風薫る、浙江省龍泉は破雲峰──。
断崖へ突き出た岩場に、少年がひとり。歳は十ほど。質素な短衣から伸びた手足は日に焼けて、表情までもたくましい。狭い足場ながら危なげな様子はなく、少年──劉子羽は舞の稽古に熱中していた。
ときおり、離れた岩の上に座した白髯の老爺から、短く叱責が飛ぶ。
季節は春の盛りである。高みから見渡すふもとの柳は新緑に萌え、咲きほころぶ花は紅い。雪解けの滝は虹を架け、小鳥の楽しげなさえずりも聴こえてくる。
なのに、朝もやの晴れた岩場はぴんとはりつめた冷気につつまれ、肌寒い。
吐いた息が白く濁る。
子羽は指先まで気を配り、老爺に教えられた舞の型を思い描きながら演舞する。精妙に、寸分の狂いなく基本を正しく反復することで、型を体に覚えこませるのだ。頭で理解したところで上達にはつながらない。だから子羽は繰り返し、型の稽古を続ける。
ゆるゆると流れる、雲に似た挙措。
重みを感じさせない、独特の足運び。
薄く開いた眼を光らせる老爺は小さく頷き、子羽の動作を見守る。
子羽は竜爪をかたどった両手でしなやかに弧を描く。簡単そうに見えて、これが案外と難しい。爪先立ちしながらも重心を揺らさず、滑るように歩を進める。
「だいぶ形になってきたのう、子羽や。じゃが、次の型を体得せぬかぎり夏神楽で岩舞台には立たせられんからの。気張って精進じゃ」
「はい、師父!」
応えた子羽は気を引き締め、上体を落とす。
地に伏せる格好から一気に地面を蹴り、勢いよく飛翔する。
『竜神楽舞』は『臥竜天舞』の型である。
空中で身をひねった子羽の視界に、逆転した天地が映る。
(違う!)
ひらめいた直感。落下する子羽は浮遊感をもどかしく思いながら、岩場の先端へ着地をきめる。
子羽はそっと老爺の様子をうかがう──しかし、老爺の姿が忽然と消えていた。
「こりゃ、子羽や」
ぽかり、と背後から叩かれて子羽は頭を抱えた。
「手本でみせた『臥竜天舞』は酔った蝿がふらふら飛ぶような型じゃったかの?」
穏やかな顔ながら詰問してくる老爺に子羽はふるふると首を振る。
「ちがうよ。師父のは竜が天に昇るような型だったもの」
「そうじゃろう。ふむん、ならばわしが誤って教えたわけではないのじゃな?」
「うん。オイラが下手なだけで、もっと練習すれば師父みたいにできる──はず」
「よう言った。ならば、できるまで稽古に励むんじゃ。──なに、昇竜の心さえつかめばおのずとできる」
言い置くと老爺はすたすたと山頂へと家路を歩き始める。
「あの、じっちゃん──でなくて、師父。朝食──の用意とか、は?」
腹をすかせた子羽を見透かすように、老爺は立ち止まって言った。
「特別に免除しておこう。何なら昼飯の用意もせんで良いぞ」
陽気に笑いながら坂道を登っていく老爺の後姿が見えなくなると、子羽はへなへなと岩場の上に座りこんだ。
さっきから腹の虫がぎゅるぎゅると鳴いてうるさい。
育ち盛りの子羽には一食抜いただけでも餓死しそうなほど、こたえる。
(きっと、昼飯も抜きだ……)
悲観的になるのも、『臥竜天舞』の型が一日やそこらで修得できるはずもないからだ。『竜神楽舞』の基本的な歩法でさえ、この一年間みっちりとしこまれてようやくできるようになったばかりである。
(稽古は厳しい、ってじっちゃんは言ってたけどさ……)
それでも『竜神楽舞』を投げ出すつもりはなかった。
いつか老爺のように舞ってみたい──ただその思いだけが子羽を駆り立てる。
「よし、やるか!」
両手で頬を強く叩いて気合を入れ直し、子羽は立ち上がる。
再び『竜神楽舞』のゆるやかな歩法から始めたときだった。
「ん──?」
ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
子羽は動きを止め、周囲を見渡す。
目前に広がる、絶好の景観。澄んだ蒼天のもと、なだらかに続く稜線は白く化粧されている。山脈の裾野は奥深い碧色に染まり、盆地の静かな湖面に反転したその姿を映す。
けれどそこに注意を引く変化は見あたらず、人影ひとつない。もっともこんな険しい峰に老爺以外の人間がいるはずもない。
遠く、ワシの鳴き声が響く。
「むむ──?」
理由もないまま、子羽は落ち着いていられない。
何か──そう、何かが起こっている。
確信と言い切ってしまえるほどの、直感。なのになぜ、こうも胸騒ぐのか──感じた子羽本人ですらさっぱりわからない。
「ああ、もうっ!」
考えるのは苦手だ。
子羽は山頂のわが家に向けて駆け出した。
行動に移してから、子羽は老爺の顔を見て安心したいのだと気づいた。
山頂への道は急勾配で、空気は地上よりはるかに薄い。さらに行く手を阻むように突き出た岩石を、しかし、子羽は慣れた調子で軽々と跳躍して越え、登っていく。
汗ばんだ体に冷たい風が心地よく吹き抜けていく。
岩から次の岩へと身軽に飛び移る子羽はつと、足を止めた。
「え?」
先に老爺が帰ったはずなのに、頂上に煮炊きの煙が見えない。
小さな違和感はもやもやとした不安となって、子羽の足を早めさせた。
景色が飛ぶように後ろに流れていく。
大きく迫り出した岩場の影に、草ぶきの小屋が見えてくる。ありあわせの材料を寄せ集めたその外観は、かろうじて風雨がしのげるかどうか。大風のひと吹きで倒れてしまいそうなほど傾いでいる。
それでも、親子二人が暮らす大切なわが家だ。
不安は悪い予感に変じて、子羽の首筋をチリチリと焦がす。
「じっちゃん!」
大声で連呼するも、応えはない。
肩で息をしながら、子羽は小屋に駆けつける。乱暴に出入り口の垂れ幕をはねのけ、屋内に躍りこむ──寸前、足を凍らせた。
「あっ……」
声がでなかった。
ただ呆然と、棒立ちになったまま動けない。
血臭が鼻につく。
子羽は瞳を大きく見開き、足元のそれを凝視した。
「あ……あ──!」
信じられなかった。
床に、老爺が倒れていた。朝食を用意する途中だったのだろう、むしろの上にぶちまけた雑煮鍋の中身に、吐血の赤が彩りをそえていた。
「じっちゃんっ!」
先ほどまで身軽だった体が、ひどく重い。倒れた老爺のそばに駆け寄る──たったそれだけの動きも満足にできず、子羽はよろよろと歩み寄って屈みこむ。
「じっちゃん、どうしたんだよう」
泣き声になりながら、子羽はおそるおそる老爺の体に手を伸ばす。
触れると、まだ温かい。
「あっ」
鼻先にかざした手のひらに、かすかな息を感じた。
老爺は生きている。
けれど、安心するのはまだ早い。危険な状態に何ら変わりはないのだ。
子羽は拳を強く握り、立ち上がった。
「オ、オイラ──誰か、助けを呼んでくるよ」
あわて転びつつ、子羽は小屋から飛び出した。
後に──ひとり、老爺を残して。
○
「おねがいだよ、オイラのじっちゃんを助けておくれよう!」
子羽は懸命に門戸を叩く。
ふもとの村に駆けこみ、ようやくたどり着いた医者の邸宅である。助けを求める子羽に村人が指し示したのは、村一番の大きな屋敷だった。
乱打に耐えかね、通用口が開く。
応対に出た巨漢は、子羽をじろりとにらむなり「失せろ」と告げた。
「え?」
きょとんとした子羽に、巨漢は太い指先を突きつける。
「言葉がわからないのか? 俺は失せろと言ったんだ。小僧みたいな貧乏人を診てやるほど旦那さまは暇じゃないんだ。わかったら痛い目をみないうちにとっとと失せな」
「そんな! じっちゃんが大変なんだよう!」
「知るか。さっさと門の前から失せやがれ。ぎゃあぎゃあ騒ぎやがって、迷惑なんだよ」
「でも、でも!」
閉めかけた通用口に手をかけ、あくまでも子羽は粘る。こうして押し問答している間にも老爺の容態が急変するかもしれない。誰か、助けてくれる人が必要だった。
「あぐっ!」
青筋浮かせた巨漢の表情に気づくより先に、衝撃がきた。
視界いっぱいの空。
続いて背中を強く打ち、乾いた土の匂いを嗅ぐ。
力を加減してなお、巨漢の拳は子羽の小さな体を殴り飛ばす威力があった。
「うっ──痛えよう」
すきっ腹に生じた熱い塊が自己主張をはじめる。戻すものがなくて、転がった子羽は酸っぱい胃液を吐いた。落ち着いたところで子羽は立とうとする。けれど、鈍い痛みに力が入らず、へたりこんでしまう。
医者の邸宅は村の大路に面している。
子羽の叫び声に何事かと村人が足を止め、集まってきた。なのに遠巻きに眺めているだけで、倒れた子羽を助け起こそうとする者はいない。
(立てないのなら……!)
