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こじあけ式エブリデイ
道端に捨ててあるのはモザイク。
アスファルトと湿った土のちょうど境、手の平サイズの何かが落ちている。特定できないのはその上にモザイクがかぶさっているからだ。
少しだけ気になったが、そのまま通り過ぎる。どうせ目が赤くなるまでこすっても、モザイクに包まれているものの正体はわからない。嗅ぐか触れるか舐めるかしてある程度の予想は立てれる。しかしモザイクに覆われている正体不明のものにそこまでしたくはない。しょせん道端に落ちているものだ。空き缶か何かだろう。
耳鳴りがやんだ。
いつの間にか耳の中に指を突っ込んでいた。指を外してしばらく目をつむる。
蝿の羽音のような耳鳴りはもうしない。鼓膜の内側に住まう一匹の蝿は翅をこすり合わせる事も、毛の生えた細い脚を巧みに動かすこともやめて寝てしまったのか。
けれどもそれ以上は何も思わない。
病気に慣れ始めているのだろうか。
深緑の木の葉が折り重なってできた、天然のトンネルの下、気孔から降りそそぐ水の粒子とセミのうだり声を浴びている。熱気を多く含む風が一陣、トンネル全体がわずかに揺れる。耳鳴りがやんだためか、葉のこすり合わさるかすかな音さえも鮮明に聞こえる。
にじみ出した汗がほおをつたう、その前に、目的の診療所にたどり着く事ができたのは、兄のしつこい道説明のお陰ではない。ペール、ビビット、ディープ、グレイッシュなどの様々なトーンで表現される緑の中で、目指す診療所は目立った。単独の白、そこだけ人工的に塗りつぶされていた。
目の前に建っている診療所は白一色でシンプル。入り口である片開き扉があるだけで、落書きも装飾も窓さえもない。おまけに正方形。豆腐みたいだ。
扉には診療所の看板が備え付けられている。看板は白いプラスチック板で字の部分だけが黒い。
『田島診療所』
看板に書かれているのはそれだけだ。
診察開始時刻は何時だ、定休日はいつだ。そもそも耳鼻科なのか眼科なのか、はたまた何か別の科なのか。名前以外の情報が一切ない。シンプル・イズ・ベストにも限度というものがある。
どんな治療をされるのだろう。不安だ。
田島診療所の存在を教えてくれたのは兄だ。どうして兄がこの診療所を知っているかはわからない。ただ、兄が言うにはこの『耳鳴り』も『モザイク』も治すことができるのは田島診療所ぐらいだろうということ。そこまでは許せる。だが、頼みもしないのに照会の電話をし、あろうことか診察の予約までしてしまったのはやりすぎだ。『お節介』と『面倒見が良い』の違いを理解していないのだろう。
あ、耳鳴りだ。
いや……ちがう。
蝿だ。蝿の羽音だ。
白い看板の汚れだと思っていたものはよくよく見れば蝿であった。黒い光沢の甲冑からのびる透明の羽をこすり合わせ、耳障りな音楽を奏でている。やはりこの耳鳴りは蝿の羽音とそっくりだった。そっくりというよりも同じだ。
ひょっとしたらこの蝿は鼓膜の内側に住んで耳鳴りを紡いでいた蝿だったのかもしれない。何かの拍子で鼓膜の檻から抜け出したのかもしれない。
蝿は何度か白いドアに体をぶつけ、ドアの隙間から診療所の中へと侵入した。
もう、耳鳴りも蝿の羽音もしない。聞こえるのは頭上から降りそそいでいるセミの嘆き声だけだ。ドアを開けると蝶番が短い悲鳴をあげた。
診療所内は外見のとおり、狭い。サンダルが置かれていないようだけれど土足で良いのだろうか。まぁいい、あがろう。ドアを開けてすぐに受付がある。だけど誰もいない。半歩も進まずに待合室だ。スポンジが入っているのかも怪しい三人かけのソファーが一つ壁沿いに置かれているだけで、他には何も置かれていない。近所にある皮膚科や内科の診療所には雑誌やテレビが置いてあるというのにだ。そして最後に、部屋の隅で申し訳なさそうに存在している片開きドアが目に入った。きっとあのドアの向こうに田島先生とやらがいるに違いない。
半ば予想していた事だけれど、先客はいないみたいだ。
おっと……悪いね、我が親愛なる蝿君。先客は目の前でいくつもの楕円を描いている蝿が、ただ一匹。
さて、これからどうしよう。相変わらず受付には誰もいないままだ。このまま待合室に突っ立っていても、受付をしていないからには名前を呼ばれることもない。だからと言って奥の部屋にいきなり入るのは気が引ける。そもそも開業しているのかも怪しい。
ならばいっそのこと帰ってしまおうか。もともと来る気はなかったし。
同時だった。診療所の入り口ドアが開いた。客が来たようだ。
少なくとも今は開業時間というわけか。
入ってきたのは、男だ。中肉中背、と言われるやつで人ごみに入られたらたちまち見失ってしまいそうだ。ベージュのパンツはまだいいけれど、長そでのシャツは季節柄、少しだけ暑苦しい。老けた三十代後半にも見えるし、若い四十代前半にも見える。左右に分けた髪に混ざっている白髪と目の下から浮かび上がるくまを見るだけで肩が重くなってくる。この男も病人なのだろうか。ならばテレビでよく聞くストレスから来る病気だろう。あるいはただの夏ばてか。
男はノブに手をかけたままこちらを見て、大きなあくびをした。そして口を閉じることなく、
「遠い所わざわざ悪いけれど、ここは皮膚科じゃない」
なぜ皮膚科がでてくるんだ。
どういう意味か聞いてみようかと思うが、男はこちらを見ていない。いや、見ていることは見ている。視線が合っていないだけだ。
「傷、ほら両腕の」
言われて、男の視線が向かっている自分の腕を見る。
