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「大丈夫だよ。下にブルマーはいてるんだから」
 何が大丈夫なのか知らないが、ともあれ誠司はそう語り出した。
 小六の夏である。それも終業式の日。七月十九日のことだ。
「どういうこと?」
 誠司の周りに集まった八人の男子を代表して、僕はそう訊ねた。「三組の連中に負けるワケにはいかないだろ」という彼の言葉と共に、教室の片隅に集められた僕たちだったが、いまだ話の流れが見えてこない。
 明日から始まる四〇日のドリームタイムを前に、僕の在籍する六年二組は浮かれていた。海外旅行の予定を、誇らしげに語る女子。ここぞとばかりにゲームを買い込み、”一夏の引きこもり“を宣言する男子――そんな彼らを尻目に、僕たち八人はワケの分からない話を聞かされている。
「ねえ、どういうことだよ」
 僕はもう一度言った。すると誠司は逆に訊ねてくる。
「和也、お隣りの三組で最近流行っていることは何だ?」
「え、何それ?」
 いきなりの質問に、僕は戸惑った。と、誠司はお手上げポーズをつくりオーバーアクション気味で、
「ナ――――ンセンス! この桜嵐小始まって以来のムーブメントを、知らないというのかね和也君」
 派手にそう言われて悔しい気もするが、知らないものは知らないのだ。サッカー熱はW杯終了と同時に鎮火したし、ベッカムヘアの男子はもういない。とすると、何が――
 いや、待てよ。そう言えば女子が話しているのを、ちょっと耳にはさんだ気もする。
 曰く、三組の男子は変態ぞろいだ。
 曰く、あたしもやられたー。ムカツクよね――。
 曰く、ガキなんだよね。来年中学なのに、いまだに******なんてやってるなんて。
 そして誠司曰く、『大丈夫だよ、下にブルマーはいてるんだから』
 って、ひょっとして、
「ひょっとして、スカートめくり?」
 僕の言葉に、誠司は満足そうにうなずいた。
「正解だ。さあ選ばれし勇者諸君、夏休み前にいい思い出を作ろうじゃないか」
 そう言われても、“勇者”たちは口をあけてポカンとするだけで、微動だにしない。当然だ。しかたなしに、僕が言う。
「スカートめくりって……そんなことして何になるのさ?」
「ナンセンス! 何という愚問だ。スカートがめくれるんだよ! 太ももが見れるんだよ!」
 誠司がものすごい勢いで反論してきた。そのあまりの迫力に僕はたじろいでしまう。彼はさらにたたみかけてきた。
「なぜ今日でなくてはならないのか。理由は明白、あしたから夏休みだからだ。“スカートめくりの恥はかき捨て”“人の噂も四〇日”つまり今日何があっても、二学期からは何食わぬ顔で登校できるわけだ」
 ――そのことわざ、微妙に違っているんじゃ……などと言う間もなく、
「そして我々は来年桜嵐中に進学する。知っての通り同校は、昨今の悪習を受けスパッツの導入に踏み切ってしまった。この春のことだ。つまり我々に残された時間はごくわずかなのだ。さあ行くぞ諸君!」
 その言葉と同時に、誠司は僕たちの間をすり抜けて、その向こうに控える人の群れに飛び込んで行ってしまった。彼の無謀な行動を目で追うと、そこにはクラスの女子を中心とした冷ややかな視線の雨あられ。当然だ。教室の隅とは言え、あれだけの大声で叫んでいたのである。誠司の“作戦”は、彼女たちに筒抜けだったのだ。
 ジーンズやキュロットスカートで身を固めた女の子たちは、軽蔑の顔つき。スカートをはいている者は、ミニもロングもお腹の少し下辺りを押さえながら後ずさりする。
 誠司はそんな女子たちの中に、果敢に飛び込んだ。加速をつけたまま、一人の女子に向かって右手を水平に伸ばす。そこにあるのは当然スカートではなく、一年くらい前から僕たちをドキドキさせている胸なんかがあったりするわけで、当然その女子は下を押さえていた手をとっさに離す。そしてイヤらしい誠司の右手から、胸をガードしようとして――
 誠司の左手が雷のごとき動きを見せたのはその時だった。右手はフェイント。本命の左が床をはうように走り、そして振り上げられる。
 夏らしい、明るいオレンジ色をしたミニスカートが宙に浮いた。
 その光景が僕にとってどれほど驚きであったか。白く光る太ももや、その上を覆う黒のビキニライン――よーするにブルマー――体育の授業で見慣れているはずのそれが、スカートというスパイスを加えるとこうも神秘的に感じるものなのか。血液が逆流するかのようなその思いも、もちろん驚きであったのだが、何よりビックリしたのは、その標的になった女子が、藤森冴香さんだったことだ。誠司的“お気に入りリスト”No1。そんな娘に、奴は、奴は・・・・・・
 こういう変態的なことは、いわゆる“どーでもいい女”相手にやるものだと思っていた。だって嫌われてしまうじゃないか。その証拠に、藤森さんは顔を真っ赤にして烈火のごとく怒り、誠司に平手をくらわせている。バッシ――――ン! という、もの凄い音が響き渡る。
 だが、それでも彼はめげなかった。ぐらついた体勢をすぐさま立て直すと、新たなるターゲットを模索する。そして捕獲。行動。その相手は、“お気に入りリストNo2”の沢野麻紀子さんだった。
「ちょっと待ったぁああ!」
 隣でいきなり大声が上がって、僕はビックリした。目を向けると、さっきまで僕と一緒にこの光景をポカンと見つめていた“選ばれし勇者”の一人である。
 彼は、「麻紀子ちゃんのスカートをめくるのは俺だ!」と叫んだかと思うと、机の波をかきわけ、誠司の元へ突っ走って行った。
 ――あいつ、沢野さんのこと好きだったんだ。
 そんなことをぼんやり考えている暇もなかった。別の一人が、「お、俺も!」と、かねてから好きだと公言していた女子に飛びかかったのをきっかけに、“勇者”たちは次々と本命女子に向かって突っ走っていく。終業式後の、にぎやかな中にも寂しさが混じっていた教室内の雰囲気は、劇的に変化した。
 悲鳴を上げ、逃げ惑う女子。それに襲いかかる男たち。スカートを押さえながら反撃する少女。股間をけとばされ、うずくまる男子――机はひっくり返り、イスが宙を舞い、しまいには一般男子生徒までこの聖戦に加わっていく。
 そんな、“あびきょうかん”を目の前に、一歩も動けずにいた僕だったが、とつじょ行動するきっかけが訪れた。
 視界に飛びこんできた、一人の男子とそのイヤらしい手から逃げる女子――小柄で病気がちでやせていて、でも弱々しさを少しもださずに明るく振る舞うクラスの人気者――伊藤麻衣。僕が密かに気になっていた娘が、今まさに男の毒牙に犯されようとしていたのだ。しかもその相手はよりによって誠司だった。
「させるかぁああ!」
 表現できない感情に押されて、僕の身体は電光石火の動きをみせた。誠司には、いや他の誰にも麻衣ちゃんに触れさせたくなかった。
 後から考えると、そこまではまともな考えだったけど、そこから先は異常だった。だけどその時の僕は冷静ではなく、落ちついて考える余裕などなかった。だから“他人にスカートをめくらせたくない(A)”→“彼女を守りたい(B)”という考えをすっ飛ばしてしまい、(A)→“自分がめくりたい(C)”というベクトルに驀進してしまった。これはもちろん、常日頃からそういうことを考えていたわけでは断じてなくて、場の流れに飲まれてしまったからである。全ての原因は誠司にあり、つまり悪いのは誠司なのだ。
 その彼を押しのけた僕は、麻衣ちゃんに――今まで密かに気になっていた小柄な少女に、(C)をしてしまっ……いや、ぼかすのはやめとこう。要するに僕の右手は、彼女の腰を包む柔らかい白い衣類をめくりあげてしまったのだ。
「きゃああああ!」
 聞き慣れた声の、聞き慣れない悲鳴が、彼女の口から飛び出た。
「おおおおおおおおっ!」
 男子たちの、好奇といやらしさに満ちた歓声が上がった。そしてそんな二重奏を素通りさせるような物体が、僕の視界に入ってきた。
 白いスカートの下は、白い布だった。
 しかも、エッチな本の中でお姉さんたちがはいているような、細くて小さいのじゃなくて、何か厚ぼったくて、大きくて――
「変態!!!!!!」
 もんの凄い勢いで麻衣ちゃんの右手が飛んできて、もんの凄い音が教室中に響き渡った。それが僕、江崎和也の一学期最後の思い出となった。