腕を使ってずるずると地面を這いだした子羽の姿を見て、巨漢は薄笑いを浮かべる。
「ほお、手加減はいらんようだな?」
「おねがいだから……じっちゃんを──」
「ふん。ならば、一緒にあの世に送ってやろう」
目前に踏み下ろされた巨漢の大足。
見上げた子羽の頭上に、容赦なく力をこめた拳が迫る。
岩をも砕く外家功の剛拳である。姑娘の胴回りほどある腕の筋肉、盛り上がった拳法ダコこそ、巨漢の自負を裏づける。少年の頭蓋ぐらい、熟れた果実のごとく叩き潰せる。
「む!」
突如、うなる拳風がぴたりと凪いだ。
遅れて、一枚の銅銭が地に落ちる。
「くっ──誰だっ!」
誰何する巨漢の額に、赤く浮き出る銅銭の跡。指弾で弾き飛ばした銅銭が額に命中し、子羽の命を救ったのだ。
「名乗るほどの者じゃないさ。ただの通りすがりだよ」
匂い立つ凛とした声に、割れた人垣。
振り向いた子羽はそこに鮮烈な紅を見た。
悠揚と進み出た人物の柔らかな体の線を強調する、粋な紅色の旗袍(チャイナドレス)。後ろで束ねただけの長い赤髪が風に揺れる。不遜とさえ映りかねない、妖艶な唇の笑み。
颯爽と、子羽を庇うように紅衣の美女が現れる。
ちらりのぞく太股の白さに、目を奪われていた巨漢が我に返る。
「貴様か、邪魔をしたのは?」
「あいにくと黙って見てられない性分でね。ああ、いやだ──近頃ぶっそうな話をよく聞くけどさ、あんた、それでも用心棒かい?」
「なんだと?」
凄味をきかせる巨漢。が、涼しい顔で紅衣の美女はさらに挑発する。
「そこの少年を盗人と間違える用心棒なんか、いるわけないだろう?」
「ぐっ……この、この──」
返答につまった巨漢の顔色が変わる。決断は早かった。口で敵わないなら力でねじ伏せるまでとばかりに巨漢は地を蹴り、拳を振り上げて襲いかかる。
「お姐さん!」
暴れ牛のごとき巨漢の突進に、子羽は叫ぶ。
肉薄する巨漢を前にして振り返った紅衣の美女は子羽を安心させるように、ほほえむ。
「心配はいらないさ。やつの治療費はもう払ってある」
次の瞬間、両者は激突した。
「ふんっ!」
上段から振り落ろす剛拳は気合を十二分にこめたもの。女だからといって情けをかける巨漢ではない。先ほどまであった余裕が顔から消えている。
直撃すれば人体は原形すらとどめない──殺傷力過剰の一撃。
しかし、当たらなければ無意味だ。
「なにっ!」
紅衣の美女がそっと繊手をそえると、剛拳があらぬ方向にそれて空を切る。
弾いたのではない。剛拳の勢いに逆らわず、ただ微妙に軌道修正を加えたのみ。
破壊力で勝る剛拳を制する軽妙の技は──軽きをもって重きをしのぎ、遅きをもって速きを制する内家功の極意に他ならない。
「武林でうわさの『紅娘々』とは、貴様のことか!」
相手の力量を見抜けなかったのは致命的だ。目標を失った拳にひきずられ、体勢が崩れる。また自慢の剛拳をいなされた動揺も加わり、巨漢に隙が生じる。
それを紅衣の美女が見逃すはずもない。
とん、と一突き。
なでるように巨漢の右肩に触れた、たったそれだけの指突で勝敗は決した。
いきなり膝をついた巨漢がおのれの右腕を抱え、苦悶に顔を歪める。
「ぐ……なぜだ? なぜ、俺の腕が動かん」
「ほんの忠告さ。しばらく不自由するだろうが、それも自業自得とあきらめな」
言い放った紅衣の美女は巨漢にくるり、背を向ける。
点穴、という。
特定の経穴(ツボ)を衝いて気の循環を遮断する秘技である。経穴の位置によって動きを封じ、ときに死に到らしめることもある。
瑞麗が衝いた点穴は腕を痺れさせる経穴だ。と、いってもごく軽い点穴で、一晩もすれば阻害された血道が自然に通じて治る。
「……くっ」
無防備な背後に刺繍された鳳凰が巨漢を誘う。歯を食いしばり、自由な左腕の拳で躍りかからんとするも、しかし、紅衣の美女の一言が制止させた。
「それだけの功夫──捨てる覚悟があるなら、止めはしないよ」
巨漢の赤ら顔がすっと冷える。
無言のまま、巨漢は通用口の奥に姿を消した。
鮮やかな手際だった。
子羽の前に歩み寄った紅衣の美女は巨漢との格闘に息を乱した様子もない。前屈みに手を差し伸べるしぐさですら、洗練されている。
「君。さ、立って」
手を借りて子羽は体を起こす。
「ありがとう、お姐さん──」
「瑞麗。あたしの名は朱瑞麗って言うんだ」
「オイラは子羽。劉子羽」
「それじゃあ、子羽。案内してくれる?」
首をかしげる子羽に、瑞麗は笑顔でわざとすねてみせた。
「お爺さまが大変なんでしょう? それとも、あたしじゃ力になれないのかしら?」
○
子羽は村を後にし、早苗の並んだ水田を急ぎ足で通り抜ける。街道を外れて森へと分け入ろうとすると、後に続く瑞麗に呼び止められた。
「子羽、君の家はまだ遠いの?」
「んーっと、もう少し先だよ」
「もう少し、ね……」
柳眉を寄せた瑞麗はそれでも子羽に続き、森へ踏み入る。
幾重にも頭上を覆う若葉のせいで薄暗く、湿った空気はむせ返るほど緑に匂う。
茂みをかきわけ、子羽は道とは呼べない獣道を先行する。
「そういえば、お腹のぐあいはもういいの?」
「うん。もう平気だよ」
気遣う瑞麗の言葉に応えるも、あまりに濃い茂みでお互いの姿が見えない。立ち止まって待っていると、鼻先に葉っぱをつけた瑞麗が顔を出した。
「やれやれ、着いたの?」
「ううん、まだ……」
肩を落とした瑞麗を励まし、子羽は先を急ぐ。
しばらくして、開けた場所に出る。
「ちょっと、子羽。行き止まりじゃない」
周囲を見渡した瑞麗が思わず口調を強くする。
森を抜けたそこは切り立った岩壁にふさがれ、先に進むことができない。通り抜けられる洞窟があるわけでもなく、引き返すしか手はなさそうだった──普通の人間なら。
ところが、子羽はためらうことなく岩壁に手をかけ器用に登っていく。わずかに突き出た手がかり、足がかりを選んで上へ上へと登る。子羽は来た道を逆にたどっているにすぎない。岩壁を降るときに比べれば、登るほうが楽である。
するすると樹より高く登った子羽はふと岩壁にかけた手を止め、下を向いた。
地面で口を開けている瑞麗が見えた。
「来てくれないの?」
聞くと、瑞麗は大きなため息をついた。
「登っていけばいいんでしょう、登れば」
見上げれば、雲を衝く絶壁である。綱や鎖など、補助になる物はいっさいない。酔狂ではとてもよじ登る気になれない、険しさだ。
だからこそ──破雲峰と、竜宿る山と呼ばれている。
調息した瑞麗は助走をつけ、跳躍。一気に子羽を越えた高さの岩壁に張りつく。
「すごいや、瑞麗姐さんは」
瑞麗がみせた軽身功に、子羽は目を丸くする。嬉しくなって子羽が勢いこんで登ると、すでに瑞麗はさらに高みへと登っている。
「ここまで来て、引き返せないわよ」
瑞麗は苦笑しながら、つぶやいた。
途中、何度か息をのむ場面はあったものの、二人は声をかけ助けあってなんとか絶壁を登りきる。
見おろせば眼もくらむ、断崖。
見慣れてはいても、よくぞここまで登りきれたものだ。
子羽は振り返って頂上の方を見やる。
そこに、老爺がいる。
不意に子羽は、はっと身を固くさせた。
(オイラは……、オイラは──)
老爺を見捨て、逃げ出した。
助けを呼んでくると言ったのは嘘ではないのか。本当はその場にいたくなかったから、都合のいい言いわけで自分をだましたかったのでは?
