【イントゥ・マイセルフ(into myself)】



1.


 灰色の雲から、粉雪が静かに舞っていた。
 時刻は夕暮れであったが空は暗く、ときおり吹く冷たい風が頬に少し痛い。
 太陽は雲の隙間から、かたむいた光でわずかに地表を照らしていた。
 二月は、一年のうちでもっとも寒い季節だ。
 わたしの住むこの街は、積雪量こそ少ないが寒さは厳しい。今も制服の上からお気に入りのコートを着て、首にマフラー、そして厚手の手袋と完全装備でようやくしのげているような状態だ。
 片方の手が傘で占領されているから、教科書のつまった鞄が普段よりも重く感じる。
 しかしわたし、水原美由紀(みずはらみゆき)はそれでも雪の中を歩くのが好きだった。
 雪はまわりの景色を変える。毎日通っている高校の通学路でも、まったく違う場所にいるように錯覚してしまう。
 これは粉雪だからそこまでは積もってはくれないだろう。しかしわずかに射す太陽の光に照らされた雪は、きらきらと輝いて見えて、それだけで弾んだ気持ちになってくる。
 ――今日は、何かいいことあるかも。
 何の根拠もない、そんな予感。これもきっと雪の力だ。
 そんなふうに考えてながら家のそばにある公園まで来たとき、わたしはふと足を止めた。
 わたしの通う白沢高等学校の制服を着た生徒が、公園の入り口に立っていた。
 ――こんな所で何やってるんだろう?
 思わず足を止めて、様子をうかがう。
 その人は傘もささずに、公園の入り口を見つめ続けていた。顔は雪のせいではっきりとはわからないけど、背は高い。
 頭や肩に雪がうっすらと積もっているから、しばらく前からそこに立っているのだろう。
 わたしは目をこらし、それが誰かわかったとき、思わず叫び声をあげた。
「和也くん!?」
 それは、幼なじみの柳瀬和也(やなせかずや)くんだった。
 わたしはあげてしまった声に自分で驚いて、慌てて口を押さえた。そして角にある電柱の影に急いで身を隠す。
 そのままそっと覗くと、彼はわたしの声に気づいた様子もなく、さっきと同じ姿勢でそこにいた。
 ――ほっ。
 安堵の息が、口からもれる。
 胸に手をやると、心臓がどきどきしているのがわかった。
 同時にあまりふくらみがゆたかでないのを再確認して少し悲しくなったけど、それは思考の隅へと追いやった。
 ――でも、思わず隠れちゃったけど、これからどうしよう?
 わたしは困った。
『学校帰りに和也くんにであったら、声をかけよう』
 自分が決めたルール。突然の条件に適合するこのシュチュエーション。
 さっきまで冷たかった風を、今は涼しく感じていた。手袋に包まれた手も汗で湿っているのがわかる。
 わたしは大きく深呼吸した。
 ひんやりとした空気が、体中にめぐっていく。
 それを白い息としてはきだしてから、よしっと気合いを入れた。
 何度もやったシミュレーションを頭に思い浮かべながら、一歩を踏みだそうとする。
 でも、足はわたしの意思に反して、動いてはくれなかった。
 いざとなると怖じ気づいてしまったのだ。
 そうやって迷っているうちに、和也くんはいつの間にか公園から姿を消していた。
 わたしはがっくりと肩を落として、家路についた。
 心の中で、恨めしげにつぶやく。
 確かに和也くんに出会えたから、いいことはあった。
 ――でも、それが生かせないなら何にもならないじゃない。


 目覚ましのボタンを押し、浮かび上がった針を確認するとちょうど十二時だった。
 時計をもとの場所にもどし、闇になれた瞳で天井をじっと見つめた。見慣れた天井と、蛍光灯がぼんやりと認識できる。
 十一時にベッドに入ってから、さっきからずっとこの動作を繰り返していた。
 ――ぜんぜん眠くならない。
 理由はわかっていた。学校帰り、和也くんに声をかけられなかったのが原因だ。
 こんな日は、いつも遅くまで目が冴えてしまってなかなか寝つけない。

 わたしと和也くんは、幼なじみだ。
 幼い頃、どうしてかわたし達は仲良しだった。今と違ってまだ近所に今ほど住宅が建っていなくて、同年代の子供がほかにいなかったせいかもしれない。
 幼稚園から小学校の高学年くらいまでは、いつも一緒だった。わたしは引っ込み思案なところがあり、クラスでもあまり親しい友達がいなかったから、遊ぶ相手といえば彼しかいなかった。
 この関係を壊したのは、実はわたしの方だ。
 ある時、一緒に小学校から帰っているときに、同じクラスの男の子にからかわれたことがあったのだ。
 小学校くらいだと男の子と女の子が一緒にいたら、すぐに恋愛に結びつけてからかうものだ。ただの、いじわる。でもそう考えられるのは高校生になった今だからで、当時のわたしはそれがたまらなく嫌だった。
 だから、ある日わたしは我慢できなくなって彼に言ってしまったのだ。
“もうわたしに声をかけるのはやめて”って。
 その日のうちに後悔した。
 でも次の日すぐに謝ればよかったのに、わたしはそれができなかった。
 明日にしよう、明日にしようと思っているうちに、謝るタイミングを逃してしまい、結局ずっと謝れなかった。
 そしてそれが、高校二年生になった今でも続いているのだ。
 きっと、彼はもうわたしのことなど忘れてしまっているだろう。
 今、和也くんとは同じクラスだ。でも、話すどころかあいさつすら一度も交わしたことがなかった。