 7・19事件の後、僕は麻衣ちゃんとの仲直りの機会もないまま夏休みに突入することになってしまった。
 謝りたいと思っても、会うことすらできない。違う町内同士なので、朝のラジオ体操に参加しても、そこに彼女はいない。ならばと毎日学校のプールに通うのだが、彼女の姿はなかった。
 プールで会ったクラスの女子に情報を求めようとしても、返事の代わりに冷たい視線とシカトの態度。結局長い夏休みの間に得たものといえば、こんがりと焼けた褐色の肌だけである。それだって、三回も皮がむけてしまい、痛いことこの上ない。何にもいいことはなかった。
 学校に行けば普通に会えていた女の子。五年の時、はじめて一緒のクラスになってから気になっていた娘。ビックリするほど色白で、何かはかなげで、でも気が強くて、男子や先生に対してもはっきりモノを言う人。騒いでいる時は“元気だな”。学校を休めば“大丈夫かな”――僕にそんな気持ちを抱かせた彼女。
 去年の夏休みだって、一日も会わなかった。だけど別に気にしていなかった。それなのに今年は――あーあ、何であんなコトしたんだろ。
 会いたいのに会えないのが、こんなに辛いなんて――そんな詩人チックにまとめてみても、事態はもちろん好転しない。直接麻衣ちゃんの家を訪ねる勇気も、電話をする度胸もなかった僕は、結局彼女の姿を見ることすらなく悪夢の夏休みを終えた。

 九月一日。始業式の日。まだ夏休みボケしているだろうクラスメイトを尻目に、僕はある決意を持ってこの日に臨んでいた。
(まずはあいさつ。そしてソッコーで謝る)
 朝、誰よりも早く登校した僕は、昨日のうちに考えておいたセリフを心の中で暗唱した。
 ――この前はごめんね。決して悪気はなかったんだ。誠司の奴が変なこというからつい……
 ふと思う。この謝罪文、なんか人のせいにばかりしているような気がする。いや事実、誠司のせいなんだ。気にすることはない。いや、でも麻衣ちゃん正義感強いからな。こういうの嫌がるかも。
 慌ててカンペを取り出した。でも訂正しようにも名文句が浮かんでこない。国語の時間、先生に『江崎は表現力に富んでいる』と褒められた腕前が、発揮できない。
 焦る。時間は容赦なく進み、黒板の右隣に掛けられた時計の針は、すでに七時四〇分を指している。ホームルームが始まるまで、あと五〇分。そろそろ日直が登校してくる時間帯だ。
 ――急がなきゃ。
 と、その時、教室の後ろ側の扉がいきなり開いた。あまりに突然の出来事で、僕はイスからひっくり返りそうになるのをこらえるのに必死だった。悲鳴を上げそうになる口を両手でふさぎ、恐る恐る振り返る。
「おはよう。江崎くん、もう来てたんだ。早いね」
 明るくそう言う女子と、視線がからみあった。沢野麻紀子。クラス一のお嬢さまで、あの7.19事件の犠牲者の一人である。僕はドキドキしながら返事をした。
「お、おはよう。沢野さんこそ早いね」
「うん、あたし日直だから。二学期もよろしくね」
 それだけ言うと、彼女は自分の席に向かい、手さげのバッグを置いて黙々と日直の仕事をはじめた。黒板をふき、机の整とんをする彼女の様子を見ながら、僕は胸の内にある感情がわき起こっているのを感じていた。それは“希望”である。
(沢野さんは、僕にいつも通りあいさつしてくれた。誠司の言う通りだ。やっぱり“人のうわさも四〇日”なんだ。よし、いける。いけるぞ)
 そして一〇分過ぎ、二〇分過ぎ、教室内に徐々に人が集まり出してきた。夏休みの思い出話に花を咲かせる者。お約束通り宿題を写させてもらっている者。ホームルームの時間が近づくにつれ、我が二組は普段のにぎやかさを取り戻しつつあった。
 そして八時十五分。僕が登校してからちょうど一時間が経過した時。待ち人は現れた。
 数人の友達と一緒に教室に入ってきた女の子、麻衣ちゃんの姿は、あのいまいましい事件の日から何一つ変わっていなかった。夏の間一日も外出しなかったのだろうか。その白い肌は、両隣を歩くこんがりと日焼けした女の子と対照的に、光り輝いて見えた。胸がドキドキするのは、これからやろうとしてることに対する不安だけが原因じゃないかもしれない。
(根性出せ。よし、行くぞ!)
 意を決した僕は、イスから腰をあげて、麻衣ちゃんに向かって一歩踏み出した。そう、一歩だ。このはじめの一歩が大事なんだ。落ちつけ。言葉の上手さじゃないんだ。誠意だ。誠意を持って謝れば大丈夫だ。
 視界はぼやける。周囲の世界は歪み、わずか数m先にいる一人の少女の姿だけがクローズアップされていく。
「あ、あの、い、伊藤さん」
 麻衣ちゃんの正面に立った僕は、口ごもりながらも話しかけた。
「あのさ、この前は、その、――イテっ!」
 視線すら合わせてくれない彼女とその友達に、僕の身体は突き飛ばされた。
「ちょ、い、伊藤さん?」
 だけど麻衣ちゃんは振りかえらない。両脇にいる彼女の友達が、冷たい視線を送ってくるだけだ。
 と、僕の肩に誰かが手を置いた。ぼんやりとそちらに目を向ける。誠司だった。
「元気出せよ、和也」
 呆然としている僕を尻目に、奴ときたらニカっと笑いながら、「やまない雨はない。明けない夜もない。そのうち仲直りできるさ」などともっともらしい言葉を並べてくる。
 僕はと言えば、そんな名文句は右から左。頭の中にうず巻いていたのは、“人のうわさも四〇日”なんて大うそだってことだった。
 
 結局、その日も次の日もまた次の日も、僕は麻衣ちゃんと仲良くなるどころか謝罪の機会すら与えられなかった。それ以前に会話すら成立しなかったのだ。
 やがて秋が終わり、冬が来る。Tシャツがトレーナーになって、さらに上着を羽織るようになると、いよいよ冬休みだ。二週間の休暇を前に、クラスのみんなはやっぱり浮かれている。クリスマスやお正月といった楽しいイベントが目白押しのこの休みを、有意義に過ごす為の計画を立てている。
 でも、僕には全く、全然何一つ関係はなかった。
 年が明け、学校がまた始まり、やがて季節は冬から春へと向かっていく。徐々に温かくなっていく気温。生命は情熱を体全体で示し、草木は堅い土を破って天を目指す。
 そしてとうとう三月になり、卒業式を迎え、感傷を許す間もなく時は進み春休みとなり、四月となる。それは僕が中学生になるのと同意語だった。
 四月七日。僕は市立桜嵐中へと入学した。仲直りすることなく。
 入学式の時に配られたクラス分けの用紙によると、麻衣ちゃんは一組。僕は八組。桜嵐小の権謀か、桜嵐中の術数か知らないが、よりによって最も離れたクラスになってしまった。
 ちなみに誠司は一組。どうやらこの世に神はいないらしい。

