いくつもの出会いと――。
               西鶴 翠

 私と『TUGUMI』との出会いは、五十円だった。母校の古本市でたった五十円で売られていたのが、この吉本ばななの『TUGUMI』だった。もし、このとき私の財布の中に五十円がなかったら、私の人生は全く違うものになっていただろう。私がこれほど頻繁に女性視点の一人称の小説を書くこともなければ、純文学風の作風になってしまうこともなかったに違いない。もっと単純にエンターテインメントを書いていたに違いない。いやいや、それよりも何よりも、今、文章を書きつづけていなかったかも知れない。よかれ悪しかれ、この作品は私に大きな影響を及ぼした。
 これは、『出会い』の話だ。
  「何かを得る時は、何かを失うように決まってるだろ」
 主人公であるつぐみの科白。この物語は、つまり、この科白に集約されている。

   1・つぐみと恭一と犬。

 この話は一人称で語られる。しかし、作品タイトルである「つぐみ」の一人称ではない。その従姉が語り手となっている。語り手である従姉は、つぐみとその周りの出来事を主観と客観をまじえて語る。自分に関することも語るが、それは読者にとっては「味付け」にすぎない。あくまで物語の主軸は、『つぐみと恭一の恋』だ。
 つぐみは、語り手より一つ下、つまり高校三年生ということになる。つぐみは体が弱いが、気は強く、身内に対しては勝手気ままに毒舌をまき散らし、けれど、ひとたび外に出ると『病弱で可憐な女の子』を演じる。そして、もてた。つぐみは男を始終変えて、浜辺を散歩した。
 そんなつぐみと恭一との出会いの舞台は海辺。語り手と一緒に犬の散歩をしているとき。つぐみの犬と、恭一の犬がまず出会う。そして、つぐみ(と語り手)と恭一が出会う。一目ぼれである。つぐみは一目見ただけで、今までの男とは違う、と感じる。恋愛物語の王道だ。
 ここで、注目すべきは、実は、犬である。恋の中盤まで、犬が『大義名分』となって、二人の仲をとり持つことになる。犬が文学上の絆となっている。『文学上の』とわざわざ明記したのは理由がある。もし、犬という小道具がなくても、充分につぐみと恭一との仲は、深まることができただろうからだ。一目ぼれの恋愛物語は、理由がなくても進展することになっている。けれど、それでは読者は納得しない。だから、『大義名分』としての犬が必要になってくる。『文学上の』絆だ。
 少し話はそれる。つぐみは、哲学者だ。つぐみは物語の中で、しばしば自分の哲学を語る。その哲学は主に『死』に関する話題になる。数行前に、つぐみは病弱、と書いたが、体の弱さは尋常ではない。つぐみの体の弱さは物語の中で頻繁に語られる。吉本ばななの文学には、必ずといっていいほど、『死』の概念が出てくる。その多くは『死の風景』によって描かれているが、この『TUGUMI』に関しては、『死の中の生』が描かれる。そして、つぐみは『死の中の生』の象徴だ。ろうそくは燃え尽きる前に一瞬だけ明るくなる、とされている。つぐみは、『その一瞬』を常に持続させている。そんな感じだ。小説中では、『死の中の生』はつぐみの傍若無人な行動によって表されている。しかし、要所要所で、哲学者としてのつぐみが現れる。哲学者というものは、自分の気持ちを過不足なく分かってほしいがために、中途半端な理解を示す人間を避ける。そして、大抵の哲学者は気持ちを分かってもらえずに、終わる。
 そんなつぐみの前に現れた恭一は、つぐみと同じ哲学を持っていた。恭一は今でこそ人並みに元気だが、小さなころは心臓を患っていた。すなわちつぐみの『哲学』を完全に理解できる人間だった。恭一も哲学者だった。つぐみが恭一に惹かれた原因が、物語も半ばになって、ここでようやく明かされる。同じ哲学を持つもの同士の出会い。(ちなみに、この場面は、数年前にセンター試験の国語の問題に出された。)
 さて、犬の話に戻る。そして、「失うことと得ることは同時にやってくる」という話に戻る。
 つぐみと恭一の絆であった犬がさらわれる。二匹ともさらわれたわけではなく、恭一の犬がさらわれる。どうしてさらわれたかは、ここでは省略する。とにかく目に見えていた絆は失われた。つぐみたちは、犬を探す。見つけたのはつぐみだった。しかし、犬は再度さらわれる。そして、永久に見つかることはなかった。
 何を表しているのか。それはつまり、恋の進展だ。最初、つぐみと恭一はそれぞれの犬によって出会った。そして、犬によって言葉を交わすようになり、デートのときも犬が一緒だった。言い換えれば、犬がいなければ、恋は成り立たなかったことになる(文学として)。しかし、文学的に自然な形で、犬はいなくなった(つぐみの犬は残っているのだが、二匹ともいなければ、犬のいる意味はない)。ある程度、二人の仲が近づけば、犬の価値はなくなる。単なる障壁となる。その時期を見計らったように、犬はいなくなった。二人の仲はいなくなった犬によって、より一層近づくだろう。そういう予想が読者の中に無意識に成り立つ。犬を失って、より深い絆を得るのだろう、と。実質的な出会いではないが、精神的には新たな出会いだ。
 実のところ、その後つぐみと恭一の仲がどうなるのかは、描かれてはいない。つぐみが、犬をさらった者に単独で復讐をし、その後すぐに、過労で倒れてしまうからだ。最終話においても、つぐみは入院したままである。恭一が見舞いに来ていることは来ているが(一応幸福に終わるだろうことはほのめかされている)。
 なお、つぐみはどうして倒れるほどの労働をしてまで犬をさらった者に復讐したのか、には、二つの理由が挙げられよう。一つは純粋に、恋人の片腕だった犬の弔い合戦である。もう一つは、何かをしないと恭一の恋人である資格がないと感じたからだろう。どちらにしろ、奔放なようでいて何が正しいかを常に考えているつぐみらしい行動といえよう。

