いかほどの猶予が残されているのだろう。
研究室の机に置かれた、空の小壜は何も語ろうとはしない。
すべき始末は既に終えた。床の踏みしだいた灰に視線を落とすたび、安堵に包まれる。
感慨があった。
喉を灼き、胃の腑に到った感覚は酒精にも似て、私を酩酊させんとする。
夢と現実の狭間に、酔う。
懼れる事は何一つない。
今こそ、乾美智子(いぬいみちこ)と定義された私を戒める枷を外し、広大無辺の宇宙に飛翔する時。
世界を掌中に収めた、無限の絶頂感。
恍惚となりながら、想いを馳せるのは矢張り、あの邂逅だった。
初春の、ねっとりとまとわりつく鉛色した空気がたれこめる曇天の日。
私は、出逢った。
まさに運命と称すべき、邂逅。
その邂逅を慈雨とし、私の精神に密かに植えつけられていた「狂気」という名の種がゆるりと芽吹いてゆく様を、独り、反芻せずにはいられない。
すべては、あの日から歯車は狂い始めたのだ──。
*
いいえ、狂った歯車が軋みつつ本来あるべき姿を歪ませていたのは私個人だけでなく、私を取り巻くこの国家、さらに世界そのものも含まれている。
不穏なる時局の様相。
考えるに分岐点となったのは一世紀前の阿片戦争ではあるまいか。古来、倭国と呼ばれし頃から大陸に寄せていた、父と仰ぎ見る尊敬と母と慕う敬愛の念。言うなれば我が国にとって文化的にも、精神的にも親である大陸。
ところが時代は大陸を阿片に酔わせ、堕落させた挙句木ツ端微塵に瓦解させた。西欧列強各国によりて強姦され、すべてを奪い尽くされてしまったのだ。
母親を陵辱されるようを目撃した幼子は──我が国は心的外傷を負い、ファシズムという自己防衛手段を発見した。世界に冠する独立国家であろうとする儚き理想の為に。
国体保護のもと明治維新を契機に、日清日露戦争、続く第一次世界大戦を経て大陸に樹立した満州国の欺瞞。さらに先日は日独防共協定の締結を得て、世界に号する存在となったと錯覚を起こし始めている。
「……傾国の兆候ね」
呟いてみて、自嘲する。
かく云う私こそ、国家の狂気を邁進させる尖兵なのだから。世界第一位の名に相応しい何者をも屈服させ、従わせる窮極の力を得んと模索し、希求する者なのだから。
否。少し、違う。
私は──私の真実をこの手にしてみたいと希う、小心者の女。窮極の力の獲得を悲願とするのは帝国大学で教鞭を振るう蘭堂一二三(らんどうひふみ)教授の方で、兎角、私は苦手に感じる。
恩義があっても、打ち消しがたい生理的な嫌悪。
蘭堂教授に限った事ではない。どうにも他人との距離感を覚えるのだ。人としての何かを胎内に置き忘れて私は産まれてきたのだろう。
かつて私は神童と呼ばれ、才媛と持て囃された。私にとって自明理なごく自然な事なのに、周囲の人間には驚異と映るらしい。常に私はその差異に甚だしく困惑させられた。それでも賞賛されているうちは良かった。二十歳を過ぎ、親の勧めた見合い話を断ると、世間の私を見る目は掌を返すように冷たくなった。新時代に向けて女性進出を応援するその口で、女に学問は不要だと悪しき様に罵られた。
理不尽に、私は頑なになった。
蘭堂教授は唯一人の理解者と言えなくもない。その好色な視線に悪寒を感じながら、らしくない忍耐を総動員させた苦労は報われた。蘭堂教授の伝手を辿り梶塚隆二(かじつかりゅうじ)氏の紹介を経て、要望通りの研究続行を承認する旨の書面が『亜細譜(アジフ)』より届いた。
関東軍々医部長を務める梶塚氏の肩書きは絶大だ。昨今の軍部の権勢増大には目を瞠るものがある。キナ臭い騒擾の空気は、かえって心地好く感じられる。それだけ私の研究は重みを増し、軍部の注視を集める事ができたのだから。
名目上はこの非公開の特務機関『亜細譜』付属研究施設に招聘された事になっている。それと知った同輩のひとりが『亜細譜』設立に先史調査委員会なる胡乱な組織の関与を仄めかす、親切な忠告をしてくれた。
当然、私は耳を貸さなかった。
潤沢な研究資金を有し、あらゆる倫理道徳を斟酌しない、第一級の最新設備を整えた研究環境に何の文句があろう。帝大の院生寮を引き払い、長野県松本市にある施設の研究室に黒猫の九鬼と雑多な資料共々移った翌日には、私は世間の疎ましい干渉を速やかに忘却し、すっかり与えられた待遇に満足していた。
そう。殺伐とした中にも泊り込むことが多いため、どこか生活臭の滲み出したこの八畳間の研究室が私のささやかな居場所。ここには世俗の──自律神経を狂わせた雑音はなく、存分に好きな研究に没頭できた。