 それからしばらく蒲団をかぶって目を閉じていたが、ぜんぜん寝くならなかった。
 ――本でも読んで、時間をつぶそう。
 しかたなく、寝るのを諦めてベッドから起きあがった。
 灯りをつけ、机の隣にある本棚を眺めた。しかし背表紙を目で追っても、どの本からも読みたいという衝動はわいてこなかった。
 ――しょうがない、書庫まで探しに行こう。
 ライオンの形をしたふわふわのスリッパをはき、パジャマの上からガウンを羽織ると、わたしは部屋の外に出た。とたんに、外気と同じひんやりとした空気が身を包む。
 手探りで灯りのスイッチを入れた。
 寒い。背筋が震えた。わたしは両腕で体を抱いてこすってから、音をたてないようにゆっくりと階段を降りた。
 わたしの家には、書庫という普通の家にはないちょっと珍しい部屋がある。
 簡単に説明すると、個人の家にある図書室みたいなものだ。
 お父さんが大学の講師、お母さんも料理教室の先生と両親ともに本を多く必要とする職業についているので、数年前に家を新築するさい作ったのだ。
 わたしも漫画とお気に入りの小説以外はそこに置いてあるので、たまにこうやって取りにいく。
 一階に降りてから、さらに階段を降りる。
 書庫は日光で本が傷まないように地下にある。降りきったところにあるドアをくぐると、学校の図書室と同じ、どこかかび臭いような独特の本の臭いがした。
 灯りとエアコンのスイッチを入れた。
 書庫は十二畳ほどの大きさがあり、文庫なら二千冊入るというわたしの背より高い本棚が等間隔に六つならんでいる。そして部屋の中央に、少し大きめのアンティーク机と椅子が置いてあった。
 本棚の順番は、入り口から父の本棚が三つ、母の本棚が二つ、そしてわたしの本棚が一つとなっている。
 自分の本棚まで行き前に立つと、背表紙を指でなぞりながら物色をはじめた。
 ――どうせ読むなら、明るい気分になる本にしよう。
 わたしは特にジャンルを決めずに本を読むので、本棚にはいろんな本がある。
 少女小説やライトファンタジー、推理小説にホラー、お耽美系もあるがそれは両親には秘密だ。
 いくつかの本を抜き出してぱらぱらめくってみる。
 それを何冊かしたとき、不気味な声が耳に届いた。
『………じゃ……ない』
 お腹の底に響いてくるようなその声に、驚いて振り返って部屋の通路へ顔を出した。
 別に何もない。
 しばらく声をたてずに耳をすましてみたが、とくに変わった音もしない。エアコンの送風の音が微かに聞こえるだけだ。
「誰かいるの……?」
 声をかけてみたが返事はない。
 ――気のせい、よね?
 一瞬、幽霊とか泥棒とかが頭をよぎったが、さすがにそれはないだろうと頭をふって再び本棚に視線を戻した。
「はやく本を選んで部屋にもどろ」
 少し怖くなってしまったので、考えていることを意識して声に出した。
 恋愛小説の中から一冊抜き出すと、すぐにドアに向かって足早に歩いた。
 しかし部屋の真ん中まできたとき、人影みたいなものが目にとまって立ち止まる。思わず視線を向けると……。
 机の横に、白い服を着た少女が一人立っていた。
 一瞬悲鳴をあげそうになるが、それはすぐに鏡にうつった自分の姿だとわかった。
「なんだ……」
 ほっと胸をなでおろした。
 木製の複雑な模様のわくに入った一メートルくらいある大きな鏡が壁にかけてある。お父さんが机と椅子を買いにいったときに、気に入って購入したものだった。
「まったく、脅かさないでよ」
 そう呟いて苦笑したが、すぐにおかしなことに気がついた。
 鏡にうつった自分が、こっちを向いていない。
 当然、わたしが鏡を見ているんだから、鏡の中の自分とは向かい合っていなくてはいけないはずなのに、本棚のほうを見つめているのだ。
「…………」
 背筋が、冷たくなった。
 何かの見間違いとか、気のせいとか。今現在も見つめているというのに、都合のいい解釈を頭の中でいろいろと探す。
 しかしそんな自分の考えをあざ笑うように、その鏡にうつった自分の姿が、こっちがまったく動いていないのにもかかわらず、背伸びをして本棚の一番上の棚から本を抜き出した。
『うーーん、これにもないなあ』
 鏡から、声が聞こえた。
 鏡の中のわたしは、手に取った本をぺらぺらめくってはそれを本棚にもどし、別の本を抜き出すという作業を続けている。
 信じられない光景だ。鏡にうつった自分の姿が、勝手に動くなんて。
 わたしはその様子を黙って見つめ続けていた。
 その視線の先で、また別の本を抜き出した。
 その時、上に戻した本がしっかり収まっていなかったのか、ぐらつくのが見えた。
 鏡の中のわたしは本に夢中で気づいていない。
「危ない!!」
 わたしはとっさに叫んだ。
 鏡の中のわたしは一瞬、え? という様な顔をした後、頭に本がぶつかってうずくまった。ごちんっという大きな音がしてた。かなり痛かったはずだ。
 そして鏡の中のわたしは頭を手でおさえ、涙目になりながらこっちを見た。
 目があった。
 わたしは向こうの格好に合わせなきゃと慌てた。何の根拠もないけれど、気づかれるのはまずいと思ったのだ。
 しかし、動転していたわたしは視線を逸らしてしまった。
 しまった。と慌てて視線を戻したが、もう遅い。
 彼女はまじまじと向こう側からこっちを見つめ、体を動かしたり、あかんべーをしたりした。わたしは黙って立っていただけだったから、向こうもおかしいと思っただろう。
 鏡にうつった自分の姿が大きくなった。
 どうやら、鏡に近づいたらしい。
『ねえ、聞こえる?』
 鏡の向こうから、声がした。
 さっきよりもはっきりと聞こえる。
 ――ちょっと声が違うな。
 と思ったが、自分の声はかなり違って聞こえるらしいから、これがきっとわたしの本当の声なのだろう。
 わたしは一瞬躊躇したが、頷いた。
『だったらさ、もっとこっち来てよ』
 と鏡の向こうのわたしが手招きした。
 正直気味悪かったが、それは向こうも同じはずだ。この前見たホラー映画みたいに、テレビのなかから人間がでてくるみたいなことがあったら嫌だけど、さすがにそれはないだろう。
 わたしは何かあったらすぐに逃げられるように用意しながら近づいていった。
 だんだん、相手の容姿がはっきりとわかる。
 それはまちがいなく“わたし”だった。
 顔はもちろんのこと、セミロングの髪の長さから、今着ている白いくまさん柄のパジャマまで、違っているところがどこにもない。
 おまけに、羽織っているガウンも、ライオンスリッパまでもが一緒だった。
 まさにこれで同じポーズを取っていたら、鏡にうつっている光景としか思えないだろう。
 それは向こうも同じ意見らしく、こっちをまじまじと見つめては。
『すごーーい、そっくり』
 とか呟いていた。
『ねえ、あたし“みずはらみゆき”。あなたは?』
 ひとしきり感心してから、彼女は話しかけてきた。
 どうしようかと一瞬迷ったが、正直に答えることにした。
「わたしも“みずはらみゆき”です」
『漢字はどういう字?』
 わたしは指で、彼女の目の前で水原美由紀と書いて見せた。
『あっわたしと同じ字なんだ。完全に同性同名なんだね』
 感心したように言って、笑った。
「あの、これっておかしいことじゃないんですか?」
 たまらず訊いた。
 あまりに態度が普通すぎる。ひょっとしたら、向こうにとっては別に珍しいことではないのかもしれないと思ったのだ。
『この前、こんなの漫画で読んだよ。鏡の向こうには別の世界が広がっていて、そこには自分とは違うもうひとりのわたしが住んでいますってやつ。まさかノンフィクションだったとは知らなかったけど』
 しかし返ってきたのはこんな言葉だった。
 いや、それはフィクションです。と心の中でだけつっこんだ。
「鏡っていうのはただの光の反射です。その向こうに世界なんて広がってるはずないんですけど……」
 わたしがそう言うと、彼女は少し不満そうな顔になった。
『じゃあ、これって一体どういうことなの? わたしてっきり、あなたが鏡の向こうの人なんだとか思ってた』
 それから、わたし達は何故“こんなこと”になったのか話し合った。
 しかし、結局これだ!! という答えは見つけられなかった。
 ただ確かめられたのは、この鏡でしかこの現象は起こらないということ。
 そしてもう一つは、鏡をはさんで向きあっているわけではなくて、お互いの鏡にうつった姿を見ているのだということだ。
 なぜなら、わたしも彼女も同じ右利きだった。鏡にうつった対称の世界なら、利き腕が逆にならないといけないから、これは間違いないだろう。
『ねえ、今日はここまでにしない? あたしもう眠くなっちゃった』
 しばらくして、あくびをかみ殺しながら彼女は言った。
 壁に掛けてある時計を見ると、もう二時を過ぎている。
『明日、十一時でいいよね?』
 それだけ言うと、わたしの返事を待たずに、もう一度あくびをしてから手を振って去っていった。
 一人取り残された形となったわたしは、その後ろ姿を呆然と見送った。
 どうやら、深刻に考えていたのはわたしの方だけだったらしい。
 でも、そんな彼女が少し羨ましかった。
 だって……
 ――わたし、今日もう絶対寝れそうにない。


