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プロローグ
夜の涼やかな風が、緑に覆われた広い公園内を通り過ぎてゆく。新緑の季節の風
は、かぐわしく、身体を洗い流すようだ。シイやかしの立ち並ぶ雑木林の中で、夜の
闇にとけてすら艶やかに輝く髪が、ふわっと舞った。
少女は、心地よさげにその風を背に受けながら・・・青年の腹にめり込ませている
腕をさらに深くえぐった。少女の目の前で、少女と同じ制服姿の青年の顔が歪む。青
年は、大きなかしの木に押し付けられている。真空で呼吸ができないように、口をぱ
くぱくさせ、やがて青年は崩れ落ちた。それを見ていた少女が、ふっと口元を歪めて
笑った。
また、さわやかな風が吹き、長く艶やかな黒髪が柔らかくなびく。青いブレザーと
膝上のスカートも風と共に踊った。
「別に誰でもよかったのよ。あなたでなくてもね」
少女は、手首から先に血のべっとりとついた腕をひゅんと一振りして、その手につ
いていたこまかな肉片をはらった。
「ただ、世界中の幸せを享受しているようなその顔が、気に入らなかっただけ」
少女は、冷ややかに、木の元に倒れている青年を見下ろしている。
「楽しいデートだったわ。あなたが、苦痛など他人のものだという笑顔を見せる度
に、それが崩れる瞬間を思い浮かべることが出来たから・・・」
言いながらも、少女は、血のりがべっとりとついた腕をぬぐおうともしない。これ
からこの同級生の青年にすることを考えれば、そんなことは意味がないからだ。
少女は、青年の制服をびりびりと引き裂いた。少女にはあり得ないような力強さ
で。どうせ処分するのだから、丁寧に脱がす意味などないのだ。少女は、青年を裸に
すると、まるでその青年が家畜であるかのように、その少年を素手で解体しはじめ
た。
特に思うことはない。必要なことをしているだけだ。もはや、歓喜も、欲望も、憎
悪も、嫌悪も、ない。青年が生きているうちは、その笑顔を崩してやりたいという衝
動はあったが、もはやそれも消えた。『いつものように』淡々と作業を進めるだけ
だ。
と・・・
不意に少女は、背後に気配を感じた。
よく身体になじんだ、とても懐かしい、柔らかく包み込まれるような気配だった。
少女は、はっとして振り返った。
少女の背後には、すらっとした男が立っていた。少女と同じ、高校生ほどの年齢に
見える。
少女は、あっと惚ける。理解がついてゆかない。自分がなにを見ているのかがわか
らない。しかし、少女の顔は笑っていた。
嬉しくて、そして、憎くて、自然に顔がほころぶのを止められない。
少女は、歓喜に打ち震えながら、やっと頭に浮かんだ名前を味わうように口にし
た。
少女の背中が見える。自分は戻ってきた、青年はそう強く感じていた。青い制服の
上で揺れている長くまっすぐな黒髪。幾ほどか、その白い背と黒髪をなでただろう
か。だが、それは遠い昔の話だ。過ぎ去り崩れ去ったものだ。その背を抱きしめたい
と感じるのも、もはや意味のないことだ。
少女が、振り返った。
切れ長で、ややつりあがった目を大きくあけて、こちらを見ている。
惚けているような、自分が何を見ているかわからないような表情を一瞬見せたあ
と、少女は顔に笑みを広げた。口の端を吊り上げ、欲情したような顔で、吐息するよ
うに、声を出した。
「如月薫・・・」
言いながら、少女は、身体の芯をくすぐられたように、火照った身体を押さえられ
ないように顔を赤くする。少女はさらに口元を吊り上げ、笑みを鋭く深くした。
如月薫と呼ばれた青年は、涼しげに立っている。端正な顔で柔らかく少女を見つめ
ている。長めの髪が風にそよぐ。
「僕は戻ってきたよ、翠」
薫は、風のように少女――翠――に語りかけ、翠が、嬉しそうに答える。
「いつ以来かしらね。前のことはもう覚えていない。でも、会えてよかった。だっ
て、私、こんなにどきどきしている」
その翠の言葉に、薫は哀し気にまぶたを伏せる。自分の気持ちが目の前の少女に通
じない。
遥か昔、この少女と肌を重ねていたとき、そのころは分かり合っていた気がする。
その感覚がおぼろげになっていることが薫は哀しかった。
「僕は・・・君を止めるために戻ってきたんだ」
その言葉に、翠がさらに目を細めた笑みで見つめてくる。
「ならば、私を殺すことね」
吸血鬼が欲情して笑っているような顔で翠は答えてくる。
ふわっと二人の間を風が通り抜けてゆく。
野球場ほどもある大きな公園の、雑木林の中。新緑の季節を向かえ、木々がぱちぱ
ちと芽吹き、その弾けた香りが風に舞う。
空は、月と星々に照らされて、深く透明な青色をしている。青色と緑色が溶け合っ
てゆくような静かな夜のした、薫と翠は見つめ合っていた。
一 ワールド・ブリーズ・ミー
三石春香(みついしはるか)は、彩雲学園に向かっていた。朝にはまぶしい、青い
ブレザーと膝上のスカートが、この彩雲学園の制服だ。彩雲学園は、江南市に新設さ
れたばかりの、市立高校だ。江南市は、小高い逢瀬山(おうせやま)と幾つかの丘に
囲まれた地方都市だったが、最近は大都市のベッドタウンとしての開発が盛んになり
つつあった。
新築の一軒家が立ち並ぶ住宅地。その中にすっと通したようなまっすぐな道を進ん
でゆく。彩雲学園のある丘が近づいてくるにしたがって、制服姿が多くなってくる。
生徒たちは、行き交う車もないこの通学路にばらばらと広がって歩いている。
この時間ならば、と思いながら、春香は周囲を見回しながら進んでゆく。ほどな
く、期待通り、前方によく見知った長い黒髪を見つける。春香は、少し足を速めて近
づいた。すっと背を立ててまっすぐに歩いているその女性の斜め後ろから、
「逢瀬さん、おはようございます」
そう声をかける。その少女、逢瀬翠(おうせみどり)は肩越しに後ろを見て、
「あら、三石さん、おはよう」
歩く速度を変えずに、そう答えてきた。
春香は、翠と並んで歩きはじめる。ちら、と隣の翠を見ると、何事もないという様
子で歩いている。春香のショートヘアとは対照的な長い黒髪が、僅かに揺れている。
背の高い翠の、凛として、それでいて女性らしい横顔。春香はついついそんなものに
目が行ってしまう。翠がその春香をちらと見てくる。目が合って、春香はなんでもな
いという様子で前を向く。翠が、くすっと笑う。そんな風にして、彩雲学園が近づい
てくる。表情にこそださないが、春香にとってはとても嬉しい登校風景だ。
翠と春香は、丘上に続く、両脇を桜並木に縁取られたスロープを登り、真新しいお
ろしたてのような校舎に入る。げた箱で靴を履き替え、階段を上り、二階にある二年
二組の教室に一緒に入った。
教室内はざわざわとして落ち着いていない。翠は教室最後方の自分の席に、春香は
廊下際中ほどの席に座る。
やがて、予鈴が鳴り、鍋島老が入ってくる。
鍋島老は、男子生徒一人を伴っていた。落ち着いていない教室が、さらに風にたな
びく木々のようにざわめく。鍋島老はその端整で落ち着いた面持ちの転校生――如月
薫(きさらぎかおる)――をクラスに紹介した。
薫は教室最後方の翠を見つめていた。と、翠と目が合う。翠は、ちょっと驚いて惚
けたような顔を見せた後、その顔に笑みを浮かべた。挑戦的な眼差しの、不敵な微笑
みだった。その翠の笑みが、針のようにちくっと薫の心を突く。それが、まだ完全に
は自分の心に決着をつけていないことを薫に自覚させる。
隣の鍋島教諭が席をどうするかと問いかけてくる。薫は、
「あの子の隣にしてください」
翠を見つめながら答える。生徒たちが声を上げる。教室全体が大きくうねるよう
だ。薫はかまわず、教室後方へ歩いてゆき、空いている翠の隣に座った。翠がほおづ
えをつきながらこちらを見つめてくる。挑戦的な笑みは変えずに、
「ずいぶん大胆になったものね。以前は臆病な坊やだったのに」
嘲笑するように小声で話し掛けてくる。
「君に鍛えられたからね。僕は君を止める為に戻ってきたのだから」
「他人を哀れむだけのぼうやに出来るかしら。私は、遥か大昔からこの世界全体と
戦ってきたのよ。あなたとは違う」
「一緒に肌を合わせた・・・あの瞬間は分かり合えたと思えた。君は覚えていないの
かい」
ぴくと翠のほほが振るえ、一瞬険しい表情が垣間見える。
「私たちが分かり合えた瞬間なんてなかった。あなたに裏切られた瞬間・・・それが
錯覚に過ぎないのだとわかった」
遠くを見つめるような目を向けてくる翠。その翠の眼差しと言葉が薫の胸をえぐ
る。
教室は、転校早々仲良さそうに会話をしている薫と翠をはやし立てている。
落ち着かない雰囲気の中、一時間目のホームルールが始まった。
四時間目が終わり、教室がとたんに騒がしくなる。生徒たちの幾人かが教室を飛び
出してゆく。薫の周囲にもクラスメートたちが数人寄って来る。
「如月君て、逢瀬さんと知り合いなんですか」
「もしかして、幼馴染とか」
席に座ったままの薫と翠を前にして、口々に興味本位のことをまくし立てる。そし
てそれを遠巻きに眺めている生徒たちが十人ほど。こちらはお世辞にも好意的とは言
いかねる目線だ。
あれは? と、薫は、遠くからねめつけるように見ている男子生徒たちにちらと目
をやりながら、女生徒の一人に聞いてみた。ああ、とその女性徒はわかったように答
えた。
「あれは、ええと・・・」
女生徒はちょっと困ったような顔をした後、
「逢瀬さんは学園のアイドルみたいな存在ですから」
そう答えた。薫は苦笑する。確かに表面的にはそう見えてもしかたがない。整った
顔立ち。切れ長でちょっとつり上がり気味の目が印象的だ。長いまっすぐな黒髪に女
性らしい仕草。確かに男を魅了してやまない美少女だ。が、それはとげをもったバラ
の美しさだ。毒をもった女郎蜘蛛、インキュバス、夜魔の魅惑だ。純粋に世界と秩序
を憎む美しさ、人間たちを狩る『ナイトメア』の美しさだ。
と、隣の翠が、
「みんな、そのへんにしておいて。私はこれから如月君を校内へ案内しなくてはなら
ないから」
言いながら、薫にふってくる。薫もうなずく。このへんの呼吸は、昔通りの息の合
い方だ。
翠が席を立ち、続いて薫も席を立つ。薫は翠に続いて教室を出た。
翠と連れ立って廊下を歩く。真新しい鉄筋建ての校舎の、つるつるとした乳白色の
廊下だ。
不思議な感覚だった。緊迫感とそれをオブラートのようにつつむ懐かしさ。薫は隣
の少女を止めるために戻ってきたのだ。隣の少女は、『敵』とすら言ってもよい存在
なのだ。その少女と肩をならべて、年端もいかない少年少女たちの中にまじってある
いている。
ちらと、隣の翠に目を走らせると、翠も同時にこちらを向いたようで、目があっ
た。その呼吸の合い方がまた昔を思い出させて、薫は、ぐっと奥歯をかんだ。
翠は、そんな薫を見つめて、
「相変わらずね」
目を細める。のち、翠は、誇らしげに、
「私、結構人気あるのよ」
そう声をかけてきた。確かに、翠と連れ立って廊下を歩いているこの瞬間にも注目
を感じる。ちらちらとした目線をあちこちから感じる。
「一緒に歩くのは、ほんとうに久しぶり。・・・私たち、どう見えるかしら」
さして気にしてはないという調子で翠が語りかけてくる。翠は、いたって穏やかな
様子だった。ただ、その目だけは笑ってはいない。
「あなたを前にすると、私の想いが揺るぎない確かなものだと感じることができる。
あなたを前にして、それだけは嬉しいといえるわ」
「僕は君が望んでいるものはわかる。君の目指すものはわからない。僕は君を止めに
来た。君をそんな風にしてしまったのは僕にも責任がある」
「なら、私に協力してくれない?」
翠が、まっすぐにこちらを向いてくる。が、すぐに、
「冗談」
そう付け加えた。
そんなことを話しながら、薫は翠に従って屋上に出た。
・・・・・・
一面、緑色の柔らかい樹脂が敷き詰めてあり、周囲はフェンスで囲まれている。
人影は見えなかった。
いまこの場所は、薫と翠だけが支配する空間だった。
透明な空はどこまでも高く澄み、世界を包み込んでいる。見上げると、身体が空に
溶けてゆく、身体の輪郭が消えて世界と一つになれる、そんな浮遊感を覚える。
その空には風が雄々しく舞っている。流れてゆく雲が速い。風は、薫と翠の髪を
びゅんびゅんと吹き流してゆく。心地よさを越えて、わずかに寒かった。
翠は、くるりと向き直り、薫の正面にたった。
翠はすっとまっすぐ背を伸ばして立ち、こちらを見据えてくる。薫は、そんな翠を
目を細めて見ている。
「やはり、君とはこうならなければならないのか・・・」
「私がナイトメアで、あなたがナイトメア・ハンターであるという事実は変えようが
ない」
黒髪をたなびかせて、翠が答えてくる。口元は穏やかだったが、その目は風を切り
裂くように鋭利だった。ひゅうと二人の間を風が吹き抜けて行く。
「ナイトメアは、異界からの来訪者。この世界で長いときを過ごせるもの。多くの人
間は気付いていない。けれど、ここは、そんなナイトメアと人間の混在する世界」
「僕は、君を止めたいだけだ。君と敵対したいわけじゃない」
一抹の希望を胸に、薫は翠に語りかける。が、翠は、
「ナイトメアが人間を喰らい、ナイトメア・ハンターがナイトメアを狩ってきたのが
この世界の歴史よ。私は、そんな世界の形を変える」
薫に正面から言い放った。
「私を止めたいと思うのなら、止めてみるがいいわ。私の男だったからと言って、私
の慈悲は期待しないほうがいいわよ。これが最後の忠告。次は容赦しない」
言い終わると、翠が、こちらに向かって歩いてくる。こちらの遥か後ろを見つめる
ような目で、すっと隣を通り過ぎる。後方で、昇降口の鉄の扉がばたんと閉まる音が
聞こえる。薫は、天を見上げる。薫は、そっと目をつむり、しばしその場にたたずん
だ。
◇◇◇◇◇◇
薫は、制服姿で夜の街を歩いていた。放課後、街の様子を見るためあちこちを散策
しているのだ。
中央駅の構内を通り過ぎようとして、薫は立ち止まった。売店前に立ち止まり、見
たことのある姿に声をかけた。
「おばちゃん、ひさしぶり」
と、売店のおばちゃんは、おやまあ、と顔をしわくちゃにして答えてきた。
「誰かと思ったら、薫ぼうやじゃないかぁね。なんてこったい。薫ぼうやじゃない
かぁね」
おばちゃんは、しわくちゃの笑顔のまま、壊れたテープレコーダのように繰り返し
た。おばちゃんの口元からは、キバが見える。
「この街もかわったさぁね」
「そうだね」
「気をおつけ。もう、昔とは違うさぁね。みんな、互いに互いを警戒しているよ。簡
単に相手を信じちゃいけないよ。優しいかったやつはみんなそうやっていなくなっち
まったさぁね」
「ありがとう、気をつけるよ」
薫は、静かにそう言うと、また歩き出した。
駅構内を通り過ぎて、商業地区に入る。
ショーウィンドーの前をわいわいと、オフィスレディらしき一団が通り過ぎてゆ
く。初老の紳士が、穏やかな物腰で大きなブックストアに入ってゆく。音と光を撒き
散らしているアミューズメントパークの前には、バイクに乗った若い男女がたむろし
ている。この街もかわった、薫は素直にそう思う。昔の面影はもう、ない。このがや
がやとした街中で、誰が人間で、誰がナイトメアなのか、それはもはや薫にもわから
ない。
互いに腰に手を回したアベックが何組も歩いている。ふと見ると、若い、まだ少女
といってよいくらいの子と、中年の男性が、ビルの間の隙間に入ってゆく。そういっ
たことは昔と変わらない。昔と同じように、互いの身体を求めた後、さらに相手を貪
り食って、しばらくしてどちらか一方が何事もなかった様子で出てくるのだ。
だた、昔と違うのは、そんな雰囲気が街全体から感じられることだ。ふと路地に入
れば、そこには喰い散らかされた人間の残骸が転がっている、ふとごみ箱をのぞく
と、死骸が目にとまる、そんな雰囲気なのだ。
ナイトメアは夜を好む。ナイトメアはより動物的であり、本能的な欲求が強い。食
欲、支配欲、性欲・・・男女を問わず旺盛だ。ナイトメアは人間の肉を好む。だが、
それは好むということであって、それを喰らわねば生きてゆけないということではな
い。この世界で無法を尽くす一部のナイトメアを狩るのが、薫たち『能力者』=ナイ
トメア・ハンターの本来の役割なのだ。
薫は、大通りから、小さな道に入った。とたんに、暗くなる。騒がしい音もどこか
遠くの世界のことのように思える。薫は、その道に接している狭い階段を下りてゆ
く。左右の壁は落書きに埋め尽くされている。階段を降りきって、ここは変わってい
ないと少し安心して、ぎいと鉄の扉を開け、中に入った。
とたんに、けたたましい音楽に包まれる。昔はしゃれたジャスが流れていたのを思
い出しながら、暗めの店内を見回してみる。学校の教室二つ分ほどの空間に丸テーブ
ルが幾つかとソファ、カウンターがある。天上から降り注ぐ宝石のような光が、部屋
の中を踊っている。クラブの中にはざっとみて二十人ほどの姿がある。結構込み合っ
ているという印象だった。
薫は制服姿のまま、特に躊躇することもなく、ソファまであるいてゆき、くたびれ
た中年男の隣に座った。その男の前には飲みかけのウィスキーがある。男は薫を見
て、よう、と声をかけてきた。
「ひさしぶりだな。いったいいつ以来になるか」
男は言いながら、薫にウィスキーを勧めた。後、
「お前は飲まないんだったな」
そう言って、中年男はウェイターにミルクティを注文した。
「この街もかわった。もう昔の街だと思わないほうがいい。ここも昔はナイトメア専
用だったが、今では、いろんな人間が出入りしている。ナイトメアと取り引きのある
人間、ナイトメアを利用しようと言う人間、それに・・・ナイトメア・ハンターだ」
男は、ちらと薫を見て、にやけた笑みを見せる。薫はそれにかまわず、ウェイター
が運んできたアイスミルクティーに口をつけた。
「ホットのつもりだったんだけどね」
言いながら薫は、ミルクティでのどをうるおす。薫は、ふうと吐息して、あらため
て店内を見回した。
どの丸テーブルも埋まっている。露出した服を着た若い女性に、それを口説こうと
している男たち。身なりのいい中年の夫婦もいる。そして、薫たちから離れた場所に
ソファが一つ。若い、外見上は薫と同じくらいの男女が五〜六人座っている。結構盛
り上がっている様子だ。その中の三人が、青い制服を着ている。転校したての薫にも
はっきりとわかる。彩雲学園の制服だった。
「あれは?」
目で示しながら、男に聞いてみる。ウィスキーに口をつけながら、
「あれはやめとけ。見かけはただの高校生連中だが、この辺の同年代のナイトメア・
グループを束ねる連中だ。ストリート・キッズのほうがまだなんぼもましだ。あの連
中はみんなナイトメアだからな。みんな一目置いている。というより、目をつけられ
たくないというやつだ」
薫は、すっと立ち上がった。
「おい、やめとけ。ナイトメア・ハンターだと知れたら、なぶりものにされるぞ」
かまわず、薫はそのナイトメア・グループに近寄ってゆく。後ろから、しらねぇか
らなと打ち捨てる声が聞こえる。薫は、盛り上がっているそのナイトメア・グループ
の前に立った。
いっせいに、その高校生ほどの男女五人の顔がこちらを向く。敵対的というわけで
もない、ある意味薫に興味を示している、そんな目線だった。教室に入ってきた転校
生を迎える、そんな様子だ。彼らからは、自分たちが主導権を握っているという安心
と自信を感じる。
「なにかようかい」
その中のリーダーらしき男、彩雲学園の制服を着た男が薫に声をかけてきた。鋭い
目、すっとした鼻筋は、知性と野性を合わせ持つ感じだ。他人に対する自信と優越を
感じさせる気配を発している。
「今日、彩雲学園に転校してきたんだ。これからよろしく」
薫は、さりげなく答えた。
「知っているか、綾?」
男が、隣に座っているポニーテイルの少女の耳元に、その息を吹きかけるようにし
て聞く。
「知らないわ。他のクラスのことでしょ。ナイトメアが紛れ込んできたという情報も
ないわよ」
首をすくめながら、けっこう気持ちがいいという様子で、そのポニーテイルの少女
が答える。
「だそうだ。俺たちは、このあたりを、なんというか、取り仕切っているんだ。君が
俺たちのグループに入りたいのなら歓迎するが」
「入ったほうがいいわよ。もうこの街では一匹狼は通用しないから」
この二人の隣に、もう一人、はしゃくこともなく黙って座っている男がいる。薫の
体重の二倍はありそうなこの男も、制服を着ている。この彩雲学園の制服を着ている
三人が、この辺りの若いナイトメア・グループを取り仕切っているのだと、薫は見当
をつけていた。
「僕はこの街にきて間もないんだ。この街のこと、この街で起こっていることを教え
てくれると嬉しい」
友好的な調子で、薫はその三人に、柔らかな顔を向ける。と、リーダーはふっと笑
い、
「この街は、そういうことじゃないんだ。はっきりいうと、君は俺たちに従う意志が
あるかどうかということだ。君に自信があって従わないのならばそれもいい。ただ、
俺たちとあまり友好的でなくなることは確かだがね」
言いながら、そのリーダー格の男が薫を小馬鹿にしたような笑みを見せ、隣のポ
ニーテールの少女にじゃれつく。少女は、いやいやと首を振りながらも、それほど嫌
な素振りを見せていない。太った青年は黙ったままだ。
薫は、ふうという感じで嘆息した。
「こまったものだね」
さして困っていない調子で、言う。
「考えるほどのことじゃない。俺たちの仲間は街中にいる。もちろん、彩雲学園にも
だ。君は、それと友好的な関係を結ばないでやってゆく自信があるかということだ」
「そうだね・・・」
思いをめぐらしている様子を見せる薫。薫にとっては、ナイトメア・グループ自体
にそれほどの興味はない。利用すれば、逢瀬翠の情報を得られるという期待もないわ
けではないが、この連中と『つるむ』のは性に合わない、という気分もある。
と、その間に割って入るように、クラブに一人、若い男が駆け込んでくる。興奮し
た様子で「出来損ない」だ、と叫ぶ。同時にクラブ内の何人かが立ち上がって、「狩
りだ」と声を上げる。
薫の前のリーダーは、ふんと鼻を鳴らし、小馬鹿にした笑みを浮かべて、
「『出来損ない』程度の獲物で興奮できるとは、うらやましい限りだ。まあ、二十年
程しか生きていないレベルのやつらにはお似合いの相手だが」
そう言って、隣の少女にまたじゃれつく。駆け込んできた男に続いて、四〜五人ほ
どの男女が興奮した様子で出て行く。薫は、ソファの前を離れ階段に向かう。後方か
ら聞こえる、少女のあえぎとリーダーの荒い息遣いが、徐々に遠くなる。薫は階段を
上って、飛び出していったナイトメアたちの後を追った。
(あそこか)
三方をビルに囲まれた袋小路に、人間ほどのトカゲの化物が追い詰められている。
その周りをナイトメアたちが取り囲んでいる。男が三人に女が二人だ。ナイトメアた
ちは、なぶるような目つきでトカゲの化物をねめつけている。力のない一人の女性を
陵辱しようとしている、そんな雰囲気だった。
トカゲの化物が、野太い声で、がうがうと何か言葉にならない声の様なものを発す
る。自分に非がない、俺が何をした、と主張するような態度だ。が、同時に怯えも見
える。トカゲの化物は追い詰められて、呼吸と共に全身を大きく小さく揺らしてい
た。
「どうする? 普通に狩っても面白くないわよ。ナイトメアって美味しくないし」
女性が回りに問いかけ、
「人間と絡ませようぜ。少女がいい。成長期の絶妙で多感なヤツだ」
「おい、誰か連れて来い」
「ここからなら、中央駅が近いぜ。カフェ・キュートあたりで引っ掛けて来い」
口々に言う。
「しかたないよなぁ。出来損ないなんだから。たまにお前みたいなやつが生まれるて
くるんだ。人間の世界にも溶け込めず、かといって俺たちの仲間にもなれない。ふび
んだよなぁ」
まったく同情などしていないという様子で言い放つ。薫は、彼らナイトメアたちに
向かって、後方から、静かな声を響かせた。
「彼は出来損ないではないよ。彼は、ナイトメア本来の血を濃く受け継いでいるん
だ。彼こそがナイトメア本来の姿なんだ」
ナイトメアたちが一斉に振り向く。場に緊張が走る。が、ナイトメアたちには、ま
だ余裕が見える。薫一人にナイトメア五人だからだ。
「見かけないやつだな。邪魔をするってのは、いかれているのか、こいつ」
「言っていることもわけわからないしね。おかしいんじゃないの?」
ナイトメアたちは、トカゲの化物と薫の両方に注意をはらいながら、口々に言う。
「なら、この子とあの出来損ないを絡ませましょう。私、この子、好みだわ」
「俺は男だから、そいつぁパスだな」
「お前たちが・・・」
薫は、ぎりっと奥歯を噛みしめて、言い放った。
「そうだから、翠があんなふうになるっ!」
同時に、薫はひゅんと跳ぶ。ナイトメア五人の中心に飛び込む。瞬きする間に、男
二人をたたき伏せ、女のみぞおちに拳を叩き込む。横合いから男がひゅんと手刀を突
き出してくるが、薫はそれをふっとよけ、その男の腹にも拳をたたきつけた。ここま
で、三秒ほど、と薫は確認して、こんなものかと思う。
残っている女は既に逃げ出している。跳躍すれば、難なくその背を捕らえることも
できるが、その必要もない。相手がたいして齢を重ねていないナイトメアだからこ
そ、圧倒することもできるが、これが逢瀬翠ならばどうだろうか、と考えて、荒い息
をしているトカゲのナイトメアに目をやる。そのトカゲのナイトメアが自力で逃げら
れることを確認して、薫はその場に背を向けた。
袋小路から小道に出る。
ひゅうと生暖かい風が吹いた。
果たして自分には翠を止められるのか、薫はそんなことを自問する。ねっとりとし
た風は、そんな薫の感傷を洗い流してはくれなかった。
◇◇◇◇◇◇
「逢瀬山(おうせやま)の妖伝説(あやかしでんせつ)って知ってますか?」
三石春香は、翠と連れ立って彩雲学園校舎から出てきたところだった。これからス
ロープを下って丘を降りる。だんだんと陽光が弱くなってきている。その中で、丘の
向こうに広がっている逢瀬山の緑が雄々しくみずみずしかった。
住宅街外れの旧家に住んでいる春香は、丘を下ってしばらく住宅地の中を翠と一緒
に進んでから分かれる。それが春香と翠の下校路だった。
翠は、午後の授業が終わると、すっと消えるように学校からいなくなる。いつも一
緒に帰れるわけではなかったが、春香は努めて翠と一緒に帰ろうとしていた。
落ち込んだときとか、嫌なことがあったときは、翠と一緒に帰ろう、春香はそう思
う。翠のペースで歩いていると、隣の翠の端麗な横顔と艶やかな黒髪を見ていると、
すうっと心の中の嫌な気持ちが消えてゆくのだ。
「逢瀬山の妖伝説って知ってますか?」
春香は、丘の後ろに広がる萌えるような逢瀬山を見つめながら、再び繰り返した。
翠は表情を変えずに、
「そんな話があることは聞いたことがあるけど」
そう答える。春香は、翠にその伝説を話し始めた。
「昔、お日様が光の輪になった年、逢瀬山に『妖』が天から降りてきたんです。それ
からというもの、ふもとの村人たちは、『妖』を恐れて、毎年若い娘を『にえ』に差
し出し続けたんです」
「逢瀬山って、あの逢瀬山?」
丘向こうに広がる逢瀬山を見上げながら問いかける翠に、春香は、
「そうです」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「村人たちは、もうこの村を捨てようとまで思い詰めていたんですけど、ある日、若
い侍が通りかかって、その侍が神通力で『妖』を倒したんです。侍は、もう『妖』が
天から降りてこないようにと、山を封印して、去っていったんです。それからは、逢
瀬山に『妖』が住み着くことはなくなった・・・そんな話です」
翠は、遥か遠くを見つめるような目をしている。ただ、春香の話しは黙って聞いて
いる様子だった。さらに春香は続けた。
「私の家に古くから伝わる話です。私の家は、そんな伝説に捕らわれていました。よ
くわからないようなしきたりとかも、ありました。私たちの存在意義はそれだけのた
めにあると、言い聞かされて育ちました」
春香の静かな告白に、翠はそっと目を閉じる。
「面白い話ね。でも、もうどうでもいいこと。ほんとうに・・・」
翠は、ちょっと自嘲するような笑みを浮かべた。
しばらくの間、二人の間に沈黙が訪れる。翠は、まっすぐ前を見つめて、春香も
黙って、並んでスロープを下る。春香は、その沈黙を破るように、
「あの・・・」
隣の翠に向けて声を出した。
「今日転校してきた、如月薫君と・・・知り合いなんですか?」
翠の機嫌を損ねるかもしれない、でも、春香にとっては聞いてみなくてはならない
ことだった。翠は、ふっと苦笑した。その笑みが、春香の心を不安にさせる。
「そうね。とても近しい知り合い・・・だったわ」
翠は遠い目をしてそう言った。
「だった?」
「そう。もう、彼の心は私には届かない。私の心は彼に向くことはない」
ああ、と春香は思う。聞いてよかった、でも聞きたくなかった。今の翠と転校生の
如月薫は、春香が想像したような関係ではない。が、二人の間には、春香が入り込む
余地のない部分が有るのだ。
「昔は、彼は私のもので、私は彼のものだったのよ」
意地悪するような笑みを浮かべて、翠が春香を向いてくる。その翠の言葉に、春香
は思わず、『かあっ』となった。
「私も、逢瀬さんのものにしてください」
言ってから、自分が何を言っているのかわからない、春香はそう思った。でも同時
に、今の自分のほんとうの気持ちだとも思う。変だと思われただろうか。おかしいと
思われただろうか。でも、言わずにはいられなかったのだ。顔が赤くなる、その音が
自分にも聞こえてくるようだ。と、翠が、不意に立ち止まり、
「ほんとうに、私のものになりたいの?」
静かな、でも冗談とも思えない声で聞いてきた。え? っと春香も止まって、翠を
見つめる。翠が優しい笑顔を向けてくる。
「ほんとうに、私のものになりたいのなら、そうしてあげてもいいのよ。でも、後戻
りはできないわ。よく考えて答えなさい」
翠の、流麗な黒髪が、さわさわと風に乗ってそよいでいる。その黒髪の向こう側に
みずみずしい木々が、その向こうに緑の逢瀬山が、上には淡い黄色の空が広がってい
る。翠が微笑むと、優しく包み込まれるように感じた。
「私・・・逢瀬さんのものに、なります」
春香は、静かに、しかしはっきりと答えた。翠の意味していることはわからない。
今、自分は決定的な岐路に立たされている、その実感もある。ただ、こう言わなけれ
ば自分は絶対後悔する、そういった想いがあった。これが自分の選ぶ道なのだ。そう
思うと、じんわりとして、思わず泣きそうになった。
「わかったわ。ついていらっしゃい」
翠がそう言って、春香を先導するようにすっと歩き出した。女性らしい滑らかな背
中が見える。春香は、置いてきぼりをくうような、一人残されるような気持ちになっ
て、慌てて翠を追いかけた。
日が沈んでゆく。春香は、翠に従ってエスカレータを降りていた。この季節、一日
のうち、昼の時間は長く、夜の時間は短い。が、沈んでゆく陽はそんなことを感じさ
せない。あっという間に、世界を暖めていた光が消えてゆく。世界が、どろどろとし
た、人間の醜悪な部分を抽出したような液体に、包まれてゆく。憎悪と欲望と嫉妬と
破壊の衝動が街を覆ってゆく。
夜は自分たちの時間ではない。何か別の、闇にうごめく生き物の時間だ。
いつからだろうか、そんなことをこの街で強く感じるようになったのは。自分が小
学生だった頃にはそんな感覚はなかった気がする。
中央駅上部を覆う形の駅ビル、オレンジ・モールの二階、カフェ・キュートで翠と
お茶を飲みながら、たあいもないおしゃべりをしていたのだ。翠は、日が沈むと同時
に、それを待っていたと言わんばかりに話を切り上げて、カフェを出てきたのだ。翠
は、日中とは比べ物にならないくらい生き生きして見えた。翠の身体からあふれ出る
生気のようなものが感じられる。それは、昼間の翠の優しさとは対照的な、春香の肉
体の奥を刺激する、生々しい吐息だった。
春香の背に何かがふっと触れる。はっとして、春香が振り向く。中年女性のもって
いるバッグだった。が、春香はもう降りてゆくエスカレータの上で、下を向いて立つ
気になれない。横を向いて、上と下を警戒してしまう。よく見ると、横向きに乗って
いる人が多い。明らかに昼間とは様子が違う。と、下に乗っている翠が、からかうよ
うな目つきで言ってきた。
「どうしたの。そんなことでは、この街を歩くことすらできないわよ。私のものにな
るんじゃなかったの?」
カフェ内では、たあいもないおしゃべりだけだったのだが、その台詞で、翠が自分
をからかっただけではないと、春香は確信した。
中央駅改札前はちょっとした広場になっていて、サラリーマンや学生、買い物帰り
の主婦などでごった返している。春香は、翠に張り付いて歩く。周囲から春香の奥底
を侵すような気配が漂ってくる。誰が発しているのというというのではない。渾然一
体となった空気に自分までも侵されると感じる。ざわざわと心の奥底にしまってい
た、欲望の芽が吹き出して、身体に伸びてゆく。やがてその芽に支配されて、自分も
獣の吐く息のような臭気を発し始めるのだ。
商業地区に入る。
音と光。一見乱雑な、秩序のない喧騒。でも、慣れてくると、秩序がないというこ
とが秩序である、何物にも縛られないというのが法であるという街。人ごみの中では
並んで歩くのは難しい。翠の後方に位置して、翠の背中を見ながら歩く。ごったにの
ような街で、ひときわ黒く輝く翠の背。吸い寄せられるようにして歩く。
翠は、ここでは闇の支配者だ。そう感じる。身なりのいい背広の男性も、着飾った
若い女性もかなわない。ちんぴらも群れた不良たちも手出しできない。特に力強い歩
き方でも素振りでもない、女性らしい振舞いだ。が、翠のその強烈な印象は、支配者
のあかしだ。
前方から翠が、後ろを振り返ることなく声をかけてくる。
「これから夜はどんどんその強さを増してくる。明日の夜明けまで。解き放たれた夜
の支配者たち。それが、ナイトメア」
「ナイ・・・」
聞いたことのない単語だった。が、なぜか違和感はない。今のこの街にふさわしい
単語だとわかる。と、翠が、立ち止まった。とんと、鼻先を翠の背のぶつけそうにな
りながら、春香も足を止める。アミューズメント・パークの前だ。翠は、だらしない
かっこうをした、いかにも不良という姿の二人連れの学生に話しかけていた。
「ねえ、私たちに付き合ってくれない。ほんのそこまでなんだけれど」
なまめかしい声音だ。はあっと翠が欲情しているような吐息をする。春香ですら、
『たって』しまいそうな旋律だった。ひゅうと男たちが口笛を吹く。にやにやと互い
の顔を見ながら、どうするという様子で翠を見ている。
「いやらしい女は嫌い? 後ろの子も一緒に楽しめるわよ。無理やりしているという
感覚を味わいたいのなら、後ろの子がいいかもね」
衝撃的で、危険な台詞なのだが、春香は不安や恐怖を感じていなかった。自分の身
体を見ず知らずの男に奪われるということをどこか頭の隅で受け入れている自分がい
た。自分は翠に支配されることを望んだのだ。逃げようとも思わない。それは自分
じゃない、春香はそう強く思っていた。
翠は男たちを伴って歩き出す。春香も続く。裏通りに入った。
しばらく進み、袋小路に入り込む。音と光から取り残されたビルの谷間で、表から
は見えない。
翠が、ふうと吐息して、壁に背をつける。その翠の前に男が立つ。男は翠の腰に手
を回している。もう一人の男が春香にも覆い被さってきた。春香が隣の翠とちらと見
て、同じように男に身を任せようとしたとき・・・その翠の目つきが変わった。
自分の胸に顔を埋めている男を冷たく見下ろす。男を絡め取ったサキュバスの目
で、冷笑を浮かべる。同時に、男が、がっと目を見開く。男の背から翠の手が突き出
している。男が、翠に貫かれたのだ。どさと、翠の胸にむしゃぶりついていたその男
が、地面に倒れた。
春香に覆い被さっていた男の動きが止まっている。ややして、その男が、あああ
あっと叫びを上げてしりもちをつく。這いずるようにして逃げようとするが、身体が
自由にならない様子だ。翠はその男に近づいて、無理やり持ち上げるようにして立た
せた。その男を壁に押し付ける。
「楽しんでからでも良かったんだけど、連れがいたから・・・」
翠はちらと惚けている春香の方を向いてくる。
「ほんとうは、身体がほてって仕方ないのよ」
舌で唇を濡らしながら、翠は、男を見下すように笑っている。翠は男の股から下腹
部、腹、胸と順になでてから、その首に手を這わせる。猫をじゃらすようにしてか
ら、翠は不意に手に力を加え、男の首をねじりきった。どさと男の頭部が落ち、首か
ら下が崩れ落ちる。翠は、火照った身体を夜の大気で冷やすように、ふうと大きく息
をついた。
「楽しんでからのほうがよかったかしら」
翠は、立ち尽くしている春香の方を向いてそういった。
怖くはなかった。つうと、頬を涙が伝わった。心が震えていた。男を打ち倒してそ
の返り血を浴びている翠は、欲情して頬を染め荒い息をしている翠は、ほんとうに夜
の支配者だったのだ。その翠が近づいてくる。
「私には、人間の肉が必要なの。私が食べるのではなくて、私の兄弟たちがそれを必
要としている」
翠が春香の目の前に立った。春香が求めてやまない女性が、今目の前にある。闇の
中でその目が金色に光っている。この美しい瞳からは逃れられない、そう思う。自分
はこの限りなく残虐で雄々しい女性のものになるのだ。
「三石春香。私の血を受けなさい。あなたを私のものにしてあげる」
翠が、ぎりと唇を噛み、つうと血が滴り落ちる。その翠の口が、春香の口をふさ
ぐ。生暖かいものが春香の口に入り込んでくる。脳髄を刺激するような、翠の唾液と
血の混じった甘い液体だ。春香は、涙を流しながら、倒れている男の前で、夢中で翠
の口を吸った。
◇◇◇◇◇◇
昼休み前の授業中。ぴしと、ちょっと音を立てて、横滑りの扉を閉める。廊下に面
した扉と、江南市を見下ろせる窓に挟まれた、細長い部屋だった。
春香は、うつむいて唇をぎゅっと噛みしめた。重苦しい気分が心を支配している。
今ここにいる自分は翠を裏切っている、その想いが、春香の心をぎゅうぎゅうと引き
絞る。と、前方から、
「そんなに私に会うのがつらいか」
嘲りの混じりこんだ声がした。春香が顔を上げると、神楽蒼樹(かぐらそうじゅ)
がいた。若い日本史の教師だ。春香の身元引受人でもあった。
