丸山健二「ときめきに死す」の感想

 数日前に丸山健二「ときめきに死す」を読み終えた。なんだかんだいって、こういう小説がスキなんだな。それがこの本の感想です。
 後、つけ足すなら「もう読み返すことはないでしょう」。一冊読んだだけですごく疲れた。
 
 どうして物語から目を離せず、時間を惜しんで読めたのだろう。この作品のどの辺に惹かれたのだろうか。少し考えてみる。
 
 これは、一人称の小説である。一人称形式の小説は幾つもある。一様に言えることは、ひとりの人間の視点で語るリスクを負い、物語の全景を読者に伝えることにある。それが作者の力量だし、当然すべきことである。語り手は物語の中心人物か、事件のあらましを知ることが可能な人間がする。
 だけど、「ときめきに死す」は事件とまったく関係ない人物に視点を置いている。
 犬を連れてある青年を待つところから話は始まる。この時点では、青年が何者で何を目的にこんな別荘地に来たのがなにも知らされていない。依頼主のSも、目的、資金の出所についての情報を一切もらすことは無かった。ただ、元々学生時代の親友でもない顔見知り程度のSが、無就業者の「わたし」のような人間を探し出し、綿密な身辺調査を行った上で、偽造の社員証と青年が潜伏するための社用の別荘地を手に入れている以上、只者ではないことは解かる。
 事の全体像はつかめないが、周到さでSがどれくらい大物かを知り、同時にふんぞり返って命令する立場にないことも理解する。Sもまた汗して「わたし」のように条件に合う人物を探し回る末端の人間である。
 読み手に提示される情報は、その程度の憶測に過ぎない。別荘地に大物の政治家が訪れることを耳にすると、その殺害が青年の目的と察する。資金の豊富さから組織の強大さを考察し、このプロジェクトの力の入れ具合がわかる。これは単純な殺人ではない。テロであり、青年は政治犯になる。
 きちんとした情報が与えられない以上、情報の欠片を拾い集めて推測するしかない。大まかな輪郭は描けるがそこから先が見えない。閉塞感が読み手を拘束する。
実際に事を起こすのは青年。登場人物の中で一番全てを知る力をもっているのはSである。主人公の「わたし」はテロを起こそうとする青年の身の回りの世話をSから依頼されている傍観者でしかない。
 傍観者でしかないはずなのに「わたし」はその日が近づくにつれて、考え方が変化していく。始めは、何が起こるのかわからないことに苛立ち、それを抑えながら外からの情報を再構成していく。そして、高まっていく。意識が。まるで「わたし」自身が犯行の日を待っているような錯覚になる。別の言い方をすれば、周囲の静かな動向に煽られて、自分が知らない「非日常」の世界を実感していく。
 単純に浮かれているのではない。実行者はあくまで青年だから危険が無いことを知っている。「わたし」は、安全な中で危険な世界を楽しんでいる。これで周囲を見返せると、見返した気になっていた。
 ひたすら傍観者が自らの心理を独白し、読者がそれを追っていくと、読者の意識と「わたし」の心理の動向が奇妙にシンクロしていく。青年の犯行期日が迫っていくにつれて、「わたし」のおろかな高揚感が言葉を通して伝わってくる。
 もしかしたら、安全圏で犯罪者を見て静かに興奮していく様子は、殺意に至る経緯を小説を通して読み解くのと同じ立ち位置にいるのではないか。
 傍観者の「わたし」と読み手のわたしは同じ位置にいる。
 そのへんかな。わたしがこの作品に惹かれたのは。
 「同一感」で表現できる感覚が核になっている。それは、芥川龍之介「袈裟と盛遠」にない部分である。
 「袈裟と盛遠」で盛遠は殺人に至る経緯と自分の思いを独白し、言葉にすることで石を積むように殺意を積み重ねていった。
 「ときめきに死す」は殺意もなく傍観し勝手に盛り上がることで、犯罪者の気分を味わう。
 どちらが読み手に近いと思いますか。
 その辺でしょう。2度と読みたくないが、これを超える一人称の作品はそうないと感じたのは。



トップへ。