The human trials……
Introduction: He knew something but he couldn't know that how did he do it.
Because It's really dangerous and abnormal.
He said that these are human trials.
The letter from my best friend.
『私は、間違っているのかもしれない。
あの出来事のことを書こうとするなんて、馬鹿げている。そう思う。
たとえこの文章を公表したとしても、あの事件のことを知らない大多数の人々は私のことを狂人扱いするだろうし、もし知っている人がいたとしても無視を決め込むか、冷笑するだけで終わらせてしまうだろう。
しかし、それでも私は書かずにはいられなかった。
物書きの性ということもあったが、なにより私の友人達の死が無駄になることを恐れたからでもある。
そして今、私はこれを書き上げてしまったことを後悔し始めている。
この文章が元で誰かが死ぬかもしれない、それならばいっそ闇に葬ってしまおうか、と。
なやみに悩んだ末、私は君の顔を思い出した。
この文章の処置を委ねるに適した人物は、私ではないような気がするのだ。
だから私が信頼する数少ない友人の一人である君に、この文章を送ることにした。これに目を通した後の処理は君に一任するので、破り捨てるなり何なり、好きにしてくれ。
私のこの行動は、問題からの逃避と見られても仕方がないが、私にこれを裁断する能力も、時間もないようだ。
私は君の決定に口出しはしない。
ただひとつ私が君に言っておきたいことは、これらに書かれた出来事は全て真実、いや、私が真実と思いこんでいる物事であるということだ。
私の真実が君の真実ではないならば、それもいい。ただ君だけには、私という個人を理解してほしい。
最後に、君の歩む人生に永遠の光が有ることを願う……』
2002.5.16 Kunihisa Iimura worte.
僕は、突然送られてきた彼の記述書を読んで、あまりの破天荒さに正直、呆れ返った。
どう考えても真実とは程遠いであろう内容に、彼が本当に気が触れたのではないのだろうかと思ったのだ。
しかし暫くして彼の死が知らされたとき、僕は彼の文章をもう一度読み直すことにした。
彼の真実とは何だったのか、彼はなにを信じていたのかを確かめたかった。
そして彼の言う真実の一片が見え始めたとき、僕はこれを元にフィクションを書こうと思い至った。
彼が何を恐れていたのかはまだ解らないが、この事を闇に埋もれさせるべきではないと直感したからだ。
彼の死を無駄にしないために。
そして何よりも、僕の信じる真実のために。
この物語を、我が親友と数多くの犠牲者達へ、鎮魂の意をもって捧げる。
次世代 The next age 〜 Men who knew the God.
一九九〇年代から二〇〇〇年代前半。世紀を二つに跨ぐこの時代は、人類にとって激動の時代といえる。
脈動する大地のうねりに人類はなすすべもなく飲み込まれ、あたかも自然が人類に対する復讐を開始したにみえたが、それを凌駕する人災の多さと、それに伴う環境汚染が人類に降りかかり、自滅の道を歩んでいるようにも見えた。
このような環境の中、人々は未来に希望を見いだせるはずもなく、破滅的な思考を持つ者達がしだいに増加し始めた。
しかしこの混沌とした時代の中で、したたかに生きていこうとする者達もいた。
彼らは人類の新しい道を探すのに躍起になり、それを見出すことこそが唯一の救いだと信じていたのだ。
そしてついに新時代への扉の鍵を見つけたとき、彼らはそれを取り逃がすまいとしがみついた。その道が人類にとって吉と出るか凶と出るかは判らないが、彼らはそれが信じもしない神の贈物だと思い込んだ。
そう、彼らは長い間、人類が神から追放されたという理想郷に恋いこがれていたのだ。
悩みも病も、死すらもない楽園。
彼らは常に、エデンを求めていた。
The show is beginning.
「どういうつもりなのだ!」
鋭い男の声が、あくまで機能的に作られた事務所に響いた。
無機質な感覚をうけるさほど広くもない部屋に、その声の主――作りの良いスーツで身を包んだ男は怒りの表情を隠しもしないでいる。
怒りの矛先は、彼と対面するソファに座っている眼鏡の男に対してであった。
こちらは怒鳴られているにもかかわらず、平気な顔をしてひざの上で指をくんでいる。病的に細い指だ。
痩せた眼鏡の男の体が震えていないところを見ると、内面はともかく、おびえてはいないらしい。それがスーツの男には気にくわなかった。
真面目な顔をしているというのなら分かる、だがこの男はその顔に薄笑いすら浮かべているのだ。
彼はこの男を、扼殺しようとする衝動に耐えなければならなかった。
「何を考えている。貴様、何を、何をしようとしているのだ?」
眼鏡の男は何も答えはしなかった。もう何度このようなやり取りを続けたのだろうか。
スーツの男はうんざりするどころではなく、質問をするたびに次第に怒りをあらわにしていった。
「貴様、自分が何をやっているのか解っているのか!」
怒りを押さえるのも、もはや限界であった。
(これ以上眼鏡の男が沈黙を守るようならば、そのいけ好かない薄笑いごと凍りつかせるような目にあわせてやる!)
スーツの男はそう考え、彼がその言葉を口にしたとき、痩せた男は初めてその爬虫類にも似た唇を開いた。
「道を、探しているんですよ」
針金のようにやせ細った指で眼鏡を掛け直しながら言う男に、彼は不可解で危険な雰囲気を感じ取っていた。
どこかにズレがあるような、奇妙な感覚が彼の脳髄を刺激する。
「道だと?」
眼鏡の男は笑いかけた。いや、それは笑顔などという暖かみのあるものなどではない。口の両端をわずかに緩めただけの、氷の微笑……とでも形容すべき、動作。
「そう、私たちの進むべき道を」
眼鏡の男は相手のことをまるで気にかけていないかのような口調で続けた。
「あなたなら解るはずですよ、あなたならね」
「解るはず無いだろう! 貴様! どうかしてるぞ!」
男はスーツのしわを気にかけることもなく眼前の机を叩いた。
すっかり冷めきったコーヒーの容器がカタカタと震える。だがそれにも眼鏡の男は全くの静寂を保っていた。
「私はあんな事をするために、あの研究所に融資した覚えはない!」
「あんなこと、と言いましたか?」
やせた男は表情こそ動かさないものの、その目に一瞬、怒りをみなぎらせた。
はじめてこの男に感情らしいかけらを見出した事で、スーツの男は多少気を落ち着かせた。
もっとも、火のついていない煙草をくわえて揺らしているのはまだ怒りが解けていない証であろう。
お互い、その事に気がついているのかいないのか、ともかく眼鏡の男は、この男にしては珍しく自分から口を開いた。
「私はね、あんなことのために命をかけているんですよ、神坂さん。
道具を使うことで進化を拒絶した人類の、低迷と停滞を一掃する新しい風、新しい道」
「あの計画がその新しい道か? くだらん!
金輪際、融資はおこなわん。それで貴様の新しい道とやらも閉ざされる。残念だったな」
スーツの男――神坂というのであろう――は未だ微笑を浮かべている男に、吐き捨てるように、そしてまるで嘲るように言い放った。
しかしその言葉も、彼の虚無じみた笑顔を突き崩すことは出来なかった。
「いりませんよ」
「なに?」
神坂の顔が一瞬、ひきつった。
その表情の変化を眼鏡の男はまるで面白がるかのように――いや実際は今までとは変わらぬ表情であったが、神坂にはそう見えた――ゆっくりと、言葉を続ける。
「いらなくなったんですよ、貴方の融資も」
そう言って、男はまた針金のような指で眼鏡をかけ直した。
「……そして貴方も、ね」
PARTT
二〇〇一年 二月二十四日 AM2:00[-Tokyo- Kamisaka's home]
神坂公史が彼の父親の死を報されたのは、彼が久しぶりに大学に行き、授業まで真面目に受けた日の夜中だった。
冬も終わりに近づくこの季節、いつもはサボっていた学校に足を向けた理由は、別に心を入れ替えて勉学に励もうとしたわけではなく、ただ単に『気が向いたから』だけであった。
久しぶりに受けた授業は彼が想像していた通り退屈なもので新鮮さもなく、何の感銘も受けなかった。
特に授業中、自分の席に長時間座っていなければならないのが苦痛だった。
公史は昔からその場にじっとしていられない質で、小学生のときから落ち着きが無く、成績も悪いというていたらくだった。
彼の成績表の備考欄にはいつも『元気で明るく、活発な子』と書かれていたが、それは他に褒めるところがないからで、裏を返せば協調性がないだけであり、歴代の担任教師の苦悩を垣間見ることが出来る。
もっぱらチームプレイを必要とするスポーツでは、常に独壇場。仲間のサポートという概念は彼の頭にはなく、周りの友人達から非難の声浴びたことが何度もあった。
公史自身も己の性格を熟知していたらしく、スポーツに関心を寄せることは少なくなったが、その代わり武術というものに興味を持ち、中学の頃から鍛錬に勤しんでいた。
そんな理由もあって、父親譲りの精悍な顔つきと、背が高く贅肉などついていない、がっしりとした体躯が周りにいた女子を騒がせたが、彼は自分が彼女たちにとってただの観賞用でしかないことを知っていたため、無視し続けていた。
そんな彼は日常生活の態度においても、反抗的で破天荒を極めていた。
彼自身が無駄と判断した校則などは率先して破り、規則では禁止されていた長髪も色染めも初めてやったのは公史だったので、教師達はいつしか彼に不良生徒というレッテルを貼ることになった。
ただ高校時代の後半に一度、生活態度が一変した事がある。
それは進学のためであり、いつも遊んでばかりいた彼が予備校に通いだし、家でも真面目に机に向かっている姿は、彼の妹の唯を驚かせた。
しかしその短い期間が過ぎ、一流とは言い難い大学にかろうじて籍を置くと、また昔の彼に戻るのに時間はかからなかった。
要するに彼は社会に出て働くという気が全く無く、もう少し遊んでいたいが為に受験勉強に励んでいたのだ。
この出来事は、いざという時の行動力の有無を示唆したものだった。
彼の妹に言わせれば、彼はいざという時にしか動かない怠け者だったが、それでも彼の行動力は別人を思わせた。
「進学などの人生の転換期では努力なしで事態の好転はないが、それ以外の期間はそれなしでも何とかなる」
それが彼の見解だった。他人には授業をサボる言い訳にしか聞こえなかったが……。
「貴方のお父様が、先ほど亡くなりました」
公史は初め、この言葉の意味することが理解できなかった。
その原因は、騒がしいが内容の薄い深夜番組を居間で見ていた直後で、思考が鈍っていたせいでもあったが、なにより話し手の無感情な声色と、話している内容のギャップが著しく大きく、彼に現実離れした錯覚を覚えさせたからでもあった。
「は?」
警察の者と名乗った電話の主の機械じみた声は、彼の陳腐な返答にも何の感情も示さず繰り返した。
「貴方のお父様が、先ほど亡くなりました」
公史はその言葉を頭の中に一巡りさせ、事態の把握に努めた。
時刻は夜中だったが、代議士という職業を持つ父にとってそれは珍しいことではなかった。
今日もどうせ事務所に泊まり込むつもりだろうと、半ば呆れ気味に考えていた矢先の出来事だった。
「なぜですか?」
この時公史は反射的に喋っただけであって、明確な意思を持って相手に問いかけたのではなかった。
頭の中に幾つもの疑問が飛び交い、それを整理できていなかったのだ。
あまりにも急な宣告に、口を突いて出たのは素朴で簡潔な言葉だけだった。
「実は匿名の通報が警察にはいりまして、私たちが神坂さんのオフィスに駆け付けたときはもうすでに。心中お察しいたします」
そんな公史の心境はよそに、帰ってきた言葉は丁寧でも簡素で、おおよそ感情という文字はそこから完全に欠落していた。
公史はそれからのことは余り覚えていなかった。いつ電話を切ったのかさえ思い出せなかったが、最後に警官の言った言葉だけは思い出す事が出来た。
「明日警察の者が伺いに参りますので、それまで外出は控えていただけますか?」
彼は妙に落ち着きだした自分に驚きながら、「当分学校は休みだな」と呟いた。
その日の朝、公史は日曜日にもかかわらず早起きをした。
気が立っていたからか余り眠ることが出来なかったが、疲れは感じていない。
いつも起きた直後は動く気になれず、ベッドの上で呆けているのだが、昨日の事故が気になって頭から離れなかったのだ。彼はさっさと布団から抜け出して、テレビを見るために居間に向かった。
その途中、妹が既に起きていないかと恐れたが、まだ起きていない様子に安堵した。
唯とはまだ顔を合わせたくなかった。
案の定、テレビ各局はこぞって昨夜の事件を取り上げていた。
有名ではないにしろ、代議員の事務所で起こったこの事件は早くもニュース番組にも取りざたにされ、安易な疑惑に直結させられている。
見慣れた事務所の前で、恐怖という名の好奇心にとりつかれたリポーターの解説が、公史にとっては笑止だった。
「何も知らないくせに、知ったような口をきくんじゃねえ」
公史は心の内に溜まった苛立ちをテレビの画面にぶつけたが、しかしそれはこれから起こる未来への不安をうち消すものには成り得なかった。
彼にはやるべき事があった。妹の唯に父親の死を告げなくてはならなかった。一七歳の少女には残酷なことだが、事実を隠すわけにはいかない。
そう決めた後でも公史は気が引けていた。
こちらから知らせなくてもいずれ気付かれる問題なので、早く知らせた方がよいだろうが、そのタイミングがどうしても掴めそうになかった。
公史はテレビを消してソファに腰を下ろすと、眉間に親指を押し当てた。そして胸にわだかまる不快な塊を吐き出すような深い溜息をつく。
唯にどうやって話を切り出すかが問題であった。
どんな言い方をしても、彼女の美しく繊細な顔が悲しみに歪むのは必至だろうが、出来るだけ唯の心を痛めずに済ませたかった。
彼は唯が父親の死という事実に直面したとき、彼女がどういう行動をとるか全く想像が付かなかったのだ。
彼女の性格から、何日間か寝込むことはあり得る。
「全く、親父はロクな事をしない」
かなり罰当たりな事を口走ると、公史は又溜息をついた。これから先が思いやられる。
これからの生活がどう変化してゆくのか、彼には想像が付かなかった。現実という名の重圧が、彼の心に重くのしかかる。
公史は疲れたようにソファにもたれかかり、そして……、
その時、玄関のチャイムが鳴った。
公史は素早く時計を見た。午前七時三十二分。警察が来るにしてはまだ早すぎる。
マスコミがここを嗅ぎ付けたというのもないだろう。こんなに早く来るのは異常というものだ。
公史は頭の中でいろいろな思案をしながら、玄関に向かった。足早になったのは、チャイムのせいで唯が起きるのを恐れたためである。
「何だこんな時間に」
憤慨しながらも玄関先に出ると、扉の前にたって深く息を吐いた。
彼はすぐに扉を開けようとしたが、思いとどまってドアのチェーンをかける。まさかとは思うが、もしマスコミ関係者が来ているのだとすれば、用心するに越したことはない。
しかし、その考えは杞憂に終わったようだった。扉の前には、公史のよく見知った男が立っていた。
「やぁ」
彼が良く知っているいつもの柔和な笑顔で、その男は公史に微笑みかけた。その微笑みに公史はほっとしたようにドアのチェーンを外し、扉を開けて男を迎え入れる。
「達彦さんでしたか」
「久しぶり」
そういったのも関わらず、達彦と呼ばれた男の表情が曇った。
公史はこの表情から、なぜ彼が早朝なのにも関わらず駆けつけてきたのか、わかったような気がした。
公史と規崎達彦との交友の始まりは、公史の父である神坂憲一が未だ一介の弁護士だった頃、達彦が憲一の小さな事務所に就職してきたのがきっかけだった。
そのころ十六歳だった公史は、よく小遣いをせびりに父の事務所に足を運んでいたため、その頃から達彦と話をするようになった。
当時、丸めがねの青年弁護士はにこやかに微笑みながら、公史の愚痴とも言える話を不満な振る舞いも見せずに聞き、色々な助言を与えてきた。
母親が居ないこと、父親も忙しくて家庭を顧みる暇がないこと等の様々な要因が、小さかった公史の心を挫かせつつあったが、達彦という存在が支えになっていた。
また、公史が勉強が嫌いというただそれだけの理由で大学への進学を拒否したのを、穏やかに非難したのも彼だった。
何かをやりたいという夢があるならともかく、ただ逃避のために拒否するのは卑怯だと言われた時、公史はなんの反論もできなかった。
「やることが無ければ、とりあえず色々な経験をしてみることだ。受験するのも、大学に行くのも一つの経験さ」
そういってにこやかに微笑んだ達彦を、公史はいつまでも忘れることが出来ないでいた。
公史はいつしか、達彦に憧憬の念を抱いていた。
公史に促されてソファに座ると、達彦はとりとめのない会話を始めた。
学校のこと、妹の唯のこと、生活のこと。いままで公史と達彦が会うたびに交わしあっていた会話だが、今回に限っては虚しく空回りしていた。
達彦が無理矢理絞り出した話題に公史が乗り、二言三言会話をしてとぎれる。
彼の珍しいほどの歯切れの悪さに、公史は達彦がここにいる意味をはっきりと感じ取った。
そしてついに話題を持ち出すことを諦めた達彦はソファに深々と座り直すと、それっきり黙り込んでしまう。
しかし彼をみかねた公史は自身から話しかけた。
「親父が死んだんでしょう? 知ってますよ。昨日、警察から連絡があったんで」
「そうか」
達彦はビックリして顔を上げると、深いため息をついてまた黙ってしまった。
「親父は、なぜ死んだのでしょうか。昔から心臓は悪かったから、もしかして発作で?」
「いや。神坂さんはオフィスで倒れていて、左胸には血が広がっていた。凶器のナイフは遺体の近くで発見されたそうだ」
重々しく言った彼の言葉に、公史は沈黙してしまった。あまりにも突飛な単語が達彦の口から飛び出したのだ。
平和のはずのこの日本で、身内を亡くした者にとってはあまりにも鮮烈な言葉。
公史は信じられないと言う思いから、離れることが出来なかった。
「じゃぁつまり。親父は……」
達彦は深いのため息をついて、男性にしてはほっそりとして繊細な手で顔を覆った。左胸からの出血、発見されたナイフ、つまり明らかに人為的な事件だったのだ。
「そうだ。君のお父さんは、殺されたんだよ」
PARTU
神坂公史にとって父親という存在は、どこか別次元めいたものであった。
父の死を知らされてから幾日かが過ぎたが、公史はついに何も感慨のない自分に驚いていた。
二十年間付き合ってきた自分の父のはずが、何故か遠い存在に見えていたのだ。
そう、それは肉親の死というより、赤の他人の死。悲しいという感情の裏に、妙に冷めた自分がいた。
別に父が嫌いだったわけではない。ただこれまで、あまり話す機会がなかったのはその理由になるだろうか。
そんな彼だったから、達彦の援助のもとに行われた葬儀もいわば儀式化しており、式の最中に何度かハンカチを目にあてがったが、それは悲しみからの行動ではなく、ただあくびを隠す為だった。
ただ彼の妹は正反対の行動を示した。彼女は一晩中自室で泣き明かし、食事もとろうとしない。葬儀の時も、ついに一度も顔を上げようとはしなかった。
公史は彼女の過剰な反応が理解できなかったが、それは自分が冷たい人間だからだと思いこんだ。
しかし初めて彼が空虚を感じたのは、一段落して一息ついた後だった。
広い居間に一人でいると、まるで冬の寒さのように徐々に、しかし確実に孤独感が襲ってくる。
話はしないまでも、家にいるのといないのでは大違いだ。いつもある存在感が消失していることを、彼は知ってしまった。
(俺は肉親の死と言う衝撃に耐えきれず、感性の一部が麻痺してしまっていたのだ)
公史がそう気付くのに、時間は掛からなかった。
だがその現象は、よい方向に転んだと見て良い。兄妹二人して慌てふためいては、死んだ父親に大笑いされてしまうところだった。
不意に父親の笑顔が脳裏によぎる。短い時間であったがそれでも彼には父との思いでらしきものがあった。
あまり威厳に満ちた人ではなかったが、いつもどこかで公史達兄弟を見守っているような、不思議な暖かさがあったような気がする。
人間とは、失って初めてその存在の大切さを知る、救いがたい生物なのかも知れない。
テレビを呆然と見ながらそんなことを考えていた公史は、彼に近づいてくる人影に気がつかなかった。
「お兄ちゃん」
その言葉に我に返り振り向くと、いつの間にか妹の唯が居間に降りてきていた。
彼女はまだショックから完全に立ち直っていないのか、その大きな瞳を涙で赤く腫らせている。
もうすぐ高校三年になる唯は、兄の目から見ても美しかった。白雪のような肌と細く華奢な体付きは、彼女が持つ外面的な魅力を十二分に引き出している。
元々色素が少ないためか、その大きな瞳は淡い茶色で、時々光の配合で緑が掛かるときもあり、それがまた彼女の美しさを飾っていた。
常に公史はこの妹に対して、惜しみない助力をしてきた。
あまりに神坂兄妹の仲が良いので、友人に少なからず冷やかされたこともあったが、彼の唯に対する感情は、兄というよりも娘に対する父親のそれに近かった。
「唯……」
公史は振り向いて、ハンカチを手にしながら立ちつくしている妹を見つめた。
彼はこんなに悲しそうな彼女を見たのは初めてだった。
自分が死んだ時も、こんな顔をしてくれるのだろうかと、ふと思う。
「二人きりになっちゃったね、私たち」
鼻を啜りながら言う妹に、公史は優しい笑みを見せた。
「大丈夫、俺がいるだろう。何があっても俺はおまえを守る。だから心配するな」
「うん」
「でもよくそれだけ泣けるもんだな、俺なんて泣けもしない。自分でも驚いているくらいだ。
オヤジと血がつながっていないお前がそれだけ悲しんでいるのに、実子の俺は涙の一つも流さない。どうかしてるよな」
その言葉に唯は少し憤りを覚えた、兄は時々自分を他人扱いする。幾ら自分とは血が繋がっていなくても、彼女は公史を他人と思ったことはない。
しかし彼女はその感情を表に出すことはなく、公史の肩に軽く手を添えて微笑んだ。
「お兄ちゃんは自分が思っているほど冷たい人じゃない。ううん、きっと誰よりも優しい人だと思う。だから自分を責める。自分を悪者にする事で、人を守ろうとしてる」
だがその先は自滅という未来しか残されていない。
唯はそのことを知っていたが 、話はしなかった。
その事は人に教えてもらうことではなく、自分で気付かなくてはならない事だからだ。そうでなければ本当に理解したとはいえない。
しかし唯の心を知ってか知らずか、公史は自分の肩におかれた彼女の手をとると、黙ってそのまま居間を抜け、自分の部屋に入ってしまった。
居間にはつけ放しにされたテレビと、唯だけになった。
テレビでは未だ話題である、代議士殺人事件を大きく取り上げたドキュメント番組をやっていた。
なぜこのような事件が起きたのかを司会者と、どこかで見たようなタレント達が集まって、過去に起きた政治家暗殺事件と照らし合わせているようだ。
代議士、神坂憲一の身辺調査もオンエアされたが、唯と公史のことについては触れなかった。どうやら取材陣に圧力がかかったようで、神坂兄妹を親身にしている規崎達彦の苦労が伺われる。
番組では被害にあった代議士が、珍しく堅物な人物であるということが強調されていた。
唯のよく知る義父の顔が、ブラウン管に映し出された。
何を勘違いしているのかアイドルタレントの一人が、
「格好いいおじさんですねぇ」と緊張感のない声で言ってスタジオを笑わせる。
この瞬間、唯はこの無神経なタレントを嫌うことにした。
彼女の義父は、何者かによって殺された。
そのことについては疑う余地もなく、当然調査が進められている。しかし犯人の足取りは未だ不明のままらしい。
マスコミには報道されてないが、いくつかのテロリストと称する団体から、犯行声明のファックスが警察宛に届いたようだ。
しかしあまり信憑性はないらしい。
つまり何も分かっていないということだった。
唯はため息を付きながらテレビを消すと、リモコンを少し乱暴にテーブルの上に置いた。
They were left in the hands of fate.
翔子は青空が大好きだった。
あの大空を自由に飛べたらどんなに気持ちがよいだろうかと、憧れにも似た感情を抱いていた。
だからであろうか、彼女の友人はスチュワーデスになることを薦めてくれたが、彼女の成績がそれを拒むだろうし、何よりあの窮屈な鉄塊の中に入る気には、とうていなれなかった。
自分の力で、自分の体だけで、あの広い大空へ羽ばたくことが彼女の夢だった。
『そう、私は翔子。この名が私になったとき、私は空を翔ぶことを運命付けられた』
そして彼女は夢を叶えた。
自分の力で、雲一つない大空へ……。
彼女の体は宙を舞い、
そして、
冷たい地面に接触した。
その日、東京都江東区にて自殺事件が発生。
被害者は高層マンション内にある自宅、二十五階から墜落し、駐車場に駐車していた車のフード部分に激突後、即死。
警察は被害者が体内に子供を宿していたという事実や、遺留品から語学学校の受講予約チケットが発見されたことで、刑事事件と想定した調査を行った。
しかし手掛かりがつかめず、最終的には自殺と判断されるが……。
彼女の自殺の動機は未だ不明のままである。
PARTT
二〇〇一年 四月十五日 PM12:00[-Tokyo- The Metropolitan Police Department]
「要するにただの自殺だろう? 大して珍しい話ではない。日に何件も起こるような、ありふれた事件だ」
警視庁の廊下を足早に歩きながら、規崎俊也は表情も動かさずに端的に言い放った。
端正な顔立ち、隙のない身だしなみと身のこなし。しかし時折見せるその目つきから、 冷たい男と見られる俊也の最大の欠点はその口の悪さだろうか。
あまりにも現実的な性格を持つ彼の言葉には、氷で出来た鋭利な刃が常に潜んでいるようだった。
ある種の潔癖性なのであろうか、彼はけっして誤魔化すような言動や素振りを見せず、物事の本質を遠慮なく言ってしまうという性癖を持っており、そのせいで友人を何人もなくしているが、当人は全く気にも止めていないようだった。
勿論、彼の上司達にも俊也をよく思っていない者もいるが、俊也の家柄と能力が彼らの口に重たい錠をかけていた。
俊也の姿勢良く歩く姿が限りなく知的であるのと対象に、彼の横で必死に彼の歩調にあわせようと足早に歩いている男は、衣服の汚れ、無精髭、ボサボサの髪を全く気にしない人物のようで、こちらも違う意味で人が寄り付きそうもなかった。
彼は小汚いコートを風に靡かせながら、手にした手帳をせかせかと捲っていた。
「でもねぇ、彼女には自殺をする動機が全くなかったんだよ。
それに、おかしい点がいくつかある。ええと……」
手帳と悪戦苦闘している男に俊也は一瞥をくれると、ため息を付きながら立ち止まった。
「第一に被害者は妊娠九ヶ月の女性であること。マタニティーブルーにしてはあまりにも過剰な反応だ。
第二は二十五階という高さから落ちたこと。自殺をするには心理学の見知から言うと高すぎる。多くの自殺者は無意識に生き残ることを考え、視覚的にはそんなに高くないところから飛び降りるというデータがある。
第三に飛び降りた階には被害者の自宅があり、しかも靴を履いていなかった。靴は自宅の玄関にあったため、被害者は裸足で外に飛び出し、自殺したことになる。だからどうした?」
俊也は矢継ぎ早に言うと、面白くなさそうに眉間に皺を寄せた。
男はその言葉に、人の悪い笑顔を向ける。
「何だ知っているんじゃないか。相変わらずいやらしい性格しているな」
「よけいなお世話だ」
「それだから、いつになっても彼女ができないんだ。いい加減に直せよ、その性格」
「結構だ。俺は忙しい」
そう言うと、又歩き出す。今度は歩調も早くなり男を引き離さんばかりだったが、それでも男はしつこく付いてきた。
俊也は舌打ちをするとまた立ち止まり、苦々しい口調で言った。
「私に何をしろというんだ?」
俊也は早口に吐き捨てた。
「だからその性格を直せって」
「ちがう!」
俊也の目がつり上がった。
「はははは、まあそんなに殺気立つなよ。もう少し詳しく調べてほしいんだ、この事件。お前も怪しいと思うだろう?」
その言葉に俊也は何の表情も動かさなかった。ただ男を視線で焼き殺さんばかりに睨み付け、その場で石のように固まる。
実は、これは俊也が深くものを考えるときの癖で、男にとっては見慣れた場面だった。
ただ他人はそうは思わない。
彼がこの癖を出すと、余りの顔の険しさに大抵の者はストレスを覚え、胃に穴を開ける。
これが彼の部下を何人も胃潰瘍患者にし、結果的には彼の周りだけ、人事異動が頻繁に行われるという事態を引き起こしていた。
しかしその事にも俊也は気付いていない。
彼はすでに五分以上その場に立ち、あたりを一種異様な、緊迫感という名の空気に変えていた。
「その事件はもう解決した、今更ほじくり返して何になる」
「違う。手っ取り早く理由を付けて、解決したように見せているだけだ。
なぁ、もう一度調べてくれよ」
俊也はこの男を本気で殺そうかと思った。全く、この男はいつも無理難題をふっかけてくるのだ。
しかし彼にとってこの男は、いろいろな意味で必要な人物だった。
ここで恩を売るのもいいだろう、別にヤツの力になりたいという考えはない。俊也はそう自分に言い聞かせると、さもいやそうな口調で言った。
「人手がないんだ、調べるんだったら勝手にお前一人でやれ。俺に迷惑はかけるなよ」
俊也の言葉に男は会心の笑みを見せた。
「さすが、持つべきものは美人のねぇちゃんと、物分かりの良い上司ってモンだな。恩に着る。ラーメンぐらいはおごるぜ」
俊也はその言葉を鼻で笑い飛ばすと、あたかも彼との接触を、これ以上保ちたくないと言わんばかりに大きく靴音を響かせて去っていった。
その後ろ姿を見て、男はポケットに手を突っ込むと、音程の外れた口笛を吹きながら警視庁の玄関へ向かった。
男の名は加藤京介という。
規崎俊也とは直属ではないが上司と部下の関係であり、元同僚であり、友人だった。
俊也は警視正、京介は平の刑事だが……。
PARTU
二〇〇一年 四月十六日 PM2:35[-Tokyo- Kamisaka's home]
公史が父親の死により直面した問題は、冷徹な現実という名を冠していた。
特に金銭面の問題は大きく、彼の頭を悩ませる。
公史は早期に母を亡くし、神坂家の収入を支えるのは父親のみとなっていた。そこへ父親の死である。
神坂家の収入はゼロとなり、達彦の援助はあれど公史の相続した財産も、すぐに底をつくことは目に見えていた。
取り敢えず高校二年の唯を卒業させなければならない。出来れば大学にも行かせたいが、そこまで金が続くかは疑問である。
金を稼ぐ為には、自分の大学を辞めなくてはならないが、どうせ単位が足りなくて留年寸前だったので気にしなかった。
結局彼が行き着いた先は、「まあ、何とかなるさ」という極めて楽観的な結論だった。
「っていうことで、俺、大学辞めるわ」
大学の友達に話す口調も明るかったので、多くの人は冗談ととったが、本当に退学届を出したと判ると、途端に騒ぎ始めた。
「本気で辞める気かよ」
「せっかく苦労して二年になれるはずだったのに。勿体ない」
「辞める前に金返せ」
「頑張れよ」
「やめる前に唯ちゃんをくれ」
このような数多くの良き友人達の言葉を背に――最後の奴には渾身の鉄拳をプレゼントまでして――公史は大学を中退し、職を探し始めた。
彼が中退したことに唯は心を痛めたが、そんな彼女に公史は明るい顔を見せた。
「気にするな、何とかなるさ」
「でも……」
唯は、悲痛な表情を隠しもせずに兄に訴えた。
「私も働く、だってお兄ちゃんだけ辛い思いをさせる訳にはいかないもの」
「冗談言うな。誰が辛い思いをしているって? 俺は辞めたくて辞めたんだ、留年は格好悪いからな」
嘘は付いていない。確かに大学は、公史にとって遊びの延長線上に在るだけで、学問を続けるという気は毛頭なかった。
しかしこの不況の中、すぐに就職先が見つかるはずがないことは彼にも判っていた。それだけはどうにも成らない。
大学を辞めてから公史は、就職情報誌を片手に歩き回っていたが、予想以上の就職難に絶望し掛けていた。
いくら就職難と言っても、会社を二、三件回ればどこかで引っかかるだろうと思っていたが、それは甘い考えでしかなかったらしい。
「冗談きついぜ」
心地よく暖かい風の吹く真昼の公園のベンチに座りながら、公史はため息混じりにつぶやいた。
あれから数日間が虚しく過ぎさり、手にした情報誌もボロボロになりつつある。
しかし未だ職は決まっていない。取りあえず幾つか面接を終えていたものの、面接官のあの表情では安心する事は難しかった。
「お父さん死んじゃったの、へえ、大変だねえ」
大学を辞めて就職しようとした理由を話したとき、大抵の面接官はそう言った。
しかしその言葉には感情の欠片もなく、 社交辞令以外の何ものでもなかった。
その後に続く言葉は容易に予想できる。
『でも、この成績じゃねぇ』
あの時の面接官の顔を思い出して、公史は胸のむかつきを覚えた。
「糞っ」
公史はベンチの肘掛けに拳を振り下ろした。拳全体に痛みが広がり、その痛みが薄れるにつれて、心にわだかまる怒気も薄れていったが、しかしそれと同時に悔しさがこみ上げてきた。
「まだまだ、諦めてたまるか」
その時、公史の脳裏に唯の笑顔がよぎった。
PARTV
兄の公史が就職活動に駆け回っている頃、唯は家でまんじりとしない生活を送っていた。
とりあえず高校三年になったので、二年の総復習をかねて自室で勉強しようとしたが、全く頭に入らない。
兄は大学へ行くための勉強をしろと言ったが、今の状況で大学に行こうなど考えもしていなかった。
「卒業したらお兄ちゃんを助ける」
決意にも似た感情を唯は抱いていた。
いっそのこと高校も辞めようかとも思ったが、それを言葉に出すと兄は決まって悲しい目をしながら首を横に振った。
「お前は俺と違って頭がいいんだ、その才能をこんなことぐらいで潰すな。大丈夫、心配するなよ。大学へ行かせるくらいの金はある。オヤジが結構溜め込んでたからな」
兄はそう言っていたが、実際いくら銀行にあるのかは教えてはくれなかった。
自分に気を使っての行為だとは判っていたが、本当のことを話してほしい。そう幾度となく兄に訴えようとしたが、彼は家に帰ると直ぐに部屋に引き籠もってしまい、話す間もなく幾日かが過ぎた。
唯は、日に日に疲れ果ててゆく兄を見るのが耐えられなかった。
しかしだからといって金銭的な問題がある以上、兄を止めることはできない。
結局、他人に頼らなくては生きていけない自分が歯痒かった。
「ハァ」
唯はため息をつくと勉強することを諦め、ベッドに身を投げ出した。見慣れた空間が、彼女の心を少し落ち着かせる。
天使をあしらった時計が机の上で無益な時を刻んでいた。
自分はいったい何のために生まれてきたのだろうか。唯は時々そんなことを考える。
その思いは気分が落ち込んでいるときに限って、強く心に突き刺さった。悩みではない、不安。そう、唯は常に不安を抱いて生きてきた。
自分は人に必要とされているのだろうか、嫌われてはいないだろうか。夜になるとその日の失敗が克明に思い描かれ、彼女の胸をわし掴みにする。
唯はそんな自分が嫌いだった。結局自分は人を信じることが出来ない。
それでいて、人に依存しなくては生きていけない自分。人心が離れていくことを極端に恐れる自分。
そんな自分があまりにも矮小で、薄汚い人間に思えてならなかった。
唯は自身の汚点を隠すように、普段は明るく陽気に振る舞った。友人達と話しているときは、嫌な自分を忘れられる。
「お買い物にでも出かけようかな」
このまま家に閉じ籠もっていては、気分が暗くなる一方だ。
唯は思いきり上半身を起こすと、窓から射し込む陽の光を感じながら暫く呆けた。
今日もいい天気だ。
こんな日は外に出て、町を歩くのが健全な過ごし方だろう。新しい服を見定めに行くのも良いかもしれない。持ち金は雀の涙程だけれど、何も買わなければ問題はないのだし。