絶壁を登りきった気の緩みに、今まで直視できなかった事実が子羽に襲いかかる。
突き出た岩場に腰かけて休む瑞麗は、そこが子羽の稽古場だとは知らない。それよりも下界の眺望に心奪われている様子だった。
悠久と題された一幅の水墨画。四季のよそおいが風雅な彩りをそえ、往時をしのばせる。
伝説の三皇時代と変わらぬ景観だ。
瑞麗の束ねた赤髪が揺れる。苦労に報いる──その疲労すら爽快と感じられる薫風が吹きそよぐ。優しく包みこむようにそっと触れ、天へと。
しばらくして、放心していた瑞麗が立ち上がる。
「さて。行きましょうか」
うながされたものの、子羽は動けない。
「どうしたの?」
瑞麗は近寄って、面を伏せた子羽をのぞきこむ。
「あ、もしかして恐いの? いいえ、後悔しているのね。どうしてお爺さんを連れて山を降りなかったのか──違う?」
「違うよっ!」
子羽は思わず大声で叫んでから、肯定したことに気づいた。
「いまさら後悔しても遅いわ。こんな絶壁を人ひとり担いで降りるなんて無茶な話だし、今は残してきたお爺さんのところへ行くのが先決よ」
瑞麗が顔を寄せてきて、子羽は視線をそらす。しかし、頬のほてりまでは隠せない。
「あたしの言うこと、間違ってるかな?」
「間違ってなんか──ないよ」
うなずいた子羽は迷いを振り払うように、我先にと駆け出した。
恥ずかしかった。
瑞麗の言葉は正しいと納得できる。でも子羽の心から、老爺を置き去りにして逃げた負い目は拭えない。許してもらいたいのは瑞麗ではなく、老爺なのだから。
それに、どうしたわけだろう?
瑞麗がそばに来たときに匂った、芳香。思い出すだけでも鼓動を高鳴らせ、子羽を落ち着かない気分にさせる。安心させてくれる老爺とは正反対なのに、同じように嬉しく感じるのだ。まったくわけがわからない。
子羽はひたすら駆けた。
しかし小屋の前に着いたものの、どうしても尻込みしてしまう。
物音ひとつない静けさに、声をかけることさえできない。
立ちすくんでいると、遅れてやって来た瑞麗が隣に並ぶ。
子羽を見て、次に瑞麗は出入り口の垂れ幕へと視線を向ける。
「あたしが先に入るけど、いい?」
子羽が小さくうなだれると、瑞麗は「失礼します」と断りをかけて屋内に身を滑りこませた。
子羽は続いて小屋に入りかけ、二の足を踏む。
今朝のような痛みを感じたくなかった。
腹に受けた巨漢の拳は痛くても、我慢できる。じきに痛みも薄れる。
でも、心に受けた痛みは?
小屋の気配は変わらず、ひっそりとしてる。
せっかく瑞麗がここまで助けに来てくれたというのに。
(もしも、とうに手遅れでじっちゃんが……)
子羽は頭をぶんぶん振った。
それだけは考えたくなかった。想像するだけでも身震いしてしまう。
子羽が物心ついた頃から老爺とふたり、この山で共に暮らしてきたのだ。これからもずっと同じ生活が続くと思っていただけに、突然ひとりぼっちになる恐怖に耐えられそうもない。やみくもに逃げ出したい衝動に駆られる。
小屋の前で踏みとどまっていられるのも、そこに老爺と瑞麗がいるからだ。
何度も足を持ち上げ、前に進めることなくもとの位置へ下ろす。
子羽はうるんだ瞳で、宙を仰いだ。
吸いこまれそうなほどの、大空。
(どうして、雲は流れていくんだろう)
子羽が眺めている間にも雲はゆったりと流れ過ぎていく。
刻々とかたちを変えながら、その場にとどまることは決してない。
人の力で変えられることではない。
誰も、流れる雲を押しとどめることはできない──。
「……子羽」
奥から瑞麗が呼ぶ。
声音に含まれた意味に、子羽の体は過敏に反応する。
「いい? 心を落ち着かせて聞いてね。残念だけど──」
続く瑞麗の言葉を、子羽の耳は拒絶した。
「うわわわあああっ!」
何も聞きたくない、何も聞いていない。
子羽は両手で耳をふさぎ、わめき声をあげながら走り出す。
どこか、目的があるわけではない。その場から逃げるためだけに、子羽は全力で駆ける。
「子羽! 待ちなさ──」
瑞麗の声さえ追いつかないほどの、疾走。
傾斜に突き立つ岩石をたくみに避けながら加速度的に勢いを増して暴走する子羽の姿は、もはや転がり落ちているのに等しい。
「わあああっ!」
上下に激しく視界が躍る。
その前方──突き出た岩場の先は、断崖。
(このまま走ると、オイラは落ちる……?)
それもまた、運命。
慈愛に満ちた大地は優しく、子羽を抱きしめてくれるだろう。二度と、つらい思いをしなくてすむように。
命と引きかえの、甘美な誘惑。
今にも爆発しそうに体中を駆ける奔流から解き放たれ、楽になれる?
(そんなのは──)
魅力的な提案を受け入れかけ、
「いいやだあああっ!」
子羽は拒絶した。
生きていたい。
心の奥底から、わきあがってきた声だった。
どんなにつらく、苦しい思いをしようとも、生きていたい。
なぜそれほど生に執着するのか、わからない。わからないからその答えを知りたくて、生きていたいと思うのかもしれない。
「うあああっ!」
しかし足を踏ん張ろうにも、勢いがつきすぎて止まらない。転ばずにいるだけでも精一杯の状態である。うかつな急制動で足場を踏み外そうものなら、そのまま斜面を滑って断崖から転落する危険性が大きい。
むろん、暴走を止めなければ結果は同じ。
頭でじっくりと考える余裕はない。
とっさに、子羽は前傾姿勢をとった。
いつも稽古に励んでいる、断崖に突き出た岩場が目前に迫る。
(これしか方法がない!)
ためらいは、一瞬。
その一瞬で岩場の先端に達した子羽は、足場を蹴った!