2.


『おそーーい、五分も遅刻』
 鏡の前に立つと、彼女は赤い顔をふくらませた。
「ごめんなさい」
 行くべきか行かざるべきか迷っていたので遅れてしまった。
 わたしは謝ってから、彼女の様子がおかしいのに気づいた。
 彼女は鏡の前に座り込んで、こっちを上目づかいに睨んでいるのだが、顔がやけに赤いのだ。
 原因はすぐにわかった。
「あの……それって……」
 わたしが指を指すと、うんっ? といった表情で、彼女はそっち。自分の手に持っている“モノ”を見た。
『ビールだけど?』
 向こうの床には空き缶がいくつかと、袋がいろいろ散らばっている。一個ずつ確かめると、全部“ちんみ”だった。
 ちょっと、頭がクラッとした。
「あの、高校生って飲酒はいけないんじゃあ……それにうちってお父さんもお母さんもお酒飲まないけど、そっちは違うの?」
「こっちもそうだよ。これは自前。それにビールくらい普通だよ? よっちゃんも幸穂も飲んでるって言ってたし」
 彼女は唇にはさんでいたスルメの足をむしゃむしゃ食べて、缶に口をつけた。
 ものすごく、おやじっぽい。
「それで、わたし今日一日考えてたんだけど……」
 気を取り直して、わたしがこの不思議な現象について意見を述べようとしたとき、彼女は手をあげてわたしの言葉を制した。
『ねえ、そんなことどうだっていいじゃない』
「どうでもいいって……」
『どうせ考えたってわかんないよ。それよりせっかく知りあったんだし、もっと楽しい話をしようよお』
 どうやら、向こうはこの現象を不思議なものとして納得したみたいだった。
 酔っているためかわざとか、甘えた声で懇願してくる。自分の顔でそんなことを言われると、逆に気持ち悪い。
 ――でも、それもそうか。
 この現象がなぜおこったのか。なんて考えても二人だけではわかるとも思えなかったし、その必要もないだろう。
 それにわたしも、もっといろんなことを話したかった。
 実はわたしには友達がいない。
 もともと人と話すのが苦手だったけれど、和也くんのことがあってから、よけい話せなくなってしまったのだ。
 自分の言葉で相手がどう思うかを考えてしまうと、なんて答えていいかわからないのだ。
 ひょっとしたら、またあんなことになって、悩みを抱え込んでしまうかもしれない。そんなふう考えたら、たとえクラス替えとかがあって一人でいるわたしに気をつかってくれる子が現れたとしても、結局避けてしまう。そして孤独になりたい人間なんだと、みんなに思われてしまうのだ。
『今日さ、よっちゃん達と一緒に駅前にできたケーキ屋さんに行ったのね』
 わたしが頷いてすぐに、彼女は話し始めた。
 どうやら、女生徒のあいだで最近話題になっている新しくできたケーキ屋さんに行ったらしい。よっちゃんというのが誰かなと一瞬考えたが、すぐにクラスの相田佳枝(あいだよしえ)さんのことだとわかった。確かクラスでそう呼ばれていたはずだ。
 彼女はそこで食べた長い名前のケーキがいかにおいしいか、こと細かに説明し、そこで話したことを笑いながら語った。
 わたしはすぐにその話にひきこまれた。
 学校の帰りに、友達とどこかへ寄り道するなんていうことは、普通の人にはあたりまえかもしれない。しかしそんな経験など一度もないわたしは純粋にその話がおもしろかった。
 みんなで食べるケーキの味。
 放課後のたわいないおしゃべり。
 そんな決して得られることがないと思っていた時間がすぐそばにあるような気がしてきて、心が弾んだ。
 しかし話終わってから『そっちはどう? みんなでもう行った?』と訊かれたときは返事に迷った。
 どうやら似ているのは外見だけで、わたしと彼女は性格が百八十度といっていいほど違うみたいだ。
 どうしよう?
 友達が一人もいないって正直に話そうか。
「ううん、まだ。みんなでいつ行こうか、話してるとこ」
 しかし結局嘘をついた。
 別に深い意味があったわけではない。
 これはいわゆるメール友達と同じようなものだ。
 姿は確かに見えるけど、お互いの素性はぜったいにわからない。そんなところでは違う自分を演じていることなど珍しくないらしいし。
 嫌になったら、鏡の前にいかなければいい。
 その時は、そうやって軽く考えていた。


 あれから、数日がすぎた。
 毎日わたし達は夜になると書庫へ行って、一緒に話した。
 なれとは恐ろしいもので、鏡にうつった自分と話すというこの異常な行為も、最近は全然気にならない。
 それどころか、わたしにとってこの時間は一日でもっとも楽しみな時間だった。
 こんなふうに自分が感じるようになるなんて、想像もしていなかった。