彼女はそう考えると鏡台の前に座った。
引き出しの中から白いコンパクトをとりだし、手早く頬に薄く化粧を施すと、お気に入りの鞄を手にとって、玄関から外に飛び出した。
春の香りにあふれたそよ風が、彼女の長くやわらかな髪を撫でる。
「さて、どこからいこうかな」
そう呟きながら唯は、何気なく自宅を見上げた。
神坂邸は広くはなかったが、町の中央付近に建てられた古い一軒家であった。
家も土地も全て父親の所有物だったので、その所有権は兄の公史に自動的に譲渡された。
小さいながらも庭があり、子供の頃ここで花火をした思い出がある。そのときも父親は仕事があると言って部屋に籠もっていたが、兄の公史と一緒なら寂しくはなかった。
小さい頃の思い出を反芻しながら、唯は歩き出した。彼女の楽しい思い出の中には、常に兄の姿がある。彼女にとって公史は、唯一全面的に信頼の出来る存在であり、良き理解者だった。
兄だけは絶対に自分を裏切らない。唯はそう確信していた。
これまでも、そして、これからも。
彼女は思い出にふけりながら、公園に続く道を歩いていた。商店街へ行くには少し遠回りだったが、公園に咲く花々を見る為には苦にならない。
桜は早くも散り始めているが、それが得もいえぬ美しさを持っていた。其処を通り抜ければ、少しは気が晴れるかもしれない。
彼女の視界に見慣れた風景が広がった。
PARTW
二〇〇一年 四月十六日 PM3:00[-Tokyo- The Metropolitan Police Department]
京介が自殺事件の総ざらいをするために最初に足を運んだのは、田島翔子の死体が安置されてある警察病院だった。
二十五階から転落した死体など見たくもなかったが、少しでも手掛かりを得るためには仕方がない。
京介は気合いを入れて病院内に入ると、待合室でこれから出会う死体の情報を確認しようとした。
あちこちポケットを探り、はたして一枚の潰れた紙切れを探し当てると、ガサガサと紙を開いて伸ばす。
死体の名前は田島翔子。年齢は二十八歳、女性。両親が海外へ旅行中、マンションの屋上から投身自殺。両親による死体確認は終了。
ただし遺書等は見つかっていない。
初めは警察も他殺事件の可能性大と見ていたが、捜査の結果により自殺とみなされた。
これは他殺事件にするほどの証拠がなかったというのが正直な話で、そうなった以上は資金面の都合から考えて、手を引かざるを得なかったのが現状だった。
京介はそこが気に食わなかった。何か他の、重要なモノを見落としているように思えてならない。
刑事の勘と言ってしまえば俊也に鼻で笑われそうだが、彼は自分の勘を信じていた。
「まあ、この先のことはいずれ判るだろう」
京介はそう考えると、紙を無造作にポケットにねじ込む。
そして暫く呆けていると、検死官が京介の所に歩いてくるのが見えた。その姿を見て、京介はもう一度気合いを入れ直す。
これから見なくてはならない死体の惨状は、容易に想像できる。死体と対面して、そのまま気絶という醜態はさらしたくない。
だが京介のその覚悟は空振りに終わった。
「死体が無くなったとは、どういうことだ?」
このとき京介は怒鳴るでもなく、不気味な優しささえ称えながら言ったので、問われた検死官はその笑みに明らかに安堵した。
(この刑事は優しい人らしい)
そう感じると、検死官は今まで会った刑事を思いだした。彼は自分が悪いわけではないのに、少しでもミスを見つけると、誰彼かまわず当たり散らす刑事という輩が嫌いだった。
しかし残念なことに彼の目の前にいる刑事は、これまで会った中で一番凶暴な刑事だった。
安心しきった検死官は、京介に最高の愛想笑いを浮かべながら言い訳を吐き出そうとしたが、その時彼にとって想像を絶する出来事が起こった。
京介が微笑みながら検死官の襟首を鷲掴みにすると、強引に顔の近くまで引き寄せたのだ。
「説明しろや」
京介の顔が瞬間的に悪魔の形相に変わる。目には殺意の光が灯り、下手な言い訳などしたらその場で噛み殺されそうな勢いがあった。
「ぼ、ぼ、暴力は止めてください。ひ、人を呼びますよ」
検死官は京介の手から必死に逃れようとしたが、彼の厳つい腕は執拗にも放さない。
しかも京介は片手を放すと、今度はその手で検死官の髪をつかんだ。
「誰がそんなことを言えと言った? この小さい脳味噌でよく思い出して見ろ。俺はなんと言った?」
髪を掴まれ、その苦痛に顔を歪ませた検死官は、苦痛とそれに勝る屈辱で顔を真っ赤にした。短い悲鳴を上げながら、京介の手を引き剥がそうとする。しかしそれも叶わぬと見ると、検死官は観念したように口を開いた。
「せ、説明を……」
この言葉を聞いたとき、京介は口元をつり上げた、周囲の人にはそれが悪鬼の笑いに見えただろう。
「良くできた、お前頭良いな。ついでに出来るなら死体が安置されてあった場所も見たいんだが」
「わ、判りました。判りましたから放してください!」
「ん? おっと、ごめんな。時々この手は勝手に動くんだ」
京介は検死官を放すと、軽く彼の肩をはたいた。
「じゃ、案内してもらおうか」
そう言う京介の顔は、いつもの柔和で無害な表情に戻っていた。
二時間後、京介は病院近くの電話ボックスへ移動していた。
ガラス張りの小綺麗な箱の中に入ると、くたびれた鞄の中からハンディコンピュータの端末を取り出して電話につなげる。
そして右手に持ったペン型の入力装置で手早く何かを入力し、その情報を送ると。彼の身なりからは場違いなほどの高価そうな端末は、彼の手足のようにスムーズに機能した。
そしてコンピューターが全ての情報を吐き出し終えると、京介は警視庁に携帯電話を掛けた。
「私だ」
電話の向こうから聞き慣れた声が聞こえると、京介は挨拶もせずに話題を切り出した。
「例の死体が消失したぞ、お前知っていたか?」
「いや、初耳だ」
「てっきりお前の悪戯かと思ったが」
俊也は京介の質の悪い冗談を聞いて、不機嫌になったようだ。
「冗談はよせ、そんな暇あるわけがない。それで?」
そう憮然と言う俊也に、京介は素知らぬ振りをして続ける。
「三日前、病院の死体置き場から死体が数体盗まれたそうだ。お前が知らないとは、部下の教育がなってないな」
「ふん、おおかた懲罰が怖くて黙っていたんだろう。いつものことさ、で、手掛かりが無くなったと泣きついてきたのか?」
「いや、頼みの綱は後一つある。アポイントは今取った」
「MAGI、か。余り関わり合いたくはないが」
俊也の口調が苦々しさを帯びた。
「心配するな、餅は餅屋さ」
京介は努めて明るく言ったが、それが本当に信頼に値するかは彼自身にも判らない。
MAGI。それは国際的な規模を持った情報収集組織の総称。
情報会社と言えば聞こえは良いが、この組織で取り扱っている情報は、合法、非合法を問わない。
どこの組織からも中立の立場をとり、酷いときには双方の敵である組織に、互いの弱点を教える事も厭わない情報会社。
その組織を頼ると、京介は言ったのである。捜査の方法にある種の潔癖さを求める俊也にとって、情報屋というモノは手を触れ難い危険な集団だった。
確かにこれまでMAGIは彼等に友好的であったが、これからもそうだとは限らないのだ。仲間だと思い込んで、いざというときに手のひらを返されては困る。
しかし俊也は自分の感情を押し殺した、止めろと言って止める京介ではないことは、長い付き合いの経験上判っていたし、京介もその種の危険に気付いていない訳はない。
俊也は事を京介に一任し、話題を変えようと試みた。
「勝手にしろ。こちらにも動きがあった」
「関係ありそうなヤツか?」
不謹慎にも声が高まる京介に、俊也は又、顔をしかめた。彼の目が輝きだす様が、容易に想像できる。
「板橋区の公園で殺人事件が発生した。喧嘩が高じてのことらしいが」
「そりゃあ。言っちゃ悪いがありきたりの事件だな、それと俺の事件とどういう関係があるんだ?」
「被害者と加害者は、共に妊娠中の女性だ」
俊也の抑揚のない口調が、京介に戦慄を与えた。彼の皮膚を泡立たせる何かを、彼はその口調から感じ取ったようだ。
「妊婦……」
しかし俊也は京介の反応をよそに、極めて冷静に続ける。
「第一発見者は神坂唯。発見後はその場で気絶、今は都内にある海桜総合病院に収容されたが未だ意識はない。通報は第二発見者である篠原孝子から。
彼女によると加害者は被害者を殺した後、狂ったように笑っていたそうだ」
「加害者が精神科にかかった経歴は?」
「知るか、まだ其処まで調査できているわけないだろう。つい先ほど入った情報だからな」
京介は唇の片端を上げた。この事件は関係が深そうだ。被害者には悪いが、手掛かりの糸口が見えたような気がする。
京介は現場の詳しい場所を俊也から聞くと、ボロボロに使い込まれたメモ帳に手早く書き込んだ。
PARTX
二〇〇一年 四月十六日 PM4:47[-Tokyo- City]
多くの人々が行き交う桜並木の中を、公史は力無く歩いていた。暖かな風も、柔らかい日差しも彼に何の感銘も与えず、ただ横をすり抜けて行く。
公史は半分挫けかけていた。
今まで賢明に職探しに励んできたが─―実際彼がこれほど賢明に事を進めたのは、生まれて初めての事だった。
だがほとんどが門前払いに近い状態で追い返され、いままで期待の持てる返事が返ってきたためしがなかった。
しかし唯の心配を笑って一蹴してしまった以上、泣き言など言えるはずもなく、彼女の前では虚勢を張り続けていた。
「心配するな」という言葉も次第に力をなくし、今ではただお茶を濁しながら、出来るだけ就職のことを話題に出さないようにしている始末。
公史は切実に、もっと勉強しておけば良かったと後悔していた。
ただ時すでに遅く、彼の今の実力で就職という高い壁を乗り越えなければならず、後悔する時間は無駄でしかなかった。
唯も馬鹿ではないからこの状況は薄々感じているだろうが、それでも公史は妹を早く安心させてやりたかった。これ以上彼女の胸を痛めさせたくはない。
唯は繊細な心の持ち主で、冗談で言われた悪口でも傷つくことがあった。
未だ子供の頃、彼女の細すぎる体を針金にたとえた者がいたが、その時も唯の心にしこりが残った。その場では笑っていたが、家に帰った途端泣き出して公史を困惑させたことがある。
この一件からしても、彼女の心の弱さは明白だった。だから公史は常に妹を守る立場にあった。
生前の父は仕事に忙しく、子供にかまけている暇はなかったし、母親は公史が六歳の時に死去していたので、彼女の心を支える人物は兄である彼しかいなかった。
しかも元々唯は孤児で公史との血の繋がりは全くなく、ある日突然、彼女を連れてきた父から唯を守るように言われてもいたので、公史の妹を守るという思いは強かった。
昔、唯はその性格上虐められることが多かったが、公史はそのいじめっ子達を片端から叩きのめし、彼女の前で土下座をさせたこともある。
さすがに唯も一七歳の今では成長し、他人との付き合い方も覚えてきたので、虐められて泣くということはなくなったが、公史は唯の基本的な性格――繊細で傷つきやすい心が変わったのではなく、ただ奥底に隠れただけということを知っていた。
この様な彼女だったから、公史の今の状況を安穏と受け止める事が出来るはずはないことを、彼はよく理解していた。
しかしいくら理解していても、現実は彼の思い通りには動くことはなく、今までだらけながら送ってきた日々を責めるかのように、試練を与え続けている。
残る募集要項はただ一つ。この会社に蹴られたら、彼の行く所が無くなる。ここでだめなら、アルバイトで道路工事の仕事でもするしかない。
公史は祈るような気持ちで、その会社へ続く道を進んだ。
『株式会社WATCH JAPAN』
それがこの会社の名前だ。十二年前に設立され、主に社会誌やゴシップ誌を出版している。歯に衣を着せない文章構成が祟って告訴騒ぎが絶えない会社だが、雑誌の売り上げは好調らしい。公史は余りゴシップ誌と言うものが好きではなかったが、この際職に就ければどうでも良かった。
しかし幾らどうでも良くても、この会社を志望した動機を決めなければならない。だが公史は、その動機というものを未だ見つけることが出来ていなかった。
彼は自分の考えている事が言葉に出てしまうのも気付かぬようで、ズボンのポケットに手を突っ込み、ブツブツと地面に向かって呟きながら歩く姿は、端から見ると常人には見えなかった。
すれ違う人々が彼を好奇の目で振り返り、女子学生達は彼に向けてあからさまに笑い声をたてる。
通常なら、すぐに自分の行動の奇妙さに気付いても良いはずだったが、深刻な――と彼が思い込んでいる――問題を抱える公史に、周りのことを気にする余裕などなかった。
「嫌いな職種に就くための動機なんか、ただ金が欲しいだけに決まってるじゃないか」
そう呟いて手を顎にやったその時、突然公史の体が何かに突き飛ばされた。彼は地面ばかり見ていたので避けられるはずもなく、勢い良く地面に倒れてしまった。彼はしたたかに腰を打ち付け、痛みに顔を歪ませた。
「何すんだてめえ!」
怒気を露わにした公史は、立ち上がると同時に彼を突き飛ばした物――有り触れた、ただの電柱に罵った。
彼は四、五秒その場で立ちつくし、自分の身に何が起きたか理解すると、羞恥に顔を赤らめる。
慌てて周囲を見るが、彼の視線に気付いた通行人は目をそらし、何事もなかった様に通り過ぎて行った。
公史は気まずそうに電柱を見上げると、それを八つ当たり気味に、軽く蹴った。
近頃さっぱりツキに見放されているようだ、そんなことを考えながら、この場を早く立ち去ろうと歩を進める。
しかし、こういう時に限って周りの人達の反応が良く判るもので、小さな笑い声でさえ、それが彼に向けられたものではなくても、彼の羞恥心を刺激して止まない。
結局公史は目的の会社前に辿り着いても、その動機を考えつくことは出来なかった。
「まぁでも、なんとかなるかな?」
暫く玄関前に立ちつくして考えたが、持ち前の楽天思想が彼の脳裏を走り去った。
いつもこの調子で面接にのぞみ、やはり何ともならなかったのだが、そんな暗い過去はとうの昔に、彼の記憶から飛び去っていた。
「前の面接では運がなかっただけさ」
楽天思考に楽天思考を重ねることで自身をだます事に成功した公史は、颯爽と玄関のガラス製の自動ドアを通り抜ける。
しかしそれを見越したかのように携帯電話の呼び出し音が鳴り、公史はまた玄関から外へ出て携帯を鞄の中から取りだした。
送信者は神坂唯。
唯からの電話なら下らない用事ではないと確信した公史は、作り声に笑みさえ浮かべて明るく答えた。
「はい、公史だけど」
そう答えた公史の耳に飛び込んできた声は、いつも聞き慣れた妹のものではなく、覚えのない男の野太い声だった。
「あっ、ええと、神坂公史さんですか?
私は警視庁捜査一課の加藤京介というものです。神坂唯さんの携帯電話を拝借してかけているのですが……。
じつは唯さんが事件に巻き込まれて今病院に……」
公史は携帯電話を持ったまま、鞄もかなぐり捨てて走り出した。
PARTZ
暗闇の中に、懐かしい声が響く。
いや、彼女にはそれが何を言ってるのかは解らない。
しかしそれは、心の中に暖かな風を運ぶ音だった。
「パパ」
彼女がその言葉を口にしたとたん、今までの暗闇から一変し、奇妙な情景が眼前に現れた。
丸眼鏡をかけた白衣姿の男が、分厚いガラスを隔てて立っている。
彼の周りにあるものは、赤と黄色に点滅する光点と、見たこともない機械の群だった。木の根を思わせるような太い金属製のパイプが、 天井を縦横無尽に走っている。
記憶にない不思議な場所。
しかし彼女はこの奇異な空間にすら安らぎを感じていた。
ふと白衣の男が微笑みかける。彼女は彼の笑顔が大好きだった。
そして未だ白く小さな手を動かし、その喜びを体中に表現しようとすると、彼女を取り巻く白濁した液体が、動きに合わせて循環し始めた。
「パパ」
二〇〇一年 四月十六日 PM5:32 [-Tokyo- Kaiou hospital]
「あなたが、神坂公史さんですか」
公史が息を切らせながらもどかしげに病院の扉をくぐると、彼に話しかけてきた男はにこにこと笑みを浮かべながら、懐から警察手帳を取りだした。
「いやぁ、神坂唯さんの手荷物に貴方の写真と連絡先があったので、勝手に拝見させていただきました。
お待ちしていましたよ。今回はとんだことになってしまって」
どこか間延びしている口調で話す刑事に、公史は苛立ちを感じた。
実際、この男と話すよりいち早く唯の所に駆けつけたかった。
公史は刑事に愛想笑いをしてやり過ごそうとすると、男は公史の進路にうまく入り込んでそれを遮る。
「ああっと、ちょっと待ってくださいよ。ご心配なのは解りますが、こちらも仕事でしてね。
神坂公史さん。ご兄妹でいらっしゃいますか? あ、申し遅れました私、加藤と言います」
「妹です」
公史は仕方なく、加藤と名乗った男に迷惑そうな表情を浮かべて答えた。実際、公史にとってははなはだ迷惑だった。
唯が倒れたことを連絡してくれたことには感謝はするが、この男は人間が持っているべき情というものが解らないのだろうか?
「なるほど、お兄さんですか。いやぁ大変でしたね」
「唯は? 妹はどこですか?」
真剣な眼差しで問いかける公史に加藤――京介は気圧されたか、表情をいつもの柔和なものから変化させた。
さすがに相手の親族が危機に陥ったのに、ずっとへらへらしているわけにはいかない。京介としては公史が錯乱状態であることを見越して、努めて平静に対処したつもりだったが、どうやらその必要はなかったようだった。
「唯さんはつい先ほど発生した事件を目撃してしまい、気絶されました。
今病室で安静にされてますが、未だ意識は回復してません。外傷はほとんどないのでそんなに心配はいらない、との医師の診断です。
何にせよ事件の第一発見者なので、私としても是非 彼女からそのときの様子を聞きたかったのですが」
「唯に会えますか?」
「ええもちろん。ご案内いたしましょう」
京介はそう言うと、公史を促して歩き始めた。
公史はこのとき、一種の罪悪感めいたものを感じていた。
今までの生活をかえりみても、唯に精神的な負荷をかけていることはわかっていた。
そんな過程の中での凄惨な殺人事件の目撃は、彼女の心にどれだけの負担を課したか想像もつかない。
「俺のせいだ」
公史は理由もなくそう思った。自分がしっかりしていればこの様なことにはならなかったはず。自分の不甲斐なさがついに妹までも巻き込んでしまった、と自己嫌悪に陥いってしまった。
こと妹に関しては彼の持ち前の楽天思考はその姿も見せず、果てしなく落ち込んでいく。
そんな公史を、京介は後ろ目で見ていた。
茶色に染めた肩まで掛かる髪という、今時の若者に多いスタイルのわりには、それがあたかも彼のためにあるファッションのように似合っている。一見するとどこにでも居そうな若者だが、他と明らかに違うところはその眼光の鋭さだった。
この目は京介がよく知っている男も持ち合わせている、自分自身に己の法を課しているプライドの高い人間の目だった。
しかし何か家庭に事情があるようで、彼は病室に赴く道程、始終無言で時々唇をかみしめているように見える。
事件と関係のない人間関係などは無闇に聞かないのが鉄則だが、京介はなぜかこの男の事が気になっていた。今までの人間観察でのカンから、神坂公史という男は何かを焦っているようにも思える。
それに神坂という姓が引っかかっていた。どこかで聞いたことがあるような、彼の顔も見覚えがある。
「ああ!」
突然立ち止まって大きな声をあげた京介に、公史は驚いて顔を上げた。
しかしそれと同時に彼に今までわだかまっていた陰気が消し飛び、その呪縛から放たれる。
公史は怪訝な顔をして京介を見たが、彼は廊下の真ん中で手を合わせたまま固まっていた。
「あの、どうかしましたか?」
「あなた、神坂憲一氏のご子息様ですか!」
「は? はい、そうですが?」
「どうりで聴き覚えのあるお名前だと思いましたよ。貴方のことは その……あの事件を担当している者から聞いたことがありましてね」
事件の担当者とは規崎俊也の事だった。
彼の幾つか指揮している特別捜査本部の中に神坂憲一殺人事件があって、京介はその捜査からは外れていたが、何度か資料を俊也に見せてもらったことがある。
これはれっきとした捜査情報漏洩なのだが、京介としてはあまり気にしなかった。
しかし俊也は始めから京介をこの捜査に引き入れたかったのだろう。
だからこそ資料を見せ、いつ捜査に絡ませようかと考えていたに違いない。そして今回の事件が起こった。
俊也としては思いがけない事態だったが、これ幸いと京介に情報を流して食いつかせる。
彼のやりそうな手口だった。
京介は瞬時に俊也のいわんとすることを読みとっていた。
『下らない捜査をしてるんだったら、こっちを手伝え』と渋い顔をして言う姿が想像される。
「くっそ! あの野郎やけに素直に情報くれたと思ったら、そういうことかっ!」
「は?」
「いやいや、こっちの話です。しかし、先日の事といい今回のことといい、大変ですな」
京介は無理矢理神妙な顔をしたが、その顔はどことなく引きつっていた。公史はその表情をみて不思議に思ったのか、軽く相づちをするだけにとどめる。
「父の事件は、どこまでわかったのでしょうか?」
笑顔を張り付かせたまま再び歩を進める京介に、公史は何となく居心地の悪さを感じながらも問いかけた。
「はぁ、私は担当ではないのでよくはわかりません。
しかし、正直言って難航してるようでしてね、証拠となるモノはあってもそこから糸口がつかめない。しかも不審者の目撃情報も無いときている。
実際、なにをどうやって調べたらいいかわからないのが現状でしょう」
「はぁ」
「あ、いや、でも私たちは全力で犯人逮捕に向けて努力していますので、絶対に事件解決して見せますよ」
京介はそう取り繕ったが前の失言が消えるはずもなく、またもや会話がとぎれてしまった。
しかし公史はどちらかというとほかのことに気を取られていて、京介の言葉も聞き流してしまっているらしかった。
「妹さんの事。心配そうですねぇ」
「え?」
京介の言葉に弾かれたように公史は反応した。
「いや、私との会話も上の空のようでしたので、失礼しました」
「いえ、ちょっと考え事をしていたので……。すみません」
「いいんですよ、大事な妹さんがこの様なことになってしまったのです。心中お察ししますよ」
「はい」
「私もね、仕事柄色々な家族に会ってきましたよ。他人行儀な家族。相続しか目がいかない家族。
分かるんですよねやっぱり他人でも、その家族の絆が薄れていることがね。
でもあなたの家族は違うようですな。うらやましい限りですよ」
公史はこの言葉にまた口をつぐんでしまった。京介も無理に会話を続けることはせずに口を閉ざす。病院の廊下は見舞客や患者、巡回にまわる医師たちが行き交い、二人を、まるで存在しないかのように通り過ぎていく。
そのまま二人は一言も言葉を交わさずに、廊下奥にある病室の扉の前に辿り着いた。
白い横開きの扉を、窓から射し込む夕日が赤く染めていた。それは、公史には暖かそうな色彩とは裏腹に、なぜか肌寒く感じられた。
この中に唯がいる。この中に唯が閉じこめられている。
公史は再び自己嫌悪が鎌首をもたげてくるのを感じた。何でこんな事になってしまったのだろう?
「ここです」
京介に促されて、公史は病室に足を踏み入れた。
広くもない個室に、唯は寝かされていた。開け放たれたカーテン、窓に映る赤く染まった空が公史の目に飛び込んでくる。白い壁、白いベッド。清潔さをイメージさせる色彩がかえって無機質に見え、周囲に冷たい空気を形作っていた。
「唯……」
公史は寝ている唯に近づき呼びかけたが、彼女は目を覚ます様子が無かった。しかし定期的に上下する彼女の胸を見て、少し安心する。
気絶だけなのだからそんなに心配することもないだろうが、やはり唯の顔を見るとホッとした。
「唯は何を見たのでしょうか?」
「殺人事件の現場、です。かなりショックだったでしょうな。しかも若い女の子だ、気絶するのも無理はありません」
「その事件の犯人は、もう捕まっているのでしょうか?」
「はい。現行犯逮捕しました。もうこれ以上あんな事件は起こりませんよ。
先ほども申し上げたとおり、妹さんは犯罪を目撃して気絶されました。医師の診断によれば一時的なショックを受けただけだそうですので、しばらく安静にしていればいずれ目を覚ますとのことです」
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません」
「いや、貴方や彼女の責任ではありません。彼女は運が悪かっただけですよ。起きられた後もしばらくは精神的なトラウマが残る可能性もありますが、それは時間が解決してくれるでしょう。もし必要なら、腕のいいカウンセラーを紹介しますよ」
「わかりました」
公史は神妙な表情で京介の言葉を受け取った。精神的に傷を負うことがどういう意味を持つのかはわからなかったが、正直ありがたいと感じていた。
京介と初めて会ったときはあれほど腹を立てていたのに、そんなに時間もたっていないのにも関わらず感謝の気持さえ持ち始めた自分に驚く。
これが京介という刑事のカリスマ性、ということなのだろうか。
公史が謝罪と礼を述べると、京介は屈託のない口調で「これも職務ですから」と少しおどけた。
「刑事なんて職業はね、人に恨まれてナンボなんです。テレビドラマとかに出てくるように格好いいわけじゃない。なにか失敗をすれば世間様に袋叩きにあうし、その割には給料安いし。私の同僚にも、胃潰瘍が持病ってやつが何人もいますよ。ハハハ」
京介は笑いながらそう言って、
「まぁほかに取り柄がないから、辞めるわけにもいかないんですがね」
と、今度は大笑いしはじめた。
「はぁ」
公史はどう答えたらいいのか分からず愛想笑いをしてやり過ごすと、京介も病室で大笑いする愚考に気付いたのか、エヘンと咳払いをしたあと、
「今日は彼女に何も聞けそうにないので、帰ります」
と言ってそそくさと病室を出ていってしまった。
公史は京介を病室越しに見送った後、改めて唯の寝顔をのぞき込んだ。
『あなたの家族は違うようですな。うらやましい限りですよ』
京介の言葉が公史の脳裏をよぎる。
うらやましい? 他人にはそう見えるのだろうか?。
母が病死し、父が殺され、唯と公史だけが残った。しかもその妹は実は血の繋がりもなく、法的に兄妹と認められているだけの脆い絆なのに。
しかし公史は、自分たち兄妹がどれだけ奇妙なものでも、最後に残ったこの絆だけは守りたいと思っていた。
「でも俺が情けないから、唯に心配かけさせちゃったかな」
公史は暫く唯の看病に専念しようと決心すると、いったん家に帰って唯の着替えや身の回りのものを取ってこようと考た。
就職の事は気になったが、面接試験をすっぽかして病院に駆け付けた以上、あきらめるほかはないようだ。
「またくるからな」
公史はそう声をかけると、病室をあとにした。
PART[
二〇〇一年 四月十六日 PM6:20[-Tokyo- City]
『もうこれ以上あんな事件は起こりませんよ』
病院を出てすぐに警視庁に戻る気も起こらず、事件の調査がてら近くの公園のベンチで一服していた京介は、神坂公史へ向けた自らの言葉を反芻していた。
『あんな事件は起こらない』
刑事は時に自分も信じていないことを、あたかも自信があるかのように振る舞うときがある。
昔、刑事物の洋画で、
『刑事は嘘をつく職業ではなく、嘘を扱う職業なのです』
と主人公が言う場面があったが、それはあまりにも美化しすぎているように京介は思えた。
たとえ相手を安心させなくてはならないとしても、嘘は嘘だ。
「あんな事件は起こらない、か」
京介はだんだんと薄暗くなってきた空を見ながら呟いた。
(ほんとうにそうだろうか?)
もしこの事件が田島翔子の事件と何か関係があるとすれば、この次はないという保証はない。
しかし関係が全くないという可能性だってあるのだ。
田島翔子の自殺、そして今回の殺人事件、この二つに共通する点はただ一つ、子を体内に宿していたと言うことだけだ。偶然と言うだけで済ませることも出来るが……。
だが、偶然で済ませる要因もない。
京介はくわえたタバコを地面に投げ捨て立ち上がると、ブラブラと公園を歩き出した。
そうしながら、事件に係わった人物たちの生活環境を思い返してみる。
マンションの二十五階から飛び降りた田島翔子は、両親と三人で暮らしていた。彼女は未婚の母で夫がおらず、両親が海外旅行に行くときも ソフトウェア開発の仕事が忙しいと言ってついてはいかなかった。
両親は再三、翔子のおなかの子の父親を問うたが、彼女は結局最後まで男の名はあかさなかったようで、警察の調査でも分からず終いだった。
彼女の同僚の話では、彼女はプライドが高く、いつも社内の男性を敵視していたらしい。
未だ男尊女卑の残る企業の中で、彼女は必死になって高い地位を築いてきたようだ。
翔子にとって男性とは彼女の足を引っ張る存在でしかなく、下で働く女性でさえも自立できないハンパ者とさげずんでいたという。
そして彼女は社内で孤立した。
先の調査ではこの事がストレスを生み、自殺の原因に繋がったのではないかという報告がなされている。
たしかに、あり得ない話ではない。
ただやはり気になるのは、遺書がないことや玄関から裸足で飛び出していること、さらに遺留品の中には、その日に買ったのであろう語学学校の、レッスンチケットが発見されたことだ。
これから死のうと思っている人間が語学学校に通い、レッスンの予約を取るというのも妙な話だ。このことから警視庁では捜査本部を編成し、十二ヶ月にわたる捜査を行ってきたが進展せず、ついには解散となった。
進展しなかった理由としてはプライベートで付き合っていた友人関係が極端に乏しく、聞き込み調査が思うように出来なかったのが原因の一つで、情報があまりにも少なかったのと、それとは逆にあまりにも殺人動機がありそうな人間が多く、警察の判断を鈍らせたことが挙げられる。
現在、彼女の遺体は消失。捜索が行われている。
そして今回の事件は、現場である板橋区の公園で突然狂ったように叫びだした加害者――小泉真奈美(二十二歳)が被害者――須藤康子(三十八歳)を、そのとき持っていた果物ナイフで刺したというものだ。
加害者の小泉真奈美には商社に勤めている小泉哲郎という夫がおり、結婚生活三年目を来月に迎えようとしていた。
家庭生活は円満だったらしく専業主婦だったので、これといって目立った情報は得られなかったが、被害者である須藤康子に度々嫌みのような言葉を言われていたらしい。
須藤康子の口の悪さは他の主婦達にも定評であり、彼女を嫌う人も少なからずいたようで、この事件の時も、二人は公園でたわいのない会話をしていたという。
規崎俊也にこの事件の情報をもらったとき、京介は真っ先に小泉真奈美に会いに行ったが、そこで彼が見たものは、猿ぐつわを咬まされて、さらに病院のベッドに拘束具によって縛り付けられている真奈美の姿だった。
逮捕後に連行した警官の話によると、真奈美は手錠をかけられてからは一時大人しくなったが、パトカーの中で再度暴れだし、最後には舌を噛み切ろうとしたという。
警官はそれを何とか阻止したが真奈美の暴走は収まらず、急きょ病院へ向かうことにしたそうだ。
そして、真奈美の自殺未遂を阻止した警官は指を噛み切られ、重体。
その他パトカーに同乗していた警官も重軽傷を負った。
真奈美を乗せていたパトカーの惨状は驚くべきもので、屋根は内側から突き破られ、左前部座席は折損。そのシートは引き千切られていて、おおよそ人間がおこなった破壊活動とは想像が出来なかったが、アメのように曲がった手錠が車内に残されており、その時の真奈美の異様な怪力を物語っていた。
暴走後の真奈美は気を失い、病院のベッドに拘束された。本来ならば睡眠薬や精神安定剤を投与されるはずだったが、彼女が宿している胎児の事を考えるとそれはできなかった。
警察側からの連絡を受けた小泉哲郎はすぐさま病院に駆け付けたが、妻の変わり果てた姿を見て錯乱してしまったので、こちらは精神安定剤を投与されて、今は別室で安静にさせられているはずだ。
ここまで問題を整理すると、自ずと次の捜査計画が京介の頭の中で組み上げられていく。
といっても、京介の行動指針はその選択肢を狭められざるをえなかった。
田島翔子の死体はその捜索に時間がかかるだろうし、真奈美の凶行を目撃した神坂唯は未だ目覚めていない。そして真奈美も、その夫である哲郎も話が出来るような状態ではないだろう。
公園を出た京介はタクシーを拾い、真奈美の入院する病院へ向かった。目的はあらかじめ医師に頼んでおいた彼女の脳波と血液の検査結果を聞くためだ。
このとき、京介はおぼろげに薬物か何かが絡んでいる事件だと践んでいた。真奈美の発狂と異常な力の発揮。その原因が麻薬の類だと考えていたのだが……。
その検査結果は、彼の想像を遙かに超えていた。
二〇〇一年 四月十六日 PM7:10 [-Tokyo- Tokyo Ousei Hospital]
「小泉真奈美が脳死しているんですか!」
病院の診察室で、早川と名乗った初老の医師から告げられた事実に、京介はただ愕然としていた。
早川医師もあり得ぬ事態に押し黙ると、診察室に静寂が押し寄せる。蛍光灯が発光したときに起きる独特な音が室内の機器類の電子音と混ざり合い、不愉快な旋律を奏でていた。
真奈美の脳はその機能を停止していた。
MRIの結果を示す写真を見ると頭蓋骨の大きさに比べ、中に収まっている脳が小さくなっている。これは脳の機能が一部停止したために、縮小したのだと早川医師は説明した。
「脳死といっても、全ての機能が停止しているわけではありません。
脳死については未だ論議がなされている途中ですが、一般的に脳幹を含む全脳機能の不可逆的停止、つまり植物人間になり、人工呼吸器使用時だけに認められる特殊な状態です。
この場合、人工呼吸器の力がなければ速やかに呼吸及び循環器系が停止し、数分後に個体死が訪れることになります」
「でも小泉真奈美は人工呼吸器なんてつけていなかった。それでも彼女は生きています」
京介は、つい先ほど病室で会った真奈美の姿を思い起こした。
未だに簡単な拘束具で拘束されてはいるものの、精神的に落ち着きを取り戻していたようで、再び来訪した京介に反応して目を瞬いていた。
猿ぐつわはすでに外されていたが、真奈美が言葉を発することはなく、大きな瞳をキョロキョロと動かしていることぐらいしか反応はなかった。
早川医師は輪切りにされた脳の写真を見上げ、椅子の背もたれに身を預けると、大きくため息をついた。
「良好ではありませんが脳波もありますし、深昏睡や呼吸停止もありません。
ただ脳組織の大部分は機能停止状態で、毛様脊髄反射、眼球頭反射、温度試験、咽頭反射などの脳死テストはいずれも反応が有りません」
「それはどういうことでしょう?」
いきなり意味不明な医学用語を並べ立てられ、京介は少しとまどった。
しかしここで医学用語の講義を始めさせるわけにはいかないので、あたかも理解しているような顔で早川医師の答えを待つ。
「つまり患者は、ほぼ脳死に近い状態であるということです。かろうじて働いているところは小脳の一部と脳幹部の一部のみ。
ようするに現在、患者が呼吸し、接近してきた人やモノに対して反応を見せるということは、医学上あり得ない。ということです」
「そうなった原因はわかりますか?」
「原因は不明です。血液からは薬物反応は出ませんでしたし、その他の不自然な結果は出ていません。ただ……」
……トゥルルルル……トゥルルルル
早川医師が何かを言い終わる前に、デスクに置かれた電話が鳴った。
彼は疲れを隠しもせずにのろのろと受話器を取り上げると、京介は話を中断されてしまい、しかたなく窓の外を見る。
すでに外は暗闇に包まれていた。一陣の風が、街路樹のケヤキを揺らしている。
あり得ない現実。解けない謎。あまりにもとりとめのない事が多すぎて、頭の芯が鈍く痛みだしていた。
京介は自分のこめかみに指を当てて目をつむった。
正直言って、動くはずのない人間がなぜ動いているかなどは、京介にはどうでも良いことだった。問題は真奈美が何故このような凶行にいたったかであり、医学上の矛盾などは、医学の専門家に任せるしかないのだ。
真奈美の行動の異常さから推測すると、ドラッグの可能性が強いのだが、血液中に薬物反応が出ていないとなると立証は難しい。
となれば、薬物反応が出ないような新種だろうか?
