テレポーターの作り方





『 木島 ミツル様

 いきなりのお手紙、ごめんなさい。でも、どうしてもあなたに伝えたいことがあります。
 今日の放課後、特別棟の裏で待っています。

佐倉 月 』

 僕はもう一度、手紙の文面を確認した。
 薄桃色の便箋には、形の整った字が並んでいる。直線的で、とめ・はね・はらいが意識された字体だ。木に彫ると、ちょうどこんな感じになると思う。
 薄雲が掛かる空が、校舎によって半分切り取られていた。白い雲、白い校舎――両方とも赤く色が塗られていた。
 ここに来たとき、僕もその赤の中にいた気がするが、それはもう左手の雑木林に消えてしまった。日が落ちるのは、さすがに早い。
 佐倉月という女子のことを思う。
 顔ぐらいは知っている。僕だって同じクラスの男子なのだ。
 まず思い出すのは、同じクラスの女子数人(こっちの名前は思い出せない)と、話をしている姿だ。大きな瞳を細めてころころと笑っている。
 次に思い出すのは、席から立ちあがる瞬間だ。板でも入っているかのようなまっすぐな背筋のまま、さっと立ちあがる。長い髪とスカートのすそだけがわずかに揺れるが、彼女自身は少しもよろけない。その一連の動作は、刀の抜き打ちを連想させた。
 僕はまたため息をつく。
 あまりにも、似つかわしくない。
 校舎の壁はすすけていて、まばらに草の生えた地面には、土色が移った煙草の吸殻が落ちている。冬にもかかわらず湿った風が吹き抜けた。トイレが近いせいか、アンモニアくさい。
 秘めた思いを告白する場として――そして佐倉月にとって、これほどふさわしくない場所はないだろう。
「……ああ」
 何となく予想はしていたが、改めてそれを考えるのは疲れる。
 僕は担がれたのだ。うその手紙に踊らされて、こんなところに一時間以上も突っ立っている。
 ため息。すぐかききえるそれに形があるのなら、僕はとっくに溺れている。
 ――帰ろう。
 ようやくその結論に至った。
 最後にもう一度手紙の文面をなぞり、しばらく迷ってから――折り畳んでポケットにしまった。
 なんとはなしに視線を墓地に向ける。不規則に並んだ墓石に西日があたっている様子は、まるで変種のペンギンだ。紅い南極。なんとはなしに耳を澄ます。遠くで野球部の掛け声と、金属バットの音が聞こえる。ボールが見えなくなるので、そろそろ練習時間も終わりだろう。なんとはなしに匂いをかぐ。臭い。やっぱり臭い。なんとはなしに、今度は左を見る。誰も来ない。やっぱり来ない。
「……帰ろう」
 口に出して、視線の方向に足を踏み出した。
 それでも、亀のような歩みを進めるてしまう。もしかしたら来るかもしれない。すれ違うかもしれない。あの角を曲がれば、慌てて走ってくる少女の姿が――
 あるはずがなかった。
 雑木林と校舎にはさまれたスペースには、誰もいない。雑木林に食い込むように物置があるだけで、校舎の向こう側に隣接する体育館まで視線をさえぎるものは何もなかった。
 これが最後だと念を込めて、ため息をつく。そして、さっさと足を進めた。ざくざくと、靴の裏で霜柱が折れる感触がする。
 幸い、特別棟の一階には家庭科室や被服室といった文化部の使用しない教室や、パソコン室といった常にブラインドが掛かっている教室しかないので、外を通る際に人目を気にする必要がなかった。
 被服室に飾られているぬいぐるみを窓越しに眺めながら歩いていると、どこからか妙な音が聞こえてきた。
 自然と歩調を緩め、霜柱の音からそっちに耳を傾ける。
 それはまるで時計の針だ。短く断続的で、限りなく機械的な響きを持っていた。それに混じって野球部の金属バットの音が聞こえたが、こっちは夕暮れに溶ける空しさを感じる。
 左手の、校舎の中からではない。
 物置の前にきて、気がついた。そのプレハブ小屋と雑木林の間には、どうやらスペースがあるらしい。
 音はさっきより近い。いつの間にか、足が止まっていた。つばを飲み込む。
 物置は、去年の文化祭の準備のときに中を見たことがある。両脇に使われなくなった机といすが天井まで積まれており、奥にはコーンや看板が積まれていて、全体的に白っぽくみえた。多分、埃をかぶっていたのだろう。
 だがそのときも、後ろにスペースがあるなんて気づかなかった。もともと、こんなへんぴなところに用がある生徒はあまりいない。その上で、物置の裏は完全に死角だ。
 このまま、立ち去るのがいいのだろう。
 しかし、音は引力を持ち、僕を捕らえて離さない。
 おそるおそる、僕は物置の影を覗き見た。
 意外に広い。八畳ほどのスペースに、巨大な何かと、一人の少女がいた。
 巨大なそれは、金属製ということしかわからない。二メートル大の円柱――焼却炉に似ていた。
 少女は、この学校の生徒らしい。脱いだ制服の袖を縛って腰に巻いて、白いTシャツ姿になっている。ワインレッドのスカーフで、髪を上げていた。
 軍手をはめた手には銀色のスパナ。それで、巨大な筒にボルトをはめている。先に聞こえた金属音は、ボルトとスパナの当たる音だった。この位置だと、キュッというボルトを締める音まで聞こえる。
「――?」
 こっちの気配に気づいたのか、少女が首だけ振り向いてきた。
 大きな瞳が、僕のことをまっすぐに見つめてきた。
 悪寒に似た何かが、僕の背中をはいずりまわる。
 僕は、気づいた。
 無表情だったので、すぐにはわからなかった。だが、間違いない。
 そこにいたのは、僕が待ちつづけたその人だった。
「あ……」
 何か言おうとするが、何も言葉が出ない。
 やがて彼女は興味を失ったように、作業に戻ってしまった。
 疑問が津波のように押し寄せ、めまいを覚える。
 待ちつづけた相手は、人知れず物置の裏で、得体の知れない物を組み立てている。
「――佐倉さん」
 声を出せたのは奇跡だった。多分、余計なことを考えられないほど思考が麻痺していたからだろう。
 彼女は手を止め、さっきと同じ動作を再生する。
「なんで私の名前を知ってるの?」
 まず、人の声でしゃべってくれたことに安心する。そして、ようやくその言葉の意味にたどり着いた。つまり彼女は、僕のことを知らないらしい。
「僕、同じクラスの木島だよ。木島充」
「……ああ。そういえば、いた気がする。ごめん、人の顔を覚えるの、得意じゃないんだ」
 彼女は目を伏せるが、僕は別に気にしてはいない。彼女に覚えられていると思うほど、愚かではない。
「それで、何か用?」
 言葉はボルトの音と同じくらい無機質で、文脈の意味以上の含みを持っているようには聞こえない。単純に、用があるか訊いただけだ。
「用事は、特にないけど……」
 まさか、今まであなたを待っていたとは言えない。
「何となく、通りかかって」
「そう」
 特に追及はなかった。彼女は、何事もなかったかのように作業に戻る。
 何となくその無関心さが気になって、僕は質問する。
「それ、何?」
「テレポーター」
 返事はすぐに返ってきた。今度は振り向いてすらくれないが。
 僕は、首をかしげる。
「……テレポーターって、なに?」
「中に乗せた物体を、空間を跳躍して一瞬で移動させる輸送装置」
 ――まあ、そりゃそうか。
 テレポーテーション――瞬間移動という言葉なら、知ってる。つまり、それを行う装置なのだ。
 内心で、今日一番のため息をついた。いつの間にそんなものが、一介の女子高生に作れる世の中になったのだろう。
 担がれている。
 僕は、あえて話を合わせてみた。
「何でそんな物、作ってるの?」
「オリオン座大星雲に住まう者たちに依頼されて。彼らは今、惑星を喰らうモノによって危機に瀕している。そこで、私に救援を頼んだ。彼らは思念をエネルギーに変える技術を持っていて、その効率は彼ら自身よりも地球人のほうがいいの。その技術を応用した兵器で、星食いを駆逐して欲しいわけね。でも、彼らの船で一五〇〇光年を往復するには時間が掛かりすぎる。そこで、あらかじめこっちでテレポーターの元型を作っておき、彼らが到着した際に思念変換装置を取り付ける。私たちの思念なら、一瞬で彼らの星まで行くことが可能になるらしいから。ちなみに、彼らの種族名や星の名前は、音声では発音できないの」
 抑揚のない語調のせいか。昨日見たB級SF映画のシナリオを聞かされているようだ。
 なぜか、それ以上なにも尋ねることが見つからなかった。疑問は積もるほどあったはずが、すべてどこかに消えてしまった。
 代わりに生まれたのは、漠然とした居場所のなさだ。なんとなく、ここにいたくない。
 だが、立ち去るきっかけを掴めず、僕は黙ってしまう。おのずと沈黙が訪れた。
 佐倉月。本当に、目の前にいる少女は彼女なのだろうか。確かに顔はそっくりだ。だが、あまりにも印象が違いすぎる。それに、なにか決定的な違和感があった。
 気づいたら、金属バットの音が消えている。空を見上げると、赤というよりすでに黒に近くなっている。
「今日はいつまでやってるの?」
「もう少し。今日中に、ボルトはつけ終えたいから」
 なんとなく、「だから帰っていい」というメッセージが込められているような気がした。僕がそう思いたいだけかもしれないが。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るね」
「うん」
 承諾の言葉に、僕は安堵する。少しだけ、余裕ができた。
「佐倉さんも、がんばってね」
 彼女が、振り返った。
 わずかに唇の脇を上げただけの――この場で初めての――笑みを浮かべてきた。
「ここでは、ツキでいいよ。ミツルくん」
 ――あ。
 僕は納得した。母親が電話に出るときに使う、普段とは一オクターブ高いいわゆるよそ行きの声。今の彼女が出しているのは、その逆だ。
 佐倉月とツキ、違和感の正体はそれだった。