 最悪のスタートを切った中学校生活だったけど、その後はなかなか楽しく過ごせた。クラスには小学校時代からの友人が数人いたし、他小の人たちと仲良くなるのに一ヶ月もかからなかった。
 部活は陸上部。昔から、かけっこには結構自信があったのだ。
 放課後はトラックで汗を流して、夜は夜でベースの練習に明け暮れていたりした。三つ上の兄ちゃんがバンドマンで、そのお下がりをもらったのだ。アンプにつないで音を出すことは、さすがに休みの日の昼間くらいしかできなかったけど、未知の機械に僕の心は、わしずかみにされてしまった。
 そんな僕の耳に、ある日ビッグニュースが飛びこんでくることになる。中間、期末テストという難敵をどうにか倒し、ラスボスである通知表を受け取った日のことだ。
 奇しくもその日は七月十九日。あの忌々しい7.19事件からちょうど一年経ったこの日、明日から始まる夏休みを前に、やっぱり僕たちのクラスは浮かれていた。廊下沿いにある小窓から、僕を呼ぶ声が聞こえてきたのはその時である。
「和也。おい、和也!」
 一番聞きたくない声が、一番聞きたくないタイミングで鼓膜を震わせた。あの事件の元凶、誠司が窓から顔を出していた。
「おーい、和也さーん。えーざーきーかーずーやーさ――――ん」
 シカトを決めこもうにも、奴はしつこく叫んでいる。そのうちクラスメイトたちも、僕のほうをちらちらと見始めた。
「あー、もう!」
 僕はイラだちを隠すことなく乱暴にイスから立ち上がり、ズカズカとできるだけ迫力をかもし出しつつ悪友の元へと歩いて行った。そして冷たく一言、
「何の用?」
「なぁーに怒ってんだよ和也。久しぶりに親友と語ろうって時によ」
 誰が親友だよ――僕がそう切り返そうとした時には、もう誠司の次のセリフが口から飛び出していた。この辺のせっかちさは、昔と何も変わっていない。
「つれないな。せっかくお前にビッグニュースを持ってきてやってのによ」
 肩をすくめて、お手上げポーズ。この辺も昔通りだ。そして、
「伊藤麻衣が学校休んでいるんだ。三日前から」
 誠司の言葉に、顔の筋肉が反応してしまった。眉は反射的によせられて、唇が勝手にひん曲がる。ほおがピクピクしてるのが分かった。それでも僕は極力冷静なフリをして、「そうなんだ。で、それがどうしたの?」と言った。
「ふふん。“どうしたの?”かね。無理するなよ和也くん」
 目を細めて小馬鹿にしてくる誠司。カチンときた。
「だから!」怒鳴ってしまってから、クラスメイトがこっちに好奇の視線を向けていることに気付く。慌てて声をひそめた。
「だからさ、伊藤さんが学校休んでるからって何なんだよ。あの人、前からよく休んでたじゃんか。だいたい、今はクラスも違うし、別に何とも――」
「入院したんだと。昨日の夜に」
「え」
 誠司のその言葉に、僕は二の句が継げなくなる。彼はさらにたたみかけてきた。
「クラスの女子に聞いたんだけどな。結構具合悪いみたいよ。下手すりゃ夏休み中、ずっと入院だってさ。で、勇士一同で見舞いに行こうってことになってな。まあお前も誘ってやったワケだ」
「……入院。マジで?」
「マジマジ。大マジよ。場所は、柿嶋病院。郵便局の側にある、あのでっかい病院よ。ここからだとバスで片道二三〇円。金は持ってるか?」
「え? あ、今日は財布持ってないけど……」
「しゃーねーな。ホレ、五〇〇円貸すよ。トイチだからな」
 “トイチ”意味も分からないまま、僕は鈍い色をした硬貨を反射的に受け取ってしまった。そして状況に現実味を持てないまま、強引に連れて行かれた。

 柿嶋医院は、地区最大規模を誇る医療機関であった。病室数二五六。南北にそびえ立つ九階建てのツインタワーには、一〇〇〇人近い患者が入院している。外来患者の数も半端ではなく、午前八時半から始まる受付には、朝早くから長蛇の列ができているという。二時間待ちの、五分診察。そのシステムは、古きよき総合病院そのものだ。
 などと冷静に観察するだけの余裕は、“その時”の僕にはまるでなくて、今語ったのは後から病院のパンフを見たり、他の患者さんから聞いた話をまとめたものである。
“その時”――つまり誠司に強引にバスに乗せられて、強引に病院へと連れて行かれた時の僕はといえば、ひたすらパニック状態だった。
 入院――ものごころついたときから病気知らずの僕にとって、それは未知の単語だった。ホテルのような豪華な受付も、広くて清潔感のある廊下も、若くて美人の看護師さん(♀)もロクに目に入らない。
 入院――ここに来る途中で誠司に聞いた話によると、麻衣ちゃんにとってこれは初めてのことでないという。小学生の時に、何度かこの病院で寝泊りしていたというその事実に、僕は二重のショックを受けた。
 去年の秋の運動会。7・19事件の汚名を晴らそうと、張りきって朝からウォーミングアップしてた日、彼女は休みだった。今思うと、春のクラスマッチの時も、その二・三日前から休んでいた。ひょっとしたら、あの時もこの時も入院していたのかもしれない。彼女がいなくてがっかりしつつも、それなりに行事を楽しんでいる間、麻衣ちゃんは病院のベッドで力なく横たわっていたのかもしれない。
 そんな彼女の姿を思い浮かべながら僕は――
「着いたぜ。この病室だ」
 不意に現実に引き戻された。誠司の後ろを機械的に歩いていた僕は、慌てて立ち止まる。柿嶋病院の誇る九階建ての病棟の一つ、南棟一階六五号室。そこが麻衣ちゃんの入院場所だった。
 もっともそんなこと知ったのは後からのことで、この時の僕はといえば部屋の一角を占領する女子中学生の集団に気を取られていた。六つのベッドが並べられた大部屋で、そこだけが空気が違っていた。
「お、藤森と沢野も来てるな」
 誠司が言う。その二人は彼の言うところの“お気に入りリスト”のトップ集団であり、桜嵐中一年一組であり、そしてかの7・19の被害者でもあった。
 だが、そんな過去などどこ吹く風。尻ごみする僕を置いて、誠司はずかずかと病室に入りこんだ。
「よう諸君! 見舞いに来たぜ!」
 その威勢のいい声に、中にいる女子たちが振り返る。
「あ、誠司も来たんだー。花くらい持ってきたの?」藤森さんが笑いながらそう言った。
「こんにちわ。でも静かにね」沢野さんが微笑みながらそう言った。
 そして誠司は、「終業式の後わざわざ来たんだ。ありがたく思えよ」などと言っている。ホント、うらやましい性格である。
 そして奴は僕の手を引っ張り、「ゲストを連れてきたぜ。ほら和也、あいさつしろよ」
 女子たちの目が、一斉に僕に注がれた。顔が熱くなる。赤くなっているのが分かる。小声で、「あ、こんにちは・・・・・・」とだけ言うのが精一杯だ。
「げ、アンタまで来たの?」
 そんなひどいセリフが、よりによって一番言って欲しくない人の口から飛び出した。麻衣ちゃんだった。
「伊藤さん、その、誠司に聞いてさ、その、ちょっと心配になってさ、」
 ベッドに腰を下ろしている彼女をまともに見ることもできないまま、僕はつぶやくように言った。大きな声が出ない。のどはカラカラだ。
「なーに言ってんだよ和也。すごい来たがってたくせによ」
 この誤解を招きまくっている発言は、もちろん誠司のものだ。そしていつものように僕の反論を待つことなく、
「ところで一組諸君。君らが一足早く下校した後、山ちゃんが教室に来てプリント配ったこと知ってるかね?」と続ける。
「山田先生が? 何のプリント?」と、沢野さん。
「夏休みの課題についての補足だってさ。まだ受け取ってない?」
「ホント? 後で誰かにコピーさせてもらおっかな」と、藤森さん。
「心配無用。諸君の分もちゃんともらってきたから。ほら」と、カバンの中から髪の束を取り出す誠司。その場にいる女子から歓声が上がった。
「マジでー。誠司くん、気がきいてるじゃん」「ちょうだいちょうだい」
 静かにするべき部屋に、黄色い声が響き渡る。誠司は、まあまあと彼女たちをなだめながら、
「このプリント自体にも、色々補足があるんだ。俺メモっておいたからさ、説明するよ。あーでも、」と、わざとらしく大声を出して、「ここ病室だし、うるさいのまずいよな。売店の隣に喫茶店あったな。そこ行こうぜ」と、さっさと歩き出してしまう。互いに目配せしながらも、彼について行く女性陣。そして僕は、
「っと和也。お前はクラスが違うから関係ないだろ。ここにいろよ」という誠司に押しとどめられた。奴ときたら、ウインクまでして小声で、「うまくやれよ」
 顔を赤くして固まっている僕を尻目に、さっさと行ってしまった。
 そしてその場には僕と麻衣ちゃんだけが残された。同じ病室にいる他の患者さんたちは、カーテン閉めていたり、テレビ見ていたりと無関心。逃げ場はなかった。
「ま、いいけどね。そこ、座りなよ」
 溜息つきながらそう言う麻衣ちゃんが指差したのは、簡素なイスだった。僕はゆっくりとそこに腰を下ろした。一年ぶりの会話が始まった。

