プロローグ
「あたし今、一体どんな顔してんだろう……。きっと……酷い顔よね」
少女は呟いた。いや少女はそのつもりだったのかもしれないが、口は微かに動いたもの
の音にすらなっていない。もっとも誰かに答えて貰おうという意図は始めからなかったの
でどうでもいい問題かもしれないが、彼女、荻野由佳(おぎのゆか)の問いに答えるとし
たら「その通り」が正解であろう。
十代という年頃の少女がお世辞にもキレイと言えない服装でビルとビルのあいだの人気
のない路地にだらし無く座り込んでいる。髪をキチンとセットしている訳でも化粧をして
いる訳でもない。表情を見るといわゆる生気とか覇気と呼ばれるモノはかけらもなく焦点
の定まりにくくなった目で虚空をただ見ている。
もしも警察にでも通報されれば、家出少女として扱わればまだまし、といったところだ
ろうか。
「…疲れたな、……いい加減、もう」
由佳には愛すべき家族がいなくなった。
帰るべき家と呼べる所が無くなった。
そして新しく住める空間を破棄した。
そこから飛び出て今日で二日目。自暴自棄となり普通に生きているヒトから見たならば
「堕ちた」と表現されるような事をしてまで生きようとする気は無かった。
「いっそのこと、……ここで死にたい」
こちらの考え方のほうがより悪い。自らの死を望むというのは生きたくても死んでいっ
た数多の死者への冒涜。
彼女はその事を知っているというのに。
(その方が……どんなに楽かな。ココなら人が倒れていても気がつかれないかもしれな
い。そうしたらすぐに死ねる……かな? お父さんにお母さん、雅也は迎えてくれるかな、
それとも怒るかな……。もうどうでもいいや……。眠たくなって……きた。考えるのも面
倒くさい……。)
由佳は欲求に身を任せることにし、目がユックリと閉じる。徐々に身体が傾いてきた。
「……ちゃん…」
何か声が聞こえたような気がしたが目を開ける気にはならなかった。面倒くさくもある
し幻聴と決めつけたからだ。そんなモノはここに座ってから既に何度も経験していた。父
が、母が、弟が、優しく楽しげに自分を呼んでくれた。
――――哀しくなった。……寂しくなった。
「……えちゃん? …………ねえ、おねーちゃん!」
ペシッ、ペシッ……
今度は声と一緒に叩かれる感覚が頬から伝わる。
(――――!? 幻聴……じゃぁないの)
ハッとして目を開ける。そこには幼い女の子が由佳の頬を触っている。
(天使……じゃ、ないよね。迎えにきてくれたわけじゃないよね)
短い腕で由佳の頬に触れれるまで接近していたので座ったままの体勢でも視線を動かす
だけで背中が見れた。羽らしきものは見当たらない。
――――ほっとした。あの世からの迎えでなかったことを残念に思ったからでなく、迎え
がくるなら、どうせなら先にいって待ってる家族が良かった。それか逆に死神が。
(……でも何でこんなトコに女の子がいるの?)
思考がかなり鈍っている由佳はようやく今の状況を思い出し、驚く。
自分の事を棚に上げて何だが、こんな所にいるには確かに不自然ということにようやく
思い出した。見たところ三〜四歳といったところ。まるでお人形を思わせる小さな手足を
一生懸命動かしているようか感じが何とも微笑ましい。ピンクのスカートと白をベースに
したシャツを身につけた活発そうなかわいい娘である。本来、そのどこか黒曜石を連想さ
せる美しく大きな双眸は見る人すべてに愛らしさを振りまくと思われるが、今は心配そう
に、ただそれだけを心の底から映し出した瞳で、座り込んでいる由佳を見ている。
「大丈夫?」
幼女は訊ねる。好奇心ではなく純粋に心から心配している印象を与える。
(いい娘だな。……あたしにもこんな頃があったかな? きっとあったと思う、見るも
のすべてが新鮮で、生きてるだけが楽しくて仕方なかった頃が……。今はそんな事はない。
つらいだけ。生きてること自体がイヤ)
何となくそんな事を考えていると
「ねえ、そんなにつらいの……、そんなにイヤ? 生きるのイヤ?」
「!?」
(何、この娘。偶然? それにしても変なことを言う…でも)
心を読むように言ってきた幼女に気味の悪さを感じると同時に興味も感じた。「どこか
にいって欲しい」という想いと「もう少しここにいて話して欲しい」という想い。
「ね、ねえ。あなた……」
そして後者の思いが勝った。
「おーい! かぐや! どこだー! 戻ってきなさい」
由佳が眼前の幼女に話しかけようとした瞬間、男性の声が聞こえた。
「パパー! こっち、こっち」
言うやいなや幼女は声のした方に走っていく。
(ヘェー、この娘「かぐや」っていう名前なんだ、珍しいけど……まあ名前負けはして
ないかな)
場違いなことを思いつつ眺めていると、かぐやは急に立ち止まり、手を振りだす。
「パパー、パパー!」
「どーした、かぐや。パパはもう疲れた。さっさと帰ろうよ。こんな所、お前には似合
わないんだから」
「パパ、かぐや、これ欲しい。飼ってもいい?」
「――――――――!」
そういうとかぐやは再び由佳の方に走って行き、ピョンピョン飛び跳ねながら父親にア
ピールするが、まだ父親は視界に入ってこない。
(失礼な娘。「飼う」だなんて……)
ボキャブラリーがまだ少ないからといってもこの発言は失礼だろう。こうした歳相応の
子供にしか見えない行動をされると、先刻のは言動は偶然だったかのように思えてくる。
それにしてはさっきの言動は的を得すぎていたのだが。
「もー、勘弁してくれよ、かぐやー。ウチじゃぁ犬も猫も飼えないって何度も言ってい
るだろ」
声とともにやっと男の姿が見えてきた。ジーンズに青い長袖のシャツを着た若そうだが
どことなく冴えない感じがする男が現れた。中肉中背というには肉が足りなそうな、つま
り痩せ型でそれがいっそう頼り無さげに見える。その分優しそうではあるが。かぐやが猫
や犬を拾ってくるたびにもらい手を探す作業に辟易しているだけに「飼う」という言葉に
は実に過敏なのだが、しかしかわいい娘に強く言えないのか口調はどうしても弱腰に聞こ
える。「捨ててきなさい」と言えれば楽になるんだろうが。
そんな男だだけに由佳を見ると驚いたようだ。
「…………、エ、えっと、かぐやちゃん。さっき、なんて言ったけ」
狼狽している。まあ犬か猫かと予想していたのがまさか人間だったのだから、当然の反
応といえばそうだろう。絶句しなかっただけ褒められのかもしれない。
「欲しいの。飼うの」
と言いながら由佳を指さす。
――ハアー
男は額を指で押さえ大きくため息をつく。
「あのね、かぐや。この娘は人なんだよ。犬や猫なんかとは訳が違うんのだ。飼うなん
て言っちゃダメでしょ」
(子供が子供だからどんな親だと思ったけど……結構まともな事を言うじゃないの)
それは正直な感想だった。
「……ゴメンナサイ。でも、でも、このおねーちゃん、連れていくの。絶対、絶対に家
に連れてくの!」
(聞き分けのない娘。あたしのことなんかほっといてくれればいいのに……)
由佳は口にこそしなかったが、かぐやをジッと見つめた。
「ヤッ! ほっとかない! 連れて行くの!」
(――――! また)
背筋が一瞬ゾッとし、目を大きく開ける。心を見透かすかのような事を言われる。考え
ていることが相手に全て分かるというのは恐怖、何も隠せないことへの。人間には誰しも
他人に伝えたくないこと、知られてはならないことがある。
しかしかぐやは気にした様子はなく、全身で駄々をこねる。男はそんな子供の様子にた
め息を一つつく。
「……かぐや、まだお前は他人の心配をしなくても、面倒を見なくてもいいんだぞ。今
は子供らしく生きてればいいんだぞ」
先程まではわがままな子供をあやす甘い父親らしく振る舞っていたが、急にしゃがみこ
み目線を子供に合わせ寂しそうに言った。見るとヤケに悲しそうな眼だった。例えるなら
大切な人との長い別れが目前に迫ったというような。
「……ウン。でもね、でもね。このおねーちゃん、ほといちゃーダメなの! 絶対!
かぐや、このおねーちゃんに生きててほしいの」
(この娘、一体……。分かっていて言ってるの?)
全くの初対面であるのに、それ以前に子供であるかぐやの言葉は心に直接響くような重
みがある。それは鋭く刺すような痛みでもあるが何故か不思議と心地よくもあった。
(変な娘)
初めてかぐやと言う少女を見たとき、由佳は天使かと思った。それは器量がよかったと
いうからではない。確かにかぐやは愛らしい、しかしあの時の虚ろな瞳で、朦朧とした思
考能力で容姿云々まで気がまわらない。かぐやの身体から溢れんばかりの生命力が、そし
てどこか非現実的とも思えるその圧倒的存在感がいやでも目に映った、心をうった。
「かぐや、これはどーしてもきかなきゃならない頼みか?」
かぐやは首を大きく縦に振る。口をギュッと結び、子供に思えないほどの強い意思を瞳
に宿す。一歩も引かない決意さえうかがえる。
――――ハアァー
男は再びため息をつく。先程よりも大きなため息だ。つき終わった後、父親は観念した
かのような表情になる。
「かぐや、ちゃんと面倒見るんだぞ」
「――――!!」
「ウン! アリガトウ! パパ!」
「ちょっと待って! 何、本人無視して勝手に決めてんのよ!」
意外と言えば意外な展開に由佳は思わず大声で叫んでいた。
「何を今更、反論があるんならもっと早くにしてくれよ」
「してくれ、してくれ」
「さっきまでずっと黙ってたくせになぁ」
「くせに、くせにぃー!」
男は先程までと打って変わって底意地の悪そうな笑みを浮かべている。子供は子供で天
真爛漫な笑みを浮かべながら父親のセリフの最後の部分を復唱している。それが由佳には
気に障る。温かい家庭をまざまざと見せつけられたようで。
「あんた、さっき言ったでしょうが! 犬や猫なんかとは訳が違うんのだって! それ
にだいたい、あんたいい大人なんだから常識ってモノ、考えてよ!」
「何言ってやがる。それこそ捨て犬か猫と変わらん目で訴えてたくせに」
男はおもむろに立ち上がり、由佳を見下すような体勢を取る。それに怒りを覚えたのか
鋭く睨みつける。
「そんなことしてない!」
「……へー。何だ、こんな所で座り込んでるから弱ってるのかと思ったけど、なかなか
元気あるじゃないか。これなら心配いらないな」
「いらないな、ウン」
「チョット…………」
「家まで電車で二駅だ。電車賃は俺がもってやる」
「もってやる、もってやる」
「あんたらねぇ……、少しは人の話を聞きなさい!」
いつの間にか握っていた手に汗が滲んでいる。
「何だよ。お前がかぐやに飼われるっていうのは既に決定事項だ。今更何を聞けってい
うんだ?」
「――――ナッ、何であたしがそんな子供に飼われなきゃならないのよ! 馬鹿も休み
休み言ってよね!」
「お前、そんな子供って言うけどな、うちのかぐやは父親の俺がいうのも何だが三歳に
してなかなかシッカリしてるぞ」
由佳の言葉に何故かムキになり力説する親に、そういわれた隣のかぐやは照れた表情を
浮かべ自分の髪を撫でる。よくよく考えるとどうして自分がこんな親バカの相手をしなき
ゃならないのかと情けなくなってきた。
「まあ、そんなに構えなくていいから。別に俺はお前の過去についてあれこれ詮索する
気ないから……」
と言って、思案顔になる。
「いや…、二個だけ聞きたいかな。そうだな、ウン、じゃあ名前と歳だけ教えてくれ」
(何、こいつ)
人の話を全く無視して一人で勝手に言いたいことだけ言う。こういう人間はムキになる
と手がつけれない。ほっとこう。そう判断した由佳は顔を伏せた。
「――――オッ、なるほど、そうきたか……。かぐや、このおねーちゃんの名前は『
ゴンコ』にしよう」
「……ゴンコ?」
「そう。『ナナシノゴンコ』だ、どうだ」
「ウン! ゴンコだね。ゴンコおねーちゃんこんばんは。小鳥遊かぐや、三歳だよ。よ
ろしく、ゴンコおねーちゃん」
無視しようと決めたものの目と違い耳から聞こえてくる音は勝手に入ってくる。塞ごう
かとも思ったが今更やると意識してるように思われるのが癪なのでしないのだが、怒りで
手が震えているのが分かる。
そんな事には全く気づいていないといわんがばかりに続ける。
「歳は……そうだな、かぐやよりワガママそうだから、二歳って事にしよう」
「二つなの?」
「ああ、ナナシノゴンコ、二歳。嫌か?」
「ウウン、ナナシノゴンコ二歳、でいい」
無邪気に全身で喜びを表現する。
「じゃあ、ナナシノゴンコ、二歳と言うことに決定!」
「けってい、けってい!ナナシノゴンコ二歳にけってーい!」
「ヨシ、ナナシノゴンコ二歳。いくぞ」
「ナナシノゴンコ二歳。いくぞ、いくぞ」
「さあ立て、ナナシノゴンコ。俺は疲れてんだよ、ナナシノゴンコ。サッサと帰ってビ
ールでも飲みたいんだ。いくぞ、ナナシノゴンコ」
「いい加減にして!」
流石に堪忍袋の尾が切れたのか、由佳は怒りに任せて立ち上がり叫んだ。
「聞きたいのなら、聞かせてあげるわ! あたしの名前は荻野由佳、歳は十七。それで
いいでしょっ。それだけ聞かせてあげたんだからもうあたしにかまわないで! もうほっ
といてよ!」
かぐやはビックリしたかのような表情をして父親の足にしがみつく。が、男は優しい顔
をして、口を開く。
「どうだ、腹の底から怒って、声を出せば少しはモヤモヤがとれただろう」
「………………」
言われてみればそうなので反論できない。
「顔もちったあマシになったな。最初、お前見たときは死にかけてんじゃないかって心
配したが……、もう大丈夫そうだな」
由佳の顔を眺める。つまり男はワザと由佳を怒らせようとしていたのだ。
「まあ、さっきも言ったが俺はお前の過去をあれこれ詮索する気は無い。どうせ投げる
人生なら俺らについてきたらどうだ? 毎日とは言わねーがたまには面白い事も有るぞ」
「……あんた一体何者?」
「一児の父親」
と言って由佳の耳に顔を近づけ囁く。
「こんな所で座っていても野垂れ死ぬ事なんかできねーぞ。女の体を買う男はいくらで
もいるんだ。最悪、薬漬けの人形にされて売られるぞ。死ぬより辛い目にあうぞ」
急に言葉に凄味が増す。
「……あ、あんただって男じゃないの。そういう男じゃないって言うの」
精一杯の虚勢を張った。すると男はチラッと自分の娘を見て、再び囁く。
「この娘が,かぐやがいる限りは男でなくて父親だ、良き……な」
優しい、本当に優しい表情をしてる。
「それに俺はこの娘の前で汚れた所を見せる気はない」
「……断言したはね。できるって言うのそんな事が、この世の中で」
(できる筈がない)
ここに居る間、色々なことを思い出していた。生まれてたった十七年、その短い間でさ
え世の中の、人の汚れたところ散々見てきた。特にここ一ヵ月が酷かった。酷かったから
今ここにいる、すべてを棄てて……。
「まあ完全にって訳にはいかないだろうな、俺もそこまで自惚れは無い。でもな……、
できる限りはそうするつもりだ。やろうと思わないとできないことがあるだろう?これも
その一つだ。人の世で生きる限りほっといても汚いところは見る、お前もそうだろう?…
…だから、だからせめて護ってやりたい、俺の前で世の中に絶望しないように。そう思っ
ている」
「そんなのって……」
理想論だ、と続けたかった。が、彰吾の目を見たら言えなかった。決意を秘めた目だっ
た。確かに男の言う通りほっておいても目に入ってしまう、そんな汚れた世の中だ。おそ
らくその事は由佳よりはるかに分かっている、がそれでもやろうとしている。
子を育てる父としての確固たる愛がそんな真剣な表情をとらせているのだろうか。そう
でもなければ心まで届くことはないだろう、揺り動かせないだろう。死を望むくらいに絶
望した少女の心には。
「どうする? 別にずっと居ろなんて言わない。すぐに出ていこうが逆に住みつこうが
お前の好きにすればいい。とりあえずウチに来ればシャワーが浴びれて、その上あったか
い飲み物がでるぞ。こんなとこに座っているよりもずっといいぞ」
少し離れて、さっきとはうって変わって明るい表情で言う。
「由佳おねーちゃん、一緒に行こう」
かぐやは父親とは逆に寂しそうな顔だ。それは何故か罪悪感さえ感じさせた。
「……わかったわ、ついていく」
「ホント、ホントに?」
由佳はしゃがんでかぐやと目線を合わせる。
「ホントよ。とりあえず……、だけどね。あなたのパパが言った通り、とりあえずね」
この親子に興味を持った、というのが本音なのかもしれない。死にたかったのは何もし
たくなかったから。前向きに生きる気力が無かったから。
しかし、今差し伸べられた二本の手は強引で無理矢理ではあるが確実に引っ張ってくれ
そうな手だった。そしてついていけば何か変わるかもしれない、そう思わせる手だった。
生きてみるのもいいかも知れない。
「ありがと」
笑いながらかぐやは飛び込んで行った。一瞬バランスを崩しそうになったがなんとか止
め、そのまま抱きかかえ立ち上がる。
「そういえば俺は名のってなかったな、俺は小鳥遊彰吾(たかなししょうご)、二十五
歳。職業は小説家だ」
「小説家なの? へぇー」
彰吾は由佳の腕の中のかぐやをユックリと引き受ける。
「一応な。まぁ、全然売れてないがな。別にお前が一人増えたところで別になんともな
い」
「へえー、豪気ねぇー。子供持った父親にしちゃあだらし無い恰好してるし、その上売
れない小説家って言うから絶対貧乏だと思うんだけど」
「普通言いにくいことズバズバ言うな、お前は……」
呆れた顔する。見た目では判らなかったがこれが由佳の地である。それを悟り一瞬、後
悔をしたような表情をするが諦める。結局引き受けたのは自分だ。
「まあ、いいけどね……。確かに小説家として稼ぐ金じゃあ無理だが別口がある。一人
や二人、扶養家族が増えたところで気にしねーよ」
「フーン、そうなの。あたしも拾われた身だからそれほど気にはしないけど……、とり
あえずヨロシクネ、かぐやちゃん、先生」
由佳は軽く手を挙げる。
「ヨロシク、由佳おねーちゃん!」
「なんだよ、その『先生』ってのは」
「だって小説家何でしょ。ほら小説家も一応『先生』って言われる職業の一つじゃない
の。だから『先生』よ。それとも何? 『彰吾さん』の方がいい?」
「……………」
真剣な表情で考えている。かぐやの方はニコニコと笑いながら由佳と父親の方を交互に
見ている。
「……先生でいい」
どうでもいいことで何でそこまで悩むんだろうか? と思うくらいの長考だった。
「じゃあ、行きましょうか」
「ウン、行こう、行こう」
彰吾は頷いてから背を向けて歩きだした。由佳もその後に続いた。かぐやが彰吾の背中
ごしから由佳を見ている。
由佳は人生を投げていた。捨てる気だった。が、この親子に出会って気が変わった。興
味がわいた。人の心を見透かすかのような娘に親馬鹿の上に理想ばかり言うが、それでも
現実を知っている父親。この二人についていけば変われるかもしれない。
(捨てる神あれば拾う神あり……かな?)
