ?」
 さっぱりわからない……。
「なつ君からのプレゼント♪」
呉地がニヤニヤしながら言った。
「違うぞ」
すぐに夏久の否定の声。
「……で、これなに?」
 話の路線が外れようとしていたので、私は再度尋ねた。
「戦闘服だそうだ」夏久が言った。
「せんとうふくぅ?」
 私が疑問詞は入りまくりの声を出すと、呉地がオホンと咳払いをする。
「戦闘服はちょっと違うな、専門服の方がいいな。僕的に。
 美夏ちゃん、これはつまり泥棒用の制服さ。全体は特殊な軽い材質で統合されてあって、動きやすさをとにかく追及してある。スーツとジャケットとは一体になっていて、ジャケットの方は、耐水、耐熱に優れている。耐水だけなら下のスーツも一緒。どう、わかった?」
「それは分かったんですが、どうしてこれを私に?」
「……お前も、今日連れて行くからだ」
 夏久が低い声でそう言った。
いつのまにか、ばらされた拳銃は元に戻っていた。点検が終わったらしい。
夏久は体を私の方に向ける。
「連れて行くって……もしかして会社?」
「そうだ」
「なんで私が?」
「ナビゲート役のためだ。俺はあの会社の下調べはまだしていない。それにずいぶんでかいビルだ。道案内がいないと、余計な時間を食ってしまうし、迷う可能性がある。だからお前も連れて行く」
「地図見ればいいじゃない」
「ここにその地図はない。昨日のハッキング時の画像も自爆と共に消滅してしまったらしい」
 私は呉地を見る。苦笑しながら、肯定だという合図を送る呉地。
「はあ〜、そうなんだ。……でも危ないんじゃないの?」
 私がそう言うと、夏久が手に持った拳銃に私に向けて投げた。私は慌ててそれを掴んだ。
「それをやる。P226だ。初めてのお前でもギリギリ使えるだろう。それとお前の空手で身を守っとけ」
 私は手に持った銃をまじまじと眺めた。
本物を近くで見るのは初めてある。マガジンは抜いてあるのにずっしりと重い。
「ま、まずそんなもん使う状況にはならんと思うがな」
 手を仰ぎながら言う夏久。
 なんだか適当である。
「とにかく、お前も早く準備しろ。30分後には出発するんだからな」
「……わかったわよ」
 私はしぶしぶ頷いて、呉地の制服片手に部屋に戻った。

「うーん、なんかどことなくエッチだね〜なつ君」
「……俺に聞くな」
 制服(もしくは戦闘服でもいい)に着替えた私を見て、呉地がしげしげと見つめてくる。夏久は少し顔を朱にして横を向いていた。
 制服のサイズはピッタリだった。それにとても体に馴染んでいて、着衣時の違和感とかが、意外となかった。
確かに、これは動きやすい。まさに泥棒用制服である。
 夏久に渡された拳銃をジャケットの懐に収める。
「準備できたよ」
「あ、ああ。じゃあ行こうか」曖昧に返事する夏久。
「僕が近くまで連れて行くよ」そう言って、車のキーを見せびらかす呉地。
 私は「はい!」と返事をして、頷いた。
私はなにげにちょっとワクワクもしていた。
それが、かなり舐めた考えだと、知らなかったから……。
私は深呼吸した。
――ビギナーズミッション初潜入、開始である。



 よく考えてみれば、この格好で二月の外はかなり寒いのでは? と今頃気づく私。
 しかし、この水着みたいなスーツとジャケットと、かなり保温効果があるようで、全然寒くない。足の方がちょっと寒めだったが、上が大丈夫だから震えるほどではなかった。
 ――すごいな、どうやってこんなもの手に入れてるのだろうか? あのメイド服もそうだが、それ専門の店とかあるのだろうか?
 と、そんな事を不思議に思っていた。
その瞬間、車はブレーキ音と共に止まる。
 車が止まった場所は、駅からちょっと離れたところだ。ここからなら会社まで5分も掛からないだろう。
 私と夏久は、車から降りた。降りるさいに、呉地から「ああっと、忘れ物」と言われ戻ると、夏久がつけているインカムを手渡された。
「傍受防止のために、かなり音声悪くなってるけど、いちおうここのボタンを押して話すと連絡が取り合える。それでも、あまり多用は禁物だ。相手はもしかしたら森羅だからね」
「分かりました」
「じゃ、僕はこの辺で待ってるから」
 そう言って手を振る呉地。
「おーい、早くこいよ」
 夏久の呼ぶ声がする。見ると、夏久はすでに二十mほど離れた所にいた。
 私は呉地に手を振り返して、急いで夏久の元まで走った。

 会社の目の前まで辿り着いた。
 ユーロカンパニー……。いつ見ても大きいビルである。直径50mで、高さは62階建てというのは伊達ではない。
未だに思うが、どうして私はこんな所の秘書になれたのだろう。
 おい、と夏久が呼んだ。私ははっとする。
「ぼーっとしてるんじゃない。ここでは気を抜くな」
「ご、ごめん」
 まあ、いい……。呟く夏久。
「……まず、どこから入ればいいか? 正面はすでに鍵が掛かってる。掛かってなくてもそんな所からは入らないが。とりあえず行けるルートを教えろ」
「えーと、入り口は東西南北に非常口が一個ずつ設けられてたはず。でも、鍵掛かってると思うよ」
「大丈夫だ。それは俺が開けるから」
「あ、そう。――ところで目的地はどこなの?」
「社長室だ」
「じゃあ、北側の非常口からがいいかな。そっちからが近いはず」
「よし。じゃあ行くか」
「うん」
 夏久を先頭にして、私は走る。

 非常口の前に来た。
 がちゃがちゃと、ものの二十秒ほどで、夏久は非常口の鍵を開けた。
私は感慨の吐息を吐いた。
――手馴れたものである。
夏久はそーっとドアを開けながら、中を確認した。しばらくして、左腕で入っていい、という合図を促してきた。
私は気分に乗じて、忍び足みたいな動きで音を立てずにドアの中に入った。
だけど、いちおう入る時に「失礼しま〜す……」と言った。
 中に入ると、暗闇で、ほとんど何も見えないかった。
「暗視ゴーグルをつけとけ。なるべくレベルは最低に、警備員のライトとか照らされでもしたらやばいからな」
 私は夏久の支持に素直に応じた。暗視ゴーグルをつけて、最低レベルでも足元が見えるぐらいにはなった。これならまともに歩ける。
 私と夏久は、まず中央フロアを目指す事にした。そこに行けば、社長室へ続くエレベーターがある。このエレベーターは警備員も利用してるから、乗るところを見られなければ、まずばれない。
「ところで、社長室に何しに行くの?」
 歩きながら、なるべく小さな小声で私は尋ねた。
「そこにあの隠れ地下に行くための何かがあるらしい。ハッキングの時に地図画像で見ただろ。社長室を経由して繋がった地下への道」
 私は脳裏の記憶を探る。そういえば映像見た気がする。
たしか、一本のトンネルのような道と、あの地下部屋は繋がっていた。
 なるほど、と私は納得した。

 中央フロアに来たが、今日始めての邪魔がいた。
 警備員の一人が、エレベーターのドアを背もたれにして、休んでいたのだ。勤務中なのに、たばこに火までつけている。ずいぶんと不謹慎な警備員だ。
「どうするのよ、あれ」
 夏久に訊くと、すでに夏久は銃を構えていた。
本物の方ではない、おもちゃの方だ。
「それ使うの? でもあれやると苦しんで絶叫しちゃうんじゃ……」
「それは突発的に出した命令の場合だろ。――お前、もしかして俺の能力の事聞いてないのか?」
「あ、そういえば……。頭の中に変な装置があるって事しか聞いてない。その装置で使ってるんだよね、あの変な技」
「変な技って……。まあいいや、知らないなら教えておいた方がいいだろう」
 夏久は一つ深呼吸した。
「俺の能力は、簡単に言えば同調だ。他人の体に直接でも間接でもいい、とにかく触れる。触れたあとに俺自身がある意思を送れば、相手との同調の成功だ」
「よくわからないんだけど……」
「つまりは、相手の心と自分の心を繋げてしまうんだ。
 そして、繋げてしまったあとは煮るなり焼くなりできる。人の心、まあ心理学的に言えば内層心理なんだが、基本的に人の精神の中ってのは、内柔外剛だ。だから、同調時に相手に対してちょっと悪口とか言えば、相手はものすごい恐怖に震えたりや、ぶち切れて暴れたりするんだ」
「へえぇ〜……」
 説明を受けてみると、凄い能力という事が前より強く理解できた。
「で、この同調したあとやる『命令』。これは組み合わせとか、巧みな話術とかで、相手をうまく操る事が可能なんだ。いわゆる催眠術というやつだ」
「なるほど。その催眠術を今からやるわけだ」
「そういうこと。まあ見てろ」
 にやっと笑みを浮かべながら、夏久はおもちゃ銃を発射した。