   2・語り手とつぐみやその他の人々。

 語り手は、この物語では存在感が薄い。つぐみの圧倒的な輝きの前に、かすんでしまっている。なにしろ、書き出しがこれだ。
   確かにつぐみは、いやな女の子だった。
 私という一人称から入るでもなく、情景描写から入るでもなく、『つぐみ』という女の子の名前を唐突に出してしまう。これでは、語り手と主人公が別々になってしまうのも無理はない(意図的なものだが)。しかし、語り手――いや、この章では語り手に焦点を当てるのだから、きちんと名前で呼ぼう――まりあにもそれなりの物語が存在する。
 まりあとその家族の話からしよう。まりあとまりあの母親は、母親の姉妹の海辺の旅館にお世話になっている。そして、まりあの実の父親は、ようやく前の家族との離婚調停を終わらせたところである。多少複雑な話だが、ばらばらだった家族がようやく一つになろうとしている、と思っていればよい。そしてこの春に、まりあの東京への大学進学にあわせて、やっと家族三人で一緒に生活することになったのだ。前の章で語った『つぐみと恭一の恋』は、まりあが東京から海辺の旅館に帰省したときの話である。実は『TUGUMI』は多重構造の話だ。
 さて、どうしてこの物語はそんな複雑な多重構造をとるのか。それは、「失うことと得ること」の話に戻る。まりあは、東京で新しい家族生活を得る。その代わり、実質的にも精神的にも、海辺の旅館から遠ざかることになる。このとき重要なのは、読者も一緒に海辺の旅館から遠ざかっていることだ。それによって、劇中劇のような効果を得ることができ、多少なりとも、海辺の旅館の話を美化することができる(美化することに対して不自然な印象を与えないようにすることができる)。また、それと同時につぐみたちに対して、懐かしさを抱かせるという効果もある。失った故郷がほしくなる、という心理を巧く利用している。新しい家族生活との出会い、新しい従姉妹関係の出会い、だ。
 ここで、まりあと父について少し言及しよう。『TUGUMI』において三人称単数の代名詞で呼ばれるのは、まりあの父だけだ。語り手は紛れもなくまりあであり、そのまりあが、父を彼と呼ぶ。つぐみのことはつぐみとしか呼ばないし、恭一のことは恭一としか呼ばないにもかかわらず、父だけには彼という代名詞を使う。まりあの父はそれまで週末にしかまりあの前に現れなかった。その疎遠さが物語られていると考えることもできる。けれど、それだけで、彼という代名詞を使うだろうか。実はここには、まりあから父への尊敬(とも少し違うが)のようなものが含まれている。彼という代名詞を使うときには大抵、まりあは父の性質を語っている。そこには悪い印象はほとんどなく、かなり客観的に自分の父親を分析している。あまりにも近すぎる人は尊敬の対象にはならない、ということの好例となっている。この話、まりあとつぐみとの関係にも関わってくる。