後に冗談のつもりのその言葉が本当だと知る。
第一章 空からの贈り物
「何がちゃんと面倒見るんだぞ、っよ。面倒見てるのはあたしじゃない!」
キッチンに立ったされて朝から機嫌の悪い由佳の言葉を気にせず、彰吾はイスに座り新
聞をテーブルに広げ平然とした顔で読んでいる。それは聞こえないほど没頭しているわけ
でなく、聞こえないふりをしてるのだ。その証拠に奥の部屋から来るかぐやの足音には敏
感に反応した。
「おっ、かぐや。チャンと着替えができてるな、偉いぞ!」
「エヘヘッ」
「何であたしが朝食の支度をしなくちゃならないのよ!」
言いつつも目はフライパンから離さない。結構マメである。
「かぐや、リボン持っておいで。せっかく水族館に行くんだからおめかししようね」
「ウン!」
かぐやは素直に頷き、再び奥の部屋に駆けていく。
「って、少しはあたしの話聞いてくれる。あんたら親子は!」
「おお、悪い悪い。で、何だ」
何だか悲しくなったのかフライ返しを持つ手が力ない。それでも気を取り直して
「何であたしがまるでお手伝いさんみたいに朝食の準備しなくちゃなんないのって言っ
てんのよ!」
「何言ってんだ。俺はお前の為を思ってるんだよ」
彰吾は顔色一つ変えず答える。
「どーゆーこと?」
「考えても見ろ、昨日であったばかりの言わば他人だ。それなのにお客さまの様に扱わ
れたら居心地が悪いだろ」
「……ゴメンネ、気を使わせたんだ」
我ながら殊勝な事を言ったと思った矢先、彰吾は意地の悪い顔を見せる。
「ウソに決まってるだろ」
「あんたねー! 一体何考えてるのよ!」
肩からガクッと力が抜けるが気力を振り絞りフライがえしを彰吾の顔に突きつける。
「パパー! 持ってきたよ」
丁度いいタイミングでかぐや青いリボンを持ってきた。すると由佳の存在さえ忘れたか
のようにかぐやの方を向く。
「ホイ、じゃあこっちおいで」
「ハーイ」
彰吾はかぐやを自分の膝の上に乗せ、見た目と裏腹に慣れた手つきで漆黒で艶のある髪
にリボンを結びはじめた。それを見て由佳は無性に悲しくなった。突きつけた腕をおろし
再びキッチンに向きを返る。
(この男はまず疑うことから始めなくちゃいけないのか……。ため息が出そう。……諦
めよう、この親子に文句を言うのは……、きっと疲れるだけね。は〜あ、何でついてきた
んだろ)
「ねえ、パパ。イルカさんに会える?」
「さぁ、どうかな? いるといいなぁ」
「ウン!」
「ハイ、どーぞ。フレンチトーストにハムエッグです」
棒読みのセリフだがそれも仕方ない。誰が責められようか。
「オッ、おいしそうだね。じゃあかぐや、食べようね」
「いただきまーす!」
元気良く言って食べはじめる。
「おねーちゃん、おいしいよ」
「へー、どれどれ…………。ホントだウマイ、ウマイ」
「ドーモ」
多少なりとも料理に自信があるので当然の反応だとは思っていたものの、面と向かって
『おいしい』と言われるとやはり嬉しいものである。
「これなら弁当も一緒に作ってもらうんだったな」
「そういうセリフは冷蔵庫に材料がある人が言うものよ。朝食を作れって言われても冷
蔵庫を見るとロクにモノが入って無かったってのに……」
皮肉である。眉をピクッと動かし、
「言っときますけど……」
「まあ、昼飯はどこかで食えばいいか」
彰吾はそんな由佳の言葉を遮りつつ、自前でいれたコーヒーを口に運びつつ娘を眺める。
「かぐや、ユックリよく噛んで食べるなさい。水族館はまだやってないんだから」
「ハーイ」
素直に父親の言うことを聞き、モグモグと口を動かす。
そうなのだ。昨晩、由佳がこの二人について帰るとき、電車のなかで水族館の話を誰か
がしてるのを聞き、かぐやが「行きたい」と言ったので彰吾は「明日行こう」と言ったの
だ。本当に娘に甘い父親である。
(ついて行くことを決めたのはあたしだ。娘の教育にとやかく言うのは止めよう。それ
に……昨日の先生の話が本当だとしたら、あたしなんかが口出しすべき問題ではないんだ
から……)
電車を降り、マンションまでの道のりを歩いていた。かぐやは電車に乗るまでは元気に
喋っていたが、夜も遅かったせいか電車を降りるころには寝入っていた。彰吾は優しく抱
いて静かに歩いている。由佳もそれに静かに続く。
「ねえ、何も知らないあたしを家につれていってもいいの?」
「別に構わないよ、さっきも言ったがお前の過去には興味がない」
「いやそのあなたが良くても奥さんに何か言われるでしょう」
「あ〜あ、そういう事か。心配しなくていいよ。いないから。俺はかぐやと二人ぐらしさ」
「………………」
「違うぞ、死んだとか別れたとかいう理由じゃ無いから」
気まずくなった由佳の心情を察して慌てて付け加える。
「じゃあ何よ?」
「ウーン……、後で話すよ。まあ、大したことじゃないから気にすんな。お前はお前で
いればいいよ」
起こさないようにかぐやを持ち直す。
「ホントに? 先生が興味が無いって言っても……、もしかしたらあたしがあなたの家
の金目の物をとって逃げるかも知れないのよ」
「そうだな、お前が悪人じゃないなんて事は俺には分からないな。でもそれは例えお前
のことを全て聞いてたとしても同じだと思うが」
「……どういうこと?」
「人は嘘をつけるんだよ」
「…………」
確かにその通りだ。
「……でもな、お前がそういう人間だったらかぐやは連れて帰ろうとしなかっただろう
けどな」
「――――――――!」
そう、それこそが心に引っ掛かっていたことで、ついてきた最大の理由なのだ。
「どうしてそんなに娘の事信頼できるの?」
「……………ま、いいか」
思案顔になるが、それも長くは保たない。言わなければならないことを言うべきタイミ
ング、それは結構分かりやすい。難しいのはその時に発言する勇気があるかどうか。彰吾
にはそれがあった。
「まあ、そりゃあ女神だからな」
もっとも信じてもらえるかどうかは別問題だが。
「…………」
一瞬答えに困窮した。が気を取り直してと言うより、つとめて平静をよそおった。
「……娘のことを『天使』って呼ぶ人は……まあ聞いたことがあるけど『女神』はいき
すぎじゃない」
こう答えられた由佳は正直褒められるべきだろう。いきなりこんな突拍子のない事を言
われてかなり気が抜けているのに彰吾は平然とした顔で続ける。
「いや、違う違う、この娘は本当に女神なんだ。正確には次期って事だが。もっと言う
ならその天使から育てるように預かったんだ」
「あんたねえ! この娘は女神なんだって言われて『ハイそーですか』とでも言うと思
ってるの!」
キレかけているのが自分でも判ってるようだ。声が大きくなるのも気にしない。しかし
彰吾は気になったようで自分の口に指をそえる。
「シッ、かぐやが起きるだろ」
「ムッ」
そういわれると仕方ないので声を小さくする。
「親馬鹿も度が過ぎるとタダの危ない人になるわよ」
「親馬鹿であることは認めるが……」
「認めるの!」
自覚した親馬鹿ほどタチが悪いものはない。
「がな、信じられないだろうがこれは事実なんだ」
(やっぱりついてきたのは間違いだったかもしれない)
ここまで真顔で言われると流石に後悔する。
「まあ、家まで多少時間があるんでその辺の事を話してやろうか? 信じる信じないは
お前の勝手だ。ただこれだけは言っとくが嘘でも作り話でもない。考えてもみろ、こんな
親馬鹿の男がこの娘は自分の娘じゃないって言ってるんだぞ、普通言うかそんな事を」
「……うーん、まあ聞いてあげるわ。信じるかどうかはその後ね」
一理あると思ったのかとりあえず聞いてみることにした。正直『女神』なんてとても信
じられず、自分の小説と現実が一緒になってるんじゃないかとも思うが聞いてみるぐらい
はいいだろう。
「あの時は……会社を辞めてブラブラしてた時だ。夜な、コンビニに弁当を買って帰り
道の事だ。イキナリ目の前に強い光がピカッーってさしたんだ。何かと思って見てみると
赤ん坊を抱いた女がいたんだ。いきなり光が射して、その中から女が現れたことにも驚い
たけどそれ以上に何が驚いたかって言うとその女、宙に浮いてるんだぞ」
自分の声が大きくなっていることを感じたのか一瞬自分の口を押さえた。フッ、と一息
つき話を続ける。
「どう言えばいいのかなぁ、……そうそう神々しいってやつだ。真っ白い服というか布
というか、それをまとっていて背には純白の大きな羽、均整の取れた顔立ち。美しいって
言葉に代名詞をつけるんなら間違いなくあの女だと思うね、ホントに、……おっと話がそ
れたな、でその女な、「ニーナ」って名乗ったんだが、そいつがこう言ったんだ『この娘
が覚醒するまでどうか育てて頂けませんか』とな」
神や天使という存在をそれまで全く信じていなかった彰吾だが、間近で見る天使の有無
を言わさぬ存在感に信じてしまう。ただその実体験は人に伝えにくい。
「何、それで引き受けたの?」
「俺もそれ程お人好しじゃない。当然断ったさ。でもそいつは有無を言わさぬというか
信じさせる何かがあった。ニーナは自分の事を天使と言っていたが、そいつは引き下がら
なかった。ニーナが言うには今の世には神が必要なんだそうだ」
「神って、宗教とかで崇められるアレ?」
「漢字の上でわな。神って言うのは今まで一人しかいなかったそうだ。その一人はかつ
て地球に人類が生まれたときに文明を築けるよう導いた。だから人類は現在のように発展
した。がしかしそろそろ過渡期に入るそうなんだ。その時にまた新たに人類を次の段階に
進めるように導くのがこの娘だって言うんだ」
「話が大きくなったわね」
「そうだな。それでいつ覚醒するかはニーナでさえ分からないらしい。それまでの間、
俺に育てて欲しいそうなんだ」
「神様をどうして人が育てなきゃならないの? どうして育てるのがあなたなの」
「神が地上に降りてきて何かするとき、その力の大きさ故に、一旦すべての力を封じ込
めないと降りれないだと。その時子供になるから誰かに育ててもらわないとならない。ニ
ーナはただの使いの天使だから育てられない。だから人が育てなきゃならない。人間世界
で子供を育てるのはそりゃあ成人した人間が一番なのは当然なんだがそれがどうして俺だ
ったかは聞いても教えてくれなかった、理由があるのかどうか判らん」
チラッとかぐやを見る。とても優しそうな目をしている。
「まあ、この娘が女神であろうとなかろうとかまわなかった。その頃の俺は自由ってヤ
ツを悟ってしまってな、自由でいたいという気持ちと自由になりたくない気持ちの二律背
反に悩まされた時だったからな」
「自由を悟る? 意味がよく分からない。自由でいることに何が不満なの?」
「そうだな……由佳、お前自由ってのはどういう事だと思う?」
「何にも束縛されないこと」
由佳は即答した。おそらく聞かれるだろうと予想していたからだ。
「そうだな,俺も意味としてはそう理解している」
「ハァー?」
ハッキリ言って拍子抜けした。もっとなにかしらの話かと思っていたが。
「意味としては、だ。そう気の抜けた様な顔をするな」
無茶な話だ。それではもっと期待通りの事を言わなければならない。それともこれが布
石とでもいうのか。
「人が完全に自由になれることはない。もし完全に自由になれるとしたらそれはきっと
死を意味する」
「――――!」
「何事にも束縛されないこと、ルールや常識、そして人からも……。逆らうんじゃなく
て関わらないんだ。つまり自由イコール存在しないこと、と言える」
「どうしてよ。人に関わることもそれこそ本人の自由でしょ」
「人に関わる事だけする自由か……、そうだな仮にお前さんが自由を求めるとする。そ
れで、人だけに関わるとしよう。その関わった人間はお前のことを証明することができる
のか?」
「そりゃあできるでしょ。あたしは生きてるんだから」
「そうだな、お前が生きていることは証明できるだろう。が、お前の存在はおそらくで
きない。この規則、学歴、登録の世の中でそれから自由になったお前をどうやって証明で
きる?戸籍の無い人間は医学上では生きていようとも書類上では存在してないものと認定
されるんだ」
「そんなの……」
「じゃあ生きてく最低限の登録だけしていくって言うのか。そういってドンドン縛られ
ていくことが自由って言うのか。だんだん自由から遠ざかってきたぞ」
これだけは、これだけはと増やしていくと当初の目的から外れてしまう。本末転倒であ
る。そんな事を考えてると気が滅入るのか段々と由佳の顔が暗くなってくる。
「とまあ、そんな事を議論する気はない。考え方は千差万別だからな」
「へっ?」
「別にそれこそ時間の無駄だ」
「――――じゃあ言わなきゃいいじゃない!なんか気分悪いわ」
「そりゃあそうだろうな。何の為っていうと由佳をからかいたかったんだから」
「ふざけんなぁー!」
ニヤニヤと底意地の悪そうな顔をしている彰吾に思わず叫んでいた。
「結局、何が言いたかったかというと単に一人で寂しかったっと言うことさ。ちょっと
小難しく言いたかったのさ」
「何の為よ?」
憮然とした表情を隠そうともしない。
「お前さんの脳味噌を動かす為にさ。あんなトコでボーッと座りこけてたら脳味噌も止
まって柔軟な思考ができないだろ」
たとえ柔軟な思考でもあんたの言ってることは信じがたいわ、と言いたいがグッと堪え
言い返す術を考える。
「で、結局寂しかったおじさんは素性の分からぬかわいい女の子を育てることにした、
て言うの」
「その言い方嫌だなあ……。完全に違うとは言えんが……。ニーナは養育費として二人
が一生かかってと使い切れない位の金の入った通帳もくれたんで、始めは軽い気持ちだっ
たんだが……」
一瞬、何とも情けない顔をしてかぐやを見る。
彼は孤独だったのだ。一人になりたいと自由になりたいと自ら家族からも社会からも接
触を断ったのだがそれによって味わったのは空虚感。いざ孤独を味わうと欲しくなるは自
ら断った人との接触だった。誰かに必要とされたい、誰かを愛したい。そんな想いからニ
ーナから赤ん坊を受け取った。
「この娘は普段はタダの娘なんだが、時々ホント、賢いっていうか鋭いっていうか、か
ぐやが言い張ることは全て正しいんだなこれが……。それが女神の資質って気づいたのは
それ程昔って訳じゃ無いんで疑うお前の気持ちは分かるから無理に信じろとは言わない。
っと、ここだ」
彰吾の止まった先には一言で言えば高級マンション、セキリュリティーシステムの完備
された所だ。
「な、何。こんないいトコに住んでるの? 高いんじゃないの」
「まあ、けっこうしたな。でもこれで少しは信じる気にならないか?」
「どうして?」
「売れてない小説家がこんなトコに住めると思うか。しかも3LDKだぞ」
相場まではよく分からないかったが駅から近くの高級マンションじゃあ、名も聞いたこ
とがない小説家に住める所だとは思えない。
「お前が居たければ好きなだけ居ればいい部屋はある。もし、学校に行きたければ行か
してやる、学費ぐらい出してやれる」
驚くほどの好条件をつきつけられ目を丸くする。
「ただし条件がある」
「条件?」
「ああ、もしお前が居るあいだにかぐやが覚醒してな、俺の元を離れる時に出くわした
ら、俺は何もしない、いや何もしないようにする。だから俺の代わりにかぐやを見送って
くれ」
「どうして何もしないの?」
由佳の疑問に彰吾は寂しそうな顔をして応えた。
「一時という約束で預かった。だから情がわかないように名前を『かぐや』にした」
「なよ竹のかぐや姫から取ったの?」
「ああ」
いつかは自分の手元から居なくなることを忘れないようと、自らを戒めるため
「でも今の俺はかぐやが大切だ、必要だ。だから、その時かぐやを引き止めるかもしれ
ない。そうならないようと、自分を押さえるつもりだけど、そうなると……」
「わかったわ」
由佳は言葉を遮った。これ以上言わせるのは忍びない。
(聞いているこっちまで暗くなるように言わないで欲しいよ)
意地の悪い小説家が自分を騙すために即興でつくった創作にしか聞こえない与太話だが
それでも信じてみようかなと思う気になった。
どう評価しても彰吾という男は親馬鹿でそんな人間が既に別れの心配をしている。娘が
嫁に行く、という気の早い心配ではなく、溺愛している娘は預かりモノでいつか必ず別れ
の日が来ることを常に思い、恐れている。
ハタで見ても愛していることがハッキリ分かるほどの親子が血が繋がっていないと簡単
に言えるものだろうか? いつか来る別れの際、寂しいけれども仕方ないと思えるものだ
ろうか?