飛躍。
未完成の『臥竜天舞』の型である。
傾斜の勢いを利用し天高く飛翔した子羽は身をひねる。
一回転──二回転──三回転。
平衡感覚を失うほど天地が何度も入れ替わる。
だが。
(まだ──まだ、何かが違う!)
直感のささやきは無情にも証明された。
着地を決めようにも突き出た岩場の先端は遠く、伸ばした手もわずかに届かない。
「ああああっ!」
落ちる。
落ちてしまう。これほど強く生きていたいと願ったのは初めてだというのに。
気を失う寸前、子羽の視界を紅色が占める。
瑞麗だった。
「子羽、つかまって!」
「瑞麗姐さん!」
大地に引き寄せられる子羽と、岩場の先端から身を乗り出す瑞麗。
永劫とも思われた、刹那。
きわどいところでお互いに伸ばした手の、指先が触れる。
固く手を握りあい、目線を交わす。
同時に、瑞麗の肩へ落下する子羽の体重が一気にかかる。
「くっ──」
瑞麗の腰が崩れる。
支えきれない。
負荷を吸収できず瑞麗の体は断崖へと引っ張られる。
空に体勢が泳いだ。
このまま二人して墜落してしまうと見切った瞬間、子羽は瑞麗を道連れにしないよう、握る手を振り解こうとし──果たせなかった。
瑞麗は子羽を手放さない。
目線を無視して瑞麗はさらにきつく手を握り返し、子羽の弱気を決して許そうとはしなかった。
瑞麗の足が岩場から離れた。
「ちいっ!」
舌打ちした瑞麗は共に落下していく不安定な体勢にもかかわらず、もう片方の手を伸ばす。
(届け、届くんだ!)
子羽の祈るような気持ちとは裏腹に、瑞麗の動作はじれったいほど鈍い。
ようやく岩場に触れた、指先。
安堵するも、ずるりと滑って離れる。
「はっ!」
気合一声、瑞麗は指先をくさびのごとく岩壁に打ちこみ、支えとする。直後、二人ぶんの負荷に瑞麗の両肩は悲鳴をあげた。
それでもなお、瑞麗は足元で口広げる断崖に耐えた。
「瑞麗姐さん──」
空中にぶらり揺れる子羽の声は、情けないほど弱かった。
「お礼はあとで聞くから、早くあたしの体をつたって上にあがりなさい!」
「う、うん」
今は耐えていても、長くは持ちそうにない。
顔を赤らめ力んでいる瑞麗に叱咤され、子羽は瑞麗の体にしがみつく。
と──子羽の手がむにゅっ、と瑞麗の胸をわしづかみにする。
「きゃっ──ちょっと、どこ触ってんのよ!」
「え、どこって? うっ!」
聞き返そうとした子羽は、殺気立った瑞麗の眼光に射すくめられて声を失う。
なぜか、さらに顔を上気させた瑞麗が語気を荒げて叫んだ。
「いいから、早くあがりなさい! 話はそれからよ!」
○
夕陽に染まった空がしだいに、濃い紫色に塗りかえられていく。
破雲峰の頂上──でんと据えられた巨石の上に、小柄な人影があった。『竜神楽舞』を舞うため、身を清めて神事の衣裳に着替えた子羽である。
青を基調に金糸で昇竜の意匠をあしらった長衫をまとい、たたずんでいる。
日の暮れる前から同じ体勢のまま、ぴくりとも身動きしていない。
そのうち残照が完全に失せ、夜はひそやかに訪れた。
四方から照らされたかがり火に、正装した子羽の表情が凛々しく映える。
足元の巨石は揺らめく炎がつける陰影のせいか、見る者に竜の寝そべるさまを連想させる。古くから竜神のご神体とされ、さらには豊作祈願の神楽を奉納する岩舞台を兼ねている巨石である。上部にさほどの広さはないものの、歴代の舞い手が踏んだ足跡が鱗のように刻まれ、ますます竜を彷彿とさせる。
老爺が亡くなった今、『竜神楽舞』の伝統を受け継ぐ者は子羽しかいない。
舞い手はひとり。そして観客もひとりだった。
岩舞台から離れた岩に腰かけ、瑞麗は濁酒を口に含みつつ見守っている。
中央に立つ子羽は不動のまま瞑目し、そよとも揺らぐ気配はない。それでいて静かに圧倒的な存在感を放ち、無視させない。
体内で気を練っているのだ。
満ちてゆく子羽の内息に呼応して、大気が震える。
大地の経絡である竜脈──その経穴にあたる竜穴に、この場所は位置しているのだろう。それ以外では説明できない、異様な内功の高まりである。
杯に注いだ濁酒があふれそうになる。
瑞麗がこぼれた酒に気を取られた、その時だった。
しゃららん
唐突に子羽は瞳を見開き、拱手抱拳する。
同時に、胸もとで軽やかな鈴の音色が転がる。
鈴の音が消えぬうち天に放った長嘯を合図にして、『竜神楽舞』は始まった。
ゆるやかに円を描く腕の動きに、左右の手首にはめた金環の鈴が鳴る。
両手首だけではない。両足首にも同じく鈴のついた金環がはめてあり、子羽の舞に応じて四つの鈴は異なる音色を奏でる。
しゃらん、しゃららら──
音色は旋律となって星空に溶ける。
和するは、ただ風の音のみ。
破雲峰に寂寥の調べが、哀切の響きが──静かにしみていく。
○
演奏と渾然一体になった神楽に、瑞麗は引きこまれる。
予想を覆された、くやしさがある。
子羽はすでに忘我の境地に入っている。
今だけはすべてを忘れ、舞う──そんな印象が強い。
老爺の埋葬をすませると、子羽は今晩だけでもと瑞麗を切に引き止めた。
子羽の心情を察すると、無下に断ることもできない。
簡単な食事の後、連れ出されたのがこの頂上の岩舞台である。
子羽は晴れ姿で、神楽を舞う。
旋律と舞踊が相乗効果をなし、瑞麗を夢幻郷へといざなう。
見事──その一言につきる。
細心の注意を払った優美な所作は、日々積み重ねてきた稽古の賜物。
江湖の芸人に劣らぬ技の冴えは、望んでも決して得られぬ天賦の才。
瑞麗は驚嘆を隠しきれない。
ここまで完成された舞はめったに見れない。
杯を落としたことさえ知らず、瑞麗は瞳を瞬いた。
眼前に、一匹の竜が映っている。
(幻覚──?)