「病気どうなの?」
 いきなり話題に詰った僕には、そんなことしか言えなかった。難しい顔をする麻衣ちゃんを見て、すぐに後悔する。――明るい話にすればよかった。
「血をさ、抜いたんだよね。今朝」彼女はそれでも言葉を紡いでくれた。「でさ、あんまり結果がよくなくてさ」
「採血したんだ」
「そう、それ! “さいけつ”! アンタよくそんな言葉知ってるよねー」
 突然彼女がパッと顔を明るくしたのでビックリした。その姿は、7・19以前の彼女そのものだった。
「難しい言葉とか、結構詳しかったもんね。国語とか、いつもクラスでトップじゃなかった?」
“クラス”というのは、もちろん小学生時代のことだろう。同じ教室で同じ時間を過ごしたあの古きよき時代。なんだか僕は嬉しくなってきた。
「毎日新聞読んでたからね。うち、兄さんが結構その辺厳しいんだよ。若いうちから世間に目を向けろってさ」
 いつの間にか、舌の動きが滑らかになってくる。
「お兄さんいるんだ。いくつなの?」
「高一。バンドやってるんだ」
 彼女の興味を惹くために、そんなことも言ってみる。麻衣ちゃんの目が輝いた。
「すごいじゃん。え、なになに、何やってるの? ドラム?」
 パジャマに包まれたきゃしゃな体をベッドから乗り出してくる。なんかスゴイ嬉しい。
「ベースだよ。この前、お古もらったんだ。家で時々練習してるよ」
「すごいじゃん! でもさ、ベースってどんなのなの? ギターみたいな形してるんだっけ?」
「あー、うん。形は似てるけど――」
 楽しい時間は唐突に終わりを告げた。
「ただいまー。江崎くん、麻衣といっぱいお話できた?」
 早過ぎる帰宅は、沢野さんだった。その無邪気な笑顔が、今は、今だけは恨めしい。
「あ、う、うん・・・・・・」僕はまた無口な置物になってしまう。すぐに他の面々も帰ってきた。
「ちょっと聞いてよ麻衣。山田先生、あたしたちに日記を書けって言うのよ。それも絵日記! ガキじゃないんだからさー」
 すぐに元の喧騒を取り戻した室内。一人の患者さんが、迷惑そうにカーテンを引いて音を少しでも遮断しようとしていたが、彼女らはお構い無しだ。
 ポンと、肩に手を置かれた。誠司だった。
「悪いな、あんま引きとめれなくてよ」
 奴にしては殊勝な言葉だった。僕は首を横に振った。
「いや、すごい有意義だったよ。ありがとな」
 正直な気持ちだった。それから一組女子たちはワイワイしゃべりだした。僕もそれなりに会話に加わることができた。三〇分後、見舞いを終えて僕らは病院を後にした。
 ――また来よう。僕は密かに誓った。今度は、一人で来よう。そう誓っていた。

 七月二〇日。夏休み初日の暑い昼下がり、僕は柿嶋病院の大きな門を、一人でくぐっていた。
 正面玄関前のロータリーを通過して、自動ドアの前に立つ。ゆっくりと開くその扉の向こうには、広々とした受付と、会計を待つ人々で溢れていた。
 こんなに人がいたんだ――改めてそう思う。昨日来た時には気付かなかったことだ。受付を素通りして、うろ覚えの院内を歩く。病棟へ続く渡り廊下が近づいてくると、入院患者の数が増えてきた。
 パジャマ姿のまま、売店で新聞を買っているおじさん。左腕に何かが突き刺さっていて、それを包帯で覆っている。車イスに乗っている人も目立つ。そんな彼らを尻目に、僕は南棟へと足取り軽く歩いていった。
 去年の今ごろ、この状況が想像できただろうか。会えなかった人に会え、話したかった人と話す。そんな当たり前と思っていたことが当たり前にできる日がくるなんて、一年前には予想もできなかった。
 六二号室、六三号室・・・・・・僕は病棟を歩いていた。大部屋にいる入院患者の女の人と、その恋人だろうか男の人の姿が、視界に入った。楽しそうに談笑している。そこに未来の僕たちの姿を見たような気がした。
 六五号室に着いた。六つあるベッドのうち、三つは空席だった。喫煙所か、売店にでも行っているのかもしれない。麻衣ちゃんのいる場所は、カーテンで遮断されていた。
 寝てるのかな――そうだとしたら、どうしよう。迷惑になるかもしれない。意を決して部屋に入ったけど、カーテンの向こうを見ることはできなかった。
「伊藤さん?」
 声をかけてみる。反応はない。
「伊藤さん」
 もう一度。今度は少し大きめに。でもリアクションはなかった。
 ――しかたない、今日は帰ろうか。と、ここまでのバス代のことを思い出す。中一の僕にとっては、馬鹿にならない値段だ。ちょっと遠いけど、自転車で来ればよかった。どうしよう。せっかく来たんだし、ちょっとその辺ぶらぶらして待ってみようか。どうせ今日は暇だし、
「そこの人なら、昨日から個室に移ったわよ」
 向かいのベッドでテレビを見ていたおばさんが、めんどくさそうに僕に告げた。
「え?」
「昨日の夜に病状が悪化してさ。今そこで寝てるのは、今朝入院した人よ。あなた昨日も来てた人ね? まったくうるさかったわよ。病院なんだからもう少し静かに、」
 そんな小言を聞いている余裕はなかった。僕はおばさんに迫り、「ど、どこですか。その個室ってどこですか」とだけ訊ねるのが精一杯だった。