「ここは私の準備室だ。そんな顔をして立っていられても迷惑なのだがな」
神楽は、眼鏡をかけ直す仕草をしながら、椅子を回転させて身体を春香に向けてき
た。
豊かな頭髪。すっとした鼻筋に、引き締まった口元。そして、知的さを感じさせ
る、だが、どこか冷ややかな目つきだ。
神楽は、ぎゅっと拳を握り締めている春香を見つめながら、ふっと歪んだ笑みを浮
べ、
「逢瀬翠には近づけたようだな」
そう声にする。春香は、絞り上げるように、
「私は・・・そんなつもりで・・・」
否定するが、言葉尻はにごった。その事実が、また春香の心を揺さぶる。
「ならば、どうして君はここにいるのだ?」
神楽は容赦ない。ぐさぐさと春香の心に針を突き刺してくる。
そうだ。ならばなぜ自分はここにいるのだ。自分は望んで翠のものになったのだ。
それは、ほんとうの自分の心だと思う。ならば、この男に従う必要などないのだ。な
のに、なぜ、自分はここにいるのだ。三石家がなんだというのだ、そう思う一方で、
そのしがらみから逃れられない自分をも感じている。
三石家は、この神楽蒼樹という正体不明の男に従って生きていた。それは脈々と流
れる時間の潮流であり、春香が幼いときから刷り込まれるように言い聞かされてきた
ことでもあった。
翠に近づいたのは、この男に言われたからなのか。だとすれば、自分の心はどこに
ある。自分はいったい何者なのだ。その春香の疑問に答えるかに、神楽が語りかけて
くる。
「私は、君の身元引受人だということではないのだよ。三石家を配置したのは私であ
り、君は私の影に過ぎないということだ。君自信の意思などなんの意味もないこと
だ」
「そんな・・・こと・・・」
神楽は、歯を噛みしめて小刻みに震える春香を満足そうに見つめながら、
「もっと翠に近づくのだ、春香。私の希望、いや、欲望を実現させるために」
そう言い放った。春香は、くっと短くうめく。
翠に会うまでの自分は、ただ生きているだけの人形だった。ほんとうの喜びも悲し
みもない、ただただ虚ろな日々だった。翠と初めて出会った場面が思い浮かぶ。世界
には、こんなに雄々しく生き生きしている人がいるのかと思った。すぐに翠に夢中に
なった。
そうだ。自分は翠に会って始めてこの世界にいると感じられたのだ。借り物でない
ほんとうの自分自身、自分の心があると感じることができたのだ。その想いをぐちゃ
ぐちゃにつぶすように、神楽は自分を攻め立ててくる。春香の頬をつうと涙が伝わっ
た。
もうこの部屋には用がない、もう、ここにはいたくない、春香の身体がそう告げて
いた。ここには自分を自分でいられなくするような空気に満ちている。春香は、急く
足で神楽の準備室を後にした。
入れ替わりに、おかっぱ頭の少女が入ってくる。線の細い、もろそうな外見の少女
だ。少女は、哀しむような、あわれむような顔で、出てゆく春香を見つめた後、扉を
すっとしめた。
「沙耶か。どうした。今日は気分がよさそうだな」
神楽が、春香に対するのとは一転して、その少女――月白沙耶(つきしろさや)
――に慈しむような声をかける。目つきを柔らかいものに変え、神楽は椅子から立ち
上がる。
「何か飲むか。昼前だし、コーヒーは強いから、紅茶にしておくか」
神楽は、壁際のテーブルで、飲み物を用意する。沙耶は、
「今の人・・・」
気遣うような、不安そうな声を出す。
「お前が気にする必要はない」
その言葉が、いっそう沙耶の不安を募らせた。沙耶は、表情を曇らせて、
「ねえ、兄さんは、あの子を・・・」
沙耶は弱々しく訴えるが、神楽は、それ以上答えようとしない。沙耶にはそれ以
上、神楽を問い詰めることが出来ない。弱々しくうつむくだけだ。
神楽は、紅茶を用意して、沙耶の前にまで歩いてゆき、湯気を立てているティー
カップを差し出す。神楽は、柔らかく包み込むように沙耶を見つめるてくる。沙耶
は、悲しそうに神楽を見つめる。
「私は、兄さんに・・・こんなこと・・・もうやめてほしくて・・・」
「それは出来ない」
神楽は、即答した。沙耶の瞳に涙が浮かぶ。沙耶は、その顔を隠すようにして、逃
げ出すようにして、その部屋から飛び出した。
沙耶は、とぼとぼと廊下を歩く。自分には何もできない、そう寂しく思う。神楽に
会うたびに、自分はもろい、自分はどうしようもなく弱い、そう実感させられる。そ
んな自分が嫌でたまらないが、こんな自分でも保身を考えてしまうのがもっと嫌だっ
た。
と、対面を歩いてきた人物とぶつかりそうになって、あっと止まる。見上げると、
端正な顔がこちらを心配そうに見ている。自分はこの人物を知っている。はるか昔か
らしっている。この青年と翠の関係を、神楽が何を望んでいるのかを、それがこの青
年にどう関わってくるのかを、自分は知っている。
「大丈夫かい?」
優しいテノールの声音。なにもできない、自分のことしか考えられない身勝手な自
分を気遣ってくれるようなメロディ。
「あの・・・」
衝動的に、沙耶はそう口走っていた。目の前の如月薫が、沙耶の語りかけを待ち受
けているように見えるが、沙耶は、うつむいて、
「いえ・・・なんでもないです」
そう小さく声に出して、逃げるように薫の側から離れた。
気の弱そうな少女が、早足で去ってゆく。思い詰めているような様子だった。気の
し過ぎか、と薫は自分をふっと笑いながらも、
「長いときを過ごしてきた自分の勘は、信じたいものだね」
薫はそうひとりごちて、そのまま廊下を進み、階段を降りて校舎の外に出た。校舎
の裏に回りこみ、焼却炉付近にやってくる。
新築の校舎だけあって、焼却炉も、小さな清掃場のような雰囲気がある。が、なん
というか、打ち捨てられた哀愁は隠し切れない。と、その焼却炉の後ろから、ようと
いうだみ声が聞こえた。声がしてから、四十過ぎの小太りの中年男が現れる。汚れた
上下のジャージを着ていた。
「ひさしぶりだなぁ。おめぇのことを知っているやつも、この街にはもうほとんどい
なくなっちまったなぁ」
醜悪な笑みを浮べながら、その男は薫になれなれしく話しかけてくる。
「ナイトメアも働かなくちゃ生きていけねぇなんて、いやな時代になったもんだ。俺
もこんな学校の用務員に落ちぶれちまったがよぅ、ナイトメアのプライドだけはある
んだぜ。隙を見て、この学校の小娘たちをいただいてるって寸法よ」
男は、げへげへと、崩れた顔をさらに崩して笑う。薫は嫌悪感とてきがい心を押し
殺しつつ、平成を保ちながら、
「逢瀬翠と、この街のナイトメアたちの情報は?」
その男に札を何枚か差し出しながら、聞いた。その札に男の手が伸びる。男は、ぺ
ろぺろとなめた手で札を数えながら、薫に教えてやるという態度で、話し始めた。
薫がこの街から去ってから、複雑に入り組んでしまった人間とナイトメアの勢力関
係のこと。最近、その勢力を伸ばしてきた、若いナイトメア・グループのこと。逢瀬
翠と最近親しい様子のクラスメートの三石春香のこと。男から得られた情報は、そん
なものだった。今まで集めた情報と重複している部分が多かったが、大まかな街の様
子を再確認することができたという認識があった。
薫は、焼却炉から校舎の表側に戻る。四時間目終了の鈴がなり、校舎から人があふ
れ出てくる。薫は、その足で、厚生塔二階にあるカフェテリアに入った。
この時間帯のカフェテリアは込み合っている。ごった返している一階の食堂よりも
ましだが、それでも広めのファミリーレストランほどの空間はほとんど埋まってい
る。その中に、ぽつんと、二人がけのテーブルに一人で座っている少女を見つける。
少女は、虚ろな様子でテーブル上のアイスコーヒーに目を落としている。薫はその
席にまで歩いてゆき、少女の前に座った。
そのショートカットの少女、三石春香は、ちらと薫を一瞥した後、再びテーブルに
目を落とした。薫も、話しかけない。しばらく、二人の間に沈黙が続く。この少女に
どう話そう、薫がそんなことを考えていると、春香が、
「逢瀬さんのこと・・・どう思っているんですか?」
薫を見つめることもなしに、いきなり聞いてきた。ぽつりと、漏れたような声だっ
た。
「好きだよ」
その薫の一言に、春香が、はっとした様子を見せる。春香に自分の話すことの意味
はわからないだろうと思いながらも、薫は穏やかに続けた。
「でも、今の翠を見ているのは、辛い。そんな翠を止めなくてはならない、そう思っ
ている。君には君自身の心を大切にして欲しい。僕や翠に巻き込まれて欲しくない」
と、目の前の春香が、ちょっとだけ目を細めて自嘲するように、
「そんなものないんです。ほんとうの私はどこにもいないんです」
と答える。のち、
「好きな人を裏切ったことってありますか?」
春香はそう聞いてきた。唐突な質問だったが、不思議と違和感はなかった。
「裏切ったとは思っていない。でも、裏切ったと思われてもしかたがないとは思って
いる」
薫は、真剣に答えた。春香が続けてくる。
「好きな人を裏切る人って・・・ほんとうにその人のことが好きなんでしょうか?
好きだって思いたいだけなんじゃないかって・・・そんな風にも思うんです」
春香は、自分自身に語りかけている、そんな様子だった。
薫は、春香を哀しそうに見つめる。
と、背筋に懐かしく柔らかく、それでいて、鋭く突き刺すような戦慄が走る。のど
元に鋭いナイフを突きつけられながら、全身をくまなく愛撫されるような、耐えがた
い感覚だ。薫は、立ち上がって振り返る。後方から翠が近づいてくる。ふっとした、
嘲笑するような笑みを浮べてはいるが、その目は笑っていなかった。
翠の笑みを見て、心が乱れる。先ほどまで春香に語りかけていたのが、嘘のよう
だ。薫は、自分の表情が歪んでいるのがわかった。翠は、薫の前にまで達して、
「転校早々、私の友人を口説くのはやめてくれる、プレイボーイさん」
小馬鹿にするような調子でそう言った。翠は、ばっと、テーブルの上に紙幣の束を
投げ捨てるように置く。赤い染みがついていた。
「返すわよ。最後まで離さなかったから、汚れてしまったけれど」
翠は言って、口元を釣り上げる。はっとして、薫は、目を見開く。それを見ている
翠が、さらに嬉しそうに笑う。
「彼は・・・どうした」
うめくように薫は声を出す。翠がふっと笑って、
「側に焼却炉があったから・・・」
そう言って、薫に挑発するような目を向けてくる。薫は、ぐっと拳を握りしめる。
その手を翠に向けなければならないという使命感と、薫の奥にある翠を大切にしたい
という気持ちが、互いに牽制しあっている。翠は、そんな薫の様子を楽しむように
言ってきた。
「あら、あなたがいけないのよ。こそこそとあんな男に私のことを探らせるから」
翠は、続ける。
「あなたと係わり合いになる者はみな、そういう末路をたどるのよ。あなたの大切な
友人、あたなが優しくした少女、あなたが微笑んだ公園の子供たち、あなたが挨拶を
した街の主婦、あなたが大切に思う全てものを犯して、あなたの前にその屍をさらし
てあげる。誰も許さない。誰の命ごいもきかない。あなたの通る道の上に屍の山を築
いてあげる」
カフェテリアは、ざわざわとしてとりとめもない。学生たちがわいわいと楽しく、
あるいは興奮したりして雑談している。翠の声はその中に溶けてゆく。なんでもな
い、無数にある会話の中の一つとして、それに注目している学生はいない。
「その中に・・・君も入るのかい?」
薫は翠を見据えながら、口にした。翠が、瞬間、えっという、けげんな顔をする。
「君は、僕の大切なもの全てを・・・と言ったね。その中に、君は、入っているのか
い」
ぴくっと、翠のほほが震える。笑っていた翠の顔がさっと険しいものに変わった。
あからさまに気分を乱されたという表情をして、翠は、
「春香、いくわよ」
と、命令する。その後、薫を一瞥して、
「せいぜい思い上がっておくのね」
そう台詞を残して、すっとカフェの出口に向けて歩いてゆく。春香は、首輪をつけ
られた飼い犬のように、翠の後に続く。その二人の背は、カフェの喧騒に包まれるよ
うに、見えなくなった。
◇◇◇◇◇◇
その夜、春香は、翠とともに逢瀬山登山道の入り口に来ていた。逢瀬山は低山で、
ハイキングコースともいえる登山道が頂上まで続いている。幅一メートル程の、茶色
い土の登山道。道の両側には、しだや山吹などの低木が生え、その奥は雑木林になっ
ている。日中ならば気持ちよく登って行けるだろう道だ。
翠と春香は、青のジーンズに白の長袖という服装をしている。二人とも、大きな黒
いビニール袋を持っていた。
翠が先導するような形で山に入る。同時に、翠が前方から声をかけてきた。
「感じるでしょう、懐かしい場所に帰ってきたという安堵感を」
後方の春香は、黙ってうなずく。確かに、山全体が迎えてくれている、そう感じ
る。
翠は、片手にビニール袋を持って、登山道を余裕のある様子で進んでゆく。慣れて
いる、そう感じさせる歩き方だった。春香は、ビニール袋を肩にかついで、なんとか
ついてゆく。
春香の背に、ビニール袋のぶよぶよとした感触がある。春香が歩むたびに、たぷた
ぷとビニール袋の中の、肉と肉から染み出した液体が揺れる。翠と春香がこの一週間
で集めた『肉』だ。
春香に、嫌悪感はなかった。慣れてしまえばそんなものだと思う。あるいは、自分
は、そんなことを感じないくらいに心が壊れているのかもしれない。どちらでもいい
と思う。今の春香にとっては、取るに足りないことだった。
前方の翠が、いきなり雑木林の中に分け入った。春香も翠のあとに続く。しばらく
林の中を進むにつれ、左右の緑が深く厚くなってきた。先ほどとは違った山に登って
いるようだ。だが、不安は感じなかった。山に抱かれている、そんな安心感があっ
た。
翠は、どんどん奥に進んでゆく。大きな岩があった。
「結界よ。本来ならば、ここにいることすらかなわない。でも、私の血をうけたあな
たならば、この山が迎えてくれていると感じるはず」
言いながら、翠はそこをすっと通り過ぎる。さらにしばらく進み、樹齢を重ねた大
木たちを超えると・・・ちょっとした広場に出た。
(帰ってきた)
春香は、見たことのない場所だと理解しながらも、そう感じていた。なぜだかはわ
からないが、それが確かな実感としてあった。
広場の端には、両側を人ほどの岩に護られた窟があった。その窟の中から、ふー
ふーとうなるような声が聞こえる。見ると、金色に輝く幾つもの目が窟内の暗闇に混
じっている。やがて、窟から飛び出してくる。狼の化物たちだった。人間程の身長
の、人狼たちだ。その狼が、翠にじゃれつき始める。
「だめよっ、こらっ、いたずらしないで」
翠のはしゃいでいるような声が、窟前に響いた。
「いい子にしてた、ロブシュアル、エシュアル。テュテュアルはクシュアルのこと、
いじめていない?」
深夜。
逢瀬山の中腹辺り。
じゅうたんのような柔らかい草に覆われた、小さな遊び場ほどの秘密の広場。
周りは、樹齢を重ねた大木たちに守られている。
春香が空を見上げると、どこまでも透明な空に、星が瞬いている。
ふわっと温かい風が吹いた。
狼たちが、まるで子犬のようにその少女の周りではしゃいでいる。少女は微笑みな
がらも、時折いとおしいという顔で、慈しむように狼たちの顔をなでている。
素直に微笑ましいと思える、そんな翠と狼たちの姿だった。翠の笑顔は心のそこか
らのものに思える。あの美しく残虐な支配者である翠からは想像もつかないような姿
だった。学校では決して見ることができない、そしてたぶんこの場所でしか見ること
ができない、そんな笑顔に思えた。
知らず知らずのうちに、春香の瞳に涙がたまっていた。目の前に、自分の知らない
翠がいる。それは、はっとするように新鮮な光景だった。と、狼たちが、春香にも
じゃれついてきた。懐かしい仲間に巡り合ったような態度だった。狼たちが、ぺろぺ
ろと、春香を慰めるように、その頬をなめる。
春香は、そんな狼たちの態度にも驚いていたが、それ以上に、彼らから感じられる
匂いに驚いていた。
(ああ、そうか、翠さんの匂いなんだ・・・)
そう思うと、春香にもなんだか狼たちが懐かしい仲間に思えてくる。
(毛とか、皮膚とか、そんな部分から匂うんじゃない。もっと奥、そう、血とか肉と
かから翠さんの匂いが感じられるんだ)
狼が、春香の顔をぺろぺろとなめる。生臭い息がかかったが、怖いとは感じない。
春香は不意に理解した。狼たちは、自分の中に、自分が狼たちに感じているのと同じ
ような翠の匂いを感じているのだ。翠の血を受けるということはそういうことだった
のだ。この山は翠と狼たちのテリトリーで、彼らの血と汗と匂いと想いの染み付いた
場所なのだ。だから、翠の血を受けた自分は、この場所を懐かしいと感じたのだ。
その翠を見ると、ビニールの中から肉を取り出して、狼たちに与えている。狼たち
はそれにむしゃぶりついている。春香にじゃれている狼たちも、求めてくる。春香
も、ビニールから肉を取り出して、狼たちに与えた。狼たちは、それをはぐはぐぐ
ちゃぐちゃと飢えているように求める。その、本来ならばおそるべき光景が、なんと
なく微笑ましく思えてしまう。春香は、さらに狼たちに自分たちがとってきた肉を差
し出し、それにむしゃぶりついている狼たちの頭をなでた。ざらりとした剛毛、針金
の束をなでているような感触だったが、春香は、子犬の頭を撫でているのに近い感覚
を覚えていた。
「この子たちは、天からやってきた妖の末裔よ」
春香の隣に座っている翠が語りかけてきた。
春香と翠の後ろでは、狼たちがはしゃぎまわっている。春香は、後ろをちょっと振
り返る。子犬たちとまるで変わらない様子で、四匹の狼たちが転げ回っている。翠に
目を移すと、優しい中にも、何かを心に秘めたような目をしていた。
「今の世界にあの子たちの居場所はないわ」
つらい現実、それを認めるという様子で、翠は言う。
「あの子たちこそ、妖=ナイトメアの本来の姿よ。でもこの世界はそれを受け入れよ
うとしない。ナイトメア・ハンターがナイトメアを狩り、ナイトメアが人間と本来の
ナイトメア=『出来損ない』を狩る、それが今のこの世界よ」
翠は、春香のその顔を向けて、ふっと微笑んだ。
「あたなは・・・こんな世界、どう思う?」
翠は、その笑顔のまま、聞いてきた。春香は、答えられない。この世界のことなど
考えたこともない。春香にとって重要なのは、自分と自分の内面に関することだっ
た。世界は、そこにあるそのままの存在で、それがどうかなどとは考えたことがな
かった。考える意味すらあるのかどうかわからない。
「わかりません・・・」
春香は素直に答えた。翠は、心に染み込ませるように優しく吐息した。
「私は、ずっとそんなことを考えて、生きてきた。私たちを受け入れないこの世界。
私たちが出来損ないで、よくない存在だから、この世界は優しくないのだろうか。私
たちの想いなど、とるに足りないことなのだろうかと。この世界の形は決まりきった
もので、それは受け入れなければならないのだろうかと」
春香は、黙って聞いている。翠は続けた。
「街中で、楽しそうにたたずむ親子連れを見ながら、窟で隠れ暮らさなければならな
い私たちと彼らとはどうちがうのだろうと、自分自身になんども問いかけた。我が物
顔で街をかっぽする人間の形をしたナイトメア・ハーフを見ながら、狼の姿で生まれ
てきたことがこの世界では罪なのだろうかと問いかけた。誰も祝福してくれない生
命。狭い窟とこの広場が自分たちの全てである私たち。遥かな時間、泣き続けて・・
・そして、ふと、ならば、そんな世界の形を変えればいいと思いついた。私にも、世
界を変えるために動かすことができる自分の手があると気付いた」
春香は、吸いつけられたように、翠の独白を聞いていた。ああっ、と思う。自分は
翠のほんの僅かな部分しか見ていなかったのだ。端麗な容姿と、艶やかな黒髪と、何
者にも服従しない強い意志。でも、それは、ほんとうの翠のほんの僅かな部分だった
のだ。
「うれしかった。自分の声を、叫びを、世界中の、私たちの存在をあざ笑ってきた連
中に聞かせてやりたいと思った。私たちが、今、ここに存在することを、その憎悪と
純粋な希望を教えてやりたいと思った」
翠の瞳が濡れていた。気のせいかもしれないが、きらめいて見えた。
「こんな私を知っているのは、薫とあなただけよ。あなたが私のものになったから、
私はあなたに私の心の一部をみせた。だから・・・」
翠は、春香を見て、すっと目を細めた。笑みが柔らかいものから鋭いものへと変わ
る。
「あなたはもう私から逃げることはできない。あなたは、もう後戻りできない」
決断を促すように、翠が見つめてくる。春香は、黙ってこくりとうなずいた。自分
が翠に全てをささげることができるのか、あるいは結局あの男に絡めとられたままな
のか、それはわからない。でも、進んでみよう、そう思う。自分がどんな運命をたど
るのかはわからないが、何もないよりも、ましだ。
その春香を見ながら、翠は満足した様子で、
「もうすぐ、金環食よ」
さりげない調子で続けた。春香は、えっという顔で答える。
「妖伝説にあったでしょ。お日様が光の輪になった年って。それが金環食。三百年ぶ
りに、異界門――ゲート――が開く」
翠は目を細めて、鋭い笑みを浮べて、そう言った。
「私は、この世界の形を変える。その為に、三百年間、耐えて、努力してきた」
翠は、遥か先を見つめるような遠い目をしている。
「ほんとうに、もうすぐ・・・」
翠は、つぶやくように、そう言った。
二 ダンシング・イン・ザ・ダーク
昼休み。校舎の屋上から、街並みを見下ろしている。
薫の記憶にある、小さな民家や建物がごみごみと密集している光景は、もはやな
い。あちらこちらに緑が散らされ、整然とした新しい建物が並んでいる。が、空の色
だけはかわらない。遥か昔、翠と共に見上げた空も、以前この街を去るときに見上げ
た空も、そしていま見上げている空も、青い海のように広がっている。
今までのことがあっという間の出来事に思えた。翠の、少女らしく微笑んだ顔が隣
にあったのは、つい先ほどのことのようだ。今は、その翠と敵同士になっている。想
像などしただろうか。二人は一つで、その心は互いに混ざり合って、もうわけること
ができないと思ったのは、翠の言ったようにまぼろしだったのだろうか。
透明な青い液体のような空を見つめながら思う。この果てしのない空に自分の心を
とかして流してゆければ・・・
薫は、そっと目を閉じる。自分に言い聞かせる。
「もう、あの頃の翠は、いない」
自分の耳で聞こえるように、声にする。声を出してから、その意味を噛みしめる。
目をあける。と、その端に、ちらとした影が映って、薫はそちらを向いた。
少女が、やはり薫のように、金網越しに遠くを見つめている。脆そうな少女、それ
が薫の印象だった。そのおかっぱ頭の少女の姿は薫の記憶にある。薫にぶつかりそう
になって、それから薫に何かを語りかけようとした、あのときの少女だ。青い制服の
色は少女には強すぎる。むしろ、白く淡いブラウスが似合う、そんな少女だ。少女
は、黙って、遠くを見つめている。何を見ているのかはわからない。街並みにしては
目線が高いし、空を見上げている風でもない。
その少女が、ちらとこちらを向く。数秒、その表情をかえずに薫を見つめたあと、
少女は、また前を向いた。薫も前を向く。街のその向こうに、山々がいくつかかすん
で見える。
ふと見ると、隣の少女が消えている。まぼろしだったのだろうか、と考えて、いや
そんなことはないと思い起こす。少女ははかなげで、いまにも消えそうであったが、
確かにそこにいたという気配が残っている。薫は、誰もいなくなった屋上を後にし
て、校舎の中に入った。
翌日の昼やすみ、薫は再び屋上に出た。昨日よりも風が強かった。薫の頭髪をびゅ
んびゅんと吹き流してゆく。晩春の太陽が降り注いではいたが、やや涼しいと感じる
天気だった。
広い、緑色の樹脂を流し込んだプールのような屋上を見渡す。と、ぽつりと、消え
そうな影が見える。昨日の少女だった。昨日と同じように、遠くを見つめている。少
女の髪とスカートがなびいている。遠くから見つめる少女は、そばによって抱きかか
えてやらなくてはならない、そんな風に思わせる雰囲気を持っていた。
と、少女が、地面にうずくまっている。様子がおかしい。片手で金網をぎゅっとつ
かんで、顔をゆがめている。
薫は、少女に近づいた。しゃがんで、少女の顔を覗き込む。少女が、薫をちらとみ
て、
「大丈夫・・・です。ちょっと・・・気分が悪くなっただけです。すぐに・・・おさ
まります」
そう言って、耐えるような顔をしている。少女は確信があるらしく、じっと耐えて
いるような様子だ。薫は、その少女に無理をさせることもできず、少女の側でじっと
待っている。やがて、少女は、落ち着いたのか、二・三度ゆっくりと深呼吸をして、
その背を金網にあずけて地面に腰をつけた。
「すいません。いつものことなので、心配しないで下さい」
少女は、休みながらそう言った。薫は、心もち、目を細めてその少女を見つめる。
少女は、少し楽になったという顔を見せて、
「そんな目で見つめないで下さい。ほんとうに・・・大したことないんです」
弱々しく笑った。
「ほんとうに・・・大丈夫かい」
「はい。でも・・・ちょっとだけ、手を握っていてくれますか」
薫は、黙って少女の手を握って、少女の隣に座った。少女の手は、汗ばんで、湿っ
ていた。少女は、弱々しく薫の手を握り返してくる。そうしていると落ち着いてゆ
く、そんな風に見える。
「いつも、こんな風なのかい?」
薫は、少女を見つめるかわりに、少女の手を握り締めながら尋ねる。少女は、
「もう、なれました」
あきらめたような声で、そう言った。少女は、薫を見つめるでもなく、目の前に広
がっている緑色の屋上に顔を向けたまま、
「いつも・・・ここにいますよね。ここが、好きなんですか?」
と聞いてきた。
「考え事をしにくるんだ。この空と街に自分の心をとかしてゆく、そんな感覚がすき
なんだ」
「何を考えているんですか」
少女は、興味があるという様子で聞いてくる。薫は、ふっと微笑んで答えた。
「たいしたことじゃない。ちょっとだけ好きな子が気になる、そんな程度のことだ
よ」
「なら、私と一緒ですね」
少女の呼吸が落ち着いてくる。薫は黙ってそれを聞いている。時間だけが過ぎてゆ
く。空の色も変わらず、強く吹き付けている風もかわらない。もう五時間目が始まる
頃だ。
と、少女が、ふうと大きく息を吐いた。
「落ち着きました」
そう言って、少女は、薫の手を離した。少女が立ち上がる。力強さはなかったが、
よろけているという様子でもない。
「ありがとうございました、如月さん」
少女が、薫に笑いかけてくる。少し明るさを感じさせる笑みだ。
「ずいぶんと楽になりました」
薫は、そう言った少女がしっかり立っているのを確認して、
「僕の名前を知っているんだね」
そう尋ねた。問い詰めるというのではなく、少女のことを優しく受け止めるという
調子で。と、
「月白沙耶です。三組の」
少女は嬉しそうにそう名乗った。
「月白さんは前に僕とぶつかりそうになったとき何かを言おうとしていた、そんな風
に覚えているんだけど・・・」
と、沙耶は、ふふと笑って、
「そんな風にして、女の子を誘うんですか?」
とはにかんだ様子で、薫をからかう。
薫は、いや・・・と言いかけたが、沙耶の笑みを見て、口を止める。薫は、沙耶と
連れ立って、校舎の中に入った。
◇◇◇◇◇◇
放課後の保健室。一階の廊下から中に入ると、正面に机、左手に薬品棚、右手に
ベッドが二つならんでいる。ベッドは、カーテンによって仕切られていて、各々個室
のようにすることができる。洗い流したような清潔感漂う、白い部屋だった。
正面の机、その前の椅子には、奈川玲子(ながわれいこ)が座っていた。この学校
の保健医だ。二十代の、妙齢の女性。ウェーブのかかった長い髪をした、肉感的な身
体の女性だった。ベッドの方角を向いて、足を組んで座っている。白衣のしたのミニ
スカートから、ナイトメアが見たら食いつきたくなるような太ももがはみ出してい
る。玲子は、流麗な、ただし、困ったと言うような声を出した。
「人間狩り、まだなんとかならないの?」
前方の三人に向かって、顔を曇らせる。頭のいたい問題だという様子で、その手に
もっているペンでぽんぽんと頭をたたく。
玲子の前方には、ベッドの上に一人、その前の肘掛け椅子に一人、その隣の丸椅子
に一人座っている。
ベッドの上にちょこんと腰掛けている、小柄なポニーテイルの少女――早川綾(は
やかわあや)――がそれに答えた。
「いま、ナイトメア・グループで探しているわ。すぐに見つかるわよ」
どうってことないでしょ、という調子だ。大人らしい細面の玲子とは対照的な顔立
ちをしている。小さな鼻と、ちょこんとした口と、切れ長の目が、少女っぽい、そん
な顔立ちだ。活発そうで開放的な雰囲気の少女に見える。
「そう言って、どれだけ経つと思うの。私の立場も考えてほしいものね」
「そんなにかっかすると、しわが増えるわよ」
そうちゃかした綾に、むっと、玲子があからさまに不快な気分になったという表情
を見せる。と、少女の前で、キャスターのついた肘掛け椅子にどっかりとすわってい
た青年が、割ってはいった。
「玲子先生も、綾も、それくらいでいいだろう。人間狩りは続いている。仲間のナイ
トメアにも被害が出ている。犯人は狩らなくてはならない。犯人は、この街のナイト
メアに間違いない。そんなところだろう」
余裕があるという様子で、青年、都築純(つづきじゅん)が言い放つ。この街のナ
イトメア・グループのリーダーだ。鋭い目に、すっとした鼻筋は、自信を感じさせ
た。
「タケシ、お前のグループからの報告が遅れているぞ。その能力を買っているのだか
ら、期待にはこたえて欲しいものだな」
「いま・・・やらせて・・・いる」
うめくように、丸椅子の上から声を出す。太った身体の割りに、背は高くない。つ
ぶれた鼻に、細く横に長い目と口。それを上下からぎゅっと押しつぶしたような顔を
している。苦悶している、苦痛にあえいでいる中年のような顔だった。重井タケシ
(おもいたけし)。この三人が、実質的にこの街のナイトメア・グループを取り仕
切っていた。
「すみやかにしてほしいものね、重井君、都築君」
微笑をたたえて、だが声は冷たく、玲子は言い放つ。
「ナイトメア・ハンターとしての私の立場もあるし。あなたたちと手を組んだメリッ
トを見せてもらわないとね」
「こちらからお願いしたわけではない。なんなら、いますぐにでも手を切ってもいい
んだが」
「ならば、いますぐ、ナイトメア・ハンターを終結させて、この街のナイトメアを根
絶やしにするだけね」
玲子の冷笑と、純の不敵な笑みがぶつかって、保健室の中の空気がぴんと張り詰め
る。
その、針金の様な空気を和らげるように、
「まあ、そうぎすぎすしないで、建設的にいきましょ」
綾が声を挟む。その声で、ふっと純の緊張が緩み、引っ張られていた糸の片側が外
れたように、玲子の鋭さも和らぐ。
「いいタイミングだ」
純は、笑って椅子から立ち上がり、ベッドに腰掛けている綾の前まで行く。
「頭のいい女性は好みだ」
言いながら、綾の首筋に口を這わせる。綾は、あっ、いやぁ、と甘い声を出す。嫌
がっているようには見えない。玲子が、椅子からすっと立ち上がり、
「終わったら、さっさと出てゆきなさい。ここはラブホテルじゃないのよ」
教師のように諭して、扉から出て行く。重井タケシも丸椅子を揺らして立ち上が
り、保健室の出口に向かう。と、純が、
「タケシ、頼りにしているぞ。手柄を立てたら、お前専用のヤツを用意してやる」
重井は、ぐっと奥歯を噛みしめて、拳を握って、保健室からでた。と、出口に奈川
玲子が立っていた。重井タケシを優しく見つめて、
「つらいな、青年」
玲子はそう声をかけた。後ろの保健室から、早川綾の甘いあえぎが聞こえ始める。
重井は、その綾の声を振り切るように、その身体をゆすりながら歩き出した。
(まあ、あの容姿ならば、しかたがないか)
重井に優しく声をかけたのは、彼を励まそうとしたのではなく、ほんのちょっとし
た優越感を味わうためであった。食事の間に、ちょっと小腹に入れる程度のことだ。
重井にはなんの感傷も恨みもない。が、玲子が声をかけたことが、いっそう彼の哀れ
さを引き立てたように思えて、玲子はふっと苦笑した。
ナイトメアは本能的な部分が強い。強いものに惹かれる。美しいものに惹かれる。
理性で押さえている部分も人間ほど多くない。『出来損ない』というわけではない
が、あの容姿のナイトメアに生まれた重井の立場は、思いやって余りあるものだろ
う。それが、彼の顔に表れて、染み付いているようではないか。彼の顔はありとあら
ゆる屈辱と鬱屈がこりかたまったようではないか。そう思って、玲子はふっとまた
笑った。
美しくないもの、強くないものなど、生きる資格はないのだ。それがこの世界の理
であり、自分は美しく強く生まれた。それが絶対の真実なのだと、玲子はそう思って
いた。自分は世界に選ばれた存在なのだ。ならば、自分は他の哀れむべき存在を蹴散
らして、あるいは慈悲を与えて進むことができる。
廊下ですれ違う女子学生二人が、さようなら先生、と声をかけてくる。
玲子は、その学生のあいさつに柔和に答えながら、考え続ける。
選ばれたということは、どういうことだろうか。選ばれなかったものは、例えば、
重井タケシは、何か罪があって選ばれなかったのだろうか。いや、その問い自体に意
味がない。野良猫が野良猫に生まれるのに、王女さまが王女さまに生まれるのに、理
由などありはしない。あるのは、そう生まれたという真実だけだ。変えようのない、
この世界での絶対の真理だ。
ならば、と玲子は思う。
自分は、この世界に祝福されているではないか。この世界全てが自分の力になって
くれるのではないか。そう思うと、心の中に力があふれてくる。吸い込む息が全てエ
ネルギーとなって全身を駆け巡っているようだ。
心地よい。玲子はリノリウム張りの廊下の中心を進みながらそう思う。自分がこの
世界に祝福されていることが実感できる。自然と、廊下を進むテンポもよくなる。カ
ツンカツンとヒールを鳴らして進む。普段から大またで自信を形にしたような歩き方
をする玲子だったが、今はとりわけその色が強い。
と、向こうから、すっと背を伸ばして歩いてくるものがいる。片手をズボンのポ
ケットに入れて、音もなく、だが、均整の取れた歩き方でこちらに向かってくる。玲
子は、その自分の嗜好にあった姿を見て、ふっと笑った。すれ違う瞬間に足を止め、
その男の方を向いて、
「今夜一緒に食事でもいかがですが、神楽先生」
柔らかい表情を浮べて、神楽をさそう。と、神楽は、ふっと苦笑して、
「もうしわけないが、今夜は予定が入っているので、ご容赦いただきたい」
丁重な言葉づかいで、だが、玲子など眼中にないという雰囲気をもって答えてく
る。玲子は、カチンときたが、そうですかと答えて、さらに、ではまた機会があった
らと付け加えて、神楽と分かれた。
分かれてから、温和な笑みを消す。少しばかり容姿が整っているからといって、自
分のさそいをことわるとは、分をわきまえない愚か者だという認識があった。沸き起
こってくる不快感を、所詮、ひ弱でおろかな人間に過ぎないのだから、となだめる。
もっと、心をおおらかにもとうではないか。それが選ばれたものの慈悲というもの
だ。そう思うと、心の中のかっと熱くなった部分が、すうっと消えてゆく。
玲子は、淡い黄色の光に包まれた街を、廊下の窓から見渡した。
この街は手始めに過ぎない。ナイトメア・ハンターである自分が、ナイトメアたち
を支配し束ねて、その触手を徐々に他の街にも広げて行くのだ。自分にはその望みを
実現するための、意志も力もある。あとは、揺るぎない自信をもって進んでゆくだけ
だ。
この街のほんとうの支配者は、人間でも、夜にその人間の前で傍若無人に振舞って
いるナイトメアでもない。その人間とナイトメアを含めたこの街全体を束ねる自分こ
そが、世界の代理人なのだ。一見無秩序に見えるこの街も、全て自分の手の平の上に
ある。檻の中は無秩序であっても、檻という枠にあてはめられ、それを監視している
自分がいる。無秩序自体が自分の手の平の中にあると感じることができる。
さて、と玲子は、廊下に向き直る。明日までに提出する書類を仕上げてしまわなく
ならない。あの連中は、もう保健室から出ていっただろうか。急に所帯じみた現実に
戻った、デート帰りの主婦のようで、おかしく思える。こういう自分も嫌いではな
い。檻の外から中を見ながら、同時に檻の中でもあくせく働いているのだ。檻の中に
いる自分は、顔を上げればその外側から見下ろせることがわかっているし、檻の外の
自分は、ふっとその中に入り込めることを知っている。
玲子は・・・仕上げる書類の順序を考えながら、再び廊下を歩き出した。
◇◇◇◇◇◇
薫は、屋上に座っていた。背を金網にあずけて、片足を軽く曲げて、もう片足を地
面の上に伸ばしている。昼休み。隣には、月白沙耶がいる。同じように金網に背を預
けて、ただし足を両方とも軽く曲げている。体育で座るような形だ。
二人とも、あまりしゃべらない。会話が弾むということはない。思いついたように
どちらかが尋ね、もう一人が、答える、そんな時間が過ぎてゆくのだ。
薫はよく屋上に昇った。その静かで心が洗われるような感覚が好きだった。屋上に
は、沙耶がいることもあったし、いないこともあった。沙耶が目当てということでは
なかったが、では沙耶のことは全く気にしていなかったかというとそうでもなかっ
た。会いたいという強い衝動はない。が、屋上の扉を開けるとき、いるのではないか
というほのかな期待を抱くのも事実だった。
今は、二人でならんで座っている。風が強い日はそんなときが多かった。薫の背中
に風が吹き付けている。沙耶を見ると、猫のように丸まっている。と、沙耶が急に口
元に手を当てた。もう片方の手で胸を押さえて、目をきつくつむる。
沙耶ははっきりと気分が悪いという顔に変わった。薫は、慌てず、沙耶の胸元の手
をとった。沙耶の手は汗ばんでおり、動悸も激しそうだった。沙耶が押さえている口
元から、唾液が漏れて、手を濡らしている。いつもよりも気分が悪そうだった。薫
は、沙耶の手を優しく握り締めながら、
「大丈夫?」
と、声をかける。沙耶は答えない。苦悶するような表情を浮べている。ややして、
「気持ち・・・悪い・・・」
と答えてきた。
「少し休んで・・・保健室にいこう」
薫は沙耶の耳元でささやく。沙耶が黙ってうなずく。はーはーと荒い息。上下に胸