 ふぅっとため息を一つ吐きながら、俺はとぼとぼとフロア内を歩いていた。
 しばらくやるせない気持ちで歩いていると、目の前に壁が見えてきた。
俺は歩くのをやめて、よっこらっしょとじじ臭い掛け声と共に体を壁に預けた。
 ――疲れた……たく、やってらんねぇぜ。
 俺は内心で毒づいた。
今日はまったく仕事をする気になれない。まじめにやるのがばかばかしかった。
 今日の事を考えた。そうすると、またイライラが頭に広がる。誰かを殴りたい気分になってきた。
 俺はイライラを抑えるために、懐に収めてある煙草を取り出した。火をつけて一服。ちょっと気分が落ち着いてきた。
 チク……。
 何かが体に刺さる感触がした。だが、煙草のすーっとくる感覚の余韻に浸ってる俺は、あまり気に咎めず、シカトした。
 ――やっぱ、イラついてる時はこいつだよな。
 とその時、
「……岩田さん」
 突然、聞き覚えのある女性の声で俺の名前を呼ぶ声がした。俺は思わずびっくりしてしまい、口に銜えていた煙草を落としてしまった。
 慌てて声がした方を見る。
するとそこには、俺の彼女の真美が立っていた。
 俺は動揺しまくった。
――なぜこんな所に真美ちゃんが……。
 っていうか、どうやって入ってきたんだ!
「あの……岩田さん、今日はその……怒ったりしてごめんなさい」
「え?」
 俺は動揺してたせいか、一瞬なんの事を言ってるのかわからなかった。
 だが、しばらく考えてはっとする。
そうだった、今日は彼女とデートする約束をしてて、俺が先に待ち合わせで待ってると彼女から「ちょっと遅れます」という電話が入ったので、暇つぶしに近くにいた人待ちの女の子と談笑していたら、遅くやってきた彼女に不倫か浮気と勘違いされて、怒った彼女は軽い罵倒と強烈なビンタを俺にかまして帰ってしまったのだ。
 思えば、今日イラついてたのは、それが原因である。
「あ、ああ。謝ることないって、俺が知らない女の子と話てたのがいけないんだから」
「……ありがとう、やっぱり優しいね、岩田さんは」
 ニコっと微笑む真美。
 俺は思わずドキっとしてしまう。
 真美は微笑みながら俺に近づいてきて、あろうことか俺の背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめてきたのだ。
「……大好き」
「!!!」
 俺は心の中で、言葉にならない奇声を叫んでいた。
 ――ま、まさか! 真美ちゃんがこんなだ、大胆だったなんて……!
 ここまで行動を見せられたら、男としては黙っていられない。俺はゆっくりと、やや手を震わせながら、真美の体に抱擁した。
 抱きしめてあげると、真美はあっと呻いた。初めて抱く真美の体は凄く柔らかく、ほとんどなにもない様な感じだった。
「岩田さん……」真美のうっとりとした声。
「真美ちゃん……」すでに気分全快の俺。
 そして、この時俺は、彼女がどこから入ってきたのか? という疑問は完全に消えていた。

「……あれ、なにやってんの?」
 エレベーターのスイッチを押しながら、私はぼやいた。
 夏久の『命令』によって、警備員は何かの催眠術にかかった。が、その行動がまったく理解できない。突然独り言を言い出したかと思ったら、両手をわっか状にしながら顔をニヤニヤさせているのだ。
「あいつの中の願望を幻惑として再現させた。……何の幻惑を見てるかは、言いたくない」
 夏久はため息をつく。
「それだけ聞いて、なんとなく分かったよ」
 私はなるほどね、と頷く。
 ちょうどその時、エレベーターが到着する。だがすぐには乗り込まず、夏久がエレベーター内に何かを投げ込んだ。
夏久の説明によると、エレベーターにあるカメラをいかれさせる爆弾らしい。
「よし、いいぞ」
夏久の合図に、私は頷く。後ろの方で警備員が「真美ちゃ〜ん」と変な声を出している。私と夏久はそれをシカトして、エレベーターに乗り込んだ。
「社長室は何階だ?」
「六十よ。屋上から二階したにあるの」
 私の言った事に頷いて、夏久はボタンを押す。
エレベーターは上へと昇った。

 六十階に辿り着いた。
 エレベーターの扉が開くと、目の前に警備員がいた。
私はびっくりしてその場で戸惑った。
警備員も確める様に目を瞬かせ、戸惑っていた。
 だが、夏久だけは違った。
 いっきに駆け出して跳び、相手の顎に膝蹴りをかました。攻撃はそれだけでは終わらず、夏久は初撃で後ろに倒れようとする警備員の頭を左手で掴み、そのまま自分側に引いた。床に右手をついて衝撃を減らしながら胡坐の姿勢で着地。着地時に自分側に引き戻していた警備員の頭を胡坐の膝角のあたりに勢いよく落とした。
 二連の脳に来る攻撃に、警備員は声も出さず気絶した。
 物音をほとんど立てない、精錬された動きと技である。
私はその光景を見て、感慨の吐息を漏らした。
「なにそれ? なんかの古武術?」
「まあ、そんな所だ」
 ふう、と貯めた空気を吐き出し、答える夏久。
 私はふ〜ん、と相槌を打つ。
「どうやら気づかれなかったみたいだな。……社長室はどっちだ?」
「ここからずっと右に歩いていけば到着よ」
 気絶した警備員を、とりあえずエレベーターの中に隠す。
ここはエレベーターが多いから、そう簡単には見つからないだろう。
「よし、いくか」
 私は頷き、応じた。

 他の扉と比べて、必要以上に威厳をかもち出している社長室のドア。
しかし、鍵は一般のやつと大して変わらないらしい。夏久は手早く開けて、隙間からカメラ破壊爆弾を投げ込む。数十秒ほど待って、素早く部屋内に入り込み、ドアを閉めた。
 社長室内は、真っ暗な事以外、いつもと変わらない雰囲気だった。
扉から見て、左側に全面の窓ガラスがあって、そこから都会の景色が一望できる。右側には書類や、よく分からない重要物が保管されている。奥の中央にはでかい社長用のデスクがり、その後ろにユーロカンパニーのロゴマークがある。
 沈黙。
「……ふう〜、やっとついたね」
私はペタンとその場で座り込む。
 ここまで来るのに、数分ほどの短時間であったが、まるで何時間か働かされたみたいに、酷く疲れた。
「まだ終わってないぞ。これから本番だからな」
 夏久はまったく疲れた様子を見せず、次の作業に入ろうとしていた。
――一番動いていたのに……。さすがはプロである。
「俺は書類棚あたりを調べるから、お前はデスク付近を調べろ。変なものを見つけたら教えろ。騒がずにな」
「はいはい、まったく人使い荒いんだから」私は腰を上げ、立ち上がりながら「だいたい、今思い出したけど、私って捕らえられてるんじゃなかったっけ? それがなんで、なんでこうこき使われてるのかな?」
 業とらしく、夏久によく聞こえるように言ってみた。
 夏久はシカトしてるのか、何も言ってこないで黙々と作業を続けていた。
面白くない反応に、私はちょっとむっときたが、仕方がないので言われた事をすることにした。
刹那、
「……じゃあ、ここで一つお願いしとくか」
 私は夏久の呟きに顔を上げる。夏久は作業の手を止めて、私の方を見ていた。
「俺に協力してくれ。たのむ」
 冗談とかボケとかではなく、至極真面目な顔で言う夏久。
 私は言葉を失い、唖然としてしまった。
「……あ……うん、わかった……」
 思わず、曖昧な返事が漏れた。
 夏久はその返事を肯定と取ったのか、すぐさま何もなかったかのように、作業に戻った。
(び、びっくりした〜〜〜)
 私は、まるで告白でもされたみたいに、頭がふわふわした気分になっていた。でもしばらくして我を取り戻し、夏久同様、捜索活動に戻る。
 とりあえず、机を調べることにした。
 机には右側に引き出しが3っつ、上から下へ順々に並んでいる。左側には、大きな引き出しが一つ設けてある。
 私は右側からまず調べる事にした。上から順に開けていく。
一番上は……ペン入れ、葉巻、鏡と何もめぼしいものはない。真ん中は……紙がいっぱい、主に書類のようだ、これもはずれみたい。
そして一番下は……こっちも紙しかない……、
「ん?」
私は一つだけ色違いの書類封筒を発見した。
なんとなく気になってしまい、それを手に取る。
何か入ってる……。中身を出してみると、中には写真入れが入っていた。
私は「あのデブの写真かな?」と思いながら、ページを開いた。
 それを見た瞬間、体が石か氷のように固まるような衝撃を受けた。
「な! なによこれ……」
 私は最初のな≠セけを最大音量でいって驚きの声をあげた。
 写真入れの中……そこには、私が躓いてこけた時に見えたパンチラ写真や、私が思わずうたた寝している時の寝顔やら、とにかく人前では絶対見せられないような私のプライベートが無数に収められてあったのだ。
 夏久が「どうした?」と言いながら近づいてきた。
 私は反射的に素早くその写真を閉じて、懐に収めた。
 夏久が睨む。
「……今何隠したんだ?」
「なんでもないよ。気にしないで作業に戻りなよ」
 私は、ははっははと誤魔化し笑いをした。
「……あんまり騒ぐなよ」
 すごく気になってる様な表情だったが、夏久は舌打ちを残して作業に戻ろうとしていた。
 だが、その刹那――。
「! 伏せろ!」
 夏久は突然叫んで、私に向かって飛び掛ってきた。私は反応もできず、そのまま夏久といっしょに床倒れようとしていた。
 その時、この部屋の扉の向こうから銃声がなった。バンバンと二発扉越しに発射された。その内の一発が私の真上を通過して、横壁を穿った。
 夏久が庇ってなかったら、私は重傷を負っていただろう。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
 覇気のない返事をする。夏久の手を掴みながら、私は立ち上がった。
 夏久は私を庇う様に立ち、扉を睨む。
 しばらくすると、扉がバン! と勢いよく開き、そこから数人の黒スーツと黒サングラスを身に付けたでっかい人達と、その中央で真っ白なスーツを着た若い男が現れた。
 黒スーツ達が、こちらに対し、一斉に拳銃を向けてくる。だが、中央の若い男が手を上げると、黒スーツ達は拳銃を一斉に下ろした。
 ――この男が一番偉い、という事か。
 私は若い男を見た。新調の白スーツに身を包んでいる。頭はオールバックで、顔立ちは端整である。まさに美形のかっこいい男を想像したら、こんな感じだろう。
 だが、その表情には不気味な影があった。
 まるで、生気がないみたいである。
 私は幽霊でも見ているかの様な、感覚に囚われた。
 若い男は、上げた手を下げると、唐突に一歩前に進んだ。
前に立つ夏久ぐっと身構えた。
「こんばんは、ちっちゃな泥棒さんに……可愛いお嬢さん」
 交互に見ながら、私たちをそう呼ぶ若い男。その口調は異様なほど柔らかかった。
「お前、誰だ?」
 低い声言う夏久。
「おや、聞いていませんか? 私の事―――」
「誰だって聞いてんだ! 答えろ!」
 怒号する夏久。
これはたぶん、立場を弱くさせないための、策略なのだろう。あくまで強気発言をしていれば、相手も迂闊に手は出せない。そう踏んだのだろう。
 効果があったのか、黒スーツの男たちが、ちょっと唸り声を上げた。
 だが、若い男だけはにやりと微笑んでいた。
「……かっこいいな。見た目とは対照的な器の持ち主のようだ。……呉地もいい仲間を手に入れたみたいだな」
「…………」
 呉地、という言葉を耳にして、私は内心動揺した。夏久は睨んだまま反応を見せない。
「自己紹介が遅れたな。私は君達の知る伊豆野呉地という男の元知り合いで、元の同級生の―――」
 私はこの時、この場から逃げ出したくて逃げ出したくて堪らなかった。
「森羅、浩平というものだ」