一ヵ月以上前の自分なら鼻で笑い信じるどころか考えもしなかっただろう。失ってから
初めて気がつく満ち足りた幸せな日々。その幸せな日々を送っている最中に失うことを考
えるというのは度を越している。自分にはできないし、考えたくも無い。
「情けないパパの代わりにあたしが笑って見送ってあげるわ」
「ありがとう」
「勘違いしないで、あたしがいるあいだにもしも、本当に起こったらの話だからね。そ
の時にあたしがいたらよ」
必要以上に期待されたくない。
「ああ、それでいい」
ニッコリと微笑む。娘に見せた笑みとはまた違う微笑みに見えたのは由佳の気のせいだ
ろうか。
第二章 心はいつも側にいる
平日のしかも開館早々ということもあって人はほとんどいなかった。自分たちのほかは
従業員以外にはサラリーマン風の男が一人いるだけで――――もっとも入ると同時に喫煙
所に行き携帯電話をかけている――――実質貸し切りのような感じがした。だからという
わけでは無いだろうがかぐやはいつも以上に元気良く走り回っている。
「おさかなさん! おっさかなさーん!」
「イッパイ泳いでるねー、キレイだねー」
館内は照明の光量は低めで水槽の周りのライトアップを強調している。それがなんとも
この空間を幻想的にかもしだす。
「ウン!」
巨大な水槽をスイスイと気持ち良さそうに泳ぐ、色鮮やかな幾つもの熱帯魚の群れ。
プカプカと浮かぶクラゲの下を一匹の大きなエイがゆっくりと飛ぶように泳ぐ。
無造作なのか、それとも芸術性なり視覚心理をついたのかは判断しかねる水槽の下に置
かれた岩にはイソギンチャクやヒトデがこここそ自分の居場所だと主張するように張りつ
いている。よく見ると岩と岩の隙間にも何かいるようだ。
魚を追いかけるように見ているかぐやに、体長がかぐやくらいの巨大な魚が一匹何故か
群れから外れて勢いよく向かっていく。
「キャァッ!」
驚いたのかかぐやは父親の足に隠れるように飛びのく。魚はまるでそれを確認したかの
ように、もしくは驚かすのが目的だったかのように水槽ぎりぎりでUターンし群れの最後
尾に戻る。
「ほら、かぐや。大丈夫だよ」
最も厚さ三〇センチ以上のアクリル製の水槽にぶつかったところで痛い目を見るのは魚
のほうでかぐやには被害はない。音が聞こえるくらいだろう。それでも父親の言葉に魚を
含めて被害がないことを確認するとまた水槽に近づき食い入るように見る。
(熱帯魚を見てはしゃいでいるかぐやとそれが嬉しそうな父親か……。ハタから見れば
微笑ましい光景だろーな)
昨日の事はすべて信じた訳ではなかった。が、かぐやに普通の娘と何か違うことを感じ
たのは確かだし、死んでもいいと思っていた自分の気持ちを変えたのも確かだった。それ
でも、どう見ても普通の子供と親馬鹿すぎる父にしか見れなかった。
「どうした由佳?……なんか浮かない顔だな」
今度はかぐやが深海魚の方に走っていった事だけ確認し、彰吾はもう一人の連れに声を
かける。
「浮いた顔ができるほど大人じゃなくてすいませんね」
「何だ、ここに来たくなかったのか? それならそう言えばいいのに」
「言えば連れてこなかったの?」
「それはないな」
あまりにもキッパリと言うのであきれてしまう。
「…………、じゃあ来たくないって言ったらどうするつもりだったの?」
「そうだなー……。その時は浮かない顔だなって聞かなかっただろうな、理由は分かり
きってるから」
「………………」
ホントにどこまでも人を食った性格である。
「パパー! おねーちゃん!」
由佳が何も言い返せない所にかぐやの声が聞こえた。その方向を見てみるとかぐやが手
を振りながら飛び跳ねている。
「水族館なんか面白いものかな?」
「……スレてる人間ならまあそうかも知れないけど、見るモノすべてが新鮮に映る時期
ってのは何見ても面白いんだよ。子供ってのはそんなもんだ。よく言うだろ、子供はスタ
ミナ切れ知らずに動き回るって。なんでもかんでも興味深くて楽しい、だから身体は止ま
らないんだ」
(……まあ、一理あるとは思うけどね)
言外の皮肉が素直に認めさせてくれない。
「スレてて悪かったわね。でもそれって娘がかわいくて仕方ない男の盲目的な意見に聞
こえるわよ」
というものの、全身で喜びを表現してる姿を目の当たりにすると彰吾の気持ちも分かる
ような気がした。由佳は軽く手を振り返す。隣を見ると彰吾も同じことをしている。それ
を見てかぐやは嬉しそうにこっちに駆けてくる。
「かぐやちゃん、そんなに慌てなくったって……、アッ!」
「キャッ」
由佳が続けようとしていた言葉を言う前に眼前で実行された。
「痛ーい」
泣きそうな声で言う。それはそうだろう、あれだけ豪快に転べば。
「大丈夫? ほら…………、って何よ」
由佳がかぐやを起こしてあげる為にしゃがんで手を差し伸べようとしたところを、彰吾
は由佳の肩を押さえて手を出させないようにした。
「ほらかぐや、前にパパが言った通りだろ」
優しく、温かい声。由佳は顔を上げて見たが薄暗いので表情までは分からない。
「かぐやはかわいいから転んでも誰かがすぐ助けてくれるって。でもな、助けてくれる
人がみんなイイ人かどうかは分からないそうだろ。かぐやがもし悪い人にさらわれでもし
ら、そんなことがあったらパパは、パパは生きていけない。だから、一人で起きてくれ。
できるだろ。かぐやは強いんだから……」
甘えたい盛りの三歳の子供にとってこの言葉は酷な言葉かもしれない。でもこれは言う
べき言葉なのだろう。かぐやには、いやきっと誰でも言われるべき言葉で乗り越えなけれ
ばならない最初の事なのだ。
(へー、やるじゃん)
正直、見直していた。普段は娘に激甘の父親なのに言うべき時に言うべきことをキチン
と言えることに。それは難しいが一番大事なのだ。
「ぅぅぅ……」
かぐやは地面に手をつきユックリと立ち上がろうとする。痛みと寂しさで今にも泣きだ
しそうだが、グッと歯を食いしばって涙を堪えている。
パン、パン…………
立ち上がった後、服についた汚れを叩く。健気にもその後父親に無理に笑顔を作った。
それを見て
「えらいぞ! さすがは俺の娘だ! もう最高! かわいいぞ!」
言うが早いか、かぐやを抱きしめる。現金なモノでかぐやも抱擁と同時に今度は本物の
笑顔になる。
(前言……撤回、すべきなのだろうか……この場合)
この変わり身の速さは驚くべきものがあり、何かドッと疲労感を感じる。
でもそれだけでは無いことにやっと気がついた。今朝から何となく感じていた感情がや
っとハッキリした。
その感情の名は「疎外感」。
この親子の会話や行動についていけないのは単にこの親子が普通と違うと思っていたせ
い。しかし今のやり取りを見てハッキリと分かったようだ。例え血がつながっていなくと
もそんな事は関係なしに二人は心根で繋がっているということに。
(何か……いいな。そういうのって)
今の由佳には憧れるものがあった。そう、特に今は……。
「ねえ……、聞いてくれる?」
まだ、娘を褒めたたえていた父親と無邪気に喜んでる娘に口をはさむ。
「……何だ?」
先生はかぐやをユックリと下ろしあたしを見る。
「あたしが何で昨日あそこにいたか、その理由を言っとこうと思って……」
「別に強制はしないぞ」
それ程興味が無いのか口調はやけに素っ気ない。
「あたしが話したいの!」
思わず声が大きくなった。でもそれで由佳が本気だと言うことが伝わった。
「分かった、聞こう」
彰吾は目をじっと見て応えた。それが最低限の礼儀のつもりなのだろう。
(別に……話す気は無かったんだけどなぁー)
だがこの親子を見ていたら何だか寂しくなった。一緒にいるものの二人といると何だか
浮いている様な気がしている。このどこか不思議な親子の間に形だけでなく少しでも深く
関わりたい、そういう気持ちが湧いてきたのだ。その為には自分の事を話しておこうと思
った、少しでも打ち解ける為に……。
フー……
とは言ったものの踏ん切りがつかないのかため息がもれる。それともあまり思い出した
くないのだろうか。
「ンッ?」
彰吾から借りた由佳にとってはブカブカのジーンズの膝の辺りをクイクイっと引っ張ら
れている。見下ろすとかぐやが心配そうな顔をしている。
「おねーちゃん……。辛いなら無理しなくいい」
(そんなに辛そうな顔をしてたのかな、そんなつもりはなかったんだけど……。それと
もこれが先生の言う次期神の力の一部なのかな?)
由佳はかぐやの頭を軽く撫でた。
「大丈夫よ。気にしないで」
「場所を変えようか、確かあっちにベンチがあったろう」
とショーがある野外ステージの方を指さす。今日が休日というのなら一日に数回イルカ
やアザラシなどのショーが見れたのだが今は訓練をしているようだ。そこの中には言うま
でもなくベンチはあるのだが、出入り口付近にも確かにベンチが備えつけられている。三
人は向かっていくとそこには先客がいた。先程電話をかけていた若いサラリーマンとその
上司であろうか、年いった白髪の老人がいた。それを見て彰吾は「他にするか」と声をか
けようとした瞬間、こちらに気づいたようで何故かそそくさと移動していた。
「何だ、ありゃぁ?」
ベンチなんてモノはある意味早い者勝ちだし、エチケットとしては老人は優先される。
その二つを兼ね備えて移動する理由は無いはずだというのに。
「どうしたの?」
由佳は何から話すか考えていたようで見てなかったらしい。
「……うーん、何でもない。あそこでも座るか」
きっと考えすぎだろうと結論付け、目的の場所に座る。ちなみにかぐやが真ん中に座っ
ている。座ると同時に彰吾は
「手短に話せ。詳しい心理描写はさえしなければ痛みも少しはマシだろう」
(本当にいい人達、昨日出会った人間をここまで気を使ってくれるなんて……)
その一言は由佳に決心はつけるには十分な言葉だった。
「お言葉に甘えて簡単に言うわね。あたしは両親と弟の四人で暮らしてたんだ、一ヵ月
前までは……」
理想的な家庭といって差し障りない、普通の幸せな家庭だった。ちょっと無口だが優し
い父、逆に口うるさいところもあるが明るい母、生意気だが何故か憎めない弟。今から考
えると大好きだった。
「家族で温泉旅行行く予定だったの……お母さんが懸賞で当てた期限が近づいたから」
「行きだか、帰りだがのどちらかで事故にあった。お前だけ助かった、もしくはお前は
何かの都合で行かなかって助かった」
「――――――――!」
彰吾の突然の言葉に息を飲んだ。
「っど、どうして……?」
何も言ってないのに……。言葉が続かない。狼狽、という言葉がピッタリの状態だ。
「どうしてって言われてもなぁー、俺が書くならそういう展開になるかなぁーと思って
……、当たるとは思わなかったがな」
頭を掻きながら言う。しかし一番言いたくないところを代弁してくれたことで少し気が
楽になった。それを狙ってやったのだとしたら……
(ホントどこまで本気でどこまで嘘かが分からない人だ)
それともそれが優しさなのか。結論付けるのはとりあえず止め由佳は話を続ける。
「先生の言う通りよ……。あたしは中間試験と重なったから行かなかったの」
試験の最中に突然呼び出されて全容を聞く。試験期間にはつきものの寝不足が簡単に吹
き飛んだ。急いで病院に向かうが誰一人として由佳を待っていてくれなかった。
病院で対面した冷たく血の気がない顔はまるで知らない人のような感じがした。
それから通夜、葬式となったわけだがその時の事はほとんど覚えていない。その準備は
誰かがしてくれたのだろうがお礼を言ったのかどうかも自信がない。ただ力なく座ってい
ただけだった気がする。涙を流していた訳でも、涙に耐えていた訳でもない。何もしてい
ない、何も出来なかった。まるで魂が抜けたかのようにただ座っていた。何人もの人に「
元気を出して」「気を落とさないで」等の慰めを言われた気がする。
ただ最後のお別れと言われた時、父の、母の、そして弟の顔を直視できなかったことは
ハッキリ覚えている。
そして葬式が終わり皆がいなくなった。
「あたしもそれまで全然そんな事聞かされてなかったんだけど……。お父さんの実家か
なりの資産家らしいだ。昔お母さんと結婚しようとした時お祖父さんから猛反対されて、
それでも諦めれなかったお父さんは家を捨てたって話なんだけど……、その辺りの詳しい
ことは良く知らないんだ。あたしも簡単に説明されただけだから……」
「ああ、別に構わない。そんなモノは想像に難くないからな」
それを見計らったかのように中年の若干父に似たところがある男とちょっと化粧の強い
女がやって来た。普通にやって来たというのに、物言いは丁寧だったというのに何故か好
印象とはとても言えないモノがあった。
「で、お父さんの兄だの妹だのが現れて言うのよ、養女になれって」
「それは肉親故の親切って訳じゃなかったって事か」
「うん、口ではあたしの身を案じてって言ってたけど違うことは雰囲気ですぐに分かっ
たわ。でも、親の反対を振り切って結婚するために家を飛び出たお父さんに遺産相続の話
が出たのは不思議だったけど……」
とりあえず、と言うことで連れていかれた場所は家と言うよりは屋敷というべき建物だ
った。しかし言葉では優しく迎えられたものの空気は最悪にだった。誰もが表面的には優
しかったが、――――とても冷たかった。
「別に不思議でもないだろう。何だかんだ言って子供や孫がかわいいっていうのはよく
ある話だ」
「……そうなのかな……? 伯父さんや叔母さんは表面上はともかく結構ギスギスして
たけど……」
「人生が終わりを意識している人間とそんな事など微塵も考えてもない人間じゃあ全然
違うよ」
父親が死んだという情報を最初に手に入れたのは祖父だったという。それまでその家で
は由佳の父の名は禁句となっていたというのに、禁句にした張本人が口にしたのだから一
族は相当驚いた。そしておもむろに遺言に書く遺産の分配を一考すると言ったのだから騒
然とした。暗に何を示してるのかは明白だった。
「で、由佳を養女にして遺産の分け前を少しでも多く得たいってハラか……となると、
よっぽどの資産家だな、お前の祖父さんってのは」
少し目を丸くする。ネタとしてはありがちなネタだが隣にその事例がいるということは
なかなか無い。
「さあ……、その辺は知らないわ。お祖父さんに会ってないもの。向こうが忙しいって
話だもの」
金のことをどうしても最初に考えてしまう人間が住む家は由佳にとって居心地の悪いこ
とこの上なかった。
彰吾とかぐやに背を向ける。
「……おねーちゃん」
突如、由佳の足に抱きつく。
「かぐやは、……かぐやはおねーちゃんの事好きだよ。ウン、大好き」
――――ウッ
泣きそうになった。
(……こういうこと……か)
昨晩彰吾の言っていた事が今、理解できた。今までは当たり前だった事、自分の存在そ
のものを無償で証明してくれ、愛してくれること。それがこんな嬉しいことだということ
を。
人は失ってから初めて失ったものの大切さが、価値が分かるという。そして大抵の場合
分かったときにはすでに遅く全く同じものを取り戻す術がない。
「……えーっと、……どこまで話したかしら……」
腹に力を入れて涙を堪える。
「……とにかく打算があってあたしを養女にしようとした伯父さん、叔母さん。実の子
が死んだっていうのに顔さえ見せないお祖父さん。そんな人達の世話になる気、ウウン顔
も見たくなかった。だから、あたしは言ってやったの。あたしにいくら財産が貰えるのか
は知らないけどそれで自由を買います。さようなら、ってね。……で、家から飛び出した
の。自暴自棄になって、どうでも良くなってた時、かぐやが現れたって訳よ」
由佳が飛び出したとき誰も追ってこなかった。それこそ厄介払いが出来たとでも思った
のだろう。それでも祖父が何か言えば探すのかもしれない。欲というのは恐いもので取り
つかれた者は何をするのか分からないことを学んだ由佳は家に戻らなかった。また呼びに
こられても嫌であったし、また誰もいない家が怖かった所為もあった。
ポンっと彰吾は肩に手を乗せた。
「よく、頑張ったな……」
もう限界だった。
ウッ、ウゥゥッ
振り向き、先生の胸にしがみつくように由佳は泣きだした。
心から涙を流すという行為には様々な利点がある。
悲しみを乗り越えるために現実を認めることができる。
ウチにため込んでいたものを少しでも一緒に流すことができる。
ひとしきり泣いた由佳はスッキリしたのか目こそ腫れているが表情自体は決して悪いも
のではない。
「オイ、とりあえず顔、洗ってこい」
というものの涙のアトはハッキリと残っている。自覚はあるので素直に従う。
「そうね、そうさせてもらう」
「かぐやも行く!」
飛び上がらんばかりの勢いで、手を挙げる。
「……まあ、いいか。由佳連れてってくれや。俺はここで待ってるから」
「ダメー!」
由佳の返事を遮りかぐやは叫ぶ。由佳は何事かと思うものの彰吾は平気な顔だ。
「何だ? 一緒に行ったほうがいいのか?」
首を勢いよく横に振る。
「じゃあ……パパにどうしろっていうんだ?」
「パパはあっち」
入口の方向を指さす。トイレとは正反対の位置だ。
「あっちって?」
変なこと言うなと思いつつ由佳は訊ねる。
「電話の近くにおイスがあるの。パパはそこ! 絶対そこ!」
「そこって……別にそんな遠いところで待たさなくったって……」
「分かった、分かった……。じゃあそこで待ってるよ」
由佳の言葉を遮るように立ち上がり、指さされたほうに行こうとする。
「ちょっと……」
「んっ?」
「先生、ホントに行くの?」
「ああ、かぐやにそういわれたらしょうがない」
首だけこちらに向けて軽く言う。その軽さが解せない。
(この人はどうして……)
「……せめて理由を聞くとかしないの?」
「行きゃあ分かるだろ。楽しみはとっとく主義でね」
「子供の、かぐやの気まぐれだったらどーすんのよ!理由があるとは言い切れないでし
ょ!」
「また人を拾うってことはないだろうけど……何かあるんだろ。何もなかったらそれで
もいいさ。その時はいい時間だし、昼飯にしようぜ」
いいつつも表情では何かあると確信している。
何故そこまで信用できるのだろう。本当に女神とでも言うのだろうか。由佳にはいまい
ち理解できなかった。そして彰吾の意思も変えることは出来ない。
「かぐやのこと頼むわ」
そう言われたら何も言えなかった。歩き去る彰吾を尻目にかぐやを連れていった。
「ここ、よろしいですかな?」
言われた場所で座っていると白髪の老人が声を掛けていた。年は六〇代後半といったと
ころだが体つきもしっかりしており、高そうな背広をキッチリ着こなしている。
(……確かさっきの)
この男には見覚えあった。最初に座ったベンチの先客である。若い男は見あたらないが
確かにそうであった。
「ええ、構いませんよ」
とりあえずニッコリと応える。先程は気づかなかったがこの老人には威厳もしくは風格
のようなモノを感じて、言葉も自然と丁寧となる。
老人はユックリ座ると隣の彰吾をチラッと見る。それが彰吾の視線と重なって互いに軽
い会釈をかわす。
「………………」
気まずさからか老人はおもむろに煙草を取り出し一本、口にくわえる。そこでふと思い
出したかのように
「煙草吸ってもよろしいですかな」
「どうぞ、気にしませんよ」
「そうですか……」
ブランド物のジッポを取り出し火をつける。
「あなたは吸われないんですか?」
息を吐き、少し緊張がほぐれた老人は話しかけてくる。
「昔は吸ってたんですけどね、娘ができてから止めたんですよ。煙草ってのは吸う人間
よりも周りの人間のほうが害が大きいって聞いたもんで」
「ほーう、子供のために。……立派ですな」
「そうでもないですよ。時々無性に吸いたくなって、コソコソっと隠れて一本ってよく
やってましてね」
「はっはっは……」
おどけて言った彰吾が面白かったのか軽く笑いだす。
「おっと、失礼。いかがですか? 一本」
「…………よろしいんですか、すいません」
目の前に差し出された煙草にどうしても我慢することができず、何度目かの禁煙破りを
してしまう。
一本取るとすぐに火を用意してくれたので、すかさずくわえ火をつける。
「どうもすいません」
初めての吸う銘柄で自分の好きな銘柄と比べるとキツく感じたが、それでも久しぶりの
紫煙は美味く、どうしても笑顔がこぼれる。
「そんなに好きなら止めるとまでせず、数を減らすことから始めればいいんじゃないか
ね」
「うーん…………、煙草の煙も悪くはないんですけどね、それ以上に娘が健康に育って
くれるほうがいいんすよ。……数少ない生き甲斐ですからね。娘の健康と煙草じゃあ比べ
モンになんないでしょう」
「……なるほどね。子供が好きなんだな」
老人は何か思うところがあるのか感慨深げに言う。
「若いころは特にそんな事は無かったんですけどねぇー、もしかしたらむしろ嫌いだっ
たのかもしれないなぁ。何かっていうとすぐ泣くし、かと思えば大声だして動き回るし、
その上人の言うことは全然聞かない。うざったいと思ってたんですけどね。でも不思議な
もんでいざ自分が育てるとなるとそれさえもかわいいと思えるんだから。おじさんはどう
でした?」
紫煙を吐きながら昔を思い出す。自分もそんな頃があったことを棚に上げ、嫌っていた
自分を。もしかするとまだ大人になりきれていない心が、忘れているかつて何も知らなか
った子供の頃の自分を思い出し、拒絶していたのかもしれない。
「……どうだったかな?仕事が忙しくて……そんなに構ってなかったことは覚えてるん
だがな」
「そうですか。……でも子供ってのは面白いモンですね。毎日毎日成長している。身体
はもちろん頭や心まで。考え方や受け止め方も日によって変わってく」
「受け止め方?」
「ええ、昨日までは親のいうことを素直に聞いてたかと思うと次の日には何故それをす
るのか聞いてくる。この先成長していくと説明に納得いかなかったら反論とかしてくるん
でしょうね」
「……そうだな、……言われてみれば身に覚えが……あるな」
老人は少し声のトーンが落ちた。痛いところだったのだ。
「止めようと言う気は全く無いんですが、成長ってのは止めようとしても止まるもんで
ないし、それにどう成長して行くかなんかは予想つかなくて毎日楽しい反面、……怖くも
ありますね。よい方向に育ってもらいたい、それが親の責務だと思って導こうとしてるの
ものの……どうなることやら。俺と娘じゃあ最終的に考え方やら価値観やらは違うでしょ
うからね」
「……………………」
彰吾は何気ない口調でいったものの、その言葉には重みがあった。何故ならそれは本心
からでた言葉だからだ。
期待 ―――― 少しでもいい人生を送ってもらいたい。
義務 ―――― 子供は一人では生きれないのだから。
重圧 ―――― 子供の人生を自分が左右するかもしれない。
責任 ―――― 親として一人の人間を育てている。
希望 ―――― 幸せになってもらいたい。
様々なモノが入り混じる。それは決して軽いものではない。
しかし報酬もある。彼女の、娘の笑顔だ。それはなにものにも代えがたい。
「…………わしにも子供がいる」
「おねーちゃん、こっちから行くの」
「へっ? どうして?」
「パパ、ビックリさせるの!」
言うが早いが走り出す。彰吾の行った方向とは逆になるが、この水族館は建物が円状に
なっているので遠回りになるものの入口にはたどりつける。
「ちょっと、待ちなさい。かぐや」
振り回されてるなーと思いつつも追いかける。いかんせん三歳の子供のコンパスでは差
をアッサリ詰められる。というものの今更引き返すのも面倒なのでかぐやの行く方向につ
いていく。
「ンッ?」
程なくしてベンチに座っている彰吾の背中を遠目で確認した。その隣には白髪の人が座
っている。
(誰だろう?)