が揺れている。しばらく苦しそうな息が続いた後、沙耶の呼吸が落ち着いてくる。沙
耶は大きく二・三度深呼吸をして、
「ちょっと・・・楽になりました」
そう答えたが、あまり楽そうには見えない。薫は、
「でも、保健室で休もう」
と語りかけ、沙耶もうなずいた。
沙耶は、ふらふらと、薫に助けられて立ち上がった。沙耶が薫のひじを掴んで、寄
りかかるようにしている。薫の制服は、沙耶の手についていた唾液で濡れた。沙耶
は、薫に付き添われてゆっくりと歩き出した。
薫一人ならば、一分で着く距離を、十分かけて保健室にたどり着いた。途中で二度
ほど休んだ。何人かの生徒が前を通り過ぎるときにくすくすと笑っていた。沙耶は、
あきらめたような顔でうつむいていた。
保健室に入ると、奈川玲子が、机に座って何か書き物をしていた。沙耶と薫が、す
うっと横滑りの扉を開けると、玲子は振り返って席を立ち、手順が決っているという
様子で、ベッドを整えて、沙耶をその上に寝かせた。薫はベッドの側で沙耶に付き
添っている。
「大丈夫よ、月白さん」
玲子が、自信があるという笑みとともに沙耶に語りかけてくる。沙耶も勇気付けら
れたのか、ふっと表情を崩して弱々しく笑った。玲子が小さな白い錠剤と水を持って
くる。
「飲める?」
沙耶は黙ってうなずいて、上半身を起こしてから、それをゆっくりと飲み干した。
「すぐに落ち着くから。少し風にあたりすぎたんじゃない?」
玲子は、沙耶の行動はお見通しだという様子で、語りかけてくる。温かみのある声
だった。
沙耶は、だいぶ落ち着いたのか、横になってふうと大きく息をして、顔を穏やかな
ものに変えている。と、沙耶が、あっと小さな声を上げた。沙耶は薫の袖を見てい
る。
「ごめん・・・なさい。汚くしちゃって・・・」
沙耶がベッドの上から弱々しい声を出す。薫は、優しく笑って、
「気にしてないよ」
そう答えた。玲子が再び近づいてくる。沙耶の手首を掴んで脈をとる。
「落ち着いたようね。彼氏と一緒だからって、あまり無理しちゃだめよ」
玲子はそういって、わざと作ったような意地悪い顔で笑う。
「あ・・・」
沙耶は、そう小さく声を出したのち、
「そうじゃないんです・・・」
ちょっと哀しそうに、答える。薫に、もうしわけないという目を向けてくる。
薫は、沙耶に微笑んで、
「彼氏みたいなものですよ・・・」
玲子に声を向けた。沙耶の顔が、赤くなってゆく。沙耶は、はずかしくてみっとも
なくてうれしくてどうしてよいのかわからない、そんな顔をしている。薫はその沙耶
を見ながら、
「僕は、月白さんにだいぶ癒されたと思ってるから」
そう言った。
「僕には、決着をつけなくてはならない相手がいて、その相手をどうしていいかわか
らない。どうできるのかもわからない。月白さんは、そんな僕に、ほんの少しかもし
れないけれど、勇気をくれたから」
沙耶の顔が崩れてゆく。沙耶が口元を押さえて、でも苦しいという様子ではない。
沙耶の瞳が濡れている。と、玲子が、
「はいはい、のろけはそこまでにして。ここは保健室なのよ。そういうことは別の場
所でやってね」
そう言って笑う。
「まったくこの学校の連中ときたら、ここを何だと思っているのかしら」
怒っているという調子ではない。
「どうする、如月君。もう少しここにいる。五時間目が始まったら、私は留守にする
けれど?」
「あの・・・」
沙耶が細い声で割って入った。
「私、大丈夫ですから、如月君はクラスに戻ってください」
薫は、沙耶を見る。力強さはないが、確かに大丈夫なように見える。薫が、笑いか
けると、沙耶もそれに答えるように笑った。
「戻るよ」
薫はそう言って、沙耶の手をちょっとにぎってから、保健室を出た。玲子も、じゃ
あ、ゆっくりしていっていいから、そう言って、ベッド周りののカーテンを閉めて、
出て行く。一人残された沙耶は、そのまま目をつぶる。やがて、沙耶はすうすうと寝
息を立て始めた。
重井タケシは廊下を歩いていた。くすくすという馬鹿にするような笑い声が聞え
る。ちらとその方向を見ると、女生徒が二人でこちらを向いて何か話している。いつ
ものことだ、気にするな、あの連中に自分のなにがわかる、そう言い聞かせるが、心
をねじ上げるような声は耳から離れない。どうどうと歩け、もっと胸をはって、まっ
すぐに、足を高く上げて。自分は彼らに蔑まれるような存在などではない。そう思っ
ても、人目を気にしてしまう。
身体に染み付いているからだ。
廊下を曲がるときも、自分を蔑む誰かと鉢合わせするのではないかと不安を覚えて
いる自分に気付いて、重井はそんな自分にいっそう嫌悪がつのる。
憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い・・・・・・
憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い・・・・・・
顔を歪めて心の中で繰り返す。ここが学校でなければ、ここが人気のない裏通り
だったら・・・そんなことを夢想する。自分を笑っていたあの女生徒二人組みは絶対
に許さない。犯し尽くして、泣いて命乞いをさせてやる。どちらか一人だけは助けて
やると嘘をついて、二人で殺し合いをさせてやる。生き残った相手に、殺したやつの
肉を食わせてやる。そんなことを思う。
これのどこが街の支配者だ、重井は心中でうめいた。
もの心つくころには、自分は普通のナイトメアとは違う、漠然とだが他のナイトメ
アとは違うと扱いを受けているとわかっていた。それが侮蔑と嘲笑と憐憫であること
を理解したときに、自分の世界が変わった。歪んだ姿は、その心まで歪めてしまっ
た。もう、幼かった頃、母親に抱きついていたような澄んだ心には戻れない。
成長するに従って、自分の能力は、他のナイトメアよりも優れていることに気付い
た。それを心のよりどころにして、その能力を磨いてきた。だが、感性と本能を中心
とするナイトメアの世界でまっとうな扱いを受けるべくもなかった。自分に敬意を
払っているように見えるナイトメアたちも、力で勝るあいてに従っているに過ぎな
い。彼らが自分を心の中で嘲笑していることが、手にとるようにわかった。子供の頃
からそういう視線態度に接しているうちに、相手が自分をどう思っているかがわかる
ようになったのだ。
都築純に誘われて、ナイトメア・グループに入った。敵対する連中を、その能力に
まかせて打ち倒してきた。支配すれば、自分を嘲笑する敵を壊し尽くせば、そうすれ
ば、自分が求める、幼かった頃のすがすがしい心が手に入る、そう自分に言い聞かせ
てきた。だが・・・
これが勝者であるものか、そう思う。人間にすら、ナイトメアとして振舞えない場
所では嘲笑されているではないか。これが、自分が求めたものであるはずがない。
重井は、奥歯をぐっと噛みしめる。
重井は、五時間目が始まって人気のなくなった廊下を進み、保健室の扉をガラリと
開いた。と、中に早川綾がいた。玲子の椅子に足を組んで座っている。
「あら、タケシ、早かったわね。純はこれないって。この前引っかけた女の子にラブ
レターもらったんだって。今頃、校舎裏か、体育館倉庫でよろしくやっているわよ」
「そうか」
重井は短くつぶやく。
「この街で、人間を狩っているナイトメアを捕まえろとあれほど口やかましく言って
いたのが、それか。今夜からナイトメア・グループの総力を上げる手はずだろうに」
言いながら、重井は綾を見る。いやらしく笑っている綾。スカートからはみ出した
その足を見ながら、
「いいのか?」
そう綾に声をかけた。
「何が?」
綾が、不思議だといわんばかりに答えてくる。
重井は、この早川綾という女性がわからなかった。純に従っているようでいても、
心から純に心酔しているという様子ではない。純にその身体を許すのは、奔放なナイ
トメアの女として不自然ではないとしても、恋人のように振舞っている純が他の女に
手を出すのは不愉快なはずだ。あるいは、純のことが好きではなくて、ただ、利用し
ているだけなのか。
綾の自分に対する態度もわからない。ほとんど自分に構うことはないのだが、だか
らといって重井を避けているという態度でもない。他のナイトメアや女から感じる、
不快で不潔なものに対する嫌悪も、この早川綾からは感じない。この女の視線を怖い
とは感じない。この女を憎いとも感じない。この女の前だと、素直な自分に戻れる、
そんな風に思える。
重井は聞いてみた。嫌悪され、軽蔑されるのを覚悟の上だ。
「純のことが好きではないのか?」
「好きよ。愛しているというほどではないけど」
すぐに答えが返ってきた。
「ならば、ヤツが好き勝手に女をあさるのは不愉快ではないのか?」
「別に気にならないわよ。私だって男をあさるし」
言ってから、綾が妖しく笑った。片足を椅子の上に持ち上げ、下着を重井に見せつ
ける。
「どう。純もよろしくやっているようだし・・・」
なまめかしい瞳で、綾は舌でちらりと唇を濡らす。
重井は、不思議なものを見る、理解できないものを見る、そんな目で綾を見てい
た。自分から重井に身体を開くナイトメアの女など、この世界にいるとは思っていな
かったのだ。想像したこともない。たまに、打ち倒すべきナイトメアの中に女が混
じっているのを犯すだけだ。
綾は、さそうように笑っている。重井は動けない。この綾という女は自分をから
かっている、自分が純の女で、重井が手を出せないのをいいことに、重井を馬鹿にし
ている、そう頭は告げていたが、その実感はない。重井は、理解できない事態に遭遇
して動けない。と、綾は、さっと顔を不愉快なものに変えて、
「煮え切らない男は嫌いよ。そんなことだから、女は誰も相手にしないのよ」
この台詞に、重井の心の中の何かが切れた。
やはり、この女も他のナイトメアの女と同類だったのだ。自分をからかって遊んで
いたのだ。そう思うと、もうとまらなかった。
重井は綾に突進する。純の女だろうが関係ない。綾がさそったのだ。この女が、自
分のことをからかったのがいけないのだ。この女をめちゃくちゃにしないと気がすま
ない、重井の心がそう告げていた。重井は、そのまま、綾の上に覆い被さった。
重井は、しばらく、押さえつけるようにその唇を綾に重ねていたが、ずりおちるよ
うにしてその口を離した。身体が、震えていた。
重井は、綾の膝上で、ううっ、ううっ、と嗚咽を漏らし始めた。綾が、椅子の上か
ら声をかけてくる。
「どうしたの、タケシ。私とヤれるのがそんなに嬉しいってわけじゃなさそうだけど
・・・」
「どうして、お前は、嫌がらない。どうして、お前は、俺のことを蔑まない。俺はこ
んなに汚らしい姿をしているんだぞ。どうしてお前は、平気なんだ。どうして、そん
な風に笑っていられるんだ」
「私、そんなこと、気にならないのよ。知り合いにはおかしいっていわれたけど、私
には関係ない。『醜い』とはわかるけれど、そうは感じない。ナイトメアにも私みた
いな変なのがいるってことね」
綾はそう言って、つり上がり気味の目で笑った。重井は綾を見つめてしまう。綾が
重井の前に屈みこんで、顔を近づけてくる。
「最後までしてくれたら、嬉しかったのに」
その綾の言葉に、じわっと涙が滲み出してくる。重井は、綾の膝に顔を乗せて、泣
いた。後から後から涙があふれてくる。いま、ずっと探していたものを見つけた、重
井はそう感じていた。
綾が重井の頭を撫でてくる。綾は、やわらかい歌のように、声を奏で始めた。
「私は、楽しいことが好き。気持ちよいことが好き。汚いとか、醜いとか、そんなこ
とはあまり感じない。ずっとずっと楽しくこの街で自由に振舞ってゆきたい」
綾は続ける。
「よごれるのは気持ちいい。それを洗い流すのも気持ちいい。あえぐのは気持ちい
い。叫ぶのも気持ちいい。のたうちまわるのも気持ちいい。狂うのも気持ちいい。ナ
イトメア・ハンターは怖い。怖いのはいや。つらいものいや・・・」
綾は、重井の前で呪文の様に繰り返し続ける。
「純が好き。タケシも好き。男が好き。自分も好き。この学校が好き。この街が好
き。支配するのが好き。壊すのが好き。生きるのが好き。死ぬのは嫌い・・・」
◇◇◇◇◇◇
おぼろげな意識。楽に呼吸ができるという安堵感がある。水中を漂っているぼんや
りとした自分と、保健室のベッドに寝ていると認識している二人の自分がいる。苦し
さの余韻は残っているが、いまは穏やかな安心感があった。また苦しいときがくるの
だろう。未来永劫そういった時間が続くのかもしれない。だが、今はこの安寧に身を
任せたい、この穏やかさに包まれたい、そう思って、月白沙耶は、また自分の意識を
深く、深く、沈めようとする。
と、ガラリとした音が遠くで聞えた。その音でちょっと意識が現実に引き戻され
る。ぼんやりと、あれは保健室の扉が開く音だという認識がある。玲子が戻ってきた
のだろう、そんなことを思っていると、隣のカーテン越しに、声が聞えてきた。野太
い声と、いたずらっぽい少女の声だ。タケシとか、綾とか言っている。男と女の名前
なのだろう。この街で人間を狩っているナイトメアを捕まえると話をしている。沙耶
はそれを聞いてはっと目覚めた。凍りつくような感覚を覚える。
自分は、その、この街で人間を狩っているナイトメアの正体を知っている。如月薫
が心を痛めている存在だ。だとすれば、隣で離している二人は、ナイトメアに違いな
い。恐らくは、この街のナイトメア・グループのメンバーなのだろう。
見つかれば、ただではすまない、その認識が、沙耶を恐怖させた。いますぐこの瞬
間が終わって欲しい、そう願う。苦しい。身体が震える。気持ち悪い。だが、声は出
せない。こみ上げてくる嘔吐感を、無理やり押しつぶす。まぶたをきつく閉じると、
涙がこぼれた。手を握り締める。奥歯を噛みしめる。
沙耶は、途切れそうな意識の中で、ふっと兄の姿を思い浮かべる。神楽蒼樹なら
ば、このナイトメアたちから自分を護ってくれる、そう想像して、沙耶は自分を嫌悪
した。
ふっと、目が覚める。気を失っていたのかもしれない。隣は静かだ。が、沙耶は動
けない。沙耶は、しばらく震えていたが、心を振り絞って、慎重にカーテンの隙間か
らのぞいてみた。誰もいないことを確認して、はあと大きく吐息した。何度か大きく
息をすってはいてすってはいて、乱れた心を整える。ふらつく足取りで棚にまでゆ
き、ポットから湯をカップに注いで、またベッドに戻る。ベッドに腰掛けながらそれ
でのどを潤す。恐怖と興奮で乱れた心が、まだどくんどくん言っている。じっとりと
全身が濡れていた。
◇◇◇◇◇◇
月白沙耶は保健室に寝ていた。五時間目に気分が悪くなって、休みに来たのだ。ナ
イトメアと遭遇したこの場所に来ることは躊躇したが、他に静かに休める場所も思い
浮かばなかった。部屋には奈川玲子しかいなかった。沙耶はそれを確認して安堵し
た。玲子がいれば大丈夫、そういった感覚があった。
「何か飲む?」
奈川玲子が、気さくに声をかけてきた。
「ミルクティ、お願いします」
沙耶は遠慮せずに注文した。しばらくして、玲子が、ベッドに、湯気を立てている
マグカップを二つ持ってくる。玲子は、その片方を差し出し、沙耶は、身を起こし
て、それを両手で受け取った。大きめのカップには半分ほど、ミルクティが入ってい
る。沙耶はそれを両手で口に運んだ。暖かく甘い液体がのどを下ってゆく。身体の奥
を和らげるような安堵感に包まれる。この場所で、あの、ナイトメアたちと遭遇した
ことが嘘のようだ。
ふと、薫のことを思い起こす。ここ数日、会っていない。その薫に、「翠が狙われ
ている」ことを告げたいと騒いでいる、もう一人の沙耶がいる。自分の胸にしまって
おくことに罪悪感を覚えているのだ。誰かに言って楽になりたいと感じているのだ。
そのことが、沙耶の口内に似合い味を沸き起こす。今までの安堵感を、自分に対す
る嫌悪感が上回ってゆく。自然とうつむいてしまう。両手で握っているカップの中の
琥珀色の液体を、ぼんやりと眺める。
「どうしたの?」
声が聞えた。沙耶を案じているような、柔らかいシーツのような声だ。沙耶はそち
らの方角を見る。カップに口をつけて立っている玲子がいた。子供を見守る母親のよ
うな目で沙耶を見ていた。
「なんの力にもなれないかもしれないけれど・・・話したら楽になることもあるわ
よ」
沙耶が玲子を見つめると、玲子は優しく頬を緩めた。
「人間って、思い詰めるのが一番いけないの。月白沙耶という少女は、物事を深刻に
考えすぎる癖があるように見えるわ。それが、魅力なのかもしれないけれど」
玲子はそう言って笑った。沙耶は、うつむいて、両手で抱えているカップに目を落
とす。ちょっと躊躇して、でも玲子先生ならと思い直して、
「ものすごく変な話で、こんなことを言うとおかしいって思われるかもしれないんで
すけれど・・・」
沙耶は玲子を見る。優しい目に思えた。
「この街の人たちに酷いことをしている人がいて、捕まりそうなんです」
小さな声で、口にした。口にした瞬間、あっと思う。ちょっと後悔する。やはり言
わなければよかっただろうか。我ながら変な表現だと思う。けれど、他にどういって
よいのかわからなかったのだ。玲子先生のような『まっとう』な人は、こんな話をす
る自分をどう思うだろうか。
玲子は瞬間、反応を示さなかった。一瞬、固まった、そんな風に見えた。沙耶が口
にしたとき、眉がぴくと震えた気がした。玲子は、一口、カップの液体に口をつけて
から、
「それは穏やかな話じゃないわね」
と、穏やかな様子で口にした。たいした話ではない、そんな様子で玲子は笑ってい
る。
「それで、月白さんは、それをどうしたいの。月白さんの希望はどんなことなの。そ
の人を助けたいの?」
「その人とは、その、知り合いでもなんでもないんですけれど・・・その人が捕まる
と、哀しむ人がいるんです」
沙耶は、言葉を選びながら、とぎれとぎれに口に出した。玲子の優しさに甘えてい
るときにも、あまりにも変なことを口走らないようにと保身を考えている、そんな自
分にちょっと嫌悪する。でも、と思い返す。少し心が軽くなった気がする。玲子に話
してよかった、ほんとうにそう思う。
その玲子の表情が話す前と違って見える。気のせいだろうか。いつもの玲子の顔に
見えない。獲物を捕まえた吸血鬼のような、鋭く残虐な笑みに思える。自分を見て
笑っているその顔に、ひんやりと背筋が寒くなる。自分は、玲子を怒らせてしまった
のだろうか。だが、玲子の変化はそれとは別物に思える。
がらり、と保健室の扉が開く。三人入ってくる。沙耶はそれを見て全身が凍るよう
な寒気を覚えた。三人の中の二人は、沙耶がカーテン越しに遭遇したナイトメアだ。
重井タケシと、早川綾。もうひとりは知らないが、おそらく仲間のナイトメアなのだ
ろう。
どくんどくんと心臓が早鐘のように鳴っている。落ち着け、と自分に言い聞かす。
自分が彼らの話を立ち聞きしたことは誰も知らないことだ。そ知らぬ振りをしていれ
ばよいのだ。自分がここにいることは不自然なことではない。はかなげな笑みをたた
えて、玲子となにげない会話を交わしていればよいのだ。
「玲子先生。このカップ、返します」
沙耶は、何気ない調子で、そう言った。のどの奥が震えている。必死に、自分の身
体を制御しようとする。玲子は、沙耶の差し出したカップを受け取りながら、沙耶が
想像すらしていなかった恐ろしいことを口にした。
「この子、人間狩りをしているナイトメアを知っているそうよ」
そう言ったのだ。
あっ、とその瞬間は、理解が追いつかなかった。ややして、身体をもみくちゃにす
るような、心を引きちぎるような恐怖が沙耶を襲う。歯がかたかたと鳴り出して、身
体中が震え出す。悪寒が走る。沙耶は、吐きそうになって、口元を押さえた。二・三
度、軽く嘔吐する。先ほどのどを潤したミルクティと胃液と唾液が混じったものが、
沙耶の手を濡らし、ベッドのシーツの上にぽたぽたと落ちた。
「先生、あまり虐めちゃかわいそうよ。ほら、あんなに苦しそう」
にやにやと釣り上がった目で笑っている綾に、
「でも、貴重な情報よ。こんなことで犯人を捕まえられるのだから、世の中でどう転
がるかわからないものね」
想いをはせるような様子で玲子が言う。
三人のナイトメアと玲子がこちらを見つめてくる。残虐さを感じさせる、容赦のな
い笑みだ。沙耶は、口元を押さえながら、自分の運命と世界をのろった。
・・・保健室は、この学校のナイトメアたちで混雑していた。ぱっと見で十数人は
いる。沙耶は、ベッドの上に寝かされ、丁寧な扱いを受けていた。沙耶がナイトメア
たちの尋問に素直に答えていたからだ。ナイトメアたちを前にして、事実を口にする
ことを拒むつもりはなかった。翠にうらみはない。が、自分の身を犠牲にして翠をか
ばう理由もない。どのみち、拒んでも、攻め立てられて、真実は吐かされるのだ。な
らば、自ら進んで彼らに協力するのが何よりも正しいことに思えた。
ふと、薫の顔が浮かぶ。あの、ベッドに寝ている自分に優しく微笑んでくれた、そ
の笑顔だ。その笑顔の薫が自分を攻め立ててくる。自分は薫に責められるいわれはな
いと言い聞かせながらも、それを罪悪と感じている自分がいる。それを罪悪と感じて
いる自分を否定しきれない。沙耶は葛藤した。
人間狩りの正体は、逢瀬翠であると素直に告げたときの彼らの反応は、まずは驚
き、それから歓喜であった。学校のアイドルである才色兼備の美少女が、非の打ち所
のない優しさを持っていると想像されていた美少女が、実は、この街で傍若無人に人
間を狩っていたのだ。それは彼らにとっても驚きであったし、さらにその逢瀬翠を捕
まえ、自由にできるということは彼らを興奮させているようだった。
翠が犯人だと聞かされてからの彼らの動きは早かった。翠の能力をナイトメアとし
ては最高レベルのものだと予測し、この学校にいるほとんどのナイトメアを保健室に
極秘裏に集結させたのだ。今は、六時間目。通常ならば授業が行われている時間帯
だ。
「さあ、ゆくぞ、お嬢さん。逢瀬翠を捕まえにな。先ほどの偵察から、翠が教室にい
ることは確認済みだ」
リーダーらしき男が言った。沙耶がベッドから起こされる。身体の奥から湧き出て
くるような不快感に包まれながらも、彼らには逆らえない。沙耶はふらつく足で、な
んとか立ち上がった。
左右をナイトメアに挟まれ、連行されるように保健室を出る。彼らの目的地は、二
階の翠の教室だ。校舎の一階にある保健室から出て、階段に向かう。
廊下には誰もいない。ナイトメアたちは、酒場前を闊歩するアウトローの集団のよ
うに、ギラギラと目を光らせて歩いてゆく。沙耶がいるため、その速度はのろいが、
確実に翠の教室に近づいて行く。それは獲物を見つけた狩りの集団だ。廊下の幅いっ
ぱいに広がって歩くその姿は、学園の征服者だ。誰も、彼らにさからうことなどでき
はしない、それを彼ら自身がよく知っている、そんな光景だった。
その集団の前に一人あらわれた。その学生は、階段から降りてきて、ちょっと驚い
たような顔をした。沙耶たちを見渡した後、表情を険しいものに変えた。如月薫だっ
た。沙耶は、その学生、如月薫と目を合わせることができずに、うつむいた。沙耶は
足を止め、ナイトメアたちも足を止める。両者は十メートルほどの距離で、対峙し
た。
階段を下りると、廊下に人影が見えた。十数人ほどいる。一種異様な集団だ。中央
に少女がいる。捕らわれの人質のように見える。薫も知っている、月白沙耶だった。
集団の中の何人かは、薫の情報の中にあるメンバーだ。以前、クラブで挨拶を交わ
した、ナイトメア・グループのリーダーたちだ。とすれば、あの集団は、ナイトメア
・グループか。集団全体から、自信と優越と支配と他を抑圧するような雰囲気があふ
れている。獰猛な、残虐な、奔放な、気まぐれな、支配者たちの気配だ。彼らは、そ
のナイトメア独特の気配を押さえようともせずに発散させている。これから心躍る狩
りに向かうといわんばかりに、だ。と、前方から、
「あら、いつかクラブで絡んできた子じゃない。なんのよう?」
小悪魔のような、少女の声だった。薫の集めた情報の中にある。早川綾。このナイ
トメア・グループを束ねる三人のうちの一人だ。そして、ナイトメア・グループの実
質的なリーダー、都築純が、
「記憶にないが、よく覚えているな」
と、特に興味もない様子で声を出し、綾がそれに、
「私、いい男は忘れないの」
といやらしい笑みで答える。重井タケシもいる。彼は、不機嫌そうな顔で押し黙っ
ている。薫は、ナイトメアたちを見渡してから、再び、彼らに捉えられている沙耶を
見つめる。沙耶はうつむいて薫と目を合わせようとしない。なぜ沙耶は捕まっている
のか、なぜ沙耶は薫から逃げようとするのか、なぜナイトメアたちはこの学校で徒党
を組んでいるのか、そしてこのナイトメアたちはこれから何をしようというのか。お
ぼろげな想像はつく。薫にとっては、あってはならない事態だった。
薫は、説明もなにもなしに、いきなり、
「そのナイトメアの少女は、僕の恋人なんだ。放してやってほしい」
そう切り出した。はっとしたように、沙耶が顔を上げる。薫と目があう。薫が優し
く微笑むと、沙耶は辛そうに顔をそむけた。ナイトメアたちは薫を馬鹿にしたような
様子でみている。あからさまに、ぺっとつばを吐く仕草をする者もいる。
都築純が、ふっと苦笑するように笑った。手で、沙耶を放すように指示をする。ま
ずくないですか、というナイトメアの問いかけに、
「正体は知れている。ここで騒ぎを起こして、上の逢瀬翠に感付かれるのも面白くな
い。その必要があれば、また捕まえればいいだけのことだ。俺は、この月白沙耶とい
う少女よりも逢瀬翠の方を楽しみたい」
逢瀬翠という台詞を聞いて、薫は身体の奥が、かっと熱くなる。やはりと思う。燃
えるような心を抑えながら、薫は努めて冷静さを保とうとする。今の薫の『恋人』
は、眼の前の月白沙耶なのだ。ナイトメアたちにさとられてはいけない、そう自分に
言い聞かせる。
純の言葉に、沙耶は、どんと突き出されるようにして開放される。沙耶は、よろよ
ろと二・三歩前方にふらついて、床に前のめりに倒れた。
ナイトメアたちが階段奥に見えなくなったことを確認して、薫は床上の沙耶に駆け
寄った。薫は沙耶を抱き起こす。沙耶を見つめて、
「大丈夫?」
ふわっと毛布のように声をかける。沙耶は、薫を見上げて・・・緊張が崩れたの
か、その表情を一気に崩した。沙耶は顔を歪める。その目から涙が滲み出す。沙耶は
低く嗚咽を始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
と沙耶は繰り返す。
「翠のことだね」
薫の問いかけに、沙耶は、ひくひくと泣きながら、コクとうなずく。
「あのナイトメアたちは、翠を捕まえにいったんだね?」
「私、こんなことに、なるなんて・・・」
沙耶は、泣き止まない。しゃくりあげながら、薫の手を強く握ってくる。薫は、沙
耶の目尻の涙をぬぐう。頬にそっと触れ、
「今は危険なときなんだ。僕は行かなくちゃならない。一人で、保健室に行けるね」
薫が優しく語りかけると、沙耶は、その薫の言葉にびくっと拒否反応を示したよう
に、またぐじゅぐじゅと泣き始める。
薫は、焦っていた。沙耶は泣き止まない。決壊した川のように止めようがなく思え
る。こうしている間にも翠に危険は迫っている。翠を倒すとしたら、それは自分以外
にはない、そういった強い思いが沸き起こってきた。翠を他人にとられるという、嫉
妬に似た不思議な感情だった。翠を倒すものがいるとしたら、それは自分以外にはい
ない。他の誰でもない、自分の役目なのだ。身体が、燃えるように熱くなっていた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。嫉妬と、焦燥と、情熱と、使命感で、全身がふつ
ふつと沸き立っていた。
眼の前にすがるような沙耶の瞳がある。行かないで、そんな風に訴えかけているよ
うに思える。だが、行かないわけにはいかないのだ。
薫は、
「大丈夫だから。僕が、君のことを護るから」
言いながら、沙耶の唇を自分の唇でふさぐ。舌で優しく、きつく閉じられている沙
耶の唇を撫でると、その沙耶の唇が僅かに開いた。自分はペテン師だ、そう強く嫌悪
する。だが、行かないわけにはいなかいのだ。
薫は、惚けたような沙耶を床にそっと下ろすと、駆け出した。階段を跳ぶようにの
ぼり、二階に達する。勢いを落とさず、正面の壁を蹴って、方向を変える。二年二組
の前に達する。音を立てずに、扉の隙間から中をのぞいてみる。六時間目の授業中。
だが、そんな雰囲気はなかった。教室の空気は、張り詰めたように緊張していた。
逢瀬翠が席を立ち上がっている。それに寄り添うような形で三石春香がいる。その
周りをナイトメアたちが取り囲んでいる。薫はさっと数える。十五人だ。翠は追い詰
められているように見えた。翠がナイトメアとしては最高レベルの能力を持っていた
としても、周囲を十五人のナイトメアに囲まれては、できることはない。
壇上の教師は、黙って立っている。教室で起こっている事態に介入する意思は毛頭
ないようだ。教室の生徒たちも、多くが翠の方向を向いてはいるが、それを止めよう
というものはいない。彼らに逆らうことがどういうことか、なんとなく想像がつくの
かもしれない。
やがて、ナイトメアたちが、翠と春香を囲むようにして、教室から出てくる。ナイ
トメアたちは、扉の前に立っている薫をじろじろとねめつけるように見ながら、廊下
に出て行く。
翠が出てくる。翠は、扉の前に立っている薫を見て、少し目を細めて、ふっと自嘲
するような笑みを浮べた。笑いたければ笑いなさい、そう言っているような笑みだ。
立場が逆転した自分と薫を、こっけいだとあざ笑っているような笑みだ。翠が薫の脇
を通り過ぎてゆく。すれ違うときの空気の流れが、ふっと薫の肌をくすぐった。
だいじな宝物を眼の前で持ち去られるような気持ちだった。震えが止まらなかっ
た。自然と顔が歪んだ。引き離され、二度と会うことはできない、そんな風に思え
た。
振り返りたかった。翠の、その懐かしい背を見たかった。が、必死に自分を押さえ
つけた。今動いたら、翠と共倒れになるだけだと、自分に言い聞かせた。
ナイトメアたちが遠ざかった後、薫は身体にぐっと力を込めなおして、彼らの後を
追い始めた。十分な距離をとって、後をつける。ナイトメアたちは、祭りの一団のよ
うに、ときおり飛び跳ね、ときおり奇声を上げながら進み、住宅地区の高級マンショ
ンに入った。薫の情報にある。その十階建ての最上階の部屋が、彼らの根城になって
いるのだ。
彼らの部屋はこのマンションで最大のものだ。六つの部屋と二つのバスルーム、三
つのトイレ、キッチンがある。翠と春香が拘束されるとしたら、その六つの部屋のい
ずれかだろう。
薫は、踏み込みたいという衝動をぐっと押さえて、マンション向かいの喫茶店に
入った。窓際に陣取って、マンションの様子をうかがう。今踏み込むのは自殺行為だ
という明確な認識はあった。だが、じりじりと焼け付くような焦りは、抑えようがな
い。
と、マンションのエレベータが下りてくる。一階に到着したエレベータの中から、
三石春香をともなって、都築純、早川綾、重井タケシたちの一団が降りてくる。ナイ
トメア・グループは十人いた。
なぜ出てくるのか薫にはわからない。格好のおもちゃを見つけたナイトメアたち
が、そのおもちゃ、翠をほおって出てくるのが理解できない。翠をもてあそぶよりも
楽しいことがあるとでもいうのか。だが、同時にチャンスだとも思う。いま、彼らの
あじとは手薄になっているのだ。
考えている間が惜しい。春香がどこへ連れてゆかれたかも気になるが、うかうかし
ていれば、純たちが戻ってきてしまうかもしれないのだ。今この瞬間ならば、敵とな
るナイトメアは五人だ。
ぱっと薫は、マンションの概観を思い浮かべた。最上階ならば、屋上からベランダ
に降りられるはずだ。薫は、十階の彼らの部屋の前に、見張りが二人、つまらなそう
に立っているのを確認してから、屋上に昇った。
マンションの屋上は風が強かった。はたきつけるように吹き付けてくる。太陽は、
そろそろ沈み始める頃だ。長く淡い光を、空と街にまいている。
薫は、彼らの部屋の見取り図を思い浮かべる。マンション自体は一般的なもので、
ベランダは南側を向いている。ならば・・・と思いながら、薫は、フェンスを越え、
屋上の縁に立って見下ろす。ベランダと、ガラス扉が見える。案の定、カーテンが引
いてある。
特にナイトメアが陽光を嫌うということではない。ナイトメアは夜を好むだけで、
陽を嫌うわけではない。が、翠を楽しもうというナイトメアの本質は夜のものだ。そ
の心情とこの光は相容れないものだ。ならば、カーテンはしまっているだろう、彼ら
はその中で翠を楽しもうとするはずだ、そう言った確信があった。
薫は、すたっと、音を立てずに、ベランダに降り立った。そっと、中をうかがう。
このベランダに面した部屋は、十畳ほどの洋間のはずだ。残念ながら、カーテンに
隙間はなく、中の様子は見えない。が、中からは人の気配がする。しばらく、じっと
様子をうかがう。風が容赦なく、身体の温度を奪ってゆく。指が冷たくなる。が心の
中は、じりじりと焼け付くように熱かった。焦るなと呪文のように言い聞かせて、機
会を待った。三十分ほどしてだろうか。中から扉の開くような音が聞えた。
「見張りぃ、交代だぜぇ。こんないいもんがあるってのに、やってらんねえぜぇ」
ややして、部屋から出てゆく雰囲気と扉が閉まるような音。
「外で見張りなんてくそみてえなことやってたんだからよぅ、ご褒美がほしいぜぇ」
「学園のマドンナ様にもてなしてもらうってのは、どうだ」
男たちの、けっけっといういやらしい笑いが聞えてくる。
「手は出すなよ。都築さんに殺されたくはないだろう。実際に手を汚すのは重井だが
な」
「でもよぉ、我慢できねえぜぇ。三人でやっちまおうぜぇ。黙ってりゃ、わかんね
えって」
洋間には、三人いる、薫はそう判断した。今部屋から出て行った見張りが二人だと
すれば、数が合う。なおも声が聞える。
「駄目だ。俺たちはグループなんだ。俺たちには多くの自由が与えられている。その
中で、たったひとつの枷が、このグループ内での秩序だ」
「でもな、あの逢瀬翠がこうして眼の前に横たわっているのを見ると・・・そう我慢
も続くもんじゃねえんだよ」
薫は、ぎりっと冷えた唇を噛みしめた。チャンスはそう何度もない。失敗は許され
ないのだ。中からは、声が続いている。
「手をだすなと言ったはずだ。ここでお前たちを処分してもかまわないのだがな」
ガラスを破る音は、外の見張りには聞えないだろう。この風鳴りに加えて、洋間は
出入り口から一番遠い。
ぴんと張り詰めたような雰囲気を部屋の中から感じる。薫は、ガラスに張り付い
て、突入の瞬間を図る。目をつむり、全身で、部屋内の様子を感じようとする。一瞬
の間にそなえる。と、その緊張がふっと緩む。
「しょうがねぇ」
あきらめたような声が響く。
「おめぇを殺ったら、俺も戻ってきた純さんとタケシに殺られちまうもんなぁ。だ
が、代わりのおんなぁ、調達してくるぜ」
「それなら、かまわない」
短く答える声。部屋の雰囲気が、ふっと和む。
(いまだ)
薫は、思うと、躊躇することなくガラスをパリンと割って、部屋に飛び込んだ。目
をつむっていたので、外よりも暗い部屋の中もよく見える。ベッドが一つ。他には何
もない。そのベッドの上には制服姿の逢瀬翠が拘束されている。ベッド前に男が三
人。薫は彼らに肉薄する。彼らは一瞬のことに、戸惑っている様子だ。
薫は、三人の中で一番身体の大きい男を拳で打ち倒した。おそらく、翠に手出しを
することを止めていた男だ。この男が、三人の中では一番の敵だという直感があっ
た。さらに、もうひとりの腹に拳をたたきつける。男は衝撃を受け、壁にたたきつけ
られて、動きを止める。残りは一人。この段階になると、金縛りもとけている。
「このぉガキがぁ」
おそらく、翠に手出しをしようとしていた男が、飛びかかってくる。薫はその男の
後頭部に手刀をたたきつける。男は、がはっという声を残して、前に倒れた。男を倒
してから、男が逃げないで向かってくれてきたことに安堵する。もし、男が逃げるこ
とを選択して、外の仲間に助けを呼んでいたら、もっと厄介なことになっていたはず
だ。
薫は、ベッドに拘束されている翠に向き直った。制服姿の翠は全身を伸ばす形で、
四肢をベッドにくくりつけられている。ナイトメア専用の、特殊金属を使った手錠で
だ。力の強いナイトメアと言えども、これは引きちぎれない。
鍵がなければ、翠を自由にすることはできない、そう判断する。さっと床を見渡
す。可能性は半々だ、そう思いながら、翠に手出しをするなと言っていた男のポケッ
トを探った。と、ちゃりとした感覚に突き当たる。薫の期待通り、鍵があった。
のんびりしている暇はない。薫は、まず、翠の口にはめられた『くつわ』をはずし
た。同時に、はっという翠が息を吸い込む音がした。翠が二・三度、大きく呼吸をす
る。形のよい胸が上下にゆれた。翠は、両足の手錠をはずしている薫を見ながら、
「私のこと、笑いに来たの?」
そう、あざけるように話しかけてきた。
「そうじゃない。君と決着をつけるのは、僕の役目だから」
翠の両足が自由になる。さらに、薫は翠にのしかかるような形で、翠の両手の手錠
をはずしにかかる。翠の顔がまじかにある。その吐息が薫の顔にかかった。
「どう、昔抱いた女の感想は?」
からかうように、薫の下から、翠が言ってくる。
「もう一度、抱きたいと思った? 昔のように、私の肌を味わいたいと思った? 私
の中に入りたいと思った?」
「思わない。僕が決着をつけたいのは、君の心だから」
翠の両手が自由になる。と、翠はその手を蛇のように薫の首に絡めてきた。薫の足
と翠の足が交錯している。翠が甘く語りかけてくる。
「昔はこうして互いの心を確かめ合った。お互いに分かり合えている、そういう実感
があった。ほんとうに懐かしい感覚・・・」
翠の口が近づいてくる。翠が正面から薫を見つめてくる。翠の瞳がうるんでいる。
「いま、あのときの甘いとろけるような官能を思い出した・・・。でも・・・」
その翠の目が、きゅっと締まった。貫くような目線で、薫を射抜いてくる。瞬間的
な変化だった。しゅっと、翠の手刀が薫の首に突きつけられる。薫も敏感に反応して
いた。翠の首元に手刀を突きつける。
「それは幻に過ぎなかった!