 家の前で空を仰ぐと、いくつもの星が顔を覗かせていた。
 星座には詳しくないが、オリオン座くらいは見分けがつく。
 玄関のドアを開こうとして、少しためらう。だがそれもわずかの間で、結局は開けるしかないのだ。
「あら、おかえりなさい」
 ゆっくりと開けたドアの向こうには、エプロン姿の母がいた。
 僕はうつむき加減にしながら「うん」と答える。
 コートを脱ぎ、階段を上ろうとする僕を、母は見逃してくれなかった。
「テスト勉強、がんばりなさいよ。前回の模試の成績、下がってるんですからね」
「わかってるよ」
 そう、わかっている。にもかかわらず、母は顔を合わせるたびに同じことを確認してくる。それを繰り返すのが仕事のロボットのように。
 これ以上ロボットの言葉を聞きたくないので、僕はさっさと階段を上り、自分の部屋に入った。
 蛍光灯の紐を引き、暗い部屋に光をともす。
 勉強机に鞄を置く。制服を脱いでコートと一緒にクローゼットにしまい、部屋着に着替えた。
 一息ついて、ベッドに横になる。白い天井を見つめていると、意識までベッドに沈みそうになる。
 だが、階段を上ってくる音が、それを引き止めた。立ち上がり、鞄から教科書を机に出す振りをする。
 それと同時に、ドアがノックされた。
 僕が応えるのを待たず、夕食の盆を持った母が部屋に入ってくる。
 思わずその顔を見てしまい、後悔する。
 眉をひそめ、目じりを下げたその表情は、落胆だ。
「てっきり、机に座ってるものとばかり思ってたけど、まだ教科書を出してるだけだなんて」
 二人しかいないのに、そうやっていつも独り言をこぼすのだ。
「ご飯よ」
「うん」
 母はテーブルの上に盆を置く。勉強机とは別の、食事用のスペースだ。
 ご飯に味噌汁、たくわんと焼き魚、そしてお茶。変化に乏しい、いつもの夕食だ。
「さっさと食べて勉強に戻りなさいね。いい? 時間は貴重なのよ?」
「……わかってる」
「わかってないようだから、いっつも言ってるのに」
 母の独り言は、いつもため息と一緒に吐き出される。
 僕はそれ以上は何も言わず、箸を取った。
 味噌汁も魚も、特別おいしくもまずくもない。
 今度はため息だけをついて、母は部屋を出ていった。
 階段を降りる音が聞こえなくなる。歯ですりつぶす音の合間に耳に聞こえるのは、一階のテレビが出す笑い声、どこか遠くのクラクション――意味がない情報ばかりだ。
 それはリズムだ。単調なリズムによって、僕を取り巻く日常は構成されている。
 そして僕自身も。
 お茶で流し込んで、僕は机に向かう。食器は風呂のときにでも台所に置いておけばいい。
 中に残った教科書やペンケースを全て出して、鞄を床に置く。
 顔を上げたとき、違和感を覚えた。
 平坦な日常におけるノイズ。いや、違う。あるべきノイズがない違和感……
 すぐに気づいた。机の本棚に、スペースが生まれていた。昨日まで――いや今日の朝までは八割以上埋まっていたそれが、今は残った本が横に倒れてしまうほど広がっている。
 抜け落ちた部分は、考えるまでもなくわかった。
 そこにあるのは、今日使わなかった教科のテキスト、ノート、参考書、資料集――小説だけがなくなっている。
 すぐに母に問いただそうとしたが、止めた。どうせ返ってくる答えはわかっている。悪びれる様子もなく、平然と言うのだ。
 あなたのためにやった。勉強の妨げになる。小説は後でいくらでも読めるが、勉強は今しかできない……
 僕はベッドに倒れこむ。もう、起き上がる気力もない。
 歪む天井になぜか、物置の裏に出会った少女を見たような気がした。


 教科書以外で初めて小説を読んだのは、中学二年のときである。
 勉強するために図書室を訪れ、座った席に一冊の本があった。竜と騎士が描かれた表紙――ファンタジー小説だ。
 最初は気にせず勉強をしていたが、苦手だった数学をやっていたこともあり、自然とそちらに手が伸びた。
 騎士が仲間とともに竜を退治するという内容だった。
 個性豊かな仲間たちと焚き火を囲んでの語らい。街の人たちとのふれあい。暗い洞窟を進み、そして――
「あの……」
 声をかけてきたのは、図書委員の女子だった。もう部屋を閉める時間だという。
 図書室には二人しかいなかった。窓の外を見ると、青かった空は赤を通り越して黒になりつつあった。
 僕はそれを借りて、持ちかえった。
 漫画やゲームは母に禁止されていて、小説といえば教科書に載っている文豪たちのものしか知らなかった。ゆえに、この本の内容は新鮮そのものだった。仲間たちとの等身大の会話は、まるで自分も彼らとともに冒険をしている錯覚を起こさせる。
 そう。読んでいるときは、僕はこの世界から飛び出し、彼らとともに旅をしているのだ。
 だが、現実に戻ってきたときに感じるのは、途方もない喪失感。翼を持って空を翔けるのは快いが、中空にてそれを奪われれば、墜落するだけ。

 そして今日、僕は翼を奪われた。





 僕は教室に向かっていた。廊下を歩く僕を、次々と生徒たちが追いぬいていく。
 ほどなく、教室が見えてきた。その引き戸をくぐるのは、なんとなく家の玄関を開くときの気持ちと似ている。
 予鈴前の教室は、独特の喧騒に包まれていた。昨日のテレビの内容、今日の教科の愚痴、倦怠を共有する者たちの、たわいない会話だ。
 窓際の席の後ろから三番目の席まで、最短距離を移動した。
 席について鞄から教科書出す間もなく、三人の男子が机を取り囲んできた。笑顔が妙にわざとらしい。
「よう、ミツルちゃん。昨日は残念だったなァ」
 真ん中の男――寺脇が言ってきた。僕も彼らに倣い、笑顔を浮かべる。多分、思っている以上にぎこちないものになったと思う。
「……あの手紙のこと?」
 三人は顔を見合わせて笑った。僕も笑う。
「お前もバカだなぁ。いまどきあんなイタズラに引っかかるやついねえぞ」
 彼らは笑う。
「でもまあ、俺たちのおかげで淡いセンチメンタルな経験をすることができたんだ。感謝しろよ!」
 僕は笑いつづける。笑うことを、演じる。
 彼らは、僕が笑うことを望んでいる。だから、それを演じる。滑稽なピエロ、それが僕の役割なのだ。
 それは、いつからだったろう。寺脇とは去年からの付き合いだが、最初はそんなことはなかった気がする。いつの間にか、そして自然に、僕にその役が割り振られた。そしてそれは、学年が変わってからも続いた。それだけだ。
 ふと思い出して、僕は横目で、佐倉月の姿を求めた。教卓から二つ前の席――ちょうど寺脇の横から、彼女の姿が見えた。
 佐倉月という女子は、いすに横に座り、背もたれに寄りかかりながら後ろの席の女子と話している。
 笑っている。
 彼女だけではない。教室は、笑いに包まれている。
 だから、僕も笑った。
 黄昏時に出会った少女の笑顔は、もう思い出せなくなっていた。


