「わたし、死神のバイトしてるんだけど、それでもいいの」
 それが気力を振り絞って告白した宗二に対する彼女の応えだった。
 しばらく沈黙がふたりの間を流れた。
 宗二はしばらくどう答えるべきか悩んでいたが、結局なんと返していいかわからず、つい。
「あ、明日まで待ってくれないか」
 と言い、逃げるように家へと帰って来てしまった。
 そして今、自分の部屋でベッドに横になってのである。
 乱雑に床に積み上げられた教科書、机の上に投げ置かれたカバン。壁にはポスターなどの類は貼られておらず、一目見ただけでは、何の趣味も持っていない平凡な人間の部屋に見えるかもしれない。
「ああ! 情けない!」
 頭をかきむしりながら宗二は体を左右に振った。
 告白した方が答えを待ってもらうなんてどう考えてもおかしいじゃないか、自分で自分が情けなくなり、涙が出そうな思いだった。
 それは今日の放課後、彼女――氷野佳織を屋上に呼び出したことに始まる。

 授業が終わって放課後になると、宗二は氷野佳織に屋上に来てもらうよう言伝を頼んだ。
 南雲宗二、17歳の高校2年生。180を超える長身の他にはこれといった特徴もない、ごく普通の高校生だ。
 というのは宗二本人の見解である。
 だが実のところ、彼はそんな平凡な容姿をしているわけではない。短く刈り上げられた髪と、視力が悪いのにメガネやコンタクトをつけておらず、いつも睨むように細められている目のおかげで、街であったら避けて通りたくなるタイプ、と友人には言われていた。
 そんな彼が「氷野佳織」を屋上に呼んだのはあるひとつの目的の為だ。
 告白する、という彼にとっては一世一台の大勝負のためだ。
 屋上で宗二は待っていた。
 屋上は立ち入り禁止で誰も入ることはできない。そういうことになっているのだが、実際は屋上に通じる踊り場の窓の鍵が壊れており、そこから出れば外から簡単にドアの鍵を開けることができてしまう。屋上のドアは万が一、その場に人がいるのに気付かれず鍵を閉められても大丈夫なよう、外にも鍵がついてあるのだ。
 それは生徒しか知らないことで、宗二も窓から屋上に出てドアの鍵を開けると、フェンスに寄りかかりながら彼女が来るのを待っていた。
 宗二が来てから5分程経った頃、校舎へとつながるドアが開いて氷野佳織が姿を現した。
 宗二の立っていた位置はドアの正面にあたり、屋上に出てきた佳織はすぐに宗二の姿に気づいた。宗二もドアのほうを見ていたため、ふたりの瞳が一瞬交叉した。が、宗二は照れもありすぐに目を逸らしてしまった。
 佳織はそれには気にした様子も見せず、宗二に近づいてきた。
 彼女は宗二のクラスメートだ。小柄なその体は160にも達していないらしく、幼さの残る顔立ちとあわせ、時折中学生と間違われるらしい。何もかも見透かしているような澄んだ大きな瞳は彼女をより幼く見せ、茶色がかった肩までの髪は後ろ手に青いリボンでまとめられていた。
 宗二の傍まで近づくと、佳織は「何の用」とそっけなく呟いた。
 身長が頭二つ分近く違うため、佳織はどうしても宗二を見上げる形になってしまう。
 そのせいかはわからないが、宗二は睨まれているように感じていた。
「あ、あのさ……」
 口を開いて、次の言葉が出てこない。何度も心の中で練習したはずなのに、いざそのときになると、うまく言葉を発することができなかった。
「用がないなら、行くけど」
 宗二が何も言えずにいると一分ほどが経過すると、それ以上は時間の無駄だとばかりに佳織は背を向けた。
 ここで去られたらもう終わりだ。わけもなくそんな強迫観念にとらわれ、宗二は佳織の背中に向けて叫んでいた。
「俺、氷野のことが好きだ!」
 だから付き合ってくれないか、と続けたがその声は聞き取れないほど小さくなっていた。佳織が振り向き、目を見開いている様子が宗二の目に入ったてきたからだ。
 見詰め合う形になって数秒とも、数分ともとれる時間が過ぎた頃、佳織はポツリと呟いた。
「わたし、死神のバイトしているんだけど、それでもいいの。わたしはたぶん、普通のひとより死に近い場所にいる」

 そうして、なんと答えてよいかわからず宗二は「あ、明日まで待ってくれないか」と言い、逃げ帰ってきたというわけだ。
 死神、なんて言葉を佳織は言っていたがこの世界は別にファンタジーだとかそういうわけではない。
 一般的、という言葉が正しいかはわからないが科学が発展し、魔法なんてものがおとぎばなしとされるごく普通の世界だ。
 当然、死神なんて言葉も神話や象徴、あるいはゲームの中でしか使われることはない。
 そんななんの変哲もない世界で死神のバイトしているなんて言われて、自然に返せるほど宗二は機転の利く人間ではなかった。
 部屋に入ってすでに2時間近くが経とうとしていたが宗二はまだ悩んでいた。自分はどう答えれば良かったのか、わからずに何度も彼女の言葉を反芻していた。
 宗二は自問自答した。
 氷野はどう言う意味であんな言葉を言ったんだろうか。
 普通に考えれば拒絶、なんだろう。けれど、それでもいいの、と言った。拒絶するなら普通、だからごめんなさい、のはずだ。
 我ながらえらく楽観的だと思うが、理由はあった。もしあのとき自分が、それでもいいよ、と言ってれば彼女は自分と付き合う以外に道はないのだから。そう。遠回しに断るための嘘にしてはあの言葉は突飛過ぎているのだ。
 ……俺はバカか? それがわかってんならどうしてあのとき嘘でもいいと言わなかったんだ。そうすれば氷野と付き合えてたかもしれないと言うのに。
「それでも……」
 と、宗二は呟いた。
 あのときの彼女の目は真剣だった。ならば自分もそれに対し、真剣にぶつからなければならないのだろう。
 心の中で決心をつけると、明日に備えそのまま眠りについた。

 翌日、昼休みになると宗二は佳織の席へと近づいていった。
 佳織は口数はあまり多いほうではない。いや、むしろ無口の部類にはいるかもしれない。それでも友達は多く、休み時間ともなるといつも数名の友人が彼女の周りに集まっていた。
 宗二が近づいてきたのを友人たちは怪訝そうに見ていた。
 その痛い視線に耐えながら宗二は佳織の座っている席の向かい側に立つと、
「放課後、昨日の場所で」