そうであればいいという思い込みに過ぎなかった!
淡い、はかない、希望に過ぎなかった!
私の弱さに過ぎなかった!」
「違う!
あれは、僕と君が互いにこの世界に存在していることを確認できたということだ!
あれは、僕と君の心が互いに触れ合ったしるしだ!」
薫と翠は、今、互いにその手刀をその首につきつけあっている。それをずぶりと突
き刺せば、相手の命を奪うことができるのだ。
「ならばっ!」
翠は続けてくる。
「私を殺してみせなさい。今の私は、あの頃のあなたを否定して生きている。今の私
を殺すことで、あなたはあの頃の自分を取り戻すことができる。今の私を殺すこと
で、あなたはあのときの私がほんとうの私だというあかしを取り戻すことができる。
あなたの想いがほんとうだというのならば、私を、殺してみせなさい!」
翠の言葉が薫を激しく揺さぶった。薫は、ぐっとその手に力をこめる。身体が震え
た。たった十センチ、腕を進めればいい。それで、全てが終わる。翠の凶行を止める
ことができるのだ。狂った翠をもう見なくてすむのだ。心を蝕むような苦しみから解
放されるのだ。だが、僅かに腕を進めることが、それだけのことが、心を引き裂かれ
るように辛かった。
ふと、フラッシュバックのように、昔の翠の笑顔が浮かんだ。邪気のない、穏やか
な少女の笑顔だった。
薫の眼の前、その身体の下に、今の翠がいる。
翠は、震えていた。
親とはぐれてすがりつくものもない、そんな小さな子供に見えた。
もろく、弱々しい、助けを求めている少女に見えた。
飛び立つのを恐れて巣立ちの出来ない小鳥に見えた。
一人寂しくほえている、路地裏の野良犬に見えた。
「どうしたのっ!」
翠が、攻め立てるように、だが震える声で言ってきた。
薫は・・・翠に突きつけている手刀を、そっと翠から放した。
「ちがう」
薫はそう口にした。
翠の瞳に、驚きの色が浮かんだ。
薫は、その翠に答えるように、静かに続けた。
「君を止めるためにこの街に戻ってきた。今でも君を止めたい、そう思っている。で
も、今ここで君を倒すのは、ちがうと思った」
言いながら、優しく翠を見る。翠は、目を閉じて、僅かに震えた後、目を開き、
「弱虫」
一言短くつぶやいて、その身を薫の下から起こした。薫も、ベッドから身を起こ
す。
「僕が君を殺すとしたら、それは、僕が君に絶望したときだと思う。今、そうわかっ
た」
と、翠が、射抜くようにに薫を見つめてきて、
「ここで私を逃がしたら、ほんとうに後悔するわよ」
言いながら、乱れた制服を調える。翠は、薫をじっと見つめた後、
「いえ、必ず、後悔させてあげる」
そういい残して、ばっと部屋を飛び出していった。玄関付近で、大きな音が二回ほ
どする。翠が、見張りのナイトメアを打ち倒したのだろう。
飛び出して行く翠は、何か急いで向わなくてはならない場所がある、そんな様子
だった。薫はふっと都築純と三石春香たちのことを思い出す。思い当たる場所があっ
た。手近なナイトメア、翠に手出しをしようとしていたひょろっとした男をたたき起
こす。苦しそうにうめく男を、少々乱暴に問いただすと、男は、逢瀬山と、しどろも
どろに答えた。
そうだ、逢瀬山だと、薫は確信する。あそこには、翠の兄弟たちが隠れ住んでいる
のだ。都築純たちにとっての、『出来損ない』だ。純たちは、捕獲した翠を後回しに
して、逢瀬山の狼たちをもてあそぼうと思ったのだ。
薫は、翠のようにばっと部屋を飛び出した。
薫は、何かに祈るような気持ちで、逢瀬山の窟を目指した。
◇◇◇◇◇◇
窟に向う途中にあった大きな岩は、全て割られていた。結界が破壊されている証拠
だ。やはり、純たちはここを目指していたのだ。
窟前の大木たちを通り抜ける。広場脇の岩陰からのぞくと・・・やはり、いた。都
築純、早川綾、それに重井タケシは春香を後ろ手に捕まえている。窟入り口の結界は
破壊されていて、純粋なナイトメア=狼たち四匹が広場の真ん中に集められていた。
周囲を、人間の姿をしたナイトメア・グループたちが取り囲んでいる。彼らは、にや
にやと軽蔑と嘲笑を混ぜ込んだような目を狼たちに向けている。狼たちは、うーうー
とうなり、相手を威嚇しながらも、怯えているように見えた。
狼たち四人に、ナイトメア・グループ十人、それに三石春香。飛び出すのはためら
われた。この状況では、狼たちと意思疎通を図って統制の取れた行動はできないだろ
う。反対に、ナイトメア・グループたちは、初手は混乱しても、すぐに統制のとれた
戦闘行動に移るだろう。春香にいたっては、足手まとい以外にはなりえない。
翠の姿は見かけなかった。薫より前に飛び出した翠は、もうこの場所についている
はずだ。が、姿は見えない。薫と同じように、どこかに隠れて、隙をうかがっている
のか。
「さて・・・」
都築純が、眼の前の獲物をどう料理しようかという残虐な笑みを見せている。純
は、ふっと春香を見た。ポケットからナイフを取り出し、春香の前にぱっと放る。
「三石春香。お前はその出来損ないどもと友人だったな。戦ってみせろ」
顔を歪めながら笑ってみせる。くっくっとナイトメアたちがその純の言葉につられ
て笑う。と、重井タケシの前にいる春香が、地面に転がっているナイフを見つめなが
ら、小さな、しかしはっきりとした口調で、
「ここのことも教えました。ここへも案内しました。翠さんだけは助けてくれる約束
・・・守ってもらえますか?」
そう声を出した。
「それはお前次第だな。翠は、俺たちにとってはこの街を荒らしてきたにっくき敵
だ。お前が誠意を見せてくれれば、翠のことを考えてやってもいい」
純が答える。歯を見せながらの、誠意のかけらも感じさせない返答だ。純は、春香
の、約束を守ってくれという求めには答えず、春香が自分たちの欲望を満たすことを
求めたのだ。それを見ている薫は、二・三度、手を握って開く。機会は一度きりだ。
春香は、ぐっと唇を噛みしめると、地面のナイフと拾って、そのままゆっくり狼た
ちに近づく。狼たちも春香の様子がおかしいことに気付いているのか、戸惑っている
様子だ。
「女。出来損ないに殺されようとか思うんじゃねぇぞ。ちゃんと戦っているかどうか
なんてのは、見ればわかるんだからな」
ナイトメアの一人が声をたたきつける。春香は、ぐっと身体に力を込めるように震
えたあと、狼たちに振りかかった。なれない手つきで、ナイフを振り回す。狼たちは
それを避けながらも、どうしてよいかわからないという様子だ。
薫は、落ち着けと自分自身に言い聞かせていた。敵は十人いるのだ。慌てて飛び出
して、討ち死にするわけにはいかないのだ。眼の前の状況をしっかりと見ろ。春香
の、狼たちの、そしてナイトメア・グループの様子を、だ。この場でできる最善の策
はなにか、冷静に、氷のように冷たく判断するのだ。熱くなるな。心を静めろ。憎し
みを捨てろ。場面全体を見渡せ。
土俵の様な中で、春香が、必死にナイフを振るっている。と、ナイトメアの一人
が、
「手伝ってやるよ」
近くで背を見せていた狼の一匹を羽交い絞めにした。狼は、がぁがぁと声を上げる
が、その自由を奪われる。
「女。まず、そいつを殺れ。逢瀬翠を助けたいのならばな」
純が冷たく言い放つ。ほら、と、その狼を拘束しているナイトメアが、春香の前に
狼を差し出す。今までは、おふざけのようだった場面が、ぴんっと、一瞬で張り詰め
る。
春香の前に、狼が差し出される。ナイトメアたちが、黙って春香を見つめる。命令
するような、威圧するような鋭い視線だ。逆らえないと思わせるような、二十の瞳
だ。春香が、ナイフを構える。腕を引いて突き出す用意をする。春香は震えている。
その春香の震えが止まった。
(限界だ)
薫は判断して、飛び出した。狙うならば、都築純が望ましかったが、左右にナイト
メアを従えた純を一瞬で捕らえるのは無理だと判断した。ナイトメアたちが予想もし
ていなかった場所から、一機に肉薄して早川綾を絡め取る。薫は、綾を拘束したま
ま、ばっと広場中央まで移動し、
「動くな」
短く、しかし反逆は許さないという口調で命令した。『綾っ』と、重井タケシが叫
ぶ。春香が、ナイフを構えたまま止まる。狼を拘束しているナイトメアが、そのま
ま、ぱっと飛び退る。別のナイトメアが、素早く春香を拘束する。残りの狼たち三匹
は、薫の後ろにさっと集まった。狼たちは薫を味方だと判断してくれた様子だ。綾を
拘束した薫と、狼と春香を拘束したナイトメアたちは、対峙する形となった。
逢瀬翠は、大木の影に潜んで広場を凝視していた。
眼の前で狼たちがなぶられるのは、生きたまま身を切り裂かれるように辛かった。
狼たちは、唯一この世界で分かり合えていると思える存在だ。この世界で傷をなめ
あってきた、魂を分かち合ってきた存在だ。が、飛び出せなかった。
金環食の日は、もうそこまでやってきている。世界の形を土台から変えることがで
きる日だ。それを前にして、捕まる危険を冒すことは耐えられなかった。金環食とい
う『希望』を失うのが恐ろしかった。自分の存在意義、自分が苦悶した日々がすべて
泡と消える、そんな恐ろしさだ。
翠は、苦痛と恐怖の間で悶え続けていた。飛び出したいという衝動と、飛び出した
ら終りだという恐怖の間で震えていた。どちらかを選ぶことなどできようはずもな
い。だが、それでも、自分は選ばなくてはならない。ここで震えている自分はただの
負け犬だ、強くそう思った。
ならば・・・自分は選ぼう。
翠は狼たちを凝視した。つうと、頬を涙がこぼれ落ちた。
自分は、今まで永劫とも思える間積み重ねてきた想いのために、選ぼう。
いま滅ぼされようとしている狼たちの為に、選ぼう。
彼らが生きたという証のために、選ぼう。
幾百もの、この世界で苦しんでいる同胞のために、選ぼう。
自分は世界の形を変えるために生まれてきたのだ。
翠は、対峙している薫とナイトメア・グループを見つめた。隙があれば、狼たちを
助けるために飛び出す。隙がなければ、飛び出すことはしない。自分が選んだこと
だ。涙がとめどもなくあふれてくる。苦しい。辛い。哀しい。悔しい。だが、自分は
ここにいなくてはならないのだ。自分は生き延びて狼たちの最期を見届けなければな
らないのだ。
逢瀬翠は、濡れた瞳で広場を凝視し続けている。
薫の前方から、都築純が、鋭い笑みを向けてくる。
「あのときの小僧・・・か。こんな形で再会するとはな。名前を聞いていなかった
が」
「如月薫・・・だよ」
「なんのためにこんなことをする、とは尋ねない。お前にも俺たちの知らない事情が
あるのだろうし」
「そう言ってくれると嬉しいよ。春香とその狼を話してくれるともっとうれしいんだ
けどね」
薫は、綾の首に回している腕をぎりぎりと締め上げる。ぐっという綾のうめき、さ
らに『綾っ』というタケシの叫びが続く。
目の前の純が、ふっと馬鹿にしたような笑みを見せて、
「如月薫。今自分が優位に立っている、あるいはこのまま逃げることができる・・・
などと考えてはいないか? 俺たちは逢瀬翠を捕まえているし、見てのとおり、春香
と出来損ない一匹もこのとおりだ。それに・・・お前がこんなことをすれば、お前の
愛しい愛しい月白沙耶がどんな目に会うか想像したことあるか。お前のせいで、男た
ちに気が狂うまで輪姦される沙耶がかわいそうだとは思わないのか?」
「そうさせないためにも、この場は切り抜けないといけないと、あらためて決意して
いるところだよ。君の愛しい愛しい早川綾がかわいそうだとはおもわないのかい?」
薫は、綾の首元に手を伸ばし、締め上げる。僅かに綾のうめきが聞える。
純が、その鋭い目をさらに細める。小馬鹿にしたような笑みを浮べ、狼と春香を拘
束している男に目配せする。男二人は、にやりとそれを受ける。
「春香と狼と、二匹いたら、一匹いなくなってもいいと思わないか?」
その純の言葉に、すっと薫の血の気が引く。狼と春香の両方を人質にとられるとい
うことは予定していないことだった。薫は、都築純の恋人、早川綾を捕らえれば連中
は逆らえないだろうと予想、いや期待して飛び出したに過ぎないのだ。薫の手の内に
は最初から早川綾という手札しかないのだ。
「残念だけど、純は私の為に狼と春香を放してはくれないわよ」
綾が、少し寂しいという声を出す。
「お前はいい女で、気に入って入るが、我々に逆らったものを逃がすわけにはいかな
いんだ。わかってくれるな、綾」
「あなたのことならよくわかってるわよ、純。だてに何十回も抱かれているわけでは
ないのよ」
綾の答えは、ちゃかすようであり、だがどことなくあきらめたような哀愁を感じさ
せた。と、脇あいから、
「だめだ。狼と女は放せ、純っ!」
重井が荒い声を出す。綾っ、と重井が呼びかけ、綾はその重井にふっと笑顔を見せ
ているようだった。
「できない相談だな、タケシ。狼と女を放したら、やさしい薫君は綾を放してくれる
のか?」
純の言葉に、重井がぐっと息を呑む。純がちらと隣の男をみる。その男は、拘束さ
れている狼のところにまで行って、狼の首筋に手刀を突き付けた。
「どうする、薫君。綾を放してくれるか?」
綾を放したら終わりだ、とはわかっている。が、狼を見殺しにもできない。薫は綾
の首元に手刀を突きつけた。
「重井タケシ。その男を止めるんだ。狼が殺されれば、早川綾は殺す。どのみち助か
らないならば、綾は道ずれにする」
薫は思ってもいないことを口にした。綾を道連れにする気は毛頭ない。重井タケシ
に命令したのは直感だった。この男ならば、綾を人質にしている意味がある、そう思
えたのだ。
「やれ」
純が端的に命令する。
「やめろっ!」
重井タケシが跳んだ。狼の首筋に手刀を突きつけている男が、その手を突き出す。
男が狼の首を貫くのと、重井がその男の脇腹を貫くのは、同時だった。どさと、狼と
男が一緒に倒れる。張り詰めていた場の糸がぷつりと切れる。薄氷がぱりんと割れ
た。狼たちが雄たけびを上げてナイトメアたちに向ってゆく。薫は、綾の腹に拳をた
たきつけて気絶させる。場面は、あっという間に混乱した。
「テュテュアル、クシュアル、こっちへ!」
声が聞えた。その声の前で男が倒れ、その後ろから、逢瀬翠が現れる。やはり、翠
は機をうかがっていたのだ。ナイトメアと狼が戦闘を開始している。翠へもナイトメ
アが向っている。重井は、倒れている綾に向おうとして、邪魔になる狼とナイトメア
の両方を打ち倒そうとしている。薫は、純を狙って、その取り巻きのナイトメアと
戦っているところだ。広場前は、混乱を極めていた。
「倒れているものは気にするな。まず、敵を倒せ」
純の声が響く。純は自分では戦わず、後方から戦闘を見ている。ばっと広場から外
へと飛び出してゆくのが見える。狼を一匹抱えた逢瀬翠だった。薫も、広場に立って
いる狼がいないことをぱっと確認して、その広場から森林へ飛び出す。最悪に近い結
果だ、思いながらも、その場から逃げ出すのが先だと足を走らせた。
都築純は広場を見渡していた。狼たち三匹が倒れている。生きているようには見え
ない。早川綾には重井タケシが付き添っている。うんっと声を上げながら、倒れてい
る綾が目を開く。ナイトメア七人のうち、無事なのは四人だけだ。純はふっと笑っ
た。空を見上げると、赤く染まっている。そうだ、日が沈むのだ。ナイトメアの時間
がやってくるのだ。これから始まる、心躍る狩りを予感させるような、すばらしく甘
美な色ではないか。
逢瀬翠を逃がしたのは心外だったが、それも狩りを楽しめると思えば心地よい悦楽
となる。逢瀬翠・・・絶好の獲物ではないか。翠が抱えて逃げた狼は手負いだ。足手
まといと一緒の逢瀬翠がこの街から逃げ出すことは不可能だろう。今、この日が沈ん
だ瞬間から、かぎりない興奮と快楽を与えてくれる狩りが始まるのだ。
冷静だと自負している自分でさえ、興奮を抑えられなくなりそうに感じる。純は、
それを想像しただけで『いき』そうになった。
「街中のナイトメアを動員しろ。逢瀬翠を狩りたてるぞ」
その純の声に、残っているナイトメアたちが歓声を上げる。その声が、純の心をく
すぐる。憎むがいい。恨むがいい。苦しむがいい。怯えて逃げ回るがいい。その翠の
心を絞ったようなどろどろとした液体が、自分たちの官能を満たす果汁となるのだ。
その味を想像して、都築純は、ちらと自分の舌で唇を濡らした。
翠は、中央公園に逃げ込んでいた。いつも男を誘いこむ、雑木林の奥にいた。薫と
再会を果たした場所でもあった。地面ではクシュアルが苦しそうに息をしている。日
は既に沈んでいた。街中がざわめき始めている。ここに来る途中、この中央公園内で
も、何組かのナイトメアたちを見かけた。
あのときは自信に満ち溢れていた。自分を止めに来たと宣言した薫に向って、なら
ば殺すがいいと言い放った。それが、今はこの状況だ。薫の助けを得て、なんとかク
シュアルを連れ出しただけだ。ナイトメアに追われて、ここに逃げ込んだ自分のなん
と惨めなことか。
眼の前のクシュアルがぐううと翠に話しかけてきた。苦悶にうめくような声で、翠
を呼んでいる。翠は、苦しそうなクシュアルの手をとる。自分はここにいる、クシュ
アルにそう知らせるように、その手を自分の胸にあてた。
そのクシュアルが、苦しそうにぐうとほえながら、空いているもう一方の手で、傷
ついている自分の腹を自らちぎって翠に差し出してきた。ほらとお菓子を差し出すよ
うなさりげない仕草だった。その顔は苦痛に歪んではいたが、翠には笑っているよう
に見えた。見間違えるはずもない。クシュアルは嬉しそうに笑っているのだ。
クシュアルが意味していることはすぐにわかった。が、翠は、そんなことできな
い、とクシュアルの顔を抱きしめた。その翠の頭に、クシュアルの震える鉤爪が触れ
た。やさしくて暖かい手だった。
いずれこの場所が見つかるであろうことは翠にも予想がついている。クシュアルの
血の匂いは、ナイトメアたちにこの場所を教えるだろう。眼の前のクシュアルはもう
ほとんど反応しない。ゆったりとした呼吸に伴って、胸が上下しているだけだ。
翠に、自らの肉を差し出したクシュアルは笑っていた。幸せそうな顔だった。今ま
で翠が見てきた中で一番の笑顔だった。翠は、目を閉じてその笑顔を思い浮かべた。
唇を噛みしめる。血の味がした。ほほを雫が伝わった。身体が震える、が、翠は力
を振り絞って、そのクシュアルの腹にがっと手を突き入れた。その肉をえぐって、翠
はそのクシュアルの肉にかぶりついた。それを食い始めたのだ。
生きているうちに食べなくては意味がない。思いながら、翠はクシュアルの肉と内
臓を口の中に無理やりねじ込んだ。憎い。悔しい。辛い。惨めだ。苦しい。哀しい。
この想いを全てぶつけるのだ。全てを、壊してやる。翠は、両手と口のまわりを血と
唾液で濡らしながら、夢中でクシュアルを租借して飲み込んだ。胃の中に入れた肉が
嘔吐感とともに口の中にこみ上げてきて、またそれを飲み込んだ。翠は涙と唾液をた
らしながら、狂ったように狼を食い漁った。
翠は、ひとしきりクシュアルを喰い終わると、ゆらりと立ち上がった。さまようよ
うな足取りで、林を出て、中央公園の噴水広場に出る。たちまち、翠を狩ろうと興奮
して街を駆けていたナイトメア三人と遭遇する。
ナイトメアたちが、血塗れの翠を取り囲む。ナイトメアたちは、欲情したようなギ
ラギラとした顔を向けてくる。翠は、微塵の動揺も見せずに、すっと立っていた。
永い眠りから覚めた、そんな感覚だった。
高い空の上から地面を見下ろしている、そんな感じだった。
自分がいま、彼らからは想像がつかないような高みに立っているのがわかった。
自分を牽制するように鋭い目を向けてくる彼らが、一なぎで打ち払える小動物に見
えた。
翠は、血塗れの口で、そのナイトメアたちにむかって、吸血鬼のような笑みを浮べ
た。
なにが起こっているのか、全く把握できなかった。いや把握はできているのだが、
理解できなかった。都築純のいる十階建ての高級マンションには、次々と報告が舞い
込んでくる。街中で、ナイトメアたちが狩られているのだ。次々と、逢瀬翠に、打ち
倒されているのだ。
逢瀬翠は解き放たれた獣のように容赦がなかった。駅前で、商業地区で、中央公園
で、衆人環視の中、残虐にナイトメアたちを打ち倒し続けていた。逃げ惑うナイトメ
ア・グループのメンバーを容赦なく拘束し、引き回し、命乞いする彼らをもてあそぶ
ように引き裂いていた。街はいま、彼らナイトメア・グループにとっての地獄となっ
ていた。すでに報告に合っただけで四十人のナイトメアがゴミくずのように惨殺され
ている。日が沈んでから三時間もたっていない。
ありえないことだ。考えられないことだ。いらいらする。不愉快だ。思いながら、
純は、ソファの隣に座っている綾を抱き寄せて、その唇を奪った。そうだ。自分は都
築純なのだ。だれもが恐れ敬うこの街の支配者、ナイトメア・グループのリーダーな
のだ。純は、綾をソファの上に組み敷く。見ろ、早川綾など、自分から見れば、ただ
の雌犬に過ぎないではないか。はーはーと荒い息を綾にかける。純が、その早川綾を
貪ろうとその服に手をかけたとき、入り口付近で、ばんばんとなんどか大きな音がし
た。純が顔を上げると・・・ぎいとダイニングの扉が開いて、逢瀬翠がゆらりと入っ
てきた。
全身血塗れで氷のような微笑をたたえたその姿は、都築純でさえ、背筋に寒気が走
るものだった。翠は、手に持っていたものを、どすっと都築の前に捨てた。見張りを
していたナイトメアの頭部だった。がたがたと純は慌てて戦闘態勢をとる。隣の綾と
タケシも立ち上がっている。が、何かが違う。以前の逢瀬翠とは、雰囲気が違う。以
前の逢瀬翠は、上手く立ち回れば絡め取ることができる、上級レベルの能力者という
感じだった。自分たちの手の届く場所にいる、力のあるナイトメアだった。が、今の
逢瀬翠は、到底太刀打ちができない怪物だ。そんな雰囲気がただよっている。桁が違
うようだ。
「化物がっ」
純は思わずそう口走っていた。
「いったい・・・何をしたっ!」
苦々しく、たたきつけるが、その声は震えている。
「私は、私と魂を分かち合った者を、私の血と肉とした。以前の私とは違う。私が能
力を得たかわりに払った、気が狂わんばかりの苦悶・・・今の私の気持ちがあなたに
わかるかしら?」
翠は笑いながら、滑らかに話しかけてくる。純にとっては、おぞましくおそろしい
笑みだ。自分の心臓を鷲掴みにして喰らう、悪魔の笑みだ。
「世界の形を変えるには、まだこの街のナイトメアたちの『助け』がいるわ」
逢瀬翠は、純の前でわけのわからないことを言っている。この女は、気が狂ってい
る、純はそう判断した。が、例えそうでも恐ろしい敵には違いないのだ。
「そこの三人のうち、二人だけ助けてあげる。三人で殺し合いをしなさい」
ごく普通のことだという調子で、翠が言ってくる。翠は、もはや、冷静な判断もで
きないようだ。
「綾、タケシ、左右から回り込め。かなわないようだったら、各々脱出するぞ」
純は、端的に命令を下す。が、左右の綾とタケシが動く気配はなかった。そのかわ
り、左の綾が、
「タケシ、私、あなたの女になってあげる」
そう言ったのだ。この場面において、想像もつかない台詞だった。自分のものであ
る綾の台詞にはあるまじき、いや、綾が何を考えているのか理解に苦しむ台詞だっ
た。
「タケシ、純を倒しなさい。私のこと、欲しいでしょ」
今度の台詞で、びくんと全身が震える。綾を見ると、こちらと距離をとっている。
まるで自分と対峙するような姿勢だ。
綾が、嘲笑するような笑みを向けてくる。
「私、純のことは嫌いじゃないし、身体の相性も悪くないと思うんだけど、今ここで
死ぬのはいやなの」
呆然と見つめる純の前で綾が冷ややかに見つめてくる。
「それに、やっぱり私のことを大切にしてくれる男のほうが、ね」
綾がいい終わると同時に、背後から、うおおおという雄たけびが上がった。何かが
弾けたという咆哮だった。それとともに、背後から迫る気配がある。純は、その迫り
来る恐怖から逃れようと身を躍らせたが、それを避けることはできなかった。背中を
貫く痛みを感じる間も無く、意識が白くなる。
この街を束ねていたナイトメア・グループのリーダーの最期だった。
三 ラブ・オア・ラスト
逢瀬山の頂上に向っていた。窟の父と母と兄弟たちに行ってきますと挨拶してか
ら、汚れてもよいような質素な着物で出かけた。ほんとうは、美しく着飾りたかった
のだが、そうもいかない。手にもっている風呂敷が揺れる。わらじのしたから押し上
げてくるような土の感触が好きだった。心がはやる。慌てる必要はないのだが、つい
つい足が速くなってしまう。着物のすそが足と擦れ合う音が聞える。年頃の少女であ
ることを、無作法であることを顧みなくなってしまう。空は青く、心が吸い込まれそ
うなほど遠くまで広がっている。山は萌えるような緑だ。道の先が開けている。頂上
だ。着いた、そんな喜びと、いるのだろうか、そんな不安があった。
頂上は緑の風呂敷を敷いたようで、下草がちょうどいいじゅうたんとなっている。
周囲を見渡すと、その下草に腰をおろして遠くを見ている、質素な着物をきた背を見
つけた。
思わず、泣きそうになった。その背が振り返る。ふっとした端麗な顔がこちらを向
いて、その顔に笑みが広がる。私も、それに答えるように微笑む。
「翠、おいで」
その青年がやさしく呼びかけてくる。私は、その青年の隣にすっと座った。
「私と薫がここで会っているってわかったら、村の人たち、どんな顔をするかしら」
にこっと、私がいたずらっぽく笑うと、青年――薫――が、優しい声で、
「村の人たちには、いつかわかってもらえる。今は君たちと村は酷い関係だけど、
きっと分かり合える日が来る。そうしたら・・・」
「そうしたら・・・?」
「一緒になろう」
隣から微笑んでくる。その笑顔が私の心にしみる。視界がぼやける。瞳を手の裾で
ぬぐってもぬぐってもあふれてくる。私は、
「今日のは、傑作よ」
言いながら、持ってきた風呂敷を広げる。中から、形のよい握り飯と、木箱に入っ
た煮物と、漬物が顔を出す。薫が、美味しそうだね、と微笑んでくる・・・その顔が
・・・ぼやけて・・・視界が白くなって・・・
私は、大きな木の下にいた。私とその家族が住んでいる窟からちょっと森に入り込
んだところだ。ちょうど休めるような空間があって、大木がそれを見下ろしている。
私は薫に寄り添っている。二人とも、服は身につけていない。薫の体温と、肌のに
おいが私を包んでいる。うんっと、私は薫を感じようとして薫に抱きつく。薫が、私
の頭と髪を撫でてくれた。
「前から思っていたんだけれど、薫って、女の子みたいな名前ね」
くすくすと私は笑う。
「うん。両親は女の子が欲しかったみたいで、僕が生まれる前にもう名前をつけてい
たんだ」
「ちゃんと、男の子なのに、ね」
私は言いながら、薫の胸を撫でる。と、ぐるるとした声が聞えて、人狼の姿をした
妖が木陰から姿を現す。私は、きゃっと小さな悲鳴をあげて、手で身を隠す。
「ここにきちゃだめっていったでしょ、クシュアル。すぐに行くから」
私はそう言うと、妖はしゅんとなって、黙って去ってゆく。
「もうっ」
私は、ちょっと不機嫌だという声を出す。
「クシュアルは、ちゃんと気を利かせてくれていたんだよ。怒ったらかわいそうだ
よ」
そう言ってきた薫に、
「うん。わかってる。でも、ちょっと恥ずかしかったから」
私はそう言って薫に微笑む。薫も笑みで答えてくれる。私は、また薫の隣に寝て、
薫と一緒に上を見上げる。大きな木が広がっていて、その上にはもっと大きな空が広
がっている。
「こうしてずっとずっと一緒に暮らしてゆけたらいいね」
「うん」
その景色が、ぼんやりと溶けてゆく。意識が遠くなってゆく。ずっとこの安らぎの
中にいたいと願っているが・・・目の前に木の緑が広がって・・・自分と薫を包んで
・・・
気がつくと、森の中にいた。逢瀬山の中腹辺りだとわかる。目の前で、武者姿の女
が、ぎりぎりと歯を食いしばるようにして、ひときわ大きな人狼の胸を剣で貫いてい
る。女武者が、その剣をぐうっと引き上げるにつれ、狼の肉が裂かれ、狼が天を仰ぐ
ようにして、ごおおとほえる。頭が真っ白になる。私は、気がつくと、声を上げなが
ら跳んでいた。ひゅんと、その二人の横にまで跳躍して、その女武者の脇腹を手刀で
貫く。女武者は、あっけなく倒れた。
目の前で人狼が血塗れで倒れている。私は、眼の前の人狼にすがりついた。私は、
その狼に呼びかけながら泣き叫ぶ。が、それはもう答えない。その場所に、息を切ら
した薫が現れる。
「どうして・・・」
私はその薫に叫んだ。
「どうしてこうなるのっ!」
薫は、顔を苦悶に歪めている。苦しそうにうつむいて、だが、薫は答えない。
「父さんは貴方に会いにここに来たのよ?