 雲で隠れていた月が、空からすーっと現れる。
 綺麗な満月だった。月明かりで、周囲の建物がぼーっと光る。
 美しい夜である。こんな夜は、誰かと一緒に散歩でもしたくなる。
 希……。
 車の中、僕はそんな事を内心でぼやいた。
 不安……なのかも知れない。もしかしたら、彼らは帰ってこないのかもしれないと、もの凄く不安なのかもしれない。
 連絡、まだ一回も入っていないし。
「……大丈夫かな……」
 見守るしかない自分が、酷くもどかしかった。



 ぶす、と何かが足に刺さった。
見ると、夏久が右腕を後ろ手にして、手にもった銃を私に向けていた。角度を微妙にずらし、相手側に見えないようにしている。
 "おい、聞こえるか"
 頭の中から、夏久の声が聞こえてきた。
「そういえば、君達はいったい何しにこんな所にいるのかな?」
「泥棒に何聞いてんだ? モノを盗みにきたに決まってるだろう」
「ふっ、そうだったね。あまり泥棒っぽくないので、実は違うんじゃないかと思ったんだ。謝るよ」
「挑発してるのか? あんまり人舐めてると、足元すくわれるぜ」
 "聞こえてるなら、意思だけを送って話せ"
 夏久は、森羅ともちゃんと会話しながら、私に指示を送ってきていた。
 しかし、意思を送るって、どうすればいいんだろう?
 "どうすればいいんだろうって、聞こえてるぞ。ちゃんとそっちも聞こえてるみたいだな"
 どうやら通じたらしい。なるほど、内心での考えで話すんだな。
「……一つ聞きたいんだが、あんたはどうやって俺たちがここにいると分かったんだ?」
 森羅は言う。
「このビルには監視カメラ以外に体温センサーもあってね、ちょうど不審な動きをしている二人が、ここに入るのを確認して分かったんだ。簡単だろ?」
「なるほどね」
 "今から、逃げるぞ"
 "どうやって?"
「あんたがさっき言ったとおり、俺は呉地からあんたの話を聞いている。しかし、ここに矛盾がある。その話の中ではあんたは死んだ事になっているんだが?」
「ああ……。違うよ、あれは私じゃない、あれは私に似た偽者だ」
 はっはは、と笑う森羅。
「偽者?」
 "窓から飛び降りる。お前は俺が合図したら、全速力で窓まで走れ"
 "なに言ってるの! ここ何階だと思ってるのよ"
「偽者って、どういうことだ?」
 "六十階だ。大丈夫だ、俺に考えがある"
「つまりはクローンさ。あれは、元々は実験用のサンプルだったんだが、頭の回路がいかれてたせいか、あんな殺人劇を起こしてしまった。計算外だったんだよ、あれは」
 "そんなの、信用できないよ……"
「お前らは、計算外の一言で、連続殺害を水に流すつもりなのか……」
 "ここで戸惑ってても死ぬだけだ。それよりも一握りの可能性にかけてみろ"
「悪い事をした……とは思ってるよ。だけど、それだけだ」
 "そんな……他に方法はないの?"
 "これが一番安全だ"
「……最悪だな。――あんた、いったい何者なんだ」
 "もう時間(しつもん)がない。覚悟を決めろ"
「ただの人間さ。ただちょっとだけ、強者なだけの。――そうだ、たまには私から質問していいか?」
「……なんだ?」
 "いいか迷うな。いざという時に迷いをみせればそこで終わる。絶対迷うな"
 "そ、そんな、むちゃくちゃ言わないで。こんなの勝手すぎる、勝手すぎるよ!"
「さっきから気になっていたんだ。……二人で、何話てるのかな〜って」
「! くっ」
 "……タイムオーバーだ"
 ――刹那、
「美夏走れ!!」
 夏久は私の名前を叫びながら、素早く懐から何かを取り出して、それを床に叩きつけた。すると、何かは爆発的に煙を発生させた。
 私はその煙の中、窓に向かって無我夢中で走った。

 さっきまでただ話し合っていた空間が、突如銃声が木霊する騒がしい場所に一変していた。
 黒スーツたちは、煙幕の中をがむしゃらに掃射していた。
 私は怖くて堪らず、半分目を瞑りながら、必死に窓めがけて走る。
 その時、後ろから銃声が四発鳴った。私はひっと悲鳴を上げる。
だがその銃弾は私には当たらず、私の前方にある全面窓ガラスに全て命中していた。
 ふと横を見ると、夏久がいた。私と並んで走りながら、口元がにやりと笑った。
私はその笑顔を見て、不安が一気に消し飛んだ感じがした。
 窓はもう目の前だった。夏久が加速して前に出ようとする。銃弾でもろくなったガラスを、体当たりで壊すのだろう。
 だがその時、
「ビシャ……!」
「ぐぁ!」
 夏久が悲鳴を上げ、突然バランスを崩した。私が反射的に振り返って見ると、左足首のあたりを銃弾が貫通していた。
 夏久の体がぐらっと傾く。
 だが夏久は諦めなかった。体当たりを止めて、倒れながら右手に持った拳銃で、窓ガラスを殴ったのだ。
バリン! と脆くなったガラスは割れた。
しかし、夏久は右腕をガラスで切りまくった。右腕から血がだらりと流れる。
「そのまま跳べ!」
 夏久が叫ぶ。
 私は意をけして跳んだ。夏久は一度受身を取りながら倒れ、そこから前転を決めたのち、私と同じタイミングで窓の外へ跳んだ。
 窓の外に出た瞬間、もの凄い風圧と浮遊感が襲った。
「きゃあぁ――――――――――――――――――!!」
 私はあまりの怖さに絶叫した。高さ六十階からのバンジである。一般人が体験できるようなレベルではない。
半端ではなかった。
 落下しながら、突然誰かの手が腰に回ってきた。
周囲を見渡すと、夏久が隣にいた。右手には血交じりの拳銃を握っていた。
「ねぇ、この状況からどうやって助かるっていうのよ!」
「黙ってろ! タイミングがずれるだろうが!」
「そんな事より早くパラシュートかなんか出さないと死んじゃうじゃない!」
「パラシュートなんてあるわけないだろ!」
 私はこの夏久の一言で、顔が青ざめるのを理解した。
「え? え〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 ――私はてっきり、どこからともなくパラシュートかハングライダーセットが飛び出してきて「とっつあ〜ん、あばよ」とか誰かさんの台詞を吐いてめでたしめでたし、を想像していたのだが……。
 それは儚い理想だった。
「じゃあ、どうするのよ〜〜!」
「だから黙ってろって!」
言いながら、階ごとに見える正面の窓ガラスを凝視する夏久。 
「……え〜〜と、今二十階だな、十八、十六、十四……十一!」
 目を見開く。
「ジャスト!」
 夏久はそう叫ぶと、窓ガラス目掛けて拳銃を発射した。
銃口からはワイヤーが勢いよく飛び出してきたが、いつものと違って、火薬でも入っていたのか、爆発を起こしての発射だった。しかも、ワイヤーの先端には太い重りみたいな物がついており、重りの中心から放物線を描くような刃が内向きに数本生えていた。
 弾はタイミングよく、目の前のガラス窓を突き破って、重りの刃が窓の淵のあたりにひっかった。
 それにより急ブレーキがかかり、がくんと揺れる。
その反動に、夏久がうっと呻いた。
 やっとの事で落下は止まった。
夏久はワイヤーをぶらぶらと体を揺らしながら、近くの窓まで近づき、蹴りで窓ガラスを破壊した。そして、私から順に窓内へ入り込んだ。
 中に入ると、階段があった。ということは、ここはエレベーターが壊れたりした時用の、非常階段か。
「ふう〜、さすがに人がいるときついな。一人の時は、けっこう簡単にできたんだがな」
 深く息を吐いて、呟く夏久。
「あんた、これ一回やったことあるの?」
「一回だけな。さて、急がないとあいつらが来ちまう。急ぐぞ」
 そう言って一歩進めた瞬間、夏久は呻き声をあげて座り込んでしまった。
 ――! さっき撃たれたケガ……。
 私は慌てて近寄り、夏久の撃たれたあたりを見た。血はあまり出ていないが、やはり痛々しい事に変わりはない。
「大丈夫……?」
「あ、ああ。痛み止めを打っとけば、走る事ぐらいはできるはずだ」
 言いながら、ジャケットのポケットから取り出した注射器を打つ夏久。
痛み止めを打ち終わると、注射器を窓の外に捨て、「急ぐぞ」と呟いて、階段を下りていった。
 私は文句を言いたくて仕方なかったが、この場合夏久の言う事が正しいので、苦い気分のまま、夏久に続いた。