京介は闇夜に揺れるケヤキの枝を見つめながら、少しでも可能性のある仮説を練っていた。
しかし物証もなく全て状況証拠のみで答えを探り当てるのは、危険でしかも至難の業だ。
「いや焦りは禁物ってやつだな、もう少し情報を集めてみようか」
京介はそう呟くと、計ったように扉を隔てた向こうから、誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。
次第に大きくなる足音に京介は、なんとなくこっちに向かって来るような直感を受けて、怪訝そうに意識を向ける。
案の定、足音は京介達のいる診察室の前に止まり、血相を変えた太り気味の看護婦が扉からあわただしく現れた。
彼女は扉に到達したところで力つきそうになりながらも、部屋の中にいる二人に向き直ると、息も絶え絶えに口を開いた。
「先生! 小泉真奈美さんがまた暴れ出しました!」
その言葉が一瞬の沈黙を作りだし、京介は早川医師と顔を見合わせると、真奈美のもとへかけだした。
『人が沢山いる病院内で、異様な力を持ち、理性を失っている真奈美が暴れ出している』
廊下を駆ける京介の心の片隅で、警笛が鳴り響いていた。
京介が駆け付けたとき、すでに真奈美の周りには患者や医者、看護婦達が遠巻きに集まっていた。
真奈美は怯える人間達には目もくれず、放心した様相で病院内をあるいている。
彼女の体が動くたびに、拘束具を引き千切って出来たのであろう傷から、独特な赤みを帯びた液体が落ちて乳白色のタイルを染めた。白いパジャマは赤く濡れ、今やその面影はなくなっている。
「なんだあれは?」
京介は真奈美の左手に持っているモノを怪訝そうに見た。バレーボールより一回り大きいソレはぼろキレの塊にも思えたが、所々に白い石のようなモノがまじっている。
彼の疑問に答えたのは、京介の呟きを聞き取った若い男性医師だった。
「こ、小泉さんです」
「え?」
「患者さんのご主人さまです! 目が覚めたときに真奈美さんに会いたいと願い出まして、私がご案内したのですが」
「彼女に会わせたのか!」
京介は思わず怒鳴ると、若い医師は体を震わせて縮こまった。精神異常をきたしている患者に、余計な刺激を与えるのは明らかに危険だということが、この医師には理解できなかったらしい。
「ちっ」
京介は大きく舌打ちすると、無表情の真奈美に向き直った。彼女がどこに向かっているかはわからないが、外に出すのはまずい。
「警察に連絡は?」
「すでに通報しました。八分位前です」
「早くてもあと五分か」
五分。真奈美を押さえるのには余りにも長い時間だ。
京介の脳裏にあのパトカーの惨状が浮かび、背中に冷たい氷が伝わり落ちる感覚が、小波のように押し寄せる。あの状態から、力で取り押さえられる相手ではないことは想像に難くない。
これが何かのテレビドラマなら、胸元に忍ばせてあるであろう拳銃を颯爽と取り出して、彼女の前に立ちはだかるのだろうが、あいにく京介は現実に生きる刑事で、いつも拳銃を携帯しているわけではなかった。
それでも刑事であるからには、何が何でも周囲に及ぶ被害を食い止めなくてはならない。京介は真奈美に視線を合わせながら、次に起こすべき行動を考えていた。冷や汗が彼の額を伝う。
「おい」
京介は彼の隣で小動物のように怯えている若い医師に、押し殺した声で話しかけた。しかし京介の切羽詰まった雰囲気を読んだのか、彼は口をぱくぱくと開閉するだけで硬直している。
「いいか? ここの階を閉鎖しろ。防火シャッターがあるはずだ。それを閉めてここら辺一帯を封鎖するんだ。同時に患者達をいそいで避難させろ」
「はい?」
「いいから早くしろ!」
京介の一括にビクンと体を震わせた医師は、一瞬我に返ったように走り出した。
ただし隣の刑事に言われたことは、彼の記憶回路からは完全に消去されていたため、訳も分からず走り出したといって良い。
しかも後ろではなく、前へ。
端から見ると恐慌に陥った若者が、奇声を上げながら真奈美に襲いかかったようにも見えた。
「ばかっ! そっちじゃない! 戻れっ!」
京介の叫びも聞かず、若い医師は真奈美に掴みかかろうと突っ込んでいく。
「ちっ!」
何を言っても通じないと見て取った京介は一度舌打ちをすると、今度は若い医師を取り押さえようと駆け出した。
その時、真奈美が動いた。
といっても激しい動きではない。まるで飛び交う蠅を、払うかのように手を振る動作だった。しかしたったそれだけの動作で若い医師は、進行方向とは逆の方向に吹き飛んだ。
「うわぁ」
まるで紙屑のように水平にはじき飛ばされた医師は、素っ頓狂な叫び声を上げた。彼自身何が起こったのかわからない、つかの間の空中遊泳だっただろう。そしてその紙屑は軌道を変えずにまっすぐ京介に返ってきた。
「ぐわっ!」
真正面からソレにぶつかった京介は、蛙が踏みつぶされたような声ををだして、若い医師共々廊下に投げ出された。一瞬眼前が暗転し、体中のあちこちに鋭い痛みが走る。
「ばっ、化け物だ!」
このとき、一連の光景を始終見ていた野次馬から、裏返った叫び声が起きた。
いままで彼らが恐怖と好奇の目で見ていた理由は、真奈美がただ歩いているだけで、周囲には害を及ぼさないと思っていたからだった。もしかしたら、何かの映画の撮影なのだろうと勘違いしていたのかもしれない。
しかし大の男が二人も吹き飛ばされる光景を目の当たりにして、野次馬達の好奇の目は一瞬にして恐慌に変わった。
まるで水の波紋のように周囲の混乱は広まり、一目散に逃げ出す者が一人現れると途端に彼らは、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。
患者を見捨てて走る看護婦、看護婦を押し転ばせようとする患者、その患者をかき分けて逃げる医者。
真奈美の周囲では職業や立場などの一切を放棄した、あまりにも純粋で無垢な生存本能が爆発していた。
「くそっ!」
京介は野次馬達にもみくちゃにされながら立ち上がると、今まで上にのしかかっていた若い医師を犠牲にして、人の波から逃れた。未だ体の痛みは絶えない。特に首筋を痛めたらしく、ズキズキと疼いている。
京介は首を左手で押さえながら真奈美の所へ向かった。人の居ないところへ進めば、自動的に真奈美の所へたどり着けるはずだから、探すには楽だ。
思惑通り、真奈美はすぐに見つかった。
彼女は人々の恐慌状態にもなんの興味を示さずに、病院の廊下を下り階段に向かってゆっくりと歩いていた。
真奈美の周囲だけは奇妙に静かで、そこだけ別の空間を切り張りしたような感覚がわきあがる。
「真奈美さん!」
京介は真奈美の前に立ちはだかると、彼女の虚ろな目から視線を逸らさずに語りかけた。
こんな事をしてどうなるものでもないだろうが、逃げまどう一般の人々や患者達が無事に逃げ出せるまで、何とか時間を稼がねばならなかった。
「わかりますか? 真奈美さん! どこに行こうとしているのかはわかりませんが、止まってください!」
(我ながら芸のない説得だ)
京介は真奈美に語りかけながらも、心の中で苦笑した。
真奈美の理性がすでにないことは、今までの行動と外見で推測がつく。このままだと警察が駆け付けてくる頃には、彼女の右手に彼の頭部が乗っかっている可能性が大きい。
京介は真奈美の手に自分の頭部がぶら下げられている所を思わず想像して、それをかき消そうと首を横に振った。
京介は彼が思うよりロマンチストであったが、人質(美人限定)をかばって犯人の凶弾に倒れるのならまだしも、わけの分からない怪力女にくびり殺されるのは遠慮したかった。
しかし真奈美はその歩みを止めることはなく、まるで眼前に何の障害もないように、まっすぐ京介の所に向かってくる。
彼にとってそれは、死の宣告だった。
そして真奈美の右腕が緩慢な動作で挙げられるとき、京介はっきりと自分の死期を悟った。この場から逃げだそうと彼の理性は訴えていたが、体が逆らって動こうとしない。
京介はとっさに目をつぶり、死の旋風を巻き起こすであろう、彼女の腕から生み出される衝撃を待った。五感が妙に研ぎ澄まされる。汗が額を流れ落ち、プラスチックタイルの床に滴り落ちる音さえも、明確に聞き取れるように感じた。
「アウ、ア? ウー」
しかし死期を悟った京介に訪れたのは、真奈美から繰り出される一撃ではなく、まるで赤子が発するような声だった。
彼女の手は京介の肩に置かれていたが、それ以上は何も起こらない。
京介がゆっくり目を開けると、彼女は定まらない視線を向けて笑っていた。
ただその笑顔は限りなく虚無的で感情などが感じられなく、京介には単なる筋肉の弛緩が作り出す引きつりのように思えた。
「真奈美さん?」
「ウグッ、ウァ?」
京介は恐る恐る声をかけてみたが、真奈美は不気味な笑顔のまま肩を掴んでいるだけだった。ただ彼の呼びかけに反応してうなり声ともとれる音を発している。
静まり返った病院の廊下で、肉塊を抱える妊婦に小汚い男という一種異様な光景が、その場の時を止めていた。
真奈美は京介の肩を時々握ったりして、肉の感触を楽しんでいるようだったが、京介にとっては生きた心地がするわけもなく、しかし、ただされるがままになっているしかない。
このとりとめのない状況を一転させたのは、真奈美のすぐ側にあったガラスが割れた音だった。
けたましく飛び散るガラス片と共に彼女の肩口から血が噴き出し、一瞬真奈美の手が京介の肩からはなれる。
京介はその瞬間を見逃さなかった。
とっさに身を低くすると、反転して近場の病室に逃げ込み、ドアを閉める。
それと同時にドアの外で乾いた破裂音が連続して起こり、その音に紛れて真奈美の呻き声が響いた。
「もう少しで殉職するところだった」
京介はホッとしながら呟いた。ガラスが割れたとき、彼はそれが警察の狙撃班の仕業だと予測していた。
だが日本の狙撃班の質が向上しているからといって、彼の数センチ横を弾丸が通り過ぎて行ったと思うと寒気がする。
通常なら、人質がそばにいる場合は無闇な発砲が控えられるはずだが、どうやら平刑事にはそういった心配りはされないらしい。
京介は廊下が完全に静まり返るのを待ってから、ゆっくりとスライドドアを開けた。
廊下には無数のガラス片が散乱し、その先に赤い血の川が幾本も流れている。赤い川はすでに絶命した真奈美のもとへ集結し、泉を作っていた。
京介は無言で真奈美の遺体に近づき、弾丸で穴だらけになった彼女の肢体を眺めた。血に染まった体は、動く素振りも見せずに横たわっている。
割れた窓の外では警察関係の車が五、六台止まっており、警官達が野次馬の整理をしているようで、ザワザワと意味を解さない音が流れ込んできていた。
その音が、京介にはやけに耳障りに聞こえる。
「これでまた、手がかりが一つ減ったな」
真奈美を見下ろしながら、京介は疲れ切った口調で呟いた。首の痛みは次第に鋭さを増し、立っているのさえ辛い。
京介はすぐ側の壁に寄りかかると、そのまま床に崩れ落ちた。冷たい床の感触が心地よい。いままで張りつめていた神経が急に緩み、意識が押し流されるのを感じる。
そして警察官達が京介のもとに駆け付けたとき、すでに彼は深い眠りについていた。
PART\
二〇〇一年 四月十六日 AM7:55 [-Tokyo- Kaiou hospital]
「違う。それはオモチャじゃない!」
唯は必死にソレを説得していた。
しかしソレにとっては見るもの全てが新鮮らしく、何にでも触れては口にしたり、無邪気に壊していた。姿も見えない、ソレがどんなモノなのかもわからないが、余りにも純粋なソレは貪欲なまでに、己の好奇心を満足させようとしていた。
「いい子だから、お願い、止めて!」
『?』
唯の呼びかけに一瞬ソレは怪訝な表情を見せた。いや表情は見えないが、そのような感情が唯の心に流れてきたのだ。
しかしソレは唯の訴えの意味を解さずに、次のモノが目に止まるとまた手に取り、壊そうとする。
「やめて!」
唯は布団を押しのけ跳ね起きた。冷たい空気が流れ、薄暗い壁が彼女の視界に飛び込んでくる。見知らぬ簡素なベッドの白いシーツが、窓から差し込む微量の光を反射してやけに目立っていた。
「ここは?」
ぐるりと辺りを見回す。右手の方にスライドドアがあり、細長い小さな窓から電気の光が漏れていた。そこから流れる話し声が、何か別世界から流れてきたもののようにきこえる。
(病院? なんで私病院になんているんだろ)
唯は自分の記憶を探ってみたが、その理由は見つからなかった。公園を入ったところから視界が暗転したのまでは覚えているので、多分その時に倒れでもしたのだろうか?
「それにしても、変な夢だったな」
唯はまだ眠気に呆けながら、今でも鮮明に覚えている夢を思い返した。
そう、あれは多分、まだ生まれて間もない赤子だ。この世の法則も、常識も何も知らない無垢な生命。そして新しい世界を知りたがる欲求の塊。
恐怖も何も知らない、いや、恐怖でさえも好奇心の対象になるような、全ての欲望がほとばしる生命を、唯は初めて目の当たりにしたような気がした。
(この夢が想像の産物だったら、私はかなりの欲求不満ってことになるのかな)
唯は自分が辿り着いた答えに少し顔をしかめた。面白半分に雑誌にのっていた夢占いの記事を読んでいたが、実際に納得のいかない結果を押しつけられると気分が悪い。
確かに全ての欲求が得られているといえば嘘になる。父のこと、兄のこと。そして自分の本当の家族のこと。
それ以外にも物欲は人並みにあるから色々と悩みも多いし、神坂家での彼女の置かれている立場――養女という微妙な立場から、下手にわがままも言えずに我慢してきた事も多々ある。
だが唯がいつの時か本に見た一文の、
『運命と呼ばれるものの中で、幸福や不幸は人の出会いから生まれ、その量は自らの感性によって左右される』
という文句が本当ならば。
「私は幸せだよね」
ベッドの上で両足を抱きかかえるような姿勢に変えながら、唯は自分にそう言い聞かせる。
養父である憲一、義兄の公史、憲一の部下であった規崎達彦。
その他にも学校の友人達や先生達、近所のおばさん、買い物でよく行く魚屋のおじさん。みんな暖かくて、頼もしかったし、テレビや雑誌では色々暗い話が出てくるときもあったが、それは唯にとっては別世界の出来事だった。
普通に笑い、普通に泣き、普通に怒り、普通に喜ぶ。この何の変哲もない日常が続くことこそ、彼女にとっての幸せだった。
唯がそんな思考にふけっている間に、さっきまで汗で張り付いていた寝間着は、新鮮な空気に触れて乾き始めていた。
頬に触れる毛布の感触が、何故か心を落ちつかせる。
そうしているうちに、次第に呆けていた頭が鮮明さを取り戻すと、唯はこれからのことを考え始めた。
ベッドの横にある時計をみると、すでに八時をまわっていた。公史も心配してるはずだ。それに自分を放っておいて、一人で夕飯済ますような兄ではないから、腹も空かしていることだろう。
「ってゆうか、ただ単にものぐさなだけなんだけどなぁ」
唯は顔を綻ばせながら呟くと、部屋の明かりをつけようとベッドを抜け出そうとした。
公史は彼女が学校の部活などで遅くなると、きまって食事をせずに唯の帰りを待っていた。
「家を出るのもめんどくさいし、金がかかるし、自分で作るなんて無謀なこと出来るわけもない」
というのがその理由だったので、始めは呆れていたが、いつしかそれが普通になっていたのだから不思議だ。
ただ最近、あの台詞は兄の照れ隠しだったのではないかと疑っている。
唯はベッドの周りにスリッパはないかと探したが、無いとわかると覚悟を決めて素足で冷たい床を践んだ。そして部屋の証明のスイッチがあるだろう所まで、大股に走るようにして向かう。
自分の行動をはしたないとは思いながらも、どうせ誰もみていないから気にしないことにした。
しかしさすがにいきなり扉が開いて、誰かが入ってくる事までは想像できなかった。
「うわ」
突然扉が開いて背の高い男が入ってくると、びっくりしてその場に硬直する。
「なにやってんの? お前」
不自然な姿勢で固まる唯に、ため息の混じった声が掛かった。
病院の廊下からの光に照らされて、公史が立っていた。手には大きめのボストンバッグを持っていて、苦笑混じりの表情で唯をみている。
「お、おはよう」
突然のことに戸惑って、唯は思わず朝の挨拶をすると、ついに公史は吹き出してしまった。
「寝過ぎだお前は。終いには目が溶けるぞ」
そう言いながら、公史は涙目に答える。
笑われた方の唯は頬を膨らませて睨むと、部屋の明かりをつけた。しかし表情とは裏腹に何故か悪い気はしない。
久しぶりに兄の笑顔を見ることが出来た事が、彼女の胸に充実感を与えていた。
「とっ、ところで、何を持ってきたの?」
唯はまだ笑いをこらえている公史の持っているバックを指さすと、彼は涙を拭きながら着替えを持ってきたのだと答えた。
「でも必要なかったな、まさか起きてるとは思わなかった」
「そうだね」
「どうしたんだ?」
急に考え込む仕草をする唯に、公史は不思議そうに訪ねた。
「実はまだ、何で病院にいるかわかんないんだけど」
「何も覚えてないのか?」
顔をしかめていう唯に、公史は驚きを隠せなかった。唯はそれを怪訝に思ったのか、小首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
まだ混乱していて一時的に記憶を失っているのだろうか?
公史は色々と想像してみたが、今は深く詮索しないようにした。
思い出したとしても凄惨な殺人事件の現場だ、今はショックを出来るだけ和らげた方が彼女のためになるだろう。
あの加藤とかいう刑事には悪いが、今は彼女をそっとしておいてやりたかった。
「今日は一晩ここに止まれるようだから、ゆっくりしてろよ」
唯の質問を無視して公史は歩き出すと、室内のベッド脇にある椅子に座った。唯は兄の様子から何かあったことを読みとってはいたが、深く突き詰めなかった。
「そうもいかないよ、病院って高いんでしょ? 入院費とか。しかも個室だよ、ここ」
「ああ心配すんな」
『どうせ金は警察から出る』
公史はそう言ってしまおうとして口をつぐんだ。唯もなかなかどうして侮れない。
彼女は昔から嘘を見抜くのが上手かった。はじめはただ単に公史自身が単純で、読みとりやすい性格だからだと思っていたが、時々他人の嘘も見抜いたりするので、彼だけに限ったことではないらしい事がわかる。
どうやら彼女は、人のうちに秘めた感情を肌で感じることが出来るらしく、カードゲームなどをするとその強さが際だった。
「まぁ、親父の貯金もあるしさ、一日ぐらい泊まっても平気だろ」
「でも無駄使いはできないでしょ?」
(お兄ちゃんは、相変わらず解りやすい性格をしてるな)
唯は心の中で意地悪く笑った。こと兄に関しては、なぜか考えてることがわかる。
今の兄が何を悩んで、何を隠しているのかはわからないが、しかしそれが自分へ向けられる優しさであることは間違いないだろう。
(虐めるのは可愛そうかな)
唯は必死で取り繕う兄に少し罪悪感を感じると、心の中で謝りながら公史の前に立った。
「帰ろう、お兄ちゃん。私、おなか空いちゃった」
「ん? そうだな。そういえば俺も何も食べてなかった」
「あはは、だと思った」
暫く二人は笑っていたが、少しすると途絶えてしまった。困ったような顔をし始めた唯に、公史は全く気付いていない。
「あのさ、私、帰りたいんだけど」
「それがどうした?」
「着替えなきゃ帰れないでしょ?」
「ああ! ごめんごめん」
やっと妹の言いたいことに気付いた公史は、そそくさと部屋を出た。扉越しにわざとらしいため息が聞こえる。そんな唯に公史は苦笑を返した。どうも彼はこういった気を利かせることが苦手らしく、良く唯にからかわれていた。
「まだ子供のくせに」
悔し紛れに呟いた公史は廊下の壁に寄りかかりながら、何気なく携帯電話を取り出す。
「あれ?」
着信の表記が、携帯電話の液晶画面に浮き出ていた。
送信者は規崎達彦。着信時のシグナル機能をバイブレーションだけにしていたのが仇になり、きがつかなかったのだ。
公史は達彦に電話をかけ直してみたが、達彦には繋がらなかった。
何回か繰り返し呼び出しても達彦が出ることがなかったので、ついに公史は諦めて携帯電話をジーンズのポケットにしまい込む。
しかしこれが達彦からの最後の連絡だったとは、彼は想像もしていなかった。
そして次の日、捜査の難航していた神坂憲一殺人事件は、容疑者である規崎達彦の逮捕によって幕を閉じた。
Machination and Conspiracy.
PARTT
二〇〇一年 四月一七日 AM10:15[-Tokyo- The Metropolitan Police Department]
規崎俊也は立腹しさを隠しもせずに会議室を出ると、警視庁の廊下を歩きはじめた。
見た目には常時とさほど変わらない表情をしているが、カツカツという規則正しいが力強すぎる足音が、彼の心理状況を明確に表している。
通り過ぎゆく人達は彼の様子に恐れをなしてか、半歩後ずさって道を開けるが、しかし彼はそんな大衆には目もくれずに、鋭い眼光は反らすことなく前を見据えていた。
ただ彼の視ているものは目の前にあるものではなく、先ほどまで繰り広げられていた上層部の茶番劇だった。
彼の担当していたはずの事件を秘密裏に別口捜査していた事実は、容疑者として彼の実兄の名が出た事も相成って、俊也の怒気に拍車をかけていた。
上層部は彼にもっともらしい理由をつけて正当性をアピールしたが、残念ながら俊也の心には届かなかったようだ。
(こいつらと話しても、時間の無駄だ)
そう判断すると、彼は早々に切り上げて出ていってしまった。そしてそれと同時に、事件の裏があることを確信する。
ただそれを確信するにせよ、事実として受け止めるには、何かしらの証拠が必要だった。
(しかしどうやって調べる?)
俊也は警視正という立場もあって、自由に行動できる機会は少なかった。しかももし本当に事件の裏があるのだとしたら、しばらくは俊也の周りに監視が入るはずだ。
そこまで推考すると、自然にある人物の顔が浮かび上がった。俊也には彼専用の便利屋がいるのだ。これまでに何度か動いてもらったこともあったし、彼の好みそうな情報をちらつかせてやれば、イヤとは言わないだろう。
そう言えば、何かの事件に巻き込まれて怪我をしていたように思えたが、彼にとっては些細なことだった。
次の日の朝、警視庁ビルからほど近い公園に二人の男はいた。
館内で落ち合うのは危険と感じた俊也が、京介を外に呼びだしたのである。
しかしそれでも俊也の方が後から来たのは、やはり尾行を警戒したためであった。
「おい。お前、しばらく休暇を取る気はないか?」
自動販売機で購入したジュースの缶を拾い上げる加藤京介に向かって、俊也は挨拶もせずに話を切りだす。
そんな俊也に京介は驚くそぶりも見せず、窮屈そうに振り返った。
しかし背丈に違いがあるので、京介が見上げる格好になるはずなのだが、今の彼には都合上出来ない理由があり、目線だけを上に向けていた。
「お前、俺のこの姿を見て、何の言葉も無しか?」
「似合ってるぞ」
「やかましい!」
俊也の顔を目だけで見上げながら、京介は不機嫌そうにがなり立てた。
彼の首には白いコルセットが填められており、肩と固定されて動かせないようになっていた。
小泉真奈美の放った人体に直撃した京介は、同病院で鞭打ちと診断された。約六十八キロの肉塊が与えた衝撃が、彼の頸椎をしたたかに痛めたのだ。
ただ症状の深刻さの割には、余りにも情けない格好なので、京介は警視庁内でも始終不機嫌になっていた。
「俺がこんな目にあったってのに、上司は無視するわ周りからは笑われるわ、しかもその事件捜査も見送りと来もんだ。いったいどうなってるんだ?
ありゃ絶対、見送り倒しでうやむやにするパターンだぞ?」
「私も神坂憲一の事件をおろされた。金輪際口を出すなと言われたよ。全く、人の事件に横槍を入れておきながら、勝手な言いぐさだ」
無表情で愚痴る俊也を見て京介は深いため息をつくと、視線を下げながら手に持ったコーラの缶をもてあそんだ。俊也が本気で怒ると激高せずに無表情になる性癖は、彼の良く知る所だった。
「で? 休みをくれるって言うのはどういう風の吹き回しだ?」
「休みというのは口実だ」
「そんな事はわかってる」
京介は缶を開けると、自動販売機に寄りかかった。いつの間にか先ほどまでの表情は消えている。
「小泉真奈美の事件が起こり始めた途端に、代議士殺人事件が解決した。そして両方とも今後、上層部で処理されることになる。タイミングが良すぎだ」
「二つの事件に何らかの繋がりがあると考えても、あながち筋違いではなさそうだが。証拠が掴めていない」
どんな行動をするにせよ根拠を求める俊也の言動を、京介は鼻で笑い飛ばした。彼にとって根拠は行動の後についてくるものであって、その辺は俊也と対局の考えかたをもっていた。
「二つの事件のこと、お前の兄貴から何か聞いてないか?」
「……いや、何も聞いてないな」
「本人から聞いてみるしかないかな」
「難しいな。それに拘留されている場所も秘密のようだ」
「へっ、あからさまに裏があるって言ってるようなもんじゃねぇか。上層部も馬鹿というか単細胞というか」
「しかし、そのおかげで捜査の糸口が掴める。ただ問題は奴らが、故意に怪しく見せかけているかもしれないということだな。油断すると罠にはまるぞ」
「無駄な心配、ありがとよ」
俊也の慎重論に戯けてみせると、京介は空を仰ぎ見た。未だ刻は正午をまわっておらず、春の風が草木の匂いを運んでいる。青空にかかった薄い雲が、京介の目に眩しく映し出された。ただやはり首は曲がらないので、そのさりげない行動も窮屈そうにみえた。
「期限は?」
暫く考え込んでいた京介は、その体勢のまま俊也に問いかけた。
「俺がお前の『休暇』を隠蔽できるのは、せいぜい二週間だ。それ以上たつと苦しいな」
「手段は?」
「この際だ、手段は問わない」
そこまで聞くと、京介は俊也に視線を戻した。俊也の口から『手段問わず』の言葉が出てくることが、珍しかったからだ。
(こいつ、いったい何を焦っている?)
京介は疑問に思った、口にしたのは別の言葉だった。
「もしも二件の事件が何らかの繋がりを持っているとして。最悪の場合、警察組織に喧嘩を売る事になるかもしれないぜ」
「望むところだ」
「警察官僚にあるまじき言動だなそりゃ」
京介の言葉に、俊也は片唇をつり上げた。
「あそこは私の安住の地ではない。今の警察は保守的な烏合の衆のたまり場だ。一度苦湯を飲ませた方がいい」
(それだけでは、なさそうだがな)
京介は俊也の表情を読みとろうとしたが、彼が余りにも淡々と話すので、心の奥底を推測することは出来なかった。
何にせよ、俊也から単独捜査の依頼が来たことは、京介にとって願ってもないことだった。ただし手段問わずと言われても、無理なことは出来るはずもない。
「わかった。その休暇、遠慮なくとらせてもらうぜ」
「そのつもりでなくとも、力ずくでそうさせるつもりだった」
「またもや警察官僚にあるまじきお言葉。俺は平和愛好家だからな。暴力上司に脅されて、しかたなく行動開始と行きますか」
京介はそう言って、ポケットに手を突っ込みながら歩き出した。
顔には微笑めいた表情が張り付いている。それはこれから起こる未来への宣戦布告であり、勝利宣言だった。
そんな不敵に歩む京介の背中を、俊也は目を細めて見送った。京介は自己陶酔型の性格をしているので忘れているだろうが、その首には不細工なコルセットが填っているのだ。
「本当に似合ってるな」
俊也はそう呟くと、誰にも見せることない微笑を浮かべた。
PARTU
二〇〇一年 四月二一日 PM7:25 [-Tokyo- Kamisaka's home]
今や元弁護士となった規崎達彦の逮捕は、多くのマスコミを騒がせるに十分すぎる出来事だった。
代議士が弁護士に殺害されたという、今の日本には珍しいこの事件は、事件発生初日より更に大きく取りざたされていた。
テレビでは二時間枠の特番が組まれ、神坂憲一と規崎達彦の関係を事細かに暴露していった。
ほとんどの番組では達彦のことを、師を裏切り殺害した非情な男として解説され、未だ謎である動機について様々な憶測を飛ばしていた。
しかもマスコミは、この事件によって身内を亡くした家族達のことを、見逃すことはなかった。視聴率を稼ぐために、あらゆる物事に貪欲になる彼らは、神坂兄妹にインタビューを強いたのだ。
彼らのほしい絵は事件の真相に打ち震える身内の涙であり、それによって視聴者の涙を誘おうという目論見だった。
規崎達彦の報道圧力が氷解した今、彼らの行動を押さえる者は皆無であった。
神坂家には連日報道陣が押し掛け、公史と唯はまともに外にも出られず辟易していた。
「鬱陶しいやつらだな、畜生!」
公史はカーテンを閉め切ったリビングで、テレビに悪態をついた。
マスコミの追跡のせいで中断していた就職活動が思うように進められず、彼は明らかに苛ついていた。達彦が逮捕されたことはさすがにショックだったが、それ以上に彼に群がる記者達に腹を立てていた。
彼らは勝手に公史の身辺調査をし、残された妹のために大学を辞めたと知ると、妹思いの立派な兄として賞賛した。
しかし公史当人にとっては余計なお世話といいたいところである。
テレビ画面には今、神坂家の外観が生放送で映し出されていた。
「勝手に人ん家をうつしやがって!」
「まぁまぁ、お陰で防犯は完璧なわけだし。気にしない気にしない」
公史の横でごろごろとマンガを読んでいる唯が、彼女の兄の苛立ちを諭した。そんな唯に公史は渋い顔を見せるが、唯は本から視線を離すことはなかった。
「お前は平気なのか?」
「平気じゃないよ。でもしょうがないじゃないじゃない? 一週間もすればほとぼりも冷めるよ、きっと」
「っていうことは 一週間も家に閉じこもりっきりか? 冗談じゃないぜ!」
「どうしても外に出たい時は、こっそり出ればいいじゃない?
