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 お祖父ちゃんが自殺をした。近所の、流れの急な川で。遺書も無ければ言伝も無かったらしい。
 殺人者は私。私が老い先の短いお祖父ちゃんを追い込んだのだ。お葬式にこそ出たが私には悲しみにくれている暇も理由も無い。どうせ死ぬのだ。あのしわしわの邪気を忘れた笑顔を見なくてもいいと思うとほろっと笑みさえこぼれる。
 ついでにお祖母ちゃんも連れて行けばよかったのに。私は残酷にも悔しがった。
 
 女優を夢見る彼女は今人生で一番輝いていた。劇団とバイトの日々早三年。オーディションに受かったのは去年の暮れだった。早速のドラマ出演の依頼など。舞い上がり、幸福に涙にしたのも束の間、役は取られ出演シーンはカットされ、精神的にも体力的にも限界を感じていた。
 そんな彼女に追い討ちをかけたのが祖父の痴呆症。呆けた祖父の、祖母との間の抜けた会話や動作が彼女をより惨めにさせる。焦れば焦るほど、彼女は空回りを続けた。
「なつ、これだけは忘れないでくれないかい。」
 祖母は折れ曲がった小さな背を向けたまま呟いた。いつも懐っこい犬のように顔をくしゃくしゃにして笑う祖母が、なつに初めて歳を思わせた背中を向ける。
「お祖父ちゃんはね、お前を愛していたよ。」
 祖母の体が震え、声が震える。
「世界で一番。」
 そして言い終わるか否かで大きな声を上げて涙を流した。
 なによ。大の大人が。もっと上手に泣けないの?ほら親戚中が憐れみをよこしている。
 なつは極力優しい、宥めるような口調で言う。
「お祖母ちゃん、私、明日もバイトで早いからもう寝るわ。お休みなさい。」
 なつは表情を乱すことなく、清爽な動作を保ちながら立ち上がろうとした。だが危うくよろける。痺れた足のせいだ。なつは親類の表情を見たが彼らの顔に変化は無い。ただ三歳になる従姉妹が悪びれもなく笑った。
 なつは上手に何事も無かったかのように振る舞い、親族に深々と頭を下げた。
「なつ!」
 突如祖母が敏速に動く。立ち上がったなつのスカートの裾を引っ張るように握った。ヤダ、何をするの!
「なつ、あんたは、あんたはお祖父ちゃんが嫌いになったのかい?!ああ!お願いだよなつ、お祖父ちゃんを安心させておくれ!ゆっくり寝かせてやっておくれ!」
 何を言っているの?寝ているじゃない、心配しなくても、もう起きないわよ!
「お祖母ちゃん、今日はもう寝ましょうか?お蒲団ひいてあげるわ。ほら、叔父様たちももう帰るのだし。」
 なつは祖母の手を両手で包んだが、その効果はなかった。宥めるどころか興奮を増した。
 祖母の手は小さく黒く、骨と皮の塊でしかなかった。対照的になつの手は白く、爪まで美しく、希望と夢でできている。なつはこれからなのだ。年寄りの相手をする時間など無い。
 泣き崩れた祖母を宥め、なつは、きっと疲れているのですわと言い訳じみたことを言って愛想を撒いた。
 親戚の去った後なつは一人、祖父の遺影の前に座る。
「はあ。」
 思わず出たのは涙でも怒りでもなく深い深い疲労のため息だった。菊の色が疲れた目に毒で、意外にも背筋を震わす祖父の凍った笑顔と静寂が、溢れそうな感情を抑えた。
 私の感情は死んでしまったようだ。何とも言えない。心が宙づりになっている感覚。なつは無意識に明日のスケジュールを頭で確認し始めたが、その行動に違和感は無かった。
 今年の八月、なつは二十二歳になった。二十歳という大人と子供という社会的境界線を越えればもう自然と自分は子供ではない、子供らしいあの無邪気なすべては消えてしまったのだと言うことがなつの中で暗黙の了解となった。いつか、大人になるのを拒否した少年ピーターを憧れたなつも、大人になってしまえば「どうせ」という現実の代名詞のような言葉でなにもかもを捨て、諦め、過ぎていった。そしてなつはその事さえも気付かない。
 物音がした。なつが顔を向けるとそこに祖母が立っていた。疲れきった、それこそ死人のような表情で。
「なっちゃん、覚えている?」
 またか。口には出さずなつはあからさま倦厭な顔をして祖母を見る。ただ、なっちゃという忘れ去った呼び名に、甘くくすぐったい様な感情が生まれた。
「あなたのママとパパが愛した季節を。」
 知っている。
「夏を。」
 よく覚えている。
 幼いころ死んだ両親。優しい月の光りに似た笑顔。百花の香り。なっちゃん、と呼ぶ甘い声。だが月も花も声も、思い出も儚く、今では色褪せて凍ってしまっている。
「私も耕祐さんも愛している。それは今も変わらない。」
「…」
 祖母はもう泣かなかった。ただただ私を責めたてるようにぎらぎら光る目で見詰めている。醜い顔がより瞳を輝かせた。
「叶子と翔さんが死んだあの夜、向日葵を二本、海に流したのを覚えている?あなたが、天国にも夏が来るといいね、と泣きながら流した向日葵、覚えている?」
 ぞくっ、とした。寒さではない。ママとパパとお祖父ちゃんと、そしてお祖母ちゃんが、注いだ愛を返してくれないと私を、私を恨めしそうに見詰める恐怖が体を襲った。
「咲き遅れの向日葵を耕祐さんは握っていたの。」
「え…。」
「死んだの、死んだのよ。耕祐さんも叶子も翔さんも」
「や、やめて、」
「夏を想いながら」
「もう、もうやめて!」
「なつを愛しながら」
「やめて!やめてええ!」
「…」
「私には!私には!愛をもらう権利があっても返すチャンスも時間も余裕も無かったのよ!!皆私をおいてどこか行っちゃったのよ、置いてきぼりにされたのよ!!心外だわ、どうして私が責められるの?私がいけなかったの!?」
 そして声を上げて泣いた。なによ。大の大人が、大人が…。違う私は大人じゃないのよ。そんな、大人なんて檻に閉じ込めないで!子供でいさせて!
 怯える赤子の様にうずくまったなつの横に座り祖母は頭を撫でる。小さく黒く、しわだらけの、だけど優しくて暖かくて。そしてなつは久しく忘れていた物を思い出していた。明日の煮詰まったスケジュールなんかではなく、パパとママとの色褪せてしまった、だけど幸福な思い出、祖母と祖父の穏やかな温もりを。

 ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。
 愛は時も場所も理由も問わないのに、私はいつまでも甘えていました。パパとママに貰ったこの名前も思い出も、お祖母ちゃんの温もりも、お祖父ちゃんの死も、すべては私だけへの愛でした。
 ゴメンナサイ。それからアリガトウ。
 また、夏が来たら贈ります。海の流れを綱に太陽色した私の愛を。



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