狂信者による『ブラッドジャケット』講座

 古橋秀之先生の「ブラッドジャケット」は、ひとたびそれを読んだ者であれば人種、信条、性別、社会的身分又は門地を問わず誰であれ一日五回、聖地の方角に向かって「古橋秀之は偉大なり!! 古橋秀之の他に古橋秀之無し!! ○○(←自分の名前を入れましょう)は古橋秀之の下僕なり!!」と魂の底から叫んでしまうような(注1)超級傑作である。
従って、本来ならこのような手を触れることすら恐れ多い神域の作品を、模試の結果を見て「うっわやっべ俺英語最悪じゃん」「ばっかヤロ、俺の数学の点を見てみろよ」などと不幸自慢をしあっている浪人生が解説するなど言語道断、「もっと身のほどを知れ。あと英単語も」とお叱りを受けそうであるが、ま、まあいいじゃん。
 さて、このような批評・解説を行う場合、全体を貫く一つのテーマを設定、それに従って作品を解体していくのが常道と思われるが、私はそれを敢えてそれを踏み外す。
 何故ならそれは私が自分の人生自体を踏み外しているからだとかそういうことではなく、何かテーマを一つにしぼってしまうとどうあがいても解説し残す部分が出てしまうからである。本来ならそういった部分は「紙幅の関係上語り残したことは多いが」などと物理的制約に責任を転嫁するものらしいが、当然ながら敬虔な信者としてはそういうことをやるのは許されない。誰が許さないかは現在調査中である。
 しかし私は、このことについて昼夜授業中を問わず考え抜いた末、ある素晴らしい抜け道を思いついた。テーマを「古橋先生はいかに偉大であるか」にしてしまえば、先生を褒め称える内容であれば何だって書けるではないか! そういうわけで、もはや初っ端から飛ばし過ぎの感があるが、以下、「ブラッドジャケット」を読み解きつつ、古橋先生の偉大さを検証していこうと思う。


1、血の赤と薔薇の赤

 「ブラッドジャケット」という傑作を傑作たらしめている極めて重要な要素として、古橋先生の張り巡らした恐ろしく入念な雰囲気作りが挙げられる。キーワードは「血の赤と薔薇の赤」だ。
 この作品は基本的に、主人公の少年、アーヴィーの視点と別のキャラクターの視点や物語がダブルチーズバーガー(注2)のようにお互いを挟みあう形式になっている。この視点の移動を主軸として時間的・内容的断絶を考慮に入れつつ作品を分割すると、大きく十七の大段落に分けることができる。より正確な言い方をすれば、後に述べる理屈に都合がいいように十七に分けたのである。(注3)
 そして実にこのうち十六の大段落において、必ず血か薔薇のどちらかが登場するのである。いたるところで死体や人死にが出るので血には事欠かないし、薔薇にしても時に本物の生きた薔薇として、時に薔薇によく似た匂いを放つ霊薬として、形を変えつつも頻繁に姿を見せる。
 体内を循環する血は「生」の象徴であるが、外に出た血は「死」あるいは「重大な事故」を象徴する。同じく「赤」は本来活動的で明るいイメージを持つ色だが、棘や過ぎた高級感というマイナス要因を持つ薔薇がそれを代表することによって「退廃的な美」「非道徳的な享楽」のイメージが強く押し出されている。
 加えて、本作の舞台はその大半が積層都市ケイオス・ヘキサの下層部分、陽光もほとんど届かぬ半永久的な夜の街だ。そのような舞台設定とあいまって、血と薔薇はサブリミナル効果のごとく、気づかないうちに読者の頭を麻痺させていくのである。
 たとえば作中、アーヴィーとヒロインのミラが「フック兄弟ごっこ」をするシーンがある。ごっこと言ってもやってることは本物の連続強盗殺人なわけであるが、何故かこの事に嫌悪感がわかない。別に悪人を懲らしめている、というわけではないし、あまつさえ二人は楽しいとまで言っているのに、である。これは二人の行動を非常に無邪気に書いているから、というのもあるが、それ以上に読者の頭が作品の持つ退廃的な雰囲気に浸りきっているからではないだろうか。
 しかし血にしても薔薇にしても、しばしば自己主張をするものの、基本的に地の文の中に潜んでいることが多い。また、血も薔薇もそれぞれが独立している状態である。おそらく三分の二を読んだ辺りではまだこの二つが重要な役割をしていることに気づかないだろう。この辺りの「隠し方」の巧さには舌を巻くしかない。
 だが二つのキーワードは物語のクライマックスにおいて、その「赤」という共通項を元に魔術じみた融合を果たし、前面に押し出される。その部分を引用しよう。ミラの遺体を担いで逃げるアーヴィーが、追撃してきた呪装戦術隊員を大口径拳銃で射殺する場面である。(注4)