だとしたら酒に酔ったのではない、舞に酔っているのだ。
瑞麗は呼吸すら忘れ、出現した竜に見入る。
竜はいまだ、まどろみのなかにある。
何を夢見ているのか──ゆるゆると鱗をきらめかせ、ときおりその身をうねらす。
穏やかな動き。それでいて、内に力強さを秘めている。
臥竜なのだ。
ひとたび目覚めれば天へと昇り、威容を世に知らしめる。多言を費やすことなく、ひと目で畏敬の念とともに悟らせる。
隠された、底知れぬ力に瑞麗は震えが止まらない。
(強い。子羽はどこまでも強くなる……)
天啓に似た、直感だった。
武林に星の数ほどある武芸と『竜神楽舞』──その近似形。
子羽の一挙手一投足を瑞麗は追う。
腕の振り、足運び、体の構え方──どれも螺旋運動から派生した所作は、ことごとく武芸の基本理念と合致する。いや、より洗練されているように思える。所作そのものが旋律を奏でているのだから。
その呼吸法もまた、同じ。
武芸と神楽──どちらも人体を前提に構築された技能であるだけに、苦心のすえに神域に達した両者は共に等しく映るものなのだろう。
武芸の達人が見せる演武と子羽の演舞に、瑞麗は何ら違いを見出せない。言葉もなく、ただ吐息をもらす。
惜しいかな、歳若い瑞麗は知らなかった。
かつて武林を震撼させた、『臥竜天征』と呼ばれた伝説の侠客を──。
○
しゃんしゃんしゃらん──
しだいに神楽の所作が活発なものに変化していく。
軽快かつ、素早い動き。
残像を伴った腕の振り付けに、至妙の足取りに、明らかだ。
目覚めが近い。
いよいよ臥竜が天に舞う、その瞬間──。
突然、子羽は舞を止めた。
しゃらら──
余韻を響かせていた鈴の音色が消える。
「ここまで、です──」
出し抜けに終わりを告げた子羽に瑞麗はしばらく戸惑いを隠せない様子だった。
「ここまで? 続きは?」
不満げな声が耳を打つ。子羽はうつむいて、首を横に振る。
「ごめんなさい」
「ううん、とても素敵な舞だったわ」
遅れて瑞麗は拍手を送った。
作り笑顔でほめる瑞麗はとっくに気づいているはずだ。子羽が本当に神楽を見せたかった相手はおのれでない、と。
もう二度とその人に自分の舞を披露できない。
(だからこそ、せめて瑞麗に──)
子羽は頭を下げることしかできなかった。
こんなとき、どんな顔をすればいいのか、老爺は教えてはくれなかった。
ただ厳しくしこまれた『竜神楽舞』、それが絆のすべてだった。
子羽を見上げる瑞麗がいきなり訊いてきた。
「ねえ、子羽。あたしも上にあがっていい?」
「え? 別にかまわないけど。──どうして?」
「いいから、いいから」
にやついた瑞麗が軽く跳んで岩舞台の上に立つ。
「さあ、あたしと舞い比べをしましょう」
「で、でも……」
子羽は足元を見る。
「ふたりで舞うのには少し、狭いよ」
「いいの、この方が好都合よ。決まりはひとつ──落ちたら負け。行くわよ!」
否やを言わせず、瑞麗は腕をひらめかせた。
神水宮は迦陵派拳法の一手、『沈魚落雁』である。
「うわっ!」
まっすぐに向かってくる突きを、危ういところで子羽はかわす。
「そう、その調子よ!」
瑞麗は声をかけ、またも『沈魚落雁』の一手。
突きを視界にとらえた子羽が、今度は後ろに退く。けれど、その回避行動は瑞麗に予想されていた。間髪入れずさらに一歩、瑞麗は前へと踏み出し、突きから変化した掌底をひねりを加えつつ繰り出す。
「うぐっ!」
子羽はまともに胸を突かれ、岩舞台の上から転がり落ちる。
「どう? 子羽の負けよ」
腕組みをした瑞麗が勝ち誇る。
はじめに繰り出す直線の突きに『沈魚落雁』の真髄はない。突きを向けた相手の動きに臨機応変の十二種、四十八型に発展する連撃の組み立てにこそ、宿っている。
数手のやりとりで子羽に見抜けるはずもない。
それでも子羽は気負い立ち、すぐさま岩舞台にあがった。
「もう一度!」
「いいわよ。かかってきなさい」
余裕をみせ、瑞麗は不敵な笑みを送る。
子羽は勇み立つ気持ちをどうにか落ち着かせようと、深呼吸して気を整える。それからおもむろに腰を落とし、竜爪掌で構える。
「いざ、勝負!」
声は出ても、今度は足が前に進まない。ごく自然な体勢ながら、瑞麗の構えに一分の隙もないのだ。どこからしかけていいか、見極めがつかない。
そんな子羽の様子に、瑞麗は目を細める。
「どうしたの? なら、あたしからいくわよ!」
三度、『沈魚落雁』が繰り出される。
無限の変化を秘めたこの一手は、武芸の達人といえど打ち破るのは難しい。なまじ技の深奥さを知れば知るほどに、眩惑されて身を滅ぼす。
子羽はどうやって勝機を見出すつもりか?
手心を加えてなお、疾風の突き。
胸を貫くと見えた瞬間──あと少しで指先が青の長衫に触れる間合いながら、子羽の体まで届かない。いや、届かせない。
流れる雲のごとき、なめらかな『竜神楽舞』の歩法で子羽は後退する。
ならば掌底を、と瑞麗が半歩踏み出すより早く、子羽は動いた。両手で瑞麗の突き出した手を挟み、回転させる。
それも、掌底のひねりと同じ回転方向へ。
「はっ!」
自乗された回転合力に瑞麗の足が浮く。瑞麗は抗わず、とっさに体を回転に同調させて丹田に内息を集中させる。
「せいっ!」
一息に力点をずらしてもろともに子羽を浮かせ、瑞麗は蹴打を浴びせかけた。
迦陵派蹴法、太陰ノ壱──絶技『九鳳落日』である。
逃げ場のない空中での蹴りが子羽を襲う。
「ぐほっ!」
人体に存在する九つの急所をほぼ同時に直撃され、子羽はたまらず瑞麗の手を放す。そのまま小柄な子羽は岩舞台の外へと蹴り飛ばされて、顔面から落ちる。
絶技の衝撃に体が瞬間的に痺れ、受け身すらとれなかったのだ。
(本当にすごいや!)
子羽は小躍りしたいほど心が浮き立ち、痛みを忘れた。
「ぶはっ、ぺっぺっ!」
体を起こして口に入った泥を吐き出すと、再挑戦を宣言する。
「もう一度、勝負だ!」
「あきれた。何度でやっても同じよ。でも──受けて立つわ」
岩舞台に君臨する瑞麗に、苦い笑みがある。
子羽は気づいていない。
勝てなかったとはいえ、三度目にして『沈魚落雁』を破ったのだ。さらには追いつめた瑞麗を本気にさせ、絶技を繰り出させた。瑞麗に油断があったとしても、十ばかりの少年に成しえる技ではない。
子羽はゆるゆると『竜神楽舞』の型を舞う。
対する瑞麗も迦陵派拳法の構えで応じる。
勝負はまだ、始まったばかりだった。
○
満天の星明りは薄れ、しらじらと東雲がたなびく。
二人の舞い比べは続いていた。
「やっ!」
威勢よく放たれた瑞麗の正拳突き。子羽はその拳を支点に軽々と身を舞わせ、背面蹴りにつなげる。蹴りが頭部を砕く寸前、瑞麗は大きくのけぞってかわす。
鼻先をかすめた子羽の蹴り。その足首を瑞麗はつかみ、反撃に転じる。
相手の攻撃を利用する返し技の応酬が続く。
休むことなく夜通し繰り広げられてなお、動きは鈍るどころかますます速さを増す。勝負は過熱し、技は冴えるばかり。
子羽と瑞麗はともに喜色を浮かべ、交わす拳で語りあう。
最初の頃は数手で子羽が負けていたものの、じきに数十手を越えるようになり、今では瑞麗とほぼ互角に立ち会っている。
両者に殺伐とした空気はなく、あるのは技を磨く楽しむ雰囲気。
優雅に舞い、流麗に踊り──。
二人のその姿は、まさに舞を演じているかのよう。興じる心が常にも増して技を昇華させているのだ。
子羽はすっかり夢中になってのめりこんでいた。
面白いほど強くなっていく実感がある。
これまで『竜神楽舞』の型を忠実になぞるだけだったのに対し、瑞麗と一手をかわすたびに体で型にこめられた真髄を理解し、体得してゆく。自分なりに型の応用を試し、技を発見していく歓びがある。
まだ一度も瑞麗に勝っていない。
今度こそと会心の一手を繰り出すも、瑞麗はさらり受け流して技を返してくる。
瑞麗の軽妙な技に子羽は熱くなり、ますます躍起になって次の一手に賭ける。
拳と拳を打ち鳴らし、同時に繰り出した両者の回し蹴りが交差する。
「やるわね、子羽!」
「瑞麗姐さんこそ!」
動きが止まった刹那、お互いに相手をほめたたえ、二人は離れる。
肩で息をしつつも岩舞台の両端で最大限の間合いをとって構え、牽制する。
次にしかけるのは子羽か? それとも瑞麗か?