傷だらけ。いくつもの深く鋭い傷が無秩序に走っている。まるで猫が使うツメ研ぎ用ダンボールのようだ。いつどこで傷をつけたんだろう。寝ている時にでも掻きむしったのだろうか。それにしては少々深いような気がするけれど。
何にしろ放っておけばそのうちに治る。診療してもらうほどではない。万が一傷がそのままであっても何ら生活に支障はない。そう、少なくとも耳鳴りやモザイクよりかは。
「この傷は違います。あ、と……ここの診療所、初めてなんでよくわからないんです。予約の場合はどうやって受付するんですか?」
「予約? あ、きみがムツ君の弟君か。今準備する。一分たったら勝手に入って」
またもやよくわからず、聞き返した。
「モザイクと耳鳴りの治療だろ?」
そう言うと男は小走りで横を通り過ぎ、奥の扉に入っていった。
扉が閉まった音を聞いてやっとわかった。
なるほど、今の男が田島センセイだったのか。病人と間違えはしたものも、予想よりよっぽど普通の人だ。眠そうな顔だったが、診察ミスもないだろう。
ただ、この眼は見逃してはいない。
田島の右手の中にモザイクがあった。
◇
一応礼儀としてノックをしてから扉を開いた。殺風景な部屋の内装が目に入ると同時に鼻と口を覆う。これでは礼儀も何もあったものじゃないと行動後に思ったが、体が勝手に動いたのだからしょうがない。
いきなり部屋の中で吐いたらまずいだろうな。
薬品の臭いと女モノの甘ったるい香水の臭い。もともとこういう臭いは嫌いだ。かすかに薫るのならまだ我慢できる。しかし両方ともが強烈で嗅覚につながっている神経が警告の赤いランプを光らす。
それと――腐臭だ。腐臭が体のまわりを漂い、うごめいている。
頭の中に霧が発生しているようだ。くらくらもやもや、気持ちが悪い。
田島を見ると、涼しい顔だ。医者らしく白衣を羽織って回転椅子に腰をかけている。
「やっぱり臭うかしら」
男が――田島が、言った。回転椅子をくるりと回して、スチーム製のデスクに目を落とす。落とした先にはモザイクがある。臭いの根源はこのモザイクなのだろうか。
しかしそんな事よりも田島の口調の方が気になった。自分の耳を疑ったのは耳鳴り以外だと久しぶりだ。
「さっき拾ったの、小鳥の死骸。猫にやられたのよ」
「その猫に、ですか?」
口調の変わる事のない田島の膝上には白い猫が寝ている。四肢をだらしなく投げ出してうつぶせだ。息苦しくないのだろうか。寝息を立てていないから精巧に作ったぬいぐるみなのかもしれない。もっとも、猫が寝息やいびきをかくなんて聞いたことがないけれど。そのまま視線を猫から彼の顔に上昇させると、田島は顎に手を当て意外そうな表情をした。
「この猫、そんな風に見える?」
「今は寝ているみたいだからわかりませんけど、肉付きがいいじゃないですか」
デブという表現の方が適切かもしれないが。
田島は声を高くして笑う。居酒屋にいる酔っ払いだ。美人なら許す。けれど目の前にいるのは白髪の目立った、頬のこけたオジサンだ。覗かせる歯も黄ばんでいる。最低だ。
「この猫にそんな力ないわ。落ちてたのが診療所の近くだから、そう……この小鳥を殺したのはきっとここら辺に住んでいる野良猫君よ。さっきまでぎゃあぎゃあ鳴いてた猫。発情期なのかしら?」
変わらない口調でしゃべりながら、机の上にあるモザイクを右手でつつく。田島は机の上には必要な物しかのせない主義のようだ。そのため、余計にモザイクが目立つ。
そう言えば机の上のモザイクは、すれ違った時に田島が持っていたモザイクと同じ大きさだ。来る途中の道端で見かけたモザイクとも同じ大きさ。つまり道の境に落ちていたあれは小鳥の死骸だったのか……。
だけどそんなことどうでも良い。小鳥の死骸の腐臭に加えて、田島のおかしな口調と甲高い笑い声が不快だ。怒りやすい性格ではないが、ずっと平常を保つ自信はない。
表情に気付いてか、田島は気持ち悪い程艶のある笑みを浮かべた。白い猫の背から手を離す。組んだ足はそのまま。
「気持ち悪い? あたしの喋り方」
「気色悪いって言ったらやめてくれるんですか?」
ならばぜひともやめてほしい。田島は笑い声のトーンとボリュームをさらに上げた。
「きみ、素直ねぇ。あたしの好みだわ。十年たったら、またいらっしゃい」
今は十四で、十年後という事は二十四だ。
「帰っていいですか?」
「だめ。きみのお兄さんからきみを治してほしいって頼まれちゃってるからね。大丈夫、十年後の楽しみなんだからつまみ喰いなんかしないわよ。……とにかく、きみの症状は何だったかしら?」
一瞬だけ兄との関係を訊ねてみようかと思ったがやめた。世の中、知らない方がいいって事もある。
さて、症状と言ってもどう説明すれば良いんだろう。耳鳴りの方は名前だけでわかるだろうけどモザイクの方は難しい。
「耳鳴りとモザイク……モザイクっていうのは、勝手にそう呼んでいるだけで、視界の一部が……じゃない、特定の物が、テレビで使われるモザイクみたいに隠されて見えなくなるんです。……例えば、僕にはその机の上にある小鳥の死骸がモザイクに包まれて見えません」
「あたしの膝の上には何がある?」
「猫。白い猫」
「じゃあこっちの猫は見えてるわけね。ふぅん、モザイク……モザイクね。なかなかいやらしいじゃない、少年」
どっちが、と言おうとしてやめた。
「耳鳴りの方はずーっと聞こえつづけているの?」
「いえ、断続的です。ここに来る途中にも聞こえてましたけど今はしていません」
「モザイクは眼科で、耳鳴りは耳鼻科ってところかな。他の診療所にかかったら合計でいくらぐらいかしら」