 とだけ告げ、そそくさと立ち去った。
 後ろから、一緒にいた友人たちが彼女を冷やかす声が聞こえてきたが、聞こえないフリをし、逃げるように教室から出ていった。
 だから佳織が友人の声を無視するように宗二の背中を見つめていたことに気付くことはなかった。
 その瞳がつらそうだったことにも。
 放課後、宗二が屋上に着いたときには、すでに佳織は待っていた。
 ドアの鍵も開けていたようだが、彼女がまだ来ていないと思っていた宗二はそれには気付かず、窓から屋上へと出た。そして数メートル離れた位置に佳織がいるのに気付くと、ドアが開くのを確認し、苦笑いを浮かべながら傍に近寄った。
「それで、あなたの答えは出た?」
 どう切り出せばよいか宗二が考えていると、佳織の方から先に話しかけてきた。
 先日のこともそうだが、もしかしたら彼女は待つ、という行為が嫌いなのかもしれない。
 そんな意味もないことを考えながら宗二は口を開いた。
「あ、えと」
 だがうまく言葉を出せずにいると、
「心を決めてきたんじゃないの」
 佳織の言葉が冷たく突き刺さった。
「あ、うん。ちゃんと、っていうか真剣に、っていうか……とにかく俺は昨日君に言われた言葉についてずっと考えたんだ」
 あまりにも佳織の視線が痛いので、宗二は意を決して早口にまくしたてた。
「そう、それで」
「君が何を言いたかったのか結局わからなかった。どうしても自分に都合の良い方に考えちゃうんだ。だから」
「だから?」
 宗二の熱い口調とは対照的に佳織の言葉はどこまでも冷めていた。
「死神の、死神のバイトっての、見学させてくれないか!」
 叫ぶように言うと、宗二はじっと佳織の顔を見つめた。
「え? 今なんて」
 佳織は目を見開き、わなわなと肩を震わせた。
 その様子に宗二は自分が何か間違ったことを言ってしまったような気がしてきたが。
「あれ、もしかして死神って別に特別なこととかするものじゃないのか。バイトなんだからちゃんと仕事みたいなことするのかと思ってたんだけど」
 言いながら内心、やはりこのセリフは付き合いたくないと遠まわしに言ったものだったのかと、宗二は思い始めていた。
 そう考えるとまじめに悩んでいた自分がバカみたいに見えた。
「仕事……。一応仕事って言えば仕事ね」
 だが、佳織の口から発せられた言葉は宗二の考えを否定する意味合いを含んだものだった。
「え、じゃあ死神らしいことやってるのか」
「……うん。一応」
「だったら見せてくれ。それから決める。死神やってますなんて、言われただけでどうするかなんて決められない。それがどんなものなのか、自分の目で見て、それから答えを出すよ」
 宗二の真摯な表情が佳織の瞳に映っていた。
 佳織は少し考えるような仕種をした後、「いいわ」と静かに頷いた。
「ついてきて。ちょうど今日やらなきゃならないことがあるから、見せてあげる」
 告げて、それから宗二を睨むように見て、
「けど、覚悟は決めておいてね。たぶんだいじょうぶだと思うけど」
 そこで言葉を区切り、
「怪我くらいするかもしれないから」
「え?」
 見つめてくる佳織の瞳はどこまで澄んでいて、宗二はただ頷くことしかできなかった。
 もしかしたら自分は間違ったことをしているのでは、と思いながら。

 帰り道、宗二はただ佳織の後ろをついて歩いていた。
 会話はない。何度か宗二の方から話しかけたのだが、「うん」とか「そう」しか答えてもらえず、あまり長くは続かなかった。
 ―――まずいよなぁ。
 佳織の後姿を眺めながら、宗二は心の中でひとりごちた。
 こんなんで付き合うことになったとしてうまくやっていけるのか、不安になった。
 ただ、ここまで来た以上、今更ひくこともできず、無言で彼女の後をついていた。
 流れて行く景色が見慣れぬものに変わってきた頃、佳織は一件の家の前で足を止めた。
 そして、「ちょっと待ってて」と告げると、その家の中に入って行った。
「ここが氷野の家なのか」
 宗二はわけもなく感心したように呟く。
 佳織の家は特に大きいわけでもない一般家庭の家そのものだった。小さいながらも庭があり、そこにはひまわりが咲き誇っていた。
「氷野が植えた……わけないよな」
 佳織が種を植えたり、じょうろで水をやっている様子を想像して、すぐに頭から振り払う。
 容姿だけを見るとおかしくはないが、あの性格からくる雰囲気を考えるとあまりにも違和感がありすぎた。
 なにより彼女はひまわりというイメージではなかった。
 だとしたら家族の人かな、考えて引っ掛かることがあるのに気付いた。
 彼女が死神のバイトをしているだとして、それは家族の人も知っていることなんだろうか。それとも代々死神をやっている家系だとか。
 しかしバイトならば代々というのもおかしいかもしれない。
 考えれば考えるほど、深みにはまっていくような気がしながら唸っていると。
「お腹でも痛いの?」
 いつのまにか傍に来ていた佳織が声をかけてきた。その口調は心配して言ったようには感じられず、ただ気になったから言っただけ、という風だった。
「いや、別にそういうわけじゃ」
 佳織の言葉を否定しようとその姿に目を向け、宗二は言葉を失った。
 紺のハーフパンツにグレーのタンクトップ、その上から紺の薄地のジャケットを着ている。服に合わせているのか髪を結うリボンの色も紺だ。
 制服姿しか見たことのない宗二は、私服姿の佳織にしばし見とれていた。
「なに? なんか、変?」
 怪訝な顔で宗二の顔を覗き込む。私服姿を見られることが恥ずかしいのか、少し照れているようにも見えなくない。
「いや、変じゃないよ。ただ、ちょっと見とれててさ。可愛いな、って思って」
「っ!」
 宗二の言葉に佳織は顔を真っ赤にすると、そっぽをむいてしまった
「そ、そんなことよりわたしの仕事見たいんでしょ。時間がないから早く行くわよ」
 照れを隠すように早口に捲くし立てると、佳織は背を向けて一人歩き出した。
 よほど焦っているのか、何度か躓きそうになりながら早足で進んでいった。
 宗二は苦笑しながらも、置いていかれないように足を速めた。

 その場所は繁華街の中ほどにあった。
