自転車を走らせる。とたんに、沈丁花の匂いが鼻腔から胸の奥深くに流れ込んできた。朝のすがすがしい風が全身を撫でつけてきて、くすぐったい。
もともとは、山仕事のための道具をしまっておくための納屋だったのだろう、小さな谷川の脇にそれは、まだあった。
私は、自転車を脇に止めて荷物を抱えると、雑草をかき分けながら進む。
まだ小学校の三年生だった頃は、まるで密林のジャングルのように思えたそれが、今は腰の辺りでさわさわと揺れている。あの頃、ずい分苦労してやっとたどり着いたのが嘘みたいに、今、あっけなく行き着く。
古ぼけた小屋の前に立つ。
木の扉が朽ち果てて、崩れている。それだけが、昔と違っているように思える。私は、用心深くそれをまたいで中に入る。砂埃と木屑が積もって真っ白だったけど、たちまち十年前に引き戻されたような気分になる。
この建物を自分の秘密基地だと、私に教えてくれたのは勇太だった。
「いいか、すず、誰にも内緒やぞ。お前にだけ教えてやるんやからな。そのかわり、お前もここに来てええから」
そう勇太に言われても、人家からはずれた山道を自転車で三十分も行くのだ。当時、ものすごく怖がりで引っ込み思案だった私は、ひとりでそんな冒険をする勇気はなかった。それに、暗くなるまで外で遊びほうけているガキ大将の勇太と、家でひとり本を読んでいるのが好きな私とでは、まるで遊び方が違っていたから、一緒に遊ぶことじたいめったにないことだった。
結局、一度、勇太に連れてこられただけで、その後私がそこに行くことはなかった。
三メートル四方くらいの広さに、材木の切れ端が一面高く積み重ねられている。おそらく勇太が自分で使い勝手がいいように片付けたのだろう。みかん箱やぼろきれのようになった毛布、漫画雑誌なんかが、小さな男の子の痕跡を残していた。埃に深く覆われた床の上に、やはり埃まみれになったコマを見つける。それを片手で拾い上げる。手の中でそうっと埃を払うと、うっすらと文字が現れた。消えかけてはいるが、『ユウタ』と、読み取れる。とたんに、口元がほころぶ。宝物みたいに、しばらく掌で大切にもてあそぶ。
勇太が、いなくなったのは、勇太のうちが、引越しをする前の日だった。私たちが四年生に上がる前の春休みの出来事だ。大人たちは近所中、みんなで勇太を探し始めた。
両親が出て行った家で、私は弟のまことと一緒にテレビを見ていた。いつも楽しみにしているアニメが、軽快な音楽とともに画面から流れ出てくる。まことは、食い入るようにそれに見ている。いつもと変わらない内容のはずなのに、ちっともおもしろくなかった。画面から目をはずすと、私は真っ暗な窓の外をぼんやりと見た。と、その時、ものすごい衝動が私を、突き上げた。
「まこと、お姉ちゃん、ちょっと、出かけてくる」
そう声をかけると、すっくと立ち上がった。テレビにのめりこんでいる弟は、うんうん、と生返事を返しただけだった。
外に飛び出すと、自転車にまたがっていた。もう、夜の闇の深さも山道の遠さも、その時の私には、ちっとも怖くなかった。ただただ、あの小屋を目指して、しゃにむにペダルをこいだ。あそこしかない。もし、勇太が行くとしたら、あそこしかない。私は、心の中でそれだけを繰り返していた。
やはり、勇太は、そこにいた。
満月に近い月の明かりが、小屋の中に射し込み、座り込んでひざを立てている勇太を照らしていた。
彼は、周到に用意をしていた。この日、家出を決行するために。小さな小屋の中には、勇太が持ち込んだものがたくさん置いてあった。こうして私が、この建物に勇太の存在を確信できたのも、彼が漏らしていた懐中電灯の淡い光のおかげだった。
勇太は、ひざ小僧に顔を押し当てて、じっとしていた。ゆっくりと近づく。
「勇ちゃん」
声をかける。それでも、勇太は顔を上げない。仕方なく並んで座る。
「勇ちゃん、みんな心配してるよ。帰ろう」
勇太は、そのままの状態で首を振る。
「いやや、帰ったら、遠くへ行かなあかん。そんなん、俺、いやや!」
私は、はっとした。勇太は、泣いていた。幼なじみの私でも、勇太が泣くところを今まで一度も見たことがなかった。泣くのは男の恥や、と言うのが、日ごろの勇太の口癖でもあったのだ。
思わず勇太を引き寄せて、胸の中にその頭を抱いた。まことが泣いた時、母はよくそうしていた。そうすると、いつもまことが泣き止むことを私は、知っていた。
勇太はちょっと体をこわばらせたけれど、すぐに力を抜いて私に体を預けた。そうして、せきを切ったように泣き続けた。私はその時、いつもの小さな気弱な女の子ではなく、なんだか大人の女の人にでもなったような気分で、勇太が泣いている間、ずっとその頭を撫でていた。
勇太が、泣き止むのを待ってから、私たちは家に帰った。父に、あんなに怒られたのは、後にも先にもあれきりだった。
あの時「十年後の今日、また、ここで会おう」と、どちらが言い出したのか、今ではもうよく覚えていなかったが、とにかく私たちはそう約束をした。
次の日、勇太は車に乗り込むと、じゃあ、な、と照れくさそうに笑って手を振った。動き出した車が作る風が、沈丁花の香りを辺りに広げていた。車が見えなくなっても、私は、いつまでもその香りの中にたたずんでいたことが、まるで昨日のことのようにまざまざと思い出された。
勇太の家が林業ではたちゆかなくなって、町へと仕事を求めるために引っ越して行ったことを私が知ったのは、もう少しあとのことだった。
レジャーシートを広げて、クッションを置く。本を三冊、お昼のためにサンドイッチ、水筒には熱いコーヒーも用意した。今日は一日、ここにいるつもりだった。
待ちぼうけになるかもしれない。初めから、そう思っていた。十年前の約束を、もう勇太は忘れているだろう。それでもかまわない。ここには、あの時、勇太が持ち込んだガラクタの数々が、小学三年だった勇太の気配を確かに感じさせてくれている。だから私も、今日だけはあの頃の勇太のようにワクワクしながら秘密基地での一日を過ごすのだ、そう思い決めていた。
お昼のサンドイッチは、食べてしまった。持ち込んだ本は、一冊読みきった。コーヒーを飲みながら、私は今、二冊目の山場を迎えている。と、その時、空気がふわっと動いて、沈丁花の香りがあたりに広がったような気がした。本から顔を上げた。
長四角に切り取られた白い光の中に、一点、黒い影が揺れていた。
(了)
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