 走る事はできる……、と言っていたが、顔色は非常に悪かった。額には大粒の汗が点々と浮き出ている。
 ……やっぱり、かなり無理している。今も普通に走っている様に見えるが、実際は痛みで悶絶したくなる思いなのだろう。階段を下りるのも、足にはかなり負担がかかるはずだ。
「もうすぐ階段も終わるから……」
「ああ……」
 枯れた返事。
 もう、気力だけでがんばってる感じである。
私は心配で堪らなかった。
 階段を下りていくと、突然、夏久がインカムに手を伸ばした。
「呉地、聞こえるか?」
『聞こえるよ。どうした?』
 呉地の声は、私のインカムからも聞こえてきた。
「今逃げてきている所だ、追っ手もいる。今からすぐに会社前まで来てくれ」
『わかった』
 必要最小限の会話をして、夏久はインカムを切った。
「急ぐぞ」
 また、何度目かの台詞を吐く夏久。
「…………」
 私は無言のまま頷いた。

 やっと階段が終わり、ビルの中央エリアまで辿り着いた。
 追っ手はまだ来ていなかった。それを確認して私は安堵の吐息を吐く。
「まだ気を抜くな」夏久が注意してきた。
「外で呉地がもう待ってるはずだ、正面を突っ切るぞ」
 夏久は拳銃を取り出し、正面の自動ドアめがけて発射した。社長室の窓ガラスに比べて安い作りなのか、銃弾数発でドアは粉々に破壊した。
 その時、後方にあるエレベーターがチンとなって開いた。
そこから黒スーツの男達が、ぞろぞろ現れた。
 黒スーツたちは私達を視認すると、問答無用で発砲してきた。
私の前や横を銃弾が跳ねる。私は悲鳴を上げ、思わず両手で頭を抱えながら走っていた。
「邪魔なんだよ!」
 夏久は走りながら振り向き、黒スーツ達に発砲した。微妙に当たりそうな位置を狙い、牽制する。
黒スーツ達は慌てて散らばり、各々に身を隠していた。
 その隙に私たちは外へ出た。
 目の前に呉地の車が左側のドアを全開にして止まっていた。
「早く!」
 呉地が叫ぶ。それに続いて夏久が「俺は助手席に!」と叫んだ。
 私はその支持に従い、迷いなく後部座席に駆け込んだ。急いでドアを閉める。夏久もドアを閉め、呉地がすぐに車を発進させた。
 車での追っ手はこず、私はほっと胸をなでおろした。
 長い危機が、やっと去った。



 ……さすがに、今回はきつかった。
 銃弾一発貰って、六十階からのバンジー。満身創痍でありながらも気力で走る。
 普通の奴なら死んでるな、これは……。
「……ずいぶん、やられたみたいだね」
 憂慮するような口調で、呉地が運転しながら言う。
 現在、車はアジトに向かっている。早く戻って、俺の傷の手当てをしなければならない、と考えているのか、呉地はちょっと飛ばしていた。
 ――応急処置はしてあるんだから、そんな慌てるほどでもないんだがな。
「お荷物持ちだったからな。ハンデ負ってちゃ、さすがに今回は難儀だよ」
 俺は苦笑しながら答えた。後ろで美夏が叫んでいたが、俺はシカトした。
 呉地も苦笑した。
だが、途端に表情を変えた。
「……なつ君、相手は誰だったの?」
 ――やはり、それが一番気になるか……。
「この前ユーロカンパニーであった奴と同じだった。森羅浩平……あいつはそう名乗ってきた」
「やっぱりそうか……」
 呉地は苦渋に満ちた表情になった。
「ああ、大当たりだったよ。しかも、俺の同調能力を知っていた」
「そっち関係者ってこと?」
 呉地は驚きの声を上げた。
「たぶん。……これでお前だけの問題じゃなくなったな」
「そうみたいだね」
 沈黙。
「そういえば、後ろが静かだな。おい、美夏。美夏〜」
「…………」
 返事がない。
俺は後部座席を覗いた。すると、美夏は座席を全部使って、すうすう寝息を立てていた。
「……寝てるし」
「疲れたんでしょ。君に振り回されたんだから、仕方ないさ」
「緊張感のない女だ」
「緊張感があるから、今こうしてここに安心して寝てられるんでしょうが」
「それもそうだな」
 俺は頷いた。確かに呉地の言うとおりである。
 美夏を見た。右腕を下にして、その上に頭を乗せて体を丸くしながら健やかな寝息を立てている。
「……こいつは、今日の俺の姿みて、どう思ったんだだろうな」
 俺はふと思った事をぼやいた。呉地がん? と声を上げた。
「たまに何か言いたそうな顔するんだ。その時、なにを思ってたんだろうな」
「僕はその場にいなかった分からないけど、なんとなくなら分かるよ」
 言ってやろうか? と俺に聞いてくる呉地。
俺はちょっと気になったので、言ってみろと促した。
「こいつ何者? とか、むちゃくちゃな奴とか、凄いなとか、なに考えてるんだろう? とか、なんでこんながんばれるの? とか―――」
 一息。
「……なんでこいつ、私の事をこんな気遣い、守ってくれるんだろう……」
 呉地は言い終わると、どう? と俺に聞いてきた。
「まるで本人に聞いたみたいだな。特に最後のなんか」
「でもまあ、こんな感じだよきっと」
 呉地はくすくす笑う。俺は複雑な気分だった。
「……俺は、当たり前の事をしていただけ、だけどな」
「その当たり前の事が、一般人には不可能な事って、分かってる?」
「…………」
 そうか。
 美夏は普通の女だ。だから付き合いも普通の奴らばかり。俺みたいな奴なんて、見た事も今まではなかったのだろう。
 と、いうことは……、
「俺は変人と思われてるのか?」
「どこをどう解釈したらそうなるのか、教えてくれない?」
 呉地はなぜかため息をついた。
 ちょうどその時、アジトのビルが見えてきた。
呉地はビルの裏手にある小さな駐車場に車を止め、後部座席で熟睡してる美夏をかかえて、アジト用のエレベーターに向かった。
 さすがに美夏も、エレベーターのあの勢いの前では寝ていられなくなり、激しくびっくりしながら起きた。
 その光景を見て、俺はカラカラと笑った。
 ひと時の平和、ここにあった。

五章 真実の開放

 平和は、数時間で崩壊した。
『ハウ ア ユー? 呉地。
 昨日は面白い子をよこしてくれてありがとう。おかげで私の気分は今最高だ。
 だけど……。やっぱりキミに会いたいな。
 今日の午後十時、キミもユーロカンパニーへ来てくれないか? 大事な話がしたいんだ。キミがよければ、地下へも招待するよ。
 ま、とにかく……。
 絶対来てくれ。もしこなければ……すでにどうなるか、わかるだろう?
 それじゃ、夜を楽しみにしているよ。
                    From 森羅 浩平』か。
 俺はコンピュータの画面に映る文面を読み終えると、深くため息をついた。
 現時刻は朝の八時である。このメールも、ついさっき届いたらしく、俺は呉地に呼ばれて、今ここでこの文面を読んでるという始末だ。
「寝起きに嫌なもの見ちまったな……」
 画面から目を離し、俺は近くの椅子に座る呉地を見た。いつもの呉地に見えるが、その雰囲気からは動揺と恐怖が滲んでいる。
「……もしこなければ、か。つまり場所が割れた。昨日は全然気づかなかったけど、誰か追跡していたんだ、きっと」
 呉地は苦笑した。
「ほんと、頭を痛くさせる相手だよ」
 呉地は右腕で頭を抱えた。そして、そのまま沈黙してしまう。
 俺はなんて言えばいいのか分からず、黙ったまま顔を俯かせた。
 その時、部屋のドアからノックする音が鳴る。
「呉地さん、夏君、朝食できましたよ〜〜」
 能天気で平和な声がドア越しに聞こえてきた。呉地は黙ったまま返事をしない。仕方なく俺は顔を上げ、ドアに向かって「ああ、わかった」と告げた。
 俺は呉地を見る。
「飯でも食って、気分変えようぜ、呉地。な」
「……そうだね」
 呉地は椅子から立ち上がり、ドアを開けて出て行った。俺もそれに続こうとしたが、ふと動きを止めて振り返りコンピュータを見た。画面にはメールの文面が表示された状態のままだった。
「どうなるか、わかっているだろう……」
 文面の一部を読む。
「上等だ」
 一言吐き捨てて、俺は部屋を出た。
 