いざとなったらお兄ちゃんもいるしさ」
「俺はお前のボディーガードじゃないんだぜ」
「でも助けてくれるんでしょ? 妹思いのお兄さん?」
唯は公史を見上げると、意地の悪い笑みを浮かべた。そんな唯に公史は舌打ちをすると、横目で睨む。
「誰が妹思いだ。勝手に想像膨らませやがって。
お陰で全国に俺の隠れた優しさが、広まっちまったじゃねぇか」
「はいはい」
公史のふざけた台詞を軽く聞き流した唯は、両足をパタパタと交互に動かしながら、またもやマンガ本に視線を戻して、わざとらしく大きなあくびをした。
公史は妹の白けた態度に思わず吹き出してしまった。自分でもおかしな事を言っているとわかっていたので、彼女の期待通りな態度が心地よかった。
「でもお前、案外冷静だな」
「ん?」
「達彦さんが逮捕されたのにさ。俺はてっきり又落ち込むかと思ったよ」
「だって何かの間違いだもの」
「そう思うか?」
「当たり前じゃない」
公史の疑問に至極当然のように言ってのけた唯は、未だ考え込んでいる彼を見て起きあがると、困ったような表情を浮かべた。
「まさかお兄ちゃん、疑ってる?」
「いや、そんなことはないけどさ」
「疑ってるじゃない」
公史は自身の疑心をズバリと唯に言い当てられて、二の句も告げることが出来なかった。
彼も勿論、何かの間違いだと思いたかったが、心の何処かで達彦を疑っていた。いくら親しい関係だったとはいえ、所詮外面の出来事でしか判断できない。
公史は達彦の内面を熟知しているという自信がなかった。
「なんでお前はそんなに人を信じられるんだ?」
「そんなことない。私だって不安だよ」
(いつだって、不安だよ)
常に不安と共に過ごしてきた唯にとって、人を信じるということは非情に勇気がいることだった。
だが彼女は不安ながらも、人を信じようと努力していたのだ。
「人なんてさ、目に見えないモノを見るなんて不可能だよね」
唯は両膝を抱えると、天井を見上げて語りだす。それは公史に向けてと言うより、彼女自身の心に語りかけているように思えた。
「でもさ、だからといって人を信じられないなんて、嘘だと思うんだ。
知らなくて当然だよね。ってゆうか、知ろうとするのが間違いなんだよ。きっと。
だから私は知るんじゃなくて、理解したいと思う」
公史はじっと黙って唯の言葉に聞き入っていた。その言葉には、いつも前向きに考えようと努力する彼女の意志が見え隠れしており、辛くても挫けないという覚悟があった。
公史はけなげな妹に微笑むと、大きな手で彼女の頭をぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でた。
それは、いつの間にか後ろ向きの気持ちになっていた公史が、そのことに気付かせてくれた唯へのお礼だった。
唯は、ボサボサになってしまった髪を気にもとめずに微笑み返すと、いつの間にか流れ出ていた涙を手の甲で拭う。
「いまでも泣き虫は直らないな」
「そうかな」
「でも、ずいぶん強くなった」
これが今の公史の素直な気持ちだった。
今までの公史が持っていた妹のイメージは、臆病で怖がりというものだったが、先ほどの彼女を見ると、臆病な中にもほのかな強さを感じることができる。
これは喜ぶべき事だったが、公史は一抹の寂しさを感じてもいた。いつも守っていた妹が、彼女自身での力で立ち始めようとしている。
いくら兄妹でも別れの日はあるもので、その日が着実に近づいていることを、公史は実感してしまったのだ。
「ま、でもまだ子供だけどな」
突然沸いた感情を隠すように意地悪く微笑むと、公史は唯をからかった。
「そんなこと無いよ!」
「ガキだって言われてムキになる奴は、ガキなんだよ」
兄にやりこめられて、唯は拗ねたような表情を見せた。そんな彼女を見て、公史が笑う。そして、公史につられて唯も笑った。それは彼らが今まで切望していた心の底からの笑いだった。
そのとき、家族が欠けた冷たい家で、暖かい何かが二人を包んだ。
それは唯が言う幸せそのものであり、公史が大切にしている守るべきものであった。
神坂兄妹がいずれ離ればなれになろうとも、不変の何かがそこにはある。
一方つけはなされたテレビでは、女性レポーターが悲しみを含んだ表情でレポートをしていた。彼女の背には古い家屋が佇んでおり、白い光に照らされて不気味な静けさを強調していた。
女性はマイクを持ち直すと、その表情とは場違いな張りのある声で、カメラに向かって語りかけた。
「ここが、規崎容疑者に殺害された神坂憲一氏の自宅です。いまここには、神坂代議士の遺された、ご家族が住んでいます。
ご家族の方々は未だ悲しみに沈んでいるのでしょうか、ごらんの通り辺りは静寂に包まれ、事件前までは笑い声が溢れていたでしょうこの時間でも、シンと静まり返っています……」
二〇〇一年 四月二四日 AM7:00[-Tokyo- Kamisaka's home]
公史は朝早くにベッドを抜け出すと、早々と出かける準備をした。
達彦に感じていた疑惑を唯に拭い去られた後、彼はある決心を胸に秘めていたのだ。
それは事件の真相を自ら見つけだすことであり、妹の信じていることを確信に近づけさせたいという、彼の願望から導き出された答えだった。
彼自身、まさかドラマの主人公みたいな真似をするとは思ってもみなかったが、警察があてにならないとわかった以上、自分で行動を起こすしか方法はなかった。
一時は唯の入院で世話になった、加藤京介とか言う刑事に協力を得ようかと思ったが、彼の想像の中では警察とは一枚岩の存在であり、達彦を冤罪の罪で補導した一味としてしか認識していなかった。
「んじゃ、行って来るぜ」
公史は、隣の部屋で眠っているはずの妹に声をかけた。実際に声をかけなかったのは、唯に心配をかけさせないためだ。
暫くして簡単な身支度を終えた公史は、自分の部屋をそっと出ていくと、一階に降りて居間のカーテンを少し開けた。外には未だ報道陣が神坂家を見張っており、無防備に出てゆけば向こうの餌食になりかねない。
しかもこれから彼がやることは、合法的とはお世辞にもいえず、彼らに付いてこられると少々面倒なことになるのは簡単に予想できた。
ここはなんとか彼らに気付かれずに、家を出たいところだが……。
公史はカーテンをから離れると、ため息をつきながら頭をかいた。さっそくこそ泥のような真似をしなくてはならないことが、煩わしく思えのだ。
「まさか変装セットが必要になるとは、思わなかったなぁ」
事件捜査については全くの素人である公史にとって、テレビドラマが唯一の教本だった。もちろんフィクションだと解ってはいるが、そうでもしないと行動の組立が出来ないのだ。
公史のみたドラマでは、主人公は報道陣を騙すのにサングラスをかけ、帽子を目深にかぶっていた。その主人公は女性だったように思えたが、公史はどちらでも同じだと割り切っていた。
そして公史は足早に部屋に戻ると、自前のサングラスとつばの広い帽子をかぶって玄関に向かった。
そんなことをしているうちに、不謹慎ながらも気分が高揚してくる。ゲーム感覚に似た感覚が彼の表情に笑みさえ浮かべさせた。
しかしそれも、玄関につくまでだった。
いそいそと外に向かう公史が、ドアノブに手をかけたと同時に話しかけて来た者がいたのだ。
「どこいくの?」
不気味な静けさをたたえたその声は、彼の真後ろから聞こえてきた。ビクッと体を震わせた公史は振り向くことも出来ず、その場で立ちすくむ。
「や、やぁ唯。おはよう」
「おはよう」
直立不動状態の公史は、額に汗を滲ませながら、真後ろで睨んでいる唯に話しかけた。しかしそれが彼女の針のような視線を和らげることはなく、いっそう鋭さを増す結果に終わったようだ。
「で? どこいくの?」
再度同じ質問を繰り返す彼女に、公史は完全にのまれてしまった。それでも固まって動かない体をゆっくり振り向かせる。
彼の眼前には案の定、怖い顔をして腕組みする妹が仁王立ちしていた。なぜか学校の制服姿だったが、その疑問は唯の厳しい表情に霧散してしまった。
(とりあえず、この場から逃げよう)
そう思った公史は、愛想笑いを浮かべながら即座に判断した。こういう事にかけては、頭の回転が速まる。
「いや、ちょっと散歩しようと思ってさ。なんか最近、鬱憤のたまることが多すぎだし」
「朝のお散歩する暇があったら、寝てた方がましって言ってたお兄ちゃんが?」
「ああ、うん。まぁ昔はそんなことを言っていたような気もするけど、ちょっと思い至ってな」
「サングラスと帽子かぶって?」
「紫外線はお肌の大敵だぞ」
「そんなこと、今まで気にしたことないじゃない?」
へらへらと笑いながら取って付けたような言い訳をする公史に、唯は更に目つきを鋭くした。彼女の大きな目は細められ、殆ど三白眼状態だ。
「また危ないことするつもりでしょ」
「そんなことないぞ」
「じゃぁ私の目をみて」
拒否を許さない唯の口調に、公史は恐る恐る視線をあげた。そして、まるで悪戯を母親に見つかった子供のように、首をすぼめる。
唯はその怒った表情を変えず、罪悪感に染まった公史の瞳を射抜いた。
「お兄ちゃんが何をやろうとしてるかぐらい、私、わかってる。達彦さんの事、たしかめにいくんでしょ?」
「ごめん」
もう隠し通すことなど不可能と悟った公史は、素直に謝罪した。ただ謝っても、諦めようなどとは思わない。
今は怒っていても、唯なら何時かわかってくれると思っていた。
「で、その格好はどういうつもり?」
「いや、外のマスコミをまこうと思って」
「あのね」
唯は呆れたようにため息をついて公史に詰め寄ると、公史のかぶっている帽子を取り上げた。
「こんな赤い帽子なんか、目立つだけじゃないの!」
「そうか?」
「それに趣味の悪いサングラスなんてして。これじゃ外の人たちを誤魔化しても、警察に捕まっちゃうわよ? 変質者と間違えられて」
「そんなに趣味悪いか?」
「最悪」
唯の遠慮しない言いぐさに、さすがの公史もムッとした。達彦の冤罪を暴こうと思い至った経緯に、唯が大きく関わっているのだ。
ただそれは、公史の勝手な思いこみだった。それがわかっていながらも、憤りを感じるのは人として致し方のないことだろう。
憮然として黙り込んだ兄に、唯は不意に微笑むとドアノブに手をかけた。今まで重くのしかかるような空気が、一瞬にして消え去る。あまりの唐突な出来事に、公史は呆気にとられて目を丸くした。
「おい、どこ行くんだよ」
「ん? 学校だけど?」
このとき公史は、今日が平日であるという事に気づいた。そして七時という時間が、決して早い時間ではないということも。
「じゃ、行って来ます」
「お、お前、学校に行くにしては早すぎないか?」
「今日は日直だから、私。と、いうことにしておく」
唯はそういって戯けたように舌を出すと、玄関脇に立て掛けてあった鞄を持って玄関のドアを開けた。しかし不意に振り向いて、真面目な顔をして公史を見上げる。
「くれぐれも、危ない事しちゃだめだよ」
「あ、ああ」
公史は気の抜けたような返事を返すと、それを確認した唯は微笑んで、もう一度「行って来ます」といって出ていった。
扉が閉まるのを、公史は未だ呆けて眺めていた。唯の行動の意味を、鈍くなった頭脳がやっと解析を始める。
そしてその意味を解したとき、公史は慌てて勝手口へ走り出した。
玄関とは正反対の裏口から静かに外へ出た公史は、今では珍しい木の柵を乗り越えると、辺りに気を遣いながら足早に家から離れていく。唯の作戦が功を奏してか、報道陣に見つかることは無く、公史は複雑な思いで駅のある方角へ歩いていった。
定刻より少し早く学校に着くことができた唯は、友人たちと挨拶を交わしながら教室に向かった。
兄のために報道陣の質問攻撃を一身で受け止めた彼女だが、疲れた様子も微塵にも見せずにいつも通りの明るさを振りまいた。
一時は義父の死や達彦の逮捕で、唯の周りもにわかに騒ぎ始めていたが、彼女の変わらぬ態度から次第にその波は引いていった。
ただしそれは興味を無くしたと言うよりは、深入りは禁為という空気が校舎内に広がったからで、彼女の友人のうち何人かが明るすぎる唯に不安を抱き、いろいろ気をまわした結果だった。
女子校である唯の学校は彼女の家の近くにある。私立といってもごくごく平凡な作りの校舎は、偏差値はさほど高くはなく、のんびりとした校風だけが取り柄の学校であった。
もっとも唯がこの高校を選んだ理由は、歩いて通える距離の学校が他になかったということだけで、進学のことなどはいっさい考慮に入れていない。
本来ならば義娘である彼女の将来を気にかけるべき神坂憲一が、学校選択に関して彼女に全委任したのは、
『どんな学校でも学ぶべきものはある。どんな学校でも努力すれば道を閉ざされることはない。良い学校でも悪い学校でも、通う本人次第』
という憲一の言葉が理由であった。
実際、唯は進学についてはあまり興味はなかったので、成績にギスギスしがちな進学校よりは適切な選択をしたといってよい。
ただし成績の方は常に首位にあり、その点については何事にもこまめな彼女の性格がでている。
「おはよぉ、千紗」
「あれ? ずいぶん早いじゃない?」
いまだ生徒のまばらな教室に入って、間延びした挨拶をする唯に、彼女のクラスメートが不思議そうな顔をした。千紗と呼ばれたポニーテールの小柄な少女は、一輪挿しの花瓶に水を入れ、切り花を挿し込むと教壇の机に置く。
「うん、ちょっと早めに出たんだ。いつも通りに出たら遅刻しちゃうからね」
「ああ! そっかそっか」
千紗は思い出したように相づちをうった。
そして唯の現在の異常な状況から理由を悟った彼女は、それ以上の会話の進展を避けるように日直の仕事を進める。
「でもさ、なんか有名人になったみたいじゃん?」
「恵美! やめなよ!」
千紗の思いやりを完全に崩したのは、恵美と呼ばれる少し背の高い少女だ。
恵美は唯の席の前に、背もたれを抱きかかえるようにして座ると、彼女の鞄を勝手に漁っていた。目的はただ一つ、昨日出た宿題の解答である。
「あっと。ごめんね、唯」
「ううん。いいよ。だけど確かに有名人の気持ちも分かるよ。
あれにはちょっとウンザリ」
「まぁ千紗と違って、唯はテレビ写りも良いしね。撮り甲斐はあるんじゃないの?」
「どういう意味よそれ!」
宿題を写しながらからかう恵美に、千紗がかみつく。
唯はそんな二人を見て笑うと、鞄に入っている教科書やノートを、机の中に入れ始めた。
「こんな何処にでもいそうな顔、撮してもしょうがないのにね」
(……んなワケないじゃん)
千紗と恵美はさらっと自己否定する唯に、無言で突っ込みを入れた。
彼女は女性の目から見ても美人の部類に入り、教室内でもその存在感は際だっているのだ。
学校の内外でもファンは多いし、男女問わず引きつける不思議な魅力は、唯ならではの性格だった。
ただし問題は当の本人が自覚していないため、時々会話が食い違うことがある。
そんな唯を妬み嫌う人もいたが、彼女たちは一年間弱のつきあいで、それが唯の天然である事を知っていた。
だた友人としては、唯の自己否定が歯痒い。
「あのさぁ、いつも言ってるけどさ。その自己否定は止めた方がいいよ。
唯はいつも『自分なんか』って言うけど、それって『自分』が可哀想じゃない?」
唯の自己否定にいつも反応する千紗が、いつも通り咎めた。
「そうそう。『自分だから』って考えた方がいいよね。唯だから宿題ができる。私だからその宿題を写す……」
「ちょっとあんた、たまには自分で宿題やってきなさいよ!」
「なによ。私だって努力してるんだから。宿題を写すために毎朝早起きするのは辛いんだからね」
「そんな無駄な努力するなら、少しぐらい勉強したらぁ?」
「分かってないな千紗は。私が宿題をしないのは、唯への愛情の現れよ!
唯との接点を出来るだけ多く持とうという、私の健気なこの思い。私のささやかな幸せを邪魔しないで! 宿題を見せてもらうのは唯だけだからねぇ。愛してるよぉ」
「あははは」
恵美の告白に、唯は苦笑するしかなかった。
このような会話をいままで何回も続けてきた。何の変哲もない、他愛のない話。
しかし今日に限って、友人たちの輪に素直に入っていけなかった。兄が危険なことになっていないか心配なのだ。
どちらかというと――いや、誰が見ても直情な兄のことだ、なにかの事件に自ら首をつっこみかねない。
一応釘は刺しておいたが、それが功を奏するとは思えなかった。
「ごめん! 私、気分が悪い!」
突然立ち上がる唯に、今まで漫才じみた会話をしていた二人が、吃驚して振り向いた。
「ちょっと、いきなりどうしたの?」
「ごめん、今日は帰るね!」
そういって走って教室を出る唯を、二人はキョトンとした目で見送った。気分を害している割には元気に疾走していったので、その姿はすでに見えない。
「どうしたんだろう」
「さぁ?」
千紗は首を傾げると、横目で唯が忘れていったノートを窺った。そして恵美に視線を移すと、怪しい笑みを浮かべた。
「次、私に見せてよね」
二〇〇一年 四月二四日 AM10:32[-Tokyo- City]
渋谷の一角にあるカフェで、加藤京介は窓の外を眺めていた。
テーブルの灰皿にはすでに三本の吸い殻があり、四本目の煙草は彼の口にくわえられている。
首にはまっていたコルセットは、彼自身の手で自主的に外されていた。あまりの同僚からの不評に、腹を立てたからである。
京介は煙に目を細めながら、傍らにあるファイルに手をかけた。これまでに何度も目を通しているが、何度見てもその内容は不可解だった。
二つあるファイルの一つは、暴走した小泉真奈美を生前に調べていた早川医師の診断結果を取りまとめたものだ。
脳の機能停止による萎縮。それでいて運動を司る小脳の一部と、脳幹は正常に機能している。
あらゆる方面から、医学的な見地で分析されたこの長い文章は、その全てを理解不能という四文字に要約できた。否定の言葉で締めくくられた報告書に、早川医師のプライドに深く傷がつけられたことを想像することが出来る。
これだけを見ると、捜査は全く進んでいないように思えるが、しかし一番気になるものは、二つ目のファイルにあった。
それはこの一週間に満たない期間に京介自身が調べ上げた、小泉真奈美の家庭についての調査書だ。
京介は真奈美の団地に赴いたとき、彼女の家から大量の精力増強剤を発見した。
処方した病院を調べて、担当の医者に聞いてみたところ、その薬は彼女の夫である小泉哲朗氏に処方されたものだった。
哲朗氏が不能になった経緯も心理的なもので、週に三回はカウンセリングを受けていたことがわかっている。
京介は患者の守秘義務を持つカウンセラーに無理を言って、その理由を教えてもらったところ、彼の性生活に大きな要因があったらしい。
真奈美の旧姓は瀧島といい、静岡の由緒ある家柄の娘だった。
彼女の弟が跡継ぎに決まると、小泉哲朗氏と結婚して東京に住みついた。しばらくは平穏な生活を送っていたが、二年前に彼女の弟が突然病死すると、状況が一変してしまう。
直系の血を絶やすことを恐れた親族は、真奈美の子供を瀧島の跡継ぎにするという計画を立て、未だ生まれぬ哲朗氏の子供に大きな期待をかけたのである。
しかも跡継であるからには、男子でなければならなかった。そこで親族はあらゆる手段を使って、真奈美に男の赤子を生ませようとした。
もちろんその手段とは、原始的で根拠のない方法が殆どだったが、それを強制される彼らとしては堪ったものではない。そして彼は、そのあまりの期待の大きさに、不能になってしまったのである。
この理由を聞いた京介は、小泉哲朗氏を心の底から哀れに思った。
旧家のシキタリが、新婚生活に一番重要な時間をも奪い去っていた。夜の営みも体位まで決められていては、たつものも立たない。
しかしここで一つの疑問が生まれる。
『真奈美の体内にいた赤ん坊は、誰の子なのだろうか』
精力増強剤の効力が効いて、めでたく懐妊したのかもしれない。しかしそれを確かめようにも、彼女の遺体は警察に押収されて何処にあるか判らないのだ。
胎児の血液さえ手に入ればDNA鑑定もできたのだが、今からそれを手に入れるのは、この短い時間内では不可能だった。
ここまで調べ上げるのに正味四日をかけてしまった京介だが、これ以上捜査に時間をかけることは避けたかった。
京介のジレンマはこれだけではなかった。
真奈美の発狂前の状態を、第一発見者である神坂唯に聞こうとしたが、神坂家の周りに報道陣がたむろしており、へたに近づくことさえできない。
しかも、神坂憲一の殺人事件とも何か関係があるとわかっているのに、その証言さえ得ることができないのは、彼の捜査に大きな弊害をもたらしている。
しばらく時が流れ、時計の針が十一時を指すと、ファイルを気むずかしい顔で眺める京介のテーブルに、一人の女性が訪れた。
ほっそりした容姿を持つ三十代の美人だ。事務的なスーツ姿に、ほのかに脱色したセミロングの髪がよく似合っていた。色素の薄いその瞳は神秘的な色を放っていたが、彼女の無機的な表情と相成って、人外のような雰囲気を醸し出している。
平凡そのものな外見の京介と比べるとどう見ても、まるで美女と野獣を思わせるが、彼女の無表情さが彼との間に、何の情事も生まれていないことを物語っていた。
京介は目線だけで彼女を見上げると、下手な口笛を吹いた。女性はそれに何の反応も見せず、彼の向かいの席に座る。
「下っ端が来ると思ったら、MAGIのミッションチーフの登場か。それほど興味をそそられたか? 沙也加?」
京介に沙也加と呼ばれた女性は、彼をジロリと睨むと、何も言わずに煙草を取り出して火をつけた。
「なんでお前がきた? 人手不足だからなんて言わせないぜ」
沙也加は煙草の煙を吐き出すと、眩しそうに外の風景を眺めた。そして緩慢な動きで灰皿に煙草を押しつける。その動作が妙に艶やかで、京介はつい見とれてしまった。
しかし彼女は惚ける京介に一瞥をくれただけだった。
「ここじゃ落ち着かないから、車の中で話しましょうか」
「おい、まだ来たばかりだぜ? すこしゆっくりすりゃいいのに」
「時間の無駄よ」
沙也加は突き放す口調で京介をやりこめると、さっさと席を立って店の外へ出ていってしまった。
京介は慌てて帰る支度をすると、バタバタとレジに走る。
ガラスの自動ドアを省みると、彼女はすでにシルバーのポルシェに乗って冴えない平刑事を待っていた。
京介がブツブツと文句を言いながら助手席に乗り込むと、沙也加はそれを確認もせずにアクセルを踏んだ。
銀色の車体がタイヤを鳴らしながら、車道を駆け抜けていく。加速の重圧に耐えきれない京介は、シートの上でもんどり打った。
「おいおい! まだシートベルトも締めてないのに!」
「あなたが怪我をしようが、私は気にしないわ」
「ちっ、相変わらずイヤなやつだ」
顔を歪ませる京介を、沙也加は声を抑えて笑った。そして彼女は車を首都高速道路へ滑り込ませると、ギヤをシフトアップさせる。
京介は彼女の運転を横目で眺めながら、沈黙を守っていた。
「あなたの連絡を受けて……」
車のスピードが安定すると、沙也加は唐突に喋り始めた。
「MAGIは正規に調査チームを組んだわ。そのチームを担当してるのが私。貴方の言うようにね」
「それにしちゃ調査報告がおそいじゃないか。いつもなら二、三日で終わってたろう」
「今回の事件は貴方の想像以上に面倒よ。一つの事件に、いろいろな要因が絡み合ってる。いくらなんでも、一人じゃ重荷すぎるわ」
「しょうがねぇだろう。この事件を捜査できるのは俺しかいないんだ」
「そのようね」
「で? なんか掴んだのかよ。まぁ手ブラであんたが俺に会いに来るわけはないと思うが」
「情報はあるわよ。その代わり貴方にやって貰いたいことがあるわ」
「おいおい、金は払ってるだろうが」
「いらないわ、今回は」
さらりという沙也加に、京介は言葉を詰まらせた。いままでMAGIと関係を持っいて、こんな事は初めてだった。ただその代わりの条件というのが気になる。
「それで? 条件ってなんだよ」
「あなたと同じように、神坂公史という青年がこの事件の事を嗅ぎ回り始めたわ。そこでお願いなんだけど」
「そいつの捜査を止めさせろってか?」
「いいえ、手伝ってほしいの。彼の捜査を」
「は? お前本気で言ってるのか?」
沙也加の突拍子のない条件に、京介は正直すぎる返答をした。なんで本職の刑事が、素人の捜査を手伝わなくてはならないのだろうか。
「彼も一人でこの事件に関わろうとしている。危険よ」
「だったら、止めさせりゃいいじゃねぇか!」
「彼も貴方と同じ性格なのよ。親しい人が無能な警察に逮捕された。それを知って黙っている男ではないわ」
「おい、それとこれとは話が違うぜ。はっきり言って素人は足手まといだ。それに捜査の邪魔になる」
「じゃあ、あなたとの話はこれでお終いね」
そう言うと沙也加は、車を道路の脇に寄せて停車させた。
「降りて。交渉は決裂よ」
「そんなこと言ったって、ここは高速道路じゃないか! こんなところで降りられるわけないだろ!」
「貴方がどこで何をしようが、私には関係ないわ。もうクライアントではないわけだし」
「本気で言ってるのか?」
京介は沙也加を鋭い目つきで睨むと、彼女はその視線を流し目で迎え撃ち、不適な微笑を浮かべた。
「ええ。もちろん」
高速道路を再び走りだした車のなかで、京介は沙也加に手渡された分厚いレポートを読んでいた。二人はずっと無言だった。車内には独特のエンジン音と、風を切る音しか聞こえない。
「おい」
レポートからやっと顔を上げた京介は、放心した面もちで呼びかけた。
「一つ質問して良いか?」
「なに?」
「この二つの遺体の解剖結果だが。この田島翔子ってのは」
「ああ、部下が警察病院に忍び込んだの。ちょっと借りたわ」
「お前らの仕業か!」
「借りただけよ、後で返すわ」
「どうやって」
「そこら辺の川に捨てておくから、勝手に拾ってちょうだい」
「ふざけんなよお前」
『ゴミを捨てとくから、拾って』
そんな口調であっさりという沙也加は、京介の避難を遮るように喋り始めた。
「もう一つの遺体は遠藤万紗子。一九九〇年、つまり十一年前に起きた事件ね。
彼女の場合、自宅で自分の腹部を、出刃包丁で十九回も刺した後、絶命していたわ。
万紗子も妊婦で、妊娠九ヶ月だった。その表情はとても幸せそうでね……」
「自分の腹刺しながら、笑ってたのか?」
「ええ」
「そして薬物反応なし、か」
「そうね」
京介は暫く黙り込んだ、奇怪な行動を示しているにもかかわらず、薬物反応がないという点で、真奈美の事件との共通点はある。
しかし京介はそれとは別に、矛盾している所があることに気付いた。
「ところで、一つ疑問に思っている事があるんだが」
「なに?」
「俺が事件調査を頼む前に、田島翔子の遺体はお前らに盗まれていた。これはどういう事だ? まさかこの事件を調べていたんじゃないのか? MAGI独自で」
「そうよ」
沙也加は京介の予想をあっさりと肯定した。
「一九九〇年に起きた遠藤万紗子の事件は、表面的にはただの自殺として公表されたわ。でもそれは、警察の隠蔽工作だった。ある筋から情報を得たMAGIは、真相究明に乗り出したの」
「捜査は終わったのか?」
「ええ。ただ、根を残してしまった。トカゲの尻尾を掴んだだけでね、事実上、その調査は失敗したわ」
京介は眉間に皺を寄せて、無精ひげが残る顎をさすった。そして重々しく口を開く。
「おまえら、そのトカゲが同じような事件を起こす事を予想して、待ってたな?」
京介の問いかけを、沙也加は無言で返した。それだけで彼の推測を肯定するに十分な答えだった。京介は大きく舌打ちをすると、
「これだから、お前らは信用できないんだよ!」と吐き捨てるように言った。
沙也加はその言葉にも、沈黙を守っていた。それ以来二人は、彼が車を降りるまで一言も言葉を交わすことがなかった。
車が都内の車道に戻ると、京介はゆっくりとドアを開けた。数分前から降り出していた小雨が、車内まで入り込んでくる。
彼は何か言いたそうに振り向いたが、考え直したらしくそのまま車を降りた。
しかしドアを閉めようとした京介に、沙也加が声をかける。
「神坂公史の事。よろしくね」
「あんたがなんで、あの青年を助けろなんて言うのかわからんが……。まぁ、努力してみる」
「私も新しい情報が入り次第、連絡するわ」
「そうしてくれ」
京介がドアを閉めると、沙也加の車は静かに走り出した。
町中に残された京介は、雨足が強まったのも気にもとめず煙草を取り出すと、それに火をつけ、どんよりと曇った空を見上げながらブラブラと歩き出す。
そして京介の姿は、人混みに溶け込んでいった。
二〇〇一年 四月二四日 AM9:37[-Tokyo- City]
家から無事に抜け出すことに成功した公史は、電車に乗って規崎達彦の構える弁護士事務所に向かった。傍らに地図を持っているのは、実は彼が達彦の事務所に行くのが初めてだからである。
達彦に住所は教えられていたものの、公史はこの日まで彼の事務所に足を運ぶことはなかった。
今にして思えば不思議だったが、平凡な大学生が弁護士事務所に用があるわけないし、達彦もちょくちょく神坂家に顔を出していたので、その必要性が無かったのだ。
それに、仕事場に遊びに行くというのも、気が引けていた。
公史は電車の中で揺られながら、事務所に着いてから何をすべきかを考えていた。
最終目的は達彦の冤罪をはらすことだ。それなら父親である神坂憲一が殺害されたときの、アリバイを見つければいい。
テレビの言うことが本当なら、達彦の動機もまだ不明らしいので、ここで完璧なアリバイがあれば、警察も間違いを犯したと認めざるを得ないだろう。
考えた末にこのような答えを導き出した公史は、目的地である品川駅に着くと、まっすぐに改札を抜けて外に出た。
いつしか味わった高揚感が、また沸々とわき上がってくる。公史は片唇をつりあげて笑みをこぼすと、意気揚々と歩き始めた。彼の脳裏に、ヒロイックな妄想が渦巻いては消えていった。
しかしその意気込みも、同じ場所をグルグルと回っているうちに、次第に萎えてしまった。
しばらく周辺を歩き回ったが、地図を頼りに事務所を探しても、そこにあるはずの建物がないのだ。
達彦の名刺にかかれていた住所には、小さな駐車場があるだけだった。
不思議に思った公史が、近くで道に水をまいている老人を見つけ、住所の場所を聞いてみても、やはりこの駐車場で良いらしい。
公史は暫く、何が起こっているのからないでいた。彼の想像ではここに立派な弁護士事務所があり、効率よく進入出来るはずだっだ。そして、どこかで達彦の通帳さえ見つけることができれば、彼の行動がある程度読めるので、そこから公史のアリバイ調査が始まるはずだった。
しかし都合の良い妄想ばかりかきたてていた公史に、現実は容赦のない冷水を浴びせた。
予想を根底から崩された公史は、達彦に騙されたのではないかと、彼への信頼が一瞬グラつく。
ただ暫く時がたち、冷静になってみると、違う考えが浮かんだ。
住所の場所に事務所がなかったからといって、達彦が嘘をついているとは限らないのではないだろうか。
事務所を転居していたかもしれないし、もしかしたら他にも理由があるかもしれない。
一番手っ取り早い方法は、達彦本人にあって確かめることだ。そう思った公史は、無駄骨折りと挫ける気を取り直して歩き始めた。
するとタイミングを計ったかのように、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
唯の名前が、公史の携帯電話の液晶に浮かび上がる。
高校ではまだ授業中のはずと、公史は不思議に思いながらもボタンを押した。
「おれだけど?」
「あ、お兄ちゃん?」
携帯電話から唯の元気な声が聞こえてくると、公史は駅に向かう足を止める。
「おまえ授業中だろ?」
「サボっちゃった。エヘヘ」
「おいおい。笑い事じゃないぜ。ちゃんと真面目に勉強しろよ、学生なんだから」
公史は自分のことを棚に上げて、妹を叱った。
彼は高校が卒業できたのが、奇跡みたいな高校生活を送ってきたのだ。それを思えば、唯のおサボりぐらい可愛いいものだ。
しかし唯は何かを言いかける公史から、先手をとるように話し始めた。
「あ、お兄ちゃんが何を言っても、私は聞かないよ。もう決めたんだから」
「何を?」
「私もお兄ちゃんと一緒に、達彦さんの無罪を証明するの。決めたの」
「お、おい! 決めたってそんな勝手なこと……」
公史は珍しく意地を張る唯を何とかして説得しようとした。彼女の助けは嬉しかったが、汚れ役だけはやらせたくなかったのだ。
真相の調査ともなると、時には不法侵入もやらなくてはならないだろうし、少なくとも軽犯罪に触れる恐れはある。兄としては妹に綺麗な身でいて欲しかったから、むざむざ唯の経歴に傷を付けるような所には連れて行きたくなかった。
だが、そんな公史なりの思惑もよそに、唯は一緒に行くと聞かなかった。彼女がここまで我を通すことは、本当に希有なことだ。
ただ公史は渋る内心、嬉しくもあった。兄のことが心配であるという唯の心が、ストレートに伝わったからだ。
そしてしばらく言い合いが続いた後、結局今回は公史の方が折れた。
あまり彼女の助力を拒否して泣かれても困るし、それに神坂家の家事一切を担当している唯にヘソを曲げられると、彼にとって非常に困った事態に陥ることを悟ったからだ。
公史は駅前で唯と待ち合わせすることにすると、彼女に「絶対待っていること」と釘を刺されてしまった。ここまで来たらもう逃げられない。
観念した公史は困ったような表情を浮かべて頭を掻くと、約束の場所へと向かった。
「ちゃお」
唯がその待ち合わせ場所にやって来たのは、待ちくたびれた公史がその機嫌を完全に損ねて、さらに三十分が経ったあとだった。
彼の気分に呼応してか、天気も次第に怪しい色を帯びており、直ぐにでも雨が降りそうな気配が漂っている。
そんな彼の前に、唯が明るい笑顔で現れた。
公史は怒りを通り越して、呆れたような目で彼女を睨んだ。唯は悪びれることなく笑っている。どこで着替えたのか、スネ近くで切ってあるジーンズとTシャツというラフな姿で、薄いカーディガンを羽織っていた。
「おいこら、どれだけ待たせりゃ気が済むんだお前」
「ごめんなさい。着替えなきゃと思って一回、家に帰ったんだけど」
「家に戻ったのか! マスコミの連中がいるっていうのに」
「あ、でも、もういなかったよ?」
「じゃぁどうして遅れたんだ?」
そう問いかける公史に唯は又笑みを見せると、背負っていたリュックを開けて中のものを探り出した。そして四角いモノを取り出す。
「はいお弁当」
「おまえこんなモン作ってたのかよ!」
「だってお腹空いちゃうでしょ? もうそろそろお昼だし」
「誰のせいでこんな時間になったと思ってんだよ!」
公史は唯の満面の笑みに又、ため息をつく。言いたいことは沢山あったが、これ以上大衆の面前で恥を掻くのは嫌なので、諦めることにした。
「いくぞ」
公史はゴソゴソと弁当をしまう唯を促して歩き始める。
初めは彼女に達彦の事務所がないことを教えようと思ったが、結局は思い直した。
実際に達彦に会いに行って、真相を聞き出してからでも遅くはないだろう。
「どこにいくの?」
そう問うた唯に、公史は不思議な決意に満ちた表情をして言った。
「会いに行くんだ。直接、達彦さんに」
二〇〇一年 四月二四日 PM1:08[-Tokyo- City]
舞嶋沙也加と別れた京介は、一路、警視庁へ向かっていた。彼女から得た遠藤万紗子の、身辺調査データーを引き出すためである。
沙也加からの情報で二つの事件に共通点が見つかり、十一年前の事件と密接な関係があると分かったことは、京介にとっても喜ぶべき成果だった。
「これら三つの事件に共通することは、被害者は全員妊娠八ヶ月以上の妊婦だったということだな」
京介は街を歩きながら、携帯電話で規崎俊也にこれまでの捜査状況を説明した。
「偶然ではないことは確かだ。これから彼女たちの共通点をさらに洗い出そうと思う」
「そうか。で、神坂憲一との事件の繋がりはつかめそうか?」
「いや、そっちはまだだな。マスコミのせいで神坂家にも近付けないし……。一応、子息の公史さんには、コンタクトをとってみるつもりだ」
(実は捜査協力しなきゃならないと知ったら、こいつはどんな顔をするだろう?)