 空中に花のようにぱっと散る血煙を見て、アーヴィーは、きれいだな、と思った。
 その拍子に一つ、思い出したことがあった。
 そういえば、ミラに約束してたっけ。
 いっぱいの、紅い花。

 震えがくるほど凄まじい技量である。この直後、アーヴィーの副次的人格「修羅」が完全に発現し、呪装戦術隊2ユニットを皆殺しにするのであるが、そこら中に散らばる死体と飛び散る血は全て赤薔薇の美しさに変換され、スプラッタ映画のごとき惨劇は花畑へと変化し、読者は「極めて純粋な攻撃衝動の塊」たる修羅(つまり異常な精神状態であり、感情移入しにくいもの)と感覚を共有してしまうのである。
 さらに血と薔薇は、それが存在しないことによって更なる演出効果をもたらす。先に挙げた十七の大段落のうち、唯一血も薔薇も登場しないのは一番最後の大段落だ。アーヴィーが積層都市を抜け出し、東へと向かう場面である。(注5)
 空間的には無限に開放された都市の外。時間的には夜明け。「新たなる旅立ち」と「復活」だ。ミラの死によって悲劇的結末を迎えた物語だが、この最後のシーンが存在することによって読者に救いをもたらすのである。
 読む者をぐいぐいと作品の中に引きずり込んで離さないこの見事な手法……古橋秀之は偉大なり!! 


2、少女は男を眠らせない

 小説を面白くするものは何か。人によって意見はいろいろだろうが、私は世界観、ストーリー、キャラクター、文章力の四つだと考える。そして実に「ブラッドジャケット」はこの全てにおいて超A級の完成度を誇るわけだから、これでこの作品が面白くなかったらそれは信者としてどうかと思う。
 さて、このうち文章力についてはその片鱗が上記「血の赤と薔薇の赤」からうかがえると思うが、本格的に論じるにはまだ私の見識が足りないので、置く。
 また世界観については「ブラックロッド」「ブライトライツ・ホーリーランド」と共有しており、「ブラッドジャケット」一作で論じたくない。詳しくは大学合格後に作るであろうホームページ「ケイオス・ヘキサ広報局」にて詳細に解説する予定である。
 ここでは残ったストーリーとキャラクターを、ヒロインであるミラを中心に考えてみたい。