 僕を乗せたエレベーターが、九階へと上っていく。静かに上っていく。扉が開くと、そこは別世界だった。
 まさか症状の重い者から順に、上の階に放りこまれているということはないだろう。当然だ。階数は病気の種類を区別するものであって、症状の重さではない。そう思っていても、ここにいるとその“まさか”という疑問が頭をもたげてくる。
 そんな場所だった。
 患者の姿はほとんどない。たまにいても車イスを押す力もなく、看護師に付き添われているような人ばかりだ。そしてその枯れ木のような肉体と、うつろな瞳――一階で見た光景とは、何から何まで違っていた。“死”だ。ここには死が溢れていた。
(こんなところに麻衣ちゃんが・・・・・・)
 心の動揺が押さえきれない。ナースステーションで、彼女の病室を訊いたときは声が震えた。
 ゆっくりと指示された病室に近づく。足が重い。前に進むのを、病んだ彼女の姿を見るのを心と体が拒否している。それでも僕はついにその部屋の前に立った。扉を軽くノックする。
 聞こえてきたのは、返事ではなく嗚咽だった。
「伊藤さん!?」
 初めて聞く彼女の泣き声が僕の背中を押した。ためらうとか、そんなことを考えるより早く、体が動く。部屋に入った。
 白い部屋だった。
 六畳ほどの広さの清潔な部屋。家具といえるようなものはほとんどない。ベッドとテレビとイス。それだけだった。生活の匂いが、ここにはなかった。
 部屋の一番奥にあるベッドはやはり白くて、そして麻衣ちゃんがそこで泣いていた。横になって、枕に顔を押し当てたまま泣いていた。
「伊藤さん・・・・・・」
 声を絞り出す。彼女はハッと顔を上げた。
「あ、江崎・・・・・・っちぇ、格好悪いところ見られちゃったね」
 照れたように笑いながら、彼女はパジャマの裾でほおをぬぐう。そこから見える手首が、やけに細く感じられた。彼女は体を起こした。
「今日も来てくれたんだ。ありがとね。そこ、座りなよ」
 僕は、彼女が指差すイスに腰を下ろした。昨日と同じようなイス。でも、昨日と違ってそれは冷たかった。
「体、大丈夫?」
 そんなことしか訊けない自分が恨めしい。
「うん。ちょっとまだ熱が高いけど、今は落ち着いた。暇だからテレビ見ようかと思ったんだけど、結構お金かかるからねー」
 彼女は気丈にそう言って、少し笑った。
「病院のテレビって、見るのに金かかるの?」
「そうだよー。ひどくない?」
 ちょっと上がり気味の語尾。それはいつもの彼女の姿だった。胸を撫で下ろす。だけどそこまでだ。それ以上会話が続かない。
「さっきさ、」最初に口を開いたのは、麻衣ちゃんだった。「さっき見たことさ、みんなに内緒にしてよ」
「・・・・・・泣いてたこと?」
「そう。って、言わないでよー。あたし、絶対人前じゃ泣かないことにしてるんだから」
 そう言って、ほおをむーっと膨らます。可愛らしい仕草だった。彼女がベッドの上で青白い顔をしてなかったら。
「何か、あったの?」
 あまり続けたくない話題だったけど、僕には他に言葉が浮かばない。国語の先生に褒められた作文能力は、なりをひそめていて活動の気配がなかった。
「ん。あたしさ、何回か入院してるんだけどさ、個室って初めてでさ」彼女は両手を掛け布団の上に乗せながら語り出した。「夜さ、一人で寝たことなかったから、なんか昨日からずっと寂しくてさ」
「え? 自宅にいる時も?」
「うん。あたしがこんなだから、結構お金かかっちゃってさ。うち貧乏なんだよね。だから今でもお父さんとお母さんと一緒の部屋で寝てるの」
 訊かなければよかった。後悔と焦り。早く話題を変えたかった。でも、浮かんでこない。
「一階の部屋の窓の外に、庭があったの覚えてる?」
 不意に話題が変わった。僕はその助け舟に必死で捕まった。
「ああ、あったね。結構広い庭でしょ。木もいっぱいあって」
「そうそう。でね、あたしがいた部屋からちょうど見ることのできた大きな木があったのね。いっぱい葉っぱもしげっててさ」
「うんうん」
「昨日思ってた。この葉っぱが全部散ったら、あたしも死んじゃうのかなって」
「し、死んじゃうって! そんな縁起でもない!」
 僕の抗議に、彼女はくすりと笑った。「冗談よ。だけどね、ここに来てあの木のこと、ふと思い出したの」
「・・・・・・何で?」
「ここ、九階でしょ。あの大きな木だって見ることもできないのよ。だからね」
 彼女は、ベッドの上でうんしょと体を移動させて、そしてカーテンに手を伸ばした。薄いピンク色をした布が、ゆっくりとめくられる。
 窓の向こうには何もなかった。
「・・・・・・」僕が何も言えずにいると、
「まわり、高い建物なくてさ。下見るとなんか寂しいし、北棟は窓の反対側にあるから・・・・・・」
 イスから腰を浮かして、窓に目を向ける。確かに何もない。あれだけ大きいと思っていた木の姿もなかった。苦し紛れに言った。
「そ、空が」
「え?」 
「空があるじゃん。空、きれいだよ」
 窓の向こうに広がる、青と白の無限の空間を指差しながら、僕はそう言った。彼女の視線が、文字通り宙を泳ぐ。そしてこっちを見て、ちょっと微笑んで、
「だね」
 と、言った。そしてポツリと、
「空飛びたいな・・・・・・飛べたら、ここから出ていけるのにな」
 その言葉は僕の心をえぐった。あと一時間、いや三〇分もすれば僕はこの部屋を出ていく。病院を後にする。歩いていける。でも彼女にはそれはできないのだ。涙腺が緩みそうになるのを、必死でこらえた。バカみたいに明るい声を出すのが僕の限界だった。
「昨日さ、言ってたじゃん! ベースとギターの違い!」
「え?」
 これ以上彼女の寂しげな声を聞いてられなかった。僕は一気に捲し立てた。
「弦――って、あのビョーンってやつね、あれの数が違うんだよね。ギターは五本。ベースは四本」
 麻衣ちゃんは目を丸くした。
「ど、どうしたの急に。変なの」
「でさ、音が違うんだよ。ベースはね、こうキュイ――――ンって感じでね」
 もう自分でもワケが分からなかった。昨日こっそり調べておいたベースの特徴についての一〇八項目は、曖昧な言葉にしかならない。それでも喋らずにはいられなかった。
「あはっ。きゅーんってなによ、きゅいーんって」
 麻衣ちゃんが笑う。報酬はそれだけ。それだけで十分だった。しかし、
「伊藤さん、点滴の時間ですよ」
 無機質な声と共に、会話は唐突に終わりを告げた。昨日と同じように。白衣姿の若い女性が部屋に入ってきた。看護師が、トレーの上に何かのパックを載せて現れたのだ。あれが点滴なのだろうか。
「あ、はい・・・・・・」
 急に小声になった麻衣ちゃんが、もぞもぞとパジャマをめくる。左腕があらわになった。枯れ木のようなその細腕に、包帯が巻かれている。
「点滴の針がね、刺さってるんだ・・・・・・」
 麻衣ちゃんがつぶやいた。それが僕に向けての言葉だと気付くのに、数秒かかった。この状況、僕はもう帰るべきなんだろう。だけど、彼女のつぶやきは、僕を引き止めているかのように感じた。
 看護師と患者にはさまれて、居心地が悪い。それでも僕はイスに座ったままじっとしていた。
「はい、いいですよ」
 思ったより早く、作業は終わった。針はすでに刺してあるので、そこに細いチューブをつなぐだけだったのだ。ベッドわきに置かれた点滴台。そしてその上部に下げられた点滴の袋。透明なそこに入った液体が、粒となって下に落ちている様子が分かる。
 ――こんなもんで、麻衣ちゃんは生かされているのか。
 看護師が出ていき、また二人きりになった。そしてまた沈黙がやってきた。必死で話題を探す。
「夜、看護師さんたちは遊びに来てくれないの?」
「えー、遊びには来ないよ−」彼女は少し笑った。「呼べば来るけどさ。だけどそれだけなんだよね・・・・・・」
 まただ。また話題を間違えた。違う。こんな彼女の顔を見たくない。
「あの、僕、携帯電話買ってもらったんだよね!」
「え?」
「貸すよ! 僕あまり使わないし!」
「どうしたの急に?」
「夜さ、電話できるじゃん。その、僕の家に、その、電話くれてもいいし・・・・・・」
 最後の方は小声だった。彼女は少し笑った。寂しそうに笑った。
「ありがと。でも、病院だと携帯使えないんだよね・・・・・・」
「あ」
 僕はバカだった。それから何を話したかは覚えていない。必死で話題探して、彼女もそれに反応してくれたけど、最後まで表情は暗いままだった。やがて点滴が終わり、看護師がやってきたのを機に、僕は病室を後にした。振り返ることもできなかった。
 重い足取りで、エレベーターまで歩き、一階に戻った。ふらつきながら、正面玄関をくぐる。と、いきなり背中を押された。見知らぬおばさんだった。その人は僕にぶつかったことに気付いていないのか、振り返ることもせず、小走りのまま外に出る。携帯を取り出して、どこかに電話していた。
「おじいさんがね、血圧上がっちゃってね、」そんな言葉が聞こえてきた。聞きたくもないのに聞こえてきた。おばさんは泣いていた。
「死んじゃったの・・・・・・うん、そう・・・・・・あたし、今日はこっちに残るから。うん、うん」
 電話を終えたその人は、涙をぬぐうことなくまた院内に戻って行った。そんな様子を、僕はただじっと見ていただけだった。
 そして思う。――ここは病院なんだ。人が人の最期を迎える場所なんだ。
 ここは病院なんだ。

 翌日もその翌日も、僕は柿嶋病院に行って、そして面会謝絶の札に追い返された。
 看護師さんたちは、僕と目も合わせてくれない。あの六畳ほどの病室で何が起きてるのか、僕にはまるで分からなかった。病名も、僕は知らなかった。
 家に帰る。家庭の医学書を開いた。麻衣ちゃんの姿を思い出す。肉体衰弱、顔面蒼白――それだけでは何も分からない。何も分からなかった。
『できることからやれよ』
 兄さんの言葉が頭に浮かんだ。ベースの練習でてこずっていた時に言われたことだ。
 できることから。僕にできること。それは病名を調べたり、病気を治すことじゃない。僕には治せないんだ。でも、僕にしかできないことがあるかもしれない。いや、きっとあるはずだ。
 だけどそれが何なのか、分からなかった。
 