京介は俊也の性格を見抜いて苦笑した。本当のことを話せば絶対に拒否される事は分かっていたので、彼には話さなかったのだ。
沙也加がなぜ神坂公史に肩入れするのかは分からないが、神坂家と接点が持てると言うことに関しては、願ってもいないことだった。
捜査に協力しろとは言われたが、うまく丸め込んで大人しくさせておけばいいだろう。
京介は邪悪な思考を張り巡らせ、俊也に珍しく労いの言葉をかけて電話をきると、足早に歩き始めた。
今の彼にとって、時間は金より貴重だ。
これからは周囲を気にしながらの捜査が必要となるだろう。しかも、素人のお守りまでをもしなくてはいけないのだ。
(これで余計な足枷がなけりゃ、随分マシになるんだが……)
京介は自分の置かれた現状を心の中で罵ると、すぐに気を取り直して歩き出した。
いくら現実に文句を言っても、自らが行動しないと何も変わらないことを彼は知っているのだ。
一方、京介に足枷と酷評された神坂兄妹は、投獄中の規崎達彦に会うために警視庁に向かっていた。
無計画に規崎達彦に会いに行くと言った公史は、どこに達彦がいるのかも判らないままに、足を警視庁に向けたのだった。
一緒についてきた唯は兄の考えに疑わしげだったが、あまりに公史が自信ありげだったので、その疑問をぶつけるタイミングを逸してしまい、そのまま連れまわされていた。
「おにいちゃん。ほんっとうに、ここに達彦さんがいるの?」
しかし唯は、たまりかねて兄にその疑問をぶつけた。彼女の目は言葉通り、疑心でいっぱいである。
「ああ、きっとここにいるさ。なにせ警察の本部だからな!」
「でも、そう簡単に会わせてくれるかなぁ」
「だって身内も同然だぜ? 面会ぐらいはさせてくれるだろ」
「うまくいくと良いけどね」
公史はため息混じりに言う唯を横目で見ると、心の中で「だったら来なけりゃいいのに」と呟いた。
二人は暫く黙って歩いていた。歩く速度が速い公史に、唯が懸命についてくる。
先を行く公史を追いかける唯。この構図は昔も今も変わらず、彼らが兄妹になってから全く変わっていない。
「あれ?」
「きゃっ!」
突然立ち止まった公史に、唯はまともにぶつかってしまった。彼の肩胛骨に顔が当たり、痛みに顔をしかめる。
「なによいきなり、もぅ」
「あ、ごめんごめん」
しかし公史は謝りながらも、視線を道路の向こう側から離さずにいた。訝しげな表情を見せる唯も、つられてその方角を見る。
一見、見窄らしげな男が道を歩いていた。雰囲気的には平凡なサラリーマン風だ。それも、今はもう死語になっている『窓際族』のイメージにぴったり当てはまる。
くたびれたスーツにボロボロになって色剥げしている鞄が、いかにも彼の人生を物語っているように思えるほどだった。
「誰なの? 知っている人?」
「刑事さんだ」
「えっ」
公史の返答を聞いて、唯は改めてその男を見た。しかしいくら眺めても、刑事には見えない。どこから見ても普通の中年である。
その男も公史の姿を認めたのか、手を挙げて彼らに笑いかけると、足早に向かってきた。
「うわ、こっち来るよ」
唯は無意識に、後ずさって彼の服を掴んだ。
「大丈夫だ、知り合いだよ」
「刑事さんと知り合いなんて、どうして?」
公史は唯の問いかけには答えず、小走りで向かってくる刑事を待った。
その刑事は、青になった信号を渡ると、人なつこい笑みを浮かべて彼らに会釈する。
「やぁやぁ、奇遇ですね。お嬢さんは元気になったようで」
「こんにちは、あの時はどうも」
公史は会釈を返しながらも、内心は心穏やかではいられなかった。唯に入院した理由を未だ話していないからだ。
彼の恐れていたとおり、見ず知らずの刑事に見舞いの言葉をかけられて、唯は不思議そうに小首を傾げた。その仕草に公史は焦り始める。
「気を失って倒れている妹を、病院まで運んでくださって、ありがとうございました」
彼女に何も話していないことを気付いて貰うために、公史は説明くさい台詞を言った。刑事がそれに反応してくれるかどうかは、運を天に任せるしかない。
そして今回は、幸運の羽は公史へと舞い降りた。
公史の遠回しな言いぐさに気付いた京介は、唯の表情を見てその意味を察したようだった。そしてボサボサの頭を掻きながら「初めまして」と名をあかし、照れたように笑う。
「いやぁ、偶然通りかかっただけですから。これも職務ですよ」
「この刑事さんが倒れていたお前を見つけて、病院まで運んでくれたんだよ」
「あ、そうだったんですか! ごめんなさい、ありがとうございます」
二人の男の、言葉なき対話に全く気づかない唯は、素直に謝って刑事にお礼をいった。
「いえいえ、当然のことですから。ところで、これから何処かに行かれるんですか?」
これ以上のボロを出させないためにも、京介は自然を装いつつ話を変えると、公史は目にみえてホッとしたようだった。
「実は、捕まった規崎達彦さんに会いに行こうと思って」
「なるほど」
公史の言葉に、京介はその笑みを消し去る。
「しかし今は止めておいた方がいい」
「何でですか?」
今までの柔らかな表情を急に変え、刑事は気むずかしげな態度をとった。
「詳しい話をいたしましょう。しかし立ち話でも何ですから、どこか店に入りませんか?」
そう言うなり京介は、二人の返答も聞かずに歩き出していってしまった。有無を言わせぬ彼の行動に、公史と唯も仕方なくついていく。
数分後、一人の冴えない中年と、二人の若い男女という奇妙なグループは、ジャズ音楽の流れる洒落たコーヒーショップにいた。
京介は店の奥の丸テーブルに二人を促すと、ウェイターに一番安いコーヒーを三つ頼み、席に座る。
そして暫く店内を見回した後、対面する神坂兄妹に重々しく口を開いた。
「さて、どこからお話ししたらいいものか……」
「達彦さんに会うなと言うのは、どういう事でしょうか?」
話に切り出しかたに苦労している様子の京介に、唯が助け船を出した。
「はい、今警視庁内ではちょっと面倒なことが起きていましてね」
「面倒なこと?」
しかめっ面をする京介に、今度は公史が口を開いた。刑事の厳しい表情を見て、何か大変なことが起きていると解釈したのだ。
しかしこのとき京介は向かい合っている二人に、どこまで情報を流したらいいかを考え倦ねているだけであった。
舞嶋沙也加があれほどまでに公史の事を心配していたのだから、彼女の関係者と見て間違いはなさそうだが、事件の真相をどこまで把握しているかが判らない。
「実は以前から、私が調査している事件がありましてね。警視庁では神坂憲一さんが殺害された事件と同時進行で捜査を行っていたのです。」
この京介の言葉には若干の嘘がある。警視庁で捜査していたのは神坂憲一の殺人事件のみで、連続自殺事件は彼の独断で行っていた捜査だ。
「今までは、この二つの事件は、全く関係ないものだと思っていました」
神坂兄妹は、刑事の吐き出す言葉を静かに聞いていた。彼らの周りで現在起きている出来事が、二人の想像もつかない方向へ邁進していることに、気付き始めていたからである。
「何が起こったんですか?」
公史の言葉も、自然に低くなる。
「ご承知の通り、神坂さんの事件が解決しました。しかしそれは、警視庁の上層部が特別捜査本部を無視し、独断で犯人を調べ上げた結果です。それがどうも胡散臭くてね」
「つまり、冤罪の可能性がある?」
「それだけならまだ良いのですが、タイミングの良いことに、もう一方の捜査も打ち切り命令が出ましてね。何か策謀めいたモノを感じるのですよ」
「策謀?」
公史はまるで今の状況が、映画の中の出来事のように思えてきた。ハリウッド映画でよく打ち出されるシチュエーションだ。
策謀やら陰謀やら、今まではブラウン管の外でしか見ることの出来ない状況が、今まさに彼の眼前に突きつけられていた。
「話を戻しますが、この事によって規崎達彦さんの身柄が拘束されたわけですが、実はどこに収容されているのか判らないのです」
「行方不明、ということですか?」
「それだけ上層部が、この事件のことを隠蔽したいということでしょう。
身内にまで、その所在を明かさないというのは異常です。そこであなた方にご協力願えれば、と思っています」
「協力?」
「はい。ご承知の通りこの件は、私独自で動いています。しかし情報が足りない。
何とかして二つの事件に接点があるという、確かな証拠を掴まなきゃならんのです。
ですから一度、神坂憲一氏の私室を見せていただきたい。何処かに必ず手がかりがあるはずなんです」
京介の熱心な態度は、神坂兄妹の疑心を融解させるに十分だった。
二人は彼の心意に飲まれたように快く承諾すると、安堵の笑みさえ浮かべる。
この表情に、京介も心の中でホッと胸をなで下ろした。このまま神坂兄妹には情報だけ提供してもらい、さっさと退場してもらいたいところだ。
京介は自らの腹黒さを隠すように、邪気のない笑みを彼らに見せた。笑顔とは、実は一番心象を隠すことが出来る表情なのだ。
そんな京介の思惑はつゆ知らず、唯は目の前の刑事を信頼しつつあった。彼女としても事件の真相解明をこの刑事に任せておけば、公史が危険な事に首をつっこむ心配もないわけだから、京介の申し出には大賛成だった。
そして京介は、今夜遅くに神坂家に来訪すると告げると、コーヒーの伝票を持って席を立った。
唯は会釈して刑事を見送ると、公史の顔をのぞき込む。
「いい人だったね。初めは怖い人かと思ったけど。ねぇ?」
「ああ」
そのときの公史の表情を、唯は読みとることが出来なかった。兄にしては珍しく考え深げな表情を浮かべいる。
「あ、そうだ」
その時、理由もなく突然何かを思いだした唯は、ライトグリーンのポシェットの中をゴソゴソと探し始めた。
「どうかしたのか?」
「ええと、あ、あったあった」
彼女がポシェットの中から取り出したのは、一通の高価そうな封筒だった。厚手の高級紙に銀色の文字が書かれている。宛名は神坂憲一だ。
「どうしたんだ? これ」
「家を出るときに、ポストにあったの。お義父さん宛だったから気になって……」
「ふぅん」
公史は唯から封筒を受けとると、片側を無造作に破いて中身を取り出した。
「なんて書いてあるの?」
公史は横から覗き込む唯に、手紙を見せるようにして体を傾ける。
「ホテルの利用明細だ」
「ホテル?」
「ああ、どうやらかなり前から、ホテルの一室を借り切ってたみたいだな、親父は」
「なんで?」
唯の問いに、公史は又考え込んだ。父には愛人を囲う甲斐性は無かったはずだ。それに男やもめの父が隠れて愛人を囲う必要はない。それなら何故、父はホテルの部屋を借りていたのだろう?
「行ってみる価値はありそうだな。」
この部屋に何かがある。公史はこの時、不思議と確信を抱いていた。
PARTV
二〇〇一年 四月二四日 PM2:26 [-Tokyo- MAGI Japan]
新宿御苑にほどちかい、外苑西通沿いにMAGI(Manoeuver of Gloval Infomations guild)の日本支部はある。といっても表向きは出版会社であり、一般の記者や報道関係者が多く出入していた。
もちろん隠れ蓑のための会社だが、株式会社WATCH JAPAN(ウォッチジャパン)東京支部の名は出版社業界の中で異彩を放っており、注目されつつある存在だった。
理由はその資金力の強大さと、情報網の広さにある。
WATCHの名を冠する会社は世界各地にあり、他社とは独特の情報網を持っていた。
出版する雑誌にはいっさいの宣伝記事を廃し、内容の濃い情報を提供している。他企業の宣伝をしないと言うことは、その企業からの宣伝料を取れないわけだが、それでも経営を揺るがす事のない資金力は驚異だった。
WATCHのもう一つの強みは、その他企業との関係の希薄さにある。
出版会社の多くは資金を提供するスポンサーをもっているが、そのためスポンサーが強く関わった事件の記事は書けない。
その点、MAGIは独自の資金力で動いているため、気兼ねなく真実を追究した記事が書けるのである。
このことが災いして、他社からの非難や抗議の声が絶えないが、WATCHは全く問題視していない。
その反面、WATCH側の誤りで起こった事件――誤報や掲載ミス等に関しては、常に丁寧な謝罪の意を表し、その姿勢はいつしか公正な出版社という名誉ある称号を、世界中に広めている。
ただ実際に世間で知られているのは、やはり辛辣な批評を売りにしている芸能雑誌の出版社としての名前だ。社会部の雑誌と打って変わり、噂と虚妄で固められた文章は一般に広く受け入れられている。こちらは宣伝等も盛り込まれ、芸能関係以外の話題も載せられる事が多い。
この、公正な社会部と信憑性に欠ける芸能部という、一見水と油の部所が両立できているところが、あるいはWATCHの度量の深さを表しているのであろう。
しかしその組織の裏では、MAGIの鼓動が脈打っていた。
あらゆる情報を売り買いするMAGIはWATCHを情報源の一端に据え、常に各地で情報操作を行っているのだ。一見、全く意味もないように見える芸能部の存在も、民衆への情報操作に一躍買っている。
MAGIはエージェントと呼ばれる調査員を多数持ち、彼らを暗躍させることで隠すべき真実を隠蔽していた。その工作のために、某国に核実験と称させて、南国の島もろとも消し飛ばしたことさえある。
彼らが追う真実は、今までに作られた人類の歴史を覆す事実であり、未来を揺るがす事実だ。それはいわゆる、真の歴史の証拠となる文献や出土品、又は種の保存を脅かす技術など、現在の歴史の中では絶対に存在してはならない事実であった。
そしてWATCH JAPAN東京支部の地下にある、MAGI日本総司令部。その一画の会議室を借り切って、舞嶋沙也加は五人のエージェントたちが見守る中、情報の分析に当たっていた。
沙也加は提出されたレポートを眺めると、鋭い視線をエージェント達に向け、確認するように言った。
「つまり調査では、今回の事件には警察と行政機関の癒着が絡んでいる可能性がある。そういうことね」
「はい」
エージェントの一人が簡潔に返答を返す。驚くことにその声は少女のモノであり、その隣にも二十代前半と思われる男女が、レポートのコピーに目を通ししながら、報告に聞き入っていた。
「治安の良い日本という通説が崩されている中で、『日本の警察は優秀である』という神話を維持するための体裁が、この事件を複雑にしている原因の一つです。
様々な要因で解決が不可能になった事件を、架空の人物を逮捕することで解決してしまうと言う方法が、平成に年号が改められてから、これまでに七十八件程執られています」
「架空の事件をでっち上げて、架空の犯人を逮捕するっていう件例もあるね。要するに国民に対するパフォーマンスてやつだな」
隣に座っていた男性のエージェントが、そう言いながら苦笑した。彼女はその意見をゆっくりと頷くことで肯定する。
「神話が崩れることで、さらに治安が悪くなることを恐れたんでしょう」
「では神坂憲一を殺した犯人、規崎達彦は架空の人物である、と?」
沙也加は無意識に、その細い顎に手を当てた。それに答えたのは、別の男性のエージェントである。
「いえ、彼は確かに存在します。ただ彼はどう考えても、人を殺すような事は出来ません」
「警察は何故彼を冤罪と知っていて、逮捕したのかしら?」
「理由は調査中です。そして規崎達彦は身寄りが一名しかいませんでした。弟の規崎俊也です。現在、警視庁に警視正として勤務してますね」
「彼については私が調べましょう。これだけ情報が集まれば十分です。あなた達は手を引きなさい」
そう言って沙也加が席を立とうとしたとき、いままで張りつめていた空間に、初めて乱れが起きた。エージェント達は互いに目配せしあい、何かを言い出そうとしてためらっているように見えたが、沙也加はそれをあえて無視する。
「それでは、解散」
沙也加はそう言って、さっさと会議室を出た。
困惑に耐えかねてエージェントの一人が立ち上がりかけるのを、抑制するためである。彼らの言いたいことは判っていたが、これ以上彼らに関わりを持たせることは出来なかった。
『MAGIは本格的に動き出したわ』
加藤京介に言ったあの言葉を、沙也加は苦い表情で思い起こした。
しかし組織は動かない。
多くの資金を投じて調査した十年前の事件に、再び手を出すようなリスクを、MAGIは背負おうとしなかったのだ。いくら強大な資金源を持っていてもMAGIは所詮営利組織であり、危ない橋を好んで渡るほど物好きなところではなかった。
今まで調査してきたことも、実は全て彼女の独断で行っていることだ。しかし沙也加の行動に進んで協力してくれたエージェント達に、これ以上負担をかけさせることは出来ない。
ここからは彼女一人で、戦わなくてはいけないのだ。
そして舞嶋沙也加の孤独な戦いは、長い年月を経てフィナーレを迎えようとしている。
フラッシュバックのように蘇る記憶。あの屈辱的な事件にもうすぐ終止符が打たれようとしていた。
二〇〇一年 四月二四日 PM3:01[-Tokyo- City]
神坂兄妹と別れた京介は、警視庁で遠藤万紗子の調査書類を調べたあと、沈んだ面もちで警視庁を後にした。
彼女の事件を調べているうちに、人の心理の闇部を垣間見てしまったからである。
そこに書かれた万紗子の身辺調査は、おおよそ常識とは逸脱した結果を主張していた。崩壊した金銭感覚、自己中心的な言動や行動。往年のバブル経済が生んだ歪な申し子が、遠藤万紗子の全てを浸食していのだ。
「胸くそ悪い」
京介は大通りを歩きながら煙草を一本取り出すと、忌々しげに呟いた。
万紗子は当時モデルをやっていたほどの美女で、彼女に言い寄る男は星の数ほどいたらしい。ただ彼女が男どもに傅く条件は、どれほど相手が金を持っているかによった。
彼女は金持ちの男を見つけると短期間で結婚し、その男に飽きると離婚して財産の半分を持ち去るという、まるで寄生虫のような生活を続けていたのだ。
そして多くの男性達を不幸の坩堝へ叩き込みながら、彼女はその人生で最後の結婚をする。
しかし万紗子の最後の獲物は病弱で、その命は三年と保たなかった。その間、彼女は献身的に夫に尽くしたようだ。
報告書には『まるで人が変わったような』という、関係者の言葉が載っている。
(荒れ果てた生活の末に、本当の愛に目覚めたのか?)
京介は口にくわえた煙草に火をつけると、深く煙を吐き出した。
その後の万紗子は夫の全財産を引き継いだ。豪邸にメイドを何人も雇い入れ、順風満帆の生活をしていたらしい。しかしその生活は、突然終わった。
報告書を読んだ京介の脳裏に、一連の事件の様子が映像となって思い描かれる。
食事中にメイドの前で、突然ナイフを自分の腹に突き刺しながら笑い出す万紗子。豪奢なドレスは血に濡れ、返り血が部屋中の壁を染める。ぐちゃぐちゃと濡れた雑巾を踏みつぶしたような音と、血で真っ赤に染まった万紗子の顔。焦点の合っていない目で含み笑いする彼女。歓喜の声と共に、飛沫をあげるルビー色の血液……。
この時、万紗子を制止しようとしたメイドは、邪魔をするなとばかりに振り下ろされた万紗子のナイフに掛かり、重傷を負ったようだ。
京介はジャケットのポケットから取り出した手帳をパラパラと捲って、当時重傷を負ったメイドの住んでいる町を確認した。十年前の万紗子に何が起こったか、彼女なら知っているだろう。
当時二十七歳だった女性だから、今は三十七歳だ。十年の歳月は、事件の後遺症で病んだ心を回復させるには、短い時間だろうか?
良心が疼く中、京介は交差点の先でタクシーを止めると、彼女の住む町へと向かった。
(あまり乗り気はしないが……)
京介は窓際に流れる風景を見ながら、ため息をついた
人の忘れたい過去を事細かに掘り起こさなくてはいけない、刑事という職業が時々嫌になる。そしてこの良心の呵責と職業的な必要性とのジレンマは、タクシーが目的地までたどり着く間中収まることはなかった。
無愛想な運転手が目的地に着いたことを無愛想に告げると、京介は緩慢な動きで料金を払って車を降りた。
京介が降りた場所はどうやら静かな住宅街のようで、似たような一軒家が軒を並べていた。あと二、三時間もすれば帰路につく学生達も多く見ることが出来るだろうが、この時間では学生どころか人の姿さえない。その代わり電柱で羽を休める烏の声だけが、やけに大きく聞こえていた。
「さて、これで何かわかればいいがな」
京介は沈んだ心境をとりなおすように呟くと、目的の住所を手帳で確認しながら歩き始めた。そして暫くして目指す一軒家を探し当てると、申し訳程度に立てられた門のインターホンを押した。
「はい? どちら様でしょうか?」
抑揚のない声が電気の箱から流れてくると、京介は今までの心情とはうってかわった明るい声で問いかけた。
「あ、突然すみません。私は警視庁捜査一課の加藤ともうします。十年前のことで少しお話を伺わせていただきたいのですが、林怜子さんはご在宅でしょうか?」
「……お待ち下さい」
プツリと音が途切れ、しばらくすると玄関が少し開いた。京介は扉からのぞき込む女性に屈託のない笑顔で会釈すると、懐から警察手帳を見せる。
女性はしばらく刑事の姿を眺めていたが、どうやら安全を確認できたのか、一度扉を閉めてドアチェーンを外し、再び今度はその姿を見せるように大きく扉を開いた。
その姿を見て京介は目を見張った。彼女の右唇から右耳にかけて、醜い傷が走っていたからだ。彼女の光のない表情はその傷をさらに強調しているようで、京介にはなおさらそれが痛々しく見えた。
「まだ、あの事件のことを調べてたんですか」
彼女は疲れたように言葉を吐き捨てると、肩を落とした。
「林怜子さん、ですね。本当に突然申し訳ありません。」
「どうぞお入りになって。お茶でもお出ししましょう」
「ありがとうございます」
京介は驚愕の表状を一瞬でも隠せなかった事に罪悪感を覚えながらも、怜子の招きに従った。そして居間に案内されると、再度会釈をしてソファに座る。
「ひどい顔でしょう」
怜子は居間から見えるキッチンに入ると、お茶を入れながら自虐的な笑みを見せた。
「この傷さえなければ、十年もたったあの事件を忘れることが出来るでしょうけれど。でも毎朝この顔を鏡で見るたびに、あの事を思いだしてしまって」
「では、まだ?」
「忘れるわけ、ないでしょう」
不意に怜子の声が低くなった。まるで言葉の奥底に憎悪めいた感情が、少しずつ吹き出しているかのようだ。
「あの事件のせいで、私の人生は変わってしまったんです。今更ながら何故あんな女を止めようとしたのか、後悔してますよ」
「遠藤万紗子さんのことですね?警察の調書によると、彼女は改心して旦那さんの介護につとめたとありますが?」
京介の言葉に、盆を持って対面するソファに座った怜子が、鼻を鳴らしてせせら笑った。
「改心? あの女はそんな良心なんて初めからありませんでしたよ」
「では真相は違うと?」
「ええ。あの女は自分の夫がすぐ死ぬことを知っていて、遺産目当てに結婚したんです。
時々私たちに言ってましたよ、『いい所を見つけた、これで一生贅沢して暮らせる』って。あの女は、初めから遺産しか考えてなかったんですよ」
怜子は興奮した口調で、急須に入れたお茶を注ぐことも忘れてまくし立てた。憎々しげな感情を隠しもせず、神経質に髪をかきむしる。
「あの女がいたから、あの女が来たから私の人生は。この傷のせいで私は! 私は全てを失ったわ。愛していた人を失った。職も失った。私の幸せを何もかも……あいつは何もかもを奪った!」
「怜子さん」
いまだ十年前の過去から逃れられないでいる怜子に、京介はかける言葉を失った。あの事がなければ彼女の指に填っていたはずの指輪は無く、この家で幸せを確かめることの出来るはずのモノは、その姿をうしなっていたからだ。
「あの女はね」
怜子の眼前にはあの頃の情景が広がっているのだろう。虚空を睨み付けるその瞳には憎悪が具現した炎がともり、すでに通常の精神状態ではない事を物語っていた。
「あの女は自分の妻の地位を確保するために身籠もったの。遠藤家は以前からあの女と縁を切る計画だったから。
あの女が身籠もってしまったことで彼女の地位は揺るぎないものになった、でも私は知ってるわ。あれは旦那様の子供ではないのよ」
「どういうことです?」
京介は怜子の言葉に眉をひそめた。彼女の表情に不気味な笑みがこもる。
「私がお屋敷の掃除をしているときに、旦那様とあの女の話を聞いてしまったの。
あの女、子供は容姿の良いのがいいって言って……。これから産む子供をまるでペットを選ぶような感じで話していたわ。
そしてあの女は、容姿のいい俳優の精子を買ったのよ!」
「精子を、買った?」
「精子バンクから買ったのよ。私はそれを聞いた後、あの女を咎めたわ。そしたらあいつ、なんていったと思う?
『私は夫は金で、子供は容姿で選ぶって決めているの。不細工な子供を育てたって、面白く無いじゃない』って、私を馬鹿にした態度でそう言ったのよ!」
京介は怜子の口から紡ぎ出される言葉に衝撃を受けた。そして直感的に、翔子と真奈美の事件を結びつけてみる。
お腹の子供の父の名を最後まで言わなかった翔子。夫が不能だった真奈美。もし彼女たちが万紗子同様に精子を買っていたらどうなるだろう?
京介はやっと廻りだした頭脳を酷使しながら、推理の網を張り巡らせた。三人が同じ精子を買っていたとしても、それが原因で発狂することなんてあるのだろうか?
だが、いままで集めてきた情報から、精子バンクという存在が介入したことによって一つの仮説が生まれるのだ。
翔子が父親を最後まで明かさなかった理由が、もし精子バンクで買った精子だったなら納得出来る。自身の寂しさを紛らわせるためだけに子供をほしがる例は、腐るほどある。
そして真奈美の場合、多分精子を買ったのは旧姓である瀧島の親族だろう。彼らにとっては真奈美の子であれば父親など、どこの馬の骨でもかまわないのだ。
精子はその提供者の能力や容姿で値段が変わるが、そのぶん精子を宿す側は子供の容姿をある程度選ぶことが出来るのだ。
実際、アメリカでは有名俳優の精子が数億で取り引きされた事例もある。
(しかし、こんな事があって良いはずがない)
京介は鈍く疼くこめかみを押さえた。
本来精子バンクは、様々な理由で子供を産むことが出来ない人々のためにあるものだ。その存在は彼らにとって唯一の光であり、希望のはずである。それをエゴのために利用されては彼らの立つ瀬がないではないか。
たしかに最近になって、特に子供をペットのように扱う親が多くなってきている。子供を産んだ理由が寂しいからとか可愛いからと言うだけで、そこにある責任などは全く考えられていない。
そして親は勝手に我が子を自分勝手な理想と空想のなかで溺愛するが、その子が親の理想を裏切る行為に出ると錯乱してしまい、行き過ぎた折檻を始めるのだろう。
京介は怜子の家を出ても尚、衝撃から立ち直ることが出来ないでいた。だがその反面、事件の糸口がまた姿を現したようで、職業柄の高揚感も混ざり合う。
精子がどのように関係したかなど、理論的な考察はともかくとして、可能性のあるものを虱潰しに当たって行くのが捜査の基本である。それに有力な手がかりが何一つ無い現状では、怜子の言葉を信じてみるしかない。
これは一種の賭だった。これで無関係なら、貴重な時間を費やすばかりか、タイムオーバーにもなりかねないのだ。
京介は天に祈るような気持ちで空を仰ぐと、未だ人気の少ない住宅街を歩き始めた。帰りのタクシーは、ここでは捕まえられそうに無い。
彼は三、四羽の烏が道路に落ちたゴミに群がり、えさの取り合いをしている風景を横目で見つつ、煙草を取り出し火をつけた。白い煙が彼の後を追うように尾を引き、大気に溶け込んでいく。
その時異変は起きた、烏が急に羽ばたいたのだ。
そして逸らしかけた目を再び烏の群の方へ向けた京介の目に、信じがたい光景が映っていた。
羽ばたく烏達を割り込むようにして、大股に彼に向かって歩いてくる一人の大男がいる。黒いスーツと同色のネクタイ、そしてあくまでも機能のみを重視したようなサングラス。その存在の全てが京介に対して殺意を放っていた。
(ヤバイ!)
京介は瞬時に命の危険を感じた。
五感が研ぎ澄まされ、スローモーションの様にはっきりと、相手の動きを見て取れる。左の懐に手を入れ、そこから引き抜かれたサイレンサー付きの拳銃を片手で構える男も。そしてその男が、何の躊躇もなく引き金を引いことも……。
「クソっ!」
京介は咄嗟に罵りながら電柱の陰に滑り込んだ。今まで彼がいた辺りの路面が爆ぜる。
「おいおい冗談じぇねぇぜこりゃ」
彼自身もいつかはこういう状況になることを予測はしていたが、まさか白昼堂々と発砲してくるとは思わなかった。
「どうやら俺は、事件の確信を突き始めたようだな」
こんな非常事態におかれながらも、彼の表情には笑みがこぼれた。敵も焦っていることがこれでわかったのだ。
しかし絶体絶命なのは変わりない。通路はまっすぐに延びているだけで逃げ込む小道もないし、盾に出来るような遮蔽物もこの電柱のみだ。
(こいつら、やはりプロだな)
必ず仕留められるように地形を選ぶ手際の良さが、あの男がただ者ではないと物語っている。特別に訓練を受けたものか、それともこの手の作業に手慣れたものか。どちらにしろ袋のネズミとなった彼にとっては、全くもって歓迎されるべきものではない。
京介は電柱の陰からこっそりと、黒服の男を覗き込んだ。このまま大人しく殺されると言う選択肢は彼の頭にはない。何処かにつけ込む隙がある筈だった。
しかしいつまで経っても、黒服からの動きは無かった。男は通路に仁王立ちしたまま、懐の中に手を差し入れている。
この異変に気付いた京介は、悟ったように後ろを振り向こうと動いた。いままで京介は、あの男が単独で行動しているとばかり思っていたのだ。
だが気付くのが遅かった。動いた瞬間、後ろから彼の首に太い腕が絡みつくと、そのまま締め上げられてしまったのだ。
さらに、真奈美の事件で負った鞭打ち症が未だ完治していなかったために、頸椎が激痛を伴いながら悲鳴を上げた。あまりの痛みに気が遠くなりかける。
しかし京介は有るだけの気力を振り絞って身を奮い立たせると、相手に体を預けるように脱力した。
「くっ!」
急に重さが増した京介の体を支えるために、男は力を込めて彼の体を引き上げようとする。しかしこれこそが京介が待ち望んだ隙だった。
彼は腰をひねって力を溜めると、渾身の力を込めた右肘を相手のみぞおちに叩き込む。これには黒服の男も堪らず仰け反り、絡めた腕をゆるめた。
しかし京介はこの束の間の勝利を、味わっている余裕はなかった。もう一人の黒服が再び銃を取り出して駆けつけてくれば、はかない反抗もこれで終わってしまうのだ。
彼は気管になだれ込んできた空気を貪ると、すぐに電柱から隣の家の塀に飛び移って庭先に逃げ込んだ。逃げ込む際にその壁の一部が弾けたが、幸運にも弾丸が彼の体に触れることはなかった。
「こんなところで死んでたまるかよ!」
庭先を一心不乱に走り抜けた京介は、わき目もふらずに逃げ出した。行く先も何も決めないまま、ただその場所から出来るだけ遠くへ離れることが、彼の命をつなぐ唯一の方法だった。
あの黒服の男達が何者かなど、今は考える余裕はない。ただ逃げ続け、走り続ける。路面を蹴るたびに頸椎が痛みを主張したが、それも気力で無視し続けた。
そして住宅街の路地を滅茶苦茶に走り回り、やっと大通りと呼べる所にたどり着いた京介は、精根尽き果ててへたり込んでしまった。ただでさえ、運動不足で体力が衰えたところにこれだけの立ち回りをして、いい加減彼の心臓は疲弊していた。
ここは人通りもあり、いかに常識はずれの黒服といえど、派手な事は出来ないはずだ。
暫く歩道に突っ伏していた京介は、息を整えると上半身を起こした。行き交う人々は何事かと彼を見ていたが、構っている余裕など無い。
そして京介はゆっくりと立ち上がり、フラフラと歩き出すと、彼の横を銀色のポルシェが颯爽と通り過ぎた。
どこかで見た車だ。しかしあまりにも疲れて彼の記憶回路は動こうとしない。そうしている間にポルシェはへこたれている京介の目の前に止まり、運転席のドアが開いた。そこから見知った女性の顔が覗く。
「沙也加……」
運転席には舞島沙也加が乗っていた。
疲れ切った表情の京介に沙也加は窓を開け、無言で顎をしゃくる。どうやら乗れと言っているらしい。
「行くわよ」
「どこへ?」
「いいから、さっさと乗って」
沙也加は急くように車を降りると、京介の腕をとって肩に担いだ。満身創痍な京介の鼻腔に、香水の甘い香りが漂よった。
「おい、もうちょっと優しく扱ってくれよ。こっちは散々な目にあったんだ」
「でもその代わり、良い運動になったでしょう」
沙也加は彼の愚痴を一蹴すると、素早くギアを入れて車を走らせる。信号をほとんど無視するそのあまりの運転の荒さに、京介は今までの疲れを忘れて怒鳴った。
「おいこらっ、こんな住宅街でそんな無茶な運転するんじゃねぇ! 人をはねたらどうするんだ!」
「その人も運がなかったわね」
「お前、ホントにイヤなやつだな」
しかし京介の非難に沙也加は冷笑するだけで、スピードを緩める気配はない。ポルシェはクラクションを鳴らされながらも、行き交う車を追い抜いて疾走し続けていた。
「そういえばあなた、追っ手を撒いたようね。さすがは現役の刑事ってとこかしら?」
「なんだか、俺に起きたことを全部知ってるような口調だな。それに何でお前がここにいるんだ?」
その京介の問いに、沙也加は表情を隠しながら言った。
「ちょっと聞きたいことがあって探してたのよ。貴方の事だから、遠藤万紗子の情報を確かめるだろうと予想はしていたし。……でも最終的にはこれを頼ったけど」
沙也加は運転席のハンドル近くに付いているボタンを押すと、カーナビゲーションの画面が独特の音を立てて起動する。
「コレがどうしたんだ?」
「この赤い印が今私の車がいる所ね。そして今は重なっている黄色い点は貴方」
「探知機か!」
沙也加にとんでもない事を知らされると、京介は急いで自分の服を確かめた、そして襟元に小さなピンが刺さっていることに気づくと、忌々しそうに引き抜く。
「今まで気づかなかったなんて、呑気な刑事さんね」
「いつのまに」
「この前会ったときよ。ついでに言ってしまえば、それ、探知機じゃないわよ?」
「なんだって?」
「盗聴器。探知機としても使えるけど、機能としてはオマケね」
「じゃぁお前はずっと俺を盗聴してたという事か? 今までの事を全て聞いていたのか!」
京介の表情が、驚きから怒りに変わる。ここまでコケにされたのは、彼の生涯で始めてのことだ。しかし沙也加は京介の怒りも冷笑で受け止めると、あっさり肯定した。
「ええ。貴方には悪いと思ったけど」
「嘘つけ、そんなこと小指の先ほどにも思ってないくせに」
「……悪いついでに、もう一つつ言いたいんだけど」
「なんだよ」
「そのジャケット、一回くらい洗った方がいいわよ。随分前に仕掛けたモノもそのまま残ってたのには、さすがに驚かされたわ」
「これが初めってじゃないってワケか」
京介の声色が次第に低くなり、こめかみ辺の青筋が色濃く浮き上がった。
「お前とは一回、よく話をつけておかなきゃいけないようだな」
低く唸りをあげる京介を、振り返った沙也加は不敵に笑った。彼女の瞳に美しくも妖しい光が灯り、京介は思わずその雰囲気に呑まれてしまうが、我に返ったように目をそらした。
「話をつけるのは後。今はそんな事をやっている暇はないわ」
「これ以上何が起こるってんだ?」
「これ以上? これからよ」
沙也加はアクセルを踏み込むと、エンジンはそれに答えるように咆哮を上げた。銀の車体は風を切って路面を滑走し、風景が押し流されてゆく。
このとき沙也加は、表情とは裏腹に不安に駆られていた。焦れる感情がハンドルを叩く指に現れる。
(間に合えばいいけど……)
スピードの出し過ぎと騒ぐ京介の声は、彼女の祈りにも似た思いにかき消されていた。
二〇〇一年 四月二四日 PM3:49[-Tokyo- Loyal Prince Hotel ]
公史は緊張も隠せずに、ホテルの扉の前に立っていた。
唯が持っていた封筒に書かれた名は有名なホテルのそれであり、探すには時間がかからなかったが、いざ扉の前に立つと不安が先立つ。
あの時、刑事に陰謀と言われて実感がわかなかったのだが、今になってそれが現実味を帯びてきていた。事件の真相の一つが、この中に隠されているのかもしれないのだ。
「入らないの?」
そう言う唯も不安なのか、扉を見つめるだけで動かない。公史に開けろと言っているのだろう。彼女は扉の前へ押すように、公史を指でつついた。
「……だれか居たりしてな」
「それはないんじゃない? ホテルの人が誰もいないって言ってたし」
「じゃぁお前開けろよ」
「やだよ。誰か居るかもしれないじゃない」
唯のちぐはぐな言葉にも、公史は気にする余裕がなかった。そして意を決したようにノブに手をかけ、扉を開ける。
「おじゃまします」
公史の後ろにしがみつきながら、何故か首をすぼめた唯が呟くように言った。
意識的なのか無意識なのか公史の背中を押していて、彼はそれに巻き込まれるように部屋へと足を踏み入れてしまう。
「すごい」
部屋に入った瞬間に、今まで公史の見たこともない世界が広がった。空間を贅沢に使った居間、居間を壁一枚隔てて設置されているベッドルーム。そして下界を見下ろすことの出来る大きな窓の近くには、高価そうなソファとテーブルがおかれている。
そこは通常のホテルの部屋とは思えないほど広く、そして長期間滞在が出来るよう工夫された、ホテルでも特別な部屋だったのだ。
立ちすくむ公史に習うように唯も目をしばたかせて、この豪奢な室内を見回していた。一瞬ここに来た目的を忘れそうになる。
「それじゃぁ部屋を調べてみよう」
「え? うん」
そして二人は、気を取り直したように部屋を探り始めた。ここに何かがあることを祈りながら。
しかし、そうしながらも唯は作業に集中できていなかった。居間に入った時にふと、既視感が襲ったのだ。
(私は、ここを知っている?)
