止まることのない時間の流れに、彼は翻弄されていた。
彼の思いは一つ。
将来、何をするべきであろうか。
彼には、わかる術もなかった。
しかし、突然に答えはやってきた。
たとえ破滅しようとも。たとえ全てを捨ててでも。たとえ叶わなくとも。
答えを守りたいと願うのは、彼のわがままであろうか。
1、
今にも雪が降りそうな、雪雲が渦巻く天候の中。
12月25日の冬は、都会に恋人たちが集まる。
クリスマスツリーが街中に瞬き、街路地は人々でゴッタ返す。
日本の恋人たちは、クリスマスの本来の意味も忘れ、それぞれの時間を過ごす。
けれども、ヒトは十人十色。もちろん例外もある。
それが、彼らだった。
「何でこんな所で待ち合わせなんだよ……」
大城達弘はこれで二十三度目の言葉を呟いた。
郊外にある海岸で、達弘は『彼女』と待ち合わせていた。
海原は天候が影響して、暗く淀んでいた。波が引いては返し、引いては返す。周囲には達弘以外、誰もいない。波音だけが、達弘の耳に響いている。
腕時計は4時23分を差している。
達弘はふうとため息をついた。口から白い息が漏れ出る。ため息と同時に身体中の力が抜けていくようだった。
かれこれ、1時間も待っているのだ。
「何で――」
「ごめん、たっちゃん! 遅れちゃったよ!」
二十四度目の言葉を言う前に、達弘に別の言葉がかかった。
振り向くと、パジャマを着た同じ年頃の少女がいた。杖をついた少女はふらつきながら、達弘に近づいてきた。
「遅えぞ、知香」
怒る達弘に、野村知香は「ごめんね、ホント」と謝った。
「ちょっと右足が見つからなくて」
知香が少し舌を出して言う。
『右足』とは義足のことだ。杖は、そのためのものである。
「何で俺をこんなところに呼び出した?」
「うら若き高校生が暇してると思って」
「……嫌味かい」
ぼやく達弘に「うん!」と快活に知香は答えた。
知香に会ったのは、夏の病院のことだった。達弘はその時、急性胃腸炎で入院していた。
入院三日目の夜、尿意で達弘の意識は覚醒した。個室ではないので、共同トイレに行くしかなかった。
達弘はゆっくりと身を起こして、寝惚け眼で廊下へ向かう。
病室を出ると、冷涼かつ静穏な空気が広がっていた。
夜の病院ほど不気味なものはない。達弘の身体は恐怖にかられ、震え出した。足が自然と小走りになる。スリッパの音が誰もいない廊下に木霊する。
達弘は足を止める。全神経が凍りついたように、身体が動かなくなる。粘着質な唾を飲みこんだ。
誰かがいた。
幽霊に違いない、達弘は思った。
白い幽霊が開いた窓から月夜を眺めていた。幽霊の短い髪が夜風で揺らぐ。漆黒の廊下で唯一、幽霊の周囲だけが白く輝いて見えた。
逃げようと、達弘はゆっくりと踵を返した。けれども焦りのあまり、足を滑らせ、声を上げて倒れてしまう。
その喧騒は深夜の病院によく響いた。気づかない者がいるはずがない。
幽霊が色白い顔を達弘に向けた。目が合い、達弘に微笑みかけた。
幽霊は幽霊ではなく、少女であった。
大城達弘と野村知香の出会いでもあった。
出会いから二人は気が合い、程なく達弘が退院した後も付き合いは、4ヶ月ほど続いていた。
一方が好きだ、愛してると言ったわけではない。恋人というには未成熟かも知れぬが、友人というにも語弊があった。
二人の間はそんな関係だった。
潮の香りと混合した木枯らしが、達弘と知香に吹きつけた。
パジャマ姿の知香は、小さなくしゃみをした。
「大丈夫かよオイ」
達弘は自分のジャンパーを知香に羽織ってやる。
「いいよ。平気だから」
「どこが平気なんだよ。さっさと俺の言うとおりにしろ」
「だけど……」
「いいから着ておけ。いや、むしろ着ろ」
まっすぐに知香の目を見つめる。
達弘の瞳に、知香はしぶしぶ頷いた。
「……ごめんね。急いでて上着忘れちゃったんだ」