息詰まる瞬間。
きらめく陽の光に、対峙する二人の影が細長く地に落ちる。
長い夜が今、ようやく明けたのだ。
最初に動いたのは、瑞麗。
反射的に子羽は応じかけて体をこわばらせる。
「どうして!」
非難の声に押され、背後に跳躍した瑞麗は岩舞台からみずから下りる。
「残念だけど、この勝負は預けておくよ。あたしはもう、行く」
「ねえ、もう少しだけ──お願いだよう!」
「子羽──」
言い募る子羽に、瑞麗は頭を振る。
「あたしも続けたいのはやまやまだけど──ほら、見てごらん」
瑞麗の指し示す方向を子羽は振り返って、見た。
「あ──」
「あそこであたしを待っている人がいる。だから、行かなくちゃいけない。今すぐに」
雲ひとつない青空を、ひとすじの不吉な黒煙が裂いている。
その源をたどると、昨日、子羽が瑞麗と出会ったふもとの村に他ならない。
剣光がいくつも反射し、風は騒然とした声を運んでくる。盗賊──それも徒党を組み、建物に火を放つようなとびきり凶悪な匪賊がふもとの村を略奪しているのだ。
子羽が呼び止めるより早く、瑞麗は身を翻す。
軽身功を駆使する瑞麗の後姿は見る間に赤い点となり、消えた。
さながら、吹き抜けた一陣の清風のように。
「瑞麗姐さ……ん──」
差し伸ばした腕が力なくたれさがる。
残された子羽は昨夜からの熱気をもてあまし、演舞の続きを再開することにした。
揺らめかせる腕の動き、緩急つけた足運び──同じようでいて、何かが違う。瑞麗と相対していたときの動きに比べ、どこか精彩を欠き、ぎこちないものと自覚できる。
体を動かしていても、楽しくない。
心躍る興奮はどこに行った?
無理に続けていても苦痛なので演舞を止めると、ふもとの様子が視界に入った。
次々と貪欲な炎が並び立つ家屋を餌食に、肥え太っていく。
きれぎれに風に乗って届くざわめきには、焦げたような臭いも少し混じっている。
(ふん。じっちゃんを助けてくれなかった村の連中なんか、わざわざ助けに行かなくてもいいのに)
立ち去った瑞麗に八つ当たりした子羽はそっぽを向く。
澄んだ青空の下、どこまでも果てなく続く大陸の絶景。広大無辺な風景に比べ、子羽の存在はあまりにもちっぽけだった。
この世にただ、ひとりきり。
(じっちゃんは、もういないんだ……)
その事実が改めて子羽の身にしみる。
これからどうすればいいのか、あては何もない。ひたすらに『竜神楽舞』の稽古に励んできた子羽には何も思いつかない。
(じっちゃん。オイラはどうしたらいい?)
仰いだ空に語りかけても応えはない。
老爺を亡くし、瑞麗と別れ──よりいっそう、さびしさが募るばかり。そのうち、しくしくと胸まで痛みだしてくる。
(オイラは、オイラは──)
胸の奥でもやもやと渦巻いている、言葉にできない想い。この手でつかみ取りたいと願う気持ちと、相反する怖れが子羽をさいなみ、苛立たせる。
──いまさら後悔しても遅いわ。
つと、瑞麗の言葉が耳によみがえる。
(オイラはまた、逃げようとしてる?)
倒れた老爺を置き去りにしたように、同じ過ちを繰り返そうとしていることだけがはっきりと理解できた。子羽を内側から急き立たせる、何か。それが破裂しそうな勢いで、どんどんふくらんでいく。
(でも、どうすればいい?)
手のひらにむずかゆいような、奇妙な感覚がある。
無性にもどかしくて、子羽はいたたまれない。逃げたことを後で後悔するぐらいなら、たとえうまくいかなかったとしても一歩前に踏み出したい。力不足と思い知るほうが卑屈に慣れてしまうより、よほどいい。
なぜ、瑞麗は子羽に舞い比べを申し出たのか。
その背中が言葉より多くのものを語っている。
(そうだよね、瑞麗姐さん。きっと理由なんかないさ!)
子羽はきっ、とまなじりを決した。
答えは──目前にあった。
○
ひらめく剣光ごと吹き上げる血しぶきに、瑞麗は握りしめた拳を震わせた。
ふもとの村に急行した瑞麗が見たのは、文字通りの血祭り。略奪に、暴行に、殺人に匪賊たちは酔っていた。その流される血の、その燃え上がる炎の──鮮やかな紅色に。
面を引きつらせ、裸足で逃げ惑う村人たち。彼らの後を毛皮の胴巻きをしたむさ苦しい格好の無頼者がたわむれに追いかけまわし、馬上から眉尖刀を打ち振るう。
長柄に長い刃をつけた大刀の一種である眉尖刀は、実戦において鎧ごと兵士を叩き斬り騎馬を両断する恐るべき兵器だ。重い刀身を軽々と扱う指法を見れば、積んだ武芸のほどが知れようというもの。だが、惜しいかな、刃を向けるべき相手を誤っている。
愉悦に歪んだ、大刀使いのひげ面が炎に照り光る。
朱色に染まった母親に泣いてすがりつく幼児に、いま、まさに刃が──。
「うお!」
鋭く弾いた瑞麗の指弾が、大刀使いの左眼を射抜く。
眉尖刀を構え直すより早く、跳躍して一気に間合いをつめた瑞麗が『碧樹倒壊』を放つ。顔面で蹴りを受けた大刀使いは大きくのけぞって落馬し、首の骨を折った。
瑞麗はすかさず主人を失った馬にまたがり、両足でたくみにさばいて御する。鞍の曲刀を引き抜くと、耳を澄ませた。
そこかしこから響く、魂消える叫び。地獄の叫喚のごとく耳に突き刺さる。
酸鼻な光景に、瑞麗は面を厳しくさせる。
天をも焦がすまでに燃え盛る炎が火の粉を散らす。村そのものを浄化する盛大な火葬とばかりに、赤々と炎は猛る。
特に勢いが激しいのは、医者の邸宅がある大路の方向だ。
行く先を見定めた瑞麗は馬を駆る。
見とがめた無頼者が大斧を両手で握り瑞麗の行く手をさえぎるものの、すれ違いざまの一閃で宙に首を飛ばされる。野卑な表情を張りつかせたまま、くるくると舞う。
数人の無頼者がそれを目撃した。色めき立った双剣使いが瑞麗に襲いかかり、あえなく同様の運命をたどると、残った者たちはお互いの顔を見合わせてうなずいた。
瑞麗の腕を恐れ、離れた間合いから矢が一斉に放たれる。
けれど瑞麗は馬を駆け足で走らせてかわし、追いすがる矢は曲刀で斬って捨て、一本たりとも届かせない。
瑞麗はさらに馬を急かす。
狙うは、匪賊の頭目。雑魚に手間取っている余裕はない。頭目さえ倒せば統率を失い、たやすく蹴散らせるとの目算である。
子羽と出会った医者の邸宅の門前──そこからひときわ激しい剣戟の音が響いてくる。
「はい、やっ!」
瑞麗は馬の腹を強く蹴る。
群れる無頼連中をひづめにかけて、瑞麗は渦中に躍りこんだ。
「『紅娘々』か! ありがたい、きっと駆けつけてくれると信じていた」
瑞麗を歓呼の声で迎えたのは、膝を折った用心棒の巨漢だった。
あちこちに打撲の青あざ、流血する刀傷やら矢傷を負った満身創痍のいでたちは、巨漢がひとり門を死守していた奮戦を物語る。
「ふん、少し見ない間にえらく男っぷりが上がったじゃないか。調子の良いこと言ってないで──あんたはとっとと村の人間を誘導して、避難させてきな」
「すまん。この恩は──」
「ああ、しっかり恩にきせてやるから覚悟しな。あんた、恩返しする前にくたばってしまうような恩知らずじゃないよな?」
「残念ながら、な。十年寝かした旨い酒がある。それを呑もう」
いまにも力尽き、崩折れようとしていた巨漢のどこにそれだけの底力が残っていたのか。瑞麗に凄味のある笑みを送ると、巨漢は取り囲む人垣を見据えた。怒号を張りあげて無頼連中を威圧した巨漢は、強引に突破を試みる。
巨漢の姿が群集の中に消えた。同時に密集した人の輪から、まるで人形を放り投げるように無頼者がひとり、またひとりと宙に飛ぶ。
どうやら無事に突破できそうだ。
むろん、瑞麗の牽制があってのことだが、残された彼女の方こそ多勢に囲まれ危ういのではないか?