 朝食を終えると、呉地は幸せいっぱいの顔になっていた。食い物だけでここまで立ち直れるとは、便利なものである。
 だが、俺はよかったと、素直に喜んだ。
 はっきり言って、呉地にへこまれると、こっちは何もできなくなる。確実に敗北が決定するのだ。
 それだけ、絶対にさけなければならない。俺はどうなってもいいが、美夏を巻き込むわけにはいかないからだ。
 ……だから俺は、

「おい、美夏」
 俺は台所で洗い物をしていた美夏を呼んだ。美夏は作業を中断して、俺がいるリビングまで来て「なに?」と聞いてきた。
「単刀直入に言うが、俺と呉地は今日の夜ちょっと出かける。お前はここの留守番をしてくれないか?」
「留守番〜?」
 美夏は声を上げた。
「どこにいくの?」
「ユーロカンパニーだ」
 俺のこの一言に、美夏は顔を引きつらせた。
「……なにかあったの?」
 ――なかなか勘が鋭いな。
「今日、メールが来た。あて先はあの色男みたいな奴からだ。今日の夜十時にこいと。だからお前は留守番しとけ」
「私はいかなくていいの?」
「あいつは指名してきた、俺と呉地だけで来るように……と」
 俺は嘘をついた。
 たぶん、今日はあいつとの直接対決になるだろう。昨日はほとんど負けという形で終わったが、今回は違う。まず勝ち負けとかそういうのは皆無だろう。無事に帰ってくるには、あいつとあいつのバックにいる組織かなにかを―――、
 殺すしかない。
 そんな現場に、美夏を立ち会わせるわけにはいかない。
 俺は、美夏に殺人の罪なんか、絶対に負わせたくない。
「……それ、嘘でしょ」
「!?」
 俺は表情には出さず、内心で驚愕した。
「……嘘じゃない、本当だ」
「嘘よ。目、泳いでるし」
 なおも食い下がってくる美夏。
 なんでこんなしつこいんだ? 
「とにかく! お前はこなくていいんだ。今日一日はここでテレビでも見てのんびりしてればいいんだよ」
 俺はここで振り返り、無理やり話しを終わらせた。
 美夏がまだ何か叫んでいたが、俺は逃げるように早歩きで自分の部屋へ戻った。



 なんで……どうして?
 彼は嘘をついていた。だから最後に押し切るように話を終わらせたんだ。
 私はわからなかった。なぜ昨日は連れて行ったのに、今日はだめだなんて……。
 相手の脅威、恐ろしさがわかったから? だからだろうか。
 "俺に協力してくれ、たのむ"
 だったら、あの一言はなんだったのだろうか。ただ私に言う事を聞かせるために出た、でまかせみたいなものだったのだろうか。その場かぎりの仮契約みたいなものだったのだろうか。
 …………。
 っていうか。一番分からないのは、
 なんで私、彼の事こんなに心配してるんだろう。

 私はとりあえず、残りの洗い物を終わらせることにした。
 何かをしていれば、気もまぎれるだろうと思ったからだ。
 凡庸に手を動かす。いつもは鼻歌でも口ずさむのだが、今はそんな気分にはなれなかたった。
「……どうしたの? 思い詰めた様な顔して」
 台所の入り口から声が聞こえた。振り向くと呉地が立っていた。
「呉地さん……」
「なつ君になにか言われたかい?」
 呉地は食卓テーブルのところにある椅子に座り、私にそう呟いた。
 私はそれを確認すると、手が止まっていたので、作業再開した。
「……今日、夜中に行くんでしょ? 会社に二人で」
 呉地は驚きの声を上げた。
「……知ってるんだ。まったく、なつ君も勝手だね。僕に相談もなしにちくるんだから」
「私は連れて行かないそうです……」
 沈黙。
「そう……。でもその方がいいよ。僕もなつ君の意見に賛成だ」
「だけど、だけど!」
 私は嗚咽している様な声で、叫んだ。
「……すいません、叫んだりして。ただ呉地さん、私なんだか、彼が心配でならないんです。出会った時からそうでした、彼がなにか無茶な事や変な事をすると、本人以上に焦ったり、慌てたりするんです。
 昨日だってそうです。銃で撃たれているのに、痛みをこらえながら走る彼を見ていたら、胸がはちきれそうな思いでした」
「…………」
「例えば―――そう、まるで身内が傷ついてるのを見てるみたいな。そんな気持ちになるんです」
「…………」
 言い終わってしまっても、呉地は返答してこなかった。ふと呉地の顔を見ると、なぜか微笑んでいた。私は思わず首かしげて、「なんで笑ってるんですか?」と訊いていた。
「いやね。そこまで自分で理解してるのに分からないみたいだから、ちょっと可笑しくて……くっくっく」
「?」
 相当可笑しいのか、呉地は腹をかかえて笑っていた。
 なんだか無償に腹が立ってきた。
「私、そんなに変な事言いました? だからってそこまで笑うことないと思うんですけど」
 私は、洗い物の作業を止めて、少し怒りを込めて聞いてみた。
「ごめんごめん、怒った? ……そうだね、玉砕覚悟でもう最後だし、チクっとこうかな」
 呉地は椅子から立ち上がり、私の方へ近づいてきた。ほぼ目の前、といえるくらいの位置で足を止める。
 呉地の顔は、あの真面目な表情になっていた。
「結論から言おう。彼、川辺夏久はね、七歳のころに君といっしょのひと時を過ごした人物なんだ。つまり、彼にとって君は思い出の女の子って事になる」
「私と夏久がいっしょ? 子供ころに?」
 私は目を瞑って考えてみた。
「思い出した?」
「全然」
「……どうやら本気で記憶無くしてるみたいだな。――いや、もしくはこれは、消されてるんじゃないのか」
 とたん、呉地は顎に手を当てて考え込みだした。
「……うん、なつ君の頭の事を考慮すると、ありえる話だな」
 呉地は一人頷いた。
「あの、そんなことより……私と夏久が子供の頃ジャングルジムでした約束って?」
「は? 僕はそこまで―――なんで約束の事なんか知ってるの?」
「え? だって、え? なにが? つまり、あ、ああ、えあ?」
 突然、呂律が回ったみたいに変な事を口ずさむ私。
 すると、頭の中でなにかが動いた。とたん、もの凄い頭痛と吐き気が襲う。
 頭の中に何かがいる。頭痛がまたした。何かを考えようとすると、私に吐き気を催させていた。なんだこれは? また吐き気がした。まるで気が狂ったみたいに、私はオエ、オエと吐くような行動をとった。
 誰だ? 何が中に入ってるんだ? このやろう出て行け。私の中から出て行け。出て行け出て行け出て行け出て行け出て行け……。
「びちゃ……」
 私の右耳から、何かが落ちた。その瞬間、ふっと体が楽になり、不快な感じも消えた。
 呉地が近づき、その落ちた何かを調べた。すると呉地は、目を見開いて驚いた。
「……美夏ちゃん、ずいぶんえらいもんを頭の中に飼ってたんだね……」
 呉地はそれを手に持って、私に見せた。
 それは、目にやっと見えるという小さい金属の様なものでできた虫みたいなロボットだった。形は正方形で頭と尻尾があり、ムカデ並みに横から足が生えている。まさに悪趣味極まりない形だ。しかも未だにピクピク動いてるから怖い。
「保護する昆虫(インプラントメモリー)っていうロボットで、よくテレビなんかで聞くナノマシンっていうやつとの仲間なんだ。僕が前いた研究所でも研究されてたやつなんだけど。
 このロボットの主な仕事は、記憶喪失の人を治すというものなんだ。記憶喪失した人が、何かを思い出そうとするとこいつが反応して、中から直接刺激みたいなものを与えて記憶を取り戻させるっていう代物なんだ」
「そんなものが何で私の頭の中に?」
「それはちょっと……。だけど、君の場合は効果がまるで逆だったみたいだね。まるで記憶喪失を無理やりそいつ維持させてたみたいだ。――! まてよ、こいつが出てきたという事は……美夏ちゃん、記憶戻った?」
「記憶? 記憶って?」
「いやだから、なつ君との思い出の記憶」
「え?」
 私は目を瞑って考えてみた。
「夏君との思い出って、私が六歳の頃近所に一つ年上の男の子の夏久って子がいて、その子とはよく遊んでいたんだけどその子ったらやたら人の物を盗むのが好きという変な性癖の持ち主なんだけど、根はとてもいい子。ちゃんと返して言えば返してくれたし、それから―――」
「スト〜〜〜〜〜〜ップ! ……ふぅ、どうやら記憶が突然戻って整理ができてないみたいだね。……じゃあ、君が引っ越す時に言われた台詞と言った台詞は?」
「え? 彼が「今度会う時には俺、お前が度肝を抜くような名泥棒なってるから!」って言ったから、私は「じゃあ私は今度会ったとき、泥棒になったあなたを捕まえてやるわ!」て言った……」
「はい、よくできました〜♪」
 呉地はパチパチと拍手した。
 戻った……記憶が戻った。
 元々あった記憶のせいだからだろうか、全然「記憶を取り戻した!」という達成感みたいなものが沸いてこない。ただなんで今まで思い出せなかったのかが、すごく疑問でならなかった。
「なんか、頭の中が違和感でいっぱいです……」
「ま、それは仕方ないさ。それより、なつ君見てくれば? 抱きしめたくなるかもよ」
 呉地はにやにやしながら冗談っぽく言った。
「そ、それは……」
 ありえるかもしれない……。
実を言うと、さっきから夏久の名前を聞くたび胸のあたりがドキドキと鼓動を打っていたのだ。
「あれ? 美夏ちゃん、顔真っ赤だよ」
 真っ赤だよ、と指摘された瞬間、ある意味死に値するほど恥ずかしさが、私を襲った。
「あ、どこいくの?」
 思わず、私は走り出していた。台所を出て、リビングを抜け、各部屋が点々とある廊下に出る。そしてやっと止まった場所が、
 夏久の部屋前だった。
 ドキドキ……。
 鼓動がうるさいほど鳴っている。
 私はこの場を立ち去ろうとした。いけない、今会うとたぶん、自分の人格外の事をしでかしそうでならない。いろいろこう―――。
 がちゃ……。
 ――私だけど私じゃないようなことを……。
「そんな所に立って、なにやってんだお前?」
 私は飛び上がりそうなほど驚いた。
 夏久が立っていた。
 目が合う。
 その瞬間、私の中の正常な人格が壊れる音がした。
「会いたかった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「どわぁ!」
 私は叫びながら夏久に思いっきり抱きついた。
夏久はわけ分からずといった表情で、やや恐怖に歪んでいた。
 私の中から、少女漫画のキャラでも出せないほど、ラブパワー(?)が発動した。
「離せコラ! み、美夏、目覚ませ!」
「離さない〜〜〜ぜ〜〜ったい、はなさないもん〜」
 ふとリビングへの入り口を見ると、呉地が私を見ていた。が、私はすぐに興味をなくし、すでに白目を出して気絶している夏久で遊び始めた。