その父さんがどうして襲われるの?
あたなは、どうして今頃になってここにやってくるの?」
薫は、ぶるぶると震えて答えない。その拳を握り締めて、目をきつくつむって、だ
が、答えない。
もしも、薫が答えてくれれば、自分が無実だと言ってくれれば、例えそうでなくと
も私は薫を信じることができる。薫の答えを願い待ち望む。が、薫は震えたまま答え
ない。
「どうして・・・答えてくれないの?」
私は、人狼の頭を抱きかかえながら、薫に問いかける。こんなに薫を信じたいの
に、例え騙されていたとしても、信じることができるのに、なぜ答えてくれないの、
と心の中で声を絞り出す。眼の前の薫の、たった一言を望んでいるのに、その薫は答
えてくれない。
心が乱れる。ぐちゃぐちゃになる。自分の心を絞り上げるようにして望んで、求め
て、それが与えられないとわかったとき、心の奥底から沸き起こってくる衝動があっ
た。それはむくむくと大きくなって、自分では制御できなくなる。言ってはいけな
い、精魂込めて押さえ込もうとするが、私は、口から出るのを止められなかった。
「私を・・・騙したの?」
口にしてから、その言葉の響きにぞくりとする。まだ自分の心が残っているうち
に、この気持ちを消してしまわなくてはいけない。流されるな。自分を保ち続けろ。
乱れるな。落ち着いて愛しい男の顔を見るのだ。が、口にした言葉に流されるように
とめどもなく感情があふれてくる。私は、自分の心に沸き起こった、憎悪という名の
感情をとめることができなかった。
「私を・・・騙したのね」
呪詛のような言葉だった。一言発したら、もう止まらなかった。
「私の心をもてあそんで、私を心をあざ笑って、私の身体をなぶりものにして、ほん
とうは心の奥で私を蔑んでいたっ!」
次から次から声が心の奥から湧き出てきた。洪水のようにとめどなくあふれてき
た。叫ぶことで、その憎い気持ちはさらに強く激しいものへとなっていった。
「あなたはあの冷たい村の連中とかわりないっ! 私たちを恐れる振りをしてっ!
本心では見下してっ! 自分たちとは違うものだと区別してっ! そしてっ、私の父
を殺したっ!」
「ちがうっ!」
薫が叫んだ。
「僕はそんなことは思っていない。僕は心の底から君を愛して、君と一緒にいること
を望んで、君の家族を愛しいと思っていた!」
「ならっ!」
私が叫び返す。
「なぜ、私の父は、ここで倒れているのっ! あたなが父を呼び出したのよっ! 父
は、もしかしたらあなたが私を『くれ』と告白するのではないかと、喜んで出かけ
たっ! それが・・・なんて惨めな・・・」
私は嗚咽を漏らし始める。父である狼のなきがらを抱きしめながら、それに頬擦り
する。薫が、足を踏み出す。私は、
「近づくなっ!」
そう叫んだ。
「貴様になど・・・」
その台詞に薫が、顔をゆがめる。苦痛を一身に集めたような表情だ。が、もはや私
の心の中で燃え盛る炎は消しようがない。
まるでこの男と初めて恋に落ちたときのように興奮しているのがわかった。この男
を見ると心が熱くなって止まらなくなる。ふっと笑いながら、薫を見つめている自分
に気付いた。愛しいのと、憎いのは、さして変わらないことに気付いて、おかしく思
えた。
忘れるな。この男が、私の生涯の敵なのだ。愛して、そしていま憎んでいるこの男
の姿を忘れるな。その男の像がぼやけてゆく。忘れるな。自分の中で繰り返す。この
男が、お前の・・・繰り返す中で・・・私の意識は途切れた。
目が覚めた。広めのベッドルームには二台のマホガニー製のベッドが置いてあっ
た。ベッドの脇には、サイドボードと木製のアームチェアがある。うぐいす色のカー
テンの隙間からは、透明で澄んだ朝の光が差し込んでいる。褐色と緑色を基調にし
た、落ち着いた雰囲気のクラシカルな部屋だった。
部屋には翠しかいなかった。ベッドの上で、毛布もかけずに横たわっていた。制服
姿のままだ。その制服は、血塗れだった。
頬がのりをはりつけたようにぱりぱりとしている。涙が流れてかわいた後だとわ
かった。夢の感触が、残像として残っている。寝起きにもかかわらず、翠の気持ちは
揺れていた。
全身にしみこむような余韻が残っていた。夢の中の出来事は遥か昔のことなのだ
が、つい先ほどのことのように思える。自分はいま乱れている、そう実感する。それ
が夢のせいだとわかる。自分の心と身体の奥に染み込んだ薫という男は消しようがな
い、そう実感する。耐えがたい、我慢しがたい感覚。だが、認めたくないことだが、
不思議な喜びも感じる。憎くてたまらない男が自分の中に息づいている、それは甘く
切なく哀しく憎い感覚だ。この感覚が心を支配したら、自分は耐えられずに、悶え
狂ってしまうのではないか、そんな風に思える。
しばらくベッドの上で休んでいると、その感覚が淡いものになってゆく。消えはし
ないが、心が落ち着いてゆくのがわかる。自分は、薫という男の中で、どんな感触を
与えているのだろう、そんなことを想像しながら、翠は身体を起こした。
翠は昨晩の出来事を思い出す。教室で捕らわれたこと。ここへ連れてこられたこ
と。ここで薫に助けられたこと。逢瀬山の窟でのこと。そして・・・次の瞬間、うっ
と翠はもどしそうになった。味は覚えていない。興奮していて、自分が何をしたのか
もおぼろげだが、その確かな感触だけは残っている。自分は、確かにクシュアルを食
べたのだ。翠は、その苦々しい感覚を追い払って、立ち上がった。
あの後、この街でナイトメアたちを存分に打ち倒した感覚は最高だった。やんわり
と絶頂に達し続けているような、身体を電流で刺激され続けているような、興奮に満
ちた一夜だった。その後、このマンションにきて、早川綾と重井タケシに、都築純を
倒させたのだ。綾と重井を命じて、この街に残っているナイトメアを束ねさせたの
だ。
翠は、ベッドルームのドアを開いた。調度が余裕を持って置かれた、広々としたダ
イニングに出ると、ソファに綾と重井と三石春香が座っていた。疲れているというよ
りも、重苦しいという顔つきだ。翠は、春香に何か飲むものと食べるものを作るよう
に命じると、自分は浴室に向った。
衣服を脱ぎ捨てて六畳ほどもあるタイル張りの浴室に入る。柔らかいシャワーを浴び
ると、身体中が目を覚ますような心地よさに包まれる。
ひとしきり湯を浴びて、その感覚を堪能して、翠は浴室を出た。バスタオルはな
く、全裸のままダイニングに向った。春香は、キッチンで何かを作っていたが、翠の
姿を見ると慌ててタオルを持ってきた。翠は、そのタオルで身体をぬぐうと、据付の
たんすとクローゼットをあさる。見つけた女物の下着を見につけ、彩雲学園の制服を
羽織る。誰のものかわからないが、きれいに洗濯してあった。
翠は、ふうと一息はいて、始めて微笑んだ。身体がすっきりすると、少しだけ心も
軽くなったような気がした。
「さて」
翠はつぶやいた。
「もう一人、学校に残っていたわね。私をこんな目に合わせた帳尻は合わせてもらわ
ないとね」
言いながら、翠は、口元を歪めて笑った。
一時間目はすでに始まっている。奈川玲子は、保健室の中を落ち着かずに歩き回っ
ていた。昨晩、都築純たちが逢瀬翠を捉えてからの様子がどうもおかしい。純は、あ
れ以来連絡をよこさない。逢瀬翠を攻め立てるのに夢中になっているのか。として
も、連絡一つよこさないというのは、純にしては抜けている話だ。昨晩の街の様子も
気にかかる。詳細はわからないが、街中をナイトメアたちが走り回っており、衆人の
前で殺されたものも少なくない、そういったことが、子飼いの情報屋から入ってい
た。
心がざわめく。直感が、気をつけろとささやいている。何か自分の想像もつかない
ことが起こっているのではないか、そんなことを考えてしまう。
と、保健室の扉が、がらりと開く。早川綾と重井タケシが入ってきた。綾はいつも
どおりの、ちょっと人をちゃかしたような顔をしている。対して、重井は重苦しい苦
悶するような顔だ。二人の顔を見比べて、玲子は、
「どうしたの、二人とも」
そう声をかけた。玲子は自分の声を聞いて、慎重になっている、そう感じていた。
綾が薬品棚に背をかけて、重井がベッド脇に、二人で玲子をはさみこむように陣取
る。綾が、
「どうもしないわ。ちょっと条件が変わっただけ。ほんの少しだけ、バランスが変
わった、そんな程度のこと」
綾の言っていることは意味不明だった。重井を向くと、顔をしかめて、こちらをに
らんでいる。やはり、様子がおかしい、玲子はそう判断した。ぴん、と保健室の中に
緊張が走る。玲子と綾たちが、互いを意識し始めたのだ。
「純は、いいリーダーよ。自意識過剰で、自分の能力を過信するところがあるけれ
ど、たしかに能力はあるし、みんなを束ねて的確に動かすことができる男よ」
綾は何かを思い出すように、ふっと笑った。
「でも、逢瀬翠はその純でもはかることができない女だった、それだけのこと。あ
と、純は、表面だけでもよかったからもう少し優しくしてくれればね」
「何の話?」
玲子が冷たく一言尋ねる。綾が小馬鹿にするように笑って、
「今の私たちのリーダーが、逢瀬翠だっていうことよ」
そう言った。なに?、と玲子が顔をしかめる。逢瀬翠がリーダー?、どういうこと
なのだ。疑問だらけだが、綾が冗談を言っているようには思えない。
「純が認めた、そういうこと?」
言いながら、さっと左右に目を走らせる。重心を僅かに下げて、瞬間的に動ける体
勢をとる。
「そんなこと、純が認めるわけないじゃない」
綾は言いながら、けらけらと笑った。
「ならばあなたたち二人が純に従わずにかってに動いているということね。純はああ
みえても、容赦しないわよ、綾。あなたが純の女だらかといって、彼の寛容を期待し
ているのならば、それは間違いだわ」
諭すように、玲子は綾にいう。綾は、ちょっとだけ目を閉じて、頬を緩める。何か
を思い出して笑っているような表情だ。
「純の優しさなんて期待したことはないわ。だから彼はここにいないのよ」
「?」
「純はもはやこの世界には存在しないということ。純は重井タケシに倒され、その純
の変わりは逢瀬翠が努める。今のナイトメア・グループは逢瀬翠の支配下にあるの
よ」
「な・・・に・・・?」
理解が追いつかない。話しが飛躍しすぎていて、よく見えない。重井を見る。その
重井は、確かに普段よりも重苦しい表情をしているように見える。この男が純を倒し
たというのか。ただ、確かなことは、眼の前の二人が、もはや玲子と、互いに利用し
あう関係でないということだ。
「私たちは・・・あなたを狩れと翠に指示されている」
綾は、いきなり玲子に手刀を繰り出してきた。玲子はそれを避けながら、ひゅんと
入り口に跳んだ。くるっと回転して、綾と重井タケシに向き合う。綾が、冷ややかで
貫くような視線を向けてくる。
「あなたたちが画策して、自分たちがナイトメアたちを統べるために純を陥れたと理
解するけれど、いいわね」
綾は、ごかってに、という様子で、その目を向けてくる。じりじりと、綾と重井が
こちらと対峙する。こんどは二人いっぺんに向ってくるかもしれない。そうなれば、
避けられるという保証はない。玲子は、ちっと短く舌打ちすると、保健室を飛び出し
た。
「逃げられないわよ。この街中のナイトメア全てが、すでにあなたの敵にまわってい
る」
後ろから、綾の追い立てるような声が聞えてくる。
存外の事態だった。
たった一日で、状況はここまで変化するものなのか、それが玲子の実感だった。純
はほんとうに倒されたのか、あるいはあの二人がでまかせを言っているだけなのか。
すみやかに確かめる必要がある。
どすんと、廊下を歩いている女生徒にぶつかる。女生徒は、きゃっと声を上げた
が、玲子は乱暴にそれを弾き飛ばした。じゃまだっ、と声をぶつけて倒れている女生
徒の脇を通り過ぎる。まっすぐ下駄箱に向う。生徒たちと教職員用のものが一緒の場
所にある、その下駄箱だ。
と、その下駄箱前にすっと立っている影がいる。玲子もよく見知った姿、逢瀬翠
だった。見下ろすような微笑を向けてくる。この逢瀬翠は味方ではありえない。どう
いう解釈をとったところで、自分には都合の悪い存在だ。
玲子は、速度を上げて翠に向う。以前から知っている翠とはなにか違うと思いなが
らも、その違和感を押しつぶして、右手を槍のように突き出して、翠に突進した。
ばんっと何かにあたり、気がつくと、玲子は翠の前に尻をついて倒れていた。翠の
目の前ではなく、五メートルほど離れている。翠は、先ほどと全く変わりない微笑で
こちらを見下ろしている。何が起こったのかわからない。
その翠が笑みを見せる。嘲笑するような笑みだ。
「軽く押したつもりだったんだけれど、あなたの勢いがすごかったから」
翠はそう言ってさらに深く笑った。軽く押しただけでこの自分を弾き飛ばしたとい
うのか、ありえないと玲子は翠の言葉を否定する。が、自分が翠の前で無様に尻をつ
いて倒れているのは事実だ。玲子は、よろよろと起き上がる。
「純に捕まったはずだけど、よく逃げ出せたわね」
言いながら、玲子は自分の声が震えているのがわかった。翠を見ている自分が、そ
の翠から逃げたいと感じていることも理解する。眼の前の翠に恐怖していることを
悟って、愕然とする。それを恐怖だと理解してからは、それはむくむくと大きなもの
に膨れあがった。翠の気配は通常のものではない。自分の運命を握る悪魔に対峙して
いる、そんな圧倒的な存在感だ。その翠が、
「私を捕らえるように都築純たちに命令したそうだけど」
穏やかな声音で語りかけてくる。
「そのおかげで私がどんな目にあったか、あなたには想像などつかないでしょうね」
玲子の身体が震える。歯がかたかたと鳴って止まらない。
「私など、あなたにとってみたら、どうでもいい虫けらみたいなものですものね。で
も、そんなものにすら生きてきた歴史があるのよ」
「わた、わたしはっ、」
歯が鳴って、うまくしゃべれない。玲子は、自分の顔が歪んでいるのがわかった。
自分の命を握っているものに慈悲を乞うあわれな敗者のようだ。玲子は、身体の自由
を取りもどそうと、ぐっと拳を握り締め、歯を噛みしめる。目を閉じて、ばっと、隣
にあった階段を駆け上った。一刻も早く、翠の手から逃れたい、その一心だ。
二階に登り、廊下を進む。と前方に綾と重井と五・六人の生徒が立っている。廊下
をふさいでいるような形だった。玲子、ちっと舌打ちして、今来た道を戻ろうとする
と、階段のところに翠が立っている。みたくもない、恐怖の姿だ。
玲子は、さっと左右の見渡す。右側に窓はない。左手に教室がある。玲子は、そ
の、授業が行われている教室に飛び込んだ。
逢瀬山の窟前で、翠とはばらばらになった。翠の行き先は見当もつかない。手負い
の狼を連れている翠がこの街から脱出できるとは思えない。
薫は、ナイトメアをかいくぐって、夢中で翠を探した。だが翠はみつからない。し
ばらくすると、不思議なことに、街を駆け回っていたナイトメア・グループの姿が見
えなくなった。これは、翠が捕まったということなのか、そう想像すると、口内に苦
い味が広がった。今度は、警戒も、以前とは比較にならないほど厳重になっているは
ずだ。もはや再び翠を助け出すことは不可能かもしれない。そう思うと、自分は取り
返しのつかない失敗をしたようで、心が締め上げられるように辛かった。
再び街を歩き回っているうちに、駅前や公園で惨殺された若者の話しが耳に入って
きた。翠を追っていたナイトメアたちだと想像したが、その数が多いことに驚いた。
翠が倒したにしてはありえない数字だったのだ。街のようすもおかしい。翠を捉えた
にしては、ナイトメアが醸し出す活気というか、嬉々とした欲望のにおいを感じな
い。街中が何かに怯えて息を潜めているようだ。
やがて、夜が明けた。人々がおきだす。街が、日常の活気を取り戻す。
薫は、慎重を期して、都築純のマンションを探ってみた。が、そこは、もぬけの殻
だった。洗濯機の中に、血塗れの制服と、下着を見つけた。間違えようもない。翠の
香りのするものだった。
すべてが理解できなかった。都築純は、早川綾は、重井タケシは、ナイトメアたち
はどこへ消えたのか。翠は捕まったのではないのか。ここに翠の服と下着があること
がその証拠ではないのか。だが、その翠はどこにもいない。また翠を探しに街に出る
か、と考えてから、学校へ行ってみようと思い立った。昨晩の出来事の始まりである
学校には、何かがあると思えたのだ。薫は、都築純のマンションにある制服を拝借し
て、学校へ向った。
一時間目が始まってから、慎重に純や綾のクラスをのぞいたが、誰もいなかった。
薫は自分の教室、二年二組に入ってみた。翠も春香もいない。その教室に翠が座って
いるのではないかと期待した自分を、ふっと笑う。
と、廊下を走る音が聞えた。その足音が止まり、教室後方の扉が突然がらりと開い
た。保健の奈川玲子が飛び込んでくる。血相を変えている。追われて裏道を必死で逃
げている、映画の中の犯罪者を思い起こさせた。同時に、教室前方の扉から早川綾や
重井タケシがなだれ込んできて、玲子と窓の間に入り込んだ。玲子は、その綾と重井
を前にして、身構えている。
薫は、綾と重井と玲子を見る。敵として対峙しているように見える。
玲子は、薫を意にとめることなく、綾と重井に集中している様子だ。綾は、ちらと
薫を見て、連れのナイトメアに目配せする。ナイトメア二人が、薫を敵として対峙す
るという様子を見せる。教室の空気は、ぴんっと張り詰めていた。誰かが動けば、そ
の緊張がはじける、そんな雰囲気だ。生徒たちは水を打ったように静かだ。壇上の教
師も固まっている。薫は、玲子を見ながら、
「玲子先生。翠のことを知っていたら教えてほしい。教えてくれるなら、僕は先生の
味方をすることができる」
そう語りかけた。薫が『翠』と声を出したときに玲子はびくっと反応しただけで、
その薫の提案に、玲子は答えない。じっと、脂汗を流すような険しい顔をして綾たち
に対峙している。薫は、ふうと息をついて、綾に、
「昨日いらいだね」
そう穏やかに語りかけた。綾は、余裕がある様子でふっと笑い、
「そうね」
と答えてきた。
「翠がどうなったのか、僕は知りたいんだ。君たちは昨晩、翠を追っていたはずだ。
君たちが翠を捕まえたなら、その翠の居場所を教えて欲しい」
「素直に教えて何かご褒美があるのなら、考えてあげてもいいけれど?」
綾は、ちゃかすような色目を向けてきた。
「あなたが私のペットになるのなら、教えてあげるわ。どう。悪い取り引きではない
と思うけれど」
「それは君の男娼になれ、ということかい?」
「私は自分だけ楽しむなんて野暮なことはしないわよ。ちゃんと一緒に楽しむことが
できると思うけれど」
そう答えた綾は半分本気の様子だった。薫は、あまり嬉しい提案ではないが、と苦
笑しつつ、
「かなり高額な要求だね」
「なら、私たちをたたき伏せて無理やり聞き出す? できればの話しだけど」
薫はうなった。一対五。綾たちをたたき伏せるのも一手だ。が、次々と押し寄せる
ナイトメアすべての相手ができるわけではない。翠の居場所にはかえられないという
強い思いもあった。この場だけ嘘をつくこともできる。騙すこともできる。が、それ
はしたくないことだった。遥か昔に、翠を騙したという苦い思いが、身体に染み付い
ていた。
「答えは?」
綾が、薫を攻め立てるように返答を求めてくる。薫は、口を開いて、答えようとし
たときに、
「答えは、ノーよ」
女性の声が響いた。よく耳になじんだ、間違いようのない声だった。その声の方向
を向く。開いた扉に手をかけるようにして、逢瀬翠が立っていた。青い彩雲学園の制
服を着ている。昨晩のものと違って、洗いたてに見えた。
翠が綾をにらみつける。綾が、くっと顔をしかめる。怒られた子供のようだ。
「誰がその男に手を出していいといったの。その男に手を出していいのは、この私だ
けよ」
柔らかな、でも有無を言わせない響きをもっていた。玲子がばっと反応して、横を
向く。綾と翠の両方を警戒するような態勢だ。
と、翠が、その場の緊張を全く破らずに、すっと玲子に近づいて、その玲子を絡め
取った。教室の面々は、息を飲んで、翠の様子を見つめている。当然だろう。眼の前
の翠はクラスのアイドルで学園のアイドルなのだ。優雅でしなやかで美しく柔らかい
『はずの』少女なのだ。それがどうだろう。いま彼らが眼の前にしているのは、残虐
で容赦ない吸血鬼のような、バケモノたちの支配者なのだ。
その翠が玲子を後ろ手にねじり上げる。翠は、どうということのない、軽く手を上
げるような仕草だ。が、玲子は声を上げて顔を歪める。翠は、その捉えている玲子を
全く気にする様子もなく、薫に顔を向けてきた。最愛の獲物に再び巡り合った、そん
な笑みを浮べている。翠は、玲子を邪魔だとばかり綾のほうに突き飛ばした。綾が、
どんとその玲子を受け止め、翠のかわりに捉える。
翠はいま、薫と一対一で対峙していた。薫も、その翠を見つめて、
「ぶじだったんだね」
そう柔らかく声をかけて、目尻を下げる。が、昨日までの翠とはどことなく違う、
そう感じる。その身体、心、匂い、そういった根っこの部分は薫がよく知っている翠
だ。昨日と、遥か昔と、変わりない。が、なんというか、雄々しく成長したという
か、脱皮して圧倒的に力をました、そんな感じがする。先ほどの玲子を軽くあしらっ
た場面を見てもそれがうかがえる。
「どうして君は玲子先生をナイトメアたちと一緒に追っていたのかい。どうして君は
早川綾や重井タケシと一緒に行動しているんだい。君と一緒に逃げたクシュアルは
?」
薫の質問に、翠はさらに目を細めた。
「今度あったら、無事にはすませない、私、そういったわね」
柔らかく、だが、罪びとに諭すような響きで翠は言ってくる。薫は、やや、眉をし
かめた。その薫の仕草に満足したように、翠が言ってくる。
「どうしてほしい? 四肢をねじ切ってほしい? 自分の内臓の味をかみ締めてみた
い? 自分の頭蓋骨のばりばりとわれる音が聞きたい?」
「クシュアルがどうなったか・・・僕には想像がつく」
その薫の言葉に、表情が変わるほどではなかったが、翠のほほが一瞬ぴくと震え
る。薫は、まっすぐ翠の目を見つめた。
「全てわかるとはいわない。でも、その君の想いは、僕の心に響いている。僕はそう
感じる」
翠は、ふっと嘲笑するように笑って、
「とんだ思い上がりをしているようね。あなたごときには、私のなにをもわかりはし
ない。あなたは、自分が他人をわかりたいと思い願っている、そんな幻想にすがって
いるに過ぎない。私を殺すことができなかったあなたは、しょせん現実から逃避して
生きてきたにすぎない。私は、違う。私は、あなたが幻を追っていたとき、この世界
の現実とずっと闘ってきた。この世界の成り立ちを変えるために努力してきた」
翠が目を開け、すっと薫の方に歩いてくる。薫の前に達する。お互いの息がかかる
距離で、眼の前で向かい合う。薫が手を伸ばせば、翠の背に触れることもできる、そ
んな距離だ。
翠は、高みに立ったような微笑のまま、一言、
「ひざまずきなさい」
そう言った。薫が、瞳を曇らせて翠を見る。何を言えば、何をすれば、自分の気持
ちが翠に伝わるのか。自分の気持ちをこの少女に伝えることはもはやできないのだろ
うか。そう思うと、顔が自然に歪んだ。
翠は、それを自分の言葉に対する薫の感情と受け取ったのだろうか。笑みを広げ
て、
「ひざまずいて、自分が間違っていた、おろかだったと、許しを請いなさい」
再びそう告げた。笑みを残虐な支配者のものにかえる。笑みを獲物を追い詰め欲情
している獣のものにかえる。
「玲子がどうなってもいいの? あるいは、あなたの後ろには、クラスメートたちが
いるわね」
教室が凍りつく。息を呑む音が聞える。
玲子やクラスメートの生命にはかえられなかった。薫は震えながら、ゆっくりと膝
を屈した。翠がそれに呼応するように片足を差し出してくる。薫は、黙って、その足
に口付けをした。翠の足が僅かに動いた。翠は、歓喜に震えているようだった。絶頂
に達している女性が放つ、そんな香りを翠から感じた。
翠の顔は見たくなかった。翠の中に残っている希望のかけらを押しつぶすようでそ
れが辛かった。
翠の制服が眼の前にある。と、頭にふれるものがあった。翠が薫の顔を抱きしめた
のだ。翠の腹の鼓動を感じる。こんなことは、こんな関係は、なにも望んでいない。
遥か昔とやっていることは変わりないが、お互いの気持ちはかけ離れている。不意に
こみ上げてくるものがあった。自分の瞳から雫がこぼれ落ちそうになっているのがわ
かった。それを悟った翠が歓喜にむせぶのを見たくなくて、自分から翠の腹に顔を押
し付けた。
と、薫の耳に、ばんっという音と駆け出すような音が聞えた。見えたわけではな
かったが、玲子が隙を見て逃げ出した、そうわかった。翠が薫を腹からはなす。
「追いなさい」
翠が、先ほど薫をひざまずかせたときとは打って変わって冷たい口調で命じる。ナ
イトメアたちが廊下に飛び出して行く。薫は、動けなかった。そんな自分に・・・薫
は震えた。
学校の出入り口は既にふさがれている、その可能性が高い。この彩雲学園にいるナ
イトメアは二十人ほどだ。その全員を配置したとしても、正面のスロープに、裏口、
それに丘上と下をつなぐアスファルトの階段。この三つをふさぐのでいっぱいだろ
う。逃げ道はいくらでもある。焦る必要なないのだ。が、周囲に火の手がまわってゆ
くような、逃げ場が失われてゆくような恐怖を覚える。翠の手が、自分の背後にま
わって、いましも襟首を捕まれるのではないか、そんな恐怖だ。
玲子は、校舎を飛び出した。裏手にかける。江南市を見下ろせる、風が吹き上がっ
てくる、ちょっとした開けた場所があって、そこから抜けられるようになっているの
だ。
低木の茂みの奥に入る・・・と、いきなり人影にぶつかりそうになって、急制動を
かけて止まり、跳び退る。人間にはありえない動作だったが、玲子は気にしなかっ
た。どの道、見られてもかまわない状況だったし、その相手が邪魔ならば処分するだ
けのことだからだ。
その人影から距離をとってから、あらためて見る。すっと、江南市を背にして、玲
子の逃げ道をふさぐように立っている。日本史の神楽教諭だった。
「神楽先生・・・」
玲子が驚いて声を出す。以前、玲子が食事に誘って、にべもなく断られた相手だ。
こんな状況でなければ、再び食事に誘いたい相手だ。断られたら、玲子と神楽のこの
街での立場の違いををじっくり教えてやればいい、玲子にとってはそんな相手だ。
「こんな場所でなにをやっているんですか」
言いながらも、じれている自分を感じている。神楽は涼しい様子で、
「風に吹かれていた。『彼女』に対する私の想いとはどの程度のものか、と思って
ね」
「いそいでいるので、通していただけません?」
我ながら常軌を逸している台詞だと思ったが、躊躇している間はない。これで神楽
が邪魔するようならば、かわいそうではあるが、処分するだけだ。ここで処分すれ
ば、しばらくは見つからないだろう。すぐにここから追っ手がかかるということもな
い。
考えているうちに、神楽が、すっと横を向き、玲子が通れる道を作る。玲子は、
ふっと安心して、そこを通り抜けようとする・・・瞬間・・・自分の横腹にめり込む
感覚を覚える。びびっと脳髄に激痛が走る。
その部分を見ることも出来ずに、手で探ると、自分の横腹にめり込んでいる手が
あった。うつろになる視界の横で、神楽が不敵に笑っている。
「邪魔というほどではないが、お前はしてはいけないことをしたのだから、自業自得
というものだ」
神楽の嘲るような声が耳元で聞える。ばか・・・なっ、と思う。声を出そうとして
も音がでない。視界がさらにぼやける。意識が薄れてゆく。この神楽すら、逢瀬翠の
手先だというのか、そんな思いが駆け巡る。ならば、自分は翠の手の上で踊っていた
だけではないか。自分の手の平の大きさを、翠のそれが上回っていたということなの
か。
自分の手の平で他人を躍らせるのが楽しくてたまらなかった。自分にその能力があ
ることが誇らしくてたまらなかった。自分は他人より決定的に優れていると思ってい
た。力がないものが滅ぶのは当然のことだと思ってきた。だがいま、自分は、自分が
見下し滅ぼしてきたもののように、倒されようとしている。
ああっ、と玲子は心震えていた。自分に倒されてきたものたちの想いがわかった気
がする。強いとか弱いとかそんなことが人間の優劣を決めることではなかったのだ。
他人を追いたて狩りたてていた自分が、狩られる立場になって始めてわかった。他人
よりも優れているとか優れていないとか、そんな次元の話ではない。もっと根本的な
人間の生の話だ。
残念だ。いま、自分は決定的なことがわかった、そんな気がする。それを持って生
きてゆけないのが残念でたまらない。が、よかったとも思う。最期にだが、それがわ
かった。それは嬉しいことのはずだ。嬉しい。
嬉しい。嬉しい・・・ずずっと玲子が地面に倒れる。
嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい・・・
嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい・・・
玲子は消えてゆく意識の中で繰り返した。
神楽が冷ややかに玲子を見下ろしている。地べたに這いずる虫の死骸を見つめてい
る、そんな目だ。ポケットからハンカチを取り出して、玲子の血で汚れた手をぬぐ
う。と、その神楽の後ろから、月白沙耶が、おずおずと現れた。両手を胸にあてて、
痛ましいという様子で玲子を見下ろしている。地面に倒れて動かなくなった玲子を濡
れた瞳で見つめている。神楽は振り返り、その沙耶を見ながら、諭すように、
「この女は、してはいけないことをしたのだ、沙耶」
そう声をかけた。沙耶は、
「でも、なにも、殺さなくても・・・」
神楽の後ろからそう震える声を出した。沙耶はきつく目をつむった。つつと沙耶の
頬を涙が伝わった。
「玲子先生は、ナイトメアたちの手先だったのかもしれないけれど、でも、私にはほ
んとうに優しかった」
「この女は、お前を泣かせたのだ。それは、この私にとってはしてはいけないことな
のだ」
「私は・・・兄さんの所有物じゃありません」
沙耶は、めったに見せないきつい調子で言うと、その場を走り去った。神楽は、走
り去る沙耶の背を見ながら、僅かに顔をしかめたが・・・その沙耶が見えなくなる
と、地面に目を落とし、玲子の死体の処分にとりかかった。
◇◇◇◇◇◇
夜。開けているバルコニーから、かぐわしい晩春の風がベッドルームに入り込んで
くる。翠は、その部屋で、ひとり木製のアームチェアに身を預けながら、ミルクティ
の入ったグラスを傾けていた。
昼間の、薫が自分に屈した、自分が薫を支配した場面が思い浮かぶ。歓喜にむせん
だ、あの場面だ。その感覚に浸ろうとする。それを思い起こすことは、心地いい、心
地いいことのはずだ。が、心の中でざわめくような苛立ちが起こってくる。どうして
こんなに不快なのだ。どうしてこんなにいらつくのだ。翠は、奥歯で氷を噛み砕い
た。
その苛立ちは、それを消そうとするのをあざ笑うようにむくむくと大きくなり、翠
を覆わんばかりになってくる。その翠の中で大きくなったものが、翠に語りかけてく
る。
(お前は、ほんとうは、薫の心が、欲しかったのだろう)
(ちがうっ)
翠は、それに向って否定した。そんなことはない。断じてない。自分は薫を憎んで
いる。薫は最愛の父親のかたきだ。それも、自分を欺いて、父を殺したのだ。その薫
をいまさら求めるはずがない。例えそうであっても、それは、以前の自分が追ってい
た幻の残りかすのようなものだ。そんなものが欲しかったはずは、断じてない。
が、それは続けて翠に語りかけてくる。
(薫をひざまずかせ、許しを乞わせる、支配し、自分が正しいということを確認する
というのは自分自身に対する口実で、ほんとうは薫の心が欲しかったのだろう)
(ちがうっ)
翠は、否定した。必死になってそれを否定していた。全力でそれを否定しなけれ
ば、飲み込まれてしまう、そんな恐怖を感じていたのだ。今までの自分の全てが崩れ
てしまいそうで、翠はあらん限りの力をこめてそれを否定していた。
(さびしかったのだろう。誰とも心を通い合わせることなく生きてきたのが。さびし
かったのだろう。誰とも心を通い合わせることなく生きてゆくのが。薫ならば、わ
かってもらえると、そう期待したのだろう)
「ちがうっ!」
気付くと、叫んでいた。投げ飛ばしたグラスが壁にあたり、音を立てて飛び散っ
た。一度声に出すと、もう、止まらなかった。
「ちがうっ! 断じて、ちがうっ! 私は自分の足で立って、その足で進んでいる。
薫を求めたことも、薫にすがったこともない!」
気が狂ったように、暴れ回る。シーツを引き裂き、スタンドの照明を投げ飛ばし
て、テーブルをアームチェアを打ち壊した。
ひとしきり暴れて、はぁはぁと荒い息をして部屋に立つ。仁王立ちする。部屋は激
震が走ったように荒れている。
乱れた息を整える。
そうだ。乱れることなどないのだ。自分は信じる道を進んでいるのだ。が、部屋に
ぶちまけた感情の、残り火のようなものが心の中にくすぶっている。消そうとして消
えないそれは、自分の心に根を張り息づいている芽のようだ。それを引きちぎると、
自分の心まで千切れてしまう、そんな風に感じる。それが何よりいらだたしい。
乱れるな、翠は自分に命じる。そんなものは、あの薫をひざまずかせた衝撃の余韻
のようなものだ。それが以外に自分の心を揺さぶっているに過ぎないのだ。時間がた
てば消えてしまう泡のようなものだ。
と、三石春香が、慌てた様子で部屋に入ってくる。翠は、自分の心に語りかけてい