申し訳なさそうに声を小さくする知香に、達弘は「気にすんな」と言ってやる。
「それで、何でこんなところに誘ったんだよ?」
「だから、暇だろうと思って」
「違うって」
知香の頭に手刀を与える。知香は「痛っ」と悲鳴を上げる。
「誘った場所がなんでここなのかってことだ」
「さて、どうしてでしょう?」
「わからないから聞いてるんだ、バカ」
「ふんだ。バカって言ったほうがバカなんだよ、たっちゃん」
「何を根拠に?」
「言い出しっぺの法則……」
「はあ?」
聞きなれぬ語に達弘は、首を傾げ、「何それ?」と聞きなおした。
あたしが考えた……と知香。達弘が笑って、おいおいどんな法則なんだよ。えっと、言い出したものが全ての責任を負うってこと……。わけわかんねーよ……。いいじゃん別にー。よくねえよバカ。ちがうもん、バカじゃないもんっ。照れるなよ、まんざらじゃねーくせに。違うもんっ。……
そうやって、達弘と知香は会話を絶え間なく続けた。
誘った場所が何故海岸なのか。
ある『理由』で、達弘には訊く気が失せていた。
達弘の病院通いが始まって、2ヶ月が過ぎた頃。
達弘は喉が渇いたので、病院内で自動販売機を捜していた。
赤色のもみじが街を染め、黄色のいちょうが風に舞い、茶色の枯れ葉がアスファルトを覆っていた。
窓の外には秋の景色が広がっていた。知香と出会った頃とは、全く趣が異なっている。
ぼうっと、その景色に見とれる。
――あの男の子もよく飽きずに続くわねぇ。
背後から、達弘の耳に女の声が届いた。
秋の景色の上に、達弘の背後が薄く、重なっていた。若い看護婦が窓に映っている。二人の看護婦は仕事もせず、雑談をしていた。
ああ、204号室に毎日通ってる子でしょ。
そうそう、あのコも健気よね。
あのコのこと好きなのかしら。
さあ、そんなこと知らないわよ。
好きでもないのに2ヶ月も続けられると思う?
確かにそうよねえ、もしかして財産目当てかな?
両親の遺産ってやつ?
そうそう。
今も入院できてるのは、そのおかげだもんね。
もしかしたらさあ、あの男のコ知ってるのかも――
達弘は耳を塞ごうとした。
嫌な予感がしたから。次の言葉が予想できたから。信じたくなかったから。
手で耳を覆うときには、すでに遅かった。
――あの患者、もう1年は持たないって。
笑いが混じった声だった。
2、
薩摩芋の甘い香りがする。
後頭部に温かみを感じながら、達弘の意識は覚醒する。
ゆっくりと目を開くと、達弘の視界は知香の顔で一杯になる。
「もう夜ですよ〜」
見下ろす知香が微笑む。
達弘は目だけで周囲を見る。横たわった海が視界に入る。
海が墨汁のように黒ずんでいた。水平線の上の空には、星が散らばっている。
腕時計の針はすでに6時を過ぎていた。
「俺、寝てたのか?」
「しかも、私の膝の上で」
「何っ!」
後頭部の温かみの元は、知香のふとももであった。
勢いよく身を起こし、達弘は知香と頭をぶつける。鈍い音がして、達弘の目の前が一瞬、きらめいた。
砂の上で悶える達弘。頭を押さえる知香。
しばらくの間、達弘と知香は頭の痛みに耐えていた。
「す、すまん知香……」
痛みが収まってきた頃、達弘は消え入りそうな声で謝った。
「大丈夫……じゃないかも……」
知香はまだ痛みが収まっていないのか、眉に皺を寄せている。
けれど、口元は笑っていた。
「楽しいね」
言う知香の頭はふらふらしている。
「痛いぞ……」
「でも、楽しい」
「そりゃ良かった……」
「うん!」
「そういえば元々は、お前が誘ったんじゃねえか……」
「うん!」
「元気よく答えるなよ……」
呆れる達弘に対して、知香は笑い声を漏らす。
今まで貯めこんでいたらしい笑いを、知香は吐き出す。
達弘は、自分が馬鹿にされている錯覚を覚える。
知香の笑いは止まらない。
達弘に、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