「ここ……何科の診療所なんですか?」
平静を装って聞いたつもりだ。田島は気付いただろうか。
そしてどんな治療をされるのだろう。
僕は、どこが壊れているののだろう。
田島が答えるまでの数秒間にこんな幻想が目の前を走った。
何もない部屋にいる。ここは平和だと思っていたら突然壁に穴が開いた。開いた穴から顔の大きさほどもある指が顔を出す。『こじあける気だな!』と、叫ぶが恐くて動けない。
「精神科よ」
田島は気色悪い笑みを顔に貼り付けたまま、デスクにほおづえをついた。
「普通のとはちょっと違うけどね。可愛らしく言うのなら『心のお医者さん』ってところかしら。さぁ、きみの異常がいつからはじまったか話してごらんなさい」
幻想の指に力がこもった。
◇
降り注ぐ雨は、木の葉に弾かれ、枝に飛びつき、若葉を叩き、土に染み込む。誰にも使われずさびたブランコは涙を流し、人の温かみを忘れた滑り台は汗をかき、うんていは手垢を洗い流されている。水滴から吐き出される湿った臭いと辺りの雑草が作り出したであろう血の臭いが鼻から身体全域に注ぎ込まれる。ひょっとしたら血の臭いを紡いでいるのはブランコの鉄鎖の方かもしれない。厳密な事はわからない。けれど湿った臭いと血の臭いがその場を満たしていた。
最大ボリュームで鳴り響いていた耳鳴りがやんだ。やっとほかの事も意識できると思ったら、今度は視界全てがモザイクで塗りつぶされていた。目をこする。生暖かい痛みが広がるまぶたを開いた。視界一面がモザイクという事はなくなったけれど、視界の中にはまだモザイクが点在している。ひじから下もモザイクに喰われていた。手を開いたり閉じたりするとモザイクもうごめく。モザイクがかかっているためか、それとも別の理由があるのか、手の感覚がどこかおかしい。
気持ち悪い。モザイクが気持ち悪い。速く帰ってモザイクを洗い流してしまいたい。水で洗い流せるかどうかわからないけれど。ちがう。洗い流したいと思うのは口実だ。とにかくここから立ち去りたい。胸を圧迫し、込みあがる嘔吐感。吐きそう。身体に合わない大人用のレインコートが肌に張りついて、不快。ぬれた髪も同じだ。傘はどこだろう。視界内に傘と思えるものがない。モザイクの下だろうか。目の前に落ちているモザイクに触れるが触覚が違う。なんだこれ、ヌメヌメしてる。生ごみか。そもそも大きさからして探している傘ではない。このモザイクの大きさでは子供用の傘ほどもない。ああもういい。帰ろう。今度、今度晴れた日に探しに来ればいいだろう。さっさと帰ろう。レインコートもあるし、それ以前にもうびしょぬれじゃないか。
家には誰もいなかった。夕方五時の時間帯は誰もいない事が多い。
レインコートを着たまま洗面所まで行き、モザイクに染まった両手を洗う。モザイクは簡単に水で洗い流せた。同時に嘔吐感も圧迫感も気持ち悪さも落ちていくようだった。レインコートはそのまま近くのゴミ捨て場にでも捨てよう。
洗面所までの廊下に水の足跡が出来ている。雑巾でふき終えると睡魔に襲われた。
◇
田島は手に持っている安物のボールペンでデスクを叩いた。生じた音が『待った』をかけたように感じられ、話しをとめた。案の定、そのとおりだった。
「その前は?」
田島はボールペンを持っていない方の手で白髪混じりの前髪を掻き上げる。かすかにしわの走っている額が顔を出した。
「前?」
「耳鳴りの前、きみは公園で何をしていた?」
何をしていたっけ。
生暖かい水滴が頬をつたう。湿った臭いと血の臭いが鼻腔に流れ込む。手の感覚が薄れ、誰の物かわからなくなる。脈拍がはやい。息をしているのは肩だ。
何が見えていた?
モザイク。
何が聞こえていた?
耳鳴り。
思い出そうとすると頭の中で砂嵐が巻き起こる。耳の内側では蝿が叫ぶ。余計にわからなくなる。
「覚えて……ません」
「『覚えてない』、ね」
言いながらデスクに置かれたレポート用紙にボールペンを泳がせる。もう半分ぐらいレポート用紙は埋まっている。どうやら話している事を書き写しているらしい。らしいというのは、けしてモザイクで隠れているわけではなく、読めない字だからだ。その文字が医学専門の文字なのかただ下手なだけかはわからない。
「そう、傘はどうなったの? ちゃんと見つけたの?」
「見つけた……って、いうより……」
「あら、歯切れが悪いわね。あたしはハキハキした男の子の方が好きよ」
「お金払うんで帰っていいですか?」
「そう、そんな風に自分の意志をはっきり言う子が良いのよ。本当に十年後が楽しみだわ。でも帰っちゃダメ」
疲れが息となって口からこぼれた。
傘は……見つけてはいない。見つかったのだ。
公園に置いてきたと思っていた傘は玄関に立てかけたままだったのだから。
◇
公園を箱庭にするために植えられた木々。その葉のすきまから雲の細かな破片が落ちてくる。雨粒は顕微鏡でしか見ることができない、細かな虫のよう。好き勝手な方向へ踊りながら落ちていく。顔を空に向けてもあまりに細かいので水滴の感触はわからない。湿気だけが肌と話ができる。傘を閉じようかと一瞬だけ迷ったがそのままにしておこう。
灰色の、無彩色の世界だ。緩慢な時の中で空気は停滞している。その鈍さは何千枚もコピーした日々の生活に似ていた。
なぜ、再びこの公園を訪れる事にしたんだろう。あの時を境に始まった耳鳴りとモザイクの原因を知るためだろうか。自分でもはっきりわからない。そういうことにしておこう。