『じゃあ、また明日ね』
 一時を過ぎたところで、今日はお開きになった。
 ばいばーいと手を振る彼女に同じように振りかえす。しかし姿が見えなくなると小さくため息をついた。
「今日も、だめだったな」
 ぽつりと、呟く。
 あげていた手をおろし、じっと見つめた。
 彼女はきっと、わたしを自分と同じように明るくて、友達がたくさんいるんだと思っているんだろうな。
 そう思うと、またため息が出た。
 ここ数日、彼女に嘘の自分を演じている自分に罪悪感をおぼえていた。
 最初は軽い気持ちで嘘をついたのに、もう今となっては本当のことなど告白できない。
 どんどん彼女の存在が自分の中で大きくなるにつれ、本当の自分と接してもらいたくなった。
 でも言えなかった。
 幻滅されないだろうか? 今まで嘘をついていたことを怒ったりしないだろうか?
 存在が大切であるから、本当の自分を知ってほしいと思うし、また嫌われたくないとも思う。
 最近はそのことをうち明けようと思いながら、結局言えずに落ち込むということを繰り返していた。
 それは和也くんの時と同じで、それでますます気が重い。
「実は今までのわたしは嘘なの。本当は、友達なんて、一人もいないの」
 わたしは本棚しかうつっていない鏡に向かって言った。
 ――こんなふうに素直に彼女の前でも告白できたらいいのに。
「どうしたらいいんだろう?」
そして三度目のため息をついた時『別にどうもしなくてもいいんじゃない?』と向こうの美由紀の声がした。
 慌てて鏡を覗き込むと、本棚の間からひょっこり彼女が顔をのぞかせた。
 そしてそのままわたしの目の前まで歩いてくると『今日は二度目だね』と笑って言った。
「どうして……」
『いや、最近なんかおかしかったから、ちょっと帰るフリして様子を見てたの。盗み聞きしてるみたいで悪いと思ったんだけど』
 ということは……
「さっきの独り言、聞いたの?」
 おそるおそる訪ねると、彼女はあっさりと首を縦に振った。
 きっと死刑を宣告される囚人というのは、こんな気分なんだろう。
 わたしは彼女がなんて答えるのか怖くて、顔をあげられなかった。
『そんな泣きそうな顔しないでよ。別に怒ってないから。それに実をいうとね、ずっと前から気づいてたんだ』
「え?」
『だって、同じ自分だし。最初から、なんとなく変かなっとは思ってたの』
 でも、それならずっと話を合わせてくれていたってことになる。
『あたしも、別の自分になれたらいいなって思うときあるし。それは別に悪いことじゃないよ。あたしは美由紀がそうしたいんなら、それがいいと思ってた。でも、最近ちょっとつらそうだったし。もしかして悩んでるのかなって』
「それで隠れ見てたの?」
『わたしと同じなら、言えないときにも同じことするかと思って。当たったね』
 彼女はそう言って笑った。
 それから、わたしは自分のことを話した。
 友達がいなくて、いつも一人で過ごしていること。
 でも本当は、みんなと話したいこと。
 この数日は友達ができたみたいでとても楽しかったこと。
 こんなふうに自分の気持ちを全部素直に他人に話したのははじめてだった。
 それはとても恥ずかしくて、でも話し終わると今までずっと心の奥でつかえているものがとれたような、心が軽くなったような、そんな不思議な気分だった。
『あたし達ってまだ友達じゃなかったの?』
 聞き終わった彼女が驚いたように訪ねた。わたしが大きく首をふると、すぐに『冗談よ』と笑った。
『でも、話してくれてありがとう。嬉しかった』
 そんなふうに言える彼女がすごいと思った。
「わたしも美由紀さんみたいになれるといいのに」
『きっとなれるよ、だって、あたし達は同じじゃない』
 わたしの言葉に、彼女はそう言った。
 それは、嘘や慰めじゃなくて、本当に二人が同じだと思っているのがわかった。
 部屋に戻る途中、わたしはその言葉を何度も何度も反芻した。
 もしも、自分が変われるのなら。
 それなら……
 ――頑張ってみようかな?


3.


 昼休み。わたしはお弁当を食べ終わると、鞄の中から文庫本を取りだした。しおりをはさんでいたページを開き、活字に目を落とす。
 これがいつもの過ごし方だ。
 窓を閉め切っているから、日があたる窓際にあるこの席はかなり暖かい。
 教室のいたるところで気のあう仲間同士、机をよせあってお弁当を広げたりおしゃべりに花を咲かせたりしている。
 この前まで、わたしはここにいるのが嫌いだった。
 みんなが楽しそうにしている場所に一人でいると、まるで取り残されたような寂しい気持ちになる。
 だからわたしはいつもお昼を食べ終わると、図書室へ行って本を読んでいた。
 でも、向こうのわたしに自分の気持ちを話した日から、前よりは気にならなくなった。
 ――彼女みたいになりたい。
 そう思ったわたしが変わったことはこれだけだから、情けないといえばそうかもしれない。でも、今のところはこれでもいい。
 少しだけ変われたということが嬉しかった。
 BGMみたいに聞こえてくるクラスの会話は、バレンタインの話題が多いみたいだ。
 今日は二月十二日の金曜日。土日をあけた月曜日が十四日だ。
 きっと週末にチョコを買いにいく相談とかをしているんだろう。
 ちょうど目の前に机を寄せ合って座っている相田佳枝さん達のグループも、誰にチョコをあげるかで盛り上がっているみたいだった。
 最近、わたしは彼女達の話に耳を傾けることが多い。
 よく夜の会話で話題がでるので、悪いと思いながらもついつい聞いてしまうのだ。
 今年はサッカー部の先輩が競争率高そうとか、陸上部の後輩が可愛いとか、評価もまじえて、楽しそうに笑っていた。
 女の子が、好きな男の子にチョコレートを渡す日、バレンタインデー。
 実はわたしも、ずっと昔だけどチョコレートをあげる約束をしたことがある。
 相手は、和也くんだ。
 結局その前に気まずくなってしまって、今だ渡せてはいない。
 でも、いつかこの約束を守って、チョコレートをあげたいとずっと思っていた。
 ――美由紀さんみたいになれたら、渡せるかもしれないな。
 なんて、今年はちょっと期待している。
 その時、“幹本和也”という名前を耳にした。
 慌てて視線を文庫からあげると、目の前の相田さん達が彼のことを話していた。
「ええ、彼? だって怖そうじゃない」
「そうそう、確かに背高いしちょっと格好いいけど、安藤先輩の方がずっといいよ」
 まわりの子達が、和也くんのことをいろいろと言う。
 良く知りもしないで、勝手なことをいう彼女たちに少し腹立だしい気持ちになった。
「でもさ、彼ずっとフリーじゃない。キープチョコぐらいあげといても損はないと思うわけ」
 しかし相田さんがそう答えると、今度は逆に「なるほどねー」と頷いていた。
 彼女たちから視線をはずし、教室を見渡した。
 和也くんはどこかに行っているのか、いなかった。
 相田さんにチョコをもらって喜ぶ和也くんの姿が、想像なんてしたくもないのに浮かんでくる。
「やっぱり、今年はダメかな」
 ――だって、他にわたす人がいるんじゃ、わたしのなんか受け取ってもらえるかどうかわからないもの。