近づくにつれ、彼らが何か話していることを知る。
「おねーちゃん」
かぐやが小声で話しかける。つられて自然と声が小さくなる。
「何?」
「静かにあそこまで行って、隠れるの」
彰吾たちの座っているベンチの後方に大きめの柱がある。そこに行こうというのだ。
「でも……」
「行くの」
ゆずらないかぐやに由佳は仕方ないといった表情をする。でも意外に人の背後に忍び寄
るというのは高揚感がある。由佳らが気づかれず柱の影に隠れたとき何やら話し声が聞こ
えてくる。立ち聞きは良くないと思いつつも自然と聞き耳を立ててしまう。
「…………わしにも子供がいる」
(……? 一体何の話?)
「そうでしょうね、そのお年じゃあ」
「息子が二人、娘が一人。優秀に育てるべく厳しく教育したが優しくは接しなかった。
だからだろうか、そこそこに育ってくれたが皆わしを怖がった」
「よくある話ですね」
「それでも次男はわしの期待通りに育ってくれた。ゆくゆくはわしの跡を継いでもらお
うと考えていた。それなのにあいつは大学で知り合った女にうつつを抜かし、愛に生きる
と寝言をほざき駆け落ちした」
「地位を取るか、愛を取るか。どちらにしても両極端な生きかただな」
だからこそどちらかを選んだ人間にはもう一方の考え方をにわかに受け入れられない。
片方が劣っているわけではないのに明らかに劣っているように見えるのだ。人によっては
天秤にかけたとき等価にできるというのに。
「あいつが駆け落ちした時、わしはどうしても理解できなかった。わしが薦めた道は正
しいに決まっているのにそれは決められたレールの人生だとぬかしおる。許すことはでき
なかった。……無理やり引き裂くということも考えんでもなかったが、わしの人心掌握の
経験上無理強いさせると結果が伴わないことを知っておった。縁を切るというならほって
おこうと考えた。いずれ根をあげて戻ってくるだろうと思ったし、仕事もその時期が一番
忙しかった。が、予想と反して戻ってこなかった」
「連絡も無しに?」
彰吾の問いに老人は首を横に振る。
「一度だけ……一度だけ写真付きのハガキが届いた。息子にその相手、そして孫、女の
子と男の子が一人づつ幸せそうに笑っておった。それを見て何が正しくて何が間違ってい
るのか分からなくなってしまった」
(もしかして……、まさか……)
後頭部しか見えない老人を由佳は呆然と見るしかなかった。かぐやはと言えば先程まで
が嘘のように静かに立ち、由佳に向かってコクリと頷く。
「手紙が来てから二年後、今から言うと三年前になる、妻が倒れわしが駆けつける間も
なく逝ってしまった時ふと気づいた。確かに仕事は忙しかった。家庭を顧みることをしな
かった。だからといって傍にいてやれなかったことが正当化できるわけではない。異変に
気づいてやれなかったことが当然と言うわけではないのだ。……悔しかった、辛かった。
それからはそんな思いはしまいとさせたくないと子供や孫たちには幸せになってもらおう
と思った。しかし驚いた、その頃から、いやそれ以前から同じ家におってもバラバラの子
供や孫たちを見て、一体わしは何をしていたのだろうと。……間違っていたのかと」
老人はまるで痛みを噛みしめるように呟く。
「あいつが正しかったのかと、わしは無駄な事をしてきたのかと」
両手で顔を覆い、嘆く。彰吾はその様子に一考する。
「何が正しくて何が間違ってるかなんて人それぞれでしょう」
最後に一息短くなった煙草を吸い、備えつけの灰皿に捨てる。
「少なくとも家に残った子供さんたちは地位や金が大切なんでしょう? それなら間違
えていなかった訳じゃないですか。貴方の薦めた道には簡単にそれが手に入り、それはそ
れで幸せですよ」
「――――――――」
あまりといえばあまりの物言いに老人のみならず由佳まで閉口してしまう。しかし彰吾
は構わない。
「それに駆け落ちした息子も跡継ぎを拒否したにしても教育には成功した訳じゃないで
すか。言われたことしかできない人間が多い中、人と違うことが怖くて出来ない人間が多
い中、自分で考えて行動したんですから。ボンクラなお飾りの二代目でない人の上に立つ
モノとしては必要なものでしょっ」
「面白いことを言う、……でもそうかも知れないな。もっともその才能は失われてしま
った。孫娘以外は事故で死んでしまった」
老人は顔を上げ、彰吾を見る。
「詳しいですね」
「妻が死んでから探したからな」
「会われなかった?」
「今更どの面下げて会いに行けようか」
葛藤。激しく悩み、夜も眠れなかった。
「奥さんが無くなったことの報告でもすれば良かったでしょうに」
「その時は出来なかった。どう接していいのか分からなかったからな……。でも勇気を
出して会うべき…だったな、二度と会えない分かっておったら。ハハッ……考えてみれば
わしの人生後悔だらけだな、いつも気づくのが遅すぎる」
自重気味にいい、頭を抱える。その言葉は嘘でないというのは空気で感じる。
「人生には数多くの過ちがあって、その都度後悔を繰り返す。それは誰でも通る道でタ
チの悪いことに同じ道が無いときた。だからせめて後々悔いが残っても今やりたい事をや
ったほうがいいんじゃないですか? 結果を恐がってたら……何も出来ませんよ」
それは心に直接響く言葉だった。何故ならそれは彰吾の決意でもあったからだ。今現在
かぐやを大切に育てたい、後にどんな別れが待っているとしても。その後かぐやがどんな
道を歩むにしても。後悔するその時が来ても目を背けずに生きていく為に……。
その言葉は老人の心にどのような変化を与えただろうか。劇的な変化だったわけではな
い。うすうす思っていた自分の後悔を代弁してくれただけの様な気がするが、それでも他
人の言葉を自分の耳で聞くと心が軽くなった気がした。
「君は……若いわりにシッカリした考えを持ってるんだな。安心した。話せて……楽し
かったよ。ありがとう」
老人は顔を上げそう言うと、膝に手をあて立ち上がろうとする。由佳は「アッ」と声を
あげそうになるか何故か慌てて口を押さえる。
「孫に、由佳に会っていかなくていいんですか? そのために居場所を突き止めてここ
まで来たんじゃないんですか?」
「――――!」
「流石に……分かるか」
完全に立ち上がり横の彰吾を見下ろす。おかげで由佳の位置からも横顔が見える。始め
てみる祖父の顔、それは父を三〇年程老けさせた感じを受けた。精悍であるものの少し疲
れたような表情を見ていると不意に目が熱くなる。
「まあ……ね、良くありそうな話でも一日に二度も聞けるほど無いでしょう。差し詰め
若いサラリーマンみたいなのは秘書ですか?」
「ああ、彼に由佳の居所を探してもらった」
昨日かぐやが拾った時点で捕捉はしていた。どうするか連絡を受けたが子連れというこ
とで身の安全は大丈夫だろうと判断し、タイミングを図ることにした。そして次の日、彰
吾たちと水族館に入ったところで出向くことにした。
それは由佳に会うことだけが目的ではなかった。
「何よりも君に興味があってね、小鳥遊さん」
昨夜連絡を受けた時点で手の空いた者に彰吾について調べさせた。途中まではなかなか
優秀な人物であるにもドロップアウトし、今は母親の素性の分からない娘を育てている。
何となくだが息子に似ているような気がした。
「確かにあの家じゃあ居たくないという気持ちもわからんではないしな。それにわしに
は子育ての才能はない。君はやりたいことをすればいいと言うが、わしには結果を気長に
待つほど生きれる保証はないしな」
「子育ての才能……ねぇ。俺にだってあるのかどうか……」
「わしよりはあるだろう。自分の意見が正しいと信じきっておらんのだから」
「子供だって人として、身内とはいえ一己たる人間として扱ってやらなきゃとは思って
ますけどね。人は不完全なんですよ、子供が親より優秀な部分があったって不思議じゃあ
ないってね」
「そうかもしれんな、……いやそうなのだろう」
「おねーちゃん、行こっ!」
老人は突然の声に驚き、その方向を見る。そこにはかぐやが柱に隠れている由佳の手を
引いている姿が目に入った。秘書に由佳が来たら知らせるように待機させたというのにま
さか逆方向から来るとは。次いで彰吾を見るとそんなものだろうと妙に達観した顔をして
いる。
「えっ、でも……」
戸惑う由佳。それを察して彰吾は振り向きもせずアドバイスを送る。
「いいから出てきて一言ぐらい話しとけ。今のお前と同じでジイさんもどう接すればい
いのか分からないんだから」
「………………」
「おねーちゃん」
事実を知れば、相手の心さえ分かればすぐに素直に慣れるというわけではない。一歩踏
みだすには勇気が必要だ。その勇気は由佳には無かった。
「おねーちゃん、おじーちゃんだって分からないの。どういえばいいのか」
「………………」
言葉を反芻するように沈黙する。理解できないのではなく難しいのだ。その沈黙を先に
打ち破ったのは祖父の方だった。
「そのままでいいから……聞いてくれ。まず謝らせてくれ。お前を呼びに行かせたのは
事実だがすぐにわしの所に連れてこいと言ったのだ。それをあいつらは遺産を多く貰える
と勝手に解釈してお前には不快な思いをさせてしまった。……すまなかった」
今までの人生で謝られたことは数えきれないほどあっても謝ったことは少ないのであろ
う。見よう見まねというかいつも自分がされているように、背筋を伸ばし深々と頭を下げ
る。それはその場にそぐわない、けれども嘘がない。
「お前をあの家に縛りつけようと考えたわけではない。ただどのような生き方をするに
しても多少なりとも金がいるだろう。その事で話があったのだ」
もっとも彰吾がろくでもない人間でそれでも由佳が一緒にいるというのなら無理やり連
れて帰ったかもしれないが。
「――――――――」
突然聞かされた祖父の本心に感情が激しく揺らめいているのか声が出ない。
ただわだかまりを無くすにはしばらく時間がかかるのだろう。
「お前にも父親と同じように無理やり財産を相続させようとはしない、……お前の望む
人生を歩ませてやる」
人によって価値観は全然違う。金を望む人間もいれば由佳の父親のように愛を、また由
佳のように自由を望むものもいる。自分の手から離れたほうが幸せになるというのなら、
それはとても寂しいことだが仕方のないことなのだろう。誓ったのではないか幸せにしよ
うと、心を揺り動かされたのではないかやりたいようにやればいいという言葉に。無責任
に聞こえたかもしれないが最良の方法では無いだろうか。
「小鳥遊さん、孫のことお頼みしてよろしいでしょうか」
「俺なんかに任せていいんですか?」
「貴方に……お願いしたい」
今度は彰吾に向かって頭を下げる。それを見て立ち上がる。
「頼り無く見えるかもしれませんがお孫さんを大学に行かせるだけの財力と人間を預か
る責任感はあるつもりです。こう見えても一児の父ですから。保証人ぐらいにはなります
よ。ただひとつ条件があります」
「……何でしょう。金の面でしょうか。それなら後日秘書に……」
「いえ、違います。今はまだ無理でしょうけどいつか貴方の優しさを理解してくれる日
が来ると思います。きっとね。その時は迎えてやってください。帰る家が二つ有るっての
もオツなものでしょう」
今後由佳に会えないというのは覚悟していた、それが自分の報いなのだからと。故にそ
の申し出は涙が出るほど嬉しかった。
「孫が帰りたいというのに、無視する年寄りはいない」
でもそれは由佳次第だ。
「そうですか、分かりました。お預かりしますよ」
「……ありがとう」
祖父は最後にもう一度由佳の顔をチラッと見た。目に滲むものがありおかげでハッキリ
見えないがそれでも構わなかった。
「お前は、いやお前も幸せに……なれ」
おそらく死ぬ寸前まで父親は幸せだったのだろう。娘一人残して逝った事は心残りだろ
うが、人生トータルとしては幸せだっただろう。
踵を変え、出入り口のほうに向かう。
「おねーちゃん!今言わなくちゃダメ!絶対!また会えるなんて決まって無い」
かぐやの言葉に家族を思い出す。旅行に行く朝、前日からのテスト勉強で寝不足で適当
に見送った朝のことを。最後に見た後ろ姿を。二度と見れなくなった家族の姿を。
「あっ…………」
かぐやの言う通り何か言わなければならない、ただ気持ちが空回りする。
「大丈夫だよ、絶対。言えるよ」
笑顔でいったかぐやの一言はまるで呪文のようだった。それまでが嘘のように頭がスッ
キリとした。
「ありがとう、お祖父さん!」
その声に祖父は振り向く。目を拭き大きく深呼吸する由佳にかぐやは手を握る。それだ
けで勇気がでる様な気がした。
「ありがとう、それがあたしにとって最高の財産よ」
第三章 あしたの私に会いたくて
「起立! ――礼」
終業のチャイムが鳴り響き、数学の教師が終了を促したと同時にクラス委員の号令がか
かる。
「ウッ、アーア」
礼の後、重力に逆らわず椅子に音をたてて座り、背もたれを使って大きく伸びをする。
これで今日の授業は終了、とはいえ久々の学校で遅れがひどく気になる上に午後から物
理、数学と続くと目を開けておくことだけでも一苦労だ。解放感があるのは由佳だけでな
くクラスメイトは一斉に行動を始める。部活に行くのか、単に用事があって帰るのかそれ
とも予備校にでも行くのかイソイソと、ある者はダラダラと出ていく。それを横目に談笑
している者もいる。
特に予定があるわけでもなく急いで帰る理由もない。精神的な疲労感から由佳は机に伏
すように倒れ混む。
「なあに、おばさんくさいわよ」
「……ほっといて」
振り向いて応える。後ろの席には仲のいい女友達の石本美咲がいる。ちょっとポッチャ
リとしているが愛嬌のある顔には他人をほっと落ち着かせる感じがする。
「何よー、ひっどい言いぐさねー。何日も学校に来ないどころか連絡さえ通じないって
状態であたしが一体どれくらい心配したと思ってるの」
由佳とは対照的な綺麗なロングヘアーをなびかせながら言う。
(いつ見てもいいなぁー)
自分がくせっ毛で髪を伸ばすといつもわずらわしい思いをしているので美咲のサラサラ
ッとした髪が心底羨ましい。
「ちょっとぉ、聞いてるの?」
「聞いてるわよ。で、どれくらい?」
軽く意地悪するつもりネタを思いついた。
「エッ!?」
「さっき言ったじゃない、あたしが一体どれくらい心配したかって」
美咲はマジマジと由佳の顔を見て、芝居がかったように額に指を置き頭を大きく降る。
「あなた、由佳じゃない」
「…………?」
今度は口調までもが芝居がかる。
「本物の由佳なら『ゴメーン、おわびにケーキでもジュースでも好きなだけおごるから
許して』って言うはずなのに!」
「何でよ!」
「それが親友の証じゃない」
「微妙に……安い証ね」
美咲の言葉に軽い疲れを覚える。そこへ
「そうそう、あたしなんかそれだけを楽しみに心配してたのに」
「――――そうね」
いつの間にか近くまで来ていた鴻野理左と北本涼子が会話に参加してきた。
(……まあ確かに少し変わったと思うけどね、ここのところ色々あったから……)
彼女たちにも心配かけたのも事実で、彼女たちも由佳が沈んでいると思って気を使って
くれているのだ。
でも……
「あんたらねぇ!」
握ったコブシを震わせる。これは軽い怒りを表すときの由佳の癖だ。どうも最近ツッコ
ミ役に終始していると自覚がある。自覚はあるが好んでいるわけではない。
「と、まあ冗談はこれくらいにしてそろそろ話を聞かせてもらいましょうか。色々あっ
たのは知ってる。連絡が通じなかったのもまあ許そう。でもせめて学校にくるのなら携帯
にでも一言入れてくれててもいいんじゃないの」
話を主題に切り換えたのは涼子。黙っていれば年のわりに落ちついた感じのする美人と
いう一言で表現できるが、喋ると他の人が言いにくいことでも平気でズカズカ言う。加え
て長身(由佳よりも頭一つ大きい)であるので威圧感もある。いつもはそのギャップが面
白いのだが自分の立場になると……。
(まいるわね)
「ちょっと、涼子……」
理左が控えめに制する。彼女は眼鏡をかけ髪を結った小柄の女の子で一見したところお
となしそうに見えるが実のところシッカリとしていて四人の中ではまとめ役だ。
「何よ」
「何よじゃないでしょ、少しは由佳の身にも……」
「半月も音沙汰が無かったのよ。家に行ってもあんたいないし。で、心配してたっての
に平気な顔して今日学校に来て、あたし達に何の説明もなしに授業受けたのよ。順序も何
も無いでしょ、納得のいくとまでは言わないけど少しなりとも説明を聞かせてもらわない
と」
口調こそいつもと変わらないのにきつく感じる。
「――――ハー」
制した理左でさえ聞きたそうにしている。
(……逆の立場じゃ、あたしでもそうだなぁ)
人ごとのように思う。
「分かったわ。話すわ」
両手を軽く上げて応える。其の言葉にみんな、特に涼子が満足げな表情をする。
「音沙汰なかったのは悪かったわ。謝るこの通り」
パンと手を合わせ軽く頭を下げる。
(実際それどころじゃなかったのだから)
由佳は先生と話しあって作ったシナリオを口にする。
「連絡がとれなかったのも悪かったわ。今あたし住所変わったんだ。後でこないだ買っ
た携帯の番号と一緒に教えるわ」
結局由佳は彰吾の家に居つくことにした。祖父に会った次の日に由佳の荷物が届けられ
た。聞いたところによると両親はかなり計画性があったらしく、子供たちの進学用に積み
立てていた貯金と生命保険で由佳の口座にはかなりの額が入っていた。ちなみに今まで住
んでたマンションは近々処分することになったが遺品の由佳が取り敢えず必要でないモノ
は祖父がすべて引き取った。
「伯父さんか叔母さんの家に引き取られそうになったんだけど、そこだと結構ここから
遠くてね、転校する事になるのよ、ヤッパこの時期に学校変わるのイヤだし、叔父さんや
叔母さんと会ったの実は初めてでさぁ……、なんかそんな人に引き取られるのイヤじゃな
い」
「じゃあ、今どうしてるの? まさか一人暮らし?」
肩をすくめながら首を横に振る。
「そうしたかったんだけどね、誰も認めてくれなくて……。おかしいわねぇ、結構あた
しって家庭的なのに」
「そうだっけ?」
「自分でいうのはタダだし、言わせてあげなさい」
「オイッ! ……で、まあ学校変わらないですむ範囲に住んでてあたしを引き取ってく
れる知り合いが一人いてね。その人の家に厄介になることにしたの」
そして由佳は彰吾の言葉に甘えて学校に行かせてもらうことにした。未成年の上に高校
も出てないと言うといざ一人になったときに生活できない。世話になった借りをいずれ返
すにしても今のままじゃ何もできないから。ちなみに学費の面では若干もめた。秘書を通
じて祖父が出すといってきたのだが、結局両親の残した貯金で支払うことにした。もしも
足りなかったら貰うということで。また彰吾に生活費も出すと言ってきた。これは素直に
受け取ることにした。金銭にはニーナからもらったモノ――――出所は不明だが――――
があるので彰吾的にはかなり裕福なのだが、どう贔屓的にみても一般的に持っているよう
に見えないタイプなので受け取らないと逆に詮索されてしまいそうだったからだ。もっと