 昇降口を出た僕は校舎を右に回りこんで、グラウンド側に出た。そのまま、夕日が落ちる方向に向かって歩く。
 テストが近いので、今日から部活は休みになっている。いつもサッカー部が陣取っているグラウンドは、広く見えた。
 そのわきを抜け、体育館と校舎との渡り廊下を越え、特別棟の奥を右に折れる。
 深い緑色をした雑木林と、赤色に染まった特別棟の間の道は、来る者の進入を拒んでいるかのように暗い。――竜の住まう洞窟だ。
(……バカなことを)
 本当に、バカだ。
 雑木林にめり込むように立っているプレハブ小屋を見ながら思う。
 木島充、校門はここじゃない。さっさと戻るんだ。今日は塾があるじゃないか。こんなところで油を売っている暇なんかないぞ。
 そして僕は、足を踏み出す。暗がりの道のほうへ。
 ――見るだけだ。いなかったら、帰ればいい。
 そう自分に言い聞かせて、霜が残る土を踏み進めた。
 ゆっくりと物置に近づくが、どうもおかしい。ボルトを締める金属音が、今日は聞こえない。
 物置の横に取りついて、聞き耳を立ててみる。やっぱり、人のいる気配がない。
 覗きこもうとして、物置の陰から顔を出すと――
「何してるの?」
 声は後ろから来た。
 尻餅をつくのを、何とかこらえる。
 振り返ると、ツキが立っていた。白いシャツ姿で、長い髪をスカーフでまとめている――昨日と同じ格好だ。
 僕は必死になって言葉をひねり出そうとする。だが、心音が耳障りで、何を言えばいいかまったく判断がつかなくなってしまった。
「どいて」
「え、あ……うん」
 身をよじらして道を開けると、ツキが目の前を横切る。僕より背が頭半分大きい。ほんのりと、甘いシャンプーの香りが鼻について、そして消えた。
 水音に気づいて彼女の後ろ姿を見なおすと、赤色の小さな水入れが右手にぶら下げられていた。
 それには見覚えがある。たしか、小学校のときに使った水彩画セットの水入れだ。筆についた絵の具を薄めたり、洗い落とすのに使ったりする。
「あ」
 何かに気づいたらしい。ツキは僕に向きなおった。
「あなた、もしかして昨日の――ミツルくん?」
「う、うん」
 僕は、戸惑いながら首肯した。
 ツキは「へぇ」と言いながら、何度かうなずいた。やっぱり無表情だが、口が半端に開かれたそれは、どこかあきれているようにも見える。
 だがそれも少しのことで、すぐに背中を向け準備を始めた。地面に置かれた水彩画セットから、パレットと、なぜか水色の絵の具だけを山ほど取り出した。
 同じ色のチューブが、どうみても二〇個近くある。
「なんで? 忘れ物?」
 チューブの山に目を奪われていて、彼女の質問を聞き逃してしまうところだった。
 なんで――多分、ここにまた来た理由を尋ねているんだろう。
 チューブまるまる一本をパレットに搾り出した彼女は、僕のことを仰ぎ見ていた。
 その目に向かって、僕は言う。
「宇宙人に、会いたいんだ」
 ツキの目が大きく開かれた。間違いない。今度こそ彼女は驚いている。
「――あれ、信じたんだ」
「……うそだったの?」
 ツキは横に首を振る。
「普通の人は、信じないから」
 それはそうだ。
 何十光年も向こうの生命体に頼まれてテレポーターを作っている、なんて言おうものなら、笑われるか、悪くすれば病院に連れていかれる。それを彼女も自覚しているのだろう。
 つまり、彼女は正常なのだ。本当に入院が必要になる人は、恐らくそんなことは自覚しない。
 彼女は正常で、そして実際にテレポーターを作っている。冗談で、こんな大それたものを作ろうだなんてしないだろう。彼女は、本気なのだ。
 僕は心の中でその論理を確かめる。
 宇宙人は、実在する。
「それ、何してるの?」
 ツキは、大して薄めていない絵の具を筆でかき混ぜ、ぺたぺたとテレポーターの表面に塗りたくっていた。
「色塗り」
 見たままの答えが返ってきた。ちゃんと尋ねなかった僕が悪いのだろうか。
「……なんで色を塗ってるの?」
 今度は、なかなか答えが返ってこない。ただ、筆だけが動いている。
 今までの彼女は、返事だけはすぐに返してくれた。こんなに刃切れが悪いのは初めてではないだろうか。
「――思念の色」
 やっと、答えてくれた。
「彼らの操る思念エネルギーは、色によって性格付けされるの。例えば、兵器は赤。彼らの兵器は赤く塗られていて、それを介することによって、エネルギー化した思念に攻撃性を付与する。そして、テレポーターの色は空色でなければいけない。それが、空間跳躍の色だから」
 無表情のまま、さらりと言ってくれる。やはりこの人は、昨日出会ったツキである。
「――それが終わったら、何が残ってるの?」
 ツキは少し考え、首を振る。
「一応完成。彼らの到着を待つだけ」
 作業を続けるツキを見ながら、僕は次に言うべき言葉を確認する。
「――手伝うよ」
 筆が、止まった。
「なんで?」
「……さっきも言った」
 少しの間を置いて「そうだね」と言う。
 宇宙人に会いたい。そして、その星に行きたい。それが僕の望みである。
 もしかしたら、やはりうそかもしれない。
 だが、本当かもしれないのだ。
 本当である可能性がある以上、賭ける価値はある。少なくとも、僕はそう思った。
 ツキは、目を伏せながら、作業に戻ってしまう。
「――ダメ」
 静かに、拒絶してきた。
「私は、何も与えることはできない」
「そんな……僕はただ」
 言葉が出ない。結局、僕が何を主張しようと、彼女の許しを得なければ参加することはできない。
 だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「僕は、他に何も望んでいない。彼らに会うことができれば、他に何も要らないんだ。だから、手伝わせてほしい。どんなことだってやるから」
「ダメ」
 鋼と同じ無機質な視線は、冷たさをもって僕を貫いた。
「あなたにできることなんて、ない。見ているだけなら、別に止めないけど」
 ――見ているだけ。それじゃ、ダメだ。彼らに会い、そして彼らの星に行く。
 僕は、すがる思いで彼女に尋ねる。
「一つだけ、いいかな」
「どうぞ」
 地面に散らばった空色絵の具のチューブを見つめる。
「テレポーターを塗るのに、水彩絵の具でなければいけない特別な理由とか、あるの?」
 ツキは、首をかしげた。
「特にないけど。家にあったから使っているだけで」
 僕は、声を忍ばせて笑った。
 肩を震わせる僕を、彼女は訝しげに見つめてきた。
「普通、こういう大きなものに色を塗るときってさ、ペンキやカラースプレーを使わない?」
 ツキは、きょとんとする。そして「あ」と言って、パレットとテレポーターを交互に見比べた。塗った個所から一筋、青い雫が滴り落ちている。
「ほら、役に立ったでしょ?」
 笑いが、止まらない。
「ペンキは、重いよ」