『ねえ、来週の月曜日、いよいよバレンタインデーよね』
 みんなが話していたのでもしやと思っていたら、その夜の話題もやっぱりバレンタインだった。
 今日も彼女はいつものように缶ビールを片手にするめをかじっている。
 わたしはウーロン茶だ。おかしは太ると嫌なので食べない。彼女が毎日食べても太っていないから体質的に大丈夫なのかもしれないが、油断は禁物だ。
『それで、ちょっと訊きたいんだけどさ、美由紀って料理上手って言ってたわよね?』
「上手っていうか……ただ、お母さんとかいないときに夕ご飯つくったり、たまにお菓子焼いたりするぐらいだけど」
 一体なんだろう?
『チョコレートは?』
「おかしのデコレーションとかだったらやったことあるけど?」
 料理。
 それはいろんな所が負けているわたしが唯一勝っている部分だった。
 これはお母さんが料理教室の先生をしていることとは、実はあまり関係がない。いつも忙しそうで、教えてもらったことなんて数える程しかないし。
 ただ両親が共にいないことが多かったので、小さい頃から家のことをよくやっていたのだ。お菓子とかもつくるのが好きで日曜日とかによくクッキーとか焼いている。
 彼女は料理が苦手らしい。
 一度カレーライスを作ろうとしたが、野菜を切るところで、切り終わる前に全部の指を包丁で怪我してギブアップしたと言っていた。じゃあ、お母さんがいないときにご飯をどうしているのか訊いたら、コンビニらしい。
 栄養が偏っていそうで、心配な答えだ。
 彼女はいつもチョコレートがうまく溶けないと困った顔をした。
『ねえ、あれっておかしくない? ナベにチョコレート入れて溶かすと、いっつも茶色い部分と白い部分にわかれちゃうんだけど』
「……それって、まさかナベを直接火にかけてない?」
『あれ? ダメなの?』
 チョコレートは火力が強すぎると、カカオとココアバターに分離してしまう。普通はナベにお湯をはり、そこにチョコを入れたボールをつけて溶かすのだ。
 これは常識のはずなんだけど、全然知らないみたいだった。
「お母さんの本棚にある料理の本にのってなかった?」
『実は、はじめてあたし達があっときに探してたのよ。でもどれも難しくて、簡単なのがなかったから』
 そうか、あの日の彼女が探していたのは、バレンタインチョコの作り方だったんだ。
 わたしはチョコレートの溶かしかたを説明した。本当は持っているおかしの本を貸してあげたかったけど、向こうにとどける術がない。
「結構簡単でしょ?」
 説明が終わってから訊くと、腕を組んで『うーーん』とうなっていたが、しばらくして、首を横に振った。
「そんなに難しくないと思うけど」
『だって、あたし料理って成功したことないんだもん』
 彼女は、とほほ。とため息をつく。
 いつもは明るく自信満々なくせに、料理になると途端に弱気になるなんて少し可笑しい。
 どうもそれが表情にでてしまったみたいだ。
 彼女は顔をふくらませて、わたしを軽く睨んだ。
『ちょっと、笑わないでよね。これでも結構真剣なんだから。今年こそ、約束を果たさなきゃいけないの』
 彼女はぐっと拳を握りしめる。
 約束? ってなんだろう?
 和也くんの顔が浮かんだ。
 ひょっとして、同じ約束をしているんだろうか? 夜のおしゃべりで、彼女も和也くんと幼なじみで、今でも仲がいいというのは聞いていた。
 わたしと彼女は、幼いときほど共通の思い出が多い。信じられないが、彼女もその頃は人と話すのが苦手だったらしいのだ。
「ねえ、約束って……」
『そうだ、明日の土曜日、手本見せてよ』
 わたしが質問する前に、パチンと指をならして彼女が叫んだ。
『明日お父さんとお母さん用事あるって言ってたじゃない。だから台所に鏡持っていって、美由紀が一緒に作ってくれれば、あたしだって失敗しないと思うんだ』
 そう一気にまくしたてた。そして両腕を胸のあたりで組み合わせて、ウルウルした目で上目づかいにこっちを見て一言。
『お・ね・が・い』
「……いいけど」
 芝居くさい彼女のお願いに、ちょっと引きそうになりながら頷いた。
 別になにかすることがあるわけではないし。休みの日はいつも家で本を読むか、それこそ料理しているだけだ。
 それに何より、はじめて彼女が自分を頼ってくれたみたいで、役に立ちたかった。
『ほんと? うれしー、ありがとー。じゃあ、明日お昼にここに集合でいい?』
 彼女は感激したようにそう言うと、スキップしてるみたいな軽い足取りで去っていった。
 その後ろ姿を呆然と見送っていたが、すぐにはっと気づいた。
 ――誰にチョコを渡すのか訊きそびれちゃった。


 冷蔵庫を開け、入れておいたハートのプラスチック容器を取りだした。
 中を確認すると、茶色の固まりが均等につまっている。カカオとココアバターが分離して色むらができてもいない。
 ちょん、と指でさわると、ひんやりと冷たく、固い。
 ――よかった、ちゃんと固まったみたい。
 わたしは鏡を覗き込み、美由紀さんがこっちに向けているチョコレートを確認した。彼女のほうも同じようにできているのを見て、わたしはほっと胸をなでおろした。

 昼過ぎ、わたし達はキッチンまで鏡を運び、そこで一緒にチョコレートを作ることにした。
 我が家の台所は新築したときに力を入れた部分の一つで、家の中でも一番大きな部屋だ。
 国は忘れてしまったけど、使いやすい外国製のシステムキッチンで、並んでいる道具も本格的なものが多い。
 鏡はダイニングテーブルを壁の方へよせて、そこにもたれかけさせてある。
 そして作りはじめたのだが、これがなかなか大変な道のりだった。
 わたしは自分がお菓子をつくるために買っておいた材料でつくることにしていたが、彼女は大きな板チョコ状の材料チョコしか持っていなかった。
『溶かして、型に流せばいいんじゃないの?』
 どうやら、単純に考えていたらしい。
 たしかにそれでもいいのだが、わたしはもう少し凝った方がいいんじゃない? と提案した。
 せっかくあげるなら、おいしいほうがもらったほうも嬉しいだろう。
 キッチンの中を二人して物色しつかえるものを探した。そこから意見をだしあってチョコクリスピーを作ることにした。
 作り方は、最初に溶かしたチョコレートにバターとはちみつをあわせる。次にコーンフレークやシリアルを入れて潰さないように注意してまぜる。あとは、型に入れて空気が入らないように平たくしてから冷蔵庫に入れて固めればできあがりだ。
 これなら難しくないし、料理が苦手という彼女も大丈夫だろう。
 そう思っていたが、甘かった。
 最初にチョコレートを溶かしやすいようにまな板の上で刻んだのだが、すでに包丁の持ち方が危なすぎて見ていられない。
 ほかにも分量をすべて適当に入れようとしたり、ゆっくりやさしく混ぜてねって言ったのに力いっぱい混ぜてシリアルをつぶしたりといろいろハプニングがあった。
 しかしそれでも何とか進んでいき、やっとここまできたのだ。