た瞬間を邪魔されて、あからさまに不快な顔で春香をにらみつける。翠は、春香を
ベッドに突き飛ばして部屋を出た。
ダイニングで、こちらを探るように、あるいは恐ろしいもののように見ている綾と
重井など無視して、浴室に向う。そのまま衣服を脱ぎ捨て浴室に入って、温水のシャ
ワーをひねる。と頭の上から、熱い湯が降り注いだ。心地よいと素直に思う。
(世界がかわれば・・・いらだちなど一緒に消えてしまう)
頭の上から湯を浴びながら、胸中でひとりごちる。
(そのために、逢瀬山を守り続けてきた。共鳴石が、ナイトメアの血を待っている)
その湯の温かさは、乱れた翠の心まで洗い流してくれそうで・・・翠はその感覚に
酔った。
翠はいま浴室でシャワーを浴びている。ダイニングには綾と重井しかいない。綾
は、キッチンでアイスコーヒーを二つ作ると、それをソファにもってゆく。一つを重
井に渡すと、重井がすまないと答えてくる。綾は、くすりと笑って、自分もソファに
腰かけた。
そのアイスコーヒーでのどを潤す。ごくりと飲み込むとのどの奥に冷たい感触が広
がる。
逢瀬翠。いま、自分たちはその翠の下僕、あるいは奴隷として使えている。自分た
ちがいま生きていられるのは、その逢瀬翠の気まぐれのせいだ。が、このまま逢瀬翠
の奴隷として仕え続けるつもりは毛頭ない。最後には、必ず殺されるだろうからだ。
狼たちを殺した自分や重井を、あの翠が許すつもりがないことは明白だった。
ならば、逃げるのか、と綾は自分に問う。こういったら笑われるかもしれないが、
綾はそう前置きして、続ける。自分はこの街が気に入っている。自由奔放にすごして
きたこの街で、翠という鎖に縛られて動けないのは、限りなく惨めで悔しいことだ。
この街で築き上げてきたナイトメアたちのネットワークを捨てるのも悔しい。それは
歯噛みのする思いだ。
ならば、闘うのかと、綾は問う。勝てるのか、と問う。翠を倒すすべなどあるの
か、翠に弱点などあるのか、と問いかける。瞬時に浮かぶ姿があった。薫だ。如月薫
だ。あの絶対の力と完璧な能力を持った翠にも、弱点があった。昼間の、翠と薫の茶
番劇を見ていれば、一目瞭然だ。翠は薫を求めている。薫は翠を求めている。ただ、
時間が、その愛情をゆがめてしまっただけだ。ただ、長い年月が、その求める心を捻
じ曲げてしまっただけだ。自分にはそれがわかる。他の誰もがわからなくても、同じ
女である自分にはそれがわかる。
そうわかると、身体の奥がじんと濡れてくるのがわかった。綾は、瞳を輝かして、
濡れた舌でちらと唇をなめた。昼間感じた欲望が大きくなってゆくのがわかった。薫
を翠から奪ってやりたい、心底そう思った。自分を夢中になって貪っている薫、それ
を前にしている翠の顔を眺めてやりたい。薫の身体も心の自分のものにして、翠をも
支配してみたい。薫を我が物とすれば、それがあながち不可能でないとすら思えて
くる。うんっ、と綾はそれを想像して、濡れた声を出した。快感を想像して、震える
自分の両肩を抱く。
重井が心配そうな顔でこちらを見ている。
「ねえっ」
綾はつやっぽく声を出した。
「私は、如月薫が欲しい」
そう重井に告げる。重井が、はっとしたような顔で目を見開く。重井は何かを言お
うとして声にならないという様子だ。綾は色っぽく続ける。
「あの逢瀬翠の、たった一つの弱点よ。私は、あの男が欲しい。翠に対抗する、ただ
一つの手段よ」
重井は、うめいた後、一言、危険だと答えた。綾は重井に近づいて、その太い首に
手をまわす。
「わかってとは言わないわ。他の人からすれば、ただの男あさりだろうし」
眼の前に重井の肉厚な顔がある。その顔が、アイスコーヒーをもらったときのよう
な神妙が面持ちをするのだと思うと、おかしくなる。
「協力して」
綾はそういうと、反論は許さないというように重井の唇をふさいだ。
◇◇◇◇◇◇
陽がくれて、ナイトメアたちの時間になっている。街はがやがやと賑やかで華やか
だ。雑踏と、イルミネーションと、そして緑を振りまいている街路樹たち。もうす
ぐ、春も終わる。街中を抜けてゆく風も、もうその春の匂いを消してしまうだろう。
薫は、とりとめもなく、街中を歩いていた。
自分は、遥か昔、この場所が小さな村だった頃から、翠を追いかけ続けている。自
分は、翠の父親の前で立ち尽くした、ただ震えて何もできなかったあの瞬間から、一
歩も進んでいない。たった一言でもいい、あのときに翠に語りかけてやれたなら、薫
は
そう激しく自責する。
翠にひざまずいてその足に口付けをしたときの感覚がよみがえった。自分の心が翠
に届いていないと思い知らされるのが辛かった。翠の中にもはや自分はいないのでは
ないかと思えるのが辛かった。
が同時に、翠の足に口をつけている瞬間は、不思議な興奮があった。そうだ。自分
は心のどこかで翠に絡めとられることを望んでいる、そうわかる。認めたくないこと
であったが、あの瞬間、自分は、喜びに打ち震えていたのだ。
そうわかるということは、苦く切なく狂おしく悶えるような感覚だった。遥か昔に
戻れるとは思っていない。それはすでに過ぎ去った過去だ。心の中の幻の翠を追って
いるとは思わない。が、自分の中で大きく成長して根を張った翠がいる。その翠は昔
ように黒髪が美しい少女で、残虐で、容赦なく、薫を生涯の敵として憎悪に燃えた瞳
を向けてくる。自分は、その翠を止めることに夢中で、その翠の周りでぐるぐると
回っている衛星のようなものだ。ならば、自分は、その翠にすでに支配されているで
はないか、そんな風にこっけいに思えて、薫はふっと笑った。
前方に目を向ける。行き交う人々にぶつからずに歩くことも難しい、そんな雑踏
だ。その歩道脇のプランターに腰掛けている少女を見つけた。白い上品なワンピース
を着て、その姿に似合わない大きなバッグを抱えている。おかっぱ頭の、雑踏に踏み
潰されそうな花、そんなものを思い起こさせる少女、月白沙耶だった。
その沙耶の姿に、ちょっと引っかかるものがあって、薫は、声をかけた。沙耶がこ
ちらをむいて、笑ってくる。はかない中にも、意志のこもった笑みだった。沙耶は、
「私、飛び出してきちゃいました」
そう言って笑った。確かに、そんな様子だった。感情に任せて、飛び出してきた家
出少女、そんな雰囲気だ。こんな場所に座っていれば、誰に声をかけられても不思議
ではない、どこに連れ込まれても不思議ではない。格好の獲物だろう。薫はそう想像
して、ふうと大きく息をついた。
「行くあては、ある?」
「ありません。でも、なんとかなります」
沙耶は、そう言って邪気もなく微笑んでくる。薫は・・・ちょっと考えて、
「僕のところでよければ、部屋は空いている。よければの話しだけど。僕は一人暮ら
しなんだ。ほんとうのところ、男が一人の所に君がくるのは、あまりおすすめじゃな
い」
言うと、沙耶はすぐに、
「お世話になります」
嬉しそうにそう答えてきた。沙耶を自分の近くに置くのは、別の意味でおすすめで
ない。自分は、いつ、翠やナイトメアたちと戦闘になるかもしれないのだ。が、沙耶
をここにほっておくこともできなかった。自分のマンションならば、場所は割れてな
い、そういった安心感もあった。
薫は沙耶が抱えているバッグを持つ。沙耶は、すまないという様子で立ち上がる。二
人は、連れ立って薫のマンションに向けて歩き始めた。
薫のマンションは、住宅地区はずれにある。三階建ての高級マンションだ。薫は、
その三階にある自宅に沙耶を案内した。四エル・ディー・ケイの、一人暮らしには広
すぎる部屋だ。薫は、沙耶を、そのこぎれいで落ち着いた雰囲気のダイニングに案内
して、ソファに座らせた。二人分の紅茶をソファ前のガラステーブルに用意して、自
分もソファに座った。沙耶にもすすめて、自分もそれに口をつける。沙耶もつられる
ようにして、それに口をつけた。
「一休みしたら、両親に連絡したほうがいい」
薫が言うと、
「いません」
沙耶は、手に持ったティーカップを見つめて、そう静かに答えてきた。しばらく、
二人の間に沈黙が落ちる。沙耶は、じっと手の中のカップを見つめていたが、顔を上
げて、薫を見つめてきて、
「兄を止めたいんです」
そう声を出した。止めたいんです、という部分が薫自信とだぶって、沙耶の言葉は
微妙に薫の心を揺らした。
「助けてくれとはいいません。一緒に・・・闘ってください。もう、好きな人が死ぬ
のは、嫌なんです」
沙耶は、静かに続けてくる。
「身勝手なお願いだと思います。でも、私と如月さんなら、お互いに助け合える、そ
う思うんです。私にも、如月さんのために出来ることがあると思うんです。ひとりで
出来ないことも、もしかしたら、二人ならと思うんです」
沙耶の言うことは、決定的な部分がわからない。でも、きちんと筋が通った、確か
なことだ、そう感じる。薫は、
「僕には君の言っていることのほんとうの意味がわからない。それがきっと僕にも関
係のあることだとは、想像できる。でも、僕にはしなくてはならないことがある。そ
れは僕が僕であることを確認することだとも思っている。その、僕にとって大切なこ
との障害にならないのなら、僕は君と一緒に闘うことが出来ると思う。それの障害に
なるのならば、僕は君と一緒に闘うことを約束できない」
正直に答えた。この少女に嘘はつきたくなかったし、いまのこの少女には嘘が通用
しないとも思ったからだ。
沙耶は、顔に笑みを広げて、
「それで・・・十分です・・・」
そう答えてきた。無防備な表情を薫に向けてくる。その笑みが、薫の心にずきんと
しみた。自分は、この少女の信頼を守れるだろうか、そう不安に思ってしまう。遥か
昔に、同じような笑みを向けてきた少女の信頼は、守ることが出来なかったからだ。
「ほんとうは、君をここには連れてきたくはなかったんだ」
瞳を曇らせて薫は言った。沙耶は、ええっとすねるような表情をして、
「私のこと、そんなに嫌いなんですか?」
そう笑ってきた。続けて、
「私、夕食、作りますね」
沙耶が、そう言って立ち上がる。沙耶は、しばらくここにいることになるだろう。
それが、凶と出ないことを願って、薫はガラス戸を閉めた。
◇◇◇◇◇◇
薫が翠にひざまずいたその日以来、翠は学校に現れなかった。三石春香もこない。
月白沙耶は薫の自宅にいる。都築純と奈川玲子に至っては行方不明だ。全てが静まっ
て、また何の変哲もない日常が流れてゆく、表面的にはそんな風に感じる。が、その
裏で、確かに何かがうごめいていて、不気味で重大なことが進みつつある、薫にはそ
んな確信があった。
いってらっしゃいといわれてマンションを出て、お帰りなさいと迎えられるのは不
思議な感覚だった。逢瀬翠とこうして一緒に暮らすことを夢見ていた自分を思い出
す。好きだといえば好きだが、愛しているとはいえない女性と一緒に暮らすのは、戸
惑いがあった。
昼休み。屋上で風に吹かれてみる。
もしかしたら、自分は、自分のマンションにいる沙耶ではなく、この屋上に、黙っ
て薫の隣にいる沙耶を望んでいるのかもしれない、漠然とそんなことを思う。沙耶と
近づくのを怖がっているのかもしれない。分かり合えないという感覚を二度と味わい
たくない、そう思っているのかもしれない。翠と愛し合い、すれ違い、ぶつかり合
い、互いを変えようとやっきになっている、その長いときを刻んできた感覚が、自分
の肌に染み付いているのかもしれない。
(だが、それでも、伝えなくてはならない。翠は、僕の中で大きく根を張った大樹の
ようなものだ。あるいはもう一人の僕でもある。自分から逃げ出すことは、出来な
い)
と・・・
「寂しそうな顔も、けっこういいわね」
隣から声がした。見ると、沙耶のときのように、一人金網前に立っている。街を見
下ろしているわけではなく、こちらを向いている。早川綾だった。
その綾が、すっと近づいてくる。薫は、僅かに警戒する態勢をとった。姿勢には現
れないほどの、僅かな警戒だ。
綾は、薫の正面までくると、ふっと目を釣り上げてわらった。綾からはこちらを害
しようという雰囲気は感じない。綾が、薫の頬に手を伸ばしてくる。綾の手は、以外
に暖かかった。風に吹かれて、薫の頬が冷えていたからかもしれない。綾は、薫の頬
に手をあてたまま、言ってくる。
「女の匂いがする。移り香というわけじゃないんだけど、そういった『におい』が、
あなたの服と身体から、する。上品で、清楚で、はかない香り」
綾はそういって、どう、そのとおりでしょ、という調子で笑ってくる。続けて、
「あなた、見かけ以上に女たらしね」
綾はそう言った。薫は以外なことばに、ちょっと驚いたが、
「そうかも、しれない」
少しだけ微笑んで、綾にそう言った。と、綾は、突然、倒れこむように薫に身体を
預けてきた。綾の手が薫の背中に回る。綾は、火照った顔で薫を見上げてきた。
「ねえ、私のことも手に入れてみたくない?」
綾はそんなことを言ってきた。欲情したように頬が赤い。綾の吐息が、薫ののどを
くすぐった。
「どう、私の感触は。服越しだけど、すこしは感じてくれる?」
「心地は悪くない。けれど、このまま君を抱きしめたいとまでは感じない」
薫は正直にそう言った。
綾は、ちょっと不機嫌そうな表情を浮べた後、すっと薫からはなれ、先ほどよりも
鋭い笑みを浮べて薫を見つめてきた。挑戦するような、そんな笑みで、
「手を組みましょう」
そう言ってきた。薫は、即答できなかった。薫が、じっと、その綾の真意を理解し
ようと綾を見つめていると、綾は、
「私にとって、翠の下にいることは嬉しいことじゃないわ。あなたが翠をどうしたい
のかはわからないけれど、翠がこの街を押さえているのを排除するのは、お互いの得
になるはずよ」
綾は、不敵に微笑んで続けてくる。
「私は、翠の情報をあなたに教えてあげることが出来る」
「なら、君は僕に何を望む」
「翠を押さえる重しとして、この街に存在し続けること。状況によっては、翠本人と
ではなくても、翠の手下のナイトメアと戦ってこれを倒すこと。翠が私を倒そうとし
た場合、私を助けること」
どう、と言う調子で綾はその目を向けてくる。
「ほんとうは、私の情夫としても付き合って欲しいんだけれど・・・それは嫌なんで
しょ」
ふふ、と翠は笑う。薫は、しばし綾を見つめた後、
「そうだね。僕らは味方同士ではないけれど、最後の条件を除いたら、僕らは君の言
うとおり手を組めるかもしれない。僕もいろいろな目にあっているから、それくらい
の度量はあるつもりだよ」
言って、少し表情を崩した。綾の顔にも笑みが広がる。
「私たち、けっこう相性いいのかもね」
言いながら、綾は、ううんと感じたように吐息した、
「手に入らないと思うと、ますます・・・欲しくなった」
綾は、薫と無理やり腕を組んで、
「私の身体に触れたんだから、食事くらいおごってくれるわよね。二階のカフェテリ
アでいいわよ」
薫を引きずるように歩き始める。薫も、その綾の強引さに引かれるように、綾と一
緒に歩き始める。二人は腕を組んだまま、屋上を後にした。
廊下を歩いて行くと、向こうから、綾と如月薫が歩いてくる。仲良さそうに腕を組
んでいる。校舎の中だろうと、生徒たちが見ていようと、お構いなしの様子だ。綾
は、重井に言ったとおりに、如月薫に手を出したようだった。
重井の口内に苦い味が広がる。心の中がちりちりとじれるように熱い。その光景を
壊してしまいたいという衝動を押さえ込む。綾が、翠から自由になるために望んだ道
だ、と自分に言い聞かす。
二人とすれ違った。綾と薫は、おそらく屈辱に歪んだような顔をしている自分に反
応を示さなかった。それが、さらに自分の惨めさを募らせた。
重井タケシは、奥歯を噛みしめながら廊下を進み、ぐっと身体に力を入れなおして
から、すうっと扉を横滑りに開けた。失礼しますと、野太い声を出してから、部屋の
中に入った。長細い、廊下と窓に挟まれた神楽蒼樹の準備室だった。
部屋に入ると、肘掛け椅子に座って、ゆったりとこちらを見ている神楽がいた。神
楽の、まあ座りたまえ、という進めにしたがって、重井は入り口付近にあった丸椅子
に座った。ぎいと丸椅子がしなって悲鳴をあげた。神楽は、その様子を見つめなが
ら、
「何の要件で呼ばれたか、わかるか」
そう言ってきた。重井は、眼の前にいる神楽をその分厚い顔で見据えながら、
「私たちの『不良グループ』が校内で派手に立ち回っている件についてですか」
そう答えた。
射すくめるように神楽を見つめる。
この男の自信に満ちた顔も気に食わない。重井を見下したような顔も、すらっとし
た体型も、すっと鼻筋の通った顔も、気に入らない。
いかに優秀なのか、あるいはいかに自信を持っているのか知らないが、所詮このよ
うな教師の出る幕ではないのだ。神楽とて、自分たちのグループに関わらないという
のがこの学園の不文律であることくらいは承知だろう。と、その神楽が口元をゆがめ
て笑ってきた。重井を見下し、嘲笑するような笑みだ。さらに、
「それほど、逢瀬翠が恐ろしいか」
そう言ってきたのだ。はっとして、重井は立ち上がった。この男も関係者だ、瞬時
にそう悟る。自分たちの知らないナイトメアがこの学園に紛れ込んでいたのか、ある
いは奈川玲子と同じようにナイトメア・ハンターなのか。どちらにしても、放っては
おけない、と考えて、思い直す。
それは以前までの話だ。自分と綾と純がこの学園を、この街を支配していたときの
場合だ。いまは決定的に状況が違っている。この神楽というナイトメアを排除するメ
リットは何だ、そう考える。そう考えて、それが思い浮かばない。
神楽は、その重井の困惑を見越したような目で、続けてくる。
「逢瀬翠、そして逢瀬山の妖伝説を知っているか?」
「知って・・・いる」
重井はうめくように答えた。その話を持ち出す神楽の真意が、重井にはわからな
い。
「お前にはやってほしいことがある」
「この俺に命令するというのか」
「そうではない。協力し合おうというのだ。逢瀬翠を敵とする者同士で、な」
そう言って、神楽はにやりと笑った。不敵で、不気味で、自分をも飲み込むような
圧倒的な存在感だ。
「私は、遥か昔から、翠を追っていたのだ。いや、それは正確ではないな。翠がその
歪んだ希望をはぐくむのを待ち、それを打ち壊す日を待ち望んでいたのだ。翠に絶望
を与える日を待ち望んでいたのだ」
この神楽という男はなにものなのだ、重井はそう自問していた。翠に恨みを持つた
だのナイトメアなのか。だとしても、この俺をも押しつぶそうという圧倒的な威圧感
はなんなのだ。
この男は、危険だ、そう重井の直感が伝えていた。が、この男と協力すれば、翠の
支配から脱する道が開けるかもしれない、そんなことを考える。その重井に、
「綾が欲しいのだろう」
神楽はそう甘くささやいてきた。重井にとって決定的な、悪魔のささやきだった。
「今のままでは、早川綾はどんなことがあってもお前のものにはならない。が、如月
薫が、逢瀬翠が倒れれば、それを妨げるものは、何もない」
その言葉が、激しく重井の心を揺さぶった。この男の言葉に乗ってはいけないとい
う理性と、綾を手に入れたいという感情が闘っていた。
「お前にとって、大切なことはなんだ。とるに足りないことは何だ。それを考えろ。
欲しいものは何だ。いらないものは何だ。それを考えろ」
神楽が畳みかけてくる。
「お前が今まで生きてきたのは何のためだ。それを考えろ。それはお前だけのことで
はない。私自身のことでもある。何を望む。何を願う。それを実現せずに、実現する
ために命をかけずに、生きてゆけるのか」
それが、決定的な一押しだった。
そうだ。自分は綾が欲しいのだ。自分にとって唯一無二の女性である、早川綾が欲
しくて欲しくてたまらないのだ。その綾と薫の幸せを願うなどということはまやかし
だ。自分をごまかして、あざむいて、決定的に醜く歪んでいるという自分と対決せず
に逃げているだけだ。あの笑顔を自分に降り注いで欲しくてたまらないのだ。あの笑
顔を自分だけのものにしたくてたまらないのだ。あの声で自分に語りかけて欲しくて
たまらないのだ。あの綾を、自分のものにしたくてしたくてたまらないのだ。
重井は、泣いていた。自分にもすべきことが、したいことがあった。望むものが、
心から願うことがあった。それが嬉しかった。それが誇らしかった。
重井は、不敵に微笑む神楽の前で、しばらく涙をこぼし続けた。
重井タケシが部屋を出て行った。
神楽は、振り返って、窓から外を眺めた。
外は、晩春の風が舞っている。
ふっと、沙耶と紗霧の面影を思い浮かべる。沙耶は、ますます紗霧に似てきた、そ
んなことを思う。紗霧のようなきりっとした、凛としたつくりはどこにもないが、そ
れでも沙耶は母である紗霧に似ていると思う。
暗い森の中で、母が、大丈夫だからここに隠れてなさい、といって微笑んでくれた
場面を思い出す。奇襲で、あいてが油断しているから大丈夫、という紗霧の様子は、
今思えば紗霧自身に言い聞かせるようでもあった。自分なりにおぼろげながらも結末
を予想していたのかもしれない。
自分と沙耶は、木の影にかくれて、震えていることしかできなかった。母が、あの
女に貫かれる瞬間は、いまでもはっきりと覚えている。
沙耶は、ただ黙っていた。沙耶は、じっとあの女とその恋人がののしりあう場面を
見つめていた。沙耶が体調を崩すようになったのはあれ以来のことだ。
沙耶のはかなげな笑顔が浮かんだ。もしかしたら、自分は、沙耶の中に母を追い続
けているのかもしれない。自分は、永久に手に入らないものを追い続けているのかも
しれない。
神楽自身、加えて子飼いの情報やを動員して探してはいたが、沙耶の行方はようと
して知れない。沙耶を折の中に閉じ込めておくつもりはなかったが、自分の手を離れ
るのはつらかった。神楽は、沙耶を思って、唇を噛みしめた。
◇◇◇◇◇◇
深夜。重井タケシと早川綾は、ナイトメアの青年を一人つれて、逢瀬山を登ってい
た。翠に指示された場所に、ナイトメアの青年を運んでいるのだ。青年は、人気のな
い山奥に連れ出されて、不安げな顔をしている。
翠に絡めとられてから、ナイトメアをあそこに運ぶのは三度目だった。翠があの場
所で行っていることの意味はわからない。わかりたいとも思わない。この青年がどう
なろうとしったことではない。が、青年の末路は自分たちのそれをも想像させて、
ぞっとしない光景だった。
が、今晩は違う。いつまでも翠の自由にはなっていない。神楽が言ったとおりなら
ば・・・そう思いながら、重井は身体に力をこめた。
重井たち三人は、登山道から横道に入り、下草の生い茂った雑木林を抜けて、大き
な、人間十人分くらいの重さがありそうな岩の前に出た。逢瀬山の中腹辺りだ。
岩の前には、逢瀬翠と三石春香の姿があった。二人とも、重井や綾と同じような、
ジーンズに長袖のシャツという姿だ。翠は、重井たちが連れてきたナイトメアを見
て、ふっと冷たく笑った。ナイトメアの青年はここにいたって、明らかに怯えてい
た。おそらく自分よりも圧倒的に力が上だろう面々に囲まれて、自分が風前のともし
火のように感じているのだろう。重井たちのぴりぴりとした表情が、彼の不安を大き
くしているようでもあった。
「これから、どうなるか、わかる?」
翠は、その青年を岩の前に立たせながら、耳元でささやいた。青年は黙って震えて
いる。
「あなたは、新しい世界を作るための礎となるのだから、誇りを持っていいのよ」
言いながら、翠は後ろから、その青年の背や胸や首筋に手を這わせる。青年は、電
流を流されているように、びくっびくっと震えた。
いつもながら、寒々とする、不快な光景だ、重井は思う。翠は楽しんでいる。この
儀式を、この光景を、この青年の恐怖と悦楽を。自分が支配者であることを。翠は、
この儀式がもたらすであろう、何かわからない結果に酔いしれている。
翠は、その青年のうなじをさわさわと撫でた後、ふっとその手を槍の形にして、
ぐっとその青年の首を貫いた。青年の首がもげて、ごろりと地面に落ちた。頭部のな
い首から血が吹き出る。翠は、青年であったものをかたむけて、その血を岩に降り注
がせた。びしゃとバケツの水をぶちまけたように岩に血がかかり、不思議なことに、
その血が岩に吸い込まれてゆくように消えてゆく。岩がまるで、砂の塊であるかのよ
うに、だ。それにともなって、ぼんやりと岩が光る。
翠は微笑んでいた。その岩を見て、嬉しそうに微笑んでいた。思い出のこもった自
分の大切な宝物を見る、そんな目だった。
しばらく、沈黙が広がる。と、後ろから、うっうっという小さな嗚咽が耳に聞えて
きた。翠がそちらを振り返る。重井もそちらを向く。後ろで黙ってみていた春香が、
胸に両手をあてて、震えていた。小さく、嗚咽を繰りかえす。
翠が、不思議だという目でそれを見ている。そうだろう。この儀式は今に始まった
ことではないのだ。春香も何度か同席している。恐怖を、あるいは高ぶる感情を押さ
えられなくなったとしても、いまになってという気がする。
春香は、細かく震えながら、
「わたし・・・わたし・・・」
と小さな声で繰り返している。翠はそれを見ながら、
「これは、この世界を決定的に変えるために必要なことよ。あなたも、私のしもべな
らば、理解しなさい」
諭すように、しかるように言ってくる。春香は、ぐっと何かを飲み込むような仕草
の後、
「ちがうんですっ」
そう叫んだ。はっとするような響きと感触を持っていた。その声に、翠も、眉をぴ
くと震わせる。
「だめ・・・なんです・・・」
春香は続けてくる。翠は、春香の様子を見ている。僅かに、困惑が見て取れる。春
香はさらに、
「この共鳴石だけでは・・・だめなんです」
そう言ってきた。震える心をしぼったような声だった。
翠が目の動きを止める。硬直したように、その表情を止める。春香が何を言ってい
るのか理解できない、そんな様子だ。春香は訴えるように続ける。
「三ッ石の結界をとかなくては・・・ゲートは開かないんです」
翠が、まさかっという感じで、春香を見ている。ころあいだ、重井はそう思った。
翠の動きが止まっている今が、チャンスだ。
「私・・・いままで・・・翠さんのこと、だまして・・・」
春香は、今まで心につかえていたものを吐き出すように、声に嗚咽を混ぜていた。
重井は、ばっと、春香のところにまで移動し、その春香を後ろ手に絡めとった。翠の
顔が変わる。金縛りからとけたように、その表情を冷たい、冷静なものへと変え、貫
くような視線を重井に向けてきた。視線だけで重井を弾き飛ばしてしまいそうな威圧
感がある。重井は、ぐっと力をこめて、その翠を見返した。
「この街に伝わる妖伝説に、こうある。侍は、妖を退治したあと、再び妖が現れない
ように山を封印して、去ったと」
翠は、まっすぐに重井を見つめてくる。敵ながら、あっぱれな、凛とした態度だ、
重井にいたってもそう感じるほどの表情、体勢、気配だった。
重井は、続ける。自分が優位に立つためには、この場所で翠に惨殺されないために
は、翠に伝えておかねばならないことだ。
「それが、三ッ石の結界だ。三ッ石の結界は、侍がそれを守らせるために配置した三
石家の者にしかとくことが出来ない。この三石春香が、その最後の生き残りだ」
と、重井が捕らえている春香が、
「ちが・・・」
震えながら、声を出したと思ったら、突然、大きく乱れた。重井を無理やり振りほ
どこうとして暴れながら、
「違うんです。私、こんなつもりじゃ、そうじゃないんです」
春香は、止まらないという調子で、溢れるものを止められないという調子で声を上
げる。
「わたし翠さんにこんなことするつもりじゃなくて、そう伝えろっていわれて、三ッ
石の結界のことを伝えろっていわれて、でも、ほんとうにそれは伝えなくちゃいけな
いと思って、それが翠さんのためになるとおもってでもこんなつもりじゃなくて!」
春香は乱れて止まらない。重井は、その春香を羽交い絞めにして、無理やり黙らせ
る。まっすぐに見つめてきていた翠が、
「三ッ石の結界のことは、ほんとうなのね」
静かにそう言ってきた。重井は、
「ほんとうだ。そうでなければ、俺は落ち着いてここにこうしてはいられない」
言ったあと、いままで黙って立っていた綾に、
「綾、こっちにきてくれ」
そう言った。調子は冷静だったが、重井の本心は、不安に打ちおののいていた。も
し綾が重井の味方をしてくれなければ、もし綾が翠についたなら、もし綾が自分を倒
そうとしたならば・・・どうする。そのときのことは考えてはいない。考えることが
できなかった。その場合は、今こうしていることが全く無意味だということだ。
重井は、じっと綾を見つめる。すがるような視線になっているかもしれない。だ
が、見つめるしかない。いま、自分は逢瀬翠に対する切り札を手に入れている。い
ま、自分は自分で出来る最大の反撃を行っている。その気持ちを伝えようと、綾を見
つめる。綾は、しばらくじっと動かなかったが、ふっとその表情を緩めた。
「いいわ、タケシ。乗ってあげる。勝敗は、半々てとこだと思うけど、悪くない賭け
だと思う」
その綾の表情に、その綾の言葉に、重井は思わず泣きそうになった。
「おろかな・・・」
翠が見下ろすようにつぶやく。綾が重井の場所にさっと移動する。
「逃げられないわよ」
冷たく言い放つ翠に、
「それはやってみなければ、ね。こちらには三石春香がいるのを忘れないでね。春香
が死ねば、あなたが望むことも、露と消える」
翠が、目を細める。不愉快な、自分に逆らう虫けらたち、という視線を送ってく
る。
「動かないでね。追ってきたとわかったら、春香は殺す」
二人は、三石春香を抱えて、その場をあとにする。長居をする必要は全くない。重
井たちは後ろを振り返ることなく、素早く街を目指した。
「どうする?」
重井が春香を抱えながら、隣を疾駆している綾に聞く。逃げ場所は用意してある
が、そこさえも安全とは言いかねる。
「いい場所があるわ。考えてもみなかったけど、こんなときにはとっておきの場所
よ」
綾はそういって、いたずらっぽく笑った。
如月薫は、ソファに座っていた。横には、月白沙耶がいる。何をしているでもな
く、黙って、両手で紅茶のカップを支えるようにして飲んでいる。静かな時間が過ぎ
てゆく。沙耶が醸し出す穏やかな雰囲気に包まれていると、一歩一歩進んでゆく、最
善を尽くす、という決意と自信が沸き起こってくる。いままで感じたことはなかった
が、自分は、人に飢えていたのではないか、そんなことを思う。分かり合えないこと
を恐れている自分が、一番人を欲している、そう感じると自分がこっけいに思えて、
薫は自分を笑った。
ちゃりんと、隣から音がした。沙耶が、ティーカップをコースターに置いた音だ。
その沙耶がこちらを向いてくる。まっすぐで真剣な眼差しだった。両手をきちんと膝
の上にそろえて、沙耶は、
「兄のこと、お話しようと・・・思います」
そう言ってきた。沙耶なりに悩んだ末の結論だということが、そのきつい口元から
想像できた。
「兄と、逢瀬翠さんと、そして薫さんは、おそらく敵同士といっていいと思います。
私も、どうするのかと問われて、兄を止めたいという以上のことは考えていません。
でも、薫さんに話すのがいいと思いました」
薫も、その沙耶を見つめ返した。二人の目が合う。沙耶の口がゆっくりと開いて、
言葉が流れ出す・・・と思った瞬間、玄関のチャイムがなった。無粋な音だった。決
意に引き締まっていた沙耶が、瞬間、こまったような顔になる。薫も、雰囲気を壊さ
れて、内心愉快ではない。沙耶の話しは大切なもののはずだ。もう一度、せかすよう
にチャイムがなる。沙耶が、またあとで話しますからと言って、振り絞った勇気を全
て出してしまったようにしゅんとなる。沙耶に無理をさせる気にもならず、そうだ
ね、と薫は答えて、ソファを立った。
玄関で、警戒しながら、その小さなガラスの除き穴から外を見る。見間違い、ある
いは幻覚でも見たかと思い、もう一度のぞいてみる。先ほどと同じ光景だった。早川
綾と重井タケシ、それに三石春香だ。表から、
「薫っ、いるんでしょ。開けて。私よ、綾よっ」
大きな声が聞えてきた。その声を聞いて薫は眉をしかめた。様子がへんだと思う。
綾はさらに続けてくる。
「こんな夜中に、恋人候補が尋ねてきたんだから、じらすのは男じゃないわよ」
綾は、表から、どんどんと扉をたたいてくる。薫は、どうすると瞬間考えて・・・
扉のロックをはずした。狭い玄関だ。三人以外にも、多くのナイトメアが外に控えて
いたとしても、一度に襲われるということはない。それにすでにこの場所は割れてい
るのだ。沙耶を逃がすとしても、一人でというわけにもいかない。
扉が開く。綾の、にやりとした顔が現れた。続いて、扉が大きく開くに従って、重
井の重苦しくうめくような顔が、春香の沈んだような顔が、現れる。どうやら、三人
だけの様子だ。薫は警戒を解かない。すっと立ってはいるが、いつでも応戦できる体
勢をとっている。と、綾が、
「せっかく尋ねてきた女に、それはないんじゃない。私たち、もう仲間のはずで
しょ」
そう言って、勝手に入ってくる。その綾の後に、重井と春香も続いてくる。いいと
は言っていないのに、かってに薫のマンションの玄関に入ってくる。薫のことを警戒
する以前に、何かに追われている、そんな様子も見受けられる。それを肯定するよう
に、綾が、
「私たち、逢瀬翠から逃げてきたの。かくまってね」
靴を脱ぎながら、頬擦りするような笑みでそう言った。薫には事態が理解できな
い。綾と重井だけならまだしも、なぜ春香がいるのか。春香は、沈んだ面持ちでは
あったが、綾と重井に逆らう様子は見せていない。綾はすでに靴を抜いで、部屋に入
ろうとしている。重井と春香も続く様子だ。あっ、と薫は思う。まずい、そう思った
瞬間、ダイニングから綾の声が響いてきた。