 すでに使われなくなって久しい廃ビル。一年ほど前に火事が起き、管理者が逃げてしまったと言うことで放置されたままだ。場所は悪くないのだが、都市開発のときに同時に建てられた多数のビルのひとつと言うこともあり、解体にも、そして新しく建て直すにも立地条件のせいで、莫大な費用が掛かるため買い手もつかずにいたのだった。
 外見だけでは隣のビルと見分けがつかない。看板がついていないのと、三階より上に火事の名残があるのが他と区別できる唯一の点だった。
 そのビルを前にしてふたりの男女が立っていた。
 通りを行き交う人々は、廃墟と化したビルを前に真剣な面持ちで立っている男女を怪訝に見つめながらも、大して気にすることなく通りすぎていた。
 だからその男女、宗二と佳織がビルに入って行くのを止める者も当然のごとくいなかった。
 半分以上砕け落ちたガラス戸を開けて中に入ると、風に埃が舞い、同時にかび臭い匂いが漂ってきた。
 電気は通っておらず日当たりも悪いため、昼間だと言うのに中は暗かった。
 宗二はそれほど広くはない一階を見まわしたが、これといっておかしな点はないように思えた。
 一階は閑散としており、何もなかった。もともとエントランスホールとして使われていたのか、受付用に使われていたと思える大きな台があるだけで、それ以外は埃と、もとがなんであったかわからないような廃材だけが散らばっていた。
 右手にはエレベーターがあり、その横に階段へと通じるドアがあった。
 周囲を一瞥すると、佳織は中央へと足を進め無言で天井を見つめた。宗二からは彼女は天井ではなくもっと高い場所を見ているように見えた。
「ここで間違いないわね」
 呟くと、佳織は髪を結っていたリボンを無造作にほどいた。短いとはいえない髪が静かに揺れた。
 ほどいたリボンを両手で広げ、羽織るようになびかせると、大きく、佳織の体を包みこむようなマントへとその形を変えた。
 背中に羽織ったリボン――マントの首もとに出ていた紐を結ぶ。
 色はいつのまにか紺から黒へと変わり、マントを羽織ったその姿は確かに死神、と呼べなくもなかった。
 ただ、宗二から言わせれば、えらく可愛い死神、だった。
 佳織はさらにポケットから半径2センチほどの紅いガラス玉を取り出した。
 それを右手で握りしめると、ぶつぶつと本人以外には聞き取れないほどの小さな声で何かを呟き始めた。
「紅き石に込められし想い。我が声に応えその真の姿を現せ」
 それは呪文だった。ただガラス玉に対してのみ意味を持つ呪文。
 紡がれた言葉に反応するように掌の中から紅い光が溢れる。
 その光のあまりの強さに宗二は思わず目を瞑った。
 光は佳織を包みこむほどに大きくなっていったかと思うと、反転、急に収縮し始めた。
 その時間はほんの数秒ほど、外に光が漏れたのは一瞬だったため、通りを歩いていて光に気付いた人も、錯覚だろうと頭の隅に追いやってしまった。
 光が弱まったのを感じ宗二が目を開くと、光は佳織の握られた拳の中に吸い込まれていくところだった。
 再びあたりが薄闇という静寂に包まれたときには、佳織はその手に一振りの剣を握っていた。
 反り身の片刃剣で柄の部分も合わせれば一メートルはあろうかという長い剣だった。柄の部分には装飾がなされ、いくつか宝石らしきものが散りばめられている。刃の厚さは一番厚いところで2センチはあるように見え、人を斬るためというよりは儀式的な雰囲気を強く持っている剣だった。
「わたしから離れないでついてきて」
 よし、と自分に気合をいれるように剣を強く握り締め、佳織は背を向けたまま宗二に告げ、階段へと向かった。
「あ、ああ」
 宗二は頷くと、佳織の後を付いて階段を上りはじめた。
「なあ、それが死神の正装なのか」
 無言で階段を上りつづける最中、沈黙に耐えきれず宗二が口を開いた。違和感なくマントを羽織り、剣を手にしているのが先程から気になっていたということもあるだろうが。
「……」
 いったん佳織は足を止めたがすぐにまた歩き出した。宗二は、やっぱりダメか、と思いその後をついていくと、
「別にそういうわけじゃない。ただわたしがこの格好が好きなだけ」
 答えが返ってくるなんて思ってなかった宗二はそれが誰の言葉であるか、一瞬わからなかった。だから返事をするのにも数秒の時間を要した。
「え、ああ。そう……なのか」
 相づちを打ったものの、それがマントを言ってるのか、剣のことを言ってるのか、宗二は判断に困った。
 普通に考えればマントなのだろうが、このときの宗二にそのことに気付く余裕はなかった。
 だからマントをつけた格好を好きだ、と言ってしまったことを少しだけ後悔し、佳織が頬を赤らめていることにもまったく気がつかなかった。
「ところでさ、氷野はこれから……」
 人を殺しに行くのか、そう言おうとして言葉を呑み込んだ。いくらなんでもそれは直球勝負すぎるように思えたから。
 佳織は宗二の様子に一度だけ振り返ったが、宗二が苦笑いを浮かべるのを見るとまた前を向いてしまった。
 死神というからには人を殺すんだろうな、こんな人気のないビルに入ってきたんだし。
 佳織の言葉にどう返せばよいのかだけを考えるあまり、死神というのが具体的にどんなバイトであるのか聞いていなかったことに今更ながらに気付いた。
 あれこれ考えているうちに目的の場所――五階だった――に到着したようだ。まだ上に続く階段があることから、最上階ではないだろう。それが屋上へと通じるものではないとすればの話だが。
 五階に辿り着くと、佳織は宗二を制し、ひとり廊下へと足を踏み入れた。
 そして二歩目を踏み出そうとして何かに気付いたかのように宗二に振り向いた。
「もう何も喋らないで。もしかしたらすでに気付かれてるかもしれないけど、念のため」
 宗二は無言で頷く。
 佳織の瞳はそれまで以上に鋭く宗二を見つめていた。その目には有無を言わせぬ迫力があり、宗二は背中に冷や汗が流れるのを感じた。
 緊張に身を震わせながらも宗二は、ほんと必要なこと以外口を開かないな、などとまったく関係のないことを考えていた。心から笑っている姿も見たことがないな、とも。
 そんなことを考えている宗二のことは気にせず、佳織は奥へと歩いていった。