 壁にかかっている時計を確認すると、四時を少しすぎたところだった。
 お母さんが帰ってくるのはまだ一時間以上先だから、なんとか最後まできそうだ。
『それで、次はどうするの?』
 鏡の向こうから、弾んだ声がした。
 彼女は自分の作ったチョコレートをうれしそうに見つめていた。こっちまで笑顔になってくるような、そんな表情だ。
「あとは、ホワイトチョコで名前を書けばできあがりよ」
 湯煎につけてあったボールを持って、中に入っているホワイトチョコをヘラで絞り袋の中へと入れる。
 彼女もわたしの方を見ながら、同じように入れたのを確認してから、ラップにいくつか文字を書いてみせる。
「なれないとうまく書けないから、最初は練習してみて」
 わたしがそういうと、彼女は同じようにラップの上に文字を書いた。
『LOVE ☆ KAZUYA』
 あまり上手ではなかったけれど、確かにそう読めた。
 ――やっぱりそうなんだ。
 昨日からずっと気になっていたけれど、向こうの彼女もわたしと同じ約束をしているんだ。
 わたしも、彼女に手本を見せる形で、同じ文字を書いた。
 一文字ごとに、胸がどきどきする。何故か苦しくて、そして恥ずかしくて。
 でも、やっぱりそうなんだ、と納得してしまうこの言葉。
 ――わたしの、本心。

『ありがとう、これでやっと約束守れるよ。ホント、助かっちゃった』
 彼女は赤い色のラッピング用紙で包んでリボンをかけた箱をもってはしゃいでいる。
 まるで踊りだしそうだった。よっぽどうれしいらしい。
 それを見ていると、自分が押さえられなくなった。
「それって、やっぱり公園で約束したチョコレート?」
 わたしが訊くと、一瞬驚いたてこっちを見つめたが、すぐに納得したような顔になった。
『なんだ、同じ約束してたんだ。あたし毎年ずっと失敗しててさ、結局今まで渡せてないんだよね。美由紀はこんな上手につくれるんだから、もう渡したんでしょ? どうだった?』
 鏡に近づき、興味津々といった表情で、訊いてくる。
 わたしはそんな彼女に首をふった。
「そんなことないよ。あの後、ちょっと気まずくなっちゃって、わたしもまだ渡してないの」
『気まずくなったのって、ひょっとして“もうわたしに声をかけるのはやめて”とか言ったのが原因?』
「え?」
『やっぱり、美由紀も言ったんだ』
 今度はわたしが驚く番だった。
 てっきり、彼女は今でも和也くんと仲がいいから、この思い出はわたししか持っていないと思っていたのだ。
『あれは、今でもよく憶えてるよ。すぐに後悔してさあ、でも謝れなくてずいぶん悩んだよね。ごめんなさいしたときはものすごい勇気いったよ、ホント』
「わたしは、謝れなかった」
 それだけを、言った。
 違う。
 やっぱり、わたし達は同じなんかじゃない。わたしにはその一歩を踏み出すことはどうしてもできなかった。
『それじゃあさ、一緒にこれ渡さない? せっかく作ったんだし。そうすれば、仲直りできるかもしれないじゃない』
「いいよ。きっと和也くん、もうわたしのことなんて、忘れちゃってるだろうし。それに他の子もチョコレート渡すみたいだから、受け取ってくれるかもわからないもん」
 この前の教室での会話を思い出した。
 それから彼女はいろいろと励ましの言葉をかけてくれたが、わたしは首を振り続けた。
 きっと彼女にとっては、チョコレートを渡すことなど何でもないのだろう。
 でもわたしには、それすらもとてつもない勇気が必要なのだ。
『じゃあ、チョコレート一個ももらえなかったら、渡すっていうのでどお?』
 なんとかうまく断る方法はないかと考えていたとき、彼女がそう提案した。
「え?」
『さっき、他の子が渡すから渡せないって言ったよね? だったら、和也が誰からも貰わなかったら渡せるってことよね』
「それはそうだけど」
『じゃあ、決まり』
 彼女は小指を鏡の前につきだした。指切りしろということらしい。
 わたしは、一瞬迷ったが指を近づけた。そして鏡に指をふれさせて、子供の頃したように歌を歌って指を切るマネをした。
『約束したからね?』
 ふふふ。
 してやったりという顔で彼女は笑う。
 急に心配になった。まるで和也くんが誰からもチョコレートをもらえないのを知っているように自信満々なのだ。
 もちろん、そんなわけはない。
 でも、不安になった。
 渡したい。それは確かにそう思っている。しかし本当に渡せるかどうかは別の問題だ。まるで渡せない理由を無理に探しているようで情けなかったが、わたしはそう思った。
 だから……
「頑張ってみる」
 ずるい逃げだとわかっていたが、こう言った。
 これなら、渡せなくても、努力だけすれば約束は破ったことにはならないだろう。
「じゃあ、もうすぐお母さん帰ってくるから、かたづけよ」
 少し負い目を感じる。彼女の顔をまっすいに見られなかった。わたしは視線をあさっての方へ向けたまま、ボールやまな板を、洗い場に持っていこうとした。
『ねえ、美由紀』
 その声に振り向くと、彼女がじっとこっちを見ていた。
 その表情はいつもの彼女よりもずいぶん真剣な感じがする。わたしは自分の心が見透かされたような気持ちになって、どきりとした。
「な……なに?」
『絶対に、頑張ってね。きっとそれはあなただけじゃないはずだから』
 まっすぐにわたしの目を見つめて、そう告げた。
 そしてすぐに表情を和らげ、いつもの笑顔に戻った。
『あたし達は同じなんだから、きっと渡せるよ』
 それだけ言うと、彼女も散らかったキッチンを片づけ始めた。


4 .