「どうした? あたしが佳い女すぎるんで照れてるのかい? まったく、面に似合わず純情だねえ、あんたら」
曲刀を構えた瑞麗に、先手を撃とうと飛び出だす猛者は誰もいない。
さしもの無頼者とはいえ、『紅娘々』の勇名は聞き知っているとみえる。柳腰の麗人とあなどり、劣情を隠して手合わせを願った男どもの末路は尾ひれどころか、羽まで生えて武林を飛び交っている。
紅の一字は赤髪や紅唇、紅衣の装いだけに由来してはいない。
紅雪──ほとばしる血を形容するその峻烈さに、『紅娘々』は淫心を抱く男たちから畏れられているのである。
瑞麗のひとにらみ、それだけで縮み上がった股間を押さえる者もいる。
「おやおや、不甲斐ない人たちだこと。相手はたったひとり。皆でかかれば、なますに料理できるでしょうに」
そよふく春風を思わす口調で、冷酷な台詞が聞こえた。
「お、親分……」
「寨主と呼びなさい。栄えある紫雲幇は緑林の徒とは違うのですよ」
声の主におびえをみせた無頼連中が道を開く。
優男のすらりとした長身痩躯を包むは、洒脱な薄紫の長袍。ろう長けた白面の上半分を隠す華美な仮面は麗々しく、あらわになった唇は妖艶とつやめく。吹きつけてくる熱風に汗のひとつもみせず、天苑を散策するごとき典雅な歩みで瑞麗の前に進み出る。
「紫雲幇寨主、紫玉堂──人呼んで『魔天郎君』。近頃とみに派手な商売をしている匪賊と聞いて龍泉に来てみれば──やはり、この村を襲ったか」
瑞麗と玉堂の視線が真正面からぶつかり、火花を散らす。
先に瑞麗から大音声で名乗りをあげる。
「聞け、紫玉堂! 誰が呼んだか、『紅娘々』とはあたしのことさ。武林の新参者とはいえ義侠のはしくれ、非道の沙汰は黙って見過ごせないね。山と積み重ねた悪行の数々、今こそあたしが清算してくれる、覚悟おし!」
「……なるほど、殺すには惜しい女ですね。ひと思いに殺したのでは無粋というもの、じっくりといたぶり、泣き叫ぶさまを堪能してからではないと。よろしいでしょう、私が皆に代わり、生け捕りにしてさしあげます。もっとも、腕の一本や二本、力加減を誤って負ってしまうかもしれませんがね」
玉堂の唇がにゅっ、とつりあがる。
対する瑞麗も負けてはいない。
「江湖に仇なす奸賊が! よくぞそこまで言い切った、ほうびをやろう!」
竿立ちにいななく馬。その鞍上から自慢の軽身功で跳躍した瑞麗が曲刀を振りかざし、疾風の勢いで玉堂に迫る。
虚をつく奇襲攻撃──だが。
「『紅娘々』の実力はこんなものか?」
曲刀の切っ先が突き出した玉堂の人差し指で受け止められる。と、指に触れている部分から刃に無数のひびが走り、甲高い音をさせ砕け散った。
「ちっ!」
柄だけになった曲刀を玉堂に投げつけ、瑞麗は身をひねりざまに蹴打を繰り出す。
「足癖の悪い姑娘だ。しかし、それでこそ調教のしがいがあるというもの」
瑞麗の絶技『九鳳落日』の九連続蹴りを玉堂はことごとくかわし、弾き、あるいは受け流す。絶技が通用しないと悟ると、反撃を警戒して瑞麗は間合いをとる。
さすがの瑞麗も玉堂の功夫を認めざるをえない。
徹夜で興じた子羽との舞い比べで消耗したままの瑞麗では、玉堂に内功負けしてしまう。外功と内功のふたつが融和協調してこそ、武芸は真の威力を発揮する。絶技とあれば、なおさらだ。
(あたしとしたことが……無様だな)
体調が万全であれば勝てた相手と思うのは慢心の証である。武芸者たるもの、いついかなるときも死地に身を置く気概でいなければならない。
苦笑を挑発と受け取った玉堂が動く。
「せいっ!」
雷撃のごとき疾さで繰り出された猛打連撃。乱れ撃つ拳のそれぞれに虚実が入り混じり、瑞麗を防戦一方に追いこむ。
一息のうちに数十手を受け、あるいは流した瑞麗が玉堂の武芸に思い当たったときにはすでに遅い。知らぬ間に点穴された両腕が痺れて動かせない。
鬼影擒拿の一手、『雷公雨』である。
無数に放たれた拳はすべて虚であり、隠された点穴の刺突が実として相手を制する。むろん、点穴を警戒されれば虚である乱打が実と変じて相手を撃つ。
退くとみせ、瑞麗は『桜花旋風脚』を放った。だが、予期していた玉堂に軽々と足首をつかまれて点穴を施されてしまう。
手足を封じられ、もはやここまでか?
地面に転がりうめいた瑞麗を、冷ややかに玉堂は見下ろす。
「他愛のない。武林のうわさほど、あてにならぬものはありませんね。お前と──お前。二人で『紅娘々』を縛めておきなさい。あとでたっぷりと愉しみましょう」
配下に指図をすると玉堂は瑞麗から興味を失い、天を焦がす炎をうっとりと見惚れる。
その様子に、瑞麗はさらなる屈辱を味あう。
「寄るな、下郎!」
にらんだところで、鼻の下をのばした二人の男にひるむ気配はない。かえって欲望をあおっているようで、ますます目尻がやに下がる。
(こんな獣たちの慰みになるのか……!)
点穴を自力で打ち破るには内功が足りない。内功の回復を待っていては遅すぎる。
単身、多勢に挑んだのは過ちだったか?
過去を振り返るのはまだ早いと思っていてさえ、煙が目にしみる。泣くまいと火の粉の舞う空を仰いだ瑞麗の真上を、小柄な影がさっとよぎる。
「あっ」
手を伸ばした男の動きが止まり、次の瞬間、二人の男は声もなく同時に崩れ落ちた。
そしてかわりに立つ、その姿は。
「子羽? 本当に子羽なの?」
青い長衫の背中に躍る、昇竜。
忽然と炎の中から現れ、二人の男を気絶させた少年が肩越しに瑞麗を見やる。
「あ……!」
その鋭い、利剣にも似た眼差し。視線に斬られた瑞麗は硬直する。
(まさか……。その瞳は、『龍眼』?)
眉間にしわを刻んだ子羽は、まるで別人のように見えた。何かを超越した者だけが持ち得る風格のようなものを漂わせ、気安く声をかけるのさえためらわせる。
つと、子羽は前を向いて玉堂の方へと歩き出していた。
(子羽。あなたはいったい──何者なの?)