そう思った瞬間、すり切れた記憶の断片が泡のように弾けた。ソファに座って談笑する二人の男女、一人は義父である憲一だ。そしてもう一人は、優しい笑みを浮かべた見知らぬ女性だった。柔らかな笑顔をたたえたその女性は、彼女に向かって何かを話しかけている。何を話したかは思い出せないが、その時感じた暖かさは覚えていた。
(誰だろう? ここに住んでいた人かな?)
唯は懸命にその女性の顔を思い出そうとしたが、肝心な部分がぼやけていてはっきりしない。ただその女性が、彼女にはいつも優しい笑みをくれたという思い出だけが、かろうじて残っているだけだ。
しかしそのことで、この奇妙な感覚は既視感などではなく、奥に潜んでいた記憶が呼び覚まされたものだと悟った。
唯は記憶の糸を、どうにか手繰り寄せようと部屋を再度見回す。そして最後の記憶の泡が弾けた時、彼女の肢体を衝撃の波が突き抜けた。
(ちがう、私がここに住んでたんだ)
PARTW
二〇〇一年 四月二四日 PM3:57[-Tokyo- City ]
銀色のポルシェは池袋に向かって走り抜けていった。舞嶋沙也加は焦れる感情を押し隠す余裕もなく、信号で停止するたびに舌打ちをしている。
加藤京介はこんな彼女を今まで見たことがなかった。鉄壁のポーカーフェイスを誇っていた彼女の姿は跡形も無く、彼の隣に座っているのは不安と焦りに押しつぶされそうな弱さを持った普通の女性だ。
「何をそんなに焦っているんだ?」
京介は何度も沙也加に問いかけたが、彼女は無言でハンドルを神経質そうに叩くだけだった。
「おい。いい加減に教えてくれないか?」
「……貴方、規崎俊也の兄と会ったことはある?」
「いや、話を聞いたことがある程度だな。神坂憲一殺人事件の最重要参考人。俊也の風当たりも、強くなるばかりだな」
「私が彼に会ったのは、もう十年くらい前。当時弁護士だった神坂憲一氏の、有能な部下だったわ」
「知り合いだったのか」
「彼と私は、前に勤めていた会社で知り合ったの。その会社の顧問弁護士が神坂氏で、彼は秘書みたいな事やっててね」
「それで?」
いきなり昔話をし始めた沙也加に、京介は興味を持ち始めた。彼女がそんなことを話すのは希有なことだったからだ。
「神坂氏が代議士になってからも、私たちの交友関係は続いたわ。でも、あることがきっかけで疎遠になってしまってね」
「あることねぇ」
京介は彼女の微妙な言葉から何かを悟った。しかしそれを確認するのは野暮な話だ。
彼は無言で先を促す。
「今回の騒ぎが起きた時も初めは、何かの間違いだと思ってた」
「規崎達彦は人を殺すようなヤツじゃないってか? それはただの思い込みだぜ」
「いっそ、それなら気が楽だけど……」
「どういうことだ?」
「今日、私の部下がね、彼の身辺調査の報告をしてきたの」
沙也加は疲れを吐き出すかのように、ため息をついた。彼女の瞳に、動揺の光が煌めいた。それは信じがたい事実と、それを理解することが出来ない彼女の、心の葛藤が生んだ悲哀の光だった。
彼女は複雑な思いを込めて、一言一言、ゆっくりと言葉を紡いだ。脳裏に達彦との思い出が湧き水のように溢れる。
「彼は四年前に失踪していたわ、そしてある病院で今も治療を受けている」
「今も?」
「何が起こったかはわからない。植物状態の彼は、千葉の外れにある病院で眠っているわ。
カルテには身元不明とされていた、なぜ運び込まれてきたのかもわからない。でも一つだけ確かなことがある。
彼が神坂憲一を殺害するのは、物理的に不可能なのよ」
「俊也の兄が植物状態? そんな馬鹿な!」
京介は彼女から思いがけない言葉に思わず大声を上げた。
神坂憲一殺人事件の最重要参考人として捕らえられた規崎達彦、そして今も意識の戻らない規崎達彦。この矛盾が京介の今までの憶測を、紙くずのように吹き飛ばした。
「じゃぁ、じゃぁ誰なんだあいつは? 逮捕された奴はいったい?」
「私たちは当初、それが警察側で行われている、検挙率底上げに関係してるのではないかと睨んだわ」
「検挙率を底上げ?」
「架空の人物を戸籍上で作っておいて、それを逮捕することで検挙率の底上げを謀っていることは、随分前にも行われていたの。でも今回は違う。実際の戸籍を奪う必要があったのよ、ある事のためにね」
「あることって、なんだよ」
「殺された神坂憲一。代議士の彼を陥れるためよ。彼は知ってはならないことを知ってしまった。
彼は生前の達彦を知っていたし、信頼もしていた。戸籍と一緒に達彦とすり替われば、効率的に事を運ぶことが出来る」
「すり替わるったって……」
「整形手術なら今時、どんな顔でも作れるわよ」
沙也加の車は夕方の渋滞に巻き込まれていた。苛立ちがさらにつのり、ハンドルを握る手にも汗が滲み出す。
「でも変だぜ、俊也のヤツはあいつの兄貴が植物状態だなんて、知らなかったみたいだ。
兄貴が捕まったことでもかなり怒ってたしな」
「達彦が失踪した所までは、彼も知っていたはずだわ。
要するに上層部は規崎俊也を切り捨てにかかったのよ。達彦の戸籍を彼らの計画に利用していたことは彼には黙ってたようね。
彼の経歴に傷を付けてエリートの道を閉ざす事が目的でしょう。
そして目的を達成させた規崎達彦を逮捕、なんだかの理由をつけて戸籍上で殺し、記録を改ざんすれば誰も不正が行われたとは思わないわ。
もちろん神坂憲一殺害事件を解決させ、マスコミや国民を納得させるのも目的の一つね」
「おいおい。お前の言ってることはワケわかんねぇよ」
あまりの現実離れした話に、京介は頭を抱えた。沙也加の情報が間違っているとは思えないが、それでも信じることは容易ではない。
しかも困惑する彼に、沙也加は追い打ちをかけた。
「それに、これも私の部下が調べたことだけど。架空の人物を逮捕して検挙率の底上げをはかる方法。その執行者の中心人物が規崎俊也よ。
警視庁は今、二つの派閥が出来ていて、彼らが競うモノの一つが事件の検挙率ってわけね。時期警視総監の座を奪い合う骨肉の争い。規崎俊也は派閥争いに大きく関与しているわ」
「じゃぁなんで、あいつが切り捨てられるんだ?」
「裏切ろうとしたからじゃない? それとも初めから裏切るつもりだったのかもしれない。 同期の平刑事を密かに手駒に使って事件を捜査さ
せて、この不正を暴かせるお膳立てをしたのだから、当然よね」
「まさか」
京介の顔色が真っ青になった。信じたくないという気持ちとは裏腹に、心の中の冷静な部分がその可能性を肯定している。
たしかに警視庁では派閥争いが露骨に浮き出ているし、エリート候補生の俊也がそれに無関係でいられるはずがない。それに今までの彼の言動から、思い当たる節は沢山あるのだ。
『お前の休暇を隠蔽できるのは、せいぜい二週間だ』
(二週間が限度。つまり二週間後には俊也自身の地位が危うくなるということか)
京介は眉間に皺を寄せ、考え込むようにシートに深く身を沈ませた。沙也加の推測が正しければ、あの時京介が感じた俊也の焦りの理由も説明がつく。
「いったい、あいつの事件と俺の事件はどんな繋がりがあるんだ?
あいつは平行して調べろと言った。もしその不正を暴けというのなら、俺の事件は後回しにさせるはずだ。
京介の独り言のような問いかけに、沙也加はなにも話さずにフロントガラスの向こうを見つめていた。それはいつもの受け流す態度とは違って、どちらかというと言い倦ねているように見える。
「この事件には三つの要素が絡み合っているわ。一つは検挙率の底上げという不正事件。もう一つが神坂代議士殺人事件。そしてその中心にあるのが、貴方の事件よ」
沙也加は淡々と答えるとアクセルを再び踏み込んで、空いている車線へと車を滑り込ませた。
二〇〇一年 四月二四日 PM4:07[-Tokyo- Loyal Prince Hotel]
ホテルの部屋を訪れてから十分程度が経過した頃、神坂兄妹は捜索範囲を書斎へと広げていた。高級な部屋とはいえ、書斎まで完備してある部屋には心底驚かされた二人だったが、暗くなる前に家路につきたかったので、驚愕の余韻に後ろ髪を引かれながらも作業を進めていた。
この書斎はかなり昔から使われていたらしく、ホテルの部屋自体が神坂憲一の別荘として機能していたらしい。生前彼は、時々何日か泊まり込みをして家を留守にすることがあったが、まさかこんな所で仕事をしていたとは思いも寄らなかった。
「でも、なんか難しい本が並んでるなぁ」
公史は困惑しながらも呟いた。
法律関係の書物は当然として、本棚の大半を占めているのが遺伝子関係の医学書だ。そのなかでも人間の精子や卵子、母胎の子宮の構造など、代議士らしくもない書物が整然と並んでいるのだ。
公史は理解困難な専門書を何気なく開いてみると、その横でやはり困惑している唯が覗き込んで、しかしすぐに諦めてしまった。
「お兄ちゃん。読んでわかる?」
「馬鹿にするな。解るわけないだろう」
「変なことで威張らないでよ」
そういって苦笑する彼女に公史は目配せをすると、静かに本を閉じる。
「でも、親父がなんで医学書なんか読むんだ?」
「弁護士やってた時に、裁判かなんかで使ったのかもね。それとも個人的に医学に興味あったとか、かな?」
「そんな風には、見えなかったけどなぁ」
公史は眉に皺を寄せると、右手を顎にあてて考え込んだ。
もし父親が医学に興味あるのなら、なぜ自宅の書斎にはこのような書物がなかったのだろうか。彼は憲一の死後、何回も書斎を訪れているが、医学書は一冊も置かれてはいなかったように思える。
そんなことを考えながら、公史は何気なく本の列を指でなぞってみると、偶然にも本の死角で見えない所に一冊のノートを見つけた。
「なんだこれ?」
公史はノートを引っ張り出して、表紙の文字を読む。
『ジノテックス・コーポレーション実験結果』
そう書かれているノートはかなり古いモノらしく、ボロボロにすり切れていた。紙表紙の隅にナンバリングがされているのを見ると、他にも何冊かあるらしいことがわかる。
「実験? 何の実験だ?」
公史がそのノートを開こうと思った時、突然唯が彼の背をそっと引っ張った。
「なんだよ、なんかあったのか?」
そして不審に思った彼が振り向いた時、開け放しの書斎の扉に第三者の男性が微笑みながら立っていることに気づいた。
背は高いが華奢な体つき、銀縁の眼鏡、そして柔和な笑顔。それは公史がよく知っている人物のそれだった。懐かしい顔が、そこにあった。
しかし何故か、どこかにズレがあるような、奇妙な感覚が公史の脳髄を刺激していた。妙な胸騒ぎが警戒を呼びかけていて、公史の全身を泡立たせる。
唯もその感覚に気付いたのか、いつもなら喜んで彼の元に駆けつけるはずが、今は怯えた小鳥のように兄の背中にしがみついていた。
「唯ちゃん。そんなに怖がらなくてもいいよ」
男は表情を崩さずに書斎に入ると、備え付けのソファに座ってため息をついた。
「どうやら、嫌われちゃったかな」
「達彦さん」
「やぁ」
心なしかひび割れた声で話しかける公史に、達彦はにこやかに手を挙げて答えた。
「すまなかったね、驚かせちゃって」
「どうして、どうしてここに? 警察に捕まったんじゃなかったんですか」
「うん、でもどうしても、やらなければいけないことがあってね」
「逃げてきたんですか?」
「逃げたワケじゃないよ。規崎達彦はまだ、警察に逮捕されたままだから」
達彦は張り付いた笑顔をそのままに、ソファにもたれ掛かりながら胸ポケットから煙草を取り出すと、達彦の細い指が煙草をつまみ上げた。
公史はなぜかその指が、病的でやせ細った指に見えた。今まではそのような印象を持ったことは無かったが、彼の無機質な笑顔とそれを取り巻く不可解で危険な雰囲気が、彼への印象を逆転させたのだ。
警戒を隠さない公史に、達彦は苦笑した。
「どうやら君にも嫌われたようだ」
「まだ逮捕されているって、どういう事ですか?」
「言葉通りの意味だよ」
達彦は足を組んで煙草の煙を吐き出すと、しばらく間をおいてから話し始めた。
「規崎達彦は逮捕されたよ、これで僕の役割は終わった。やっと元の自分に戻れる」
「元の、自分?」
「そう、元の自分。十年前、君のお父上の告発で倒産を強いられた研究所所長、麻生重治の息子としての自分さ」
ゆっくりとした言葉を発しながらも、達彦の表情は劇的に変わっていった。今までの柔和な表情は跡形もなく消え、憤怒と哀愁がない交ぜられた感情が、公史の心に突き刺さる。
「どういう事ですか」
「詳しく話している暇はないんだけどね、まぁいいけど。とにかく君には早々に退場してもらおうか。僕が必要なのは、彼女だからね」
達彦がそう言いながら白い煙をゆっくりと吐き出したと同時に、書斎に三人の黒服の男達が入り込んで来た。そして足早に神坂兄妹へ近づくと、公史と唯を強引に引きはがして組み伏せてしまった。彼らの行動は公史に反撃をさせる余裕すら与えさせないほど迅速であり、少なくともただ者ではない事がわかる。
「お兄ちゃん!」
唯が黒服の腕の中でもがくが、彼女の力では到底解き放つことは出来ない。
「唯!」
両腕の関節を束縛されて無様に床へ押しつけられた公史は、涙を浮かべて助けを求める妹に顔を向けると、無表情にもこの光景を眺めている達彦に叫んだ。
「達彦さん! なんでこんな事を!」
「止めてくれないか、その名前で僕を呼ぶのは」
達彦は煩わしそうに前髪をかき上げた。言葉に酔いしれているのか、まるで痙攣を起こしたかのように、体が震えている。
「僕には麻生尚紀という名前があるんだから」
二〇〇一年 四月二四日 PM4:02[-Tokyo- City ]
「麻生重治。ジノテックスコーポレーション所長。十六年前に遺伝子操作された精子を使った受精実験が偶然にも成功。その六年後に告発事件があって、倒産を強いられた後に自殺しているわ。
その息子の名前が麻生尚紀。彼が今回の事件の黒幕よ。十年前にMAGIが逃がしたトカゲ。彼が未完成の精子をわざと流出させた……実験と称してね」
舞嶋沙也加は煙草の煙を吐き出しながら、加藤京介に驚くべき真実を告げていた。当時技術的に不可能とされていた遺伝子操作が、偶然という魔術のおかげで成功したことが、この惨劇を呼んだのというのだ。
「その精子が、遠藤万紗子に渡ったというわけか」
「そう、女性は受胎した時、二つの頭脳を一つの体に持つことになる。といっても通常は胎児の脳も休眠状態だし、二つとも別々の個体だから競合することはないわ。
でも彼女が受胎した胎児は、母親の脳と競合を起こしてしまうの。胎児が成長するにつれてその割合が大きくなっていき、最終的には胎児の脳が母胎の脳を乗っ取ってしまう」
「そしてその拒絶反応で発狂する。しかし実際にそんなことが起こるのだろうか」
「母親の精神が、胎児のそれに関係する事例は多くあるわ。
たとえば子供の嗜好。具体的に言えば好物は、母親が妊娠中によく食べる物になることが多いそうよ。だからその逆だって、無いとはいえない」
京介は眉間に皺を寄せて考え込んでしまうと、沙也加はそんな京介の反応を、事前にわかっていたかのような冷静な態度をして京介を諭した。
「すぐには信じられないでしょうけどね」
「そうだとしても、俊也の事件とどんな繋がりがあるんだ?」
「田島翔子と小泉真奈美の自殺事件。今回起こった二つの事件は、麻生が行っていた研究が再開された証拠。そしてその研究を実際に支援していたのが、神坂憲一代議士だったとしたら?」
「まさか!」
「あの頃、当時弁護士だった神坂憲一は事実を警察に告発することで、研究の暴走を止めようとした。
でも重治が死んだ後、研究のデーターを持って尚紀が失踪してしまったの。
事件はこれで終わるはずだったけど、当時の科学庁はこの研究を闇に葬る事が出来なかった。遺伝子操作を世界に先駆けて解明させることが出来れば、日本の医療機関は飛躍的に進歩するわ。そして研究はある大学で極秘裏に進められた。
神坂代議士としては、そのパトロンになれば再度研究の暴走が起こった時に、また止めることが出来ると思ったのでしょう」
「しかし何者かに殺されてしまった。
殺したのは、失踪したと見せかけて規崎達彦とすり替わった、麻生尚紀……か」
沈黙が車内を押しつぶした。未だ渋滞が緩和されない道路上で、外のざわめきの音を聞きながら二人は黙り込んでしまった。
ふと、京介が何かを思いついたように顔を上げた。
「じゃぁその殺人に警察も関わってると言うことか?」
「正確に言えば、警察の一部が、でしょうね。事件を隠蔽させるにも、警察を巻き込んだ方が得策だし」
「もしその警察の一部とやらがグルだとしたら、逮捕云々の情報もあてにならねぇな。
だったらあいつは、麻生尚紀はどこにいるんだ?」
呟くように言う京介に、沙也加は煙草の火を灰皿でもみ消すと、忌々しくも混雑が続いている外を睨みながら言った。彼女の眼前に、高層のホテルが街並みに見え隠れする。
「ロイヤルプリンスホテル。そこに、神坂が弁護士時代から使っている部屋があるわ。
麻生尚紀は、あそこにいる」
「それもMAGIの調査か?」
「いいえ、私の調査よ」
沙也加は憂いを秘めた笑みを見せると、車を大通りから小道へと進ませる。彼らの目的地、ロイヤルプリンスホテルの雄姿が次第に大きくなっていった。
二〇〇一年 四月二四日 PM4:11[-Tokyo- Loyal Prince Hotel]
ホテルの一室。自由を奪われた神坂兄妹の目前で、達彦――麻生尚紀は次第に多弁になっていった。さっきまでの表情は去り、その瞳に恍惚の光が灯っている。それはまるで無力な人間をいたぶる、サディスティックな感情に酔っているかのようだ。
「父さんを裏切った弁護士なんかとすり替わりたくなかったけど、彼を殺すためなら我慢しなくてはね。
でもやっとその役目が終わったんだよ」
「殺した? 殺したのか、俺の親父を!」
公史は自らの体中にも、怒りの感情が沸々とこみ上げるのを感じた。アドレナリンが彼の脳内を駆けめぐり、無意識に奥歯をかむ力が増す。
「ああ、殺した。でもさすがに人を一人殺すのは、後処理に手間がかかるね」
尚紀は公史の感情にも素知らぬ振りをして、憲一の殺害を肯定した。それを聞いた唯の顔が蒼白となり、目を見開いて尚紀を見つめる。
「でもこれでおあいこだよ。君の父上は僕の父さんの会社を倒産に追いやった。そのせいで父さんは自殺をしたんだ。自業自得だよ」
「あんた、今まで騙していたのか? 俺と、唯を騙していたのか!」
「そう信じ込んだのは君だろう? なにを勝手なことを言ってるんだい?」
この言葉が元となり、公史の理性は完全に吹き飛んだ。彼の言葉は、公史の逆鱗に触れたばかりか、今まで信じようと努力していた唯の気持ちを、真っ向からうち砕いたのだ。
「うぉぉぉっ!」
公史は組み伏せられている関節の痛みを意識的に忘れて、力任せに立ち上がった。腕の一本くらいは折れても、尚紀の顔面に一撃を与えることの方が重要だった。
「貴様ぁっ!」
公史は未だ押さえ込もうとする黒服を真後ろへ蹴りると、渾身の踵を膝に当てる。そして膝の関節を狙ったその攻撃のために、一瞬の隙が発生したことを彼は逃さなかった。
右足を素早く引き戻して軸足にすると、ふりほどいて自由になった右腕を、もう一人の男のこめかみに向かって振り下ろしたのである。
急所をしたたかに打ちのめされた男は、よろめいて公史の腕を放した。
完全な自由を得た公史の体は間髪を入れず、怒濤の旋風となって二人の男に襲いかかると。彼のしなやかで威力のある横蹴りをまともに食らった男達は、書斎の壁まで吹き飛んだ。
「覚悟しろ!」
公史は怒りにまかせて尚紀の座っているソファまで駆け寄ると、上半身をひねって右拳を彼の顔面へ衝突させようと構えた。
しかしそれを予測していたように、尚紀の右腕が動いた。それと同時に、まるで火に投げ入れられた竹の爆ぜる音が、豪華な一室に響き渡る。そして一瞬のうちに収束した音が周りの雑音をもかき消したように、刹那の静寂が空間を支配した。
「お兄ちゃん!」
唯は公史の異変を直感的に感じ取った。彼は呆けたような面持ちで、振り上げた拳を戻しもせずに立ちすくんでいる。
そして再び乾いた炸裂音が室内を切り裂くと、その音に引きずられるように公史は後ろによろめいた。
彼はそのまま糸の切れた人形のように崩れ落ち、シャツに広がった赤い染みが絨毯までも濡らし始める。公史は自分の身に起きたことが信じられないように、赤黒く穴の開いた腹に手をやると、呆けたような表情で唯をかえりみた。
「いやっ! お兄ちゃん!」
彼女は兄の名を叫びながら駆け寄ろうともがいたが、男の強固な腕から離れられることが出来ない。
「こまったなぁ、これを使うと後で大変なんだけど」
尚紀は手にした拳銃を弄びながら緊張感の逸した声を出し、銃口を倒れている公史に向けると、さらに二回、三回と引き金を引いた。
銃声と共に公史の体が飛びはねる。
「あはは、まるで陸に打ち上げられた魚のようだね」
尚紀はまるで玩具で遊ぶ子供のように、無心に弾丸を浴びせた。加虐的な高揚感が尚紀の心を満たす。
彼の表情は虫を殺して無邪気に遊んでいる子供のそれになり、銃弾が尽きるまで引き金を引き続けた。
そして何回の銃声が響いた時だろうか、公史の彼の体は引きつったような動きを見せたことを最後に、いっさいの反応を起こさなくなった。
尚紀はそれに満足したように薄笑いを浮かべるが、それでも彼の指が止まることはなかった。
「いやぁぁぁぁっ!」
涙で顔をグシャグシャにしながら、唯は半狂乱に叫んだ。彼女の夢が、彼女の全てが今、音を立てて崩れはじめた。
足が震えて、立っていることさえ辛くなる。
「放してっ!」
必死で暴れる唯がやっと男の腕を振りほどくと、彼女は力を無くしたように兄の元へヨロヨロと近寄り、血だまりの中に座り込んでしまった。
彼女の瞳から、涙が止めどなく溢れる。これからどうしたらいいか、わからなかった。一番大切な人を失った。感情の何もかもが唯の心をかき乱し、嗚咽となって溢れ出る。
「起きてよ、こんなのやだよ。ねぇ、起きてよぉ」
唯は血で濡れた公史のシャツを握りしめながら、弱々しい声で動かぬ兄に呼びかけたが、それでも彼は動かなかった。
優しい瞳で彼女に微笑みかけてはくれず、暖かな大きな手も、彼女の手を握り返すことはない。
唯は自分の服が汚れるのも気にせずに、彼の体を抱きしめると、急速に体温を失っていく肌に頬をすり寄せた。
「お兄ちゃん……」
この時、彼女の心の中の何かが、硝子のように砕けた……。
The last humanity.