最近流行のファッションでも説明しようか。黒いローファーと白の清楚なソックスをはく。ローファーは猫が引っかいたような傷だらけなものが良い。ソックスはワンポイントがあってもかまわない。着るのは当然中学校で決められたチェックのスカート。そして最後にモザイクをかぶる。これが重要。上半身、すっぽりとだ。もちろん髪は長い方が良い。モザイクから少しだけつま先をのぞかせて、色っぽい感じに。つまりは腰に届くほど長い髪ということだ。さぞかし手入れが大変だろう。酸性雨のシャンプーを酸性雨のシャワーで洗い流し、紫外線で乾かす事をオススメしよう。だからかどうだかわからないけれど、彼女は傘を持っているがさしてはいない。
ブランコのすぐ横、最新の流行ファッションで身を包んだ女が突っ立っていた。
雨が彼女に降りかかる。土の中に染み込んでいくように雨は彼女の体に染み込んでいく。そして彼女は水と同化して無彩色の世界に溶けてしまうのだ、そんな気がした。
「犯罪者は犯行現場に戻ってくる」
突然、彼女が口を開いた。厳密に言えば顔にモザイクがかかっているため、口を開いたところは見ていない。しかしこの公園にいるのは自分を含めると二人だけ、単純な消去法だ。
反射的に聞き返そうとしたが、やめた。無関係だったら格好が悪い。演劇の台詞練習だったらなおさらだ。
「ねぇそうでしょ? 犯人さん」
モザイクの下に隠れた唇が形良い弧を描いているように感じた。傷だらけローファーがこちらを向いているのだから、きっと話し掛けられているのだろう。
「わけがわからない」
そもそも君が誰だかもわからないんだ。
知っている人間だとしてもモザイクの下では判別不能。男が付け毛を用いて女装しているという説だって捨てられない。
話し相手の表情を気にせず、彼女はさらに奇妙な事を言ってくる。
「傘、捜しに戻ってきたんでしょう?」
さて問題、僕の右手がつかんでる物は何でしょう? モザイクごしでは僕の片手に握られた傘すらも見えないのだろうか。と、すると変だな。モザイクが存在しているのは僕の視界の中だけであって物質的には存在していないはずなのだから。
「傘ならここにある」
「嘘」
「嘘言ってどうなるんだよ」
「傘、あなたの本当の傘を返してあげる」
彼女の言葉が終わると同時にモザイクの中から傘を握った右手が飛び出した。安物の透明のビニール傘。小さい頃『先が鋭いから目を刺すと大けがをしてしまいます。皆さん、振り回してはいけませんよ』と、先生が言っていた。繰り返し繰り返し、何度も言っていた。それでも振り回す奴は振り回すし、振り回さない奴は振り回さない。だがそんなことはどうでも良い。
一瞬だけ彼女の腕にモザイクがまとわりついて、分散した。
ここは太陽の光が遮られ、彩色を失った世界。時は緩慢にしか流れない、感覚の鈍った空間。その中で彼女の腕が発する色と臭いは、眼と鼻に鮮烈な痛みを与えた。
赤い。傘を差し出す彼女の手が赤い。
真っ赤だ。
雨に打たれた草の臭い。
朱の臭い。
それはきっと、血だ。
雨粒が彼女の赤い甲を叩いてまだらを作る。水と混ざって、血は量を増す。朱の水は甲の皿に治まりきらず、落ちて地に染み込む。
「何を驚いてるの?」
「……赤い」
血は雨に混ざってとめどなく落ちていくのだろう。薄まりすぎて朱は透明になっていく。しかし彩色を失った朱の涙は、土に浸透していくに違いない。
「当たり前じゃない。だって」
彼女は笑ったんだろうか。
モザイクで見えなかった。
「――――――――」
彼女の声が耳鳴りに潰された。耳の中の蝿は必死で羽をばたつかせ、音の侵入を阻止する。
「でしょ?」
「何が?」
耳鳴りは持続している。しかしその下で、かすかに聞こえた。
「あなたが殺したんだから」
耳鳴りが、止まった。
「だから今度は私があなたを殺す番。傘の先で何度も何度もあなたの腹を叩く。叩いて叩いて―――ツブス」
その声は降り注ぐ雨のように透明で、空気のようにゆっくりとした速さだった。
「物騒だな」
彼女の耳に届いた時、その声は震えているのだろうか。
精一杯の虚勢を背中に貼付けて歩き出した。
僕は逃げた。
◇
硬質な音が鼓膜を打ったので話すのをやめた。
ボールペンがスチーム製のデスクをトランポリンにしたのだ。
「いきなりミステリー風味ね。あたし、結構好きなのよ。特に本格ものはかなり好き。なんてったって事件を解決する名探偵といったらもう素敵詩的無敵よ」
「そんなことをいうために話を止めたんですか?」
「それだけのためじゃないけどね。それにその続きはないんでしょう?」
「まぁ、そうですけど」
そう答えると、田島は今まで話した事をレポート用紙に書き始めた。レポート用紙はもう、三枚目だ。
しばらくの間、室内にはボールペンの流れる音しかしなかった。部屋を締め切ってクーラーをつけているためだろう。外の音は聞こえない。風に揺られる木の葉の音も、暑さに溺れるセミの悲鳴も、田島の言う猫のぎゃあぎゃあ鳴く声もだ。
蝿が耳の横をかすめた。とっさに払おうとした片手がそのまま耳のまわりに収まった。
耳鳴りはしていない。ただ耳鳴りの幻想が聞こえただけ。
体操選手がリボンで円を描くように、蝿が視界の中で無秩序に円を描く。蝿の動きを追っていると、円の残像が見える気がする。
蝿の中には動物の肉を食べる蝿もいるらしい。きっと死体に群がる蝿はそういう種類の蝿だ。似たように、ホームレスの人間には蝿が群がっているイメージがある。逆に活気に満ちた人に群がる蝿を、ドラマや漫画ですら、お目にかかったことがない。元気がなく、死に限りなく近いもののそばにいる方が都合がいいのだろうか。死んだらすぐに食べられるように?