「あら。月白沙耶じゃない。驚いた。最近姿を見せないと思っていたら、こんなとこ
ろで薫と同棲してたなんて」
薫がダイニングに戻ると、綾が仁王立ちして、部屋を見渡すように立っていて、そ
の部屋の隅に、沙耶がいた。沙耶は、怯えながらもちゃんと事態の成り行きを把握し
ようとしているように見えて、それが以前よりも強さを感じさせた。
綾は一通り部屋を見渡したあと、勝手にソファに座った。重井と春香も黙ってソ
ファにすわる。この場で、沙耶を巻き込んだ戦闘になるよりはましだが・・・予想し
ていなかった事態に、薫は、頭を抱えてうめいた。
沙耶が五人分の紅茶を用意して、最後にソファに座る。綾は、勝手に用意された紅
茶をすするが、その他の面々は黙って動かない。その場の沈黙をやぶったのは、やは
り綾だった。
「で、この月白沙耶との同棲は、どう説明してくれるのかしら、薫。私というものが
ありながら、この仕打ちはあんまりじゃない」
そう言った綾に、薫は、
「で、君たちがここにきたということをどう説明してくれるのかな、綾。この仕打ち
はあんまりじゃないか」
そう切り返した。綾は、その薫の答えに満足した様子だ。対して重井と春香は、
黙っている。
重苦しい面持ちだ。そこに沙耶が割って入った。
「あの、逢瀬さんから逃げてきたって、ほんとうですか」
躊躇しながらも、核心を突く質問だった。
「ほんとうよ」
「春香さんも、ですか」
「そうよ」
綾が答える。沙耶は、そのあと黙って、じっと何かを考えている様子だったが、春
香を向いて、
「逢瀬さんから逃げてきたというのは、ほんとうですか。春香さんの意志ですか」
そうまっすぐ見つめて尋ねた。春香は答えなかった。下を向いて、黙っている。場
が、春香の答えを待つようにしんとなる。が、それをさえぎるように重井が、
「ここにいるということは、その道を選んだということだ。黙っていようと、翠の元
には戻れん」
その言葉に、春香が、顔をゆがめる。それを見て、沙耶が顔を曇らせる。
薫は、ふうとため息をついた。大体状況はわかった。綾と重井は自分の意志で、春
香は状況に追い込まれて、翠から逃げ出してきたということだ。
「翠がこの場所を知っているということは?」
薫は、綾に聞いた。綾が、
「たぶん、いえ、きっと知らないわ」
そうはっきりと答えてくる。薫は続けて、
「君たちが後をつけられたという可能性は?」
「それもないと思う。私やタケシなら、後をつけられれば、たいていわかる。翠も、
春香が殺される危険は冒さないと思う」
「そうだね」
薫も納得して答えた。その後、薫は少し考えたあと、
「こんな状況で、一緒にお茶を飲みながらいまさらだけれど、僕は君たちをかくまお
うと思う。正直、僕らは互いにまだ信用しきれていない部分があるけれど、お互いに
協力する意義は十分にあると思う。なにより、僕は綾と約束したからね。ただ・・
・」
薫は三人を見つめながら、
「沙耶の承諾が条件だ。ここの住人は僕だけじゃない。沙耶が納得しなければ、沙耶
が嫌だというなら、君たちの居場所は別に用意する」
そう付け加えた。薫は沙耶に向き直る。と、沙耶は、
「私は、かまいません」
そうすぐに答えてきた。
「正直に言うと、早川さんや重井さんを怖いと思う気持ちはあります。でも、いまは
一緒に闘わなくちゃいけないと、そう思います」
確かに、言葉尻も僅かに震えている感じもする。が、沙耶の気持ちははっきりして
いる、そんな声音だった。その沙耶が、うっすらと綾に笑みを見せる。強くはない
が、自然さを感じさせる笑顔だった。
「そうと決れば」
綾が、うんっと背伸びをする。一気にリラックスした様子で、
「シャワー借りるわね。汗でどろどろ。男と一緒に汗にまみれるのとは違って、あま
り心地よくなくて」
ふうと重井も大きく息をはく。ダイニングは柔らかい気配に包まれた。
「私、何か食べるものを作ります」
沙耶が気付いたという風に言ってくる。
「和食がいいわね。お風呂上りに、コーヒー牛乳なんてのもいいかも」
「コーヒー牛乳はないですけれど、コーヒーに牛乳を混ぜればいいと思います」
綾と沙耶が、笑みを交わす。男同士ではありえないような、女性たちならではのも
のに思える。綾が浴室に向かい、沙耶がキッチンで仕事を始める。薫のマンション
は、新しい客をむかいいれ、賑やかにその夜をふかしてゆくようであった。
逢瀬翠は、その三階建てのマンションを見上げながら、ふっと目を細めて笑った。
上手く隠れたつもりなのだろうが、自分から逃げられるわけがないのだ。春香には、
自分の血を与えてある。どこへ行こうと、その血が場所を教えてくれるのだ。
こそこそと奇襲をかけるつもりはない。自分に逆らう連中は、堂々と打ち倒すのみ
だ。三石春香の身柄も確保しなくてはいけない。三ッ石の結界を解けるのは確かに彼
女だけなのだろう。その点だけには注意しなくてはならない。あとは、とるに足りな
いことだ。敵が何人いようと、たいしたことではない。翠は、もう一度、おろかな反
逆者の末路を想像するように笑みを浮べると、マンションの入り口をくぐった。
テーブルは賑やかだった。四人掛けの長方形の木製テーブルに、五人が掛けてい
る。テーブルの上には、竹の子とふきの煮物だとか、ぶりの煮付けだとか、そういっ
たものが所狭しとならんでいる。綾が、薫をちゃかし、薫がそれを落ち着いていな
す。沙耶が微笑み、重井と春香が押し黙っている、そんな不思議な食卓だった。
食事が終わると、沙耶と綾が後片付けをした。始めは、沙耶が一人ですると言って
いたのだが、綾が手伝うと言い出して、普段は助けを認めない沙耶が不思議と綾の手
助けを認めたのだ。
ソファに座っている薫から、綾と沙耶の背が見える。キッチンに並んでいる。お
かっぱ頭の黒髪の少女と、ポニーテイルのお転婆な少女の、背だ。
重井と春香は、薫の斜め前のソファで休んでいる。見ようによっては、重井は常
時、春香を監視しているようにも見える。
綾が食後のお茶を運んでくる。以外と、似合っている、そんなことを思う。綾が、
ソファの前のテーブルにお茶を置く仕草は、結構様になっている。薫がじっとその綾
を見つめていると、綾が無邪気に笑って、子供の頃は結構な家に育って厳しくしつけ
られたのよ、と言った。
沙耶は、浴室へ向ったようだった。しばらくして、浴室の湯のランプが点灯する。
浴室で湯を使っているというしるしだ。
綾は、お茶を給仕して、自分もソファに座る。薫の隣に、だ。身体をソファに預け
て、息をつく。翠から逃げ出してきた一日。綾といえど、消耗した様子だった。
その綾が、薫の肩に頭を預けてくる。いやらしさのない、素直な仕草だった。気付
くと、綾は、すーすーと寝息を立てている。薫はその綾の寝顔を見る。普段の綾から
は想像も出来ないような、無邪気な顔をしている。まるで子供のようだ。薫は、黙っ
て肩を貸しながら、もうしばらくしたら綾をベッドに移そう、そんなことを考えてい
た。
扉の前に立つ。三○六号室だ。通路に面しているらしい浴室からは、お湯らしき音
が聞えてくる。翠は、のんきなものね、とふっと笑った。浴室から春香の『匂い』、
春香に与えた自分の血の匂いは感じない。浴室の中にいるのは綾であろうか。重井
か。あるいは、二人仲良く入っているのか。
まあ、どちらでもよい。春香を確保するのが先決だ。思いながら、ずぶりと金属製
の扉に手を突っ込み、鍵穴ごとねじ切る。まるで粘土のように、扉の一部がちぎりと
られた。翠は、そのまま、扉を開けて中に入る。浴室の前を抜ける。浴室にいるであ
ろう綾か重井は後でゆっくりと始末すればよい。思いながら、ダイニングの扉に手を
かける。
改まって心の準備をする必要はない。今の自分ならば、どんな状況にも対応できる
だろう、そう言った自信があった。翠は、ナイトメアたちが泣き叫ぶ場面を想像し、
笑みを浮べながら、その扉を開いた。
ダイニングの扉が開く音がした。沙耶が浴室に入っている時間は大体決っている。
いつもよりずいぶん早いな、などと思いながら、扉の方を向いて・・・薫は息を呑ん
だ。逢瀬翠が、どうということもないという様子で、入ってきたからだ。
扉を閉めながら、逢瀬翠がこちらを見渡し・・・その目が薫でとまる。冷笑を浮べ
ていた翠の顔が、さっと険しいものに変化する。翠が、貫くような視線を投げつけて
くる。なぜお前はここにいるのだ、と。
この時点に至って、場の雰囲気は一変していた。薫は、立ち上がって、翠と対峙し
ている。重井と、そして、寝ていた綾も場の緊張を敏感に感じたのか、はっとおき
て、身構えている。春香もたって、翠に顔を向けられないという様子で下を向いてい
る。翠は、ちらと重井、綾、春香を見た後、薫に射抜くような、槍の様な視線を向け
て、
「なぜ、ここにいるの」
底冷えのするような声で答えを要求してきた。
「ここは・・・僕の家だ。この街にきてから、ここに住んでいる」
「ならば、なぜ、その三人がいるの」
翠は、その視線と語調を、いささかも緩めずに、攻め立ててくる。
「綾と重井が尋ねてきた。それ以上でもそれ以下でもない」
うめくように訴えるように、薫は答える。と、綾が、
「薫は、あなたではなく、私の味方をしてくれるのよ。あなたより、私を選んだの
よ」
目を吊り上げて、翠を馬鹿にしたような笑みを送る。薫の背筋にぞくりと悪寒が
走った。全身の毛が逆立つ。が、綾は薫を気にする様子もなく、あるいは、そんな薫
をも計算にいれて、続けてくる。
「薫の匂いは、薫の肌は、ほんとうに気持ちよかったわ。薫は、私を攻め立てて支配
して堪能し、私も薫を味わって何度も達した」
翠の表情が、冷たく、さらに氷のようになってゆく。が、薫を見ている目は、炎の
ように赤く染まっていた。
「綾の言っていることはでたらめだ」
薫は、思わず感情的に声を上げるが、翠の熱い瞳はいささかもその温度を下げよう
としない。翠は、ふっと口元をゆがめた。
「その早川綾が言っていることがでたらめだとして、でもあなたと綾がここに一緒に
いることは真実ね」
翠は、静かに、だが、鋭い毒気を含んで言ってくる。
「その女が、あなたの肩に頬をよせて寝ていたのも、でたらめだというのかしら」
「僕は、綾たちをかくまうことを決めた、綾とはそれだけに過ぎない。確かに、綾と
手を組むことは約束した。だがそれは、君のことを知るためだ。君は、僕の手の届か
ないところに行こうとしている」
薫は、必死に言葉を絞り出していた。対して、翠は、相変わらず燃えるような目
で、冷ややかな調子だった。
「あれほど私に気持ちを伝えたいと言っていた男が、これだものね。所詮、この世界
の真実なんて、まやかしに過ぎない。綾は、私より心地よかった? 綾は、私よりい
い声で鳴いた?」
「なんでわかってくれない。なんでわかろうとしてくれない。なんで自分の勝手な推
測で物事を決め付けようとする。なんでそんなに簡単に結論付けられる」
「なら、いま浴室で湯を浴びているのは誰なのかしら。女性の気配というか、匂いが
したけれど。私に語りかけようとしながら、他方では他の女に心を砕いている」
だんだん翠の言葉が熱い調子を帯びてくる。
「所詮あなたは女ならばなんでもいいに過ぎない。私を止めたいなどというのも、古
臭い自分勝手な感傷に過ぎない。自分が大切で、自分がかわいくて、他人のことなど
考えようともしない。いや、考えていると思い込んで、自分を納得させている!」
翠は、うなされているように続ける。
「あなたは、昔からかわらない。私の心を揺さぶって、もてあそんで、なぶりものに
して、そうして涼しい顔をしている。自分の心が通じないと言って、私を攻め立てる
!」
翠は、この部屋に入ってきたときとは別人のように乱れていた。翠は止まらないと
いう様子だった。翠の声は、叫びに近かった。
「私のことを、私の苦しみとか憎しみとかを理解しようともしないで、それを止める
べきことだと決め付けている! しょせんっ、わかりはしないっ! ならば、全てを
壊し、破壊する! ここにいるもの全てを殺して、私は自分の自我をきさまから取り
戻す!」
「それは、許さないっ!」
薫も叫び返していた。翠の乱れた姿は、薫の感情を大きく揺さぶっていたが、その
翠がその感情に任せて綾や春香や沙耶を殺すことは、認めることが出来なかった。
「あ・・・」
薫の声を受けて、思わずこぼれたという声だった。翠が、その頬に手をあてる。そ
の頬を流れ落ちた雫を手でなぞってみて、自分が涙をこぼしたのだと理解している、
そんな様子だった。翠は、自分の頬を触りながら、細かく震えていた。自分の感情が
わからずに戸惑っている、そんな様子だった。と、
「哀しいか、逢瀬翠」
薫の背後から声がした。翠が哀しんでいるのを心底嬉しいと感じている、そんな声
だった。振り返ると、ベランダにすっと立って、そこから部屋に入ってくる男がい
た。
薫の記憶にある。彩雲学園教師の神楽蒼樹だ。薫が予想すらしていなかった人物
だった。その神楽は、部屋に入ってから、もう一度、
「哀しいだろう、逢瀬翠。お前の心が届くものは、お前の味方は、もはやどこにもい
ないのだ」
そう言った。薫は、はっとして、
「そんなことは、ない。僕は、遥か昔から、翠から一歩も離れていない」
翠に向けてそう言った。
薫は、翠に伝えようとして必死に見つめている。翠は、神楽に対する憎悪を押さえ
られないという様子で、濡れた瞳でにらみつけている。神楽は、涼しい、余裕がある
という様子で翠を眺めている。綾、重井、春香は、その三人に挟まれて、動くに動け
ない、そんな様子だった。
場は、緊張で、一瞬しんとなったが、ぎいとダイニングの扉の音がした。身体にバ
スタオルを巻いた、沙耶が、現れる。様子が変なダイニングを見にきた、そんな無防
備さだった。目の前の翠の背を見て、はっと立ち尽くし、さらにダイニングを見て、
「にい・・・さん・・・」
口元を押さえて、小さくそう言った。
その瞬間、場の緊張が、一気に崩れた。場が、うねりのように大きく乱れる。
「沙耶っ!」
神楽が、驚きを隠せないという様子で、叫ぶ。翠が、さっと素早く背後を向いて、
その沙耶と絡め取る。神楽も動いている、翠の方向に跳びながら、途中で止まり、薫
の首に腕を巻きつけてくる。沙耶が現れた二、三、秒後には、ダイニングの状況は一
変していた。
沙耶を絡めとった翠と、薫を拘束した神楽が対峙している。
「沙耶っ、なぜここにいるっ!」
先ほどの涼しげな様子からは想像もつかないほど動揺した様子で、神楽が薫の後方
から問いかけている。
「にいさんこそ、なんでっ」
その細い声が、沙耶の答えだった。神楽は、
「如月薫っ、きさまが、沙耶をっ!」
そう言って、薫の首に巻きつけた腕を締め上げてきた。薫の首に神楽の腕がぐいぐ
いと容赦なく食い込んでくる。
「やめてっ、兄さん!」
前から、沙耶が細い声を上げて、神楽に訴えかけてくる。が、神楽は、我を忘れた
ように、
「こんな男にたぶらかされてっ!」
薫を締め上げてくる。薫は、声を出そうとしているのだが、それが出ない。脳に通
う血を止められて、薫の意識がぼやけてくる。
「やめなさい、神楽蒼樹」
こんどは、翠の声が響いた。薫の前で、沙耶の手をねじ上げている翠がぼんやりと
見える。曇りガラスの向こう側の景色のようだが、見える。沙耶の顔が苦痛に歪んで
いる。翠は、片手で沙耶の腕をねじ上げると同時に、もう片方の手で、沙耶のバスタ
オルに隠れた胸をぎゅうとしぼった。
「いたいっ」
沙耶が、泣きそうな声を上げる。同時に、薫の首に絡んでいた神楽の腕が緩み、薫
は、ごほっごほっと咳き込みながら息をついた。
「いい選択ね。その男を嬲り殺していいのは、私だけ。人の獲物を横取りするハイエ
ナのような男にも、妹がかわいいと思う気持ちがあるようね。というより、この女が
・・・」
翠が、沙耶の首筋をそっとさする。沙耶が、あっと細く声を上げる。
「自分の妹であることが、悔しくてたまらないんでしょう。私の言っている意味、わ
かるでしょ。その縛りがある限り、この女をほんとうに手に入れることはできない・
・・」
「雌犬らしい考え方だな。私が沙耶をどう思っているのかなど、想像もつかないのだ
ろう」
「人を大切にする、大事に思うという部分はわかるわ。でも、それとともに、あなた
の中にある、この女を手に入れたい、自由にしたい、支配したい、自分のものにした
い、という欲求は隠しようがない」
「汚らしい手で、沙耶に触れるな、淫売。沙耶は、お前ごときがふれていいものでは
ない。それ以上沙耶を虐めるつもりならば、このお前の男の首をねじ切るが・・・」
ぴんっと糸を張ったように、翠と神楽の間に緊張が張り詰める。翠は、薫の背にい
る神楽を見据えているようだ。神楽からも、翠を見据えている気配が伝わってくる。
「沙耶を放すならば、この場は助けてやってもいいが・・・」
「それはこちらの台詞でしょ」
再びにらみ合う気配。
「あなたが、どれほどこの女を大切に思っているのか、わからないとでも思っている
の? 薫と相打ちでは悔やんでも悔やみきれないでしょう」
「お前が、この男をどれほど愛しているのか、わからないとでも思っているのか?
沙耶と相打ちでは割が合うまい」
互いにそう言って、二人とも、ふっと笑った。
「まあ、納得できない部分があるけれど、互いに手詰まりだということはわかった
わ。どう、交換しない?」
「それでいい。が、口約束でかまわないから、この場では戦闘はしないと約束しない
か」
「私もそのほうがいいわ」
翠は、ふっと気配をやや緩めた後、再び神楽を見据えて、
「まず、薫から手を放して、立たせなさい」
言いながら、翠は沙耶を自由にして前に立たせる。ただ、その肩には翠の手がぽん
と置かれていて、沙耶が歩き出せないようにはなっていた。あの手を振り払って飛び
出すことは、恐ろしくてできないだろうと思える。
薫の首に巻かれていた神楽の腕が離れる。薫は、両手を後ろ手に拘束されたまま、
神楽の前に立たされた。振り切って逃げることもできるが、選ぶにはあまりにも危険
すぎる。自分ひとりが逃げ出せればいいという状況ならば、考えないこともないが、
歯噛みをしつつ、神楽の前に立っている。
「ゆっくりカウントするから、一歩一歩あるく。いいわね」
翠が、言ってくる。続けて、一、と翠が声を出した。
沙耶が、翠にぽんと背中をたたかれて、一歩踏み出す。薫も、一歩踏み出した。
「二」
翠の声に従って、薫は足を出す。前の沙耶も少し近づいた。
「三」
沙耶と互いにふれることの出来る距離にまでくる。目の前に沙耶の顔があった。も
ろく崩れそうな、でも必死に耐えている、そんな顔が間近にあった。
「四」
沙耶と交錯する。このまま、互いに進んでゆけば、とりあえず沙耶の安全は確保さ
れる。この場で収拾のつかない戦闘にするわけにはいかないのだ。
自分の表情の変化が、事態を変えてもいけない、それだけ薄氷を踏むような場面
だった。翠にその気持ちを伝えたいと願っている自分は、その翠と神楽に束縛されて
自由に歩けもしない。こっけいな自分を素直に笑えもしないのかと思う・・・その瞬
間、
部屋の電灯がいきなり消えた。綾か、あるいは重井か。このまま事態が進むのを良
しとしなかった誰かが、照明を落としたのだ。部屋がいきなり闇に包まれ、一瞬の、
息を飲むような静寂のあと、部屋は一気に混乱した。
しゃっと薫の脇を何かが通り過ぎてゆく。きゃっという小さな悲鳴があがる。ダイ
ニングの扉がばんと開かれる音。がらんがらんと、ベランダから物干し竿のはじけ飛
んだような音がする。さらに、玄関がばん開いて、飛び出してゆく人影――沙耶を抱
えた神楽――が見えた。後方のベランダ方向には、すでに人の気配はない。
薫は、一瞬躊躇したが、前方の沙耶と神楽の後を追った。
薫の部屋に残っているものはいなかった。
重井タケシは、三石春香を小脇に抱えて、ベランダから飛び出した。三階からの、
加えて春香を抱えての着地は、負担が大きく、びりっと膝に痛みが走った。が、か
まっている間はない。背後から綾もついてきているはずだ。先ほど、如月薫の部屋で
そう目配せしておいた。ばっと駆け出す。
深夜の住宅地区は静まり返っており、通行人はいない。新築のマンションとプラタ
ナスの街路樹に挟まれた小奇麗な歩道を疾駆する。背後から追いかけてくる気配があ
る。綾だ。が、近づく速度が予想よりも圧倒的に早いことに気付いて、重井ははっと
振り返った。追いかけてきていたものも止まっている。綾を絡め問った逢瀬翠だっ
た。
重井は、くっと短くうめいた。誰もいない通りで、翠と対峙する。その翠は綾を後
ろ手に拘束している。綾は、痛めつけられたのか、ぐったりとはしていたが、意識は
ある様子だった。知らず知らずのうちに、春香を抱えている腕に力がこもってしま
う。眼の前で冷ややかに微笑んでいる翠に対抗する手段は、この春香だけなのだ。考
える前に、身体がわかっているようだった。
翠が冷たく見つめてくる。地面にへたり込んでしまいそうな綾を、立っているのが
辛いという様子の綾を、そのポニーテイルをぐいと引っ張り、引き上げるようにす
る。翠は楽し気な様子で、綾を奴隷のようにもてあそんでいた。
重井は、ぐっと奥歯をかんだ。やめろっという声がのどまで出かかっている。が、
それは自分の立場の弱さを認めることだ。翠の手の上に乗ることだ。自分が捕まえて
いる春香よりも、綾が大切だと翠に悟られることだ。同じように春香をなぶることは
できる。が、それでは翠の心を揺さぶることが出来ないことはよくわかっている。翠
にとっては、春香が生きていればよいのであって、三ッ石の結界をとくための春香が
いればいいのであって、春香自体が大切というわけではないのだ。
翠が綾の腕に力を加える。綾は、瞬間、電流が走ったように顔を痙攣させ、その綾
の手は、枝を折ったように不自然な方向に曲がった。その綾が、
「タケシ・・・逃げて・・・」
自分が何を言っているのかわからない、そんな様子で、声をかけてくる。
「やめろっ!」
我慢できなかった。自分の目が濡れていることがわかった。翠の像はぼやけてはい
たが、ありったけの力をこめて、にらみつけた。それが翠にとっては涼しいそよ風ほ
どにも感じないのはわかっていたが、押さえることが出来なかった。ふっと翠が小馬
鹿にしたように、やっとか、という様子で重井を見つめてくる。
「綾を・・・はなせっ」
その重井の、うめくような命令を聞く様子もなく、翠は一方的に、
「綾を助けたいのなら、まず春香を放しなさい」
命令してくる。
「だ・・・め・・・」
綾が口を僅かに動かす。ほとんど聞えない声だ。重井は眼の前の綾を見る。僅かに
意識は残っているが、自分ひとりではもう歩けない、そんな様子に見えた。
重井は、奥歯を噛みしめた。身体が震えた。そのつぶれたような顔の細い目から、
涙がこぼれ落ちた。綾の無邪気な笑顔が浮かんだ。綾の小悪魔のような笑顔が浮かん
だ。
他人を憎悪してきた。自分を嘲り蔑み馬鹿にしてきた他人を憎んで生きてきた。他
人など自分にとってなんの価値もないものだと思って生きてきた。世界は、支配する
ものと支配されるものからできていると思って生きてきた。それがいまは、少女一人
に涙している。眼の前で綾をなぶられるのが、苦しくてたまらないのだ。つらくてた
まらないのだ。哀しくてたまらないのだ。愛しくて、狂おしく切なくて、たまらない
のだ。
重井は・・・黙って春香を放した。放された春香は、静かに翠の元に歩いていっ
た。春香を取り戻した翠が言ってくる。
「この女を助けたいのなら、その心意気を見せてもらわないとね。どのみち、私にさ
からったあなたを許すつもりはないのよ」
ふふっと翠が仕草だけは上品に、だが、恐ろしく冷ややかに、笑う。
「俺が死ねば・・・綾は、助けてくれるのか」
重井のまっすぐな視線に、
「そうね。約束するわ。用のないゴミをわざわざどうすることもないし」
翠が、冷たく微笑んでくる。夢魔の、吸血鬼の、笑みだ。他人をもてあそび、他人
の生命を自分の手の平の上で転がして遊ぶ、支配者の笑みだ。
重井は、綾を見つめた。綾がうつろな目でこちらを見ている。薄れている意識で、
何かを必死に訴えている、そんな目だった。重井は、その綾に微笑んだ。自分がす
る、最初で最後の、微笑だ。心から湧き出して来る微笑だ。
重井は、瞳をつむった。眼の前の光景が暗いものへと変わる。その闇の中に綾の顔
が浮かぶ。目を閉じても、綾の顔が浮かぶ。自分はこの笑顔を忘れない、そう思う。
自分はいつまでもいつまでもこの笑顔を抱いていることができる。この笑顔は自分の
心にしみこんだものだ。自分はいま、自分に微笑んでくれる笑顔と、他人に微笑んで
あげられる笑みを手に入れたのだ。自分が望んでやまなかったものを、手に入れたの
だ。
重井は、そのまぶたの綾に微笑みながら、自分ののどに、手をつきたてた。
重井がうつぶせに横たわっている。首から流れた血が、アスファルトを濡らしてい
る。重井は動かない。満足そうに笑みを浮べている。とくに醜いと感じさせることの
ない、素直な笑みに見えた。
翠は、ふんっと鼻を鳴らすと、どさと綾を捨てて、来た道を引き返してゆく。春香
が、黙ってそれに従う。綾は、地面にへたり込んで、しばらく身体の苦痛に耐えなが
ら震えていた。なぶられた身体は、まだあまり自由にならなかったが、意識は思考が
出来るくらいにはっきりとしてくる。
綾は、ゆっくりと、地面を這いずるように、重井に近づいた。重井の脇にまで来
て、その膝に重井の頭を乗せる。重井の頭を、折れていない一方の手で優しく撫でな
がら、
「ねえ、保健室でキスしたときのこと、覚えている?」
綾は、動かない重井にそう声をかけた。いとおしいものを見つめる、そんな目で重
井に語りかける。
「あのときも、こうやって、タケシの頭をなでたよね」
綾が、重井の髪と頬をさする。重井は答えない。重井は動かない。綾の頬を涙が伝
わった。
「私ね、ほんとうのこと言うと、男を好きになったことなかったの。男を欲しいとは
思っても、自分の欲望を満たしたいとは思っても、好きになったことはなかったの」
ぽたぽたと綾の涙が、重井の顔に落ちた。
「でも、タケシのことは、好きになったって思う。ちょっと遅かったけどね」
自分の言った台詞に、綾がふっと自分で自分を笑う。泣いた顔に少し笑顔が浮か
ぶ。綾はちょっと笑ってから、またぼろぼろと涙をこぼした。
深夜の、住宅地区の、誰も通らない道。
透き通るような空には、月が輝いている。
その下で、綾は重井を膝の上に乗せながら、その頭髪を撫でている。
重井と綾は、膝枕をしているように穏やかな様子だ。
重井と綾は、いま、二人だけの時間を過ごしている。
◇◇◇◇◇◇
薫は、神楽を追っていた。すでに大通りに出ている。住宅地区と商業地区の境であ
るこのあたりまでくると、ビルが立ち並び、ちらほらと通行人がいる。その中に、
追っている背を見つけて、
「神楽っ!」
薫は叫んだ。その声で、先を駆けている神楽が止まり、ばっと振り向いて、こちら
に対峙する姿勢をとってくる。神楽は、沙耶の肩を抱きかかえるようにして、放さな
い。沙耶は、身体にバスタオルを巻いたままだ。
「如月薫か。追ってくるとは、な」
言いながら、神楽は憎悪に燃えた目を向けてくる。神楽の横で沙耶が、兄さん、
と、訴えるような声をかけているが、神楽が耳を貸す気配はない。
「貴様の家にゆくまでは、翠の男というだけで、お前自身に対する憎しみはなかった
のだが・・・」
神楽はそこで息を切って、ふっと苦笑したあと、鋭い眼光を薫に向けてきた。
「沙耶を汚した償いはさせなくては、な」
言い放つと同時に、神楽は沙耶をその場に置いて、跳んできた。一気に跳躍して、
薫の懐にまで入り込んでくる。薫は、その神楽の突き出してくる手刀をかわしつつ、
自分も手刀で応戦する。二人は、手刀を本物の剣のように、打ち合った。
「あなたがそれほど沙耶を大切にするなら、なぜ沙耶の気持ちをわかろうとしない。
あなたは、それを止めようとしている沙耶の気持ちを踏みにじっている」
「きさまの言えた義理かっ」
「二人とも、やめてっ」
打ち合う二人、その神楽の後方から、沙耶が声を上げる。が、神楽は止まろうとせ
ずに容赦なく攻め立ててくる。薫とて、その神楽をさばくので精一杯だ。
(容赦した瞬間、やられる)
薫の本能が感じたことだった。沙耶の声は聞えている。が、身体はそれとは関係な
く、刻み込まれたように戦闘に専念している。
幾人かの通行人が唖然として見ている。彼らには、薫と神楽が、いま生命をかけて
戦っていることが理解できないのだ。眼の前で繰り広げられている、あまりにも素早
い映画の格闘シーンのようなものが、理解できないのだ。
薫は、ひゅんひゅんと繰り出してくる神楽の両腕を必死に避け続けている。と、そ
の眼の前の神楽が、不意にわらった。ふっという笑みをこぼして、いきなりその手刀
のスピードを上げた。ひゅんと、その手が薫の頬をかすめ、同時に、神楽の蹴りが薫
の腹を直撃した。
薫は、ばんっと大きく後方に弾き飛ばされる。地面の上を二転三転しながらも、な
んとか受身をとって、その勢いをそぐが、気がつくと神楽の姿が見えない。背後から
圧倒するような気配を感じ、薫は振り返ろうとしたが、今度は背中を打たれて前に弾
き飛ばされた。薫は、二三度地面に打ち付けられて、地面の上に無様な姿をさらし
た。
その薫の背後から、
「こんなものか・・・」
神楽の見下すような声が聞える。薫は、地面の上で苦痛に悶えながら、神楽が最初
は手加減していたのだと理解した。身体の前後を打たれて、自由に動けない薫に、神
楽の気配が迫ってくる。
「本来ならば、翠の前で打ち倒したいのだが・・・」
声が間近で聞える。薫がなんとか顔を上げると、手刀を構えた神楽がいた。間に合
わない・・・薫がそう思った瞬間、薫の眼の前をふさぐ影があった。
月白沙耶だった。
薫の眼の前に、沙耶の背中が、震える足が、見えた。沙耶は、薫をかばうように、
両手を広げて立っていたのだ。神楽は、その沙耶の胸元で、手刀を止めている。その
顔が、驚いたように沙耶を見つめている。
「さ・・・や・・・」
神楽の口から声が漏れた。神楽は、惚けたような顔をしている。沙耶は、細かく震
えながらも、薫の前からどく様子はなかった。
「やめてください・・・兄さん・・・」
沙耶が、震える声で口にした。神楽は、動きを止めている。惚けたように沙耶を見
ている。が、神楽は、意識をとりもどしたように、
「沙耶っ、どけっ」
といった。が、沙耶は、
「どきません」
小さな、しかしはっきりとした声で告げた。やがて、神楽が、ぶるぶると震え出
す。痙攣をおこしたように、がくがくと震え出す。
「さぁやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
と、声をほとばしらせる。神楽は、気が狂ったように頭を抱えて、全身を揺らしな
がら、ひときわ大きな声をあげたあと、沙耶に向き直る。
「なぜっ! その男をかばうっ! なぜ私の邪魔をするっ! なぜ私の気持ちがわか
らないっ! なぜ紗霧の無念を感じないっ! その男に抱かれたからかっ! その男
に情が移ったからかっ! 恐ろしいからかっ! 切ないからかっ! 苦しいからかっ
! 惨めだからかっ!」
神楽はうなされたように声を上げている。
「いまの兄さんには、わかりません。いまの兄さんならば、私の心は、遥かに薫さん
に近い」
沙耶は、神楽に言い放った。その台詞で、神楽の形相がかわる。端整な顔が、鬼の
様な形相に変わる。神楽は、ひときわ大きく痙攣した後、大きく手を引き、沙耶に手
刀を突き出した。それはまっすぐ沙耶に向う。鋭く、容赦ない一突きだったが、それ
は、沙耶の直前でぴたりと止まった。その神楽の槍のような手先が、何かを握り締め
るような形をとり、最後にはこぶしになった。
「今はっ、沙耶を預けておいてやる。が、目的を達したら、沙耶を取り戻しにくる。
沙耶を傷つけることは、許さんっ!」
そう言うと、神楽は、ばっと背を向けて歩き出した。兄さん、という小さな声が、
響く。
神楽の背が遠ざかってゆく。沙耶の声は届いたのか、届かなかったのかはわからな
い。が、神楽は、立ち止まろうとすることなく、歩いてゆく。
神楽が言い残した目的というものが何であるか、薫にはおぼろげながらわかってい
た。あの薫の自宅で、神楽が翠に言ったことに直接関係しているのだろう。そうだ。
理由はわからないが、神楽は翠に復讐したいのだ。神楽は、その手で翠を打ち倒した
いのだ。
深夜の、大通り。
薫は、神楽との戦闘で、服が大きく乱れている。沙耶は、身体にバスタオルを巻い
ただけの姿だ。
薫は、沙耶を見つめた。沙耶も、顔を向けてくる。薫は、その沙耶に、
「一緒に、闘おう」
そう優しく語りかけた。ふわっとシーツをかぶせるように、言葉をかける。沙耶の
表情が、はっとしたものにかわった。薫は、沙耶は泣くのではないか、そんな風に想
像したが、沙耶は薫の想像に反して、にっこりと笑った。
「はい」
沙耶は、しっかりと、答えてくる。その笑みに、薫のほうが、泣きそうになった。
四 ハーツ
如月薫と月白沙耶は、逢瀬山の頂上を目指していた。二人とも、動きやすい紺の
ジーンズと青いシャツを着て、登山道を登ってゆく。
伸びるような青空。その下の、幅一メートル程の、黒茶色の登山道。土は、昨晩の
雨の余韻か、まだ柔らかに湿っているようであった。でこぼこの、でもそれほどきつ
くない道の両側には、登山者を励ましてくれるように、しだや山吹などの低木が生
え、その奥は、ちょっと緑の深い雑木林になっている。山は、緑の匂いと湿った空気
に包まれていた。
薫は、後ろの沙耶を気遣って、少し遅めに足を進めていた。
金環食の日だった。
薫は、黙って足を進める。憎悪はない。怒りもない。苦痛もない。今、自分の心