私は独りぼっちだった。
だからみんなと遊ぶフリをした。
私は寂しかった。
だからみんなに作り笑顔を見せ続けた。
私は認めてもらいたかった。
だからみんなを信じるように偽った。
でも私は独りになった。
寂しい、辛い、心が痛い。
だれもわたしをみてくれない。
PARTT
二〇〇一年 十一月十三日 AM10:10[-Tokyo- City]
二十一世紀最初の冬。季節は全ての人々に、平等に訪れた。
神坂憲一殺人事件から八ヶ月が過ぎ、世間を騒がせた殺人事件は、過去の埃に埋もれようとしていた。
事件の犯人とされた架空の人物、規崎達彦は無期懲役の判決が下され、国民の殆どはそれが虚構の情報とは疑いもせずに信じ込んでいた。
しかもこの合間にも様々な事件が日本各地に起こると、彼らは目新しい事件に関心を寄せて、半年以上前の事件のことなど気に留める余裕を持つ者は、ごく少数でしかなくなっていた。
事件で明らかにされたあらゆる矛盾は、報道管制下で隠蔽され、完全に闇に葬られたかに見える。
しかし水面下では、少数の人々が未だ終わらぬ戦いを続けていた。
ここにも一人。
加藤京介。それがこの男の名である。
「あれから半年以上経ったか」
都心から離れたところにある病院で、京介は中庭のベンチに座りながら午後の太陽を浴びていた。
舞い落ちるイチョウの葉を何気なく眺めているその姿は、職無しの中年が失意に明け暮れているようにしか見えないが、実はほぼ、その通りなのだから救いようがない。
もう一歩というところでまたもやトカゲを取り逃がし、勝手な捜査展開をした理由で言い渡された謹慎処分が未だ解けていないのだ。
(真実の一端を知ってしまった俺を辞めさせるタイミングを計っている、と言うところか)
京介は胸のポケットを探って煙草を取り出すと、火をつけて深々と煙を肺のの中に流し込んだ。
あの事件以来、東京の街も時の流れに押し流されて徐々に変容しつつある。
雪のように舞い散る桜は紅葉で鮮やかに変色した落ち葉に変わり、柔らかな春風は肌を締め付ける北風にその役目を交代し始めた。
しかしそれでも、唯一変わっていないものがある。
それは規崎俊也が警察官僚の地位を追われた時から、彼自身が心に誓った言葉だった。
二週間という短期間の中で事件解決することが出来なかった京介は、俊也を警視庁内の地位どころか、職までも失わせる結果を生み出してしまった。
俊也の頑なな隠蔽工作のおかげで、京介も道連れに失業することは免れたが、それも時間の問題だろう。
謹慎という文字が、そのまま懲戒免職になる日もそう遠い未来ではない。
結局彼らは警察内部の不正を暴くどころか、その権力が生み出す力に耐えきれず、卵の殻よろしく潰されてしまったのだ。
彼は警視庁の正面玄関から、私物を詰めた段ボール箱を持って出ていく俊也を、罪悪感と敗北感の織り混ざった複雑な心境で見送った。
そんな彼に俊也は、彼には珍しく哀愁を感じさせる笑みをこぼした。それは京介が初めて見る、彼の素の表情だった。
今までの自信に満ちあふれた雰囲気は其処にはなかった。
戦いに負けた男が静かに去っていく背中を、京介は唇をかみしめながら見つめていた。
「なぁ、特権というのは、何のためにあるのだろうか」
タクシーに乗りこむ直前、俊也は抑揚のない声で京介にかたりかけた。
今まで特権の中で過ごしてきた俊也は、その中で何を見ていたのだろうか。京介は親友の心を見透かすように、目を細めた。
「お前はどう思う?」
「特権というのは、組織を円滑に動かしていくための手段だ。私はずっとそう思っていた。しかしどうやら現実は違ったようだ」
視線を京介に向けず、俊也は独白するかのように話した。
「個人的なエゴのために特権はあるのではない。私は……!」
「もういい。何も言うな」
京介は彼の言葉を遮った。彼の口から後悔の念を聞くことに、堪えることが出来なかったからだ。京介の友人は尊大で、自信家で、現実主義者だったはずだ。
しかし今彼の前にいる男は、それらとは全く無縁の者となりはてていた。
「これからどうするんだ?」
京介の問いに俊也は嘆息をすると。
「さぁな、これからどうするか。これからどうしたいかなんて、わからんよ」
「そうか」
俊也はタクシーの後部座席に乗り込むと、失意の表情を変えずに京介との視線を合わせ、力なく声をかけた。
「なぁ京介、私は間違っていたのだろうか」
『その答えをみつけてやる』
散りゆく落ち葉を眺めながら京介は、あの時最後に言った言葉を心の中で繰り返した。
俊也の仇を打つという律儀な事を考えているわけではない。そう考えるまでには京介の忠義心はそだっていなかったし、そもそも俊也自身の計画が破綻したのが原因なのだから、言ってしまえば自業自得なのだ。
京介はそれに踊らされた駒にすぎない。
しかしその考えを貫徹するには、彼のプライドに負荷がかかりすぎた。このまま見過ごせば、刑事の誇りに付けられた傷は一生涯埋まることはないだろう。
京介は忌々しげに髪をかき上げると、気怠そうに立ち上がって歩き始めた。
(平刑事、加藤京介。この肩書きが無くならないうちに、なんとかケリをつけなきゃな)
北風とは裏腹な暖かい日差しを受けながらも、京介の心中は穏やかではない。中庭へ散歩に出ている患者達の笑顔も彼の目に止まることはなく、次第に目つきが細まって鋭くなる。
病棟に向かう京介から、先ほどまでの呆けた雰囲気が消失し、野獣の殺気が漂い始めた。ポケットに手を突っ込んで歩く様子は、刑事と言うよりヤクザじみている。周囲の人々も尋常でない気配を発する彼に、怯えてた視線を投げかけては足早に逃げ出していった。
「こんな所で殺気立たないの、ここは病院よ」
遠巻きに見る大多数の人々の中に、京介のただならぬ雰囲気にも躊躇せずに話しかけた人物がいた。
完全に自分の世界に入り込んでいる彼を、後ろから諭すように声を投げかけた女性は、まるでこれから葬式にでも行くような黒い服装に身を包んでいる。
振り向いた京介に唇をつり上げるだけの微笑をすると、彼女の隣に神妙な顔つきで佇んでいる青年が会釈をした。
「遅かったな、沙也加」
そう言った京介が青年の顔を舐るように眺めて沙也加に視線を返すと、彼女は悪びれる仕草もせずに形だけの笑顔を見せる。
「道が混んでいてね。この子の退院手続きもしなくてはいけなかったし」
「まぁ、お前が時間通りに来ることは滅多にないから、あまり期待はしていなかったがな」
そう言って京介はもう一度青年に視線を戻すと、彼に笑いかけた。
「四ヶ月生死の境を彷徨ってたにしちゃぁ、健康そうで何よりですな。公史さん」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、迷惑なんて思ってはいませんよ。ただ、これから貴方にも協力してもらわなきゃならない」
「はい、そのつもりです」
公史は硬い表情を崩しもしないで、京介の言葉を受け入れた。これから何が起こるか判らないが、それが厳しい物になることは想像できるからだ。
そんな公史の顔を見て沙也加は、彼女にしては珍しく優しい笑みをこぼした。
「今からそんなに気負ってると、後が続かないわよ。それに、この刑事には敬語は不要。そんなたいした人ではないわ」
「余計なお世話だ」
さらりと毒舌を吐く沙也加に京介は顔をしかめると、次の瞬間には笑顔に戻った。
「まぁでも、敬語は使わなくても良いですよ。私も肩が凝りますから」
「はぁ」
「さあ、こんな所で時間を潰していないで行きましょう。あの人も待っているだろうから」
沙也加はそういって彼らを促すと、病棟に向かった。二人の男達も大人しく付き従う。しかし公史だけは、表情を強張らせたままだった。これから出会う人物のことはあらかじめ聞かされていた。しかし実際に目の当たりにするとなると、体が拒否反応を起こしたように言うことを聞かなかない。まるで見えざる手に束縛されているようだった。
「怖い?」
そんな公史の様子を後ろ目で窺っていた沙也加が、彼の隣へ寄ってくると、心配そうに話しかける。
「怖くて当然よね。いままで信じてきたものが否定されるんだから」
「否定されたから怖いんじゃありません。ただ」
公史が恐れるもの。それは現実を見据えることによって、あの時起きた事件が、実際起こった出来事だったという事を再確認させられることだった。
夢であって欲しいという、儚い奇跡を心のどこかで願っていたのかもしれない。
「まだ信じられないんです。達彦さんが偽物で、唯と一緒に失踪したなんて」
瀕死状態から回復した四ヶ月前、そしてそれから一ヶ月あまり。公史はその間、夢現の世界の住人だった。彼の精神は自信の身に何が起きたのかを理解できず、オーバーフローを起こしてしまったのだ。暫くは頻繁に看病に来ていた沙也加を唯と思いこんでいたのだ。
そして夢から覚めた時、彼の心は失望感で締め付けられた。妹を守れなかったこと、信じていた人に裏切られたこと、そして孤独になってしまったこと。これらの感情が怒濤のように流れ込み、気が狂いそうになった。
そして未だに体のふるえは止まらない。彼の心が、事実を受け止めることの苦痛を覚えてしまったからだ。できるなら逃げ出したいが、しかしそれでは何の解決にもならないのだ。
「無理は、しないでいいさ」
苦悩の表情を浮かべる公史に、京介は口を開いた。
「ゆっくり、飲み込んでいけばいい。焦らずに。ただ目を背けるような事は、しないでほしい」
そう言う京介に、公史は躊躇いながらも頷く。しかし目的の病室にたどり着いた時、彼の体の震えはどうしようもないほど激しくなっていった。
意識がどうこうという問題ではない。心と体がバラバラになって、コントロールが完全に利かなくなっているのだ。
ここから逃げ出してしまいたいという欲求が、彼の精神を打ちのめす。扉を潜るという単純な動作のために、これほどまでに労力を要するとは思ってもみなかった。
しかし、只の一歩が踏み出せない。
そんな公史を、病室の扉を開けて中で待つ沙也加は急き立てるでもなく、ただ沈黙を持って彼を待っていた。京介も後ろから大人しく見守っている。
公史は彼らの優しさに感謝しながらも、情けない自身に羞恥を感じた。耳が熱を発したように赤くなり、唇を噛みしめながらも足を動かそうとするが、やはり言うことをきいてはくれない。
「公史君」
入り口の前で震えながら俯いている公史に、沙也加は哀れみを含んだ声で静かに話しかけた。
「公史君。唯を、あの子を助けてあげて」
彼女から唯の名前を聞いた時。公史の体の震えは見るからに収まっていった。
それに一番驚かされたのは、公史自身だ。あれほどまでに抑えきれなかったものが、まるで波が引いたように静まっていく。水流が体中を駆けめぐったかのように、心地よい冷たさが心身を解した。
「沙也加さん、俺はあいつを助けたい」
震えが完全に収まるのを待ちながら、公史は乱れる声もかまわずに呟いた。彼女の笑顔がもう一度みたいと切実に思う。鼻先が熱くなり、涙が自然にこぼれる。
「助けたい、助けたいんだ」
何度も何度も、公史は沙也加に訴えた。いや、沙也加よりも彼自身の心に訴えたのかもしれない。己の意思とは裏腹に、無様にも身動きが取れなかった自分に対して、公史は涙と鼻水で汚れた顔を拭いもせずに言い続けた。
「そうね、約束は守ってもらわなきゃ」
『約束したでしょう?』
沙也加の優しい声が、公史の記憶にある声と重なった。そしてノスタルジックな感覚が、彼の感情に触れ、断片化された記憶が脳裏に弾ける。
『あの子を助けてくれると、約束したでしょう?』
それは病室で目覚める直前。彼の顔を覗き込みながら、沙也加が言った言葉。
あの時彼は彼女を唯と勘違いしていたので、その声までもが唯と酷似していた気がする。しかしその後でも、沙也加の声と唯の声が似ていると思ったことは何回かあったし、そのたびに気恥ずかしさを感じたものだ。
しかしもう一つ、もっと昔に聞かされたような記憶が、消化不良を起こしたようにこびり付いた。
『この子を助けてあげなさい、約束だぞ』
そして懐かしい父の声が呼びおこされれ、その言葉が徐々に沙也加の声色に変わる。それは唯が神坂家にやって来た時に、交わした言葉だった。
『この子を助けてあげて、約束よ』
公史は混乱する記憶をどうすることも出来ずに、呆然と沙也加の顔を見上げた。彼女は変わらない笑みを浮かべて彼を見つめている。その表情も、何故か懐かしい。
「沙也加さん、あなたは……」
公史は喉まで出掛かった疑問を、寸前でかみ殺した。未だ時折、妄想に混乱する現状の中で、今彼が体験した感覚がはたして本当の物なのか判らなかったからだ。沙也加とは病室で会ったのが初対面だったはずだから、今感じている感情は幻だと分かり切っている。
しかしそれでも、心の中に何かが引っかかっているようで、今ひとつスッキリしない。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもないです」
公史は気恥ずかしげに沙也加の目から視線を逸らし、涙と鼻水で濡れた顔をハンカチで拭くと、室内に足を踏み入れた。
集中治療室と書かれたその病室は、周囲を生命維持装置で固められていた。何の用途で使うのか判らない機器類が整然と並べられ、単調な電子音が静かな室内に鼓動している。
その機械類の中央にはベッドが置かれていて、コード類やチューブなどが患者に接続されていた。
「達彦さんよ、本物のね」
沙也加は静かに口を開いた。
「彼は四年前に山林にうち捨てられていた。そこを偶然通りがかった人に発見されて、この病院に運ばれたの。
顔も酸で灼かれ、歯も全て抜かれてるから身元もわからない。彼は一時呼吸停止したらしいけど、奇跡的に命を吹き返したそうよ。そのまま植物状態だけどね」
「……酷い」
公史は達彦と呼ばれた患者の姿を見て、嫌悪感にあえいだ。
顔中を包帯で巻かれてはいたが、目の部分から見える皮膚は赤黒く爛れている。ピクリとも動かない体にまるで人形のような錯覚を覚えるが、かろうじて胸が上下している事とそれに連動した呼吸音で、彼が生きていることが判った。
「麻生尚紀は彼の戸籍を盗んだ後、本物の彼を消そうとしたんでしょう。今の時勢、山中で自殺なんてそう珍しい事ではないですから」
後ろで今まで黙っていた京介も、沙也加の説明を助けるように口を開いた。
「しかし警察を後ろ盾にとっているからと言っても、あまりにも大雑把なやり方ですな。まぁ過去の恨みを晴らすためだろうが……」
「じゃぁ、これは麻生尚紀が単独でやったことなんですか?」
「もちろん何人かは手伝ったでしょうが、アイデアは奴が出したんでしょう。生きながら酸で灼いて山中に放り出すなんて、正気の沙汰じゃない」
「彼は今どこにいるんですか?」
公史の質問に、沙也加は少し困ったような表情を見せた。
「公史君が彼に撃たれてから半年。彼は唯ちゃんと共に失踪したわ。あの日、私たちが駆けつけた時は既に彼はいなかった。
あの部屋に残されていたのは書斎に倒れていた公史君と、麻生を手伝っていた護衛の黒服、三人の死体だけだったから。
でもあの時公史君だけを連れて帰ったのは正解だったようね。もう少し遅れていたら、その後事件を内密に処理しようとした人たちに、完全に殺されていたわよ」
「今まで協力していた仲間も殺すなんて……」
「また暴走したんだよ。十年前と同じようにな」
京介はベッドの手すりを握りしめると、忌々しげに言い放った。感情が高ぶっているのか、公史に対しての敬語も忘れている。
「今や奴は科学庁と警察をも敵に回したんだ。警察はメンツをかけて奴を捕らえる気だよ。馬鹿なことをしたもんだ」
「でも、なんで彼は唯を? 彼の目的ってなんなのでしょうか?」
唯が何故誘拐されなくてはならなかったのか。公史はそこが一番気にかかっていた。あらゆるモノを敵に回してまで、彼女を拉致する必要性が無いように思えるのだ。
「あの時、麻生は唯に用があると言っていましたけど、なんで……」
そう言って、また屈辱に心を焦がされた公史は、唇を噛みしめて押し黙ってしまった。沙也加は公史の肩に手を置くと、しばらく黙って彼の心が癒されるのを待つ。
そして彼女は、何かを吹っ切れさせたよに微笑むと、公史の目を見つめた。
「公史君に見せたい物があるの」
沙也加はこの時、事件の真相の全てを公史に伝える決意をしていた。
それは彼女が生まれてから今までの中で、一番予測のつかない賭だった。もしかすると公史の心を再起不能なまでに傷つける恐れがあったからだ。
しかし、それでも沙也加は彼に掛けてみたいと思った。どのような結果が出るにせよ、彼女の過去を清算するために、それは通らなくてはならない関門なのだ。
そして、沙也加の悪夢が終わりを告げる……。
PARTU
二〇〇一年 十一月十三日 PM3:44[-Thiba- Unknown Place]
沙也加が車で案内した場所は、人気のない丘の上だった。病院を立ってから二時間ほど経過し、それまで一言も喋らなかった公史と京介は、やっと外の空気を吸えるといって車外に飛び出したものだ。
東京を跨いで千葉まで足をのばしたその旅程は殆ど強行軍に近く、カーブのきつい山道を走行したこともあって二人は疲れ切っていた。
「やれやれ、あの車の後部座席なんて乗る物じゃないな」
京介は縮こまって戻らない体を無理矢理伸ばして戻すように、大きな伸びをした。長時間ポルシェの狭い後部座席に体を収めていたのだから、無理もない。
そんな京介を後目に、公史は周囲の風景に気をとられていた。
紅葉も見事な丘の木々に隠れるように、その廃墟はそびえていた。そびえると言ってもそう大して大きな建物ではない。しかしその敷地の広さには唖然とさせるものがあった。 二階建ての鉄筋コンクリートで作られた建物の周りには、今や落ち葉で埋め尽くされたスロープや中庭が完備されていて、以前はさぞかし美麗な施設だったであろう面影が残っている。だが人工の美は廃れてまもなく、入り口の大きな門は朽ち果てていて、建物自体も蔓草などでヒビが走っていた。
「ここは?」
「ジノテックスコーポレーションの研究施設だった所よ」
沙也加は車から降りると、懐かしげに廃墟を見上げた。建物のガラスは長い年月で汚れていて、内部をのぞき見ることも出来ない。
沙也加の言葉を聞いて、京介が驚いたように声を上げた。
「じゃぁ、ここが事件の始まった場所なのか?」
「ええ、ここで密かに実験が行われたわ。精子を遺伝子改良して、次の世代の人類を創造する。彼らはそれを『プロジェクト ネクストエイジ』と呼んだ。
そのころは未だ遺伝子解析が完了されていなくて、クローン技術も手の届く範囲にはなかった。医学の研究が大幅に遅れていた日本は、この実験で世界に先駆ける技術を生み出すはずだったわ。初めはまっとうな研究施設だったのよ」
「しかし所長の命令で不正な人体実験が行われていた。神坂憲一氏はそれをいち早く気づき、阻止に打って出たというわけか」
「そう」
沙也加は相づちをうつと、ゆっくりと玄関口へと歩き始める。公史と京介もそれにつられたように歩を進めた。
そして三人が広い玄関口に到達すると、沙也加はガラス製の自動ドアに手をかけて押し開ける。鍵はかかっていないようで、ガラスの扉は緩慢に動くと、初めて彼らは建物の内部を見ることが出来た。
施設の中は十五年間の埃で灰色に染まっていたが、未だ椅子などの設備が置かれていた。彼らのいるところは玄関ロビーのようで、眼前には二階に続く階段が延びている。その外観は研究施設と言うよりホテルのそれに近く、この建物にどれほどの資金がかけられたかを如実に語っていた。
「こっちよ」
沙也加は呆然とロビーを眺める二人の男に向かって手招きすると、まるで道を知っているかのように歩き出す。そして彼女は一階奥の一室に二人を呼び入れた。
そこは窓も無く、一切の光が遮断されていた。唯一の光源は、いつの間にか沙也加が持っていた懐中電灯の光だけだ。沙也加は二人に室内の様子を見せるため光を左右に振ると、この部屋が二部屋に別れていて、向こう側が大きなガラスで隔てられていることが見て取れた。
ガラスの向こうには見たこともない機械の群れが立ち並んでいた。木の根を思わせるような太い金属製のパイプが天井を縦横無尽に走っており、そのパイプは高さ百八十センチほどもある円柱の透明なシリンダーのような装置につながっている。
「ここが人体実験の行われた研究室よ。実験で女性の子宮から取り出した胎児を、ここで成長させていたの」
「子宮から取り出したって、実験は成功していたのか?」
京介の問いかけに沙也加は何故か動揺の色を見せたが、すぐに立ち直っていつものポーカーフェイスにもどった。
「実験は……」
しかし沙也加の声色は彼女の意志に反して抑揚を乱していた。目線が定まらなくなり、心の揺れががそのまま瞳に映し出される。
「実験は一度だけ成功したわ。遺伝子改良、いえ、遺伝子改造された子供は偶然にも産みだされて、これからの研究に革新的な一歩を踏み出させる起爆剤となったの。
その子は女の子でね……」
沙也加はそこで言葉を切ると、悲しげな瞳を公史に向けた。
「所長はその子に、オリジナルという意味を込めて、『唯』と名付けたの……」
「それって……」
公史は何も考えられず、ただ沙也加の瞳を見つめていたが、喉の奥に詰まる言葉をやっとの思いで吐き出した。
まるで声帯に鉄串でも刺さったかのような痛みが、彼の喉元に広がった。沙也加が彼に何を言おうとしているのか、いかに鈍感な彼でも察することが出来る。
「それって、妹のことですか?」
「公史君……」
「嘘だ!」
公史は堪らず声を張り上げてしまった。彼自身も吃驚したのだろう、彼の瞳は大きく開かれ、怯えたように後ずさる。
驚いていたのは公史だけではなかった。京介も又、同じように目を見開いて沙也加を凝視している。
沙也加は悲哀のこもった眼差しで公史を見つめていた。嘘だという彼の言葉を否定せずに、しかし彼女の目は、それが真実であることを静かに告げていた。
公史はその瞳にも耐えられずに視線を逸らす。
「あいつは、あいつはそんな奴じゃない! 普通の人間だ!」
「そう、見た目は普通の人間よ。ただ彼女は人より敏感に周囲の空気を感じ取ることが出来る。人類が進化の過程で失った感覚、いわゆる第六感的な能力を持っているの。
そして彼女の真価は、彼女の精神力が周囲に与える影響。まだ未発達だけど、これからその力は次第に大きくなり始めるわ」
「やめろ」
「彼らはその力に目を付けた。うまくいけば彼女を介して、民衆をコントロールできるかもしれない。いえ、そのメカニズムさえ解明されれば……」
「やめろって言ってんだよ! なんなんだよあんた! 唯を動物みたいにいいやがって!」
公史は怒りの籠もった目で沙也加を睨んだ。全身が灼けるように熱くなる。彼の激昂は止まることを知らず、しかし沙也加を殴るわけにはいかないので、必然的に辺りの椅子やコンピューターに当たり散らした。
「落ち着け!」
荒れる公史を京介が諭しても、彼の怒りは収まらない。公史は沙也加を罵ると、駆け出すように室内から飛び出した。
「お、おい!」
「追いかけてあげて」
沙也加は懇願するように京介に言うと、そのまま両足を抱きかかえるように、しゃがみ込んでしまった。
京介は一瞬何をどうしたらいいのか判らなくなって戸惑ったが、彼女の言葉を聞き入れて公史の後を追う。駆ける足音が遠ざかり、室内は静寂に包まれた。
沙也加は動く気配さえ見せず、しかし時折嗚咽を漏らしたような声と共に背中を引きつらせていた。
「頑張ってよ公史君」
沙也加は蚊の鳴くような声で呻いた。
「お願い、あの子を助けて……」
彼女の痛々しいほどの懇願の言葉が、暗闇に吸い込まれた。
PARTV
京介が公史を見つけたのは、二階のオフィスだった。
古いコンピューターが室内彼処に設置されたデスクの上に置かれていて、埃にまみれた机に突っ伏すようにしていた公史の元に彼はゆっくりと近付く。室内はあの研究室とは反対に、夕日になりつつある太陽の光が部屋いっぱいに差し込んでいて、空調が利いているはずもないのに暖かかった。
「公史君」
京介は恐る恐る呼びかけたが、公史は無視するように顔を背けた。
「なぁ、君の気持ちはよくわかる。俺だって驚いたさ、まさかあの子が……」
京介がそこまで言い終えると、公史は反応したようにピクリと体を動かした。しかしそれ以上何のリアクションもないと知ると、京介はわざとらしくため息をつく。
「俺が思うに、彼女は普通の女の子ですよ。どこにでもいる、ちょっと勘のいい子だ。こんな事を言うのもね、この勘とか第六感というのは多かれ少なかれ過去の記憶や経験を判断基準に、脳が無意識的に選別しているだけのものなんです。別段、特別なものじゃない。
だから彼女が実験のために作られたこととか、特殊な能力を持っているとか、そんなことは考える必要はないのですよ。
そして君は、そんな彼女を守ってあげなくちゃならない。お兄さんなんだからね」
京介はそう言って、公史の隣の席に座った。窓を隔てて小鳥の囀りが聞こえてくる。その声に彼は一時心をゆだねた。優しい静寂が二人の男達を癒しはじめ、今まで何も感じなかった木々の葉音さえも、心地よく感じられる。
「兄ちゃんだから、俺はいつもそう言われてきたんだ」
しばらく時が経ち、今度は公史が口を開いた。
「妹のいる友達は他にもいてさ、そいつは『お兄さんだから』って言われるのを嫌っていた。でも俺はそんなに嫌じゃなかったな。
あいつの力になることが嬉しかったし、だからこそ俺の居場所がある気がして」
公史にとって唯がどんな生まれの秘密を持っていようが、関係無い。沙也加に対してあれだけの怒りを見せたのは、彼の居場所を他人に汚されたような気がしたからだった。
「それは唯さんも同じだったでしょう。あなたの隣で、あんなに素直な笑顔を見せていた」
「うん、だから俺はあいつを守りたいって思ったんだ。いや、あいつのためじゃない、俺のために守りたかったのかな。
でもそれが怖かったことも本当なんだ。なんか偽善っぽくて、結局俺は自分のことしか考えてないんじゃないかって」
公史は体を起こすと、京介のほうへ顔を向けた。その表情には先ほどの怒りはなく、落ち着いたものになっている。目が少し赤いので泣いていたのだろうが、それは無視することにした。
「だから時々冷たくすることがあって、でもあいつってすぐに拗ねるから、なんか、嬉しくて」
「ああ、判るような気がします」
京介は公史の照れ笑いに微笑んだ。そして少し真剣な目で青年の瞳を見つめる。
「これは友人の受け売りですがね、人間がほしがる最上の物は、脳内で分泌されるホルモンらしいですよ。この分泌液は褒められたり、何か良いことをすると高揚感がまして良い気持ちになる。だから人は無償で優しくなることはない、ということらしいです。
端から見れば見返りも期待せずに人を助ける人がいたとしても、実は人助けをすることによってホルモンが分泌される。その人にとってそれが最大の報酬なわけですよ」
公史は京介の言葉を静かに聞き入っていた。人が無償で優しくなることはない、と言うことは世界はそんなにも殺伐としているのだろうか?
「そう考えると、偽善って何なのでしょうね?
私はね、こう思うんです。偽善でも良いじゃないかってね。何もしないより、偽善でも人に役立つことが出来れば、それで良いんじゃないかって思うんですよ。
もちろん相手を陥れることを前提としてはいけませんけどね。
しかし最近私は、偽善という言葉が、何もしないでただ生きている奴らの言い訳にしか聞こえないんです」
京介は語りながらも公史の顔色を窺った。彼の表情は未だ険しく、明らかに納得しかねるようだ。しかしこの考え方が極論であることは、京介自身も承知の上だった。
「だからあなたも、行動することに恐れないでくださいよ。いいじゃないですか、唯さんを助けることが貴方のためでも。それが偽善と言われようとも。
二人が幸せになれるのなら、それで良いじゃありませんか」
そう言って京介は人なつこい笑みを浮かべた。公史もその笑顔につられたかのように、ぎこちない笑みを浮かべる。
行動することを恐れない。これは幾年経っても変わらず京介の心にある、信条と呼べるものだった。これのせいで多くの失敗をしたこともあったが、何もしないでいるよりはマシだったと彼は考えている。
そして二人はしばらく下らない談話を続けた。それは怒りが爆発した後に萎縮してしまった、公史の心を元に戻すために必要な課程だった。
談話は勇気ある行動の話から女性と初めてデートした体験談へともつれ込み、そこからもっと膨らんで性行為の交渉まで、男性同士でしか話せない会話が場違いなまでに弾む。
しかししばらく談笑している内に、京介の表情に変化が起こった。それはまるで潮が引いたように、彼の顔から笑顔が消え去って困惑の形相へと取って代わったのだ。
「どうしたんです?」
公史は不審に思って聞いたが、京介は公史の後ろを見据えて視線を動かそうとしない。それどころかいきなり立ち上がると、表情を困惑から懐疑に変えながら部屋の隅に向かって歩き出した。
公史は訝しげに京介を振り向くと、京介は壁の何かに見入っているようだ。視線を壁の方に移すとそこには掲示板らしきものがあり、そこに一枚のスナップ写真が貼り付けられていた。
「加藤さん?」
公史が二度、三度と話しかけても、京介は全く動かない。実際、京介にとってはそれどころではなかった。
その写真には二人の男女が写っていた。
彼らの幸せそうな笑顔が、写真全体に溢れている。その女性の腕には赤子が抱かれていて、一見すると家族の写真のように思える。
しかし二人が白衣姿であることや、男性の外見年齢が女性とかけ離れている点が、それを否定していた。男性の方は初老で頭がすっかり禿げ上がっていたが、女性の方はどう見ても二十代前半なのだ。
だが京介が驚いているのはそんなことではなかった。この二人の事を、彼が知っていたからである。
「なんで、麻生重治と沙也加が一緒に写ってるんだ?」
京介が二階の一室で一枚の写真に驚愕している頃、舞嶋沙也加は一階研究施設の廊下をゆっくりと歩き回っていた。
彼女にとっては何もかもが懐かしかった。
沙也加の人生を狂わせたこの施設だったが、その頃は研究に追われていて、未来のことに思いを馳せる余裕など無かった。
あの実験にこぎ着けるまで、様々な試練があった。非合法とは判りつつも、試練を乗り切った時には確かに達成感があったのだ。
懐古的な感情が胸一杯に広がり、彼女は未だ涙で潤む瞳を細めた。沙也加の脳裏に、十六年前の光景が溢れる。
そして感情の赴くままに廊下奥の一室へと足を踏み入れると、そこは彼女あの頃に使っていた部屋で、数え切れないほどの思い出が詰まっている場所だった。
室内は小物類は残っていないにせよ昔と変わらず、埃にまみれたパソコンと空っぽの本棚が夢で見た通りの場所に置かれている。もう既に夕日に変わりつつある太陽が、室内を赤く染めはじめていた。
彼女は服が汚れることもかまわず椅子に座ると、オフィスの中をぐるりと見回す。
「変わってないわね、ここも……」
沙也加の独白が、静寂の中に響く。
そして誰も答えるはずのないこの独白に、答える者がいた。
「やっぱり、お前はここの職員だったのか。道理でこの施設の中を熟知しているはずだ」
沙也加を追ってきた京介はそう言いながら室内に入る。その後ろには公史の姿もあった。
彼女は京介の質問に微笑むと、ゆっくり頷いて肯定する。
「そう、私がMAGIに関わる前、勤めていた会社がこの研究所。そして私は不正とは判りつつも、実験を強行した研究員の一人よ」
「お前が何でこの事件に思い入れがあったか、これで判ったよ。お前が、被験者だったんだな?」
沙也加は下腹部に手をやると、少し悲しい目をした。
「あの子は私の子宮と一緒に取り出されたの。それ以来私は、子供を産めない体になったわ」
公史は彼女の言葉を聞いて、彼が感じた沙也加の悲哀は、もしくは後悔なのかもしれないと思った。
彼女が当時決断したものは、その後の人生を大きく狂わせたのだろう。間違った選択をしたとは言えないが、若かった彼女には選んだ道の意味が理解できていなかったのだ。
「なんで、そんな危険なことを?」
「科学者の性、でしょうね。多かれ少なかれ科学者達は、世界に貢献する技術を開拓することに、生き甲斐を感じているの。私もその一人だった。
新種の人間を作り出す。それに深く関われるのなら、何をなげうっても良かったわ。
しかし研究は顧問弁護士だった神坂憲一に告発され、中断させられた。でも彼は私とあの子だけはかくまってくれたの。
あの人は言ったわ。
唯が生まれたのはあの子の責任じゃない。だから事件に巻き込ませることはしない。しかし母親は必要なんだ……って」
「それで親父はホテルを借り切ったのか……」
「結局私はあの子がいてくれたから、事件から逃れることが出来た。ずっと実験対象でしか見ていなかったあの子に、助けられたの。だから私は、あの子に謝りたくて……。
その後事件の決着を自分なりに付けるため、MAGIに入ったわ」
公史は沙也加の言葉をじっと聞き入っていた。彼女は彼女なりに、過去の清算をしようと必死になっていたのだろう。
いかに研究のためとはいえ、沙也加が生んだ、沙也加の子である。彼女が生まれたことによって、沙也加が昔失い掛けていた最後の人間性が復活したのに違いない。
公史は沙也加を責める気にはなれなかった。たしかに生命を弄ぶ行為をしたにしても、彼女がいなければ唯は存在しなかったのである。しかし一つ、どうしても聞いておきたいことがあった。
公史は沙也加の椅子へ歩み寄ると、彼女の目を見つめた。妹と同じ色素の薄い瞳が夕日で淡い緑に変じる。
彼は病床で感じた感情が嘘ではなかったと確信すると、真剣な表情で沙也加に問いかけた。
「沙也加さん、唯を生んだことを後悔してますか?」
沙也加はその言葉に自信に満ちた笑みを返す。そして、いつしか流れて出していた涙を指で拭うと、掠れてはいるものの張りのある声でそれに答えた。
「まさか、彼女がいたから今の私があるのだもの、生まれて来てくれたことを感謝しているわ。……あの子は私の娘なんだから」
その言葉を口にした途端、沙也加の顔に満面の笑みが溢れた。その裏のない素直な表情に、公史や京介もつられたように笑う。
「お前にそんな表情を作り出す表情筋があるとは、思わなかったぜ」
京介が正直すぎる感想を漏らすと、二人の男は何かを思い出したように吹き出した。
どうやら二階での会話に沙也加が出てきたようだが、そんなことも知りようもない彼女は、訳もわからずに釈然としない表情を浮かべる。その表情が唯のそれに似ていて、公史はドキリとした。
「でも、やっと唯の母親に会えた気がしますよ」
「……そんなにあの子と似てないかしら?」
彼の素直な感想に、沙也加は困ったような顔をして言った。彼女の癖なのだろうか、時々話しながらイヤリングを弄ぶ仕草が、妖艶に見える。
「少なくとも性格は似ていないな。唯さんはいい子だから」
京介は笑いながら遠回しに沙也加を非難した。どうやら今まで彼女にされてきたことを、未だ根に持っているらしい。
「何を言ってるの? 使えるものは使う、利用できるものは利用する。それが私の仕事よ?」
「勝手に手駒にされた俺の身になってみろ。お陰で何回も死にそうな目に遭ったかわからんぞ!」
MAGIが動いていなかったと聞かされた時、京介は自分が罠にはまったことを痛感したものだ。沙也加の狡猾な情報操作によって、知らぬ間に利用されていた彼だから、皮肉の一つも言いたくなる。しかしそんな皮肉にも、沙也加は眉も動かさない。
「でも少なくとも事件の真相を突き止めることが出来たじゃない? それに貴方の方から勝手に関わって来たんだから、自業自得でしょう?」
「だからって、良いように俺を使うな! しかも嘘までつきやがって」
「だって余計な情報を流したら、貴方、暴走しかねないでしょう?
説明してもわかってもらえるような性格じゃないし、下手をしたら猪突猛進に突っ込んで、命を落としかねなかったわ」
京介はズバリと言い当てられて、二の句も告げなかった。
あまり深く考えずに行動を起こす彼だから、沙也加の予測はほぼ当たっていると言える。京介自身もそのことは承知していたので、反論することもできなかったのだ。
「……完全に行動を読まれてますね」
公史は目を点にして硬直する京介に耳打ちした。彼は舌鼓を打って公史を睨むが、観念したようにため息をついた。
「お前には負けたよ……でもな」
そして京介が沙也加にひとしきり文句を言ってやろうと思ったその時。
ガランガランと何かが転がる音が、館内に響いた。
三人は咄嗟に会話を中断し、沈黙して聴覚を集中しながら、お互いに目配せしあう。
「だれかいるのか?」
京介は誰に問いかけるでもなく、声を殺して呟くと、その言葉を聞いた公史に緊張が走った。
「こんな所に人が来るとは思えませんけど」
「この施設に用のある人なら、不思議じゃないけどね」
沙也加はそう言って、思慮深げな表情をした。つい先ほどまでの柔らかで色香に満ちた笑顔で溢れていた筈が、この一瞬の出来事で欠片も残さずに消え失せている。
「用のある人って? 誰が?」
公史の疑問を沙也加は無言で押し消した。憶測で判断できることではないし、もし彼女の予想が当たっているのなら、余計口に出すことは出来ない。
「確かめましょう」
沙也加はそう言うと、いきなりスリットの付いたスカートの中へ手を入れた。黒いストッキング越しに、形の良い足が露わになる。
「おい、いきなり何をする気だ?」
「貴方の想像している事ではないのは、確かね」
彼女は顔を赤らめる京介に呆れたように言い返すと、手に持った黒い鉄の塊を彼に差し出した。
「これを持っていって」
「おまえ! 拳銃なんてもってんのか!」
京介は無造作に差し出されたオートマチックピストルに目を剥いた。まさか拳銃を常備しているとは思わなかったのだ。
しかし沙也加は京介のこの反応にも表情一つ変えなかった。
「非常事態よ」
彼女はそう言って拳銃を京介の手に押し込んだ。
彼もこれ以上の口論は時間の無駄と悟ったのか、渋々ながらも受け取ると弾倉を調べて安全装置を外す。そして無言で沙也加と目を合わせると、足音を立てないように素早く廊下へ移動した。沙也加もそれに続いて京介をサポートするように動き出す。その手には又、どこからか取りだした小さな拳銃が握られていた。
公史もその後を追おうとしたが、沙也加は穏やかにそれを制する。
「公史君はここで待っていて」
「そんな!」
彼は不服そうに沙也加を抗議した。
数分前の会話でせっかく仲間意識が芽生えたというのに、いきなり仲間外れにされたような気がしたのだ。しかし沙也加にとって彼は仲間とはいえ、所詮足手まといになりうる素人だった。
「いいからここにいて。貴方の気持ちはわかるわ、でも丸腰の公史君を連れて行くわけにはいかないの」
「もしかしたら、ただ何かが倒れただけかもしれんしな」
公史を諭す沙也加に京介が加勢すると、公史は引き下がるしかなかった。そして不満げながらも頷くと、「気を付けて」と言って二人を見送った。
京介と沙也加が部屋からいなくなると、公史は急に孤独感にさいなまれた。夕暮れが近づく空は赤黒くひろがって、室内を薄暗い夜の闇に引きずり込んでいく。
彼は一つため息をついて沙也加の座っていた椅子に腰掛けると、天井を仰いで目を瞑り、両手で顔を覆った。
今までに体験してきた記憶が、疲れ切った彼の頭を駆けめぐる。今日ほどあわただしい日はなかった。唯の素性が解り、事件との関係も知り、そしてこれから唯を助けるために行動を起こさなくてはならない。
一年程前、平和だったあの頃が懐かしいとさえ思う。その頃の彼は、唯のことを全く知らなかった。いや、知っていたつもりで追求せずに、それで満足をしていた。
『所詮、人の心なんてわからないよね』
いつしかの、彼女の言葉が思い出される。
『だから私は、その人を理解してあげたいと思う……』
そう言う唯の、少し大人びた顔が瞼に浮かんだ。
公史は深呼吸しながら顔を両手でしごくと、窓の外を眺めたに目を向けた。先ほどとあまり変わらない風景が、冷たい北風に揺れている。
(俺はあいつを解ってやっていただろうか? 信じるという言葉に怠けて、理解してやっていただろうか?)
今までの唯に対する彼の行動を思い起こすと、数々の失態が浮かんでは消えてゆく。そもそも公史は彼女に迷惑ばかりしか掛けていないので、思い出す出来事の殆どが彼の胸を疼かせた。
公史は堪りかねて目を堅く瞑り、頭を軽く振って渦巻く記憶を追い払った。人を理解していたかどうかは、迷惑云々では計れるものではない。いかにその人を受け入れているかが問題なのだ。
その課程で疑惑も起きるし、対立も生まれるだろうが、それはお互いの関係をより密接にさせるための一種の通過儀礼だ。
公史と唯の仲は良かったが、喧嘩も絶えなかった。特に唯は一度思い込むとその考えを曲げようとはせず、度々公史と言い争いになっていた。しかし最終的には泣き出す唯をなだめて終わるのが定石だ。
公史は涙でグシャグシャになった唯の顔を拭きながら、よく謝っていたその光景を思い出して笑みを浮かべた。懐かしい過去の思い出は、今の彼にとって一番大切なものだった。
ザワリ
前触れもなく、感傷にふけっていた公史の身の毛が総立ちになった。何者かの視線が、彼に向けられている事に理由もなく気付いたのだ。そして公史はゆっくりと目を開けると、彼の目に異様なものがうつった。
窓の外でこちらを窺っている男がいる。
いつの間に現れたのかは解らない。男は窓越しからニヤついた表情で公史を見ている。公史は驚いて体を硬直させると、男はさらに口を大きく開いて笑った。それは常人の笑みとは完全に逸脱していて、狂気じみた形相が公史の背筋を凍らせる。
この男が音を立てた奴だろうか?