耳鳴りを紡いでいる蝿は何を思って、この耳の中に住んでいるんだろう。
踊りつかれたのか、空中で踊っていた蝿は休む事にしたらしい。休憩所は田島の膝上の白い猫だ。
おそらく、このデブ猫は神経まで太いに違いない。蝿が白い毛並みを荒らしても、気付かずに眠りつづけている。そのまま一生眠りつづけているつもりなのだろうか。
田島が唐突に静寂を壊した。
「で、女の子の持っていたビニール傘、見覚えはあるの?」
手にボールペンを持ったまま訊ねる。
「どこにでも売ってる普通のビニール傘でしたよ。近くのコンビにでは三〇〇円で売ってます」
「骨が折れていたとかはないの? ビニールの部分が破けてたとか」
「普通でしたよ。あ、傘の先にモザイクがあった気がしますけど……モザイクがかかるものとかからないものの境界線がはっきりしてませんから、泥でもくっ付いてたんじゃないですか」
「傘の方はそんなものか。それじゃあモザイクのかかっていた女の子の方だけど、その後進展は? 手がかりは傷だらけの黒いローファーだけね。現代版シンデレラじゃない」
田島の口調はどこか嬉しそうだった。少女趣味でもあるのだろうか。
「探してすらいません。今日ここに来なかったら忘れてましたよ。傘で殺すとか言ってたけど、冗談だったんでしょうね」
「そーゆーのは忘れた頃にぶすりとやってくるのよ」
ボールペンを置いて笑った。顔が歪んで嫌な表情だ。
「で、その女の子は長そでだった? それとも半そでだったかしら?」
妙な質問だったので聴き返した。田島は「そう、そで」と言ってわざとらしくうなずく。
「半そでです。傘を差し出したときに肘まで赤く染まってましたから」
「もう片方は?」
本当に何を言っているのだろう。
「普通半そででしょう?」
片方が半そでなら、もう一方も普通半そでだ。
「きみは見たの? しっかり見たの?」
「当たり前でしょう」
「いつ?」
「いつって……」
傘を差し出された時だ。
いや、それはない。傘を差し出したのは右腕だけだった。左腕は見ていない。
彼女に話し掛けられる前も左腕は見ていない。その時は上半身がモザイクに覆われていて両腕とも見えなかった。
つまりもう片方の腕は見ていない。けれど、よっぽど斬新的なファッションでない限り左右の袖丈が違う服があるわけない。
ずっと黙っている事を解答と見たのか、田島は
「普通、腹の辺りまでモザイクで覆われていても肘から下は見えるものよ。せめて手首の辺りだけでも見られれば長そでか半そでかを見分けるのは簡単だし。まくっていない場合に限り、だけど。あたしが思うにその子、胸の高さの所らへんで何かを抱えていたんじゃないかしら。あるいは手を胸に当てていたか……前者の方がありえそうだけど」
と言って、意味ありげに笑った。
「今度は……事件前についての話してもらおうかしら。そう、耳鳴りとモザイクの始まる前の話」
「いつからいつの範囲ですか? これと言って楽しい事なんかありませんよ。毎日ごくありきたりの中学生の生活。単調で平坦」
「しょせん人間生活の大部分はそんなもんよ。思い出になると素敵な事ばっかりが詰まった宝石箱に変身するんでしょうけどね。でもそんなものは幻想。だから自分の生活を卑下する必要はないんじゃない?」
卑下しているつもりはなかった。口調がそうだったのかもしれない。
「それじゃあ、きみの一日の生活について話してもらおうかな。大雑把でいいわよ」
言い終えて田島は頬杖をついた。
◇
日々はコピー。一枚の原画があってそれをコピー機に入れたままにしている。
一番憂鬱なのは横になっていた体を起こす時だ。セットした目覚ましはどういうわけかいつも解除されていて(どうやら気付かぬうちに消しているらしい)、お節介の兄が起こしに来る。それからきっちり十分間、二度寝してから体を起こす。制服に腕を通して、時間割を確認。朝食は食べずに家を出る方が多い。朝は、食べる気がしない。家を出るのは八時五分前後。
通学時間は十五分。その間は大抵本を読みながら歩いている。
学校に着いても本を読みつづけている。一時間目が始まってしばらくしてから眠気が引いてくる。授業態度はどうだろう。することがないからノートを写して、時々読みかけの本を読んだり。先生からは良い生徒として見られているんじゃないかな。要領には自信がある。休み時間は……やっぱり本を読んでるな。あまり話をしたりしない。
部活動はやってない。帰宅部。もともと運動関係は自信ないし、芸術関係も才能ない。文芸部に入ろうか迷った事もあったけれど、方向性がちがう。
帰り道は行く時に比べて少しだけ意識がはっきりしている。朝だと歩行者専用道路になっているせいだろう。車が来ると危険だから本は読まないようにしている。例の公園も通学路に入ってる。そこの近くになんか馬鹿にでかい一軒家があって、塀に猫が寝ている。田島先生の膝の上に乗ってる白い猫とそっくりです。ひょっとしたら同じ猫かもしれない。いつも日向に幸せそうに寝てるからうらやましくなる時もある。コピーの日々に満足しているなって。時々、道草して本屋に行ったりしてる。財布を持ち歩いてないから買ったりはしないけど。 家に帰ったら夕飯までネットか読書。
夕飯の時に少しだけテレビを見る。芸能人は少しだけうらやましい。だけどそれは華々しい職場だからというわけではない。毎日が繰り返しじゃないだろうから、だからうらやましい。そう思いつつも芸能関係に携わりたいとは思わない。
夕食の後はやっぱり本を読んだり、宿題をやったり(気まぐれだけれど)、風呂に入って、就寝。
ああ、なんだ。やっぱりつまらない。平凡で単調。多分これが原画。それをコピー機が大量にコピーしているだけ。