 ホームルームを終えると同時に、佐倉月は教室から出ていってしまった。その動きはすばやく、そして自然だ。土曜日ということもあり、午後の予定を打ち合わせることに忙しいクラスメイトたちは、少女が一人いなくなったことに誰も気づいていない。
 僕もその後を追って教室を出るが、もう彼女の姿は見えなくなっていた。
 急いで物置の裏に行くと、コートを着たツキがテレポーターを眺めていた。昨日塗られた空色だったものは、乾いてくすんだ青になっていた。ムラのあるその色は、テレポーターから流れた血にも見える。
 今日はペンキを買いに、近くのホームセンターまで行くのだ。
 僕に気づいたツキが、こちらに振り向いた。
 目があるだけで、耳があるだけで――顔、という情報以外、一切の意味を含まない表情を存在させている。今日一日観察したが、教室にいた佐倉月とは、本当に別人だ。
 教室で笑う彼女は、掛け値なしにかわいい。それが仮の顔だとしてもだ。女は化けるというが、真の化粧とは、そういうものをいうのかもしれない。
「どうしたの?」
 声、という情報以外の一切を配した声で、尋ねてきた。
「――いや、別に」
 今まで、ここまで自然に女の人と話せたことなんてなかった。多分、彼女には「女性」という情報が欠落しているからだろう。
 彼女はまぎれもなく女性である。しかも、美人だ。だが、そう見えない。見せていない。見せる必要がないからだ。
「じゃ、行こう」
 そう言って、無駄のない足運びで歩きはじめた。
「あれ? どこ行くの?」
 彼女が向かったのは、校門ではなくその反対方向だ。体育館に背中を向け、特別棟の裏へと続く道を進んでいる。つまり、僕が来るはずのない彼女を待ちつづけた場所である。
 ツキから答えを受け取れないまま、僕らは突き当たりにたどり着いた。ツキは、壁を見つめている。あるいは、向こう側の墓地だろうか。
 胸ほどの高さの壁の上に、彼女は左手を置く。
「近道」
 そう言うと、手を軸にして壁を一気に飛び越える。長い髪とスカートがふわりと踊る。そのまま、ツキの頭は振り返ることなく奥に進んでいく。
 僕も慌てて、胸ほどのコンクリート壁に飛びつき、足をかける。彼女ほど身軽にはいかないが、よじ登るのはそれほど苦でもない。
 壁の向こう側に足を踏み入れるのは初めてだった。灰色の空の下に、灰色の墓石が並んでいる。どれもすす汚れていて、中にはひびが入っているものすらある。色が朽ちたお供え物の花が、寒気を誘った。
「ここ、いつも使ってるの?」
 先を行くツキに尋ねる。
「遅くなると、校門閉められちゃうから」
 こともなげにツキは答えた。
(そういう問題でもないと思うけどなぁ……)
 今にも崩れ落ちそうな山門をくぐり、僕らはやっと一般道に出る。下り坂の横には、いくつも二階建ての住居が連なっている。普通の住宅街のようだ。考えてみれば、校門の反対側がどうなっているか、知らなかった。
 うちの学校の生徒は見えない。なんとなく、ほっとした。ツキと一緒に歩いているところを見られるのは、何かとまずい気がしたのだ。
 と、そこで気づいた。
 これは、いわゆるデートというやつではないだろうか。
 ――何を考えてるんだか。
 僕はバカな考えを振り払った。
 人からどう見られようと、少なくとも僕らには関係ない。彼女は僕に興味はないのは明らかだし、僕も彼女が狙いで一緒にいるわけじゃない。
 僕は少し足を速めて、彼女と並んだ。
 ツキのほうが、少しだけ僕より背が高い。結果、見上げる形になる。
「ペンキのほかに必要なものってある?」
「そうだね。……プルトニウムとか」
 僕は、言葉を失った。
「試運転がしたいの。それを思念エネルギーの代わりにすれば、理論上アメリカくらいにまでは行けるから」
「そう、なんだ」
 どんな理論か気になったが、それも怖い。
 住宅街を抜け、大きな道に出た。
 軽くあたりを見まわすと、見覚えがある銀行と弁当屋が並んでいることに気づく。いつも塾に行くときに通る道だ。脇に道があることは知っていたが、まさか学校の裏に続いているとは思わなかった。
「お腹減らない?」
 ツキが訊いてきた。
 僕はうなずく。すでに一時を回っている。土曜日は図書館で勉強するのが今までの日課だったが、その際にはファーストフードで腹を満たしていた。
 だが、その店は反対側、つまり学校の校門から出なければいけない。
「あそこで食べよう」
 ツキが指し示した先には、古い木造のそば屋があった。黒い色の壁に格子戸がはめられている。入り口の横にはすだれがかかり、その下には小さな竹が生えていた。
 戸惑う僕をよそに、ツキはさっさとのれんをくぐってしまう。
 仕方なく、僕もその後を追った。
 そば屋に入るのなんて、何年ぶりだろうか。
 中は、そんなに広くはなかった。教室の半分ほどのスペースに、テーブル席が四つ、右側の座敷席に大き目の机が二つ――十六人は一度に入れる大きさだ。テーブル席には主婦が二人、座敷席にはサラリーマン風の客が三人座っている。
 ツキは、壁際のテーブル席に座る。僕も続き、彼女と向かい合う形に座った。すぐに店員らしいおばさんが、お茶を持ってきてくれた。
 琴の音色が、店の中に流れていた。サクラサクラ。音楽にうとい僕でも、これは分かる。
 いすやテーブルは木製で、磨かれた深い色が出ている。ヒノキだろうか。木も家具にも詳しくないが、なんとなく高級品のような気がした。壁や、そこに掛かっている品書きにも同じ色の木が使われている。多分、こだわっているのだろう。
 お茶をすすりながら手元のメニューを見るツキは、統一された雰囲気の中でも違和感を起こさせることなく、むしろそれをかもし出すのに一役買っているような気すら思わせる。
「ここ、よく来るの?」
「全然」
 ページをめくりながら、何を選ぶか決めている。
 淡々と文字を追う視線から、何を考えているか知ることはできなかった。
 僕もお茶に口をつける。
 ――熱い。
 あきらめてテーブルに戻す。冷めるまで待とう。
 そこで、何を注文するか決めなくてはいけないことに気づいて、ようやくメニューを手にした。
 だが、ファミレスのそれとは違い、写真がない。文字の黒い筆跡だけが、白い紙面に並んでいる。
 ――もりそばとざるそばって、何が違うんだっけ?
「ご注文は決まりましたか?」
 お茶をくれた人と同じ店員が、席の横に現れた。僕が困惑している隙に、
「ざる」
 ツキが頼んでしまう。
 そして、二人の視線がこちらに集まる。
「えっと……」
 もはや文字でなく、数字のほうを見ることにした。一番安いのは……もりそばだ。だけど、一番安いものを選ぶのも、貧乏くさいようでためらわれる。
 すぐ横には、ツキが頼んだざるそばがあることに気づいた。
「――僕も、ざるそばで」
 結局、同じものを頼んでしまう。おそるおそるツキのほうを盗み見るが、特に気にした様子はない。店員を頬杖をつきながら見上げている。
 注文を復唱して、店員は店の奥に引っ込んだ。
 僕は大きくため息をついた。なんだか、無駄に緊張ばかりしている気がする。
「やっぱり、ノリがないと気分が出ないよね」
 ツキが意味不明なことを言った。
 なんと答えていいか戸惑ってしまうと、沈黙が訪れた。
 ますます声をかけづらくなる。もっとも、かける言葉も思いつかないのだが。
 ツキを見ると、頬杖をついたまま今度は店内を見回していた。いつもの無表情だが、今のそれは「退屈させている」というアピールに見えた。
 彼女に限って、僕に何かを期待するなんてことはないだろうが、僕のほうが耐えられない。
「……そういえばさ……今度のテスト、どう?」
 ひねり出した話題がそれか。なにが「そういえば」だ。
「今回は英語の範囲が広いから大変だよね」
 漂わせていたツキの視線が、こっちに向かってくる。
「――そうなの?」
「そうなのって……89ページから108ページ、おまけにテキストからも出されるし」
「よく覚えてるんだね。私なんて、英語がいつなかも知らないのに」
 僕は言葉を失った。日曜を挟んで、月曜日からテスト期間に入るが、英語はその初日、一時間目なのだ。
 ツキは珍しく笑顔になっていた。
「でも、テスト期間中は学校も早く終わるから、作業がはかどるね」
 彼女のことを呑気だと思った。
 だが、本当に呑気なのはどっちだろうか。
 テストとテレポーター、僕にとって大切なのはどっちなのだろうか。
 ためらいつつも、声をかける。
「……ねえ」
「うん?」
 ――テスト期間中は、作るのやめないか?
 多分、それを言ったら彼女は軽蔑のまなざしを向けるだろう。
 いや、彼女は軽蔑しない。ただ無感情に、拒絶するだけだ。
「なんでもない」
 彼女が首をかしげたところに、店員が二人分のそばを持ってきた。
「はい、お待ちどうさん」
 差し出されたそばの上には、刻みのりが振り掛けられていた。
 ツキは、早速割り箸を手に取り、ネギとワサビをツユにいれて、軽くかき混ぜる。ひとつかみ、そばを取って、半分ほどツユにひたし、一気に吸い上げた。
 歯ごたえすら感じさせる鋭い音。それが、麺を吸ったときのものだと気づくのには、しばらくかかった。
「おいしい」
 二口目を取ろうとしたところで、視線がこちらに向いた。
「食べないの?」
 箸も取らずじっと見つめてくる僕を、不審に思ったらしい。
 慌てて割り箸を割る。失敗して、真ん中から割れずに偏ってしまった。
 彼女に倣い、ネギとワサビを少しだけツユに入れる。
 たっぷりツユにつけたそばを食べてみるが、味なんかわからなくなっていた。