 「ブラッドジャケット」では主要登場人物のほとんどが、二重人格とは言わないまでも、明確に異なる二つの面を持っている。
 たとえばアーヴィーの場合は「内気で真面目で吃音のある少年」と「修羅」である。ミラの父親であるウィリアム・ヘルシングの場合、「対吸血鬼戦の専門家」と「一児の父」といえる。吸血鬼ロング・ファングでは「人」と「吸血鬼」とするのが適当だろう。そしてこの物語では、それぞれの二つの面の反発や融合がストーリーを生み出しているのである。 
 本作は多くの王道作品がそうであるように、アーヴィーの成長の物語だ。それは彼の二面性が共存し、反発し、融合し、最終的に昇華されて一つ高次元の人格へと至る物語である。実際、二つの面の関係がここまで変化したのは彼以外にはいない。
 そしてこの変化に極めて重大な影響を及ぼしているのが、これも王道といえば王道だがヒロイン役のミラなのである。
 吸血鬼に襲われることで発現したアーヴィーの副次的人格「修羅」は、吸血鬼化した同僚や母親を撃つことで次第に思考力、判断力、肉体の操作を主人格から奪っていくわけであるが、この時修羅はその定義通り「極めて純粋な攻撃衝動の塊」であり、知り合いですらいきなり射殺しようとするほどである。
 しかし修羅は「坊主」との対決に完敗したことによって、銃をさわるのも嫌になるほど後退してしまう。この後退した修羅を、その攻撃衝動を制御しつつ成長させたのが、ミラなのだ。
 修羅は、フック兄弟ごっこを通じて、目的としての殺人ではなく、手段としての殺人を覚えていったのである。またこの時、主副の両人格はその深部で一部融合していたと考えられる。主人格は強盗殺人が楽しくなってきたし、修羅は無駄な殺しをしなくなった。寝たきりだった彼の実の母とは違う、能動的な母性を持つミラに影響されたのではあるまいか。
 そしてクライマックス。ミラの死を目の当たりにすることで、両者はさらに変化し、融合を強める。主人格は初めて自分から銃を取った。修羅は初めて自分以外の者の為に銃を撃った。まだそこに至るまでの過程は明らかにされていないが、何年か後に修羅を制御し、道士「鉤」となって現れる彼の姿の片鱗が見える。(注6)
 さてここで一つの疑問が沸く。
 作中、ミラはアーヴィーに対し、時に母親のように時に恋人のように接し、彼を変えていくわけだが、それ自体は特に目新しくは無い。現実世界ではどうだか知らないが、フィクションの世界では男性キャラが恋人に母親を投影するというのはありふれた話だ。
 問題は、何故ミラは十二歳なのか、ということだ。恋人に母親を投影する、という設定の場合、恋人役は男性キャラより年上、最低でも同い年でないと説得力が出ない。ところが、アーヴィーは推定十七歳前後のはず、ミラとは五歳近く離れている。しかし作品全体を見回してみても、ミラがハイティーンであってもさして破綻はしないように思える。
 そういえば、「ブラックロッド」においてもヒロインであるヴァージニア・セブンとヴァージニア・ナインは外見年齢が十二歳程度だった。また、「ブライトライツ・ホーリランド」にも面白い記述が見られる。引用しよう。(注7)

 上体を屈め、スレイマンに白い顔を寄せ、ヴァージニアはささやいた。赤い唇の隙間から、桃色の舌がちろりと覗いた。
(中略)
 「舌」はスレイマンの左頬のただれた傷跡をなぞり、舐め上げ、左目の霊視眼に触れた。そして、感触を楽しむように眼球を舐め回したかと思うと、眼窩からそれを抉り出した。
(中略)
 ヴァージニアはもう一度言うと、眼をつぶり、顔を傾けて、赤い血を流すスレイマンの眼窩に口づけた。

 妙に色気のある描写だが、ここに登場するヴァージニア・オーの外見年齢は十四歳なのである。
 これらの事実から推測するに、おそらく古橋先生はロリコげふんげふん、失礼、おそらく古橋先生は、「少女」という一つの象徴を使うことで、その登場人物の性質をより際立たせるようにしているのではあるまいか。
 たとえば、ヴァージニア・シリーズはフォーを覗いて全員がローティーンであるが、これは彼女らの本質が魔女であることを完璧に覆う。だから「ブラックロッド」において、ひたすら可憐で繊細な乙女を演じていたヴァージニア・セブンの真意を知ったとき、読者は魔女の何たるかを知り、その狡猾さに戦慄するのだ。「少女」という仮面を前面に押し出し、最後の最後で「魔女」の本質を見せつけることで、読者により強烈に魔女のイメージを与えているのである。
 一方ミラの方は、この手法がさらにもう一ひねりして使われている。
 物語のほとんどにおいて、ミラの行動は非常に合理的で、とても十二歳の女の子とは思えぬ決断力の持ち主として描写されている。それはもちろん彼女の脳にいる「魔物」の存在に因るところも大きいだろうが、それ以上に血筋が関係しているだろう。作中の言葉を借りれば「的確にして迅速。感傷も動揺も入る隙がない。彼女もまた、ヘルシングなのだ」(注8)ということだろう。いわばミラは「ヘルシング家の一員」と「十二歳の少女」という二つの面を持っていると言えよう。
 ところが、物語の終盤において、ミラは実の父親であるウィリアム・ヘルシング教授に銃をつきつけられる。(注9)この場面はアーヴィーの一人称で語られるのだが、まさにこのわずか数行のためだけにこれまでのミラの描写があったのだ、という部分が存在する。(注10)