◇
「本ばっかり読んでいるのね。本を読んではいけないっていう条例が出されたらどうする?」
「何とかしますよ。本を読むのはただの暇つぶしですから」
「単調な日々から抜け出すために冒険や殺人の幻想を見るのかしらね。例えばの話よ。すっごく刺激的な……そう、例えば殺人とか強盗とか……をしたらコピーの日々はどうなると思う? やっぱり変わるのかしら。本を読まなくなるのかしら」
「はじめは刺激的な毎日でしょうね。だけどそのうち慣れてしまうと思います」
その返答は田島の期待を裏切ったようで、彼は一気に肩の力を落とした。顔が歪んでいる。怪しげに笑っている時よりかは数倍マシだ。
「猫の話でもしよっか」
「猫? 帰り道にいつも塀の上で寝ている猫のことですか? 最近見かけなくなりましたけど」
田島はうなずき、膝上の猫の背を一回だけなでた。
蝿は白い猫から飛び立ち、空中で一回旋をした。それから再び白い毛の中に舞い戻る。よっぽど居心地が良いらしい。
「この猫、実は迷い猫でね。ご主人さんが心配してるんじゃないかと思って、返そう返そうと思いつつもどこの家の猫かわからないのよ。この猫とその塀の猫、そっくり?」
塀の上で寝ている時はもっと気持ち良さそうに丸くなって寝ていたけれど、田島の膝の上は居心地が悪いらしく両腕を投げ出して死んだマネのよう。そこが違う猫のように見える。反対に、クリスマスに七面鳥の代わりに食べられそうな丸々太った体型はまったく変わらない。
多分、同じ猫だ。印象が違うのはいつも見かける塀の上にいないからだろう。
今度はこちらがうなずく番だった。
「馬鹿でかい家に住んでいるのはどんな人なのかしら? 美少年だと嬉しいわね」
「はずれ。確か同じクラスの女子が住んでいます……名字は何だったかな。金持ちっぽい名前でしたよ……あ」
「どうしたの?」
「ひょっとしたら例の公園にいたモザイクの女。その馬鹿でかい家の女子かもしれない。小学校が同じだったからここらへんの地区に住んでいるだろうし……学校帰りに見たことがあったな」
「髪は? 確かモザイクの子は腰ぐらいまであるんじゃなかったかしら。そのくらい長い子ってそう多くはいないわ」
「長いです。なのにいつもストレートで、暑苦しいなって思ったことありますから」
言い終えて気がついた。だからなんなんだ。
「別に、どうでも良い話ですけどね」
「そうかしら? まぁ君がそう言うのならそれでいいわ。じゃあ最後に一つ。最近、昔なじみの人と……例えば転校したすっごい仲の良い友達とかと話したり、手紙がきたりした?」
驚いた。
「読心術?」
「まっさかー。ああ、でも当たってるならその時の話をしてチョーダイ」
◇
たしかモザイクと耳鳴りが起きる一週間くらい前だったと思う。丁度、期末考査が終わった日だ。
久しぶりに幼なじみの声を聞いた。何か月ぶりだろう。家が近いからいつでも会えると思っているうちに冬と春を抜かして夏になっていた。
最初に来たのはメールだった。幼なじみの方は期末考査最終日の前夜だったらしい。わからない数式を教えてほしいという内容だった。一度メールで返したが、それでも相手の方は理解できなかったらしい。数分後に電話がかかってきた。
「そっか……それでこの公式を使えばいいわけか。なるほどなるほど。うんうん、納得」
受話器の向こう側で何度もうなずいている幼なじみの顔が容易に想像できた。首を振りすぎてせっかく教えてやった解法が抜け落ちてしまうのではないだろうか。
「こんな問題、先生に聞けよ」
「あーだめだめ、教え方が悪い。お前の方がよっぽどマシ」
「マシ?」わざと同じ言葉を反復した。「そうか。マシ、ね」
そうすると向こう側は慌てて平謝りをしてくる。けれど、どこか笑いの気が混ざっている。『許すよ』などと無駄な言葉を言わなくても冗談だとわかってくれているのだろう。
「とにかく、今回の数学は何とかなりそうだ」
「っていってもおまえだったらそこそこ取れるんだろう?」
乾いた笑い声がそよいできた。
「そうそう最近どうよ?」
相変わらず話を切り替えるのが下手だ。中学の方でも馬鹿正直に生活しているのだろう。
「どうよって……何が?」
「元気にしてるかってこと。最近会ってないじゃん」
どうやら同じことを考えていたらしい。聞いてくる質問はくだらないけれど『そのうち会おう』などというむなしい約束を強制してこない性格は嫌いではない。
「それなりに」
「それなりにじゃわかんねぇよ。不健康な生活を送ってないのか? 夜寝るのはいつも十二時以降だとか」
「普通じゃん」
あと二分で長針と短針が時計盤の一番上で重なろうとしている。あくび混じりの嘆息が鼓膜に入り込む。
「不健康だよ。こんな時間帯に起きてるのは数学テストの前日ぐらいだ」
「で、お前の方はどうなんだ?」
「なにが? あー、元気元気。かなり元気」
「学校は?」
秒針が三歩進む間、空白だった。
「最高」
突然、耳の中に雑音が走る。蝿が目覚める。
おかしい。
「かなり最高」
その日は期末考査が終了した最初の夜で、梅雨が明けたばかりだった。昼間の日差しは強かったけれどセミはまだ鳴いていなかった。それに、そのときは真夜中で虫が鳴いているはずがない。
幼なじみは変わらない口調で喋りつづけている。
「充実してるってやつかな。特に部活が――」
使っていた電話が子機だったからだろうか。ならもっと早くからノイズが聞こえたはずだ。
なのになぜ?
それにこれは……鼓膜の内側から聞こえてくる。
どうして?
どうしてあの時、幼なじみの声と重なって耳鳴りが鼓膜の内側で響いていたのだろう?