 宗二もその後を追おうとしたが、一歩足を踏み出した途端、想像以上に大きい音が鳴ってしまいやむを得ず、その場で待つことにした。
 床には埃だけでなく、プリント用紙類やチラシなども散乱しており、それが歩くごとにカサリと音をたててしまうようだ。
 だが不思議なことに佳織が歩くときにはまったく音がしなかった。
 仕方なくその場所から佳織の様子を眺めていると、廊下の中央あたりで足を止め、身体を横に向けていた。宗二の位置からではよくわからないが、そこには何かの部屋があるようだ。
 と、佳織は突然ドアを蹴破り、部屋の中に跳び込んだ。
 いきなりのことに驚き、宗二もその後を追う。カサリカサリと紙を踏む音が鳴っていたが、蹴破られたドアの音がまだ響いており、それほど目立だっていない。
 佳織が入ったと思われる部屋の前にくると、宗二は中に入らずにドアの影から中の様子をうかがった。来るなと言われてた手前、堂々と中に入るのは少し気が引けたからだ。
 宗二はなんとか中の様子を見ようとしたが暗いせいでなにも見えなかった。かろうじて佳織ともうひとり誰かがいるような気配がすることしかわかる程度である。
 部屋の中から話し声が聞こえてきた。小さくてうまく聞き取れなかったが佳織が一方的に話しているようだった。
 なんとか中の様子をはっきりと見えないものだろうかと体を乗り出し、ガシャンと大きな音を立て、宗二は床に倒れこんだ。
 倒れた宗二が顔を上げると、怒ったような困ったような複雑な顔をしいる佳織と、その向こうから巨大な鉈のような刃物を持って佳織に襲いかかろうとしている男の姿が目に入った。
「氷野ぉっ!」
 反射的に宗二は叫んでいた。叫ぶことしかできなかった。
 だが、佳織は表情を変えぬまま、後ろで振り下ろされた鉈を手にした剣で受けとめていた。
 男の顔が驚きに満ちる。
 今度は宗二にもはっきりと見えた。男は夏だというのに黒いコートを着ており、髪と髭を伸びるがままままにしているという感じだった。
 宗二も背が高いほうだったが、男はそれ以上に大きく山で見かけたら熊と身間違えてしまいそうだった。
 佳織は剣で男の鉈を抑えたまま、振り向き様に男の脇腹に回し蹴りを放つと、よろめいた男の顎を下から膝で蹴り上げた。
 彼女の小柄な体のどこにそんな力があるのか、男の身体が吹き飛び、宙に浮く。そこで信じられないことが起きた。
 男は頭から吹き飛んだ体を捻り、地に四肢をつき体を支えたかと思うと、強く地面を蹴り佳織に向けて跳びかかった。
 その間、一秒とかかっていない。
 常人では考えられない速度で飛び込んだ男を、だが佳織は剣を一薙ぎしただけではじいた。
 男がもう一度体勢を立て直そうとするのを今度は、佳織の方から男へと跳びかかり鳩尾を蹴りつけ、床へと叩きつけた。
「げぶっ」
 奇声を発し男が倒れる。佳織は剣を逆手に持ち替えると、峰で男の頭を強く殴りつけた。
 それで終わりだった。頭を殴りつけられた際の重苦しい音を最後に男はまったく動かなくなった。宗二の位置からでは生きているのか確認はできない。
 ――これが死神の仕事なのか?
 力の差は歴然だった。もし佳織が手にした剣で斬りかかっていたら、襲ってきた男を返り討ちにしたというより、一方的な虐殺になっていたかもしれない。
「終わったのか。それとも……」
 これからとどめをさすのか、言葉を呑みこみ宗二は立ちあがって佳織に近づいていく。
 だが佳織は宗二を振り返ることなく、虚空を見つめていた。
 と。突然剣を振り上げると力いっぱい地面に突き刺した。
 キィンと高い音を発しながら剣はコンクリートの床に刃の三分の一ほど突き刺さっていた。
 佳織は突き刺した剣の柄を両手で握ると、床を切り裂くように力強く振り抜いた。
 勢いで、床に亀裂が入る。佳織はその亀裂に交差させるように剣を90度捻るともう一度床に突き刺した。そして言葉を紡ぎ始めた。
「天に耀くは星の雫、地に煌くは花の歌、人に光るは夢幻の魂……」
 今度のははっきりとした口調で、宗二の耳にもしっかりと聞こえていた。それが呪文であるということは宗二にもすぐにわかった。しばらくすると声に反応するように剣から光が零れ始めた。
「さまよいし、哀しみに満ちた魂よ。我が声に応え、その身にかかる呪縛を解き放て!」
 零れでた光が奔流となって溢れた。先程、剣を召喚したときとは桁違いの光の量だ。光は部屋中に溢れ、そしてやはりすぐに消えた。
 いや、消えきってはいなかった。佳織の周りを十ほどの淡い光の塊が漂っていた。
 それらは見ようによっては人の形をしているように感じられた。佳織を中心に踊るように漂っている。
「わたしが、救ってあげる」
 突然、光の塊は粒子となり佳織の身体に吸いこまれた。
「く……」
 佳織がうめき声を上げる。額に大粒の汗を浮かべ、苦しそうに息を荒げていた。
 宗二が心配げに近づこうとするが、手で制される。
「くぅ……あ……」
 佳織の苦しむ声はさらに増していき、ついには膝をついてしまった。
「氷野っ」
 宗二は耐えきれず駆け寄った。
 だが。
「来ないでっ」
 明らかな拒絶の言葉に宗二の足が止まる。その瞳の強さになす術もなく立ち尽くした。
「だいじょうぶ……だから」
 喘ぐように洩らすと、佳織は地に突き刺していた剣の柄に手をかけ、力を振り絞り立ちあがった。
 剣を支えに体を起こすと、
「あなたたちの苦しみはわたしがもらってあげる」
 呟き、剣を引き抜くと、それを自身の胸に突き刺した。
「っ!」
 宗二の目が驚愕し見開く。何が起きたか理解できず、呆然と見つめるしかできなかった。
 だが、おかしなことが起きていた。
 剣によって貫かれた胸からは血ではなく光が漏れていた。血のように赤い光だった。
「さあ、行きなさい!」
 佳織が高らかに声を上げる。同時に剣を引き抜くと、そこから赤い光が天井へと向かって流れ出た。
 否、光は天井を突き抜け、もっと高いところへと向かっているようだった。
 光は迷うことなく、空へと流れていた。佳織の胸から天の高みへと向けて。
 いつのまにか佳織の胸から溢れ出ていた光はなくなり、天井に最後の光の尾が消えて行くところだった。
「……」
 宗二が呆けた顔で、光の消えていった天井を見つめていると、
「……終わった」