 月曜日、わたしはチョコレートを持って登校した。
 今日は朝から学校全体が浮き足立っているように感じられる。
 いつもの年だとそれをただ横目で眺めているだけだったが、今年はわたしもみんなのように落ち着かない。
 休み時間のたびに鞄の中をのぞきこんでチョコレートが入っているかを確認した。そしてふと気づくと、和也くんを目で探している自分がいた。
 そして昼休み。教室ではあちこちでチョコレートの受け渡しが行われていた。
 同じクラスの女子だけではなくて、他のクラスや後輩の子もかなりいて、いつもの昼休みとは様子が大分違って見える。
 そんな教室で、わたしはさっきからある一点をじっと見つめ続けていた。
 視線の先には、和也くんと相田さんの姿があった。彼女はどこかのお店で買ったのだろう、綺麗にラッピングされた包みを、彼に向かって差し出していた。
 しかも、彼女の後ろには別のクラスの女子が二人、同じようにチョコレートの箱を持って待っていた。
 ――和也くんって意外ともてるんだ。
 変なことに感心してしまう。
 自分の好きな人がもてるというのは、嬉しいような、悲しいような複雑な気分だった。
 でも……
 これで、わたしのチョコレートは必要のないものとなってしまった。
 和也くんがチョコレートを受け取れば、美由紀さんとの約束はなしになる。
 そして今は、その方がいいんじゃないかと思い始めていた。
 もう何年も前に疎遠になってしまったわたしとの約束なんて彼が憶えているはずがないし、今更そんなことを言われて渡されても、逆に迷惑だろう。
 和也くんがクラスの女子と話しているところをあまり見たことがなかったが、わたしより親しい人などいくらでもいるはずだ。
 しかし……。
 わたしは自分の見た光景が信じられなかった。
 和也くんは、相田さんのチョコレートを受け取らなかった。
 少し離れているので何を話しているかまでは聞き取れない。しかし彼は首をふって、相田さんと他の子に何か話していた。
 最初のうちは相田さん達も笑ってまたチョコレートを差し出していたが、しだいに険悪なムードになっていくのがわかった。
 そしてついに、彼女達は不機嫌な顔をして教室を出ていってしまった。
 そのとき乱暴に閉めた扉がぴしゃんと音を立てた瞬間、何ごとかと教室が“シン”となった。
「チョコ、もらわなかった……」
 一体何がどうしてそうなったのか? さっぱりわからないが、それは事実だ。
 つまり……
 わたしは彼にチョコを渡さなければならなくなったということだ。
 それを意識した瞬間、心臓が大きく脈打った。
 まるで体育でマラソンをした後みたいに、どんどん鼓動がはっきりと聞こだし、顔が火照ってくる。
 わたしは汗に濡れた手をハンカチでふくと、鞄からチョコレートの箱をそっと取り出した。
 和也くんは、教室の隅で友達らしい数人の男子生徒につめ寄られている最中だった。
 わたしは立ち上がり、彼の方へと歩き出そうとした。
 そして気付いた。
 教室の全員が、わたしを見ている。
 正確にはそんな気がするだけ。でもそう思ったら、一歩も動けない。
 笑い声。誰かが、わたしを見て笑った?
 ――そんなわけない、そんなわけ……
 わたしは目を閉じ、頭をふって必死に幻想を振り払った。
 そして顔を上げた。
 その時、和也くんと目があった。それは一瞬のことだったけれど、わたしは立っていられなくなって、椅子にすわりなおした。
 ――やっぱり、渡せない。
 そう思った瞬間、五時間目を告げるチャイムの音が耳に届いた。
 わたしは黙って握っていたチョコレートを鞄に戻した。かわりに教科書とノートを机の上に取りだした。
 ――今、頑張ったよね?
 嘘だとわかっていたけれど、心の中で呟いた。


 放課後になると、わたしはすぐに教室を出た。
 学校はチョコレートの受け渡しの第二ラウンドが始まっていた。昼休みはクラスや同学年が中心だったが、放課後は部活の先輩や後輩が中心らしかった。
 下駄箱で靴を履きかえ校庭にでると、寒空にもかかわらず、多くの女子がグラウンドのいたるところで黄色い声ではしゃぎながらチョコレートを渡しているのが見えた。
 それを横目に、マフラーと手袋をして校門に向かって歩いた。
 今日は、早く帰りたかった。
「美由紀」
 足早に校門を通りすぎようとしたとき、誰かがわたしを呼び止める声がした。
 和也くんが門の壁に背をもたれて立っていた。
「和……柳瀬くん」
「今、帰りか? よかったら、久しぶりに一緒に帰らないか?」
 彼は背を門からはなし、こっちへ歩きながらそう言った。そしてわたしの横を通り過ぎると、返事も待たずに家の方へ向かって歩いていってしまった。
 わたしは慌てて追いかけ、彼に並んで歩きはじめた。横目でちらりと見ると、彼は無表情でまっすぐに前を見て歩いていた。
 そこから、何も読みとることができなかった。
 ――急にどうしたんだろう?
 一緒に帰るなんて、何年もしたことがなかった。
 彼は一言も話さず、黙って歩く。
 わたしは彼の意図はまったくわからなかったけど、このシュチュエーションをつくってくれた見えない何かに感謝した。
 これはチャンスだ。
 二月のはじめ、学校帰りの道であったとき、声すらかけられなかった。
 そして今日は、チョコレートを渡せなかった。
 でも今なら……
 クラスの誰かが見ているわけではないし、和也くんはわたしの横を歩いている。
 話しかけても全然不自然じゃないし、そこで会話がうまくいったら、いったんは諦めたチョコレートを渡すことができるかも。
 しかしその思いも、住宅街に入った頃にはしぼんでいた。
 ここにくるまでに、一度も話しかけられなかった。
 今まで、話せなかった理由はたくさんある。
 でも今は?
 和也くんが一緒に帰ろうと誘ってくれて、わたしの横を歩いているのだ。
 そんなものは、どこにもない。
 だから、わたしは自分と向き合うしかなかった。
 話しかけられないのも、チョコレートを渡せないのも。
 そして、わたし達が離れてしまったあの一言を謝れないのも、別に何か理由があるわけではない。
 ――結局、ただ逃げているだけなんだ。
 キッカケがないとか、人の目があるとか、いつも理由を探して、自分の気持ちを先送りにしているだけなのだ。