 白い息を吐きながら、一気に墓地を突っ切る。夕刻の墓地はおどろおどろしかったが、早朝の今は幽玄という言葉が似合った。散りつつある闇の中で聞こえるのは、僕の息遣いだけだ。
 コンクリートの壁によじ登る。空を見ると、左側は白みはじめているものの、右の雑木林の上を仰げばまだ三日月が見えた。
 一息に乗り越え、夜の暗さが逃げ込んだ校舎の横を足早に抜ける。霜柱をつぶす感触が足に小気味よい。
 ツキとペンキを買いに行ってから三日が経った。相変わらず、僕は彼女の作業を見ていることしか許されなかったが、それでも毎日物置の裏に行っている。言葉を交わすことは少なく、ほとんどの時間は本当に見ているだけだった。だが、鈍色の塊に色が塗られていく過程を目にすることは、それだけでも楽しい。
 ツキという魔術師によって、予感という命が鉄に吹き込まれていく。
 そう、予感である。目の前でテレポーターが完成に近づくにつれ、僕の中の予感は大きくなっていく。歯の裏が、うずく感じ。これを感じたのは、小学生の時分に、子供だけで祭に行ったとき以来だ。
 プレハブ小屋と雑木林の間のわずかな隙間を抜け、裏側に出る。
 そこには、当然ようにツキがいた。ボルトをつけていたときの服装にエプロンをかけた姿で、ペンキの缶と空色に染まったはけを握っている。呼吸するだけで鼻が痛くなる冷気の中で、半そでである。
 小屋の壁には、彼女が家から持ってきた豆電球が引っかかっていた。小学校の理科の実験で使うようなタイプで、電球のソケットから伸びた二本の導線の端は、単一乾電池の両極にセロテープで貼り付けられていた。光自体は頼りないが、ペンキを塗るだけなので苦にしている様子はない。
 彼女の姿を頭からつま先まで、まじまじと見つめてしまった。
 ツキはそんな僕の様子に、首をかしげる。
 首をかしげたいのはこっちだ。
「……早いね」
 まだ、校門も開いていない時間である。今日はツキよりも早く来たつもりだった。だが、彼女はいつものように作業をしていたのだ。
「――本当に家に帰ってるの?」
「ん? 帰ってるけど……」
 そこでいったん切って、珍しく彼女から言葉をつなげた。
「本当は泊まり込んでやりたいんだけど、家族が心配するから」
 僕の思考を読んだかのような発言に、内心で狼狽した。
 視線を逃がした先――ツキの後ろで、影が動くのが見えた。
 それは水の中を動くような緩慢とした動作でわずかに移動し、座り込んだようだ。
「『彼』、また来てるんだ」
 ツキは、視線をテレポーターに向けたままうなずいた。その手は、先から少しも動いていない。左手のペンキの缶は地面に置かれ、今は彼女のあごに当てられている。
 配色はひとつだけにもかかわらず、ときどき彼女はなにかを迷っていた。色の濃淡か、塗りの手順か、それとも彼女の感性でしか捉えられない選択肢があるのか――いちいち訊くのも気が咎めるので、僕にはわからない。
 また『彼』の影が動いた気がした。身をよじったのだろうか。
 空が白み始める。遅い日の出のはこんな茂みの中には届ききらないが、それでも『彼』の姿は形にしてくれた。
 無駄に長い毛は縮れながら絡まって、泥や埃と一緒に葉や枝も巻き込ませている。暗がりにその姿を初見したら、多分逃げ出しただろう。
 豆電球の光が、黒い瞳に反射している。ぼさぼさした体毛のせいで体がふくれあがって見えるため、その目はゴミと見誤るほど小さい。
 片隅に座り、つぶらな瞳でじっと僕らを見つめている――『彼』はそんな犬だった。
 最初に出会ったのは日曜日だ。ツキの話によると、ときどきやってきて、座っているらしい。
 そのときの昼、僕がコンビニ弁当のからあげをあげようとしたら、ツキに止められた。
『盲目的に施しを与えることは、彼を侮辱することになる』
 犬を『彼』と称するのが、いかにもツキらしくておかしかった。
 とにかく、ツキは『彼』に一切関与しなかった。『彼』もまた、そこにいてツキを見ているだけ。寄ってきたり、鳴いたりしない。
 えてして学校には野良の犬や猫が集まるが、それは生徒が餌を与えるからである。
 だが、ツキは『彼』に対してそれをしない。
「なんで『彼』は、ここに来るんだろう」
 ツキはこちらに一瞬だけ目をやり、背を向けテレポーターに向きなおる。影になって見えなかったが、なんとなく笑った気がした。
 迷いから抜けたのか、はけを取りペンキ塗りを再開する。
「それは、ミツル君のほうが知ってるんじゃないの」
「え?」
 僕は『彼』のほうを見る。
 じっと、塗りつづけるツキの様子を凝視している。
 彼女の皮肉だと気づいた。
 そして、事実なので反論できない。
 ツキにとって、僕も『彼』も同列なのだ。
「まあ、今日はこんなもんかな」
 髪を振りほどき、ツキがペンキの缶のふたを閉めたのは、豆電球を消してからしばらくの頃だった。腕時計で確認すると、予鈴の五分前。校門のほうからは、多くの人の気配がしていた。
 ツキは制服を着なおし、マフラーを巻いてコートを羽織る。半そでで数時間も作業をしているくせに、登下校時の防寒対策は忘れていない。
 拾い上げたコートの下に、鞄と傘があった。
「あれ? 傘って……」
 空を見る。うっすらと雲がかかってはいるが、降りそうな様子はない。
「降るよ」
 断言して、物置の横にあった青いビニールシートをテレポーターにかぶせはじめた。ところどころ、虫食いのような穴が開いているが、傘の代わりにはなるのだろう。
 僕も手伝おうとするが、やっぱり止められる。
「ミツル君は先に行ってて」
 少し迷ったが、彼女がいうなら従うしかない。仕方なく、その場を去る。
 物置の横を入る前に振り返ると、ツキは石でシートを押さえていた。『彼』はやはり、座ってその様子を見つめている。