 ミラのあんな表情は、初めて見る。
 ああしていると、まるで── 
 小さな女の子みたいだ。

 なんという恐るべき一文であることか。わずか一瞬、この部分を読むために必要な一秒にも満たぬ時間で、ミラに対するイメージを完全に逆転させてしまっているのだ。
 この場面、たとえばミラがアーヴィーと同じ年齢だった場合、読者の受ける衝撃は半減する。十七歳といえば、肉体的にはほぼ成人しているし、早熟な者であれば精神的にも大人とそうは変わらないだろう。しかしこれでは、「圧倒的な理不尽の前に為す術も無く立ちつくす」というシーンを演出するのに、「かよわさ」が決定的に足りない。やはりミラは「少女」でなければいけなかったのだ。
 それにしても、まさに神技としか言い様のないキャラクター造形の見事さである。これほどまでに巧みに人物を構築し、それを魅せてくれる人がいるだろうか……古橋秀之の他に古橋秀之無し!!


 さて、どうやらこのあたりで書くことが尽きたようである。文体や世界観やパロディなど、シリーズ全体を通じて語りたいことはまだ数多くあるのだが、「ブラッドジャケット」単体だとこれぐらいでまとまってしまった。また、各シーンごとに細かく解説することもできる(特にハックルボーン神父の回想の場面と、ヘルシング教授がヴァージニア・スリーと共にミラの病室を訪れる場面は言いたいことがかなりある)のだが、これをやりはじめるとおそらく百枚を突破するであろうことが予測されるので、遠慮させていただいた。
 しかしそれを差し引いても、今回のこの書評(?)は「ブラッドジャケット」の魅力を万分の一も伝えていないことに気づいた。
 結局私は、古橋秀之という広大無辺な大海原のほんのコップ一杯分をすくいとり、その海水の成分を示しただけなのかもしれない。そんなもので海の偉大さ、神秘さを表せるわけがないのに。
 だが、これでいいのだ、とも思う。私ごときに汲み尽くせてしまうようなものなど、はなから信仰の対象たり得ないではないか。読むたびに発見がある。一生涯かけても追いつけない。だからこそ読まずにはいられないし、追いかけずにはいられないのだ。さあ信者諸君、限りない感動と憧憬と崇拝の祈りを込めて、共に叫ぼうではないか。
 我らは古橋秀之の下僕なり!!


 注
(1)意味がわからない人は、日本国憲法第十四条と古橋秀之著「ブライトライツ・ホーリーランド」167ページを見ましょう。
(2)バリューセットならドリンクとポテトがついてさらにお得。
(3)具体的に言うと、1、P13〜P28 2、P31〜P47L13 3、P47L17〜P53L8 4、P53L12〜P65 5、P69〜P84L2 6、P84L6〜P94 7、P97〜P109 8、P110〜P119L3 9、P119L6〜P130(ここ、ちょっと卑怯) 10、P113〜P149 11、P150〜P157L7 12、P157L11〜P165L12(ここもちょっと強引) 13、P165L16〜P176(どんどん都合に合わせて分割してるなあ) 14、P179〜P202L5 15、P202L9〜P207 16、P211〜P222 17、P255〜P257 に分けてみた。
(4)P225L5〜より
(5)P255からのエピローグの部分より
(6)しまった、真面目に語りすぎた。
(7)「ブライトライツ・ホーリランド」P174L8〜P175L10より
(8)P164L15より
(9)この辺りのいきさつも、先に挙げた二面性の対立があって興味深い。娘のために対吸血鬼戦の専門化になったはずのヘルシング教授が、吸血鬼戦の専門化として娘を殺そうとするのである。
(10)P216L13〜より



トップへ。