 佳織が額に浮いた汗を拭いながら近づいてきた。
 剣を刺したはずなのに、胸に傷はない。服も切れていなかった。
 死神のバイト、ということ以外の事情を知らない宗二にかける言葉はなく、頷いただけだった。
 疲弊しきっているのか佳織の足取りは重く、ふらふらとしていた。
 と。
「あ……れ?」
 よろめき、膝が折れた。力が入らないのか、流れるままに倒れていく佳織の身体を、
「っと。だいじょうぶか」
 慌てて駆け寄った宗二が支えるように抱きしめた。
「ごめん。思ったより数が多くて……疲れちゃったみたい」
 宗二の胸に顔をうずめ、佳織は意識を失った。
 その表情はどこか安心しているように見えた。

 宗二は眠っている佳織を背負い、近くの公園へと移動した。
 そこは繁華街から程近い場所にある公園。大きさは小学校の校庭4つ分くらいだろう。四方を芝生とわずかな木々に囲まれ、中央には小さな噴水があり、囲むようにベンチが並んでいる。
 公園のある場所はどちらかというと宗二の家寄りだ。佳織の家から少し遠くなってしまうが、休ませられる場所がここしか思いつかなかったのだ。
 そろそろ日も落ちる。気を失った少女を抱えて歩くには繁華街は少し物騒だった。
 ベンチに腰掛けると、宗二は腿の上に佳織の頭を乗せた。静かに寝息をたてている佳織の顔を眺めながら、先程の出来事を思い起こしていた。
 襲ってきた男を打ち倒し、光を身に受け天に放つ。それが何を意味して入るのか宗二にはわからなかった。
 死神の仕事ということであの男を殺したのかとも思ったが、ビルを去る前確認したらやはり男はまだ生きていた。
 そしてもうひとつ、彼女が床につけた十字の亀裂、その下に人間と思われる骨が埋まっているように見えた。驚いて目を背けた後にもう一度見るとすでに消えていたので、目の錯覚だったのかもしれない。
 ――本人に直接聞くしかないか。
 そう思い、彼女が目覚めるのをしばらく待っていると、
「ん、んん……」
 ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「お、目覚めたな」
「あ……」
 覗き込むように下を見た宗二の顔が佳織の瞳の中に映っていた。
 宗二の顔の近さに驚いた佳織は頬を真っ赤に染め、勢いよく起き上がった。
 あまりにも勢い良く起き上がったので、危うく頭がぶつかりそうになっていた。
「わ、わた……わたし……」
 しどろもどにろになりながら何か言おうとするが、舌が回らないのか言葉にならない。
 宗二は、まあまあ、と佳織をなだめすかすと隣に座るよう促がした。
 佳織が腰を下ろしたのを確認し、ここに来る前に買っておいた缶ジュースを取り出す。
「果汁100%のオレンジジュースとコーヒー、どっちがいい」
 差し出された両手の缶を交互に見つめると、
「……オレンジジュースがいい」
 恥ずかしそうに佳織は呟いた。

「それで答えは出た?」
 互いに一息ついたところで突然、佳織がきりだした。告白への佳織の返答に対する答えは出たのか、そういう意味だろう。
「あいかわらず早急だな。その前に説明してくれないか、さっきのは何なのか。あの男を殺しに行ったのかと思ったけど違ったみたいだし」
 宗二の言葉に佳織は目を見開き、
「殺す? どうしてそう思ったの?」
 と、逆に聞き返してきた。
「え、死神だから人を殺すもんじゃないのか」
「……やっぱり。あなたもそう思ってたの」
 悲しそうにうつむく佳織。
 宗二は慌てて取り繕うように捲くし立てた。
「い、いや、別にそう思いこんでたわけじゃなくて、けど、実際死神のイメージって言えばそういうもんだし……それに氷野だって自分は死に近いっていってたから、殺すことが仕事なんだと思ってたけど……違うの?」
「……違う」
 おうむ返しに呟くと、佳織は説明を始めた。
「死神は確かに死を司ってる。でもそれは生きている者の命を奪い取るものじゃない。死し、さまよう魂を天へと導く者」
 それが死神の生業だと佳織は言った。
「そして。わたしが今日あの場所へ行ったのは……」
 言葉を区切り、瞼を閉じる。そして見開くとはっきりと言った。
「あの男に殺された少女達の魂を解放するため」
「殺され……」
 宗二は絶句する。あのビルは宗二の家からもそんなに遠いわけではない。自分の身近なところで人が殺されているなんてにわかには信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「そんなに驚くことじゃない。驚くのだとしたら、人が殺されたことではなく……それに誰も気がついていなかったこと」
「あ……」
 確かにそうだ。佳織は今彼女達といったのだ。ひとりではなく、複数だと。それなのに何人もの少女が行方不明になっているだなんて話、宗二は聞いたことがない。
 人が殺されたというのも恐ろしいが、いなくなったのに気付かれないことに、より強く宗二は恐怖を感じた。
 気付かれない、つまり忘れられていく。存在の死だ。
 救われない、わけもなくそんな言葉が頭をよぎった。
「そう。彼女達の死は誰も知らなかった。嬲り者にされたことも、殺され、解体され、喰われたことも。誰にも知られず死んでいった」
 淡々と語る佳織。その表情から心情を読むことはできない。
「ちょっと待ってくれ。あの男、そんなにとんでもない奴だったのか。だったら。あのままにしておいたらまた――」
「心配ない。そういう役目の人もいる」
 佳織の瞳は宗二を映したまま動かない。
「わたしは魂を導くだけの『死神』。人を裁くのはそれ相応の人もいる」
「あくまで死神は魂を導くだけってことか」
 言葉を確かめるようにおうむ返しに呟く。
 頷くと、佳織は話を続けた。
「あの男はビルに潜み、少女を攫ってきては、犯していた。そして犯し尽くされ少女が死ぬと男はその肉を食らっていたの」
 宗二の胸に気持ちの悪いものが込み上げてきた。吐きそうになるがなんとか堪える。
 佳織はその様子に気付きながらも話を止めない。
「不条理な死を人は受け入れられない。加えて男の執着によって彼女らの魂はあの場所に縛られていた。だからわたしが解放した」
「解放?」