 テスト中にも思い出すたびに空を見るが、そのたびに黒くなっていくのが分かった。
 ホームルームが終わる頃には、ついに降りはじめてしまった。すぐに窓の外が白くなる。ガラスはすべて閉まっているのに、雨粒がアスファルトを打ちつける音が響いてくる。
 思い出してツキの姿を探すが、窓の外を物憂げに見つめる生徒たちの中にはいなかった。
 教室を出た僕は廊下で外を確認するが、下校する生徒の姿はほとんど見えない。何人か、やけっぱちになって鞄を傘代わりに走っている人がいるが、傘を差した人も同じように走っていた。
 昇降口に行くと、多くの生徒が立ち往生を余儀なくされていた。中には傘を持った者もいるが、みな一様に外をにらみつけている。軒先の一歩先は、落ちる水滴で煙っている。雷が鳴らないのが不思議なほどである。
 人のざわめきがうるさいが、雨のそれはさらに上回っていた。
 一通り、生徒たちをを見回すが、ツキの姿は見えない。
 僕は意を決して、折り畳み傘を取りだし、季節はずれの豪雨の中に乗り出した。
 雨の重さというものを、初めて感じた。両手でしっかりと柄をつかみ、低く差す。
 小またで進むが、三歩目には靴の中に水の冷たさを感じるようになってしまった。
 いつもの三倍以上の時間をかけて、僕は物置のところまでたどり着いた。土が剥き出しの地面は、ちょっとした沼になっていて、制服のズボンは泥がはねて重くなってしまっている。
 傘が木に引っかからないよう注意しながら物置の裏を抜ける。
 ツキは、いた。
 雨の白い景色の中、傘は差しておらず、ずぶ濡れになっていた。長い髪は暗い色に変わったコートに張り付き、まっすぐに垂れている。
「ツキ!」
 叩きつける音に負けじと、声を張り上げる。すると、彼女はゆっくりと振り向いた。
 その動きは、ひどく緩慢で、僕の脳裏に幽鬼という言葉がよぎった。
 だが、額に張り付いた髪の下には、ツキの無表情が相変わらず存在していたので、少しだけ安心する。そしてそれ以上に、不安になる。
 彼女の傘は、足元に落ちていた。
 いや、落ちていたのではない。斜めにした傘の下には、『彼』が座っていた。
「この雨じゃ、今日は無理だね」
 『彼』のことを尋ねる前に、ツキは僕の横をすり抜け立ち去ろうとする。
「待って」
 雨のせいだろうか。ツキの姿が小さく見えた。
 物置の表に出たツキを追いかけ、彼女の上に傘を差し出す。
「もう、傘なんて意味ないよ」
 振り返らずに、彼女は進みつづける。
 それでも僕は傘を戻さない。あとを追いかけつづける。
 それ以上拒むでもなく、かといって受け入れるでもなく、そのまま歩きつづけた。僕らはそのまま、無言で校門を抜ける。白くがっちりした石柱を見ながら、二人で正式な道から出たのは、これが初めてであることに気づいた。
 通学路の歩道には誰もいなかった。頻繁に通る自動車が水をはねるが、それを防ぐほどの、そして構っているような余裕もなかった。
 彼女に尋ねたいことが山ほどあった。だが、雨音がそれをためらわせる。
「なんで、あげたの?」
 結局、それだけだった。
「私の、わがまま」
 答えは、簡潔だ。
 ツキの声は、不思議とよく通る。斜め前を行く彼女の顔は見えないが、多分表情は変わっていない。
 それっきり、僕たちは言葉を交わすことはなかった。
 完結すぎる言葉の意味を尋ねるのは、きっと意味がない。
 半端に傘からはみ出している僕も、彼女とほとんど変わらない状態になっていた。それでも、半ば意地で差し出しつづけていた。
 唐突に、ツキが立ち止まり、振り返る。
「ここまででいいよ」
「でも……」
 言いかけて、気がついた。坂を下りたところの十字路。右にはコンビニがある。ここは、いつも彼女と分かれている場所だ。
 ツキは懐からなにかを取り出した。
「これ、あげる」
 お守りだった。乾いた麻の粗い手触りが、湿った手の中に感じる。紫の地に、『交通安全』の四文字が金色に縫い付けられていた。その上部には袋をとじる結び目があり、紐はそのまま伸びて輪になっている。
「通信機」
 雨の音は消えて、ツキの声しか聞こえなくなる。
「これをいつも持っていれば彼らとの通信が可能になる。もっとも、彼らがこちらの呼びかけに応えることはほとんどないけど。ただ、中身を見ればたちまちその機能は失われてしまうから、気をつけてね」
 僕は、半ば反射でうなずきながら、ゆっくりと言葉を消化した。つまりこれは、彼女が僕を認めてくれた、ということだろうか。
 だが、同時に思う。
「そんな大切なもの、いいの?」
「もともと非常回線用だし。どうせ彼らは何事もなく私の元にやってくる。だから、それを私は使わない。君にあげる」
 仮にも非常回線であるものを、簡単に人にあげていいのだろうか。だが、彼女が言うのだからいいのかもしれない。
「ありがとう、大切にする」
 だが、彼女の顔は何の変化も見せない。冷えた顔面で笑顔を作るのは、ひどく疲れる。
「じゃあ」
 短い別れを告げ、ツキは雨の中に進み出て、去っていってしまった。
 僕の手の中には、あれだけ欲しがっていた「とっかかり」がある。
 しかし灰色の景色の中で小さくなるツキの後姿を見ていると、なぜか喜ぶのをためらってしまう。
 もう一度、左手の中にあるそれを見る。
 一見して、ただのお守りだ。
 ――だけど、これは彼らと僕をつなぐ、通信機なんだ。
 頭の中が真っ白になって、それをどうすればいいかわからなくなる。
 やっと、学ランの内ポケットにそれをしまうのだと、判断した。
 だが、ボタンを開くのにひどく苦労する。指が、動かない。
 仕方なく、ひっぱって無理やり外す。
 服の中のぬくもりを感じて、初めて、冬の雨に濡れた自分の手がひどく凍えていることを知った。





 次の朝、僕は数日ぶりに太陽が昇ってから目覚めた。
 学校に着くと、予鈴の鳴る少し前ぐらいだった。物置の裏には行かず、直接教室に向かうことにする。
 教室では佐倉月が他の女子二人と、昨日放送されたバラエティ番組の内容を確認しあっていた。背もたれに寄りかかって、かしましい笑い声をあげている。
 昨日のツキらしくないツキを思い出し、安堵するような拍子抜けするような、奇妙な気持ちになった。
 上着の内ポケットにある通信機を、コートの上から触り確認する。
 今まで僕に何も干渉しようとしなかった彼女からの、初めての贈り物。
 自分の席につき、それを取り出した。お守りの形を借りた通信機は、確かに僕の手のひらに存在する。
 昨日の晩、ためしに何度か思念を送ってみたが、何の反応も返ってこなかった。
 それが当然だと思う自分のほかに、わずかに気落ちする自分もまた、存在していた。
 昨日の手順を、再現してみる。
 額にそれを当て、両手で軽く押さえる。目を閉じ、心を落ち着かせ、遠くに向かって呼びかけ――
「ミツルちゃん、なにやってんの?」
 はっとした。
 目を開くと、寺脇をはじめとしたいつものメンバーが僕の横に立っていた。
 思わず通信機を机の中にしまったが、それがいけなかった。
「お、なんか隠したぞ」
 一人が僕を押さえつけ、寺脇が机の中を探った。鞄を開いていないので、その中は空だ。すぐに見つけられる。
 僕は、奪い返そうと床を蹴る。だが、羽交い締めにされ、寺脇との距離は変わらなかった。
「返せ!」
「おお、今日のミツルちゃんは威勢がいいな。そんなに大切なものなのか?」
 目の前で、寺脇がにやにや笑いながら通信機を手の中で転がした。
「ただのお守りにしか見えないけどな」
 寺脇の指が、その結び目に掛かった。
 全身に冷水を浴びせられたような、寒気が走る。
「やめろ!」
 歯を食いしばって、強引に縛めを振りほどこうとするが、力でかなうはずもない。ばたつかせた手足が机に当たり耳障りな音を立てるが、何の意味もなさない。
 どれだけ歯向かっても、どうすることもできない。
「おい、こいつ泣いてるぜ」
 一人が笑う。おまえらは分かってないんだ。それがどんなものか。
「ん、なんか入ってるな」
 紐を解き、寺脇はお守りの中に指を突っ込もうとする。
 と、寺脇の表情が、固まった。
「やめなよ」
 彼の手の中には、何もなくなっている。
 そこにあったものは、彼女の手に移っていた。
「嫌がっているじゃない」
 僕は初めて、教室が静寂に包まれていることを知った。
 僕の周りの机やいすは横倒しになっていて、僕の中の冷静な部分があきれているのに気づく。子供のような暴れ方だな。
 だが教室中の視線はこちらでなく、寺脇の横に立つ少女に向けられていた。
「佐倉さん――」
 誰かがつぶやく。
 違う。彼女の名はツキだ。
 彼女は解かれたお守りの紐を締めなおし、僕に手渡した。
 いつのまにか、僕を押さえていた腕から力が抜け、僕は自由になっていた。そいつだけではない。教室の中の誰もが、目の前に突然現れた知らない少女に、呆然としている。
 停まった時の中で、床を蹴り、踵を返すと、髪が柔らかくなびく。直立した姿勢は、スポットライトを浴びたモデルを思わせた。
 ツキが教室を後にして、やっとみなは動くことを思い出した。
「……あれ、佐倉さんだよな?」
「――なんで木島を助けたりしたんだ?」
 視線が向かってくるのを感じる。僕はそれに捕まる前に、ツキの後を追う。
 教師とすれ違いに教室を出る。なにか言ってきたが、構わずに廊下を走った。
 そのまま階段、昇降口を駆け抜ける。途中で遅刻者と一度だけすれ違ったが、広い校庭には誰もいなかった。
 物置の裏に駆け込むと、ツキはそこにいた。手にはペンキの缶を持っている。
「ミツル君も来たの」
 振り返ったツキは特に感慨も浮かべていない。
 息が整うのを待って、尋ねる。
「なんで、僕を助けたの?」
「君が助けて欲しがっているように見えたから。手を貸しただけ」
 ツキはテレポーターに向きなおり、言葉をつないだ。
「もしも私の思い過ごしで、あれが迷惑だったなら謝る」
「それは、別にいいけど……いや、むしろ感謝してる。ありがとう」
「そう」
 短くつぶやいたそれは、安堵したようにも聞こえた。
「でも、今までのツキだったら――佐倉月のままだったら、きっと僕に関わってこなかったはずだ」
 ツキは、答えない。
「昨日にしたってそうだ。僕に、通信機をくれた。テレポーター作りを手伝うことだって許してくれなかったのに……」
 僕が言葉を止めると、はけを操る音しか聞こえなくなる。
 その沈黙が、今は痛かった。
「わがままなんだ」
 唐突に、ツキが言った。
「全部、私のね」
 同じ言葉を昨日も聞いた。
 一体、彼女は何を言っているのだ。僕も何かを言おうとは思うが、喉が死んだように動かない。
「君はここにいるべきじゃなかった。ここにいることを、許してはいけなかった」
 膝が震えて、立っているだけがひどく苦痛だった。
「帰って。そして二度と……ここに来るな」
 ツキという機械は、壊れてしまったらしい。
 いや、壊れたのは僕のほうだろうか。
 次の言葉を待つが、いつまでたってもそれがかけられることはなかった。
 はけが金属の上を走る音から、木々のざわめきまで――すべてが僕を拒絶している。
 ――それでも。
 ツキの背中に希望を抱いてしまう。振り向いて、笑いかけてくれるんじゃないか。
 だが、そんなありえない希望にしかすがれないことが、なによりも僕に事実を知らしめた。
 ツキはもう、笑いかけてはくれない。
 鼻が詰まって、口で息をするが、それでも苦しい。
 ほとんど塗り終わっているテレポーターが、水の中にゆがむ。
 僕はそれに背を向け、物置の裏を後にした。
 それが、僕とツキとの別れだった。