「公園へ寄っていかないか?」
 二人の家の別れ道である公園まできたとき、はじめて彼が口を開いた。
 校門でわたしを誘ったときと同じように、返事を待たずに一人公園の中へと入っていく。
 彼の後を追って、公園に入った。
 公園の中には誰もいなかった。
 ここはわたしにとって思い出の場所だ。
 ここでチョコレートをあげると約束した。そして、声をかけるのはやめてと言ってしまった場所でもある。
 公園は、そんな記憶に残る姿のままだった。
 ここに住宅がはじめて建ったときに一緒につくられたらしい児童公園は、わたし達が遊んでいた頃からすでに古かった。
 外周を歩けば五分もかからず一周できてしまうくらいの敷地の中に、ブランコとジャングルジムと砂場がおかれ、中央にドッチボールがなんとかできるくらいの広場がある。
 わたしはジャングルジムへ近づいて、そっとなぜた。
 もうペンキが半分以上も剥げてしまい、最近はあまり使われていないのか錆が浮きでていた。思ったよりもずっと小さい。
 あらためて、時の流れというものを感じた。
「なつかしいな」
 和也くんが、ブランコに腰をおろして同じようにまわりを眺めていた。
「昔よく一緒に遊んだけど、憶えてるか?」
 わたしは黙ってうなずいた。
 それから和也くんは、ブランコをこいでいくつか思い出を語った。
 わたしは彼のとなりのブランコに腰掛けて、それを黙って聞いていた。
「そういえば、美由紀ってバレンタイン知らなかったよな」
 いくつかの話の後。空がだいぶ暗くなった頃、ポツリと彼は言った。
 それで思いだした。わたしはバレンタインっていうものを、和也くんから教えてもらったのだ。
「バレンタインデーにチョコくれる? って言ったんだよね?」
 ちょうどこれくらいの時間だった。
 もう家に帰らなければいけない時間になって、ばいばいをしようとした時に、和也くんが突然そう訊いてきたのだ。
「そしたら、バレンタインって何? って逆に聞き返された」
 思い出を懐かしむように彼は笑った。
 そう、約束の始まりはわたしの無知にあった。
 その頃から人と話すのが苦手だったわたしは、クラスの子とあまり話さなかった。テレビもそんなに見なかったし、両親もバレンタインにはまったく関心がなかったから、そんな日があることを全然知らなかったのだ。
 だから、約束をしたんだ。
 ――わたし和也くんのこと好きだから、手作りのチョコレートきっとあげる。
 そして、同時に思い出した。
“俺、最初にもらうのは美由紀のチョコって決めてるから、他の奴からもらわない。ずっと待ってるからな”
 その時、彼は確かそう言った。
 じゃあ、まさか……
「昼休みに教室でチョコレート受け取らなかったのって、ひょっとしてわたしとの約束のせいなの?」
 彼は何も答えなかった。
 でも、きっとそうだ。和也くんはずっとわたしとの約束を守って、そのために他の子のチョコレートを断ってきたのに違いない。
 わたしだけが憶えているんだと思っていた。
 わたしだけが悩んでいるんだと思っていた。
 でもそんなのは、わたしの思いあがりだった。
 彼もちゃんと憶えていてくれたのだ。
 ……それだけじゃない。
 ちゃんと待っていてくれたのだ。
「和也くん……」
 頬に、涙がつたうのを感じた。
“絶対に、頑張ってね。きっとそれはあなただけじゃないはずだから”
 美由紀さんの言葉。
 彼女はちゃんと知っていたのだ。
 だからあんなに一生懸命になってチョコレートをつくったのだ。
“絶対に頑張ってね”
 彼女の言葉を誤解していた。
 あれは努力しろとか、そんな簡単な意味じゃなかったのだ。彼の気持ちに気づいて、報いろという意味だったのだ。
“あたし達は同じなんだから”
 美由紀さんみたいになりたいと願ったとき彼女が言った言葉。そして、昨日わたし向かって最後にかけてくれた言葉。
 わたしは彼女が和也くんに謝ったと聞いたとき、二人は同じじゃないと思った。
 姿はたしかに同じだけれど、中身は全然違っているんだ。わたしが彼女みたいになれるはずがないんだ。そう思っていた。
 今はわかる。
 彼女は謝ろうと思って、すぐに謝ったわけではないのだ。わたしと同じように、ひょっとしたらもっとずっと悩んで、それで勇気を振り絞ったに違いない。
 違いなんて、本当にきっとそれだけだ。
 ――それなら、わたしだって……
 わたしは涙を手袋で拭って、ブランコから腰をあげた。そして和也くんの前に立ち、鞄の中からチョコレートを取り出した。
「ずいぶん、遅くなっちゃったけど」
 そう言って、彼の前へと包みを差し出した。
 和也くんは、少し驚いたような顔をして、わたしと包みを交互に見た。
 そしてあの日、約束を交わしたときと同じ笑顔をして、包みを受けとる。
 長かった。
 でも、ようやくはたすことができた。
 それはわたし一人の力じゃない。
 ――ありがとう。
 和也くん。
 そして、もう一人のわたし。


「『カンパーイ』」
 美由紀さんは鏡の前へ缶ビールをかかげると、それを一気にあおった。
 わたしも同じようにして、缶ウーロン茶に口をつける。
『っかーーーおいしーーー』
 まるで湯上がり後のいっぱいを楽しむサラリーマンみたいな声を出して、一気に飲み干した彼女は、二本目のプルトップを開け、ちんみの袋を破いた。
『でも、やったじゃん。大丈夫だと思ってたけど、ちょこっとだけ心配してたんだよね』
 さきいかを口にほおりこみながら、彼女は笑った。
「うん。それとね。“もうわたしに声をかけるのはやめて”って言ったことも、謝ることができたんだ」
『よかったじゃない』
「美由紀さんの方は?」
『あたしの方も、バッチリ。和也はあれであたしのとりこさ』
 いつもの書庫、わたし達はお互いの結果を報告しあった。
 まさかここでこうして笑っていられるなんて、朝には想像もしていなかった。
 やったことは、小さいかもしれない。
 バレンタインデーにチョコレートを渡すという子供の時の約束を守っただけ。
 でもわたしは自分を誇らしく思った。
「ありがとう」
 わたしは頭を下げた。
 これも彼女のおかげだ。
 もしも出会っていなかったら、わたしはいつまでの前のままだったに違いない。
『お礼なんてやめてよ。そんなのお互いさまじゃない』
 しかしそんなわたしに。ちょっと怒ったように彼女は言った。
『いい? あたしだって、美由紀ちゃんいなかったら、今年もチョコレートつくれなかったよ。だからどっちのおかげってことはないの。あたし達はお互いに頑張った。それでいいじゃない』
「そうだね。こめん」
 今までのわたしなら、きっと「そんなことない」と否定しただろう。
 自分のしてもらったことは、彼女にしてあげたことよりも沢山で、だからわたしは彼女よりも下なんだと、そう思ったに違いない。
 でも、私たちは同じ水原美由紀だ。
 少し性格や得意なものは違っているけれど、どっちかが優れていてどっちが劣っているというわけではないのだ。
『わかればよろしい。で、ものは相談なんだけど……』
 彼女はまた前みたいに、両腕を胸のあたりで組み合わせて、ウルウルした目で上目づかいにこっちを見た。
『今日チョコ渡した時にさ、ちょっと調子にのって、料理なんでもできるって大見得きっちゃったんだけど……それでね、今度弁当つくってやる約束しちゃって……今度はお弁当の作り方教えてくれない?』
 わたしは、ちょっと恥ずかしかったけど、彼女のマネをして、両腕を胸のあたりで組み合わせた。
「わたしも。今度の日曜日、二人でどこか行く約束したんだけど、いいところ教えて」
『…………ぷっ』
「…………クス」
 わたし達は可笑しくて、お腹を抱えて笑いあった。
 ――これでいいんだ。
 まだわたしはこれぐらいでも精一杯だけど、少しづつ変わっていければいい。
 私たちは笑いすぎてでてきた涙を手でこすって、そしてお互い同時に言った。
「『まかせといて!!』」





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