も金はいくらあっても困ることはない、または金銭面だけでも血縁関係らしく協力させる
ことで祖父の気を楽にさせる目的があったなどの理由も本音と建前の狭間にあることを否
定できない。
「知り合い?」
「そう、お父さんの大学の後輩なんだけどね、よく家に来てたんだ」
これは半分本当である。偶然にも由佳の父と彰吾は同じ大学で学部まで一緒だった。も
っとも年が離れているので面識は全く無いが。
「その人は何、どんな人なの? 男なの女なの?」
美咲が身を乗り出して聞いてくる。
「男よ。職業は無名の小説家ってとこ」
「小説家って……どんな名前」
この四人の中では一番本を読む、と言うよりは文学少女というイメージがある理左が訊
ねる。この質問もある程度予想していた。
「多分知らないと思うわよ、小鳥遊彰吾って名前だけど」
理左は口に手を当ててその名を思い出している様だがしばらくして諦めた様に首をかし
げる。
「知らないなぁー、一体どんな本書いてるの?」
「題は何ていったっけな、今ちょっと思い出せないけど。でも言ったでしょ、無名だっ
て。下手すれば自称かも知れないわよ」
本人が聞いたら苦笑しそうな事を笑い話ように話す。
「そんな事よりその人大丈夫なの?」
美咲が心配そうな顔で聞く。
「大丈夫って……、何が?」
「そんな若い男と暮らして大丈夫かって事よ」
思わず由佳は目を丸くする。
(……なるほど、そういう事か。……これは予想してなかったな)
少し考えるが大したことは無いような気がした。正直に言っても問題はない。
(逆に正直に言っても信じられないような人だ、あの人は……)
「大丈夫よ、その人は奥さんはいないんだけど三歳になる娘がいてね。もう凄いかわい
がり様なのよ。何て言うの……そうそう親馬鹿って言うものの典型的な人よ。かぐやが、
あっ、娘は『かぐや』って言うんだけど、その娘が『お魚が見たい』って言ったら次の日
には早速水族館に連れていくのよ、信じられる」
「ホントに?」
「そうよ、しかもあたしも無理やり連れていくのよ、かぐやが一緒に行こうって誘うも
んだから」
「なんか……違う意味で心配だわ」
これは理左の言だが、三人とも同じ気持ちのようで呆れ顔をする。貞操さえ無事ならい
いというわけではないのだから。
(それも……まあ仕方ないか)
「でもね、気持ちは少し分かるの。かぐやってね、ホンット、かわいいのよ。親馬鹿に
なりたくもなるわ。で、まあそんな人だから別に心配ないわ」
「いくら親馬鹿だと言っても大丈夫とは限るまい」
由佳はハッと振り向いた。その声が美咲達の声とは明らかに違う男の声だ。
「先生……、いつからそこに……」
振り向いた先には紺のスーツと黄色の生地にと赤色の線のストライプのネクタイをして
いる男がいた。担任の北村稔である。確か三〇歳前後のハズであるのに見た目は少し老け
て見える。
「荻野が学校に来たと聞いたから話を聞くために来たんだが……、教室に入った時丁度
北本が追求してた所だったから聞き耳をたててた」
「先生、盗み聞きは酷いですよ!」
「おう、悪い悪い」
涼子が言うが担任はさほど悪びれずにむしろ堂々と言う。
「で、話を戻すが遠くの親戚より近くの他人って言葉もあるが、それでもいざって時に
心配が残るなぁ。若い上に定期的な収入がある訳でもないんだろ?」
「お金の事は心配ないですよ、その人に出してもらうわけじゃないですから。とりあえ
ず形の上で保証人と、住む所を提供してもらっているだけです。高校も出てない未成年じ
ゃぁ、世間の風は厳しいでしょうから」
担任の目を見ながら努めて明るく応える。これは彰吾のアドバイス。都合の悪いときに
咄嗟につく嘘は目線や表情ですぐバレるという理由からだ。
「フーム……」
担任は腕を組み思案顔になる。
(お願いだからこれ以上の追求はやめてよね)
「それでも少し不安が残るな、ウン。荻野明日、丁度土曜だから放課後に三者面談をし
よう。そう伝えといてくれ」
思いがけない言葉に身体から力がガクッと抜ける。由佳の願いは叶えられず、それどこ
ろか最悪の結果になった。
「ちょ、ちょっと! 先生! 待ってくださいよ!」
「どうした」
「どうしたじゃないですよ!」
「そうか? せめて少しは話でもしておかないとならんだろ。つながりが不透明な人間
なんだから」
「って事は先生は由佳の事を疑ってるんですか?」
そう言ったのは涼子。
(……なるほど『お父さんの後輩』じゃあ立場が弱いのか)
腕組みして思い悩む。
「あたしが嘘をついてると……」
確かに嘘はついているが別にやましいことは何一つ無いと思っているのか正面きって担
任を見る。
(まあ、……正直に言っても信じられない事だらけだけどね)
「だからそれを確かめたいと言っている。本当の事なら三者面談してもいいだろう、ど
うせ進路相談もしなくちゃならないし」
「でっ、でもこっちにも都合ってモノが」
「時間が自由な職業だから大丈夫だろ。それに荻野の事を真剣に考えてくれるのなら何
かあってもそれぐらいの時間は作るだろう」
美咲が由佳の両肩に手を乗せる。
(言いたいことは良く分かるけど……)
これ以上嫌がると信憑性が無くなる。
「…………分かりました。そう伝えておきます」
「よろしい、じゃぁ明日の午後に来るようにな」
(どうしてあたしの周りの大人は強引な人しかいないんだろうか……)
担任が教室を出ていったのを確認してから美咲が声をかける。
「なあに、そんなにイヤなの」
「エッ」
「顔にでてるわよ」
実際その通りで覇気はなく、肩は落ちている。正直気が重い。
「イヤって言うか……。その人、くわせモノって言うか……、何考えてるのかよく分か
らなくて、何言うか想像がつかないのよ」
(あたしのフォローがつかないことを平気で言うタイプの人間だからなぁー……。お祖
父さんの時は上手く言ったけど二度も続くかなぁ)
しかも前回の祖父は彰吾に会う前から心は決まっていた。今回のように疑ってかかられ
ている訳ではなかった。
「いいじゃない、なるようになるわよ」
と、涼子は肩を叩いてくる。
「そりゃぁ、まあ、確かにそうなのだけど……」
不安が収まるどころか大きくなっていく。
「ただいまー」
何かまだ違和感がある。が、何となく嬉しいものであった。言えなくなったはずの言葉
が言う相手は違うにしろ言えるということは。
(こんな状況じゃなかったら……ね)
「おう、おかえり」
「おかえりなさーい!」
奥から彰吾とかぐやの声が聞こえる。
(伝えるのどうしようか……)
由佳が悩みながらリビングのドアを開けると予想もしなかった光景が目に入った。
「どうしたの? その格好!」
彰吾の足元にかぐやがいる。そこまではいつもと何ら変わらない光景だが、驚いたのは
彰吾の服装だ。襟がワイドになっているブルーのワイシャツに同じくブルーのソリッドの
ネクタイを大きめに結んでいる。スーツの色はベージュ。
何故だろう、スーツを着ただけなのにしっかりした人に見えるから不思議だ。
「なかなか似合うだろ」
彰吾は問い掛けには応えずにそう言う。
「パパ、カッコいいでしょ!」
「ハイハイ……そうね。カッコいい、カッコいい」
「何かおざなりだなー」
「そんなことないわよ」
と言いつつも
(当然よ、真剣に付き合ってたら疲れが溜まる一方よ!)
と心の中で毒づく。
「でも、驚いたわー。先生がスーツみたいなチャンとした服、持ってるなんて」
「まあ、こう見えても俺は昔、紳士服を販売してたからな」
「へっ!」
皮肉を受け取ってもらえなった事よりも、その一言は驚いた。
「何? 先生、真面目に働いていた事あったの?」
「酷い言われ方だなぁー。……前に言わなかったっけな」
そういわれたら聞いた様な気がして思い出そうとする。しかし何をしていたかまでは聞
いてない。
「大学卒業してから業界トップクラスの紳士服メーカーに就職したんだが……」
由佳が首を横に振ったのを見て彰吾は話しだす。
「働いてたって言ってもたった三ヵ月程度なんで……、そんなに胸張って言えないが」
「たった三ヵ月!」
不意に思い立つ事があった。
「やっぱりあれ、先生人付き合い悪そうだから社内での人間関係が悪化したの?それと
も人に頭下げれない性格だからお客さんに無礼な事言ってクビ?それとも営業成績が悪く
てクビ?」
ここぞとばかり攻撃をしてくる。
「お前が俺の事どう思っているのかよーく分かった」
口ではそういうもののそれ程怒っていない。それが由佳には面白くなかった。
(つまんない。たまにはギャフンと言わせたかったのに……)
「まあ確かに人間関係は悪かったな。俺基本的に気に入らない人間に対しては無口にな
るから。でも営業成績は良かったぞ、その地区の新人の中では三ヵ月連続でトップだった
からな」
「パパ、スゴーイ!」
かぐやは無邪気に、といってもおそらく意味を理解したのではなく胸を張って言う父親
に反応して喜んでいるのだろう。意味を理解できる由佳はというととても信じられない。
「ホントに?」
「ああ、俺適当に喋るのは得意だからな、スーツなんか頻繁に買いに来るものでもない
だろうから『この人に会うのもどうせこれが最後』って気持ちでやってたからな」
「割り切ってたって訳ね……」
「ああ」
なるほどね、と由佳は納得したのと同時に呆れた。また口に出すことをはばまれる事を
言いたい衝動にかられる。
(これで真面目に仕事したって言えるのかしら……)
「で、どうして辞めたの」
「生活環境が耐えれなかったんだ」
「生活環境?」
「面接の時、寮に入ることになるって言われたから、ワンルームの部屋かと思っていた
んだが……、普通の三DK部屋に三人で住まされたんだ、しかも同室が店長と主任。言う
までもなく俺は一番下っ端だから部屋は玄関入ったらすぐの部屋、店長と主任はそれより
奥の部屋なんだが……、風呂やトイレに行くときに俺の部屋を通るという環境だ」
「………………」
「会社で怒られ家でも文句言われて、の毎日じゃあさすがに辛くてな……、四六時中同
じヤツと顔合わせるだけでもイヤになるぞ、普通」
「……? 成績良かったんでしょ? なのにどうして怒られるの?」
「いくら新人の中では成績がいいからっていっても、ベテランとは比べるまでもないだ
ろう。それに怒る材料はいくらでもあるさ。まあ同期の連中は俺より成績が低いってこと
で叱られてたらしいけど」
「で、我慢しきれなかったっと」
「ああ。休みはチャンと週二回くれたんだが、一人だけ休みってのが少なくてな。大抵
店長か主任のどちらかと休みが一緒なんだ。で、そのせっかくの休みの『どこか買い物に
出かけて接客されてそのテクニックを盗んでこい』て言われてノンビリさせてもくれなか
った」
(言われた事自体は普通の事のような気がするけど)
呆れ顔で見ている由佳の視線に気づき、コホンと彰吾は小さく一つ咳払い。
「何か愚痴が多くなったがそういうところだ」
聞いてる方まで疲れるような事を言わないで欲しい、と言いたかったが良く考えたら聞
いたのが自分だったので黙っておく。
「で、何で今頃になってスーツなんか着てるの? まさか就職活動でもするわけじゃあ
無いんでしょ?」
「いやな、かぐやが着たほうがいいって言うもんだから」
「………………、先生って……」
(この男だけは……、娘が言うことは何でもするんだから……)
口にこそ出さないものの頭が痛くなりそうだった。こういうことをアッサリと言われる
と。
「あのね、あのね、あしたパパとかぐや、おねーちゃんの学校に行くの! だからパパ、
いい恰好するの」
「――――! そんな事まで分かるって言うの!」
忘れかけてた事を突然言われ驚いた。かぐやにそういう能力があると分かっていても驚
いてしまう。
「ふーん、そうなんだ。面倒くさいが仕方ないか。祖父さんにも頼まれてるし、大事な
先輩の娘の為だからな」
「先生、何で学校行くのか分かってる?」
あまりにも軽すぎる彰吾を学校に連れていくことが、自分にとってどれだけ不安なのか
少しも分かってなさそうなので実に腹立たしい。
「そうだなー……、お前の進路の相談、が名目で俺を調べるのか」
「……当たり。で、立派な保護者を演じられる自信は?」
(こんなに鋭いのに、いや分かっててわざと人の神経に触るような事を言う人でなけれ
ばこんなに不安にならないのだけど……)
「役者じゃ無いんだ演じることに自信なんかあるわけない」
「ちょっと! 先生」
「まあ、聞け」
由佳を軽く制して話を続ける。
「大丈夫だよ。要はお前の事を真剣に考えていればいいんだろ。保証人らしくいや違う
な、親らしく……だな」
「できるって言うの?」
「そんなあからさまに疑うような目をするなよ」
言われてみるとそんな顔してるのかもしれない。だからといって由佳だけが悪いとは言
い切れない。
「その原因を作っているのは誰?」
「悪い奴がいるもんだなぁー、世の中には」
ここまで皮肉の通じない相手だと言うだけ損だ。彰吾は全く気にせず話を続ける。
「今まで頭を下げたことのない祖父さんにあそこまで頭下げられたんだ。お前をあだや
おろそかに扱えないだろ」
「……うーん」
「それにだってまだかぐやがお前の事を必要としてるんだ。だから、大丈夫だよ」
「結局そこにいくわけ!」
(この親馬鹿を何とかしてよ)
大声で叫びたい衝動にかられる。
「大丈夫。……何とかなるよ」
かぐやが由佳のスカートの裾を引っ張りながら笑顔で言う。
「ほら、かぐやもそう言ってる。上手くいくよ」
由佳はもう呆れて何も言う気にならなかった。
第四章 信じるものに救われる
当日になった。
土曜日は本来は休みなのだが、由佳の通う高校は補習という名目で午前中だけ授業が行
われている。その間全くといっていいほど由佳に落ちつかなかった。
「まるで判決を待つ犯罪者みたいよ」と美咲の言だが、それに近い心情であった。
失敗したらどうなるだろうか。それを考えると落ちつかない。彰吾が保証人不的確のレ
ッテルを張られた場合やはり祖父に引き取られるのだろうが、わだかまりが無くなったと
はいえ心を開くにはいかんせん時間が足りない。また当然のことながら他の家族とはソリ
が合わない。
(考えてみれば今ベストの暮らししてんだ)
子供にまるで猫のように拾われたとはいえ今の生活は楽しい。かぐやと出会ってから色
々なことがあり家族を失ったことが忘れることは当然出来ないが、あの日から大分時間が
たったような気がする。
時が解決するというが意外にそれは間違いではない。絶望に似た深い悲しみさえ和らげ
ることができる。その時間の生活が充実すればするほどだ。
前向きに生きていくという気持ちをくれた親子の元から離れるのは嫌だった。面と向か
っては照れくさくて言えないがこれは素直な気持ちであった。
「すいません、お待たせしました」
担任は由佳を、いや彰吾を見るなりこう言った。その日の午後、場所は進路指導室の一
角だ。彰吾は時間通りに来たのだが担任は所用ができ若干待たされる形となった。
「いえ、お気になさらないで下さい」
彰吾は昨日用意していたスーツを着て来ている。もちろんかぐやも一緒に来ている。
「改めまして、……私がこの度由佳の保証人をつとめさせてもらうことになった小鳥遊
彰吾です」
立ち上がり深々と頭を下げるのを見て担任も
「はじめまして、私が担任の北村稔です。あっ、どうぞお掛けになって下さい」
と席をすすめる。
「娘がこんなですからこんな格好で失礼しますよ」
「ええ、かまいませんよ」
彰吾は膝にかぐやを乗せ、自らもイスに座る。一応三者面談と言うことなのでその横に
由佳も座る。
「早速ですが……」
由佳は胸の鼓動が速くなるのを感じる。
「進路のことをどう考えてますか?」
(あー、緊張する。お願いだから上手くやってよ)
祈るような気持ちで隣を見る。
「進路に限ったことじゃ無いんですが……基本的に自分の事は自分で考え決めてもらお
うと思っています」
「なっ!」
担任が驚きの声を上げる。
(この男だけは……)
たった一言だけだができることなら後頭部を叩いたあと口を塞いで連れて帰りたい衝動
にかられた。
「その結果が進学、就職どちらになるかは知りませんがその通りにさせてやるつもりで
はいますよ」
「そっ、それは無責任ではないですか」
「そうですかねぇ」
無理に平静を装っている担任に、彰吾は全く動じない。ある意味大物かも知れない。
「ソ、そうですよ!経験の無い若者は迷いやすいものなんです。我々はその若者の為に
道標になってやらなければならないんです。もっと親身になって大学選びをするべきなの
です」
「なるほど、そういう考えもありますね」
「あなた、荻野の成績をご存じ何ですか」
言葉が震えているような感じを受け由佳はハラハラする。彰吾はクビを横に振る。
「校内でもトップクラスの成績何ですよ。ここしばらく休んでいたので遅れていますが
真剣に勉強すればどこの大学だって狙えるんですよ」
「へーえ」
感心したような声を出す。
(そういえば……)
思い出してみると彰吾の家に住みだしてから勉強などしたことはないし、学校の話など
ほとんどしていない。まさか成績が良いなんて思わないだろう。
「へーえ、じゃないです! だからこそ少しでもいい大学を受験するように勧めるべき
なんです」
「俺、……いや私は別に大学に行かせないとは言ってませんよ。行きたいのであれば一
流私大だろうと地方の大学だろうと行かせますよ、ただ自分の人生くらいは自分で決めろ
が僕の持論なんですよ」
担任は若干怒った様な口調になっているというのに全く気にした様子がない。由佳は何
か口をはさもうとしたがその異様な雰囲気に何も言うことが出来ない。
「少しは真面目に……」
「僕はいたって真面目ですよ」
最後まで言わせず自分が喋りだす。
「どんな人生を選ぼうといつか必ず後悔するモノです。大小あれどね。そんなとき自分
で決めたんであれば割り切れるものの、人任せで決めた、また人に決められたのであれば
悔やんでも悔やみきれないモノじゃないですか。僕はそうでした。人を恨む事じゃなかな
か前に進めない、違いますか」
最良の人生を送ってきたと思っていた由佳の祖父は間違っていたのではないかと後悔し
ていた。彰吾と話したことで心は軽くなったが、今更違う道は歩めないのか間違っている
と思いつつも進んでいる。
由佳の父は人に決められた人生が嫌で家を捨てた。好きな女性と結婚し子供を二人もう
けて幸せだったろうが、一度も後悔しなかったという保証はない。仕事で壁にぶつかった
とき、金銭面で困ったときなど親の言う通りの道を歩めばよかったと思った日もあるので
はないだろうか。しかし天秤にかけたとき、いやかけるまでもなくその生活が、愛する妻
と子供がいる生活の方が重かった。
「――――」
一瞬、少し言葉に詰まったようだがすぐに続ける。
「実際の子供じゃないからそういう無責任な事が言えるんです」
「――――!」
(遂にきた! その話題が……。信じてあげるから上手くおさめてよ)
自分にできることが信じることだけと彰吾に全てを任せることに決めた。
「この娘が大きくなっても、同じ様な育て方をするつもりですよ」
彰吾はチラッとかぐやを見る。見てみるといつの間にか寝入っていたのか寝息をたてて