 次の日、昨日の事件の追求と、ツキと顔を合わせることに迷ったが、結局学校に行くことにした。今日行かなければ、ずっと行けなくなる気がしたからだ。
 教室に入ると、早速数人が僕に答えを求めてきた。佐倉月との関係について、「わらかない」の一点張りで突き通した。それを聞くとつまらなそうな顔をしたが、彼らのいう面白い展開――僕と彼女が個人的な付き合いがあるという可能性――について、もともと質問者自身も懐疑的だったらしく、僕の答えにもしぶしぶながら納得した様子だった。
 代わりに彼らは、その矛先を佐倉月に向けるつもりだったようだが、ついにその機会が訪れることはなかった。
「佐倉月は転校した」
 朝のホームルームの担任の言葉に、教室中がざわめいた。
 全員が――僕を含めて――混乱の坩堝にあった。
 混乱しつつも、担任の言葉を必死で拾い集める。
 しばらく前から転校は決定していたこと。
 みなに気を使わせないために、内密にしておいて欲しいと頼まれたこと。
 転校先はアメリカだということ。
 クラス中に衝撃を残したまま、担任は何事もない風を装いながらテスト用紙を配り始めた。
 日常は、人が一人いなくなった程度では変わらない。

 放課後、僕は物置の裏を確認した。
 テレポーターは消えていた。
 だが、霜が降りた土には青いペンキがしたたった跡があり、かつてそこに存在していたことを示していた。
 僕は確信する。
 ツキはテレポーターを完成させ、一人で彼らの星に行ったのだ。
 その際に、僕が邪魔になった。だから昨日、突き放してきた。
 ――ツキは、裏切った。
 僕が宇宙人に会いたいと知っておきながら、自分だけ抜け駆けした。
 悔しさは憎しみは生まれなかった。むしろ、心は空だ。何もない、まるっきり、抜け落ちたような。
 ――そうだ。
 僕は懐から通信機を取り出す。
 彼女のテレポーターが本物だとしたら、これもまた本物のはずだ。
 それを握り締め、空を見上げる。
 木の枝の向こう側に広がる、薄い雲がかかった空――その向こう側にいるはずの、ツキに向かって。
 僕は拳を突き上げた。





 目覚める。何も夢は見なかった。
 暗闇の中で、多分昼なのだろう、と思う。
 遠くから聞こえる車の音は多いし、階下からは母のせわしない足音が聞こえる。
 手の中にある感触を確認する。
 宇宙人――彼らと僕をつなぐ、唯一の代物。
 最後に青空を見た時を思い出していた。
 あれからどれだけ時間が経過しただろうか。部屋の中にその答えを見出すことはできない。
 目張りをした雨戸とカーテンを閉めた部屋は暗いが、それでも真っ暗とは言えない。目を凝らすと、部屋の大まかな状況は見て取れる。
 クローゼットにテーブル、そして机。それらはすべて空だ。制服も教科書も鞄も、全部燃やしてしまった。
 それも、彼らの思念波がよりよく通じるだろうと予想したからだ。
 暗いほうが僕自身の感度もよくなるだろうし、この世界につなぎ止めるものがないほうがいいに決まっている。
 僕は、ツキのところに行くのだ。
 そのとき、階段を上ってくる音に気がついた。
 ゆっくりと、なるべく忍ばせようとしている足音はドアの前で止まり、今度は階段を下りていく。心なしか、来るときより足取りは速い。
 きっかり五〇数えてから、僕はベッドを降りてドアを開く。
 廊下には、お盆に乗せられた昼食があった。
 それを手に部屋に戻り、すぐさまドアを閉める。
 閉じこもるようになってから、最初は両親が僕を引っ張り出そうとするので、苦労した。ツキが親にばれないように気にしていた気持ちが分かった。
 まあ、そのたびに暴れてやったら、親ももう何も言わなくなったのだが。自分の首に包丁を突きつけてやったのが効いたのかもしれない。
 そう、もうこんな世界には未練がない。ツキのところに行けないのなら、死んだほうがマシだ。
 食事をあらかた胃袋に入れ、食器を廊下に戻してふと考えた。
 これだけ条件をそろえても、彼らからのコンタクトはない。
 ふと思う。
 それは、両親の思念が阻害しているからではないか。
 ――ああ、そうか。
 なら、答えは簡単だ。
 僕は部屋に戻らず、そのまま階段を下りる。
 体が重く感じる。手すりを握りなおした。
 一階に行くと、台所で母親が目を丸くしてこちらを見ていた。
 おびえている。なんて、弱々しいのだろう。
 なにも、自分の首に包丁を当てる必要はなかったのだ。
 苦笑しながら、僕は玄関に降りる。別にあの人をどうこうしようとするわけじゃない。適当に靴を引っ掛けて、ドアを開けた。
 何も見えない。多すぎる光は、暗闇になれきった僕の目を白く焼いた。
 目をしばたかせ景色が見えてくるようになったとき、風が頬をなでる。
 僕は寝巻きのまま外に出てきたことに気づいた。コートを取りに戻ろうとしたが、全部燃やしてしまったことを思い出した。とても親のものを借りる気にはならない。
 諦めて、このまま行くことにする。作業中のツキだって、半そでのシャツでいたじゃないか。
 空は一点の曇りもなかった。太陽が、冬のものとは思えないほど輝いている。空気は鋭利な冷気を帯びていたが、陽光は暖かかった。
 かつて一年半もの間通いつづけた道をたどる。川の脇の道を通り、住宅街を抜けると、坂の上に高校の校舎が見える。最後に通ったときと、変わった様子はあまりなかった。
 ときどき人とすれ違うが、そのたびに奇異と嫌悪の視線を向けてくる。寝巻き姿は、見ているほうにも寒々しいようだ。僕もツキに対して、そんな視線を送ってしまったのかもしれない。そう考えると、人々の視線も心地よいものに変わった。僕がツキに近づいたという証明だから。
 学校に近づくにつれ、多くの生徒とすれ違うようになった。まだ日は高い。もしかしたら、今日は土曜日なのかもしれない。
「おまえ、ミツルじゃねえか?」
 校門に入ったところで、声をかけられた。
 一人の男子生徒が、僕のほうに駆け寄ってくる。
「二ヶ月も、どうしてたんだよ」
 ――誰だっけ、こいつ?
 構わず先に行こうとしたが、腕をつかまれる。
「待てよ、どこ行くんだよ」
 言葉に少しとげが生まれる。
 それでやっと思い出した。こいつは寺脇だ。
 僕をからかって笑っている顔しか覚えてなかったので、気がつかなかった。そいつはいま、哀れむような視線で僕を見ている。
「離せ。僕はツキのところに行くんだ」
 つかんだ手を振り払おうとするが、うまくいかない。
「なに言ってんだ、おまえ」
 一瞬、説明しようとしたが、すぐに首を振る。こいつが間に受けるはずがない。それに、あの場所についてこられても困る。
 どうしようか考えていると、寺脇が訝しむように僕の顔を覗き込んできた。
「おまえ、本当にどうしたんだよ? ひどい顔してるぞ」
「……顔?」
 訊き返す僕に、鏡を差し出す。制服用のブラシとセットになっている手鏡だ。
 狭い鏡の中に見知らぬ男がいた。
 そいつは、肉の多い顔に、ぼさぼさの頭をしてカビのような不精ひげを生やしていた。やにのたまった目は純血して濁っていて、そのくせぎらぎらとしている。肌は死人のように白いのに、薄くすすけていて、地黒にも見える。
 ブタに似ていた。
「――え……?」
 そいつは唇を震わせて、何かを言おうとしている。だが、人間の言葉なんか最初から話せないようにも見える。半開きになった口の中には、便器の染みと同じ色をした歯が見えた。
「――うっ」
 吐いた。
 胃の中身をアスファルトに撒き散らしながら、僕はツキの顔を思い浮かべる。
 だが、鏡の中のブタの顔が、頭から離れない。
 道路にゲロをしているブタの姿が、やけに鮮明に脳裏をよぎった。
 僕は走り出した。いつの間にか寺脇の手は放されていたらしい。
 気づいたら、物置の裏にいた。
 喉がめくれあがるような不快感がある。息が上がって、死にそうだ。
(――ブタが――)
 頭の中の誰かが、誰かのことを罵っている。
 ここなら誰も僕を傷つけないはずなのに。頭の中の誰かは、凶暴な言葉を吐きつづけている。
 嘔吐感がもう一度こみ上げてくるが、なんとか飲み込む。飲み込んで、さっきの様子を思い浮かべてしまい、またぶり返す。
 そのとき、視界の隅に何かが映った。
 近寄ってみると、それは犬の体だった。
 『彼』だった。
 そこは、『彼』がいつも座っている場所だった気がする。結局、こいつはここで、ずっとツキを待っていたのだろうか。
 一向に動かない。動くはずがない。
 『彼』は、どこへ行ったのだろうか。
 多分、ツキのところじゃないだろうな。あそこには、行けない。ハエがたかりはじめた『彼』の体を見ながら、思った。『彼』は僕と同じ。そんなことを、前にツキに言われた気がする。
 僕は物置の横にあったシャベルで、穴を掘った。『彼』が寝そべる、すぐ横に。
 冬の土は、予想以上に固かった。シャベルの先が跳ね返る。なんとか突き刺すが、そのたびに腕と肺が悲鳴をあげ、腰が爆発しそうになる。
 真上にあったはずの日が雑木林に消えた頃になって、やっと人一人が横になれるくらいの大きさの穴を掘りおえる。少し深めなので、多少太っていても問題ないはずだ。
 そこに『彼』を横たえた。
 再びシャベルを取り、盛り上げた土に突き刺し、崩し、『彼』の上にふりかける。掘るときよりも楽だったが、もう腕の感覚はなくなっていてたし、腰もどうにかなりそうだった。
 埋葬しおえた頃には、辺りは暗くなりはじめていた。
 『彼』が横たわっていた場所に座る。
 僕はポケットにしまっておいたお守りを取り出す。
 腕が馬鹿になって、震えているのがおかしかった。
 お守りの結びを解いた。もう、腕を上げることすらままならなかったが、なんとかこらえる。
 中に何か入っている。
 手紙だった。
 整った明朝体を、最初は印字かと思った。だが、よく見ると手書きである。
 空を仰ぐ。
 雲が赤く染まっている。
 ぎりぎりだが、手紙は読めた。