 七月二五日。ようやく僕は麻衣ちゃんに会えた。驚きをこらえるのに相当努力が必要だった。今の彼女は、まさに病人の姿だった。それも――いや、言葉にしたくない。
「また、来てくれたんだ・・・・・・」
 力なく、彼女はそう言った。僕にできるのは、明るい声を出すことだけ。悔しかった。
「いやー心配だしさ、やっぱり。でも元気そうじゃん」
「あはは、麻紀子たちにもそう言われた。でも、無理しなくていいよ」
「あ、沢野さんも来たんだ」
「ん。だけどさ、みんないつか帰っちゃうんだよね・・・・・・当たり前だけどさ」
「・・・・・・」
「なんかごめんね。そんな話ばっかりして」
「そ、そんなことないよ! 入院だってさ、ダイエットになると思えばいいんだよ。前向き前向き」
「あー、ひどーい。あたしって太ってた?」
「そ、そうじゃなくて。あ、最近ベース結構上達したんだよ。そろそろユニット組もうかと思ってるんだ。ライブやる時は見に来てよ」
「すごいじゃん。江崎って地味にすごいよね。国語とか算数も得意だったし、走るのも速かったよね」
「あはは・・・・・・」
 笑いが渇いてしまう。陸上部の練習をサボり気味なのを思い出したのだ。
「あたしはさ、あまりそういうのなかったから」
 そういう彼女の言葉は力がない。僕は慌てて否定した。
「そ、そんなことないよ! 五年生の時さ、ほら昼休みに六年とケンカになったこと覚えてる? 運動場で」
「ん? あーあったあった。うちらがバレーやってた場所にあいつらが割り込んできた時でしょ」
 それは進級して間もなくの時のことだった。クラス替えした直後だったので、人間関係を築こうという主旨でグラウンドでバレーやってたのだ。ところがそこに六年がやって来て、どけと言う。何も言い返せない僕らを尻目に、真っ向から啖呵を切ったのが、彼女だった。
「すごかったよねあの時。マジ僕らびびってたもん」
「あははっ! あたし、ああいうの許せないんだよね。でも、びびってたんだー。失敗したかな」
「そんなこと、」言葉を止めた。自分の気持ちに、あの時から彼女を気にかけていた自分の気持ちに、気付かれるのが怖かった。幸い彼女は、少しきょとんとしただけだった。そして、
「なんか笑ったらお腹空いちゃった。何か食べない?」と言ってきた。まだお昼には間がある。
「朝ご飯、食べてないの?」
「んー、食べたっていうか、今あたしのご飯、点滴だから・・・・・・」
 笑っていた顔が、また曇っていく。自分の馬鹿さ加減に飽きれてくる。
「ご、ごめん。でもそれじゃ食べることできないんじゃないの?」
「ん。お菓子買いに行こうとしたら怒られた。だけどね、」彼女はうんしょと体を起こした。そしてささやく。「言霊って知ってる?」
「ことだま?」
「うん。言葉にはね、力があるんだ。だからほら、ハンバーグ食べたいって言うと――」
 そして麻衣ちゃんは、目を閉じてぶつぶつとつぶやき始めた。耳を澄ましてみると、「ハンバーグハンバーグハンバーグ・・・・・・」一体彼女は何をしようとしてるんだろう。と、
「ほら、ハンバーグ出てきた!」
 麻衣ちゃんは嬉しそうに叫んで、掛け布団の上を指差した。そこには何もない。
「え?」
「分からないの? こんなに美味しそうなのに」
 飽きれたようにそういうと、彼女はベッド脇に置かれたサイドテーブルからナイフとフォークを取り出して――
「うん、いける。美味しいよ」
 食べ始めた。いや、食べてないんだけど、その仕草はハンバーグを食べるそれだった。
 背筋に冷たいものが走る。ひょっとして、彼女は狂っているのだろうか。病気とは、精神的なものだったのだろうか。
「あー、信じてないでしょ」そう言いながら、麻衣ちゃんはむーっとほおを膨らませる。その様子は、以前の彼女そのままだ。だが、
「美味しいよー。ほら」
 と言ってフォークにささっているハンバーグを、僕のほうに向ける。だけど僕には何も見えない。
「伊藤さん・・・・・・」かける言葉がない。
「あのね、これ信じないと見えないの。信じてよ、あたしのこと信じてよ」
 彼女の言葉はだんだん必死になってきた。今まで見たことのないようなその表情に、僕は思わず身を引いてしまう。
「何、江崎はあたしのこと信じてくれないんだ。信じてよ! ねえ、見えるって言ってよ!」
 この細い体のどこにそんな力が――そう思えるほどの大声が、病室に響く。
 ハンバーグ。彼女の側にあるはずのその物体を、僕は必死で思い浮かべた。言葉にも出す。ハンバーグ、ハンバーグハンバーグ・・・・・・
 だけどダメだった。見えなかった。
「あ、あのさ」別の話題。何か別の話題は、何か、「あのさ、その漫画だけど、面白いの?」
 ナイフとフォークが置いてあったサイドテーブル。その上にある数冊のコミックに、僕は救いを求めた。
「あ、これ? うん、好き」
 そう言いながら、彼女はハンバーグの皿を置いて――そういう仕草をして、そして漫画を取り出した。『イカロスの翼』そう書かれていた。
「どんな話なの?」
「んー、簡単に言うと、好きじゃない人と結婚されそうになった女の人がいて、その人の結婚式の時、恋人イカロスが助けに来るって話」
 どこかで聞いたようなストーリー。だけど、彼女に言わせるとそこからが違うらしい。
「イカロスはね、翼を作るの。それを背中につけてさ、それで飛ぶの。飛んで結婚式に乱入して来て、恋人をさらうの。格好いいでしょ」そして昨日と同じように窓に目を向けて、「あーあ、あたしもここから飛ぶことができたらな・・・・・・」
 ふと、思いついた。
「あのさ、さっき言ってた“ことだま”ってやつじゃダメなの? 飛べないの?」
 軽い気持ちだった。彼女が正気なのかどうか確かめたかったのだ。それほどさっきの出来事は衝撃的だった。
「ん。飛べる・・・・・・と思うけど、」彼女は口ごもった。正直、僕はこの時ホッとしたのだ。断定できないということは、言霊というのを彼女がそれほど信じていないからだと思ったのだ。
 だから彼女の次の言葉は予想外だった。
「一人だとさ、さみしいじゃん・・・・・・あたしさ、強い娘だねとかよく言われるけどさ、そうじゃないんだよね」
「・・・・・・」
 何も言えなかった。彼女は続けた。
「一人は、怖いよ。さみしいよ」

 飛びたい。帰り道、そう思った。
 翼が欲しい。そう思っていた。
『イカロスの翼』の最終巻を借りた。そこには青年イカロスが手作業で翼の模型を作っていく様子が、克明に書かれていた。僕の足は、自然とホームセンターに向かっていた。細い木材。紙にノリ。ろうそく――安い買い物じゃなかった。夏休みのお小遣いを全部費やした。だけど後悔はしなかった。
 家に着いた僕は自分の部屋に閉じこもり、漫画片手に作業を始めた。ろうそくに火を灯し、木材をその熱であぶりゆっくりと折り曲げて形を作る。のこぎりを引き、加工する。
 困難な作業だった。指が思うように動かない。イカロスが失敗をしない場面で失敗する。イカロスが喜びの表情を浮かべている時、僕は苛立っている。
 木材が折れた。これでもう二本目。羽毛部分となる紙も、うまく張れない。ノリがはみ出る。手がべたつく。天を仰ぐ。そこには神様なんかいない。誰の助けもない。
 熱帯夜に火を使った作業。汗がにじみ出る。目がしみる。でもやめらなかった。今も一人暗い病室で震えている麻衣ちゃんのことを思うと、続きはまた明日などと思えなかった。僕には明日がある。明後日もある。だけど、彼女は、もしかしたら、
 もう何時間作業を繰り返しているんだろう。僕の指は、機械的に動いていた。視界が狭まり、手にした材料しか見えなくなってくる。木材の筋の一本一本すら分かってくる。音が遮断され、鼓膜が震えても脳までその信号が届かない。代わりに兄さんの言葉が頭に浮かぶ。
『第九って知ってるか? ベートーベンの』
 兄さんは、ロッカーなのにクラッシックが大好きだった。僕は答える。
 ――知ってるさ。それがどうしたの?
『すごい苦労して、あの曲は生まれたんだぜ。あの人は音を組み合わせる天才だった。だけど、考えてみろよ。第一楽章の次は第二楽章。交響曲の次は、ソナタ。そして協奏曲。また次の交響曲。途切れることなく音を生み出す人生。それがどれだけ大変だったか』
 ――だね。
『こんなエピソードがある。第九を作りながら、散歩しててさ。そしたら、途中で雨が降ってきたんだ。集中している彼はそれに気付かない。やがて雨は豪雨になる。それでも気付かない。食堂に入ったら、あまりの汚さに乞食と間違えられてさ。すごい集中力だろ』
 ――うん。
『それだけやったから、あんな名曲が生まれたんだ。音楽の神が微笑んだんだろうな』
 ――僕にも、僕にも微笑むかな。神様が味方してくれるかな。
『お前次第だ。信じてみるか?』
 ベースが上達しなくて悩んでる時のことだ。そして今、弦の代わりに木と紙を持ち、僕は作業を続ける。 
 信じる。そう、僕は信じる。信じるんだ。
『何のために?』――兄さんじゃない誰かの声が聞こえる。だけど作業の手は止めない。視線を下に落としたまま、僕は頭の中で答える。
 ――彼女のためだ。
『飛べるのか? その貧弱な翼で飛べるのか?』
 ――ああ。
『あの娘の戯言を信じているのか? 航空力学の基礎からやり直した方がいい』
 ――難しいことは分からない。だけど、
『飛べると思うのか?』
 ――飛べるさ。
『奇跡を信じているのか? 普段信じていないのに、苦しい時だけ神頼みか?』
 ――かもしれない。かもしれなかった。でも今は違う。
『ならば何を信じる?』
 ――それは、
『今一度問う。何のために? 何のためにお前は翼を作る?』
 ――彼女の・・・・・・それと僕のためだ。僕たち二人のためだ。二人で飛ぶためだ。