る。大人たちが言い争っているのが馬鹿らしいくらいに寝顔は愛らしいものがある。
(いい気なもんだ)
しかし寝ているというのはきっと自分一人で問題ないんだろう、かぐやを女神と信じ絶
大な信頼があるので、彰吾は自信を持って言葉を続ける。
「僕はね学校は行かせようとは思ってますが、別に勉強を無理にさせようという気はあ
りません。やりたいことがあり、高校も行きたくないと言うのなら無理強いはしないつも
りです」
今日彰吾は由佳のためと言うよりは実のところかぐやが由佳と同じ立場になったとして
この三者面談に望んでいた。いやむしろ、事実を共有している由佳への所信表明でさえ合
った。
「今の社会、高校ぐらいでていないと何もできません、なぜだと思いますか。歳が若い
というだけでは無いのです。学校という社会のシミュレーション・フィールドにさえ対応
できない人間が社会に通用するとは思えないからです。あなたの様な考え方では将来必ず
道を踏み外すことになりかねません!」
強い口調で言い放つ。
「先生のおっしゃる事も分かります。だからこそ僕は学生時代、勉強をしてました。学
校も真面目に通いました。それなりに学校には対応できたと思っています。が、社会には
お世辞にも適応できたとはいえませんでしたよ。……でも、道を踏み外しそうになりませ
んでした。学生時代、先生方からでなく、友人たちから学んだ人付き合いや、社会の適応
の仕方で生きてきました。だから……それくらい、自分で生きていけるくらいの知識と逞
しささえ学んでもらえればとは思いますが」
「しかし……」
「だってそうでしょう?その子にどんな可能性があるなんて誰にも分からないんですか
ら。無理やり勉強に向かわせることでその可能性の芽を摘み取ってしまうかもしれない。
人には無限の可能性があるなんて言いませんが、……違いますね、もう自分では思えませ
んが、だからといって子供に夢を無理にあきらめさせたくはないんですよ」
「あなたの考え方では荻野だけでなく御自分の娘さんが、自分の目指した夢に絶望した
ときはどうするつもりです? 夢に一直線に進んだばかりに普通の人生を送れなくなるか
もしれませんよ」
目を見つめながら、静かだが張りのある声で言う。
「その可能性は……残念ながら否定できませんね。でも自分でその道を見つけ目指した
のであれば、挫折したとしても立ち直ることができるくらいに強くなっていると思います
よ。立ち直りさえすれば生きていけますよ。生きていくのであれば、その気があるのであ
れば幸せになる方法はそれこそいくらでもありますよ、例え学歴がなくってもね。もし立
ち直れなかったら僕も一緒に悩みますよ、親としてね」
実際のところ由佳だけでなくかぐやも血を分けた実の子供ではない。それでも真剣にそ
う思っている。
(血のつながりがなんだ)
彼はそう思っていた。確かに世の中の大半は幸せな家庭かも知れない。でも実の子を殺
す親がいる、捨てる親がいる。また実の親を殺す子供がいる。それも大した理由でなく。
大切なのは信頼ではないだろうか。無条件で愛し愛される環境。
「へぇー」
由佳は誰にも聞こえないように呟く。
今までは親馬鹿で結構無責任な保証人というよりも頼り無い兄貴の様に思っていたが、
色々考えがあっての事だったのかと感心した。
(何となく生きてきたわけじゃないんだ)
彰吾の過去に何があったのかは今のところ知るよしがないが、その時の体験と考えが元
に今の彰吾がいる。
無責任で頼り無い姿はポーズで、その姿を見て自分がしっかりしなくちゃという意識を
かぐやにそして由佳に植え付けさせ、結果早くから自立させようとしているのかもしれな
い。特に彰吾の言葉を信じるのならかぐやは女神だ。自立は早いほうがいいのかもしれな
い、かぐやの為にも、自分の為にも……。
フゥー
担任が大きくため息をつく。あきらめたというため息ではない。むしろ……
「ありがとうございます」
すがすがしいというか、晴れやかな顔というか。
「何が……でしょうか?」
彰吾は不思議そうな顔で尋ねる。それは由佳も同じだった。
「忘れていた事を、貴方とお話しすることで思い出しました」
「――――?」
「私は勉強を教えるためだけに、生徒を大学に行かせるためだけに教師になった訳では
なかったということを。私は迷いがちな子供を導きたかったんだと言うことを……、いつ
しかそれを忘れてました」
(へぇ、驚いた)
普段、担任の北村は受け持ったクラスで英語を教えるだけでなく、進路指導として熱心
で精力的に働いていた。見た目は元気そうなんだがそれは空元気に見え、どこか疲れてい
る姿からは想像もできないほど瞳は澄んでいた。
「今の時代、当初の目的をいつまでも覚えておくことは難しいことですからね。……で
も先生は生徒を導いていますよ。そうでしょう、そうでないのなら由佳のことをこんなに
心配しないでしょ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
「おっと、頭を上げてください。礼を言うのはこちらの方です。先生の様な立派な方に
なら安心して由佳を預けれますよ」
そう言ってかぐや抱いたまま静かに席を立つ。
「私も保証人ではなく親としての責務を果たすつもりですが、私がいたらぬところはよ
ろしくお願いします」
かぐやを起こさないようにか、軽く頭を下げる。担任も静かに立ち上がり
「ええ、分かりました、荻野にはまた後日進路希望を聞くことにしましょう。年頃の娘
を預かるのだから苦労も多いでしょうがよろしくお願いします」
ヨシッ、由佳は内心ホッとする。今ここでガッツポーズがしたくなった。
(とりあえず何とかなった)
目的を達成したことも嬉しいが彰吾の心も少し知れたことも嬉しい。
由佳も席を立って彰吾の後を追う。彰吾がドアを開けたとき担任の呟きが由佳にだけ聞
こえた。
「試すつもりが試された……か」
不思議とそれは悔しくなかった。
「先生も少しは親らしく、マシな事考えていたのね」
校門を出てからすぐに寝ているかぐやを起こさないように小声で聞く。秋が終わりかけ
ているこの季節ではまだ日が高いとはいえ風は心持ち冷たい。
「まあな」
「あら珍しい」
「……何がだ?」
「いつもなら絶対はぐらかすのに」
由佳の冷やかしに少し照れたような表情を浮かべる。
「まっ、たまにわな」
「そうね」
クスッと笑みがもれる。
「子供には幸せになってもらいたい。そう思うと色々考えるもんだよ」
彰吾はチラッと由佳を見て微笑む。
「お前も親になればわかるよ」
「ふーん……、そんなもんかなー」
今日の先生はヤケに優しいような気がするのは何故だろう。子供を育てる親というのは
こう言うものなのだろうか。由佳はそんな事をぼんやりと考える。
彰吾はまだ寝てるかぐやをユックリと持ち直しながら話を続ける。
「お前の御両親がお前の事をどう育ててようとしていたのか知らないけど……、俺は俺
のやり方でお前も育ててやるよ」
「ハハッハ……言うにことかいてこの親馬鹿が。……でも、アリガト。何か、……何か
嬉しい」
そう言って一歩前に出る。自分でも分かるくらいに赤くなった顔を見せたくなかった。
これが先生が以前言っていた存在を認めてもらえることの嬉しさなのかな。今までは当
然のだった事、失ってから初めて気づいた事。今、再び手に入れた。永遠にという訳では
ない事は分かっているけど、いずれ支えられるだけの存在じゃなく、支えれる存在になれ
るように学ばせてもらおう先生からそしてかぐやから……。
第五章 優しいにも程がある
「ほら先生、いい加減着替えてよ」
昼をまわったというのにあいかわらずパジャマのままで新聞を読んでいる彰吾に掃除機
のスイッチを切り由佳は苛立ったように声を掛ける。朝起きてから忙しく届けられた荷物
の片付け、部屋の掃除しているのに手伝いもせずノンビリとしている彰吾を見て気が立っ
たのだ。
「おねーちゃん、終わったよー」
由佳の姿を見て自分もと思ったかぐやは手伝うこと由佳に告げた。とはいえ三歳児に出
来ることは少なく今は自分の玩具を片付けるように指示していた。
「あ、ホントー。アリガト。じゃあ今度はパパを着替えさせてくれる」
「ウン」
ちょうどいいと思いかぐやに頼む。役に立っている充実感があるかぐやは喜んで父親の
元に走っていく。子供は面白いもので子供扱いすると嫌がるが対等に扱うと進んで色々や
ってくれる。
「パーパ、着替えるの」
ダイニングに座っている父の足元でパジャマを引っ張りながら言う。
「……はいはい」
かぐやに言われたら仕方ないっといった表情で、かぐやに椅子が当たらないように気を
つかいながら立ち上がる。
(この親馬鹿は……)
由佳は自分の言うことは聞かないないが、かぐやの言うことはすぐきく彰吾に内心で毒
づく。
「まったくよぉ……確か今日は日曜じゃないのか? 日曜日っていたら世間一般には遊
びに行かないならノンビリする日だろうに」
「……あなたに曜日は関係無いでしょ。それに……遊びには行かないけど遊びに来るん
だから」
ふと見るとテーブルの上に新聞を広げたままだったのでヤレヤレと思いながらたたむ。
「そりゃーお前の友達だろ。俺らに関係ないだ……ンッ?」
一言文句を言ってやろうとする彰吾をかぐやが止める。
「パパー、メッ!」
戒めの言葉を口にするが怖さは全く感じず、むしろ愛らしい。でもそんな表情を見てい
るとこちらが折れるのが当然のような気にさせられる。
「はい。ごめんなさい」
彰吾はかぐやに謝ることで文句を言うことを止めたことを暗に伝える。
「あたしだって急に言われて困ってるんだから……協力してよ」
「へいへい」
彰吾はそう言い、着替えをするためにかぐやとともに部屋に戻る。
フー……ため息をつきながら時計を見る。針は午後一時半をさしている。
(あと三十分位かな)
その頃には友人三人が遊びにくることに、いや勝手に押しかけてくるだろう。なるよう
にしかならないかと腹を決め、掃除の再開する。
由佳の三者面談が終わった次の週、担任の北村は変わったことは誰もが認識するものだ
った。それも多少の変化ではなく明らかに目に見えるほどの変化だった。
いい意味で熱血教師になったと言うべきだろうか。今までは頻繁に進路を考えるように
言い、学生に現実を突きつけていた。多くの今を楽しく生きている学生にとってはその親
心は分かりにくく、どちらかといえば逆に煙たいものだった。それが進路指導以外でも生
徒に積極的に話し合うようになり、今まで自分に興味ない話題は避けていたのだが生徒を
理解するためか真剣に聞くようになった。また今まで授業しかしなかった北村だが授業中
に教訓または格言めいた話もするようになった。
生徒のなかでもその変わり方には賛否両論、意見が分かれるところではあるが何故ここ
まで、しかも急激に変化したのかは誰もが驚いていた。人は往々にして一夜で変わること
があるがそれにはキッカケが必要不可欠である。信憑性のありそうな話から全く無い話ま
で様々な憶測が学校内を巡った。「彼女にふられた」これがよく言われたが、それにして
は表情といい行動といいイキイキとしているので逆に彼女ができてその彼女が熱血系の教
師が好みなのでそれに近い人物になろうとしているのではないか。はたまた「感銘を受け
生き方を変えるくらいのドラマや映画、小説などの作品に触れ影響を受けた」それ程若く
は無いだろうが可能性としては全く無いとは言い切れない。信憑性がないものではそれこ
そ「宇宙人にさらわれ洗脳された」「神の啓示を受けた」などあったが、それを言いたく
なるぐらいの変わり様だった。
人の噂も七五日。いずれは消えていくネタではあるが、いま一番旬な話題だった。
「でもホント、あの変わり様にはビックリするわねー」
木曜日の昼食時間。由佳は美咲、涼子、理左の三人といつものように弁当を食べていた
時に美咲が話題にした。この学校には一応食堂もあるのだが混むという理由から彼女らは
利用せず、教室空いた机や椅子――――それでもクラスの約半分は食堂を利用している―
―――を使い食卓を作り四人で囲む。食事を取ることが目的のはずだがお喋りに夢中にな
るのは普通の女子高生としてはしかたがないことなのだろう。
その中で先程、四時限目の英語の授業に話が及んだ。
「ま、まあいいじゃないの、……人間イロイロあるんだから」
理由に心当たりがある由佳はなるべくその話題を避けようとしていた。今回もそうすべ
く違う話題に持っていこうとしたが、そんな由佳を不自然に感じたのか涼子は筋道たてて
考えようとする。
「先週の……土曜日までは変わってなかった」
「そうね、金曜日の放課後のHRも今まで通りだと思ったけど」
理左は弁当をつつきながら何げに応える。
「それが週をまたいで月曜日から変わった……か」
「あれはホントっ、ビックリしたー」
美咲は箸を止め涼子の会話に加わる。このクラスの月曜日一時限目の時間割は英語で生
徒皆、月曜日特有の気だるさが一遍に吹き飛ぶほど驚いた。特に一番驚いたのは美咲かも
しれない。なにしろ直接担任に変わった理由を聞きにいったぐらいなのだから。もっとも
上手くはぐらかされたが。
「と言うことは土曜日か日曜日に何かあったと見るべきね」
「アハッ、何か推理小説の探偵っぽい。で続きは?名探偵」
喜ぶ理左を尻目に由佳はとりあえず沈黙を守ることにした。自分で作った弁当に箸をの
ばす。昼食の準備はしなくていいと言われているので彰吾とかぐやは今頃自分で簡単なモ
ノを作るか、それとも外食でもしているのだろう。
「しかもあれは変わったって言うより……戻ったって言うほうが近いと思う」
「戻るって……何がよ?」
「教師になる人間って大きく分けて二種類じゃない。とりあえず公務員だから目指した
ってタイプと真の教育を、とか二十一世紀を担う若者を育てる、とかいう一昔前のご立派
なお題目をかかげるタイプ。今の北村はどっちかと言えば後者でしょ。この前までは何っ
ていうか……どっちつかずだったけど。――――だから新任のころ頑張ってたんだけど現
実の忙しさに理想を忘れた。それが何かのキッカケで思い出し、元に戻った。――――こ
の表現が一番近いと思うんだけどねぇー」
(……流石、相変わらず鋭いなぁー)
紙パックのジュースを黙って飲みつつ聞き耳を立ててはいる由佳はちょっと恐ろしいも
のを感じた。涼子はちょっとした仕種や会話などの材料から鋭く感づき、その上分析能力
にも長けている。中学からの付き合いで涼子が論破した人間を何人も見てきたが実に見事
であった。完全までのリアリストの彼女は敵に回すと辛いものがある。
「それで?」
自分で考えるよりも涼子の話を聞くほうが楽なので美咲は続きを促す。
「そこまでよ。……なんせ情報が少ないもの」
肩をすくめる。それが残念なので美咲は声をあげる。
「……情報なら少しはあるんじゃない?」
「そうね」
眼鏡のズレを直しながらの理左の言葉に涼子はアッサリ同意する。
「何?何か有るの」
二人が由佳を見ているのに気づくものの美咲には意味が分からない。由佳は言いたいこ
とに気づいているが首をひねり「さあ」と知らんぷりする。当の本人は背中に冷や汗が流
れているのを感じつつ、ごく自然にしたつもりだが涼子には何か感じるものがあったらし
い。
「由佳ちゃ〜ん、恥ずかしがらずにあなたの男が北村と何を話したか教えなさーい」
「なっ、ちょっと男って何よ! 男って!」
思わずバンと机を叩いて立ち上がる。
「……違うの?」
「違うわよ! あったり前でしょっ、保証人よ! 保証人!」
「はいはい、じゃあそのホショウニンが何、話したか教えて」
身を乗り出されるように言われたのが鬱陶しかったのか手をパタパタと振り座るように
指示しながらも顔や口調からも完全に信じきってはいないのが露骨に分かる。由佳はやや
釈然としないものを感じながらも仕方なく席に座る。
「別に……大したことは話さなかったわよ」
何となくあの日のことを話すのは抵抗があった。
「いいじゃない。勿体つけずに話なさいよ」
「そうよ、減るもんでもなし」
「ねぇ、由佳〜」
しかし流石に三人に詰め寄られるとキツイものがあり、渋々ながらあの日のことを語り
だす。
「…………ってぐらいね」
「な、何が大したこと話してないよ! 立派なキッカケじゃない!」
今まで隠すこと無いじゃないと言わんがばかりに美咲は由佳に詰め寄る。
「……そうかな」
「そうよ。当たり前でしょ」
これは理左。まさか由佳のもつ情報がそのまま答えであるとは思わなかったらしく驚い
ている。
「でもまさかねー……」
「ホント、あんたの男って何者よ」
「だーかーらー、男じゃないって!」
「……由佳」
由佳が話が終わってから黙って考えていた涼子が口を開く。
「ンッ、……何」
静かな口調であったが真剣みを感じる呼びかけに、身を乗り出し否定しようとしていた
由佳は動きを止める。
「次の日曜……ヒマ?」
「えっ、……今のところ予定は無いけど……」
突然の質問で一瞬考えるようなしぐさをとる。
「じゃあ、遊びに行く」
「へっ?」
一瞬言葉が理解できなくてほうけた顔をするが理解できると真顔で声を張り上げる。
「なっ、いきなり何言いだすのよ!それにあたしは居候の身なのよ。勝手に決めれない
って」
「だからよ、北村を論破した男に会ってみたい」
「ちょ、ちょっと……」
「あっ、それいい考えー。私も行く。一度は小説家って人に会ってみたいんだ」
涼子の考えに賛同するように理左がいうと美咲もすかさず
「そうね、噂のかぐやちゃんも一度見ときたいわね。と、いうことで日曜日の……お昼
過ぎてからにしよっか」
「いいとこね」
「だから、あたしの一存じゃあ……」
「ダメよ。これはもう決定事項。私達には義務があるんだから」
黒髪をかきあげながら言う美咲に他の二人も同意する。
「……? 義務? 権利っていうならともかく……」
「義務よ! 由佳が住むのにいい環境かどうか調べる義務があるのよ、親友として」
三人は話し合っていた。必ず由佳の下宿先に行こうと、例え由佳が嫌がっても迷惑がっ
ても。うわべだけのナアナアの関係ならほっておくべきかもしれない。しかし大切な友人
であるからこそあえて首を突っ込まなければならない。
深く悲しんでいたあの時、通り一遍のなぐさめの言葉しかかけれなかった。由佳が親戚
の家に行ったとき傍にいてやれなかった。何て友達がいが無いのか、彼女らは自らがはが
ゆかった。だから決めた。これからは傍にいようと、力になろうと。これは誓いなのだ。
そこまでの決意を持った美咲達の決定を覆すことは出来なかった。
「こんなモンかな」
何とか一通り掃除が終わった。掃除機を片付けながら未だ部屋から出てこない彰吾に声
をかける。
「先生、まだ着替えてんの?」
「もう終わった」
「終わったよー」
二人揃って部屋から出てくる。ジーンズはともかく大きめでヨレヨレのトレーナーは何
故か一層彰吾の頼りなさそうな雰囲気を強調しているような気がする。
「もっとマシなの着たら? 仮にも女子高生が三人も来るのよ」
「別にいいよなー、かぐや」
「うん」
かぐやの視線まで腰を下ろし、同意を求めるとアッサリと頷く。由佳は何か言ってやろ