は、透明で静かな森の奥の湖のように澄んでいる。全てを自然に受け、自然に返せ
る、そんな風に思える。
今の自分の心の中心にあるものは、懐かしさだ。じんわりと心をもみほぐすよう
な、じっと身体に染み込むような、懐かしさだ。遥か昔、翠と会うために心弾ませて
登った逢瀬山。その頃の景色とかわりない。あのときは、翠と逢瀬を重ねるために、
そしていまは翠にその想いを伝えるために登っている。
左右の低木が途切れ、視界が開けた。頂上だ。くるぶしが埋まるほどの緑の下草
が、一面、じゅうたんのように広がっている。記憶の奥底にある風景に、薫は、震え
た。
少し後れて、沙耶も頂上に姿を現す。薫は頂上を見渡す。その中心に、昔はなかっ
た大きな岩がある。白い曇りガラスのような岩が、薄ぼんやりと光を発して、ぶうう
んと低く鳴動していた。そして、その岩を守るようにして、逢瀬翠が立っていた。後
ろを向いている。三石春香が、その翠の飼い犬のように、横にいる。二人とも、薫や
沙耶と同じようなジーンズ姿だ。
その翠が、ふわっと後ろを向いた。風にそよぐように、たおやかな動作で、後ろを
向いたのだ。緑のじゅうたんを背景に、黒髪がなびき、その顔が薫たちに向いてく
る。翠は、あたかも薫がいることがわかっているという様子で、その笑みを浮べた顔
を、赤く燃えた瞳を向けてきた。翠に続いて、春香も翠に従うようにこちらを向いて
くる。
薫はゆっくりと翠に近づいてゆく。後方の沙耶も黙って薫に続く。薫たちは、翠の
前で止まった。一足では届かないが、二・三足では届く距離だ。意識したわけではな
かったが、翠と自然に会話が出来る距離で止まっていた。
翠は、穏やかな表情で、だが、目だけは燃えるように赤く染めて薫を見つめてく
る。翠の姿は、薫の心にしみこむようだった。薫のまぶたが自然と震えた。翠は、薫
が見ている前で、ふっと笑みを広げた。
「三百年前以来かしら。ここでこうやって会うのは」
翠が、懐かしい旧友に語りかけるように言ってくる。薫も、やわらかく微笑んで、
「そうだね。僕らは、ここで何度も、互いの心を分かち合った」
「そんな風に感じたことも、あったわね」
翠がそう言って、僅かに苦笑する。どこか遠くを見ているような目だ。その後、
「あれから、やっとここまでたどり着いた」
翠は、どう、と自慢するように、披露するように、続けてきた。
「あたなに裏切られ、父を殺され、窟に閉じ込められた母が病んで弱ってゆくのをた
だ見ていることしか出来なかった。兄弟たちとおびえるようにして窟で隠れしのんで
暮らしてきた。私たちには、窟とその前の広場しかなかった。人間たちが自由を謳歌
するのを見ながら、その抑圧された心を人間を狩ることで晴らしてきた」
翠は、穏やかに微笑みながら、語っていた。薫も、静かに答える。
「言い訳するつもりはないよ。確かに、僕は君を裏切った」
「でも今は、少し違うことも知っている。あなたが私たちを裏切る気はなかったこと
を。村の連中が、あなたと私が逢瀬を重ねていることを知っていて、あなたを利用し
たということを。私たちと共存するつもりがさらさらないくせに、あなたにそんな風
なことを言って私の父を呼び出し、あなたをも欺いて侍を差し向けたことを」
「意味のないことだよ」
「そうね。どうでもいいことね。それは単なるきっかけに過ぎない。結局私たちはわ
かりあうことは出来なかった。そうわかってしまえば、あっけないこと」
「そういう意味じゃない。僕が君を裏切ったことには変わりないという意味だよ。で
も、僕は君と分かり合えたと信じている」
翠は、そう言った薫に向って、ふっと苦笑するように笑った。
「ならば、私たちは、永久に平行線ね。惑星とその周りをまわる衛星のように、決し
て交わることはない。そうでしょ、神楽蒼樹さん」
翠は、薫の背後に語りかける。背後に気配を感じて、薫がはっと振り返る。沙耶も
振り返って、その先を見ている。翠の声に呼応するかのように、登山道出入り口から
神楽蒼樹が現れた。いつものベージュのスーツを着て、片手をポケットに入れて、す
うっと薫の方へ歩いてくる。神楽は、翠とともに薫たちを挟み込んで、
「別れはすんだか、小娘、小僧」
射抜くような目線を向けてくる。背後から、翠が、
「あら、私たち、三百年前にとっくにわかれているわよ」
そう言ったのに従って、すっと神楽の目がさらに細くなる。神楽はばっと頂上を見
渡す仕草をしたあと、
「共鳴石か。この山を囲むように幾つも配置しているようだな。だが、はかない希望
だ。すぐに、露と消える。お前はそれを達するまえに死ぬのだからな」
「共鳴石のことを知っているなんて、少しは出来るようね」
神楽は、翠の返答に、ふっと笑った。
「お前は、自分の母親が能力者だった意味について、なぜ自分が共鳴石を扱えるのか
という決定的な意味について考えたこともないようだな。まあ、今となってはどうで
もいいことだが。それと・・・」
神楽は、僅かに目線を動かして、薫をにらみつけてくる。
「沙耶を巻き込んだ貴様も同罪だ、如月薫っ」
神楽は言い放ち、ばっと横に跳んだ。呼応するように、翠の気配も跳ぶ。薫、翠、
神楽は、三角形を形作った。
「春香っ、沙耶っ、こちらにこい。お前たちのいる場所は間違っている」
それが間違いのない真実だ、という調子で、神楽が言い放つ。沙耶は、黙って神楽
を見据えている。春香は、うつむいて、葛藤しているような表情を浮べている。翠
が、ふっと春香を嘲笑するように笑って、
「春香、飼い主のところへ戻っていいのよ」
翠は、なぶるように続ける。
「あなたがこの男の命令で私に近づいたことなど、はるか以前からお見通しよ。三ッ
石の結界がとけた今、あたなの役割は終わった。用済みってことよ」
ぐっと春香の表情がこわばる。翠はその様子をみて、ふっと笑った。
「私があなたを信じているとでも思っていたの、春香? 私は、私に使える単なる下
僕が必要だっただけ。あなたの心と私の心は、なんら交わることはなかった」
「その女のいうとおりだ。用のなくなったお前だが、私とて三石家を配置した後始末
くらいは考えている。お前の飼い主は私以外にいないのだ。お前の身体に刻み込まれ
ているはずだ」
春香は、ぐっとなにかをこらえるような仕草の後、よろけるようにして足を踏み出
した。ゆっくりと、自分では逆らっているのだが、磁石に吸い付けられるように、神
楽の元へと達した。
翠が、ふんっと鼻を鳴らす。神楽は、戻ってきた春香をぐっと抱き寄せ、自分の所
有物を取り戻したという満足そうな笑みを浮べた後、
「なぜ私がきさまをねらうのか、わかるか?」
神楽はそう翠に言った。
「私があなたの『かたき』だからでしょう」
翠が涼し気にこたえる。
「私は、私の邪魔をする幾百ものナイトメア、ナイトメア・ハンターを狩ってきた」
「そのとおりだ」
神楽は翠の答えに満足したという様子で答えた。
「私は、お前の希望が満ちるこの瞬間を待ち望んできたのだ。お前の希望を打ち壊す
のを待ち望んできたのだ。お前が全てを失うこの瞬間を三百年もの間、待ち望んでき
たのだ」
言い放つと同時に、神楽は春香を後方へ突き放して、ひゅんと前へ跳んだ。一瞬の
内に、翠の懐に入り込む。翠は、神楽の言葉に、僅かに表情をかたいものへと変えて
はいたが、飛び込んできた神楽には的確に対応していた。神楽が突きを繰り出すその
前に、ばっと後方へ跳んで間合いを取る。
「お前は、虫けらのように貫いた。お前は、一べつもしなかった。お前は、自分が大
切なものを抱きしめていた。お前は、男と分かり合えないと泣き崩れていた。私と沙
耶は、そのお前のまえで、ただただ震えていることしかできなかった」
ひゅんひゅんと神楽が手刀を突き出して翠を攻め立てている。それを避けている翠
にそれほどの余裕は見えない。そのことに翠自身も戸惑っている様子だった。
「私は、私を邪魔する幾百もの敵を打ち倒してきた。すべてこの世界の形を変えるた
めだ」
「お前はっ・・・」
神楽がすっと屈む。
「お前の父と戦っていた私の母を貫いただろう、が」
言い放って、ずっと身体を伸ばすようにして突きを繰り出す。翠の動きが一瞬とま
る。神楽の手が翠の頬をかすめ、すっと翠の頬に赤い線が走る。神楽と翠は、互いに
交錯して、見詰め合うような形となっていた。神楽が、眼の前の翠に言い放つ。
「私と沙耶は、お前の父である妖と、私たちの母である侍が戦っている、その一部始
終を見ていたのだ。私の母の剣が妖を貫くところを、その母をお前が貫くところを。
私も沙耶も、まだ少年少女だった」
その神楽の台詞に、翠が、僅かに眉をひそめ、
「あの女侍の、息子、ね」
そう言って、口元を歪めて笑った。
「あの場面を見ていたなんて、ね。ならば、容赦する必要はまったくない。あなたの
妹ともども母親のところへ送ってあげる」
「それでこそ、わが生涯の敵だ。私は、お前の希望を打ち砕くいまこの瞬間を待ち望
んできたのだ」
ばん、と神楽が後方へ倒れるようにして、翠の胸に足の裏をたたきつけた。翠がは
じけ跳ぶ。翠は、後方へ弾き飛ばされながらも、くるりと一回転して、すっと片膝を
ついて着地した。翠の口元から、つうと血が流れていた。間髪をいれずに、翠に神楽
が向う。
薫は、動かなかった。動けなかった。神楽と翠の戦闘が、自分の能力を遥かに超え
ていたからだ。翠を、神楽を、止めることができない。その力がない。二人に声をか
けることも、もはや無力に思えた。それがたまらなく悔しく辛かった。だが、まだ自
分にも何か出来ることがある、そう思って、拳を握り締めた。
「私は、山を封印して、この瞬間に備えてきた。三石家を配置して、この瞬間に備え
てきた。私は、常に山を監視してきた。お前たちを、ずっと見つめてきた」
神楽が、立ち上がりつつあった翠の側頭部に裏剣をたたきつけた。翠は、腕で身体
をかばったが、それごと吹き飛ばされ、地面を転がる。神楽が、地面に倒れている翠
に飛びかかる。上から手刀をつき下ろす。翠はごろごろと転がってそれを避けた。
神楽が、その翠をたまらないという表情で見ている。神楽は、ゆっくりと位置を移
動して、春香のいる場所にまで下がった。翠を追いたて、狩りたてる歓喜に震えてい
る、翠を追い立てることに欲情している、そんな表情だった。
「なぜ私が、狼を食ったお前と同レベルの力を持っているのかわかるか」
神楽は、にやりと狂ったように笑みながら翠に尋ねる。翠は、僅かに表情をかたく
しただけで答えない。神楽は悦楽に狂ったような顔で続けた。
「私が、私の母である侍を喰らったからだ。私は、お前たちが去った後、行き途絶え
る前の母を喰らったのだ」
神楽の顔が歪んで、笑っているのか怒っているのかわからないような顔になる。
薫の隣の沙耶が、口元を抑え、はっと息を飲んでいる。
「お前を倒すために、な」
その神楽の台詞に、翠も笑った。サキュバスのように、吸血鬼のように、笑った。
神楽も笑っている。狂ったような笑みだ。もはや、互いに交わす言葉はない、そんな
雰囲気だった。
「ならば、あなたが、最後の障害というわけね」
翠は言いながら震えているようだった。
「あなたを倒せば、私の夢がかなう。私の希望が現実のものとなる。もうすぐ太陽が
かげり、三百年ぶりにゲートが開く。三百年前に、私の父はそのゲートを通って異界
からこの世界にやってきた。金環食が終われば、普通ならばゲートは閉じる。が、共
鳴石が、異界とこの世界を結び続ける。もはや、ゲートが閉じることはない」
翠は嬉しそうに、ほんとうに嬉しそうに続けた。
「異界とこの世界が一つになるのよ。異界と結ばれたこの世界は、土台からその形を
変えることになる。もはや、今までの理屈は通用しない。人間とか、ナイトメア・
ハーフとか、ナイトメア・ハンターとか、そんな区別は全く意味のないことになる。
世界は混沌として混ざり合い、一体化して新しいものへと生まれ変わる。それは新し
い世界が生まれるということ。私はその世界の母となる」
「その新しい世界の卵を抱いたまま、死ぬがいい。まだ見ぬ、生まれることの出来な
かった子を思い描いて死ぬがいい」
しゃああと、神楽がほえる。神楽は、春香を再びぐいっと抱き寄せる。春香を抱え
ている神楽と、翠は、同時に前へと跳んだ。
ばっと、神楽が春香を翠の方へ放る。神楽は、それを盾にするような動きで、翠に
せまる。翠からは、ちょうど神楽が春香の後ろに隠れるような位置だ。翠がちっと舌
打ちするような仕草を見せ、身構える。と、春香がいきなり翠の方へ弾けとんだ。神
楽が、春香の背を蹴りつけたのだ。翠は、避けられもせず、跳んできた春香を抱きか
かえるような姿勢で受け止めている。翠が、それを邪魔だと放り捨てようとした瞬
間、飛び込んできた神楽と交錯した。
一瞬、場が『しん』となる。時が止まったように、薫の目の前の光景が止まる。神
楽が不敵な、勝ったという笑みを浮べて、腕を突き出している。翠が、短くうめくよ
うに顔をしかめて、やはり手刀を突き出している。その二人に挟まれている春香。
その静止画が、スローモーションのように動き始める。神楽が、ゆっくりと、その
勝ち誇った笑みのまま倒れる。同時に、春香も崩れ落ちる。ずぼっと、神楽の胸から
翠の腕が、春香の胸から神楽の腕が、抜ける。薫は、春香がとっさに身体を出して、
翠をかばったのだと理解した。
うつぶせに倒れた神楽は、ぐううと小さくうなっているが、もはや動けないという
様子だ。翠は、その神楽にかまわず、倒れている春香を見つめている。不思議な生き
物を見るような目だった。
地面に横向きに倒れている春香が、何か口を動かしている。春香が、僅かに顔を動
かして上を見る仕草をする。自分を見つめて立っている翠を見て、春香は嬉しそうに
わらった。
翠は、わからない、理解できないという表情で、春香を見ている。翠から悲しみは
読み取れない。翠から苦痛はよみとれない。翠から後悔はよみとれない。翠から憎悪
もよみとれない。翠は、ただ、惚けたように春香を見ている。
「兄さんっ」
いままで息を飲んだように立ち尽くしていた沙耶が、動いた。倒れている神楽に駆
け寄る。春香は、もう目をつむっている。春香は、もう動かない。翠はじっとその春
香を見つめている。
薫も、ゆっくりとその場所に近づいた。もはや、警戒する意味もない。この場所
で、翠と対等に闘えるものは、もういないのだ。息絶え絶えの神楽も、それにすがり
付いている沙耶も、そしていまそこへ向っている薫も、みな翠の手の上にあるのだ。
生かすも殺すも、翠の気分しだいなのだ。が、薫の心に、不安はなかった。恐怖もな
かった。自分はいま、初めてその心だけで翠と対峙できる、そんな満足感があった。
翠は、ふっと気付いたように春香から目を放し、倒れてる神楽と、その脇の沙耶を
向いた。沙耶もそれに気付いたようで、神楽の前に出た。
「どきなさい」
翠が、沙耶に、冷たく声をかけた。
「あなたは見逃してあげるから、そこをどきなさい。神楽蒼樹に止めは指しておかな
くてはならない」
「どきません」
沙耶は、震える声で、短く答えた。
「どきなさい」
翠は、もう一度、諭すようにいった。
「そんなに震えているじゃない。怖くて怖くてしかたがないんでしょう。どこかひっ
そりとした場所で、全てを忘れて、身体をいたわった暮らしなさい。べつにあなたを
気遣っているわけではなくて、これは忠告よ」
「ありがとう、ございます。でも・・・どきません」
沙耶は、身体を細かく震わせながら、そう言った。
「ここをどいたら、二度と、自分の足で前を向いて歩いてゆくことができない、そう
思うんです。だから、殺されても、どきません」
その沙耶の言葉に、翠が、きっと表情を険しくする。そんな翠の側まで来た薫は、
震えている沙耶の隣に立つ。翠が、気付いたという仕草でこちらを見る。まだ残って
いたか、そういった目で翠は薫を見た。
「君が夢見ている世界は、何もない世界だ」
薫は、翠に語りかけた。何を言おうと思ったわけでもない。ただ、自然と口をつい
て出た言葉だった。
「君が望んでいる世界は、何もない世界だ。不幸もないかわりに、幸せもない。憎悪
もないかわりに、愛もない。君が夢見ているのはそんな世界だ。そんな世界はありは
しないんだ。この世界と異界が混ざり合って一つになって、新しい世界が生まれたと
しても、そこの住人が、人間でもナイトメアでもない新しい生命だとしても、そこに
はその世界での幸せと不幸がある。その世界での愛と憎悪がある」
三百年前、自分は、何も出来なかった。ただただ翠の前で震えていることしかでき
なかった。三百年かかったけれども、いま、翠に伝えよう。目の前の翠に、精一杯の
言葉で伝えよう。そう思うと、自分の心から言葉が湧き出してくるように思えた。
「幸せだけの世界。愛だけの世界。強いものも弱いものもない、みんな同じ世界。そ
れは、きっと違う。不幸があるから、幸せな瞬間がある。憎いという気持ちがあるか
ら、愛しいという気持ちが生まれる。緑があるから、空が青いということがわかる。
空が青いから、太陽が赤いということがわかる。世界が、幸せとか、愛とかで一色な
ら、それはもう色じゃない。それはもう、気持ちじゃない」
「私は、全てを打ち倒して、ここまでたどり着いた。現在の秩序と打ち壊し、いまこ
こで過去とも決着をつけた。私は、私と心を分け合った兄弟を犠牲にして、ここまで
たどり着いた。あなたにわかることではない」
翠の表情が、だんだんと硬くこわばってくる。不愉快だ、いらだたしいという表情
になってくる。眼の前の薫を打ち倒すことなど造作もないのに、圧倒的に優位にたっ
ているはずの翠は、余裕がないという様子で、薫をにらみつけてくる。
「僕は、君を追い続けてきた。君の苦しむ姿を見てきた。君の憎しみを受けてきた。
君と一緒に苦しんできた。僕は君と分かり合えたと信じている。僕は君と分かり合え
ることを信じている。僕のほんとうの心は君を望んでいるとわかっている。僕の心は
もう君に届かないのかもしれない。でも、届けようとしなくてはならないと思ってい
る」
「だまれっ!」
翠は、薫に燃えるような目を向けて、叫んだ。薫は、かまわずに続ける。
「君の心の中に残っている良心のかけらを信じている。それは種のように、芽吹くの
を待ち望んでいると信じている。君が君の兄弟に与えた愛情を信じている。君の中の
憎しみは愛情から湧き出ていると信じている」
「だまれっ!」
翠は再び叫んだ。
「貴様は、私が苦しんでいるのをみて、のうのうと笑ってきただけだ。私と分かり合
えないことが辛い、そのことから逃れたいだけだ。自分の為に他人を望んでいるに過
ぎない。この世界の全てのものがそれだけに過ぎない。苦痛など、敗者で弱者である
他人のものだと嘲っている連中ばかりだ!」
「なら、なぜ春香は、うれしそうな顔をして君の前に倒れているんだい」
その瞬間、翠が弾けたように声を上げた。形相を鬼のように変え、薫に手刀を突き
出してくる。
薫はさけなかった。どのみち、翠に逆らう意味はないのだ。願わくば、自分の死
が、翠の心に波紋を呼び起こしてくれれば、そう思う。自分という存在がこの世界か
ら消える、その雫のようなものが、翠の心に一滴落ちて、僅かにでも翠の心を揺さ
ぶってくれればいい。そうすれば、自分の心が翠に届いた、確かにそう思える。
薫は目をつむった。ぐっと胸を突き破ってくる感触があった。翠の手だ。今自分
は、その身体で、翠の手を感じている。翠を実感することが出来ることが、嬉しかっ
た。自分の中に翠の手がめり込んでくる。不思議と苦痛はなかった。不思議と恐怖は
なかった。じんわりとした安堵感があった。
やがて、意識がぼんやりとしてくる。翠が、前方で、我慢できなかったものを全て
体外に吹き飛ばしたという、息をついたような顔を見せている。その光景もぼやけて
くる。だんだんと思考できなくなる。後悔は、ない。苦痛も恐怖も、ない。自分でも
信じられないくらい、心が静かだと思う。ほんとうに静かだと思う。願わくば、この
気持ちが、この感覚が、一滴なりとも翠にとどきますように・・・とどきますように
・・・祈りながら、薫の意識は途切れた。
眼の前に薫が倒れている。自分の右手は、その薫の血でべったりと濡れている。は
あはあと息を荒げていた。まだ心臓がどくんどくんと言っている。なにがそれほど自
分を乱したのか、それも今となってはわからない。わかる必要もない。その原因は、
もはや倒れて起き上がることはないのだ。
空を見上げる。太陽に影が落ち始めている。金環食だ。
逢瀬山全体がうなるように鳴動を始めている。岩の光が強くなっている。山全体が
光り始めている。やがて、その光は、天に昇りはじめるだろう。逢瀬山と天を貫く光
の柱、それがゲートだ。天から、降り注ぐようにナイトメアたちがやってくるのだ。
自分はやっとここまでたどり着いた、そういった満足感があった。現在の秩序、奈
川玲子や都築純、重井タケシを打ち倒し、過去の亡霊、神楽蒼樹にも勝った。敵対す
るすべてのもの、邪魔だと感じる全てのものを打ち倒して、ここにたどりついた。も
うすぐだ。三百年間待ち望んできた夢がかなうのだ。そう思うと震えるような喜びに
包まれる・・・包まれるはずだ。なのに、なぜ、自分は感動していないのだ。自分は
震えるような歓喜を感じていないのだ。嬉しいことのはずだ。夢見てきたことのはず
だ。なのに、なぜ、これほど・・・むなしいのだ。
すっと地面を見た翠の目に、嬉しそうに横たわって動かない春香の姿が映った。な
ぜ、この女はこんなに嬉しそうなのだ。ただ、自分の犠牲となって神楽に貫かれただ
けではないか。なのに、なぜ、こんなに嬉しそうな顔をして笑っていられるのだ。自
分は、なぜ、この女ほど嬉しい顔が出来ないのだ。
つうと、翠の頬を涙が伝わった。それに手をあてる。なぜ、自分は泣いているの
だ。なにが、それほど哀しいというのだ。なにがそれほど辛いというのだ。神楽に命
じられて自分に近づいただけの女ではないか。自分のことを探っていただけの女では
ないか。自分は、それを反対に利用し返しただけでないか。
不意に、その春香の声が、耳によみがえった。
「私、翠さんのものになります」
「私、翠さんに近づきたかったんです」
ほんとうに嬉しそうな声だった。
その姿が心に焼き付いて離れない。その声が耳に焼き付いて離れない。それから逃
げようとすればするほど、自分の奥に入り込んでくる。翠は、髪を振り乱して、悶え
た。
神楽の前で震えている沙耶が目に入る。この細くて弱々しい女は、なんでこれほど
凛としてこちらを見ていられるのだ。目の前で、おそらくは思いを寄せているであろ
う薫を殺されたというのに、なぜこれほど落ち着いていられるのだ。震えているでは
ないか。顔が歪んでいるではないか。この女の生命など風前のともし火ではないか。
なのに、なぜ、自分よりも圧倒的に強い相手に対峙できるのだ。
「じゃまだっ!」
翠は叫んだ。何に対してかわからず、だが、耐えられずにそうさけんでいた。自分
の心を乱すもの全てが邪魔だ。そう思える。心が乱れる。いらだたしい。苦しい。つ
らい。三石春香が、月白沙耶が、自分の中でちらついて消えない。
「私の中に、はいってくるなっ!」
なぜ、消えない、そう自分に対して叫ぶ。なぜ、お前たちは私の心をかき乱すの
だ、そう自分の中の春香と沙耶に問いかける。
自分はいま悶えている。全てを打ち倒し、その夢をかなえるときを迎えた自分は、
いま、心をかき乱されている。自分が望んだものがこんなもののはずがない。三百年
間追い続けてきたものが、こんなつらいものであるはずがない。それは、もっとすば
らしいものだ。もっと、光り輝くものだ。そうだ。薫だ。あの男が全ての元凶なの
だ、ばっと翠はそう思いつく。
翠は、倒れている薫に向き直った。壊してしまえ。ぐちゃぐちゃにあとかたもなく
つぶしてしまえ、心の奥底の部分がささやいている。この男が、自分の心を乱すこと
をささやいたのだ。
翠は、ふらふらと薫の前しゃがんだ。両手で、その頭を包み込む。そうだ。そのま
ま力を加えるのだ。ぐしゃと果物のように握りつぶしてしまえ。
翠は、ぐっとその手に力をこめる。が、手はうごかなかった。えいっ、えいっと心
をしぼっても、手は動かなかった。かわりに、その薫の笑みに吸い付けられた。倒れ
ているのが薫だと初めてわかったように、翠の顔が自然に歪んだ。顔がぐしゃぐしゃ
になるのをとめらえない。なぜ、哀しいのかわからない。だが、自分は哀しいのだ。
それが不意にわかった。薫の頭を抱えている手が震えた。ぼたぼたと涙が薫の顔に落
ちた。なぜかはわからないが、自分はこの男が倒れていることが哀しくてたまらない
のだ。憎い敵、自分の心を乱す敵に違いないはずなのだが、自分はこんなにも哀しい
のだ。
翠は、ぐっとまぶたを一度きつく閉じた後、ゆっくりと立ち上がった。地面を見渡
してみる。春香が嬉しそうに横たわっている。薫が、穏やかに倒れている。神楽の前
には沙耶が震えながら、だが、しっかりと自分を見つめている。ああっと思う。自分
は、苦痛など他人のものだと信じて疑わない強者を、憎み続けてきた。だがいまは、
その自分がその憎んできた連中のように他人を見下しているではないか。自分は、力
に任せて彼らを打ち倒して、それを見下ろしているではないか。それが辛いのだ。そ
れが哀しいのだ。いま倒れている神楽は、薫は、苦しみのたうちまわってきた自分と
変わりないではないか。そうだ。自分は、独りではなかったのだ。
思いながら、翠は、目を閉じて、天を仰いだ。溢れてくるものがあった。涙がぼろ
ぼろとこぼれ落ちた。身体が震えて止まらなかった。翠は、いま自分が心打ち震えて
いるのだとわかった。
翠は、そっとまぶたを開く。
太陽はすっかり隠れて、光の輪となっていた。ぼんやりとした光の柱が立ち上って
いる。金環食が始まっている。やがて、ゲートが開く。三百年間夢見てきた、待ち望
んできた瞬間だ。その気持ちは真実だと思う。その気持ちに偽りはないと思う。自分
は、それを望んでいたし、今も望んでいると思う。それは間違いのない真実だと自信
を持ってこの世界全てに告げることができる。が・・・
翠は、ばっと走り出した。共鳴石に向ってだ。なにをやっている、そう思う。自分
のやっていることはめちゃくちゃだ。心と身体がばらばらだ。もしかしたら、自分は
もう狂っているのかもしれない。だが・・・歯を噛みしめながら、翠は、共鳴石に達
した。
心の奥から湧き出して来る衝動があった。翠が今まで感じてきた愛とか憎しみとか
悔しさとか辛さとか、そういった全てのものを絞り込んで垂れた一滴の雫が、自分の
心を揺らしているように思えた。
迷わなかった。翠は、その岩に手を当てて、短くつぶやいた。
それに従って、岩にぴしっとひびが入った。
岩から出ていた光がすうっと消えてゆく。
同時に、天に立ち上っていた光の柱が、水に溶けるように薄れてゆく。
逢瀬山を、この頂上を覆っていた波動も静まってゆく。
山全体が、静かに、静かに、荒げた呼吸を落ち着かせてゆくようだ。
ふっと後ろを振り返る。薫たちが倒れている。翠の頭に浮かぶことがあった。
翠は、さっと薫に駆け寄った。口の端を自分で食いちぎった。つうと翠の口元から血
が流れ落ちた。
間に合うかもしれない、そんな期待があった。翠は、両手で薫の頭を自分の膝上に
乗せると、その薫に口付けした。自分の口内にたまった唾液と血がまじったものを、
薫の口の中に流し込んだ。薫の頭部を傾けて、それが薫の奥に流れ込んでくるように
する。
自分たち、齢を重ねたナイトメアやハンターの肉体には特殊な力がある。翠が、仲
間の狼を喰らって力を得たのも、神楽が自らの母を喰らって力を得たもの、そのため
だ。三百年を生きた薫ならば、助かるかもしれないのだ。
薫と分かり合えたとは思わない。薫を憎いという気持ちも確かに残っている。自分
が倒したという悔恨もない。ただ、眼の前の、ほんとうの自分を知る薫を助けたかっ
た。このまま薫が死んで、自分ひとりになるのが、寂しかった。そうだ、寂しかった
のだ。また再び、薫とその心をぶつけ合い、わかりあうことは出来ないとののしりあ
い、互いを変えようと殺し合いたかったのだ。
その薫との口付けは、翠の心にじんわりと染み込むような味がした。
やがて、薫の頬に赤みがさしてくる。
薫の胸がゆっくりと上下に揺れ始める。
その、薫の生の息吹が嬉しかった。ほんとうに嬉しかった。
翠は、不覚にも寝ている薫に向って微笑んでいるのだと悟って、薫の頭を膝の上か
ら降ろした。こんなところを目を覚ました薫に見られたら、なんと思われるかわから
ない、そんなことを考えて、ふっと苦笑した。
翠は立ち上がった。
ばっと、頂上の草原を見渡した。
懐かしい、思い出の詰まった場所だが・・・もうここには用はない。
その場を後にしようとして、立ち止まる。翠は、沙耶のほうを向く。
「薫が目を覚ましたら、伝えて頂戴。私は、この世界を変えることをあきらめたわけ
じゃない。私を止めたければ、私を殺して見せなさい。そう伝えて」
「伝えます」
沙耶は、そうしっかりと答えてきた。翠は、ふっと笑って、
「あなたの兄さんも助かりそうじゃない。伊達に自分の母を喰らってはいないという
ことね」
そう言って、沙耶に笑いかけた。その言葉で、沙耶がはっと後ろを振り向く。神楽
に覆い被さるようにして、その息を確かめている。その様子を穏やかに見つめなが
ら、翠は再び歩き出した。
頂上から登山道に下る。
翠は満ち足りた気分に満足していた。こんなに満ち足りた気分になるのはいったい
いつ以来だろうか。思い巡らして、ふっと苦笑する。それが薫と別れてから以来だと
気付いたからだ。
いま、自分は自由になって、その背にある大きな羽でこの世界に飛び立った、そん
なことを思う。
この世界をもっと見てみよう。この世界をもっと感じてみよう。そして、変えるべ
きものを変えるように努力してみよう。やはり、自分は新しい世界を望んでいると再
び実感する。だが、古い世界の全てを壊そうとはもう思わない。古い世界には、それ
なりに気に入っているものがある。今ならば、確かな気持ちで、そう言える。
薫はどうするだろうか。薫ならば自分を追ってくるだろうか・・・そう考えて、
ふっと笑う。愚問だ、と自嘲する。
翠は、そんな笑顔を浮べたまま・・・逢瀬山を後にした。
エピローグ
薫は、ふっと目を覚ました。
逢瀬山の頂上だ。背に、じゅうたんのような下草のやんわりとした感触がある。そ
の、旺盛な緑のにおいに包まれている。上には、青い空が、どこまでも高くどこまで
も青く広がっている。ふっと目をつむると、その空に浮かび上がって遥か高くまで
登ってゆける。自分と空が一つになって、自分が空の上からこの世界を感じることが
出来る、この世界を抱きしめることができる、そんな風に感じる。
薫は、ゆっくりと起き上がった。上半身を持ち上げると、胸にぐっという痛みが
走った。翠に貫かれた傷だ。服の貫かれた部分が、薫の血でべっとりと赤黒く染まっ
ている。が、傷自体はふさがって、血はとまっているようだった。
両手を後ろに伸ばして上半身を支えながら、前を見渡す。空の明るい光になれた目
に、深い緑がずんと染み込んできた。しばらく見つめていると、それは優しい緑色に
かわった。
周りを見回す。
前方にある大きな岩にはひびが入っている。
薫の脇には、春香が倒れている。息はしていない。嬉しそうな顔をしてまるで眠っ
ているようだ。薫は、僅かに瞳を曇らせる。
背後の気配にも先ほどから気付いている。柔らかく包み込んでくれるような気配
だ。
そちらを向く。
沙耶がふっと笑いかけてきた。
沙耶は、神楽を膝の上に載せていた。神楽は、目をつむったまま、胸をゆっくりと
上下させていた。
薫は、ゆっくりと立ち上がった。
翠はいないが、その場に翠がいたという気配がのこっている。薫には、それが感じ
られた。
薫の口内に、自分のものでない感触が残っている。甘く苦い血と唾液の感覚だ。薫
は、自分がなぜ助かったのか、おぼろげながら理解していた。
背後から、沙耶の声がした。
「薫さん。ことづけがあるんです・・・」
「わかってる。わかっているよ・・・」
薫は、振り返って、沙耶に微笑んだ。
そうだ。言われなくても、自分にはわかっている。自分の中に入り込んだ、自分が
受け入れた翠の血が教えてくれる。
薫は、空を見上げた。
静かに目をつむった。
自分がとけてゆく。自分が空になる。世界を抱きしめることができる、そう実感す
る。そして、その中に、ほら、翠がいた。自分は、この同じ世界に翠がいることを感
じることが出来るのだ。それがとても嬉しかった。
そんな薫の様子を、微笑みながら見ていた沙耶が、
「翠さんを・・・おいかけるんですか」
薫に問いかけてきた。ちゃんと答えはわかっているんですよ、そう言っているよう
な微笑だった。
薫は、答えずに、沙耶の目を見て微笑み返した。沙耶は、ほら私の言ったとおり、
そんな風に笑みを広げた。柔らかい、優しいじゅうたんのような、笑みだった。
「翠とはまだ決着をつけてないから・・・」
薫はそう口に出した。
そうだ。まだ、翠とは決着をつけていない。倒すとか倒されるとか、そんなことで
はなく、自分と翠というつながりがどんな意味をもつのか、まだ、自分は確かめてい
ない。翠を追おう。そして、自分なりの決着をつけよう。
圧倒的に能力で勝る翠相手に、さらには、翠の血まで受け入れてしまった自分は、
翠の下僕のようなものだ。が、翠を追おう。翠にあって、そして、言ってやるのだ。
君を止めに来たのだ、と。
薫は、三百年間の想いの染み込んだ草原を見渡した。
先ほどまでの戦闘の余韻は、もう残っていない。
緑が、柔らかに風に揺れる。
逢瀬山に、ふわっと、夏の風が吹いた。
了
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