 一対の翼が完成した。
 電話の音がしたのはその時だった。他の音は何一つ聞こえなかったのに、それだけははっきりと脳に届いた。携帯が鳴っていた。
『・・・・・・江崎?』
 耳に届くか細い声。間違うわけがない。
「麻衣ちゃん?」
『うん。ごめんね、こんな時間に・・・・・・』
「いや、そんなことはないけど。どうしたの?」
『一人でいると寂しくて。あたしの部屋さ、電話あるんだ。テレカでかけてるの。今まではさ、我慢してたけどさ、何かさ・・・・・・』
 それで僕に電話をした。そう言う彼女の声は、震えていた。
「麻衣ちゃん、一〇分だけ待ってて」
『え?』
「一〇分。それ以上待たさないから」
 それだけ言うと、僕は電話を切った。作ったばかりの翼の模型を手にして、僕は部屋を飛び出した。母さんが何か叫んでたけど、止まるわけにはいかなかった。自転車に乗る。暗い夜道をぶっ飛ばした。
 五分で着いた。
 正面玄関はもちろん閉まっている。だが喫煙所が外にあるので、そこに通じる入口だけは開いていた。すでに夜一〇時過ぎ。消灯時間を過ぎた院内は、暗く、静まり返っている。
 それでもタバコを吸いに来たり、ジュースを買いに来る患者は少なからずいる。そんな人たちが僕をちらちら見てくるが、シカトする。ためらうことなくエレベーターに乗りこみ九階へ。ナースステーションの前を通る時だけは緊張した。それでも僕は止まらない。止まりたくなかった。決心が鈍りそうで嫌だった。
 幾度となく開けた扉の前に立つ。静かにノック。そして開けた。
「江崎・・・・・・」
 驚きの表情を浮かべる少女。僕は彼女の前に、先ほど作ったものを差し出した。
「これ・・・・・・」
「翼だよ。作ってきたんだ」
 彼女の目尻が緩んだ。唇が微かに上がる。微笑んでいた。
「マジで。・・・・・・何で?」
 次のセリフを言うには、五年分の勇気が必要だった。
「飛びたいから。伊藤さんと一緒に」
 一瞬きょとんとした表情を見せる。そしてうつむいた。髪に隠されたその表情を読むことができない。
「な、何言ってるのよ。それに羽が二枚しかないじゃん。どうやって一緒に飛ぶのよ」
 僕はいったんツバを飲んだ。飲みこんだ。次の行動のためには、一〇年分の勇気が必要だった。
「え、きゃ、な、何?」
 戸惑う彼女。ゆっくりとベッドに近づいた僕は、彼女のその華奢な身体を僕の腕の中に抱いて――
「一枚づつ背中につけてさ。一緒に飛ぼう」
 腹をくくっても、顔の赤らみは止まらない。驚くほど軽い彼女の体が、今すぐそこにある。白い肌、大きな目、小さな唇。その全てがそこにある。腕の震えが隠しきれない。
「ちょ――江崎・・・・・・」
 視線が合う。彼女の小柄な体も震えていた。聞こえてくる心臓の音は、僕のものなのか彼女のものなのか。
 次の行動に移れない。体が固まってしまった。すると、
「本当に、一緒に飛んでくれる? 一人にしない?」
 彼女の方から言ってくれた。僕はもう返事をするだけだった。
「うん。約束する。信じてくれる?」
「ん。信じる」
 決心が鈍らないうちに、翼をロープで体にくくりつける。その貧弱さ、脆弱さに、この後に及んで不安になる。だけど、もうここまで来てしまった。ベッドを越えて窓に辿りつき。そしてカーテンもガラス戸も開けてしまった。
 見るべきじゃないのに見てしまう。地上はあまりに遠かった。先ほどとは違う震えが僕を支配する。
 腕の中にある少女の体に目を移す。すでに彼女は唱えていた。飛べる飛べるとつぶやいていた。言霊と、そして僕を信じてつぶやいていたのだ。
『飛べるのか?』
 また声が聞こえてくる。
『その翼で、飛べるのか?』
 ――飛べるさ。
 窓に足を掛け、ゆっくりと体を預ける。そして、

 ――飛べるさ。二人で信じれば飛べるんだ。

 重力という名の鎖から解放された。風を受ける。その微かな力が、僕たちの体を運んだ。
 空に浮いていた。いや、飛んでいた。
「飛んでる! 飛んでるよ!」
 麻衣ちゃんが叫んだ。その声は恐れの声ではなかった。不安でもなかった。驚きと、そして嬉しさからだった。
「すごい・・・・・・」
 僕はそれだけ言うのが精一杯だった。周囲で一番高かったあのツインタワーの姿はすでに豆粒のようになり、それでも僕たちの体は上昇していく。街の光が眼下に広がる。美しい夜景だった。この街がこんなにキレイだったなんて知らなかった。
「すごーいすごーい。ねえねえ、体、動かせるかな?」
 麻衣ちゃんが僕の体をぎゅっとつかんでくる。彼女の体温が伝わってきた。
「行きたいところ、あるの?」
「ん。桜嵐小に行ってみたい」
 ここからだと・・・・・・南の方だ。僕らは呼吸を合わせて方向転換した。と、風が吹いてくる。空気の流れが、僕らの体を運んでくれた。
「あ、ほら! 小学校だ!」
 麻衣ちゃんが、片手を離して指差す。ちょっとバランスが崩れた。慌てて彼女の体に腕を回す。
「ご、ごめんね」
「大丈夫。だけど学校暗いな。何も見えないね」
 夜の学校に明かりなんかない。周囲の光の渦と比べて、少々寂しい光景だった。だけど彼女は、
「いーのいーの。思い出に浸るだけなんだから」そう言って、笑った。
「色々あったよね、ここ」
「そうだね・・・・・・」
 と、気付く。思い出話に花を咲かせようとしたらまずいことに気付く。もちろん7・19だ。
「あのさ。あたし、江崎に謝らなきゃならないんだ」
「え?」
 宙に浮き、僕の体に両手を回しながら彼女は言った。
「あたしね、寂しかったの。だから江崎が来てくれるとね、ホッとしてた。一人じゃなくなるから」
 よく分からない。何でそれで謝ることになるんだろう。
「でもさ、それって利用してるだけじゃん。悪いな−って思ってたんだけど、やっぱり寂しくてさ。だから今日も電話しちゃって、出てくれてホッとしてさ・・・・・・ごめん」
「そ、そんなことないよ! だって、」
「でもね、さっき部屋に来てくれた時はね、ちょっと違かった。いつもと違ってた。何かね、嬉しかった」
「伊藤さん・・・・・・」
「麻衣」
「え?」
「麻衣でいいよ。友達はみんなそう呼んでるから」