うとした瞬間インターホンが鳴る。
「おっ、来たみたいだぞ」
「……そうね」
由佳は諦めインターホンを取る。すると聞き慣れた友人の声が聞こえる。
「うん、すぐ開けるよ」
セキリュリティーシステムがついているので迎え入れられるように操作する。おそらく
予想以上の高級マンションに驚いているのではないか。
「ちょっと迎えに行ってくる」
返事を待たず由佳は出ていった。由佳に居てほしいと言われ、かぐやも居ると言ったの
で仕方なく家に居るものの彰吾はめんどくさいなと思いつつ立ち上がる。
「パパ、来る人いい人なの。おねーちゃんの味方なの」
長いトレーナーの生地を引っ張りながら悲しそうに訴えるかぐやを見ると彰吾は受け入
れるしかない。
「分かってるって。お前はそんな事気にしないで、笑ってなさい」
優しく頭を撫でる。するとうってかわって笑顔をのぞかせる。その笑顔に何となく苦笑
した瞬間、玄関が開いた音がする。由佳が入るように促すと口々に「お邪魔します」とい
って入ってくる。
「いらっしゃい。ようこそ」
なるべく不自然にならないように笑顔を作る。見慣れないものを見て後ろで由佳が苦い
顔をするが、彰吾は表情を崩さない。
「初めまして、北本涼子です」
「鴻野理左です。今日はすいません突然」
「石本美咲です。お邪魔します」
「小鳥遊彰吾です。えっと涼子ちゃんに理左ちゃんに美咲ちゃんね。初めまして。さっ
どうぞ中へ」
顔を覚えるのが苦手な彰吾は取り敢えず個々の特徴をつかみ名前と一致させるように努
める。そんな事をしているとかぐやが現れチョコンとお辞儀する。
「コンニチハ、たかなしかぐやです」
「ヤー、カワイイー!」
誰もが構いたくなるような笑顔を向けられ、美咲は人一倍反応する。
「カワイイわねー、かぐやちゃんいくつ?」
「三つー」
短い指を不器用に三本出しながら答える。その仕種が彼女の心を刺激したらしく抱きし
めたくなる気持ちをグッと我慢する。
「かぐやちゃん、ケーキ好き?」
「うん」
ケーキと言わず甘いものは全般に好きなかぐやは、ケーキと聞いただけでパッと表情を
明るくする。
「ホント、じゃあ買ってきたから一緒に食べよっ」
「うん! 食べる」
誰に会おうと人見知りしないかぐやは物おじすることなく素直に喜ぶ。
「コラ、かぐや。お礼が先だろ」
「あっ、うん。……えっとアリガトウおねーちゃん」
彰吾の窘めに笑顔で礼を言うかぐやは、どう控えめに見ても愛らしかった。
「いいのよー、いっぱい食べようね」
「じゃあ、お茶でも入れるか」
「はいはい、あたしがするから先生は座ってて」
言うが早いか由佳はキッチンに向かう。
「手伝うわ」
「……そうね」
かぐやに夢中になっている美咲を尻目に理左と涼子は由佳の後を追う。彰吾たちがリビ
ングに腰をかけてしばらくすると由佳が盆を持って現れた。理左と涼子で手分けしてテー
ブルの上にコーヒーカップとかぐや用のホットミルクの入ったカップ、ケーキを置くため
の皿とフォークを置く。
「かぐやちゃん、どれがいい?」
かぐやにベッタリの美咲はケーキの箱を開け選ばせようようとする。中をにある数種類
のケーキを1つづつじっと見て物色を始める。
「イチゴ」
真っ赤な大きめの苺ののったショートケーキが気に入ったようだ。指差しながらじっと
見ている。
「はい、じゃっ取ってあげる」
「うん、アリガトー」
美咲はまずかぐやのケーキを皿に、そしてついでのように他のケーキも用意する。ちな
みに一つだけ買っていたショートケーキは理左のキープ分であり、それを美咲が一言の断
りもなくかぐやに渡したわけだが流石に子供と取り合う気はないらしく何も言わない。準
備が済むとしばらくのあいだティータイムが始まる。
「あのー、……小鳥遊さん」
理左が遠慮がちに声を掛ける。甘いものが得意でないのでケーキは後でかぐやにやろう
と考えている彰吾はコーヒーだけ飲んでいたのだが、呼びかけにカップを置く。
「何?」
「小鳥遊さんは小説家と聞いたんですけど……、どんな本を書いてるんですか?」
「……胸張って名乗れる程でも無いんだけどね。ちょっと待ってね」
彰吾は一旦自分の部屋に戻り一冊の本を持ってくる。
「俺の作品で本になってるのこれだけなんだ。雑誌掲載された短編は一、二本あるんだ
けどね」
「りしょ……よしつねでん」
手渡された本には「裏書義経伝」とタイトルが印刷されていた。
「作者のみょーなこだわりとしては『ぎけいでん』と読んで貰いたいんだけどね、『よ
しつねでん』じゃなく。まあ源義経の伝記を穿った見解で書いた小説……かな」
何故か自信なさげに言う。それがなんともうさんくないなと由佳は思うが他は気にして
いないようだ。本人をよく知らなければ肩書と物証というのは案外影響力が大きいのだ。
そのハッタリさえあれば実際大した人間でなくとも立派に見えるらしい。
「歴史小説が専門なんですか?」
「うーん……そうでもないかな。人魚と人間の悲劇……まあ現代風の人魚姫かな、大分
庶民的だったけどそういう短編を書いたけど、ファンタジーも書いたし……。チャンスさ
えあれば何でも書くよ」
理左もそれは同じらしく、彰吾が立派な人間に見えているようだ。乱読ぎみに本を読む
自分が聞いたこともない作家だというのに。
「この本……借りてもいいですか?」
「売れなかったからそれ程面白くないと思うけど……、なんならあげるよ」
「ホントですか。ありがとうございます」
礼をいい早速持ってきた鞄に入れる。素直に喜ばれると罪悪感を感じたるのは彰吾だけ
でなく由佳も同じだったようだ。彰吾はまるで罪悪感を飲み込もうとするようにコーヒー
を一口飲もうと口に運ぶ。その会話がとぎれた一瞬を狙っていたかのように涼子が声をか
ける。
「小鳥遊さん、一つお聞きしたいことがあるんですけど。答えていただけます?」
「ああ、いいけど」
「そうですか。……単刀直入にお聞きします。由佳を引き取った理由を正直に教えても
らえませんか?」
「ちょ、ちょっと涼子、何よやぶから棒に!」
由佳はいきなりの言葉に驚き声を荒らげる。他の二人も突然のことに、そして余りにも
直線的だったので驚いたが、興味があるが聞きづらいことを話題にしてくれたのだ。なり
ゆきを黙って見守ることにした。
「いいでしょう、聞くくらい」
「でも……」
「世話になった先輩にせめてもの恩返し……だけどね」
由佳の言葉を遮り、彰吾は表向きの理由を答える。
「それが信用できないのよ。遺産を狙っているとか、由佳の身体が目当てだとか言われ
たほうがまだ信用できるってもんでしょ」
確かに実に分かりやすい理由。しかしかぐやが拾ったという事実に比べれば、説得力が
ありそうなモノだがと内心呟きながら言葉を考える。
「信用ねぇー……、人の善意は信じられない?」
「私は偽善が嫌いなんです」
「なるほど、……ね」
刺のある視線を感じつつ頷く。そういう考えの人間は実に多い。恵まれない人に募金を
する、献血をして人に役立ててもらう、エコロジーを考える……等の行いを偽善と解釈す
るからだ。全財産のホンのかけらほど募金して意味があるのか、人一人助けるのに何回分
の血液量がいるのか分からないのに少量献血しただけで人助けのつもりなのか、人間さえ
いなければ地球はエコロジーなど関係ほど綺麗な星ではないのか。
彰吾には何となく涼子の気持ちが分かった。つまりは自分は信用されてなく由佳を心配
しているのだと。
(それは偽善じゃあないのか)
そう思うが口にはしない。彼女の求めている答えでは無いし、堂々巡りになる。
「涼子! 別にいいでしょっ、あたしにとってこの人たちはありがたいんだから」
心に問いかけるまでもない、これは正直な気持ちだった。しかし涼子は、理左と美咲で
さえ納得していない。
(あー! もう! 担任を変えたっていう話術しか聞かないって気? そんなマグレ何
度も続くわけ無いのに)
または「この人が好き」などの言ったならすんなりと納得できたかもしれないが由佳に
も彰吾にも今のところそんな気持ちは生まれてさえいない。しかも三人は始めから北村を
論破した男とイメージがあるので一筋繩ではいかない。
彰吾が言葉に困っているとかぐやは一言もらす。
「パパはね、いつも、かぐやは信じてあげなさいっていうの」
皆が一斉にかぐやを見る。しかし一言いっただけで後は言う気がないのか、最後までと
っておいた苺をフォークに刺そうと格闘している。先の尖ってないプラスチックのフォー
クでは刺しづらいらしい。何度かの挑戦に必死になっている。
「――――かぐやちゃん、何言ってんの?」
美咲のみなららず彰吾とかぐや以外の人間は怪訝な顔をする。意味が理解できないから
だ。
「誰も人の心は分からないってことだよ」
(なるほど……それでいいのか)
納得のいく「引き取った理由」を考えていたからなかなか思いつかなかったが、かぐや
の一言でそれは間違いだったと知る
「性善説、性悪説と言うの中国のほうであるけど、俺はどっちかっていうと性悪説のほ
うが的を得てると思うんだ。まあ人の本能が全て悪っていうならな」
逆転の発想をすれば良かったのだ。さっき話した「引き取った理由」を彼女のいう偽善
を信じてもらえばいいのだ。
「本能、特に欲望だな。それは皆が大体同じで、だからホント分かりやすい。物欲に食
欲、独占欲に性欲とか人の欲望に限りはないっていうけど、全ての人間に平等にあるから
誰でもそれが何か詳しく説明しなくても理解はできる。違う?」
「そうね、大体は……」
涼子が頷くと確信していた彰吾はとりあえずコーヒーを飲み、喉を潤す。
「それでだ、性善説でも言われている生まれながらの善なる心。それも人間の本能には
あるものなんだと思うんだ。俗に良心とか優しさとか言われるもんだな。それはさっきの
本能と違ってタチが悪いことに人のよって、……何て言うか形が違うんだ。育った環境や
触れ合った人たちが影響すると思うんだけど千差万別の個性、それも自分で作り上げる。
例えば大事な人が目の前で転んだとする。すぐに手を差し伸べることや怪我がないか確か
めるのも優しさだけど、転げたことが不注意というのなら叱り戒めることだって優しさと
いえる。また石などに躓いて転げたというなら石を取り除くのも直接大事な人のためと言
うわけではないが優しささ。ただ、手を差し伸べられることだけが優しさだと思ってる人
間には他のことは優しさだと気づかない。いずれふとしたことでその優しさが理解できる
かも知れないけど、ホント随分後になるだろうね。もしかしたらその時にはお礼も言えな
いくらいに離れているかもしれない」
彰吾の優しさは手を差し伸べず、見守ること。それぐらいで人に頼らなければならない
ほど弱い人間になってほしいから。
「自分は憎まれてもいい思ってる人でさえ、いざ憎まれると辛いものさ。だからかぐや
には信じてやれと言っている。人がどんな思いでその優しさを口にしてるのか分からない
から。信じてもらえること、理解してもらえることは……人の力になる」
人の心が分かるかぐやにこう言うことを話すのは無駄かもしれない、教えるまでもない
のかもしれない。でも教えたいのだ、伝えたいのだ自分の全てを。それが父親の仕事だと
思うから。
誰の質問だったのか、背の高い娘の質問と言うことは覚えているのだが名前がすぐに出
てこない。
「えっと、……涼子ちゃんは偽善に思うかもしれないけど……」
背の高い娘がピクッと反応したので名前を間違えてないことが分かり、ホッと胸を撫で
下ろす。
「信じてもらうしかないさ、こればっかりはね」
肩をすくめながら優しく微笑む。
「――――それと俺は気にしないけど、涼子ちゃんが例え偽善と思ってもそれを口に出
して否定しないほうがいい。誰もが強いわけではない。自分が善かれと思ってやっている
人間は否定されると悩んで止めてしまうことがある。俺は思うんだけど偽善だ自己満足だ
と言って何もしない人間よりは世間の役に立ってるし、誰も他人を否定する権利は無いん
だから」
「………………」
否定されたことの無い人間はいないだろう。大なり小なりあろうが寂しいことだ。
「――――ごめんなさい。信じさせてもらいます」
涼子の言葉に他の二人も頷く。何か思うところがあるのか神妙な面持ちだ。
「由佳の事よろしくお願いします」
「全力を尽くすよ」
ホッとした彰吾はコーヒーを口に運ぶ。
「……ありゃ、もう冷めたな」
「はいはい、入れなおすわ」
由佳も気が楽になり、心にゆとりができたのかいつもなら言わないであろう言葉を口に
し、実行する。
「でも、流石ですね……」
「んっ……、何が?」
美咲の何気ない一言を彰吾は聞き返す。
「北本……私達の担任ね、小鳥遊さんと話してから人が変わったんですよ」
「そうそう、だからどんな人なのかなーって噂してたんですよ」
自分のことは置いてといてとりあえず興味を訊ねる。
「へー……あの人そんなに変わったの?」
「変わったってもんじゃ無いですよ。あのですね……」
ティータイム第二幕が開始した。
秋も深まれば日も落ちるのが早くなる。夕刻、帰ろうとするとき辺りは大分暗くなって
おり面倒くさがりの彰吾といえ流石に送っていこうかと言う気になった。三人は気を遣わ
なくていいと辞退するが夕食の買い物するついでという名目をつくり駅までは送ることに
した(ちなみに彰吾は四人の女の子の会話に疲れており、皆で食事に行こうという気には
ならなかった)。勿論準備ということなので作る由佳も同行せねばならず、そうなると必
然的に全員外に出ることとなった。
駅まで見送り、一通り買い物が済むと由佳が口を開く。
「先生、ごめんね。今日は」
「……まあいいさ。ヒト一人受け入れるんだ。最初は面倒もあるだろーに」
買い物といっても夕食の材料は実はあったので、切れかけていた醤油と朝食用のパンに
牛乳だけを購入した。大した重さではないので由佳が持ち、彰吾は今日は昼寝をせずに朝
は由佳の片付けを手伝い、昼からは美咲達にずっと構われてせいで眠たくなってぐずりだ
したかぐやをだき抱える。
「まあ、……涼子ちゃんにはまいったけどな」
思い出し苦笑する。
「涼子は昔からそういう所があって……ンッ?」
前方からのクラクションの音がし、一斉に見てみる。すると車が一台車線を逆走してい
る。それどころか由佳達の方に向かってすごいスピードで来ている。
「お、おい!」
珍しく彰吾が慌てる。ライトが眩しくてハッキリ見えるわけではないが、運転手も慌て
ているのが見えて恐怖が倍増する。ハンドルが効かないのかブレーキが効かないのか、あ
るいはその両方かもしれない。何にしろ好ましい事態ではない。彰吾はかぐやを抱く手に
力が入る。
「な、何なのよー!」
「とにかく走れ! 逃げろ!」
彰吾は由佳に向かって言う。由佳は反射的に彰吾の後を追っ掛ける。しかし
「何でこっちに来るのよ!」
逃げた由佳たちを追ってくるように車が迫る。
「キャーーッ!」
車にぶつかる刹那、目の前は真っ白になった。
第六章 あなたと生きてく
「パパ、あれキレイ」
かぐやがテレビの画面を指さす。
「ンッ、ああクリスマスツリーか、もうそんな季節か」
ニュースの中でアナウンサーが今年のクリスマス商戦だのデートスポットなどの情報を
伝えている。まだ若干早いような気もしたがメディアとはこう言うものだろうと納得しな
がらブラウン管を見た。そこには一般家庭に置くような小さいものではなく、どこぞの公
園がこの季節の目玉として一番大きい木に一見豪華な飾りつけと綿か何かで作った雪、そ
して夜に見栄えがするように色とりどりの電色をつけていた。ブラウン管に映っている人
間はまだ楽しそうな雰囲気はないが、当日になるに近づき浮かれた空気が街を支配する。
「クリスマスツリー?」
「ああ、そうか知らないんだな。クリスマスっていうのは……」
彰吾はかぐやにクリスマスのことを色々教えだす。キリストの誕生日だというのにクリ
スチャンでも無い人間がお祭騒ぎするのは何となく解せないものがある彰吾だが日本では
一つのイベントとして定着しているので親としては一般常識としてかぐやにも教える義務
があった。もっとも彼の偉大さはかぐやには意味があるのかとも思ったが。
由佳はその光景を横目に入れたての紅茶を啜った。
あれから一ヵ月が過ぎた。気がつくと由佳たちは家に戻っていた。後に知ったのだが、
車に轢かれる寸前だったというのに現場では事故が起こった形跡もなく、無論新聞にも書
かれていなかった。自分たちの他に目撃者がいないといえども確かに車が突っ込んできて
轢かれかけたというのに。
(かぐやが無意識に助けてくれたんだろうって先生は言うけど……)
車が由佳たちにあたる瞬間、かぐやが一瞬で家まで運んでくれた。事故の形跡がないの
でついでにあの車を止めたことになる。運転手はこちらの姿を確認したこらこそクラクシ
ョンを鳴らしたはずなのでその人の記憶を消したのか、車が止まった後に人を轢いた形跡
がなければ気のせいと勝手に思ったのかは定かではないが、何にせよかなりのことをした
ことになる。
(かぐやは女神ならそんな事ができるかもしれないけど……)
本人は覚えていないので――――それどころが家に戻った瞬間さえ寝ていたのだから―
―――事実の確認のしようがない。
その後、特に何事もなく一ヵ月が過ぎていった。変わったことと言えば
(……かぐやの雰囲気が変わった事がぐらいか。と言ってのどう変わったと言うわけで
はないしなぁー。そんな気がするって言うだけで……、先生は何も言わないし、態度も変
わっていないのであたしの気のせいかもしれないけど……。あれからのかぐやの様子はど
うもね。でも一緒に住みだしてからそんなに時間たってないから、気のせいって言えばそ
れまでだけど)
「おい、由佳。準備しろ」
「へっ?」
彰吾の声に由佳はいきなり現実に引き戻された。
「一体何よ」
「だから、クリスマスツリーを買いに行こうって言ったんだよ」
なるほどと由佳は納得した。自分が考え込んでいるうちにそういう話になっただと。
「どうでもいいけど勢いで行動する性格、何とかならない」
「する気はない」
「いや、キッパリと即答されても……」
無駄だとは分かってたんだけどね、と内心で呟く。
「おねーちゃん、行こうよ!」
「はいはい、用意するから待ってて」
と言って残り少なかった紅茶を一息に飲み干し席を立った。
(ヤッパリかぐやの様子が違うような気がするなぁ〜。何か無理にはしゃいでる、そう
思うのは……気のせいかな)
「先生も着替えたら、外は寒そうよ」
基本的にラフな格好というより常にだらし無い彰吾に言う。
「それに一児の父なんだから出かける時くらいマシな格好なさいよ!」
「分かった――――――――!!」
そういって立ちあがろうとした瞬間、驚愕の表情で由佳を、いやその後方を見た。
「何?」
由佳も慌てて振り返る。何故自分の後ろを凝視したのか分かったから、イヤ正確には感
じた。由佳も後方に何か違和感を感じた。
そこには一人の女性が立っていた。純白の服というよりはむしろ布というべきモノをま
とい、背には光輝かんばかりに眩しく目に映る大きな羽、均整の取れた顔立ちは一見する
と明らかに女性なのだが、見れば見るほど中性的な感じを受ける。微笑んでいるようにも