公史は早鐘のように脈打つ心臓をなんとか落ち着かせようとしながら、男を鋭い目つきで睨んだ。そうしながらも、なにか不可解な感覚がこみ上げ初める。
それは忌まわしい記憶の中に封印されていた、忘れることの出来ない感覚だった。途端に半年前、ホテルの書斎で起きた出来事が脳裏に瞬く。
「麻生っ!」
一瞬のうちに公史の体中が熱くなった。男の顔は知らないものだが、その目の光があの時妹をさらった人物と符合したのだ。
公史は瞬時に椅子から立ち上がって窓を開けようとするが、サッシが錆び付いているのかびくともしない。
その様子を眺めていた麻生尚紀は、必死で窓を開けようとする公史を嘲笑うと、後ろを向いて掛けだしていった。
「まて!」
公史は逃げ出す麻生を怒鳴り散らすと、今まで座っていた椅子を持ち上げて窓ガラスにたたきつけた。盛大な音を立ててガラスは砕けちり、冷たい空気が室内に流れ込む。そして頭を抱え込むようにして窓から屋外へ飛び出すと、尚紀が逃げ込んだ雑木林へ向かって全速力で走り出した。
落ち葉が土を覆う木々の間を、二人の男が走り抜けていった。尚紀は公史を引き離そうと森林の間を縫って走るが、それでも基礎体力の違いからか、公史が徐々に間を詰めていく。
今の二人に言葉を口に出す余裕はなく、土を蹴る音と息づかいしか聞こえない。
しかしこんな時でも尚紀は冷笑していた。公史の足音が背中に迫る度に、彼は悦に入ったような含み笑いをする。
そしていきなり立ち止まると、含み笑いをそのままに彼を振り返った。
公史は尚紀を怒りを込めた瞳で睨み付けた。あれだけ長時間、全力疾走したにもかかわらず、彼の息は一糸の乱れもない。
「麻生! 唯をどこへやった!」
「唯? 人の妻を呼び捨てにするのは止めてくれないか?」
公史とは違い息を乱す尚紀は、それでも不気味な笑顔を絶やさないでいた。
さらに彼は震える手つきで黒い棒状の物を懐から取り出し、それに付いているボタンを躊躇無く押した。
その瞬間、ドォンという爆発音が後方から聞こえ、大地を揺るがせるほどの衝撃が夕闇に轟いた。
公史は驚いて後ろを振り返ると、研究所の方角から紅蓮の炎が貫いていた。
「あはははは! これで邪魔な奴らがいなくなった! お前らがここに来ることを予想して罠を張っていた甲斐があったなぁ」
尚紀が音程の狂った声を上張り上げた。まるで子供のように甲高い声が、公史の鼓膜を刺激させる。
建物はあらかじめ可燃物でも仕込んであったのか、火の周りが異常なほどに早かった。もし人が中にいるとしたら、絶対に助からないだろう。
「沙也加にも悪いことをしたよ。彼女も下らない人生をおくったものだね」
「貴様っ!」
公史の怒りは頂点に達しようとしていた。人の命を弄ぶそのやり方に、彼の理性が弾け飛びそうになる。しかしその寸前で、心の中の何かが感情の暴走を押さえ込んでいた。
「へぇ、馬鹿みたいに突っ込んでは来ないんだね。一応君にも、学習能力はあるんだ」
尚紀はそう言うと、胸元から拳銃を取り出し、銃口を彼に向けた。
「でも、どちらにしろ君の運命は変わらないけど」
公史は拳銃にも臆しもせずに尚紀を睨み付けると、声を低くして唸った。
「唯を返せ!」
「それは出来ないね。彼女は大切な役割があるから」
「貴様! 何をさせる気だ?」
「子供を産んでもらうのさ、新種の人類をね。彼女も普通の人間とはかけ離れた存在だ。彼女ならきっとうまくいく」
「ふざけるな!」
公史の怒気は体中を駆けめぐり、爆発寸前にまでなっていた。理性で抑制されながらも漏れ出る力が、歯軋りや拳を握りしめる動作となって現れている。
「お前の勝手で、唯の人生を台無しにされてたまるか!」
「台無しになんかにはならないさ。僕は彼女を愛しているから……。そして唯が子供を産みさえすれば、僕の夢は叶うんだ。これで、これで僕は親父を越えられる!」
しかし恍惚の表情を浮かべる尚紀の戯れ言を、公史は半分しか聞いてなかった。尚紀が唯の名を呼び捨てにした瞬間に、彼の理性を今まで保っていたものが弾け飛んだのだ。
公史は無言で尚紀との間合いを詰めると、彼のみぞおち目掛けて前蹴りを放った。話すことに夢中になっていた尚紀は、公史の動きを察知できない。
「ぐえっ!」
彼はまともに蹴りをくらうと、今まで張り付いていた笑顔を苦悶の表情に変えて膝を折った。
しかしそれでも公史の攻撃は止まらなかった。膝を折ったことで尚紀の頭の位置が低くなると、今度はその頭へ強烈な回し蹴りを叩き込む。通常なら脛近くで相手の顎先を狙う回し蹴りだが、公史はつま先を立てていた。狙う場所は顎ではなく、耳だ。
彼は尚紀に対する攻撃に、容赦を一切掛けなかった。人体の急所を的確に狙う彼の目は、野獣が獲物を屠る時のそれになり、相手を殺すことに全神経を集中させていた。
「ぎゃぁぁっ!」
尚紀は耳から血を吹き出しながら倒れてのたうち回ると、何とかして公史から逃れようと無様にはいずり回った。鼓膜が破れたのか耳元が不協和音を奏でているが、公史の殺気に圧倒されて気にするどころではない。
公史はその麻生の醜態にも表情を変えなかった。尚紀が完全に動かなくなるまで、彼の怒りは収まる気配を見せず、執拗に追撃をかけようと後を追う。そして彼を追いつめた公史は、とどめの一撃を繰り出そうと構えた。
彼は木の根本にうずくまり、身動きをしない。
しかし公史が渾身の蹴りを放とうとした瞬間、横から大きな影が彼の体に覆い被さった。
「死ねぇっ!」
同時に尚紀が起きあがり、手にした拳銃を発砲した。あれだけの打撃を受けても尚、彼は拳銃を手放していなかったのだ。
爆発音と共に真後ろの木の幹が弾けると、公史を押さえつけていた影が素早く動いて彼を近くの岩陰に引きずり込んだ。
「無理するな! また死ぬ目に遭いたいのか!」
「京介さん!」
胸ぐらを捕まれ揺さぶられた公史は、今まで死んだと思い込んでいた京介を見て驚きの声を上げた。
「お前、もうちょっと過去に学ぶって事しろよ」
京介は岩を盾にするように座り直すと、沙也加に手渡された拳銃を携え、尚紀の様子を窺う。
尚紀は痣で変色した顔を片手で覆いながら、銃口を二人のいる場所へ向けていた。彼は恐れと怒りで手が震え、焦点が定まらない。しかし岩陰からの動きが見えると、怯えるように発砲してヨロヨロと立ち上がった。
「お、お前ら、僕を馬鹿にしやがって!」
尚紀はこの時、完全に逆上していた。今まで優位に立っていたはずなのに公史に形勢を逆転され、反撃しようとした矢先、京介に阻まれたからだ。あまりにも運の無い自分に苛立ちを見せた彼は、常人とは逸した奇声を上げながら左手で顔を掻きむしった。
「ちっ、危なくて出られやしねぇ」
京介は忌々しげに呟くと、公史を横目で睨んだ。彼が尚紀の正気を失わせなければ、交渉の余地も考えられたのだ。今までの敬語もいつの間にか使われなくなっている。
「すみません」
公史もそのことに気付いていたので、素直に謝った。あの時どんなに尚紀に挑発されようが、唯の居場所を聞き出すべきだったのだ。
「まぁ、仕方ないけどな」
京介は彼を責めながらも、自分でも公史と同じようなことをしただろうと思った。唯を守れなかったという失望感と、今度こそ助けたいと意気込む力が、目の前の麻生へと噴出するのは致し方のないことだ。
確かに交渉を進めた方が賢いやり方だが、公史の行動の方がより人間らしい。
「何にせよ無事で良かった。まさか麻生が爆薬まで仕掛けてるとは思わなかったんだ」
「沙也加さんはどうしたんです?」
「あいつは高みの見物だよ」
公史は京介の投げやりな言葉に疑問を抱きいて聞き返そうとしたが、彼がズボンのポケットから携帯電話を取り出してどこかに電話をかけはじめると、口を噤んだ。
「ああ、俺だ。神坂公史を確保した。麻生も俺たちの真後ろにいるぜ。
……計画はB案に変更しろ。奴は既にこちらの話を聞けないほどに興奮している」
京介の電話越しのセリフと共に、盾にしている岩が音を立てて爆ぜた。どうやら怒りの収まらない尚紀が銃を乱射し始めたらしい。
京介は携帯電話を切ると、ため息をつきながら公史の肩を掴んでたちあがった。
「行くぞ」
「え? あいつはどうするんです?」
「詳しい話は後でする! いいから行くぞ!」
京介は訳もわからずにいる公史を促して、奇声を上げて銃を撃ち続ける尚紀から離れるように逃げ出した。
公史は釈然としない表情をしたが、仕方なく京介の後に続くと、尚紀は二人が去ったことにも気付かずに、なにやらブツブツと呟きながら拳銃の引き金を引き続けた。
脳裏に今まで彼に辛くあたった者達の顔が浮かんでは消えていく。もうすでに公史を殺すことなどどうでも良くなっていた彼は、目の前に現れる幻覚に向かって発砲していたのだ。
彼の表情は屈辱と怒りで歪みきり、トリガーを絞るたびに土や雑木が爆ぜる。しかし麻生の目には、幻覚の人物が血を吹き上げて倒れていく様がはっきりと見えていた。
「思い知ったか! 僕を蔑ろにすれば、地獄を見ることになるんだ!」
彼は大声で叫ぶと、さらに発砲し続けた。尚紀の妄想の中の人物達が、次々と苦悶の叫び声を上げては絶命していく。現実と虚構の境を見失った尚紀の凶行は、しばらくの間止まることはなかった。
既に太陽が落ち、暗闇が降りてきた森林の中で、銃声だけが大地にこだました。
PARTW
沙也加は未だ激しい炎を上げている研究所を、数百メートル離れた高見から見下ろしていた。今まで心に重くのし掛かっていた研究所が、紅蓮の炎で灼かれていくその様は、彼女への啓示めいたものを感じさせた。
「これで何もかも終わるわね……」
沙也加はポツリと呟いたが、その声色には寂しさが混じっていた。彼女は今まで、この事件に決着を付けるために生きてきた。そしてそれが終わりを告げることに、何故か戸惑いをおぼえている。それはもしくは不安だったのかもしれない。今までの過去を捨て去る決心をしてこの事件に関わってきたが、これで本当に過去を捨てることが出来るのだろうか?
沙也加はそっとため息をつくと、頭の中で堂々巡りする悩みを拭き払った。今はこの事件を解決することだけに集中しなければならない。余計な事を考える余裕など無いはずだ。
そして意を決したように振り向くと、後ろで腕組みをしながら立っている京介達に形だけの微笑みを返した。
「無事に助け出してくれたみたいね」
「お前の言いなりになるのは、金輪際お断りだ」
京介は疑心暗鬼に駆られた瞳で彼女を見つめた。その横では未だに訳のわからない面持ちの公史が、情けない顔をして立ちすくんでいる。
「あの、話が見えないんだけど」
「こいつはな……」
京介は沙也加を指さすと、怒りの籠もった声を出して彼女を非難した。
「こいつは予め俺たちがここに来ることを、その手の筋へ情報を流していたんだよ。そして麻生尚紀をおびき出そうとしたんだ」
「え? それって……」
「俺たちは又、手駒に使われたんだよ! この性根が腐った女に良いように使われたってことさ」
京介は忌々しげに言葉を吐き捨てると、その非難を平然と受け止めた沙也加は、美しくも冷たい微笑を浮かべた。燃えさかる炎をバックにしているので、その表情にも凄みがましている。
「その事については謝るわ、まさか彼が研究所を爆破するとは思わなかったし」
「お前のまさかは俺の生死に関わる!」
「いいじゃないの、そんなに大した命じゃないわ」
「勝手に俺の命の値打ちを決めるな!」
いきなり次元の低い口喧嘩を始めた二人に、公史はあわてふためいた。彼はいち早く唯を助けに行きたかったし、尚紀を逃がしたことについても理由を聞きたかったのだ。
しかし公史の思惑をよそに、彼らの言い争いはエスカレートしていった。といってもがなり立てるのは殆ど京介の方で、沙也加はその言葉尻を逆手にとって遊んでいるようにしか見えない。
だがその喧嘩も長くなるに連れて、さすがの公史も焦れてきた。
「あの、すみません!」
思わず声を張り上げてしまった公史に二人も吃驚して振り返ると、彼は首をすぼめながら言葉を続けた。
「教えてください、なんであの時、麻生を逃がしたのか」
「逃がしてなんかいないわよ」
喧嘩に横槍を入れられた京介が憮然としながらも口をとじると、沙也加は柔らかい笑みを浮かべて空を指さした。
「今も彼を追ってるわ」
「え?」
「衛星だよ、人工衛星。俺がお前を連れ出した時に、携帯電話を使っただろ? それで麻生の居場所を送ってやったのさ」
「彼は今頃正気を取り戻して、自分の家に帰ってることでしょう。そこにあの子がいるはずよ」
「……じゃぁ沙也加さんが麻生をおびき出した最大の理由は、あいつを捕まえる事じゃなくて?」
「そう、あの男の住処を見つけるためだ」
京介はそう言うとまだ沙也加に言い足りないらしく、またブツブツと文句を呟き始める。
「衛星って……、そんなもの使えるんですか!」
「簡単に使えるわよ?」
沙也加はさらりと言ってのけると、呆気にとられている公史に得意げな表情を見せた。
「私たちのバックには、MAGIがついているのだから」
彼女の言葉尻に、次第に近づくヘリコプターの、空気をたたきつける音が重なった。
カーキー色の軍事用ヘリコプターから降りてきたのは、十数人の黒い戦闘服に身を包んだエージェント達だった。彼らは沙也加の命令を速やかに実行に移し、様々な機材を設置しては、瞬く間にテントを作っていく。
あまりの出来事に公史が目を丸くしている中、沙也加はテキパキと彼らに指示を出していった。まるでこれから戦争が始まるかのように、周囲に緊張が走り始める。
「チーフ!」
作業が進む中、沙也加を呼んだのは、スレンダーな体型の小さな女性だった。いや、少女と言っても違和感はないだろう。幼さの残る顔立ちだが目つきは鋭く、肩にサブマシンガンをさげている様が凛々しい。
「目標がポイントS7で止まりました。それと別の集団がこの森林の周囲を取り囲みつつありますが、いかが致しましょう?」
「別の集団だって?」
京介が二人の話に割ってはいると少女は眉をひそめたが、沙也加が無言で首を縦に振ると、彼女は直立不動のままに口を開いた。
「はい、数は三十人前後で、武器を携帯しています。識別するものは身につけてはいませんが、包囲の手法から軍関係者ではないと思われます」
「どういうことだ?」
京介の疑問に沙也加は腕組みすると、形のいい顎に手を添えた。
「状況から判断すれば、科学庁から依頼された警察関係者でしょう。失踪した麻生の確保と、プロジェクトのレポートを強奪するのが目的でしょうね。
麻生尚紀という魚を釣るだけのつもりが、とんだ雑魚までおびき出してしまったようね」
「まさかこうなるとは思わなかった、ってか?」
「そうね」
「嘘つけっ! こいつらハナっから戦争やるために来たみたいじゃねぇか!
お前、ついでに警察が飼ってる戦闘部隊を壊滅させる気だな?」
京介は後ろで作業するエージェント達を指さしながら怒鳴った。確かに彼らの装備は、麻生尚紀一人を追いつめるものにしては仰々しすぎる。拳銃やライフル等ならまだ解るが、バズーカ砲やら手榴弾やらが地面に並べられていく様子は、まるでこれからどこぞの要塞を攻め落としに行くようだった。
しかも沙也加の動きやすそうな黒服姿も疑わしい。初めはファッションだと思っていたのだが、この状況を見越して服装を選んで来ていたという推測も出来る。
そう疑う京介に沙也加は、「まぁ、それは良いとして」と、いつものように受け流すと、未だ不動の状態で立っている少女へ顔を向けた。
「三分後戦闘態勢、S7に彼らを近づけないで。ただし全滅はさせないこと。後処理を任せる人たちがいなくなったら困るわ」
「了解しました」
攻撃される側にとってはかなり屈辱的な指示を出した沙也加は、次に二人の男を武器の置かれたテントへと案内した。そして、
「私たちは麻生の隠れ家へ侵入して、人質を解放後に脱出するわ。手伝って」と、拒否を許さない口調で京介に弾薬を手渡す。
京介は一瞬嫌そうな顔をしたが、諦めたように手にした拳銃を無言で点検し始めた。
そんな京介を見て沙也加は満足したように微笑むと、今度は真剣な面持ちで公史を振り返った。
「今度は貴方に残れとは言わない。でも強制はしないわ。ここにいる方が安全だし、危険におかされる事はないから。どうするかは、自分で選んで」
しかし公史は沙也加の言葉に躊躇せず、山積みされている武器の中から拳銃を取り出して、それを包んでいる紙を破いた。
彼は沙也加がなんと言おうと、一緒についていくつもりだった。唯を助けるという約束を果たしたいという事もあったが、なにより自分のためにそうしたかったのだ。困難や危険を考えるのは二の次だった。
「本当にいいんだな?」
京介は、付いていく意思を見せた公史を見て沙也加に目配せをしたが、彼の真摯な眼差しを見て、それ以上何も言わなかった。彼の戦いに水を差す無粋な事はしたくないし、いざというときは沙也加もいるので、なんとかなると計算したのだろう。
京介は幾度となく彼女と修羅場をくぐり抜けていたので、沙也加の腕だけは信頼していた。
「じゃぁ、行くか。安全装置は外しておけよ」
そういって京介は公史の肩を軽く叩くと、少し離れた場所で腕のストレッチなどの簡単な準備運動を始めた。その後ろ姿を見て沙也加が微笑む。
「……彼もあなたのことが心配みたいね」
「そんなに危なっかしいですか? 俺」
「危なっかしいから心配してるんじゃないわ。あなたに頑張って欲しいから、だから心配してるのよ」
と、京介と同じように彼の肩を叩き、隣で準備を整え始めた。
次第に彼女の表情に真剣さが増す。これは公史だけの戦いではなく、沙也加の戦いでもあるからだ。
もちろん京介にとっても、規崎俊也の無念を晴らす正念場だった。さらにこれが彼の最後の事件となれば、無意識にも力が入るというものだ。
そして三人はめいめいの武器とそれぞれの決意を胸に、これから戦場となるであろう夜の森林へと足を踏み入れた。
不気味な静けさと月明かりだけが光源の薄暗い世界が、戦地へ赴く彼らを迎え入れた。
PARTX
「なんで僕が、こんな目に遭わなくちゃいけないんだ」
麻生尚紀は半ベソをかきながら、暗い森林の中を走っていた。公史達を始末して唯と平和な日々を送りたかっただけなのに、事態は思わぬ方向へすすんでしまっている。
想像通り事が済めば今頃彼は愛しい妻とともに、至上の生活を満喫しているはずだった。(でも、僕は諦めないよ)
尚紀は赤黒く腫れた左頬を涙で濡らしながら歪に笑った。どんなに辛くても天使が見守ってくれている。
白い肌、美しい肢体、柔らかな肉。その全てが彼を癒すはずだ。
「唯、僕の唯」
麻生はうわ言のように呟きはじめ、妄想にかられた瞳が妖しい光を帯びた。
「僕を癒しておくれ。こんなに君のために頑張っている僕を、不幸で可哀想な僕を慰めておくれ」
そして彼はやっとの思いで家にたどり着くと、震える手つきで玄関のドアを開けた。いつの間にか目は血走り、呼吸も荒くなっている。
彼は辛抱堪らない様子で薄汚れたズボンのベルトに手をかけると、急かされたように外して抜きはなった。尚紀の笑みがさらに歪み、喉奥から歓喜の声が漏れ出した。
「今、行くからね……」
公史と沙也加、そして京介の三人は、木々の間を縫うように森林の奥へと進んでいた。月明かりだけでは心許ないが、懐中電灯などを付けてどこかに潜んでいる敵に察知されるよりはましだ。
エージェント達が向かった方向からは、どうやら敵との前哨戦が始まったらしく、断続的な銃声が闇夜に響いていた。
そして彼らもまた、ただならぬ殺気の渦中にいた。その手の経験に疎い公史でさえ、首筋辺りの毛が逆立つ。
「俺たち、狙われていますよね」
公史は緊張に耐えかねて、沙也加に囁くように言った。彼女はその言葉に片唇を上げて笑うと、無言で肯定をする。
「まぁ、ただでは辿り着けないと思っていたけどな」
やれやれと言うように京介は肩をすくめ、手にした拳銃を胸元に引き寄せた。どうやらそれは彼の、戦いを始める前の一種の儀式らしい。
「おい沙也加、公史と一緒にS7地区に直行しろ。はやく麻生を捕らえないと、また逃げられるぞ」
「……貴方はどうするの?」
「さぁ? そこらで遊んでるさ」
その時の京介の表情は、公史が今まで見慣れている人なつこい笑みとは裏腹に、眼光の鋭さが増しているように思えた。沙也加は彼らしい言いぐさに微笑すると、ウエストポーチから手榴弾を取り出して京介に手渡した。
「あんまり遊びすぎちゃだめよ?」
「殺生なこと言うなよ。夜遊びは俺の本領なんだぜ?」
そう言って京介は沙也加にウィンクすると、弾かれたように走り出した。それを合図に沙也加も公史の手を引いて、同方向へと走りだす。
その一拍をおいて、周囲の暗闇から閃光が走り、銃弾が土を剔った。
「緊急時の対応が遅い!」
不敵な笑いを見せた京介は、光が瞬いた付近に向かって木の間を走り抜けた。決して直線的に走らず、木の幹を盾にしながらも走る速度を緩めない姿は、まるで獲物を捕らえる虎を思わせる。
「見つけたぜ」
京介は夜間迷彩服に身を包み、頭にも黒いマスクをかぶった敵の姿を捉えた。そして何の躊躇いもなく、敵に容赦のない銃弾を浴びせる。
彼は弾が人体に着弾するのを確認すると、すぐに振り返って後ろに続く沙也加と公史に鋭い声をかけた。
「クリア!」
沙也加はその声に素早く反応し、公史と共に今まで敵の居た木陰に向かって走り出した。そして京介のサポートのもと、策敵をしながら進行方向を遮る敵を屠り、適当な木陰に移動した。
そして今度は沙也加がサポートに廻り、京介の移動を助ける。
「すごい……」
二人の息のあった連携に、公史は驚嘆した。いつも口喧嘩をしている彼らに、このような芸当が出来るとは思わなかったのだ。
「そうでもなきゃ、たった三人で別行動なんて採らないわよ」
公史の素直な表現に沙也加は眉目を上げると、四人目の敵に銃を放った。沙也加の撃った銃弾は的確に相手の胸を貫いた。
「あの、殺したんですよね?」
「何を今更?」
「だって……」
公史はこの状況に少し戸惑っていた。自分自身では覚悟していたつもりだったが、現に戦闘を体験するとどうしても怯えが先に立つ。
「知らないわよ。そんなこと気にする余裕なんて無いわ」
沙也加は公史の心境を悟っていたが、あえて突き放すような態度をとった。覚悟を決めたなら甘えは許されない。『こんなハズじゃなかった』と泣き寝入りすることは出来ないのだ。
「いい? 余計なことは考えないで。唯を助けることだけを考えなさい。
貴方が決断したことは、決して間違ってはいないわ。だから自信を持って」
「すみません……」
公史は沙也加の叱責に頭を下げて詫びた。
「なんか怖くなって……」
「まぁ、仕方ないけど……。
ただ、これだけは憶えていて。貴方はこれから、色々な決断を強いられることになるでしょう。でも、一度決断したことに後悔をしないで。前を見続けて……」
「おいっ! そんなところでサボってんじゃねぇよ!」
車やかの言葉尻に、京介の怒鳴り声が被さった。沙也加のサポートが切れたおかげで、銃弾が飛び交う中、単身でくぐり抜けなければならなかったのだ。しかし殆どの敵を無力化している所が、この男が尋常ではない腕の持ち主だと言うことを物語っている。
しかし沙也加は、肩で息をする京介に一瞥をくれただけの反応しか見せなかった。
「まだ生きてたのね」
「お前のお陰でまた死にそうになったぞ!」
「あらそう? 刺激的な人生が送れて羨ましいわね」
「お前、本当にイヤなやつだな」
「それは今に始まった事じゃない……でしょ?」
沙也加はそう微笑むと、京介は「確かにそうだな」と、吹き出した。
「で? 目的地はまだか? なんか後から団体さんがやって来そううな気配だぜ」
「もう、すぐそこよ。
ここを真っ直ぐ行けば、麻生が隠れ住んでいる家があるわ」
「よし、じゃあ先に行け。俺はここで団体さんの相手をするから」
「平刑事一人じゃ無理よ」
沙也加はマガジンを装着して弾倉に装てんすると、公史に微笑みかけた。
「ここからは、貴方一人で行きなさい。そして、絶対に振り返らないで。
貴方の決断したものがどんな結末を迎えるか、自分の目で確かめてきなさい」
「沙也加さん……」
公史は一瞬迷ったが、彼女の目を見て何かを決心したのか、ゆっくりと頷いた。
「ちっ! しょうがねぇなぁ……」
京介はため息をついたが、沙也加の提案を肯定すると、ガリガリと頭を掻いた。
「よし、じゃぁ俺たちが食い止めてるから、とっとと行って来な!」
「ありがとうございます」
京介の激励に、公史は再び頷いた。今まで困惑と恐怖で曇っていた彼の瞳が、次第に澄んでいく。
そして公史はもう一度二人に会釈をすると、そのまま森林の奥へと駆けだした。
京介と沙也加は、彼から若者らしい力強さを感じると、その後ろ姿を満足げに見送った。
「じゃぁ、こっちも始めるか」
京介の言葉に、沙也加は妖艶に微笑した。
「……そうね、楽しい夜になりそうだわ」
そして彼らはお互いの銃を合わせると、迫り来る敵を迎えるために、来た道を戻っていった。
PARTY
公史は森林の中を走り抜けた。
迷いはなかった。不思議と体が軽くなったような気がする。
そして眼前に目的の場所であろう白い家屋を見つけると、彼の足はさらに速まった。
唯に会いたい。
それだけが彼の心を突き動かしていた。
麻生尚紀の隠れ家は、木々に埋もれるように、ひっそりと佇んでいた。
蔓草に覆われた白い壁が、月明かりに照らされて不気味に光っている。
彼は玄関の扉が何故か開け放たれているのを見ると、汗ばみ始めた銃のグリップを握りしめ、慎重に足を忍ばせた。
そうして公史は玄関からの進入に成功すると、まず底に漂う微かな異臭に気付いて、思わず鼻を押さえた。その臭いは生物が排出する糞尿の臭いであり、どうやらそれはこの家中に染みついているようだった。
奥からは、動物の鳴き声のような甲高い音が微かに聞こえる。
彼はその音に警戒して足をとめたが、問題ないと判ると玄関をまっすぐ進んで、たどり着いた部屋を見回した。
居間の床一面には脱ぎ捨てられた洋服や、投げ捨てられて腐った食料などが散乱していた。その上を時折小さな影が這うように走っていた。どうやら虫やネズミの類が巣を作っているらしい。
公史はあまりにも不快な惨状に顔をしかめた。ここは真っ当な人間の住める場所ではないようだ。
歩くたびに度々何か柔らかいものを踏みつけたが、それが何であるかは考えないことにした。
公史は銃を構え直すと、再び耳を澄ませた。
先ほどから聞こえる音は、歩を進めるにつれてだんだんと大きくなり、悪臭もそれに比例するように強くなっていった。
彼は緊張で顔を強張らせながら、音のする方向へと進むと、一つの扉の前で立ち止まった。その声はこの扉から漏れ出ていた。
ここまで近くに来ると、一定の間隔で鳴っていた音が人の声であることがわかる。
まるで金属を摺り合わせたような声に、公史はさらに顔をしかめた。
森林の中で見た尚紀の奇行が、脳裏をよぎったのだ。
(ここにいるな……)
公史はそう確信すると、早鐘のような鼓動を感じながら銃のげき鉄を下ろしす。そして彼は意を決したようにドアノブをまわして、扉を蹴り開けた。
「そこまでだ! 麻生!」
公史は銃を両手で構えて怒鳴った。
しかし、何の反応もない。
ここはどうやら寝室のようで、黒い影がベッドの上に乗っていた。
奇妙な声はその影から聞こえているが、彼の一括にも何の反応も見せずに、しきりに声を張り上げている。
「なんだこれは?」
不審に思った公史は左手で扉近くの壁をさぐって、電気のスイッチを入れた。
寝室が急に明るさを取り戻し、今までボンヤリとしていたシルエットが全て照らし出される。
そして公史は、飛び込んできた情景に目を見開いた。
唯がその白い裸体をさらけ出して、ベッドに横たわっていた。彼女の体は痩せ細り、左腕には点滴のチューブが巻き付いている。
そしてやはり半裸の尚紀が、唯に跨るようにして絡みついていた。その首には唯のか細い指が食い込んでいる。顔はどす黒く変色し、だらしなく開いた口から舌が垂れ下がっていた。
しかしそれでも唯は無表情に、耳障りな声を発しながら尚紀の首を絞め続けていた。ギリギリと皮膚を絞る音が、公史の耳にまで届いていた。
「唯……」
公史はその光景に拳銃を取り落とすと、ベッドに駆け寄って彼女の名を呼んだ。
そして彼女の手をとり、尚紀の骸を引きはがしたが、それでも唯は依然その手を下ろそうとはしない。
「唯! 俺だ! 判らないのか?」
公史は彼女の頭をグシャグシャと撫でると、虚ろな目で叫んでいる唯の頭を抱きしめた。余りのことに、どんな反応を示して良いかわからず錯乱する
戦いを決意した時、公史は幾度も唯を助け出した時の光景を心に描いていた。全てを終わらせた時、彼の側には愛くるしい笑顔をたたえた唯が隣にいるはずだった。しかし現実は彼の甘い予想を易々と切り裂いたのだ。
彼女は明らかに精神を犯されていた。
あの日、唯一の心の支えであった兄を失ったと思い込んだ唯は、そのまま心を閉ざしてしまったのだ。それに加えて麻生尚紀に陵辱されそうになり、彼女の精神は深い傷を負ってしまっていた。
それを理解した時、言葉に出来ない衝撃が公史を襲った。頭の中が滅茶苦茶になり、悲しみの声さえも出ない。
彼は悲痛な表情で両手で顔を覆うと、震えた手で唯の頬をなぞった。
「ああああああっ」
この時彼の喉奥から、初めて声が吹き出した。
楔で穿たれたような熱い痛みが胸に広がり、ともすれば暴走してしまいそうな感情を押さえることが出来なかったのだ。
公史は彼女の小さな頭を胸に引き寄せ、咽び泣きながら濡れた頬をすり寄せた。
彼女はまるで蝋人形のように動く気配さえ無く、その声だけが彼女の生存を証明していた。
「戻って来い」
公史は夢の世界に閉じこもった唯に、すがるような声で懇願した。
「戻って来い。戻って来てくれよ!」
しかし何度呼びかけても、彼女の瞳に光が灯ることはなかった。
公史は、追っ手を一掃した京介と沙也加が部屋に入ってくるまで、唯に呼びかけていた。
堪りかねた沙也加は沈痛な面持ちで公史を止めたものの、彼はその後も彼女に常に寄り添って離れようとはしない。
外では、いつしか戦いを終えたエージェントが撤収作業に入っていた。
そして彼らが唯を病院へ運ぼうとする時も、公史は彼女に寄り添い続けた。
傷つき窶れた唯の心を、どうにかして癒したかった。
父親である憲一が死んだ時彼は、自分が死んだら彼女はどんな反応するかと考えたこともある。
しかし……。
「ここまでなんて、お前、いき過ぎだよ……」
公史はMAGIのヘリコプターで唯と共に護送されながら、寂しい笑顔を浮かべた。
「お願いだから、戻って来いよ……」
公史は、睡眠薬を投与されて安らかに眠っている唯に囁いた。
唯の笑顔が見たかった。
神でも悪魔でも、願いを叶えてくれるならどちらでも良い。
だから……。
「戻ってこい……」
しかし結局、彼の願いは届かなかったのである……。
こうして神坂代議士殺人事件と、妊婦連続自殺事件の二つの事件は一応の解決を見せた。
だが一般に流布された情報には変化はなく、代議士殺人事件の犯人、規崎達彦は無期懲役。そして妊婦自殺事件は、麻薬事件として取り扱われた。
だがその裏で、警察内で極秘に組織されていた戦闘集団はその名を明かす事無く壊滅寸前となり、又、何者かが告発した検挙率水増しという不正が警察庁の内部監査を動かした。
これが元となり、警視庁はその中枢の殆どを総入れ替えする必要に迫られ、現在その処理が行われている。
一方、平刑事であった加藤京介は、うやむやになった処分をいいことに職場復帰。
MAGIのチーフエージェントである舞嶋沙也加は、単独捜査の責任を負わされながらも四ヶ月後に復帰している。
神坂公史はMAGIのエージェントとして組織に入り、失意のうちに渡米。その妹である唯は沙也加に引き取られ、姓を神坂から舞嶋へと変えた。
彼女は病院で治療を受けているものの、回復の見込みは立っていない。
そして、これらの事件は例外なく時間に埋もれ、大衆の記憶からも次第に忘れ去られていった……。
Becouse you wait me such a long times.
君は独りぼっちじゃないから、
だから僕と一緒に生きよう。
君が寂しさを感じる夜は、
僕と一緒に朝まで歌を唱おう。
君が不安を感じるなら、
僕と一緒に笑いあおう。
だからその目を閉じないで。
だから足踏みしてないで。
微笑む勇気を捨てないで。
君の笑顔が咲く日まで、
いつまでも、待っているから……。
二〇〇三年 九月二七日 PM6:43[-Chiba- Narita airport]
一人の青年が、成田空港に降り立った。長旅にもかかわらず疲れた様子はなく、彼の足取りはしっかりしている。
彼は到着ロビーで荷物を受け取ると、大きなトランクを持って空港出口に向かうガラス戸を通り抜けた。
すると「あ、こっちこっち!」と、声をかけた者がいた
青年はかけられた声に振り向くと、一人の少女が彼に向かって大げさな手振りをしていた。
「やめろよ恥ずかしい」
青年は眉間に皺を寄せてつかつかと歩み寄り、ひとしきり彼女に文句を言った。
しかし少女は悪びれもせずに笑っている。
「いいじゃない別に、ほら荷物持つよ」
少女は強引に青年の手荷物をもぎ取ると、ぴょんぴょん跳びはねて青年を急かした。
「ほらほら、ママが待ってるんだから、早く早く! それに次のお仕事があるって言ってたし?」
「ああ? 帰ってきた早々にまた仕事かよ! いい加減こき使いすぎだっての!」
「ママが言うには、一人前になったら人並みの待遇で使ってやる。だって」
彼女の言葉に青年はガックリと肩を落とした。しかし少女はそんな彼を爽やかに笑うと、再度急かして先導しする。
だが青年は暫く歩くと、また立ち止まってしまった。
彼は何かもどかしげに少女を見ている。
「どうしたの?」
少女が不思議そうな顔で青年の顔を覗き込むと、彼は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「何?」
「あぁ、なんだ、その……」
青年は喉元で蟠っている言葉を何とか吐き出そうとしたが、彼女の視線が気になってなかなか言い出せない。
そして青年は彼女の視線から目をそらすと、シドロモドロになりながらも、
「おかえり……」と、消え入るような言葉を掛けた。
すると少女はにっこりと笑った。青年はその笑顔を見て何故かホッとしたようだ。
そんな彼に、彼女は嬉しそうに二、三歩後ずさると、ちょっと戯けながら頭を下げた。
「ただいまっ!」
……そして、願いは奇跡を生み。
奇跡は、絆を呼んだ……。
あとがき
2002.5.16 Kunihisa Iimura worte.
こうして僕は一つの物語を書き終えた。
この物語を書き上げるのに、思ったより長時間を費やしてしまった。それだけに言いようのない達成感が僕の心を満たしている。
しかしこれでどれだけ亡き親友の真実に近付けただのろうかと、少し不安に駆られているのも事実だ。
でもこれを書いているうちに、彼に又会えたような気がして、嬉しかった。
彼の仕草や言葉を描くことで、僕の心は過去へと誘われ、再び彼と語り合えたように思えたからだ。
この物語の中にも、彼の口癖を極力そのままに再現させた。
『私は間違っていたのだろうか?』
この答えは、未だ見つかっていない……。
【次世代 了】
トップへ。