胸中の問いに、子羽の背中は何も応えはしない。
なおも燃え盛る炎が乱舞し、熱風は渦を巻く。
瑞麗は闘いに臨む子羽を見つめることしかできなかった。
○
大勢に囲まれたこの場は動けない瑞麗を抱え、脱出すべきなのだろう。けれど子羽は瑞麗から視線をそらし、前を向いた。
(瑞麗姐さん……ごめん)
そこに、仮面の優男──紫玉堂がいる。
闘いたかった。闘って、勝ちたかった。
ふもとの村を略奪し放火した相手への義憤。
命の恩人である瑞麗を負かした相手への私憤。
それも、ある。けれど、身震いするような闘いの衝動に比べればあまりにも小さい。
玉堂という存在が子羽の逆鱗に触れているのだ。
ここで逃げ出しては後できっと後悔する。理屈ではなく、直感に従って子羽は前へと歩き出した。
「ほう、幼いのに良い眼つきをしていますね」
仲間を倒されていきり立つ配下を玉堂は片手で制し、子羽をじっくりと眺めた。
「我が紫雲幇は優れた人材を常に求めています。少年、私と共に来なさい。古来より誰も成し得なった江湖の統一をともに──」
「断る」
両手を広げてほほえむ玉堂の勧誘を、子羽は一蹴した。
「その女が欲しいのであれば与えましょう。世は広い。美姫麗人をほしいままにすることも決して不可能ではありませ──」
「オイラと闘う気はあるのか?」
「くっ──聞き分けのない少年ですね」
説得をさえぎられた玉堂の声が屈辱に震えた。
「惜しいですね。あたら伸びる芽を摘み取ってしまうというのは!」
言い終えるより先、玉堂は地面を蹴って子羽に襲いかかる。
初手は同じく鬼影擒拿の一手、『雷公雨』。けれど、門の屋根から瑞麗との対戦を目撃した子羽にはいかに拳速が凄まじくとも通用しない。すでに技を見切っているのだ。
舞うような竜爪掌の動きが玉堂の乱打を封じ、決定打とさせない。
「龍形八卦掌、か?」
だが、子羽の武芸は象形拳の一種である龍形八卦掌のそれとは微妙に異なる。
洗練された奥深い境地──底知れぬ内功を見る者に感じさせる。
玉堂は勝ちを急いだ。
繰り出された点穴の刺突。玉堂の左拳を子羽は右竜爪掌で内側から前腕を回しつつ受け、払いのける。続いての右拳突きに子羽は左の前腕部をあげて受け止める。
「小癪な!」
感情的になった玉堂の、一瞬の隙。
子羽は両手をすかさず受け止めた両腕の内側をすべらして前進、玉堂の懐に潜りこむ。
両腕の動きを封じられた玉堂は反射的に身を退こうとしかけ、刹那、遅れた。子羽の五指を開き指を曲げた上下の両竜爪掌が、がっと玉堂の頭部をつかんだ!
まさしく竜のあぎとにくわえられたに等しい。
『竜神楽舞』は『咬竜取玉』の型である。
子羽は両竜爪掌の上下を入れ替えつつ玉堂の頭部をひねり、全体重をのせて胸もとに引きこませる。
まるで玉堂の頭部にかみついた竜が力任せに首を引きちぎるように。
ぐきり、と嫌な音が鳴った。
とっさに玉堂は回し蹴りを放って竜のあぎとから脱出したものの、あと一息で頚椎挫傷で危うく命を落としかけた失態である。
どよめく周囲に余裕を失った玉堂は果敢に攻めたてる。
ほとばしる鬼気は昏い殺意を秘めていた。子羽を殺すつもりで殺人拳を振るっている。少年でしかない子羽に手痛い一撃を被り、玉堂はうわべの優雅さをかなぐり捨てて『魔天郎君』と呼ばれたその本性をさらけ出していた。
ちろり、赤い舌でなめた犬歯が牙のごとく濡れ光る。
炎の爆ぜる音が拳脚の攻防に終止符を打つ。
「ていっ!」
鬼影擒拿の絶技『鬼哭』である。
鋭く研ぎ澄まされた鉤手が子羽の頭蓋を狙う。そろえた五指の先端は硬気功によって鋼の硬度を誇り、たやすく頭蓋を貫いて脳髄をえぐりとる凶悪無比の一手だ。
しかし冷静さを欠いた攻撃は子羽には隙だらけに見える。
頭を屈め、腰も落として鉤手をかわした子羽の体は無意識に動いた。
未完成のままの、『臥竜天舞』の型を。
「なっ──があっ!」
子羽は低い体勢から蹴り上げる。まともに玉堂のあごに命中し、その体が浮いた。
続く二段蹴りで腹を折った玉堂がさらに高く、屋根を越えるほど打ち上がる。子羽もまた追って跳躍する。空中で玉堂の上に位置すると、大きく全身をひねって回転させて威力を増した重い蹴打を浴びせる。
一転、空中から勢いよく墜落する玉堂。
逆転した天地に、子羽は言葉にならない解放感を味わっていた。
(これが──本当の『臥竜天舞』なんだ!)
天高く舞い上がった子羽を邪魔するものは何ひとつない。
限りない自由の風が子羽を包む。
爽快ですらある感覚が子羽を満たし、至福に導こうとする。
今、ここに──『臥竜天舞』、完成。
老爺が見て、感じた昇竜の心を子羽はようやく受け継ぐことができたのだ。
(じっちゃん……オイラ、できたよ)
胸の中で報告すると、どこか遠い場所で老爺が満足気にうなずいてくれた──そんな気がした。
天を舞う子羽とは逆に、強く地面に叩きつけられた玉堂があえいだ。
「ぐっ……はっ」
衝撃に意識を失いかけてなお、玉堂は気力で戦意をつなぎとめようとする。紫雲幇寨主としての意地でもあっただろう。けれどその胴に、降下した子羽がかかとをそろえて追撃を決める。
「ぐはっ!」
玉堂の口から紅い花が咲いた。
○
「甘いわね、子羽は」
いまだくすぶり続ける白煙に瑞麗は口もとを押さえて言った。
ふもとの村を焼いた炎は鎮火にむかっている。一面の焼け野原となった村に燃えるものが何ひとつ残されていないのだから当然だ。
子羽と瑞麗は崩れた灰となった門柱の痕跡に、匪賊との激闘を思い起こす。
炎に彩られた、その闘いの結末を。
匪賊の頭目である紫玉堂を倒すと、見切りをつけた連中はあわてふためき退散していった。子羽があきれるほどの逃げ足の早さで。
その後、玉堂が息を吹き返した。
実はわずかに急所をずらし、子羽は玉堂の命まで奪わなかったのだ。
「でもね、そんな子羽があたしは好きよ」
耳元でささやかれた子羽は顔を真っ赤にさせてうつむいた。
傷ついた体を抱え、玉堂はすでに立ち去っている。
いかに悪人であろうとも、老爺を亡くしたばかりの子羽には殺せなかった。瑞麗は「甘い」と怒る。点穴で手足を封じられていなければ、進んで断罪の拳を振るいかねない見幕だった。
今日の悪人を見逃すことで、明日に十人の善良な人が殺されるかもしれない。
その理屈は子羽にも理解できた。
(でも、だからといって殺していいの?)
殺人には強い忌避感を覚える。悪人を断罪することで、おのれもまた命を掌中でもてあそぶ連中と同じ位置まで落ちてしまうのではないか、そんな危惧がある。
この身につけた『竜神楽舞』の力はあまりにも大きい。
玉堂との対戦を思い出し、いまさらながら子羽は震えた。
(この力はいったい何のためにあるんだろう?)
ふと目に映った瑞麗の横顔に子羽は、はたと思い当たった。
「ねえ、瑞麗姐さん。オイラを旅に連れて行っておくれよ」
子羽が叩頭して懇願するも、返事は無情だった。
「だめよ」
「ど、どうしてだよう?」
おどおどと上目づかいに顔色をうかがう仕草がかわいくて、瑞麗はいたずらっぽくほほえんだ。
「だって子羽はもう一人前の侠客なのよ? ま、偶然、行き先が同じだったりするかもしれないけどね」
二人の笑い声が春の涼風にのって運ばれていく。
そのゆくえは、誰も知らない。
(了)
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