 宗二は先程見たことを思い出す。佳織の周りに集まる光。そしてその光が彼女の体を通して天に昇っていくさまを。そして一瞬だけ見えた人間の骨。
「なあ、見間違いかもしれないけど、氷野が傷付けた床の下には……」
「彼女達が埋められていた。あの男は殺して食べた後、床に埋めていたみたい。あの場所だけ、新しくコンクリートで埋めたようになっていた」
 宗二の考えを肯定するように佳織は言葉を続けた。
 見間違えでないとわかったが、同時に人間の骨を見てしまった事実を思い知り胸に気持ちの悪いものが込み上げてきた。
 わずかにうめいて、それが佳織の苦しんでいた声に重なる。
「あの、さ。いつもあんなに辛い思いしてるのか?」
 少女達の魂を身に受けたときに見た佳織の苦しむ顔が宗二の脳裏に浮かぶ。
 魂を解放するというのはそれほどまでに苦痛を伴うものなのだろうか。
「今回は特別。哀しみや憎しみだけだったら、剣の持つ力で浄化できる。この剣は人の魂を斬る剣だから。生きているものの肉体以外を斬る剣。でも今回のは」
 強く口を噛み締める。唇の端から血が滲んできた。
「あの男が心まで汚していたから、身体だけじゃなく心まで、魂まで犯していたから。魂は闇に満ちていた。だから……わたしの中に入れて一度その穢れを洗い流す必要があった」
「……」
 宗二は絶句した。それだけでわかってしまった。どうしてあの時彼女が苦しんでいたのかが。
 言わなくてもいいと手で制したが、佳織は自分の身体に少女達の魂を取りこむことで、彼女達が受けた苦しみのすべてが流れこんできたのだ、とはっきりと告げた。まるでその重みを宗二にも分けようとしているかのように。
「そして、わたしは……」
「もういい。わかったから、もう言わなくていい!」
 叫ばれて、ようやく佳織は口を閉じた。握られた拳は爪が食いこみ血が滲んでいた。
 宗二は体中から汗が噴き出し、内側だけでなく外側までも気持ち悪くなるのを感じた。
 言いようのない気持ちが心の中に溢れてくる。いろんな負の感情をない交ぜにしたような不快感、そんな感じだ。
 そして気付いた、佳織が震えていることに。
 宗二は今はじめて知ったのだが、佳織は話している間、ずっと肩を震わせていたのだ。
 気付いてはいなかったが、宗二にもその震えが少女達の苦しみを思い出してることに原因があるだろうということはわかった。
 哀しみか苦しみか、それとも怒りのためか、それはわからない。ただこれ以上思い出すことで苦しむ彼女の姿を見ていることはできなかった。
 だからそれ以上聞くのは止めた。聞きたくなかった。
「死神の仕事についてはだいたいわかった。だから今日はそれ以上話さなくてもいい。氷野のそんな姿見ていたくない」

「どう? これで答えは出た」
 話が終わると同時に、もう幾度となく聞いた言葉を佳織はくりかえした。どんな気持ちでその言葉を言っているのか宗二にはわからない。
 ただひとつだけ宗二にもわかっていることはもう答えは出ている、ということだ。
 彼女がしたことがなんだったか聞いたのは、気になったから、というだけで他意はなかった。
 宗二の想いは、この公園に佳織を連れてきた時点でもう決まっていたのだから。
 もっとも、そんなことを言ったら怒られそうな気がしたので正直に言うつもりはなかったが。
「答えは出てるよ。でもその前にひとつ聞かせてくれ。どうしてそんなに急ぐんだ? 確かに告白したのは俺だけど。その返事の返事を待ってもらったのも俺だけど……」
 言いながら宗二は、自分のことながらよくわからないこと言ってるなぁ、なんて思っていた。
「それでも、急いでいるっていうか、焦ってるように感じたんだ。なぁ、どうしてそんなに俺の答えを急ぐんだ?」
 佳織の瞳に驚きの影が見えたような気がしたが、それも一瞬のこと、すぐにもとの表情の読めない顔に戻る――かと思ったが、頬を染めてうつむいてしまった。
 そして小さく囁くように洩らす。
「不安だったから」
「え?」
 聞き取れずに、宗二は少し声が大きな声で反応してしまった。
「不安だったの。わたしは死神です、なんて言われてどう答えられるかわからなかったから」
 宗二の顔色を窺うようにちらちらと目だけで見上げながら続ける。
「あなたには嘘はつきたくなかった。でも不安だった。恐かった。死神のバイト、これが普通じゃないってわかってる。そんなわたしを受け入れてくれる人間なんていないと思ってた。拒絶されるのは怖かった。だからわたしに必要以上に近づいてこようとする人がいれば、わたしから距離を置いた。わたしから拒絶した。でも。……あなたを拒絶することだけはわたしにはできなかった」
「え。それって……」
 期待に満ちた目で佳織を見る。
 佳織は耳まで赤くしながら、「い、言わなくてももうわかるでしょ」と早口で告げた。
 そして顔を上げ。
「いいでしょ。ここまで言わせたんだから、あなたも……」
 そこで口を閉じる。その目は不安に満ちていた。
 そんな佳織を見ながら、宗二は「ああ、こんなことならもっと早くに答えてやるべきだったな」とか、「氷野にもやっぱりかわいいところあるんだ」とか考えていたが、今告げなければならない言葉は別にあった。
「なあ、この公園憶えてるか」
「え」
 予測していたどちらとも違う言葉を返され、佳織は目を丸くする。
 宗二はそんな佳織の表情を見ながら、「やっぱりなぁ」と肩を落とすと、話を続けた。
「ここは俺と君が始めて会った場所で……俺が君に興味を持ち始めた場所なんだ」

 それは一年ほど前のことだった。
 その日宗二は担任に用事を頼まれ、遅くまで学校に残っていた。
 頼み事をされたのは、宗二が教師の間で信頼の厚い生徒だったからとかそういうわけではない。
 単に必須の課題の提出を一日待ってもらう、その代わりに出された条件だっただけだ。
 すべての教室を周り、傷付いたり壊れたりしている椅子や机を調べ、倉庫に新しく入ったものと交換しなければならない、それを宗二はひとりでやらされることとなったのだ。
 そのせいもあり、すべて片付くまで三時間ほど掛かり、終わった頃には外も暗くなっていた。
 用事を頼んだ当の担任はすでに帰宅してしまっていた。実は教室毎に必要とされる新しい机と椅子の数が書かれた紙を担任はなくしてしまっていたのだが、それは宗二には告げられていない。