 この時、呉地は自分がちくったことを、酷く後悔していた。
「ごめん、なつ君……」



 あれから三十分ほど立ってから、私はやっと落ち着きを取り戻していた。
 私は今リビングにいて、床に正座で座っている。
 目の前のソファーには、呉地と夏久が座っていた。
呉地は苦笑いを浮かべていた。夏久の方は首のあたりをさすりながら「お〜いて〜」と呟いている。
「ご、ごめんなさい……ほんとごめんなさい」
 私はふかぶかと頭をさげ、謝罪の意を表明した。
 呉地がまあまあ、と手を差し伸べてきた。
「あれは仕方のない事なんだよ。長い年月忘れていた覚えてるのに覚えていない記憶が、いっぺんに戻ってきたんだ。制御できないのは当たり前。ましてや、そのほとんどがなつ君にかける思いだったなら、なおさらだね」呉地は隣で座る夏久を見て「よかったね〜なつ君。こんなに愛されてて」
「……お前、さっきの体験したら、そんな台詞絶対吐けないぞ」
 夏久は呉地を睨みながらそう呟いた。
 呉地は「嬉しくないの?」と夏久に聞いた。夏久は「いや、まあそれは……」と言いながら、私を横目で見た。
「……もう、大丈夫なのか?」
「なにが?」
「頭の中」
「それって、頭の中に変なロボットが入ってた事に対する心配? それとも精神の思考回路の中に対する心配?」
 私は目を細めながら、呉地っぽい口調で言った。
 夏久は少し考え、
「両方だな」
 淡々と言う。
「……あんた、まだ根に持ってるの? さっきのこと」
「二度とされたくないからな」
「あ、そうですか。……心配後無用、もう何もしないから安心して」
 私は半笑いしながら答えた。
 夏久は「ま、警戒しながら信じておくよ」と言った。
 ――それ、つまり信じて無いじゃん。
 隣で呉地がカラカラと笑っていた。
 私は頬膨らませて、夏久に激昂した。

 呉地がある程度夏久に説明し終わると、夏久が「ちょっと付き合え」と言ってきた。
 呉地は笑顔で「いってらっしゃい〜」と手を振っていた。
 彼には、すでに予測ずみのようだ。
 夏久に連れてこられた場所は、地下十二階にある、休診ルームというところだった。
 部屋のだいたいの広さが小さな公園ぐらいある。だが一番私を驚かせたのは、壁全体にびっしりと描かれた、さまざまな種類の美しい風景画である。
 なんのために壁に描かれているのかというと、ここは疲れた心を癒すために作られた部屋らしく、さまざまな種類の風景の絵は、病んだ精神を癒すためにあるらしい。
 金持ちが作ったにしては、殊勝な部屋である。
「へぇ〜、こんなところあったんだ」
 私は部屋全体を見渡しながら、感慨の吐息を吐く。
「気に入ったか?」
「こういう所は、もっと早く教えてよ」
 私は笑いながら言う。
「そんな暇があったか?」
「うーん、ないか」
 私はニカっと歯を出して笑う。
 すると、夏久はくすっと笑った。
 私は軽く走ってみた。いろんな風景がスクロールするように変わる。
 夕焼けの丘、緑の草原、天を貫く山、雲の上の世界。
 それは、幻想的な光景だった。
 私は思わず、うっとりしてしまう。
「美夏」
 夏久が呼ぶ声に、私は振り向いた。
 目が合う。
「なに?」
「…………」
 夏久は目を逸らして、なにか言おうと逡巡していた。
 私は黙ってそれを待つ。
「……あのさ、こんな事言うのは変な事なんだけど」
「ん?」
「美夏は……本当に美夏、だよな?」
 震える声。
 私は、
「そんなの決まってるじゃない」
 笑顔で答えてあげる。
 瞬間、夏久の顔がぱっと明るくなった。
 私は、夏久に歩みより、そっと両手で抱きしめた。
 夏久はびっくりしたのか、目を見開いている。
「私が、あなたの思い出にずっといた、正真正銘の、綾瀬美夏だよ」
 私は囁くように言った。
 夏久は、ほっと安らぐような表情になった。
「……ありがとう」
 ふと、夏久の顔見ると、目から涙を流してる事がわかった。
「う……くっ……うあああぁぁぁ―――――――――!」
 しばらくすると、嗚咽の声になりながら夏久は慟哭した。
 私は夏久の頭を撫でながら、小さく微笑んだ。
 夏久を、ぎゅっと抱きしめてあげた。

「お願いがあるの……」
 夏久が泣き止み、ちょうど落ち着いてきた時、私は言った。
「今日、私も会社に連れていってほしいの」
「…………」
 夏久は黙したまま、じっと私を見つめている。
「こんな所でじっと待ってるなんて、絶対に嫌」
 夏久は黙っている。私は続けた。
「呉地さんのために、夏君一人だけでがんばってるなんて私やだよ!」
「呉地のためだけじゃない」
 夏久が低い声で言った。
「……この問題は、俺の問題でもあるんだ」
 それに……。夏久は続ける。
「お前のためでもある。今日の事件を解決しないと、お前は自由になれないからな」
「だったら私も連れてってよ! 人任せでなんとかするなんて―――」
「お前がいては足手まといだ」
 私は絶句した。
 夏久は顔を俯かせ、やや申し訳なさそうに言う。
「ただでさえ呉地を連れて行くんだ。いくら俺でも二人一遍に守る自信はない」
「そんな事しなくていい」
 私はそう告げると、すぐさまファイティングポーズを取る。
 夏久が何事か? という目で見ている。
 ――刹那、
「ばしゅ!」
 私は鋭いストレートを放った。
 夏久は目を見開いて驚いてる。
だが、私は拳を動き止めない。
 バチッ!
 拳が止まる。
 夏久は顔面に当たる寸前の所で、右腕で止めていた。
「……今の、本気出してたら当たってたよ」
「…………」
 夏久は何も言わない。私の言った事に納得しているようだ。
「自分の身は自分で守る」
 拳を戻しながら、私はそう呟く。
「昨日、夏君もそう言ったよね。……うん、その通りだと私は思う」
 私はくるっと回ってみせた。
「だから、私はこの拳と脚で、近づいてくる奴らを片っ端からやっつける。どう? これなら文句ないでしょ?」
 私が自信げに言うと、夏久ははぁ〜と嘆息した。
「分かったよ。さっきのストレートに免じて、許可してやるよ」
「ほんと!?」
「ただし! 俺の指示には絶対に従ってもらう。いいな?」
「うん!」
 私は大きく頷いた。
夏久はやれやれと呟きながら、苦笑していた。
「っていうか、なんでお前、空手やってるのにファイティングポーズなんだ?」
「あ〜、なんか構え忘れちゃってしまって、あははは〜」
「……お前、よくそれで初段なんか取れたな?」
「私もそう思う……」
「第一さー、お前は――――――」