悲しんでいるようにも見える判断のつきにくい表情であるがそれが一層彼女の美しさを引
き立てている。
紹介されるまでもなく断定できた。何故なら、目の前の女性は何から何まで常識外れだ
った。
まずここにいること。その人のいるところはこの部屋のドアから一番遠い壁際でドアを
開けた形跡すらなく突然現れた。
第二に宙に浮いていること。背中に羽があるから浮くことができると言えば説明になる
かもしれないが、羽がはえてること自体がそもそも常識外れだ。
第三にその存在感。さっき由佳が感じた違和感は実は存在感と呼ぶべき代物であった。
(前、全校生徒の前に立ったことがあるけど、……その時に感じたモノとは比べものに
ならないくらいの存在感)
たった一人に圧倒されそうなのだ。
「お久しぶりです」
たった一言のごくありふれた挨拶だが圧倒されそうになった。
由佳は以前に彰吾が言っていた事が今やっと理解できた。この人、天使ニーナの言うこ
とは何でも本当の事として信じてしまいそうだ。
(ううん、あたしも信じた。かぐやが次期神だということを……)
神とか天使とかという人間を越えたモノとの最大に異なるところはその存在感ではない
だろうか。
「ああ……久しぶりだな、ニーナ。だけど再び会うのはもっと後だと思ってたけど」
そこにただ立っているだけだというのに、見ているだけの自分までもここにいると証明
できそうな、それくらい桁違いの存在感を持ったモノこそが人間を越えた高位の存在なの
ではないだろうか。
「私もそう思っていたのですが……」
目線を下げる。由佳は振り返ってその目線を追う。その視線の先にはかぐやがいる。か
ぐやは彰吾の足にしがみつくように隠れている。
「かぐやが覚醒した、……というのか。やっぱりな」
沈んだ声で言う。その問いにニーナは頷くことで返す。
「パパ、あの人浮いてるよ、怖いよ!」
怯えた声でかぐやが言う。足を持つ手は震えている。
「かぐや怯えてるじゃないの。覚醒かなんだか知らないけどこれは不自然じゃない。何
かの間違いじゃあ……」
自分が口に出すことじゃ無いかもしれないけど、と思いつつも疑問を口にする。がニー
ナは首を今度は横に振る。
「今の様子こそが覚醒した事を証明しているのです」
「……、どういうこと?」
「つまりだ……」
彰吾が苦々しい表情で説明する。
「覚醒する前のかぐやなら何を見ても誰を見ても怯えることは何て無かったんだ。が、
今のかぐやは……」
「覚醒する以前では私の事は記憶から消えているはずなのです。私を見て怯えている、
怯えたフリをしているということは記憶が戻ったということなのです」
記憶が戻ったということは覚醒したということ、神としての成長を果たしたということ
になる。
「おそらく覚醒したのは一ヵ月前だと思われます」
「あの時か、それにしてはくるのが遅かったな」
彰吾の言葉にニーナは少し困った様な表情をする。
「はい、発見が遅れたと言うべきでしょうね。覚醒後も以前と同様に行動してましたか
ら」
「でも、時々出るいつもと違った行動で分かった、という訳か……」
「ええ。皮肉なものですね。……貴方を助けるために覚醒したというのに」
そこでふと由佳の頭によぎることがあった。
(なるほど、雰囲気が違うような気がしたのはそのせいだったのね。先生もそれには気
づいていたんだ。それでも気づかないフリをしてたって事は……)
「ハァー」
彰吾は声にして大きくため息をつく。
「パパ! 何するの! パパ、ねえパパ! パパー!」
かぐやは手足をジタバタあがきながら叫ぶ。彰吾は両手でかぐやを持ち上げスタスタ由
佳の横を通ってニーナの方に歩いていく。
「確かにお返しします」
抑揚がない声にで言いながら文字通りかぐやを手渡す。かぐやが覚醒したのでは、と薄
々気がついていた。三年も一緒にいれば多少の変化でも気がつく。ただ言いださなかった
のは少しでも長く一緒にいるため。
「――――パパー、パパ! パパったらー!」
「お世話をかけました。今まで本当にありがとうございます」
そして別れる心構えをするため。ニーナは優しく受け取りながら礼を述べる。
「かぐやのことよろしく頼みます」
深々と頭を下げる。暴れながら叫ぶかぐやをよそに話は進んでいく。
「かぐや……」
彰吾は由佳が出会ってから今まで聞いたなかで一番優しい声で呼びかける。かぐやの身
体はニーナの方に向いているので背中にいる彰吾を懸命に振り向き見ようとしている。そ
のかぐやの髪にソッとふれる。
「……元気で……な」
「イヤ! ――――絶対イヤー! パパ、聞いて! あたし行かない、――――ずっと、
……ずっとパパの傍にいる!いるんだってば!」
彰吾はその言葉を聞くなり、かぐやに背をむける。
(――――!? 何て……悲しそうな顔をしてるんだろう)
おかげで由佳にはいやがおうでも彰吾の表情が目に入る。涙こそ零していないのだが顔
は歪んでいる。かぐやの言葉に奥歯を強く噛みしめ何も応えない。
見てる由佳までもが心から落ち込みそうな、深い悲しみを浮かべた表情が。
人はここまで悲しむことができると言うことを知ったのと同時に悲しむことができるの
は幸せかもしれないと思った。悲しむことができるということはそれだけ好きだったとい
う証なのだ。
(あたしもそうだったのかな)
頭の中のどこか冷静な部分が場違いにも家族が亡くなって悲しんでいるときのことを思
い出させる。あの時確かに悲しかった。
「かぐや……、人には役割があるんだよパパはお前を育てるという役割だった。だから
かぐやも自分の役割を果しておいで」
(あたしでさえかぐやと別れるのは辛いんだから、先生なら尚更だよね。……当たり前
だけど)
それでも気丈に別れを口にする。が、肩や手と言わず全身が震えている。堪えているの
だ、一番言いたい言葉を。
「彰吾さんの言う通りです。貴女には使命があります。使命を果たすために行かなけれ
ばなりません。さあ、最後にお礼とお別れを」
ニーナはかぐやを彰吾たちのほうに向ける。と言っても彰吾は背を向けたままだ。
(こんな顔を見せたくないのね)
深い、絶望にも似た悲しみの表情を。それは親としての最後の心遣い。
「いや!」
キッパリと断る。これは由佳のみならず彰吾にも意外だった。かぐやがこんなにも激し
く自己主張するなんて思わなかった。
「そんな使命なんか知らない! あたしはここにいる!」
しかしかぐやは彰吾と別れることが出来なかった。彼女にとって世界と父親は等価では
なかった。愛する父親を救ってやりたかったのだ。
「いけません。貴女は世界を導かなければなりません。貴方はその役目を担っているの
です」
「それがどうしたの! あたしが行けばパパは生きれない、パパはあたしの成長が生き甲
斐なの! ……パパと別れて世界を導くよりもあたしは、あたしは世界よりもパパを救いた
い! それができるのはあたしだけよ! 血もつながってないあたしを大切に育ててくれた
パパに恩を返さないなんてイヤ! そうでしょ、そうだよね、パパ! おねーちゃん!」
悲鳴に似た想いを込めた叫び。直接心に響きグッとくるものがあった。
(確かにその通りだと思うよ。でもね)
由佳には約束があった。
「でも今の俺はかぐやが大切だ、必要だ。だから、その時かぐやを引き止めるかもしれ
ない。そうならないようと、自分を押さえるつもりだけど、そうなると……」
「わかったわ。情けないパパの代わりにあたしが笑って見送ってあげるわ」
出会った時にした約束。
その時はかぐやが女神だと信じていなかった。
女神かもしれないと思いだしてからでもまさかこんなに早く約束の日が来るとは思って
も見なかった。
彰吾の悲しみが、辛さがここまでのモノとは思わなかった。
かぐやがここまでわがままを言って困らせるとは思わなかった。
でも約束だ。守るべき約束だ。
「ハハハ、大丈夫よ。心配すること無いって」
ここで本心からで無いとはいえ笑えた自分を褒めてやりたかった。
「だって、先生にはまだ親としての役割が残ってるもの」
「――――?」
由佳が何を言っているのか理解できないかぐやは黙ってジッと由佳を見つめる。
「かぐやがどこに行くのか知らないけど、あなたが『あたしのパパはこんなに立派です
』と胸張って言えるようにするために、生きていく人よ、先生は……。かぐやも知ってる
でしょ、先生が……底抜けの親馬鹿ってことを」
(……痛いっなあ……)
まさか自分の言葉でこんなにも胸が痛むなんて思いもしなかった。
「由佳の言う通りだよ、かぐや」
彰吾の声は若干震えている。目には既に涙が堪えきれず、ただずっと流れていく。
「心配……すんなよ。抜け殻の様な人間にはならないって。……かぐやに恥ずかしい思
い……させたくないからな、……それにかぐやがいなくても由佳の面倒も……見ないとい
けないんだ。フヌケになってる暇……なんかないよ」
何度も大きく息を吸い、下腹部に力を入れる。
「……パパはかぐやを……育てている間にたくさんのモノ……を貰ったんだ。だから、
だから恩返しなんて……考えなくていいんだ。パパにとって、かぐやが生きていることが
一番の……ホント一番の恩返しなんだよ。だから、パパのことなんか気にしなくていいん
だ。大丈夫……絶対、大丈夫だから」
「先生……」
今彰吾に言える精一杯の強がりであり、そして……
「ウソ!」
そう、嘘であった。かぐやは大声で叫ぶ。
「じゃあどうしてあたしの顔見ないの、見てくれないの! どうして背中しか見せてく
れないの! パパはあたしがいなくなることに耐えられないからでしょ。パパだって別れ
たくないでしょ! パパー。ねえパパっー!」
最後のほうはほとんど涙声だった。
その訴えに彰吾はクシャクシャになった顔の涙を拭おうともせずユックリと振り返り、
かぐやを見つめる。自分と同じように涙を流しているかぐやの頬を、優しくそっと手で拭
う。
「本当なら、……本当ならかぐやに嫌われてでも行かすつもりだったんだけど、……ゴ
メンな、……パパは、パパそんなに強くないからさ、嘘でもそんな事言えない。かぐやに
嫌われることはイヤだから……耐えられないくらいに……辛いから」
「……パァッパー」
かぐやは涙を拭ってくれている彰吾の手を必死で掴もうと動く。かぐやの小さな手が彰
吾の大きな腕を掴んだ瞬間、彰吾は堪えきれずかぐやを抱きしめようとする。もちろんか
ぐやに依存があるはずはない、それを今まで望んでいたのだから。
ニーナに持ち上げられたままなのでロクに動きがとれないという状況などおかまいなし
に父親に飛びつこうとする。
「かぐや!」
「パーパー!」
ニーナはその様子を見て何も言わず手を離す。邪魔する者が無くなった二人はどちらか
らといわずに抱き合い、泣きじゃくる。
(……ダメだ、あたしまで涙がこぼれてきた)
「これだけは覚えておいてくれ。パパはかぐやの事を愛してる、今までのかぐやだって
これからの……女神として頑張っているかぐやだって、ずっと、ずっと愛してる。かぐや
もパパの事を愛してくれるなら……これ以上パパを困らせないでくれ」
「二度と会えないかもしれないのよ! あたしはイヤ、絶対イヤー」
由佳は涙を拭い、ニーナの方を見る。彼女は冷静に二人を見つめている。
(あたしまで泣いてちゃしょうがない)
気をシッカリと持ち直す。
『竹取物語』のかぐや姫はどうだったのだろうか?
おじいさんとおばあさんに大切に育てられた生活は幸せであり楽しかったのではないの
か?
五人の求婚者に無理難題を言った本当の理由は結婚せずに少しでもおじいさんとおばあ
さんの元に居たかったのではないか?
おじいさん、おばあさんと別れて月に帰って幸せに暮らせたのだろうか?
もしも月に帰るか地上に残るかと選択肢をつきつけられていたら、月にも未練は有るか
もしれないが結局は地上に残ったのではないのか。
眼前で泣きじゃくる少女の名はその月から来た美しき姫と同じ名を冠している。いずれ
別れるということを忘れないようにと彰吾が自らを戒めるためにお伽話から名付けたもの
だが二人はよく似ている様な気がした。
そうであるならば二人を無理矢理引き裂く本当に正しいのだろうか。
(――――違う、きっと違う)
視線を合わせるのも正直辛い相手だが怯む訳にはいかない。
「ど、どう考えても人選ミスよ。先生なんかに預けるからこんなワガママに育ってしま
ったのよ」
その言葉に反応しニーナは由佳を見る。
「人選ミスではありません。この事態はある程度予想していました」
それは意外な言葉だった。
「……どういうこと?」
「人類がようやく歩きはじめた頃ならともかく、現在のような過渡期に入る寸前まで進
化した状態では例え全知全能の神といえども新たな方向に導くことは困難なのです。これ
は神になるための最初の試練なのです」
「……試練?」
かぐやも初耳だったらしく問い返す。これは女神の候補者にも隠されていた真実。
「そうです。これから神になるためには自分を心から愛してくれた人、自分が心から愛
した人との別れを乗り越え、前向きに生きられるような強い心が必要なのです。……そう
いった意味では人選も誤っていないですし、今の行動もある程度予定通りの行動です」
淡々と語るその口調は事実のみだというのに慈愛さえ感じさせる。何から何まで計算付
くだというのに。
「よく考えて下さい。貴女の心ひとつで歴史が変わるのです」
重みのある一言だった。それ故にかぐやに課せられた使命の大きさを物語る。
「かぐや……」
彰吾は跪き腕を離す。目を合わせかぐやを見ようとするが、涙のせいでハッキリと映ら
ない。
「行きなさい。短い間だったけど、パパはかぐやと暮らせただけで幸せだったよ。誇り
に思うよ。かぐやは違うかい?」
俯いた状態で首を横に振る。
「パパの知っているかぐやは強い娘だ。どんな困難も乗り越えられるような」
「でも、でも」
「かぐやが優しすぎる事は知ってる。でもパパの事は心配しなくいい。……だから頑張
っておいで」
しばし、沈黙が流れた。
それが長かったのか短かったのかは分からない。ただ誰もが胸が締めつけられるようだ
った。
動きがあった。かぐやは彰吾の頬を両手で挟むようにそえる。涙を流したせいか熱いく
らいに火照っていた。何も言わずに額にそっとキスをする。
「……かぐや」
彰吾が呻くように呟くが、聞こえないふりをしてニーナの方を向き頷く。ニーナはそっ
と手を差し出す。かぐやが手を持ったかと思うと途端にかぐやも宙に浮いた。するとニー
ナから光が発生する。
「パパ、元気でね」
泣き声だが無理に笑おうとしている姿が痛々しい。
彰吾も笑顔を作ろうとするがやはり上手くいかない。それでも父としての最後の仕事と
声をかける。
「かぐやも……元気でな。辛くても負けるな」
コックと頷くと今度は由佳を見る。
「由佳おねーちゃん、パパをお願いね」
徐々にかぐやとニーナが光に包まれる。
「大丈夫よ、任せといて。だから心配しないでいいわよ……。それと覚えておいてね、
あたしもかぐやの事愛してるわよ」
もう二度と会えない。だからせめて安心して送り出したかった。
「あたしもよ」
どんな表情をしているのかも分からない程光が強くなった。
「パ……パ…………」
光量が最大になった。刹那光は消えた。かぐやとその天使と共に。
エピローグ
「はい、確かにできてますね」
「何かやけに念入りだったな」
「そりゃあそうよ」
由佳は原稿をそろえながら答えた。
「九九パーセント事実の内容を書くのに五年もかかったのよ。できたって言ってもホン
トかどうか疑うわよ」
その一パーセントがどのくらいのウェートを占めているか知っているはずなのに、それ
でも毒づく。
「何を言ってるんだ、わざわざお前の初仕事に合わせてやったんだよ」
「あたしは編集になったことはともかく、先生の担当になったことは恨んでるのよ」
あの日、ニーナが現れた日から五年過ぎた。由佳は大学を卒業し、出版社に勤務してい
る。
「まあ、いいじゃないか。ちゃんとできたんだから」
「開き直る前に少しは反省してよ……、でも何で結末変えちゃったの?」
それが変更した一パーセント。
「ノンフィクションって言うのもなんかなぁー、て思って」
「誰も信じやしないでしょ。これは事実かいてもフィクションよ」
「それもそうだがな……、かぐやが行かなかった事にすると……」
ガタン、と勢いよく玄関が開いた音がしたと思ったらバタバタと走ってくる音が聞こえ
た。
「パパ! 聞いて! パパ!」
ドアを開けるが早いかかぐやが叫ぶ。
「こら、かぐや。帰ってきたら『ただいま』だろ。それに手を洗いなさいっていつも言
ってるだろ」
「ゴメンナサイ。ただいま、おねーちゃんいらっしゃい」
さっきまでの勢いはどこにいったのか、シュンとして言う。由佳は大学入学と同時に一
人暮らしを始めたが近所なのでちょくちょく遊びにきていた。
「はい、おかえり」
「お帰りなさい、でっ、どうしたの?」
「うん! あのね」
再び晴れやかな顔に戻り、ランドセルから賞状を取り出す。
「今日、学校でこないだ書いた作文の賞状もらったの」
そういって彰吾に手渡す。由佳が横から覗きみるとそこには『特賞』の文字が見えた。
「スゴイじゃないか! 特賞だなんて。エライな、良く頑張ったな」
「ホント、スゴイじゃない。パパと違って文才があったのね」
由佳の一言に彰吾は咳払いをするが気にしない。
「で、どんな題なの?」
かぐやは急にモジモジしだした。照れているのだ。
「どうしたんだ、かぐや」
彰吾も知らないらしい。
「……んっとね……。題はね……」
後ろで手を組み身体を揺らしながらしばらくどうしようか悩んでいたが決心がついた。
「私のお父さん」
そういって顔を真っ赤にした。そんな姿と作文の題に彰吾は嬉しそうに目を細めかぐや
を見ている。
あの日、ニーナが迎えにきた時かぐやはニーナと共に行かなかった。彰吾と共に生きる
ことを選んだ。その代償に神としての能力と覚醒してからの記憶は失ったが……。
しかしそれはたいした事でなかった。かぐやは何の能力もない人として、そして彰吾の
娘として生きたかったのだ。
自分が幸せに生きているということを父親に実感してもらいたかった。それこそが最大
の恩返しになる。
そんな想いの娘が自分の父親のことを書いたのだ。きっといい作文なのだろう。
「よし、かぐや。手を洗って着替えておいで。お祝いをしよう」
「うん」
嬉しそうに言って部屋から出ていく。
「由佳も付き合えや。ちょっとくらい時間あるだろ」
「ハイハイ」
返事を聞いて彰吾は立ち上がる。
「神様から人間になって心配だったんだ。俺は救われたけど、かぐやとこれからの世界
は大丈夫なのかって……」
「先生がいる限りあの娘は大丈夫でしょ、世界だって大丈夫よ。人間、捨てたもんじゃ
ないわよ。先生やかぐやみたいな人がいるんだもの、あたしだって先生とかぐやに救われ
たのよ」
由佳は彰吾の背中をポンと叩く。
「ありがとう。じゃ、行こうか」
「ええ」
由佳にとってここが楽園だった、それは彰吾にとってもかぐやにとっても。
きっとこれからも。
<完>
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