 さあ、まりあとつぐみとの話だ。章の冒頭で引用した文からも推測できるように、まりあの中でつぐみという存在は非常に大きい。では、最初からそれほど大きかったかというと、そうでもない。吉本ばななの巧いところだが、一話目でそれまであまり繋がりの深くなかったまりあとつぐみを近づけている。そこで、読者に『まりあの視点でありながら、つぐみを語る』ということに対して、違和感をなくしている。同時に、つぐみとまりあを近づけるエピソードによって、つぐみの破天荒さも語っている(なお、このとき恭一はまだ現れていない)。
 ところで、なぜつぐみはまりあを選んだのか。なぜ、まりあが必要だったのか。ここまで語らなかったが、実はつぐみには陽子という姉がいる。にもかかわらず、理解者として、まりあを選んだ。それはつまり、つぐみがある程度の対立と過不足のない理解を望んでいたということに起因する。過不足のない理解にはどういう形であれ、質問というものがつきまとうのが普通である。弁証法とまではいかなくとも、ある程度の対立要素は必要なのである。けれど、その対立は相手を信用した上での対立でなければならないし、また、常に相手を疑うことを忘れてはならない。それらの点において、まりあはつぐみにとっての理解者になり得る条件を備えていた。陽子にはそれは無理だった。なぜなら、つぐみとは対立しようとしなかったからだ。血縁者以外の人間にもそれは無理だ。つぐみは、家の外では猫をかぶっている。
 以来、まりあは常につぐみのいたずらの『被害者』となった。『理解者』=『被害者』だ。つぐみは、まりあのことを先天的に自分のいたずら相手になる人間、と決めつけているふうがあるし、また、まりあもつぐみにいたずらをされることは宿命と思っているふしが見受けられる。
 その後、つぐみは恭一と恋に落ち、そして入院をし、死の瀬戸際に迫る。まりあはその入院のとき、東京に帰っている。大学が始まるためだ。物理的につぐみと距離を置くことになる。そうなると、つぐみがどれほど自分の心の大部分を占めていたかが分かる。逆に、つぐみにとってまりあが、どれほどよい理解者だったかが分かる。そうして、つぐみは『死にぎわ』にまりあに向けて手紙を書く(結局はつぐみは死ななかった)。近すぎると相手のことがよく分からず、遠く離れてようやく相手が見える、という数行前で語った例と同じだ。『生まれ変わったつぐみ』と、まりあとの出会いである。
 まりあと陽子の関係は、あまり読者の印象には残らない。これは、一人称での呼び方と大きく関係しているだろう。語り手であるまりあは、『陽子ちゃん』とちゃん付けをする。相手が年上であるからという理由もあるだろうが、文学の上では、ちゃん付けをすると、どうしても一歩ひいた印象になる。まりあと陽子のエピソードはいくつか語られる。一緒にバイトをしていたケーキ屋の話が多い。が、やはり、印象には残らない。『TUGUMI』という作品において、陽子は、現実離れしたつぐみのエピソードと本の外の現実を繋げるために使われていると考えられる。ハンバーグのつなぎもそうだが、つなぎ、というのは自己主張はほとんどしない。