「――で、連れて行くとOKしちゃったわけだ」
「ま、そおいうことだ」
 俺はコーヒーを飲みながら、そう答えた。
 美夏との話を終えたあと、俺たちはリビングに戻った。
時計を確認すると、午前一一時を回っていた。美夏が「昼食を作るらなきゃ」と言って台所へ行ってしまった。
だから俺は仕方なく、今こうして暇つぶしに呉地の部屋で談笑してるわけである。
本当は夜の事について相談に来たのだが……。
いつのまにか路線からはずれていた。
「妙にさばさばしてるね。キスでもされた?」
「なんでそうなる?」
「なつ君、物事に影響されやすいから」
 そうだっけ? と俺は疑問に思った。
「……ただたんに、気分がいいだけさ」
 俺はにやりと笑う。
 呉地はほっほ〜〜と、声を上げる。
「よかったね」
 呉地は心底から言ってくれた。
「うん。……なあ呉地」
「なんだい?」
 一呼吸の間、
「俺、死ぬ気であいつの事守るから……」
 言ってみてから、すごく恥ずかしい事を口にしたと、後悔した。
 呉地は一瞬呆気にとられたような顔になる。
 だがしばらくすると、突然くっくっくと笑いを含みだした。
「いや、驚きだ。なつ君からそんな臭い台詞が聞けるなんて」
「悪かったな」
 ぶっきらぼうに答える。呉地はまだ笑っていた。
俺はいいかげん殴って黙らせたくなってきていた。
「あはは……。ふぅ〜、でも、それくらいの意気込みがあるなら、今回も大丈夫そうだね」
 はいこれ、といきなり変な装置みたいな物を渡してきた。
「元々、このために今日ここに来たんでしょ?」
 ――やっと話が路線に戻った。
「っていうか、分かってて話ずらしてたのか?」
「まあね」
 ゴツンと、呉地の頭を殴った。
 いたい〜〜と呉地は唸っていたが、俺は無視した。
 変な装置を見た。
それは、上部にアンテナーみたいなものがいっぱい立っていて、横側にはメガホンみた
いな形の小さな物体が点々とついている。しかも、見た目単純なくせに、中に何か入ってるのか、ずっしりと重い。
「なんなんだ、この装置は」
 見た目からでは、この装置が何なのか、分からなかった。
「今日の夜に使う秘密兵器さ。これで奴らの研究を破壊し、罪を暴露できる」
「どういう装置なんだ、これ?」
「簡単に言えば、電磁波発生装置だね。これをメインコンピュータの近くとかで使えば、コンピュータのデータ内にノイズが発生し、データを全部ショートさせて壊してしまうんだ」
「壊していいのか?」
「いいんだよ、どうせろくなもんじゃないんだから。そのあとは、警察様にでも連絡して、事件は解決……これでどう?」
「OK。それでいこう」
「了解」
 呉地は頷いた。
しばらくすると、美夏から昼食が出来たという報告がきた。
呉地と俺は頷き、部屋を出た。
 ……全ての準備が、整った。
 あとは、夜を待つばかりである。

 ……そして、その夜はやってきた。


 
 車がきっと停車した。
 車から降りると、目の前にはでかいビル『ユーロカンパニー』がある。
 俺はそれを見上げた。
 つい最近に来た時には、全然感じなかった不気味な気配。今日はそれが、異常なほど理解できた。
 気持ちの昂りのせいだろうか……。
「……いくぞ」
 俺の返事に、呉地と美夏が頷いた。
 俺は雑念を振り払った。
 今は、目の前の事に集中である。

 ビルの入り口目の前に入ったとたん、その声は聞こえてきた。
『やあ、諸君。約束通り来てくれたようだな。歓迎するよ』
 森羅の声だった。
『さあ、入ってきたまえ。今日は君たちの招待のために、警備は解除させてもらってる。だから堂々と入ってきてくれて構わない』
 俺はあたりを見渡した。
 確かに、森羅が言うとおり、人の気配は感じられなかった。
「どういうことだ……?」
 俺は天上を見上げながら呟く。
「それに、こんな報告をあいつ本人がやってるのもおかしい。したっぱだったのか?」
 呉地が俺の答えに頷く。
「たしかに……警備を解除するなんて、何を考えているのだろう」
 呉地もどうやら分からないようだ。
「何言ってるんですか!」
 突然美夏が大声を上げた。
「警備がないなら、無いで結構じゃないですか。虎穴に入らずんば虎子を得ずですよ」
「お前な……俺らはたんに、罠でも張ってるんじゃないか思って、警戒してるんだぞ」
 俺の言葉に、美夏は目を点にして固まった。
 呉地が言う。
「まあ、美夏ちゃんの意見が一番正解だと思うけどね。結局は入らないといけないわけだし」
「そ、そうですよね!」
「なに同意求めてるんだよ……」
 俺はため息を吐く。
 ――まあ、確かにその通りだな。
 俺は美夏の言った事を内心で納得し、先を進む事にした。

 俺たちは、森羅に言われた事を鵜呑みにしながら、堂々と正面から入り、エレベーターに乗り込んだ。
 そして六十階へ。
 エレベーターから降りる。俺は気配を探ってみた。
 やはりこの階にも、人の気配は無い。
「……誰もいない」
「どうやら、本当みたいだね」
 呉地がちょっと不思議そうに言った。
「出てきたら、百倍にして返そうと思ったんだがな」
 俺はそう呟いて舌打ちをした。呉地が隣で苦笑いを浮かべている。
 しばらく歩くと、社長室が見えてきた。
 鍵は掛かっていなかった。
 俺は訝しく思いながらドアを開け、中に入る。
『入り口前まで来たな。その部屋のロゴマークのあたりを調べれば、スイッチがあるはずだ』
 また突然、森羅の声があたりに響いた。
「今日はやけに親切だな。どおいう心境の変化だ」
 俺はどこかにあるマイクに向かって叫んだ。
 だが、あっちは送信だけしかできないらしく、返事は返ってこなかった。
 ――カメラはあって、受信は無しかよ……。
 俺はまた舌打ちした。
「わー、なんか出てきた」
 いつのまにか、呉地たちがロゴマークのあたりを調べていた。
 美夏が不自然な窪みを発見し、呉地に許可を取ってそれを押した。
すると、本棚の間がパカリと開く。その隙間から、隠しエレベーターが現れた。
「なつ君、急ぎな」
 呉地がエレベーター前で俺に振り返る。
 俺は、エレベーターに歩みよりながら、
「呉地、俺は森羅が何を考えてるのか、さっぱり分からない……」
「それは僕も同じだよ。……ただ」
 一息。
「喧嘩を売ってる、という感じはしないね」
 俺は頷く。
 ……確かにと、俺もそう思っていた。
森羅の口調、この状況……。まるで、本当に心から招待している感じだ。
 最後に俺がエレベーターに乗り込み、美夏が一個しかないボタンを押した。
 エレベーターは降下していった。

 エレベーターを降りると、メタリックな風景が広がっていた。
 まさに研究欄といった感じである。
 妙な圧迫感を感じる。呉地がいうには、研究所とはこんなもんだよ、らしい。
 あたりはやや暗い。
道は一直線だった。突き当たりも何もない。
 しばらく歩くと、光が見えてきた。
 暗い世界から、光の外に出る。
 強いライトの光が反射して、俺は思わず片目を瞑る。
 目が慣れてきた。すると、目の前にあの男が立っていた。
「ようこそ、呉地。ようこそ、泥棒諸君」
 白いスーツを着た男。森羅浩平が、悠然と立っていた。



 天井は高く、まるでぽっかりと丸い空間が抜けたような場所である。
 おまけに小学校の体育館並みの広さだ。
 そこに立つ俺は、とても奇妙な感覚に囚われていた。
「待っていたよ。呉地」
 一歩前に踏み出し、森羅は喜びの声をあげた。
「森羅……」
 呉地は、表情には出ていないが、動揺していた。額に汗が流れている。
「君とこうして会う事、どれだけ待ちわびていたか。君にわかるか? 呉地」
「…………」
 呉地は俯いて黙る。
 しばらく、沈黙が続いた。
「……一つ、聞いていいか? 森羅」
 顔を上げ、呉地が言う。
「なんだ?」
「君はここで、なにをしていた?」
「……実験体にされていたよ」
 森羅はくっくっくと笑いながら言った。
 俺はこの一言に驚愕した。呉地や美夏も同様である。
「私は、希に振られたあの日、研究所の公園を散歩してたら、いきなり拉致られたんだ。
 そして、いろんな所を弄くられた。体の部品、遺伝子……材料として私は使われていた。おかげで今の私の体はボロボロさ。実を言うと、もう長くないんだ」
 森羅は自分の胸に触れる。
「心臓の鼓動もほとんどないに等しい。明日か明後日には、僕はもうこの世にはいないだろう」
「だったら! なぜこんなことをした」
 呉地が叫んだ。
「言っただろう? 君に会いたかったと」
 森羅は突然上着を脱ぎだし、それを適当なところに投げた。
 そして、悲しげな表情。
「私は……呉地、君を尊敬していた。だけど、希の事はとても好きだった。その時私は君を心底から妬んだ。私はその行動が情けなくて。……だから、誤りたかった」
「そのために、僕らをこんな所まで誘導したのか?」
 森羅は苦笑する。
「くだらない事と思うかもしれないが、捨てられてもう何も無い私にとっては、やらなければならない懺悔なんだ」
「捨てられた?」
 俺の疑問の声に、森羅は頷く。
「ここにはもう何も無い。私がちくったせいで、すでにお払い箱さ。
 君たちが気になるデータなどは、一週間前からもう無い。あるのは、死に底無いの私と、美術館から盗んだ『風靡の光』とか言うただの石ころ―――」
 そして……。森羅は続ける。
「夏久君、君と一度決闘して死のうという、私の願いだけだ」
 チャキと、森羅は腰に下げた拳銃を俺に向けた。
 俺はその銃口を無言で眺めた。
「さあ、銃も抜いて、私の願いを叶えてくれ夏久君」
「…………」
 俺は体を前進させた。
 すると、後ろからから右腕を掴まれる。
「だめだよなつ君。あの人本気で―――」
「離せよ」
 俺は自分でもびっくりするほど、冷たい声で言った。
 美夏が目を見開いて驚く。
 俺は無理やり右腕を動かすと、美夏の拘束は簡単に取れた。
 俺は美夏を見た。
「大丈夫だ。俺は負けない」
 微笑んでみる。
 美夏は何か言いたそうな表情を浮かべていたが、何も言ってこなかった。
「呉地、美夏の事を頼む」
「わかった。……気をつけて」
「ああ」
 呉地に返事し、俺は拳銃を抜きながら、歩き出す。
 ちょうど五mぐらいの距離で止まり、森羅に対峙した。
「その銃は、玩具じゃないだろうな」
「安心しろ、本物だ。……それよりもあんた、銃なんか使えるのか?」
「ふっふふ、見くびらないでくれ。これでも武術、射撃には自信があるんだ。武術に関しては、君の仙忍術(エンド)にも引けはとらない」
「なるほど……」
 俺は苦笑しながら頷いた。
 ――やはり、仙忍術のことも知ってるか。
 それで挑んでくるとは、まさに死ぬ気の覚悟だな。
「……はじめようか」
「ああ」
 周囲の雰囲気が変わる。
 森羅は腰を低くしながら、拳銃を両手でいつでも打てる状態にしている。
 俺は拳銃をぐっと握り締めた。
 両者の睨み合いが続く。
 ……数秒が経過した。
 ――刹那、
 