『 ミツル君へ

 これを読んでいるのは、いつなんだろうね。渡した次の日とかじゃない、と思いたい。せめて、私がいなくなってからじゃないと、かっこがつかないし。
 さて、君が通信機を開くことになってくれて、私は嬉しい。心から、祝福するよ。
 同時に、そんな君に私の真意を知ってもらいたい。私の居場所から抜け出した君に、ね。
 君は、私の場所にいるべきじゃなかった。あそこは、私だけの場所。他の誰がいても、絶対に不幸になるだけなんだ。
 だけど私は、それを知りつつも君がいつづけることを許してしまった。これは、私のわがままだ。
 私は多分、寂しかったんだと思う。私の場所は、誰とも共有できないと知りつつも、それでも誰かを求めていた。だから君が来たときは、正直嬉しかったんだ。それが君にとって不幸なことだと思っても、喜ばずにはいられなかった。
 それに君は、昔の私に似ていた。どこかに、自分がいるべき本当の居場所があるんじゃないかと夢を見ている。
 そう、夢なんだ。頬をつねっても、痛くない。そんな場所、この世界のどこにも存在しない。
 だから私は、私の場所を作った。だけど、君は見つけてしまったんだ。私の作った場所、君が望む場所に限りなく近い場所を。
 ずるいんだ、君は。私はそれを作るのにそれなりのコストをかけたのに、突然やってきた君はその場所に居座ろうとした。否定はさせない。君は、何のリスクも背負っちゃいない。それに気づいたときは、腹が立った。嬉しさなんてどっかにいっちゃうほど。
 だから、私は君にいじわるをした。つまり、通信機。結果として今の、これを読んでいる君は、そのいじわるを乗り越えたんだろうけど。
 ぞっとしたかな。なら、確信犯としては大いに満足。
 私は、あえて君に居場所を残した。もしも私がなくなった後も、君がそこにすがりつづけた場合、君の人生は大きく変わってしまったのだと思う。
 でも、それは当然払うべき代価なんだ。だから、私は謝らない。まあ、君がこれを読んでいるなら、私が気を咎める必要はないんだけどね。
 さて。私もすっきりしたし、これ以上伝えることはないね。多分、これから何をするか、君は分かってるんじゃないかな。だから、何を言おうとおせっかいにしかならないしね。
 じゃ。私はオリオンのほうに行く準備があるから、そろそろお別れ。歯ブラシ、買いに行かないといけないんだ。

ツキ 』





「おまえさ、本当にやるの?」
 寺脇が、いまさら尋ねてきた。
 僕らは夜の校舎を、懐中電灯ひとつを頼りに歩いている。昼間のうちに家庭科室の鍵を開けておいて、そこから入ったのだ。
「もちろん」
「……誰だよ、こんなこと思いついたやつ」
 僕の後ろから、寺脇は弱々しい声を出している。ほんのわずかでも、沈黙が怖いのだろう。
 実は、僕も怖い。誰もいない巨大なコンクリートの建物というだけで不気味だし、その上今は深夜だ。
 階段を上る。三階につくと、廊下の天井の、非常口と書かれたランプが明滅している。何もかもが静まり返った世界で、それだけが動きを見せていた。
「――ツキを覚えてる?」
 ツキ、と彼はつぶやいて
「……ああ、佐倉さんのことか。一年前に転校した」
「一年――そうだね」
 もうそんなに経ったのか。僕には、つい昨日のことのようにも思えるが。
「彼女に教えてもらったんだ。ちょっとした、自己実現のおまじないをね」
「おまじない、か」
 そして、僕らは階段を上りきった。
 目の前には、バズーカ砲でも破れそうにない鉄の扉があった。試しにノブをひねってみるが、鍵が掛かっている。
 僕はポケットから、昼間のうちに盗んでおいた鍵を取り、ロックを外した。
 ドアを空けると、冷えた空気が流れ込んでくる。僕は懐中電灯のスイッチを切った。
「いい天気だなあ」
 仰ぐ空には、無数の星々と大きな月が、僕らを見下ろしていた。その中から三つ子の星を見つける。西の空に見える、僕が見分けられる唯一の冬の星座。改めて見るのは一年ぶりだった。
「ところで、君はなんで僕についてきたの?」
 振り返ると、寺脇が腕をこすり合わせて寒さに耐えていた。
 彼は、ぎこちなく笑った。
「いや、なんかおまえが面白そうなことやるみたいだからな」
「面白い……まあ、そうかな」
 いつのまにか、教室の中の僕の役割が微妙に変化していた。笑われる役から、笑い合う仲に。直接的な原因は、わからない。ただ、ツキがその根っこにいることは確かだ。
 僕はドアの横にあるはしごに手をかける。鉄のそれは、ただただ冷たい。
 上りきると、月の光に照らされた大きな白い円柱があった。
 僕は背負っていたリュックの中から、ペンキの缶を取り出す。
「明日は大騒ぎだな」
 寺脇が、顔だけを上に見せていた。
「いや、誰も気づかないんじゃないかな?」
 缶のふたをとろうとするが、一年ぶりに開くそれは、なかなか手ごわい。なんとかこじ開けて、僕は白い円柱――貯水塔に向きなおる。そして、一気に中身をぶちまけた。
 放射状に広がったそれは、貯水塔の胴に大きなしみを作る。月の光では、その色がなにか判別できなかった。
 寺脇は拍手を打つ。
「期末試験がうまく行きますように、と」
 明日のことを祈ったようだ。それも、いいかもしれない。
 僕は夜空を見上げた。
 立ち入り禁止の屋上の出来事なんて、誰も気づかない。
 だけど、彼女なら見ている気がする。
 この街の中で一番高い場所で、僕は最高の友人と再会した。そんな気がする。
「――ありがとう」
 ずっと言いたかった一言をささやいて、僕は振り返る。
「さあ、帰って最後の詰めをしなきゃ」
 寺脇は顔をしかめた。
「最後の神頼みじゃなかったのかよ?」
「自分の行き先を決めてくれるのは、自分だけだよ」
 二、三言、なにか文句を言ったようだが、僕は無視してはしごの下まで飛び降りた。
 フェンスの外を見る。
 空と地面――二つの星空に挟まれた場所。昼間も、さぞ眺めがいいだろう。
 ――気に入った。
 明日は、昼に来てみようと思う。





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