 宗二は終了の旨を職員室に残っていた教師に告げると、急いで帰ろうと玄関まで出た。
 靴を履き替え外に出ようとしたところで、あることに気付き舌打ちする。
 雨が降っていた。教室や街灯の明かりに雨の雫がキラキラと反射している。
 それほど強く降っていたわけではなかったが、学校から宗二の家まで走って20分ほど掛かる。家に着くまでにはずぶ濡れになってしまうだろう。
 30分ほど前に外を見たときにはまだ雨は降っていなかった。用事なんか引き受けなければ、とも思ったが自業自得なので早々文句も言っていられない。
 空にはどんよりと黒い雲がうねっていた。しばらく眺めていると雨の勢いは少しずつ増しているように感じられた。
 天気予報を見ていなかったことを後悔しながら、宗二は走って変えることに決めた。もはや濡れてしまうのは諦める。後はどれだけ雨の被害を最小限に抑えるかだ。
 深呼吸して軽く屈伸をすると、雨の中へと飛び出した。
「おいおい、マジか……」
 家へと向かう道、そこに工事中の看板が立てられていた。無視して行こうにも、狭い道幅一杯のトラックが止まっていて通れそうにない。
 しかたなく迂回しようかと、後ろを向いたところで横に置いてある看板が目に入った。そこには工事をしている場所の書かれた地図が載っていた。
 それを見て頭が痛くなるのを感じた。工事はこの場所だけでなく数カ所で行われているようだった。その場所を確認すると、家へのもっとも近い道をふさがれていることに気付いた。
 宗二の家の前には左右に伸びる道路が一本あるだけだった。その一方が学校へと向いているため、反対側の道路は学校からは逆方向となる。
 ちょっとした迂回どころではない、すさまじいほどの遠回りだ。
 宗二は頭をかきむしりたくなる衝動を抑え、走り出した。
 時間を考えると工事をしている人間はもういないように思えたが、わざわざその中を突っ切る気にもならなかった。下水の工事かなにかはわからないが地面が泥水にまみれている。いくらなんでも雨の中、そこを走る気にはならない。
 もう制服の半分以上が濡れれていたが諦めず走りつづけた。濡れた制服は水を吸って重く、着心地も悪くなっていた。
 すでに学校から出て20分が経過しようとしていた。本来ならもう家に着いていてもおかしくない時間である。その時間に宗二は公園に足を踏み入れた。
 中央に噴水のあるそれほど大きくない公園だ。中を通り抜けた方がわずかながら近道となる。
 噴水の脇を走りながらあたりを見まわすが誰もいない。
 当然かと思い、踏み出す足にもうひとふんばりしてもらおうとして、無意識に歩みを止めていた。
 公園の街灯のひとつ、今にも消えそうに点滅を繰り返すその光の下に、彼女がいた。
 見たことのない顔だが宗二と同じ学校の制服を着ている。紺のスカートに紺のブレザー、リボンの色が緑色なことから宗二と同じ一年生のようだ。傘も差さずに何かを抱きかかえるような格好で佇んでいる。
 髪も制服びしょぬれだ。背中までかかろうかという長い髪は肌に張り付き、水を多量に含んだ制服は紺というより黒に見えた。
 パチ、パチパチパチと不規則に点滅を繰り返す光の影響か、彼女の姿は儚く壊れそうに感じられた。
 宗二は無意識に少女に近づくと、
「なに、してるんだ」
 2メートルほど離れた位置で立ち止まり、そう話しかけていた。近くに来て気がついたが少女の身長は宗二より頭ふたつぶんほど低かった。その腕には薄汚れた子犬が抱かれていた。
 少女は宗二の声に緩慢な動きで顔を上げた。
 その表情を見て宗二は息を呑んだ。
 泣きそうな無表情……いや、泣きたいのを我慢して無理に表情をなくしている、そんな顔だった。
 雨に濡れ、額には髪の毛が貼りついていたが、黒い大きな瞳は宗二を強く見据えていた。
 瞳には強さがあったが、同時に今にも崩れそうな危うさも感じられた。
「何か用?」
 その声は人を寄せ付けない響きを持っていた。儚く澄んだ声音だったにもかかわらず、だ。
 だが宗二は怯むことなく、その腕に抱かれた子犬に目をやり。
「そいつ怪我してるのか」
「もう……死んでる」
 声から感情は読めなかった。淡々と言っているようにも、悲しみを耐えているようにも聞こえた。
「じゃあ、俺達の手で葬ってやらないとな」
 驚いたのは言葉を発した宗二本人だった。少女の表情は変わっていない。
 そんな言葉は普段なら絶対に言わない。本人は特徴のない人間、周りからは怖い、という宗二は自主的に人のため……死んだ動物のために動くような人間ではなかった。
 それなのに、言葉はすらすらと出てきていた。
「そっちの奥にある気の根本。そこに埋めてやればいいんじゃないか」
 少女の表情はやはり変わらない。しばらく宗二の顔を見ていたかと思うと、急に歩き出した。
 宗二の言った方に向けて。
「どの木?」
 芝の上を歩き、数本の木が立ち並ぶちょうど真中あたりまで移動した少女は宗二を向いていた。
 宗二は慌てて、「その木その木」と言いながら少女の傍に走り寄った。
 その後は大変だった。なにより道具なんてものはないのだ。穴を掘るだけとはいえ簡単なことではなかった。
 根が強く張っている木の真下付近の土は固すぎたので諦め、少し離れた幾分か土の柔らかい場所を掘り始めた。
 雨で土が柔らかくなってきているといってもそれは表面だけ、子犬を埋められるほど深い穴を掘りあげた頃には二人の手はぼろぼろになっていた。
 途中からは石や気の板を使って掘っただが最後は結局自分たちの手を使うしかなかった。
 穴の中に子犬を横たえると、その上から土をかけていく。
 互いに無言で刻が過ぎて行く。
 穴を埋め終え、上に目印となる石を乗せ、目を閉じ黙祷をささげるまでずっとふたりは何も言わなかった。
 すべてを終え、先に口を開いたのは驚くことに少女の方だった。
「……ありがとう。きっとあの子は幸せになった」
 それに対し宗二が、
「あの犬は君のなのか」
 と尋ねると少女は、
「知らない犬。さっき公園の横を通るときに見つけた」
 そう答えた。淡々とした口調だった。
 車にはねられたらしく、見つけたときにはもう助からないとわかるほど子犬は弱々しかったという。