「小娘が――こうしてくれる!」
力を込めて、知香の頭を両手で掴む。油の浮いた髪を、容赦なくかき回す。
「やめてよぉ」
知香がうめき声を上げる。
「やかまし! 俺をからかうなぞ、時速二十キロ早い!」
「それ、ちょっと何か違う……」
「やかまし!」
達弘の手に、更なる力がこもる。
達弘の攻撃は3分間続いた。
知香の髪形はパーマでもかけたような状態になっていた。
「ふええええ……マジで、もみくちゃだよ……」
「さてと。もう帰るか」
「ひ、ひどいよ……たっちゃん……」
嘆く知香を無視して、達弘が立ちあがる。同時に「おっ」と声を上げる。
海岸近くの道路に、軽トラックが徐行している。『石焼芋』とプリントされた旗を掲げている。
薩摩芋の香りは、そこから漂っているのだ。
「どうだ、焼き芋でも食うか?」
軽トラックを、達弘は指差す。
知香はそっぽを向く。
達弘は返事も聞かず、軽トラックに向かって走る。しばらくして戻ってくると、腕の中には、茶色い袋があった。
袋の口を開くと、焼き芋の甘い香りと白い湯気が広がる。
目は袋だけに向けながらも、知香は顔を背ける。口元からはよだれが垂れている。
まだ怒っているようだ。
達弘はあえて、知香の目前に袋を近づけた。
知香の喉元から、生唾を飲みこむ音が聞こえた。
「ほら〜うまそうだなぁ。知香ちゃんはいらないのかなぁ。じゃあ俺が一人で食べちゃおかなぁ」
仰々しく、達弘は手を袋の中に入れる。
知香の手が、達弘の手首をつかむ。
「頂戴……」
波音に消え入りそうな声で、知香が言った。
「え? 聞こえないなぁ」
「その焼き芋を頂戴!」
知香はヤケになって叫んだ。
「しょうがないな……ほれ」
達弘は袋から焼き芋を取りだす。焼き芋から、白い湯気が立ち上っていた
知香の身体が踊り出る。
ぱくっ。
知香の口は確実に焼き芋を捕らえていた。
「バカか、お前……」
「ふぁっふぇ、ふゃきいふぉふきふぁんふぁふぉん」
「呪文を唱えるな」
「たっちゃんのイジワル……」
焼き芋をかじった知香が口を尖らせる。その口には、黄金色の芋がついている。
「とにかく帰るぞ」
達弘は手を差し出した。
「……」
知香は俯いたままで、達弘の手を掴もうとはしない。
「……イジワルしたのは謝るから、とにかく帰ろうぜ」
「……」
口を尖らせた知香は、沈黙を続ける。
やりすぎたかな、と達弘は反省する。こういうときは素直に謝るのが良い。
「知香、マジでごめん!」
「……」
知香は達弘を見ようとさえしない。
「ホントにごめん! 大反省してます!」
しかめ面の知香が達弘に向き直る。
達弘の目と知香の目が合う。
穏やかな波音。潮の香り。冷たく柔らかい風。焼き芋の香り。
涙に光る知香の目が、達弘の目を覗きこんでいた。
「……いいよ別に。イジワルしないたっちゃんなんて、たっちゃんじゃないもん」
知香は歯を見せて笑い、手を差し出す。
その手を離さないように、達弘はしっかりと握る。手を引っ張り、義足の知香を立たせてやる。
申し訳なさそうに「ごめんね」と知香が謝る。「気にするな」と達弘はそっけなく言い返した。
そして、知香は病院に、達弘は家へ――それぞれの帰るべき場所へ帰った。
知香の両親、知香の財産、知香の病気のこと、病気の名前、病気の具合――
そんなものに、彼は興味がなかった。
代わりに、空を仰いで願う。
『どうか、次のクリスマスにも知香がいるように』
来年にも、彼は同じように願うだろう。
そうやって毎年、知香の命だけを願い続ける。
彼は知香の笑顔が見たかった。
海に誘われた理由を聞かなかった『理由』は、それだった。
空の雪雲に、雪の降る気配は消えていた。
完
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