 僕らはゆっくりと、学校の上空を旋回していた。一対の翼で。手をつなぎながら。麻衣ちゃん――いや、麻衣の微かに膨らんだ胸がわき腹に当たる。温かさが伝わってくる。
「僕も、謝らなきゃ・・・・・・」
 ぽつりと言った。
「何を?」
「去年のさ、一学期の終業式の日。あの時さ、その――」
「ああっ!」
 彼女は大きな声を出して、大きく口を開けた。そして笑う。
「あたしこそごめんね。すごい勢いで引っ叩いちゃってさー」
 一年間溜まりに溜まっていた悩みは、あっという間に崩壊した。胸のつかえが取れるというのは、こういうことを言うんだろうか。僕も笑った。
「うん、すごい痛かった」そう言って笑った。
「あの時ね、あたしね、」と、麻衣がモジモジしはじめる。「んー、言っちゃお。変なパンツはいてたでしょ」
「え」僕も真っ赤になる。「あ、う、うん」
「あの日さ、アレだったのよ」
「アレ?」
「ん。朝ご飯食べてたらいきなり・・・・・・びっくりしちゃってさ。お母さんがお腹冷やすといけないからって、あんなパンツ貸してくれたんだけど、」
 そこまで言われて、ようやく気が付いた。もう耳までカッカしてる。
「はじめてだったから、学校行くのも嫌だった。でも終業式だし、我慢して行ったのよ。そしたら、スカートめくられちゃってさ、もー最低だよ、あの時のアンタ」
 照れ隠しだろうか。麻衣は片手を離し、ポカポカと僕の頭を叩いてくる。
「ご、ごめん」
「ん。よろしい。じゃあこれで一勝一敗ね」
「一勝一敗って・・・・・・」
 僕は苦笑した。すると彼女は、僕の目をじっと見つめてくる。上目遣い。何だか急にドキドキしてきた。よく考えてみると、僕らはすごい格好をしている。恥ずかしくなってきた。
「あたしね、二つ夢があったんだ」
「・・・・・・どういうの?」
「一つはもう、かなっちゃった。出たかったの。あの病室から」
「そんなの! 夢でもなんでもないよ。もうすぐよくなるって!」
「ん。ありがと。でもさー、もう一つの夢は難しいんだよね・・・・・・」
「どんなの?」
「んー、やっぱいいや。ねえ、和也は? 何か夢ある?」
「僕の? えーと・・・・・・」
 急に言われて反応が遅れる。ファーストネームで呼ばれていることも気付かなかった。
「えーとね・・・・・・」
 考えている間に、彼女が「あっ」と叫んで、「もう一つね、夢あったんだ。それももう、かなったんだけど」と言いだした。
「どんなの? 先に言ってよ」
「変な話なんだけどさ」口ごもりながら、「去年のあの日さ、あたし、その、女になったわけでしょ」
 よく分からない。――分かった。照れた。
「あたしさ、小さいころから何度も入院してて・・・・・・先生とかは大丈夫って言うんだけど、あたし不安だったの。そういう歳まで生きられないんじゃないかなって」
「そんな・・・・・・」
「だからさ、この歳まで生きれたし、今日また一個夢かなったし、もう、いいかなーっていうか、」
「そんなこと言わないでよ!」
 自分でもビックリするような大きな声が出た。麻衣が目を丸くしてる。一気に捲し立てた。
「僕の夢はさ、僕の夢は、夏休みなんだ。去年の夏も、今年の夏も、君と外で遊べなかった。だからさ、来年の夏休み遊びたいんだ。一緒に外に出かけたいんだ!」
「・・・・・・和也」
「来年だけじゃない。再来年もその次も。ずっとずっと遊びたいんだ。そのうち僕も君も大人になって、か、彼氏とか彼女とかできて、そのうちお互い結婚して、でもまだ僕らは友達で、時々会って、その時はもうお酒とか一緒に飲んで、子供の写真とか見せながら語って――それが僕の夢なんだ。もういいなんて言わないでよ! 明日も明後日も、来年も再来年も、僕は君と一緒にいたいんだ!」
「・・・・・・和也」
「それが、僕の、夢なんだ」
 泣いていた。今日は僕が泣いていた。熱い液体が頬を伝って、そして遥か下へと落ちていく。止めることはできなかった。次から次へと涙がこぼれ出た。
 熱い液体の上に、暖かい手が添えられた。麻衣だった。
「ありがとう」彼女は言った。そして、「あたしの最後の夢、かなえてくれる?」
 そう言うと彼女はゆっくりと顔を近づけてきた。小さな唇からこぼれる息が、首筋にかかる。
「い、伊藤さん?」
「・・・・・・あ、また言った」
 瞳をクリクリさせながら、彼女は少しむくれた。ほおをむーっと膨らませる。
「ご、ごめん。あの、麻衣、一体何を――」
 する気? という僕の言葉は、彼女の薄い桃色をした小さな唇にふさがれて出てこなかった。それは一瞬のことで、小鳥がついばむような軽いものであったが、確かにキスであった。
「あのさ、」お互いに照れてしまい、視線も合わせられない状態で僕は言った
「二度目は、僕からさせてよ」

「うっす! 随分と早い登校だな和也」
 声に反応して振り向くと、見知った顔がこちらに向かって走ってくるところだった。誠司だ。学校指定のバッグ以外に、もう一つカバンを抱えている。かなりでかい。
「よう。何だよ、その荷物?」
 歩きながら僕が訊ねると、彼はふふふんと笑った。わざわざ声に出して笑った。
「よくぞ聞いてくれました。これはな、自由研究のレポートだよ。うちのカメ吉くんの生態が克明に記録されている」
 バッグのファスナーを開けて、自慢げにそう言う。中身は紙の束だった。そう言えばミドリガメを飼っていると、昔言っていた気がする。それにしても、この量は・・・・・・僕は苦笑した。
「お前さ、限度ってものがあるでしょ」
「実は俺もそう思った。だけど、途中でやめるわけにはいかないだろ。かくして、我が夏休みはこのレポート作成に費やされることになってしまった。そこで和也君、君にお願いがある」
 何? と、問う間もなく、誠司は続ける。一学期と何一つ変わっていない。
「他の宿題を、ほとんどやっていないのだ。写させてくれ」
 なるほど。ほぼ予想の範囲内だ。だけど、
「あー、悪いけど、休み中結構忙しくてさ・・・・・・」
 そういうワケだ。逆に写させてもらいたいくらいだ。
「ナンセ――――ンス! だからこんな朝早くから学校に行こうとしてたのか。考えることは同じということか」
「だな」
「ふむ。かくなる上は、助っ人が来るまで二人で協力して少しでも・・・・・・む、同じ境遇の者が、また一人現れたぞ」
 誠司が首をしゃくる。二〇mほど離れたところにある横断歩道を、一人の少女が歩いていた。こちらに気付いたのか、手を振ってくる。彼女もまた、指定のバッグの他に、大きな紙袋を持っていた。
「おっはよー! 何朝っぱらから暗い顔してるのよ」
「ナンセンスな質問だ。夏休みは終わり、今日からまた学校。しかも宿題未完成。暗くもなるよ」
 誠司のお手上げポーズに、その少女は笑いで答えた。
「あはは、アンタら宿題やってないんだ。怒られるよー」
「む。君こそ、やってないだろ。いくら事情があっても、うちの担任は容赦しないぞ」
「ん。あたしは真面目だからねー。ちゃんとやったよ。自由研究だってほら」
 そう言って彼女が紙袋の中から取り出したのは、羽の形をした模型だった。木と紙と、それだけでできたみすぼらしい翼の模型だった。
「あん? 何だそりゃ? 何の研究かと思ったら、ただの工作じゃんか」
 誠司が小馬鹿にする。少女は、小さな口から舌をちょっと出して、
「べー。アンタなんかに分かってもらわなくても、いいよだ。行こ、和也。まだ数学と国語がちょっと残ってるんだ。一緒にやろ」
 彼女は、僕の腕を取ると、走り始めた。前につんのめりそうになるのを堪えつつ、僕も慌てて後に続く。
 校門に向かって、僕らは走った。
「お――――い! ちょ、ちょっと待てよ諸君!」 
 誠司の声を、背中に受けながら。
『神ではなく、女神を信じたというわけか。面白い男だ』
 誰かの声を受けながら。
 

               <了>



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