 少女は子犬が寂しくないようにと、息を引き取るまで抱いていたのだそうだ。
 気がついたとき、宗二は少女に心を奪われていた。誰にも、自分にも媚びない無償の優しさを少女の中に感じた。いや、もしかしたら最初に見た瞬間、雨に濡れるその姿の虜になっていたのかもしれない。
 少女は最後にもう一度ありがとう、と告げると宗二の前から去っていった。
 少女の去った方を宗二は雨に濡れるのも厭わず、見つめつづけていた。
 翌日、宗二は少女のことを友人に聞きまくり、少女は『氷野佳織』という名前なのだと知った。
 ただ学校での彼女は公園で見たときとは違い、口数は少ないながらも友人と楽しそうに語っており、壊れそうな儚さは感じられなかった。
 公園でのことは夢だったのかと戸惑っている間にも、月日は流れ宗二は進級した。
 クラス替えがされ、新しい教室へと向かった宗二は自分の目を疑った。
 教室に入ってまず目に入った窓際の席、そこに氷野佳織が座っていた。
 物憂げな表情で窓の外を眺めていた。窓の外、桜の花びらが舞い散る様子を。
 その瞬間、舞い落ちる桜の花びらと同じ雰囲気を持った氷野佳織という少女が、雨に濡れた少女の姿と重なった。
 ようやく宗二は氷野佳織が公園であった少女と同一人物であるとわかったのだ。
 宗二は踊りたく気持ちを抑え、自分の席についた。
 その後、気がつくと佳織のことを目で追いかけている自分がいることに宗二は気付いた。
 普段は友達と自然に話しているのだが、時折壊れそうな雰囲気を身に纏うことがあるのだ。それが何を意味しているかわからなかったが、宗二にはそれだけで十分だった。
 むしろ惚れた相手をすぐに判断できなかったことを悔しく思うばかりだった。
 そしてさらに時が流れ、宗二は佳織に告白することを決心したのだった。

「と、いうわけさ。氷野は覚えてないみたいだけど俺は……」
「憶えてる」
「え?」
 口を開きかけた宗二だが佳織の声にさえぎられる。
「わたしもその日のことちゃんと憶えてる。だって」
「ちょっと待った。俺が先に言う」
 今度は宗二が佳織の言葉をさえぎった。
 佳織が首を傾げると、
「そのときから……俺が氷野のことを好きだって気持ちは今も、今も変わらない」
 はっきりと言い放った。
「確かに死神とか言われて戸惑った。けど、それがどんなことなのか見て、氷野の戦っている姿、苦しみながらもがんばってる姿を見て、俺は思った。氷野が死神だろうとなんであろうと関係ない。それは俺が好きな氷野佳織って子を形づくってる要因のひとつにすぎなんだって。だから俺は自分の心全部を賭けて言える。俺は氷野佳織のことが好きだ!」
 二度目の告白。それは一度目とは覚悟も重みもまったく異なる告白だった。
 この瞬間、宗二は佳織のすべてを受け入れることを誓ったのだから。
「……」
 佳織は無言で聞き入っていた。
 と。大きな黒い瞳から小さな温かい雫が零れ落ちた。涙だ。
 涙はとめどなく溢れ、だが手で拭うこともせず。
「わたしも……あの雨の日に出会ったときからずっと……」
 その先は嗚咽に混じり聞き取れなかった。
 でも宗二には確かに伝わっていた。佳織のたくさんの想いとともに発せられた、その。
 ―――ずっと、あなたのことを見ていた。

 日は沈み、あたりは暗くなっていた。
 薄暗い電灯に照らされた道を、宗二と佳織は歩いていた。
 公園から出た後、ずっとふたりは無言だった。
 言葉がないのではない、言葉が必要ないのだ。
 一緒に歩いているだけでお互いの心が通じ合っているような気がしていた。
 無論、錯覚である。だが心地よい錯覚だ。
 一言も発しないまま、ふたりは佳織の家の前に辿り着いた。
「そういえばひとつだけ聞き忘れてたんだけどさ」
「なに?」
 別れの挨拶をする前、宗二はどうしても気になっていることを尋ねた。
「死神の『バイト』ってどういうこと。バイトっていうからにはお金貰えたり、それとは別に本業、見たいな人もいるの」
「あ、それはね」
 佳織は少し気まずそうに俯いた。
 そして下を向いたまま小さく呟いた。
「一応、うちは代々、死神の家系なの。今はお父さんが正式な死神ってことになるのかな。それでね、死神ってのは世襲制で、お父さんの後はわたしが継がなきゃならないの。それで、継ぐまでの間はバイトとして、簡単な事件を相手に修行するってことになってるの」
「は、はぁ」
 宗二は曖昧に頷くだけだった。あれだけのことをして簡単な事件だというのが信じられなかった。
「あとね、一応バイト代は出るんだよ。まあ、お父さんのお給料から出されてるんだからお小遣いと変わらないかもしれないけど。あ、お父さんのお給料ってのはね、国から出てるんだ……ってこれは言ったらまずいのかな。お父さんはいつも、俺は国家公務員なんだぞ、なんて公言してるからいいのかな」
 言い終えて佳織は父親のことを思い出したのか、ふふ、と微笑んだ。宗二もついつられて笑顔になっていた。
「じゃあ、また明日」
 ひとしきり顔を見合わせて微笑んだ後、名残惜しそうに宗二は口を開いた。
 佳織は宗二に向かい合うように立つと、
「あ、肩にゴミ」
 宗二の右肩に手を伸ばした。
 自分で取れるのに、と思いながら宗二は佳織の手が届くように軽く腰を屈める。
 刹那、今までに見たことのないような暖かな笑みを浮かべた佳織の顔が宗二のすぐ目の前まで近づいてきた。
 肩のゴミを取ろうと伸ばされていた手は、もう片方の手とともに宗二の首に回されていた。
 そして。
 ――え?
 一瞬、何が起こったのかわかなかった。気がつくと佳織が玄関へ駆け出して行くのが目に入った。
 ドアの前で立ち止まると、振り返り真っ赤に染まった顔を宗二に向けた。
「また……明日」
 笑顔を浮かべて微笑むと、佳織は家の中へと入っていった。
 宗二はしばし呆然としていたが、確かめるように唇を指でなでた。
 わずかながら彼女のぬくもりが残っているように感じられた。
「おおおおお!!!!!!」
 近所の迷惑も考えていないほどの大声で叫び声を上げると、宗二はわけもなく全力で家への道を走って帰った。



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