   3・つぐみ。

 本当はこの章はないはずだった。文章の構成を練ったときには、1と2でつぐみのことを語り尽くせてしまうと思ったからだ。しかし、いざ書いてみたら、影が薄くなってしまった。だから、つぐみ自身に焦点を当てて書こう。少し、1・2と重複してしまう個所も出てきてしまうことだろう。仕方のないことだ。
 つぐみは孤高で、そして、寂しがり屋だ。一言でいってしまえば、そういうことになる。
 つぐみは、尋常でなく体が弱い。そして、体が弱いために、ヒステリックに好き勝手な行動をとる。大抵は『ひねくれた言動』という形で現れる。そして、要所要所で、突発的な思いもかけないような行動として現れる。このつぐみの性質は、語り手の一人称では、『小さなときに余命幾ばくもないと診断され、甘やかされて育ってきたから』となっている。けれど、それは本質的ではない。体が弱く、かつ、生きようという意志が強ければ、自然にそうなるものだ。もしも、『あと一週間の命です』などと急に宣告されたとしよう。生命欲の強い人間ならば、一週間で自分の生きた証を残そうとするだろう。つまり、そういうことだ。つぐみは、いつ自分が死んでもいいように、生きた証をそこら中に残しているのだ。
 つぐみは哲学者だ、と1章で語った。少し、つぐみの哲学を紹介しよう。
  1「何かを得る時は、何かを失うように決まってるだろ」
  2「団欒なんてゲロが出るほど嫌い」
  3「食うものが本当になくなった時、あたしは平気でポチ(つぐみの犬)を殺して食えるような奴になりたい」
  4「旗を見て、遠くの国のことを考えたりした? 死んでからいく所のことも?」
  5「今、あたしの中には激情が何一つない、こんなことは初めてだ」
 1の科白を言うということは、すでにつぐみが何かを失っていることを示している。何を失っているのかは定かではない。けれど、確実に何かを失っている。恐らくは肉体的なものではなしに、精神的なものだ。2から分かるのは、『仮初めの人と人との結びつき』が嫌いだということだ。3も表現こそ違えど、意味するところは同じ。本気で何かを信頼するか、全く無視するか、どちらかしかつぐみにはない。往々にしてそういう人物は、寂しがり屋だ。一人で生きていきたいと思いつつ、本当に信じられる人もほしい。4は少し説明が必要だろう。これは、恭一がつぐみに、自分も小さなころ生死のはざまを行き来していた、ということを語ったあとの科白である。つぐみが死の世界を考えていなかったようで考えていた、ということが直接的に分かる印象的な場面となっている。つぐみの頭の中には、常に死の世界があったと思ってもいいのかも知れない。布団に横になって独り、死の世界を考えていた。そんなつぐみ像が浮かんでくる。5も説明が必要だ。ラスト間際のつぐみの入院シーンでの、まりあとの会話だ。つまり、いつも『激情』があったことになる。『生きた証を残そうとする意思』だ。
 つぐみは孤高で、けれど、寂しがり屋だ。寂しがり屋のつぐみは、『理解者』まりあを得、『同朋』恭一を得る。
 入院をして、死のふちを彷徨いながら、結局復帰したつぐみの科白、
  「あたしは今回、やはり一度死んだような気がするんだ」
 これは、孤高であることを終わりにしてひとを信頼してみようか、そんなつぐみのメッセージに思える。


 これは出会いの物語だ。
  「何かを得る時は、何かを失うように決まってるだろ」
 いい物を得て、悪い物を失う事だって、きっとある。



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