◇
「どうしたの?」
田島は首を傾けた。
話の途中で黙り込んで、いつまでたっても話を再開しないのを不思議に思ったのだろう。
「耳鳴り」
「今、しているの?」
「ちがう。電話をしていて……それで、そのときに耳鳴りが……」
「そのときにはもう耳鳴りがしていたわけ? 耳鳴りの最初は雨の日の公園じゃなかったの?」
そうだ。耳鳴りとモザイクが発生したのはあの雨の日だった。少なくとも今の今までそう思いつづけていた。
それでも呼び起こす記憶の中に幼なじみの声と重なって耳鳴りがしている。
「耳鳴りが次第に強くなって、最後には彼の声が聞こえなくなって……」
「原因はわかる?」
首を横に振る。
同時に、蝿の羽音が鼓膜の内側から発生する。
耳鳴りだ。
次第に強まっていく。
白い猫の背にいた蝿はもういない。鼓膜の中のねぐらにでも帰ったのだろうか。
「いえ、わかるはずよ」
耳が生暖かい。蝿が熱を出したのだろうか。
「わからない」
「耳の中に指を突っ込むのはやめなさい」
言われて指の位置を探す。探すまでもない。田島が言っていたとおり耳の中に指を突っ込んでいた。
耳から手を離すと次第に耳鳴りはやんだ。耳の中に広がっていた生暖かさも抜けていく。
けれども白い猫の背にいた蝿は消えたまま。どこに行ったのだろう。
「そろそろ耳鳴りとモザイクの原因がわかったんじゃないの?」
田島は口の両端を持ち上げる。微笑みかける、というやつだろうが年の過ぎたオジサンがやるのは怖ぞ気立つものがある。しかし腐っても医者。そういうことを聞くからには原因がわかっているのだろう。
「田島さんはわかったんですか?」
「ええ……だいたい、ね。真実は常にシンプル。そうね……あたしの場合、自転車の鍵であれ何であれ、探しているものは常に目の前にあるわ。いつもそう。それと同じように手品師は観客の目の前でタネを仕込む。こそこそするよりもタネがばれる可能性が低いからね。どうして気付かないのかしら? きっとあたしも観客もくだらない幻想を見ているんでしょうね。真実ってそんなものなのよ」
この人は何を言いたいのだろう。全くわからない。
「手品師がタネをばらさないのは何のためかしら。きっと幻想を朽ちさせないためね。……だけど残念な事にあたしは手品師じゃないのよ」
言って田島は椅子から立ち上がった。
田島の膝から猫が落ちる。田島の膝から赤い猫が落ちる。一切回避行動をとらずに落ちていく。四肢はだらしなく投げ出したまま、丸くなろうとする素振りすら見せない。
猫は床で一度バウンドして、仰向けに倒れた。うめき声一つあげない。黙ったまま、一ミリも動かない。一度腹部の当たった床は赤いペンキをこぼしたようだった。
その猫は死んでいた。
眼は白く濁っていた。口がだらしなく開いている。腹の毛は血で固まっている。尿が滴る。脱糞もしている。猫の腹は開いている。だが綺麗に開いているわけではない。先の鋭いもので何度も刺されたような、こじあけられたような開き方だ。赤い。黄色い液は膿だろう。サンタが持っているプレゼント袋の中を見ているようだ。理科の授業で習った記憶のあるものがごちゃごちゃと入っている。けれど教科書の挿絵のように並んでいないのでどれが胃で、どれが腸かもわからない。こじあけられた腹の中でうじがうごめいている。軍隊のように同じ方向へ進もうとせず、同じタイミングで立ち止まろうともしない。空から降り注ぐ雨のように好き勝手に行きたい方向へ進み、休みたければ休む。
顔を上げた。田島の膝の辺りが赤く染まっている。
「あなたが殺したんですか?」
自分が冷静だということを自覚していた。
「違う」
じゃあ誰が、と訊ねる前に。
田島が答えた。
「きみが殺したのよ」
割けた腹の上で巧みに脚を動かしていた一匹の蝿が、飛んだ。
一瞬だけ耳鳴りが聞こえたような気がしたけれど、鼓膜の外側からだった。
「最初の雨の日、ほら最大ボリュームで耳鳴りが聞こえたっていった日、あの日あなたはあの公園でこの猫を殺したのよ。ビニールの傘で、傘の先で、何度も猫の腹を叩いて」
何を楽しい事を言っているのだろう。
鼓膜の内側から本当の耳鳴りが聞こえてくる。二次関数のグラフのように耳鳴りのボリュームが上がっていく。たちまち最大音量に達した。
「人の話は聞くものよ。耳をふさぐなんて失礼じゃないの」
田島は僕の両手首をつかんで、耳の中につっこんでいる指を引き抜いた。
「耳鳴りなんて幻想。虫の羽音? 笑わせないでよ。聴きたくない音を聴かないように耳をふさいでるだけじゃない。そうね、あなたが耳鳴りと勘違いしたのは血流の音じゃないのかしら。突っ込んだ指のね。実際に他覚的耳鳴りの大半は血管をとおる血液の音が原因だそうだし」
手首をつかまれたままだったので、黙ったまま田島の両手を払った。強く叩いたために鋭い音が響いたが、田島は表情一つ変えない。口の端を持ち上げたまま不敵の堅城を崩さない。
「殺している猫の叫び声を聞きたくなかったんでしょうね。だから耳をふさいだんじゃないかしら。それがいつの間にかに耳鳴りになったというわけ。この診療所に来る時も耳鳴りがしていたっていってたけど、それはきっと野良猫のぎゃあぎゃあ鳴く声を殺した猫の叫び声と錯覚したんじゃないかな。猫の鳴き声の違いなんてわかるもんじゃないし。電話の耳鳴りになるとかなり顕著だわ。聴きたくないのは猫の叫び声だけじゃないものね。毎日が楽しい幼なじみ君がそんなにうらやましい? 自慢話なんて聞きたくないもんね」
あながちありえない話でもない。
だけど、だけど猫を殺してなんかいない。そんなサイコな人間じゃない。
「たしかに聞きたくない音を聞こえなくするために耳鳴りが発生しているのかもしれない。だけど猫を殺してなんかいない」
「きみの両腕の傷は何が原因なのかしら? あたしには殺される猫が抵抗した跡にしか見えないわ。それに例のモザイクの女の子だって指摘してくれたじゃない。彼女の手が赤かったのはこの猫の死骸を抱えていたからよ。きみは勘違いしていたようだけど『あなたが殺したんだから』って言うのは女の子の抱えていた猫のことね」