 二人同時に引き金は引かれた。
 俺と森羅は、撃った瞬間首を右に傾けながら、かわそうとした。
 が、銃弾は両者共に左腕に損傷を残していた。
 だけど、俺はかまわず疾走しながら、拳銃をぶっ放す。
 森羅は避けるのに徹していた。俺が撃つ瞬間に体をずらして避けていた。
モノ凄い反射神経である。
 並みの人間の動きではない。
 俺は拳銃を撃つのを止めて、森羅に直接殴りかかろうとした。
 助走つけながら、まずとび蹴りをかます。森羅は右に体をずらして、これをかわす。だが、俺の着地の瞬間に放った右裏拳が、森羅のわき腹を直撃した。
 森羅はぐぅっ! と呻き声をあげたが、隙は見せなかった。俺の裏拳のあとの腕を掴み、思いっきり自分側に引いてきた。
 顔面に拳が接近する。
 俺は残った左腕でそれをなんとか止めた。捕まった右腕を無理やり引き抜き、素早く離れて距離をおく。
 ふう〜と息を吐いた。
「なかなかやるな」
「君こそ、さっきの一撃はきいたよ」
「まだまだ序の口だぜ」
 俺はまた疾走した。
森羅はその場で拳銃を構えてきた。
 だが、俺はそれを、瞬時に引き抜いた拳銃で打ち落とした。
 森羅はそれに驚き、動揺した。
 その瞬間、あきらかな隙が生まれる。
 俺は高く跳びあがり、顔面がら空き森羅に、二段蹴りをかました。蹴りは顎に向かって伸びる。
「がうはっ!」
 見事クリーンヒット。
 森羅は大の字になって倒れた。
 
「負けたよ……」
 森羅は大の字のまま苦笑した。
「最後ぐらいは、勝利を収めておきたかったんだがな」
「俺が相手じゃ、それは無理な話だ」
 嫌味もいれず、俺は言った。
「やっぱ、かっこいいな君は。最初の方は、手加減してたみたいだし」
「バレてたか……」
 森羅は、再度苦笑した。
 とたん、表情を真面目にする。
「夏久、最後に私の話を聞いてくれないか?」
「なんだ?」
 俺はよく聞こえるように、森羅に近づき、しゃがみこんだ。
「君の頭の中につけてる装置。あいつらは『エティーコ』と名づけていた。
 その装置は一度、俺の頭に埋め込まれたんだ。失敗だったけどね」
「! ……あれか、大人にもできないか、とかか」
「そうだ。君も知ってる通り、この装置は今のところ絶望を持った子供にしか適応していない。
だからあいつらは、自分たちにも取り付け可能にするため、私のような大人も拉致し始め、実験台を探しているんだ」
「…………」
「……狂ってるよ、奴らは。
 だから、気をつけておきたまえ。いずれ君たちを奴らは回収してくるかもしれない。唯一装置の埋め込みに成功した、君と、他の者たちを」
「その奴らってのは、何者なんだ?」
「それは私もわからない。元がただの実験体だったからな」
「そうか……」
 俺はすっと立ち上がると、呉地たちの方を向いた。
 大丈夫の合図を送る。美夏がなにか叫んでいた。
「風靡の光はどこだ?」
「スーツの中に入ってるはずだ」
 俺はスーツを調べた。そこから拳ぐらいのでかい緑色の宝石が出てきた。
「遠慮なく貰っていくぞ」
「元々それは君のものだ。あの時に盗みに来たんだからな」
 くすくすと笑う。
 俺も笑みを返した。
「じゃあ、さよならだ」
 俺は手を振りながら、その場を離れた。
 後方で森羅がこう呟いていた。
「ありがとう……」
 
短いようで、長かった事件は、とりあえず解決した。

エピローグ
 
あれから、三日が過ぎた。
風靡の光を会社の社長室のところに置いてきて、呉地は警察に通報して、回収させた。
犯人はどこにいった? という騒ぎになったが、なぜかその犯人はそこのデブ社長に断定された。
理由は、ただたんに社長室にあったから、ではない。朝一番に来た社長が、警察が到着する前から、すでに猫糞しようとしていたからだ。
タイミングよくその状況を目撃され、問答無用で逮捕された。
あと、警官一人射殺という説。犯人、綾瀬美夏という話。
これは、警察の誤認だったということになった(森羅がハッキングで、すでに書き換えていた)。
美夏はこれで、晴れて無罪になったということだ。
そして、美夏はというと……。

「……暇だ」
 俺はリビングにあるテレビを見ながら、そう愚痴った。
 時計を見た。最後に見たときから、三十分しかたっていなかった。
「……暇すぎだ」
 再度愚痴る。
「おーい、呉地」
「なに?」
 俺は台所で料理をする呉地を呼んだ。
「美夏は今日の何時に帰ってくるんだっけ?」
「その質問、今日で4回目だよ」
 俺はこの呉地の一言に、まじか! と本気で驚いた。
 そうなのである。
 事件が終わると、美夏は実家に電話をして、一度帰ってしまった。
 犯人説が上がっていたとき、美夏の親は死ぬほど心配していたそうだ。親を安心させる意を込めて、元気な顔を見せるために帰省することにしたのだ。
 そして今日が、帰ってくる日なのである。
 そして、俺は今日、暇でしょうがなかった。
 人を待つというのは、どうしてこう、時間が立つのが遅いのだろう。
 俺は内心で心境を語っていた。
「俺、ちょっと外いってくる」
「それも今日で三回目だね」
「…………」
 俺は押し黙ったまま、エレベーターに向かった。
 
 外に出ると、真昼の日差しが突き刺さった。
 いい天気である。
 しかし、うじゃうじゃと群がる人々どもは、はっきり言って嫌いだった。
 うるさい所は、嫌いだからである。
 俺はビルの前まで来て、壁に寄りかかりながらあたりを見渡した。
 ――美夏まだかな……。
 これを今日は、すでに二回もやっている。
 自分の情けなさに、俺はため息が出た。
 その時、
「あんたがぶつかってきたんでしょ!」
「ああ〜? なんだこのアマ。街中をこんな荷物歩いてるお前が悪いんだよ、このブスアマ!」
「な! あんたもっかい言ってみなさいよ!」
「ああ、何度でも言ってやる。このブスアマ〜」
「こ、この……。ぶっ殺す!」
 過激な女と、ヤクザみたいな男が罵倒しあっていた。
 そして、女の方は、なんと美夏だった。片手にでっかい旅行バックかついで、ヤクザみたいな男に「ぶっ殺す!」なんていっている。
 ……さすがである。
 と悠長に感想を述べてる場合ではない。
「美夏!」
 俺は駆け寄りながら、美夏の名を呼んだ。
「あ! 夏君」
 嬉しそうな声で呼び返す美夏。
「こんなところで油くってたのか」
「それより、後ろの男をなんとかしてよ」
 俺は後ろを振り返った。
ヤクザは俺を深く見下ろしながら、「ああ? なんだこのチビは?」と言った。
瞬間、俺は跳躍し、ヤクザの首筋を蹴った。
男は「がっ!」と呻き声を上げて、倒れた。
「倒したぞ」
「あはは……ありがと」
 美夏はなぜか苦笑しながら、お礼を言う。
「早く、呉地が飯作って待ってるから」
「うん」
 美夏は笑顔で頷いた。
 そんな美夏に、俺は微笑み返した。
 
 ……目標の全てではないが、俺の望みは叶った。
 美夏が帰ってきた。
 他人から見れば、たったそれだけ? な理由であるが、価値観は人それぞれ、俺には一番のことなのだ。
 俺の願い。
……俺はやっと、幸せを掴んだ。



まるで必然で起こったような数日間だった。
これが運命というのだろうか?
ひょんな事から『彼』と出会い、事件に巻き込まれ、『彼』の事を少し知り、『彼』の事を思い出した。
とても数日間で起こりえる出来事ではない。
誰か智慧のある者が、操作してるとしか思えない。
…………。
ま、いっか。
私ごときが考えても仕方がない。
っていうか、一般人が解釈できるレベルの問題ではない。
一応、関係はあるけど……。

……いいよね。これで。
うん、今が大切だ。
夏君と一緒に、という事が大切なんだ。
よし! OK、OK全て解決だ。
さてさて、そろそろ寝ますか。
おやすみなさ〜い……。

PS この日、私はもう一人の盗人(アナザービックポケット)になった。
              『綾瀬美夏 毎日日記』
                  
                      完



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