「ならモザイクの方は?」
この調子なら『目に入った雨粒をモザイクと勘違いした』などといいかねない。それとも『猫を殺している時、君は泣いていたのよ』とでも言うつもりか。
「思い込みよ。見えないふりをしているのよ。あたしが持ってきた小鳥の死骸は猫の死骸とかさなっちゃったんじゃないのかしらね。そろそろその猫君も見えなくなっちゃってるんじゃないの?」
図星だった。
視界のはじから、モザイクは侵略を始めていた。
モザイクで視界全てを覆われたら田島の戯言を認めることになるのだろうか。嫌だな。けれど本人の意思に構うことなくモザイクは広がっていく。
体が重い。膝が床に着いた。肩もだらしなく落ちる。首が鎌首になる。立ち上がろう、肩を上げよう、首を持ち上げよう。そう思っても体に力が入らない。
コンクリートがむき出している床だけを見ている。猫はどこに行ったのだろう。モザイクに喰われてしまったのだろうか。
「目をそらすな!」
田島は僕の前髪をつかんだ。そのまま開いた腹の前に僕の顔を押し付ける。髪の付け根が痛い。開いた腹が目の前にある。うじが動き回る。再び戻った蝿が羽をこすり合わせて音を作る。耳鳴りだ。反動で細い足が震えている。
布に水が染み込んでいくように、一瞬でモザイクが広がる。
血の嫌な臭いが絶え間なく鼻腔に注ぎ込まれていく。それはこの部屋に入った瞬間に感じた不快な臭いだった。あの腐臭は小鳥の死骸が発していたものだけではなかった。小鳥一匹の死骸だけではたりない。
血の臭い。腐肉の臭い。蝿の羽音。濁った目の色。うじの動き。臓物の形。脱糞の臭い。黄ばんだ肉の色。猫特有の臭い。毛の色。血の色。真っ赤だ。
雨に打たれた草の臭い。
朱の臭い。
殺したのは―――僕だ。
耳鳴りもモザイクも、止まる。
そうだ猫を殺した。猫を殺したのは僕だ。それが真実だ。なのにわからない。どうして殺したのかわからない。内に潜む狂気だろうか。馬鹿馬鹿しい。どうしてだ。どうしてビニール傘の先で何度も叩いてこの猫を殺したんだろう。猫が嫌いだったのか。だったら殺している時に耳をふさぐものか。恍惚と耳を立てるのがふつうだろう。どこかずれている。矛盾といえるほどではない。わずかなズレがある。
本当に、この両手が猫を殺したのか。
自分の事が、わからない。
「どうして僕はこの猫を殺したんですか?」
言いながら顔をあげた。田島の驚く表情が見られるかと思ったが、彼の表情はやはり変わらない。
「きみはどうして本を読むの?」
相変わらず遠まわしに聞いてくる。僕は何も答えなかった。
「どうして麻薬の常用者はどんどん麻薬の量を増やしていくのかしら。簡単よね。慣れてしまうのよ」
「読書以上の刺激が欲しくなったから……だから僕は猫を殺したって?」
僕は笑った。
馬鹿馬鹿しい。
「なら猫だけでは刺激が足らなくなって、いつか人を殺すんですか? 連続殺人鬼、ここに誕生というわけですか?」
「それはないわ。猫殺し以上はエスカレートしない」
「矛盾している」
「ええ。だけど更なる刺激を得たところでそれはほんのわずかな間の魔法。コピーの日々はすぐに戻ってしまうことを知ってしまったからね。聡明なきみなら無益な事なんて繰り返さないでしょう?」
聡明かどうかはわからない。けれどこの瞬間から、猫を殺す事も人を殺す事もないだろう。
全て無駄、なのだから。
ただでさえ白く殺風景な部屋の中から色が抜けていくように思える。
後ろには夜の遊園地がある。星よりもネオンの光が輝いている。黒い宝石箱のようだ。パレードの音はやんでいる。子どもの僕は母親に手を引かれ、ゲートを抜けて、遊園地から遠のいていく。
ほら……帰るわよ。戻らなくっちゃ。母は言う。
「どうすれば……どうすれば抜け出せる? コピーの日々は終わる?」
「あたしが知るわけないじゃないの」
「それでも医者かよ」
田島は顔を潰した。「しょうがないわね」と、わざとらしいため息をはく。
「ヒント。きみは猫を殺して何を得た? それを隙間にして毎日をこじあけてごらんなさい。それでダメだったら……」
田島は声を詰まらせることなくはっきり言った。
「一生ダメね」
本当にここは診療所なのだろうか。本当に彼は医者なのだろうか。
もう痛みを感じない。塩を塗られすぎて感覚が麻痺している。
「死んじゃった方が楽よ。治療は終わり。お代は結構。あなたのお兄さんから貰ってるからね。さ、外まで送ってってあげる」
言いながら田島は白いドアを開いた。
◇
診療所の中と外では温度差が激しい。熱気が体にまきつく。足で帰るのが憂鬱だ。
「ところで、いつ猫の死骸を手に入れたんですか?」
「予約をもらってすぐよ。何日もね、頑張って調べたの。公園の近くの家を回ったりしてね。例の女の子にも会ったわ。公園で何があったかも教えてくれたし、きみが彼女の猫を殺した事も教えてくれた。きみがこの診療所に来る五時間前には全て整っていたわ。猫の死骸の臭いは香水をふりかけても消えなかったけど。あら、もう行くの? それじゃあ、また十年後」
「さっき死んだ方がいいって言いませんでしたっけ?」
「楽とは言ったけど、それはあたしの望むところじゃないわ。いろいろ成長しているでしょうし、ね。すっごく楽しみにしているからね」
「さようなら」
「十年後ね!」
「一生来ませんよ」
振り返らずに言った。田島が遠くで何か言っているようだけれど耳に指を突っ込んで聞こえないようにした。けれど耳鳴りはもうしない。
十年後、はたして僕はあの診療所を訪れているのだろうか。
顔を上げ、降りかかるこもれびを直視する。葉々の隙間に見える光の空が十年後の空に見える。こじあけて見てやろうかと思った。
けど、やめた。
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