月経るにつれ、帰京を促がす親の音信も途絶え、私は自由を得た。
何よりも研究の完成が私に課せられた第一命題だった。機関の命令に隷従しているのではない、私の魂がそうしろと囁くのだ。
愚神の呪縛を解き放て、と。
そんな日々に、運命は前触れもなく訪れた。
「にゃあ」
顔を上げると、二晩続けて枕代わりにした机の上に飛び乗った九鬼が鳴いた。ぴんと伸ばされた髭を誇らしげにし、愛嬌のある金銀妖瞳を細める。朝飯を催促していた。
「もう。わかったわよ、九鬼」
仕方なく銀縁眼鏡を掛け、椅子から立ち上がったその時だ。
「乾君、居るかね!」
ぶよついた腹が研究室のドアを弾き飛ばして云った。
「ほ、ほ、ほ、居るではないか。乾君、居るなら居ると返事をし給え」
「は、はあ……」
曖昧な笑顔で対応する。蘭堂教授は学生たちに達磨教授と呼ばれているように、赤ら顔を髭で包んだ達磨に、短い手足を付けた容姿をしている。それでいて達磨大師と正反対の性急な性格で、私は嵐に翻弄されているような目間苦しい気分になる。
蘭堂教授は研究室に慌ただしく入り込むなり、私を指差した。
「紹介しよう。彼女が先程お話した仏理学者の乾美智子君だ。で、こちらの御仁が──遠き独逸よりいらしたシュヴァルツ卿だ」
私は戸口に立つ気配に、喉元に白刃を刺し当てられたかのように硬直した。背後で九鬼が毛を逆立たせ、威嚇しているのが振り返ることなく知覚できた。
「初めまして、乾美智子殿。お目にかかれて光栄です」
ゆらり廊下の暗がりから、現れた影は。
恰も悪夢が形を成し、現実に忍び込んできた感覚に訳もなく私はおののき震えた。
魂の奥深い闇から囁く、声。
陰々と響くその声は確かに聞き覚えのある声だと云うのに、私は誰の声なのかさっぱり判らないのだ。
奇妙な既視感。
「どうしたのかね、乾君?」
「あ、はい、その……」
数秒とはいえ、呆けていたのだろう。蘭堂教授に呼びかけられて我に返ると、目の前に白手袋に包まれた片手が差し出されていた。
「これは失礼致しました。乾です、初めまして──」
「イスヴェス・ヴォン・シュヴァルツと申します。伯林の国立人工進化研究所で所長を務めております。イスヴェスとお呼び下さい」
私は動揺を隠し切れず、彼──イスヴェス博士と握手を交わす。
よく見ればイスヴェス博士は銀髪碧眼の、アーリア人種の特徴標本と云うべき人物だった。年齢は五十代に差し掛かったところか。立派な銀髪を後ろへ撫でつけ、モノクルをはめていない左目は叡智に澄んだ深い碧色をしており、尖った鷲鼻の下の口元は美髯を蓄え人好きのする笑みを浮かべてさえいた。ただ、よく陽に焼けた健康的な肌は色黒であった。
生地からして上質な燕尾服に丹念に磨かれた黒の革靴。蛇を彫金した握り柄のステッキを携えたイスヴェス博士は挨拶を終えるとその頭にシルクハットを優雅に載せた。
西洋の紳士。
打?だけでなく、身にまとう雰囲気が私にそれと知らしめ萎縮させる。歴史の重み、とでも呼ぶ醸し出す重厚さに、蘭堂教授が同じ装いを真似たとしても滑稽な喜劇役者としか映らないだろう。
「それで……?」
威圧感を追いやった私はこの西洋紳士の登場について説明を求め、蘭堂教授を促がす。
「ああ、そうだった。卿に君の話をした処、いたく興味を示されてね、是非会って話をしたいとのことで案内したのだ」
頷いた博士が話を引き取る。
「美智子殿の研究命題は『悟り』とか。仏教についてあまり詳しくないが、東洋を代表する宗教の秘儀を科学的に検証することは有益な試みだと小生も考えます。『悟り』の再現は我が国の哲学者ニーチェが説いた、かの超人思想にも一脈通じるものがありますね」
イスヴェス博士はずばり核心を突いてきた。
その時になって漸く、私は博士が独逸訛りの流暢な日本語を操るのに気が付いた。
私は咳払いを一つ、気を取り直して応えた。
「無礼を承知で申し上げますが、私は既存の宗教を信仰の対象とは見なしていません。教祖と信者という教団の図式が派生した時点で、それは体系化された洗脳装置へと零落てしまうのです。喩えるなら人の精神を汚染してゆく悪辣な伝染病のように、表層は偉大な哲学者の遺した理論で包んであるだけに無知な大衆に浸透し、自己増殖を繰り返してゆく」
「宗教は阿片である、と?」
「修行の名の元に人を極限状態に追い詰め、思想形態を画一化する点において良く似た機能を発揮します。宗教の歴史とは、極言すれば洗脳技術を洗練化する過程とも捉えることができます。霊媒の流れを汲み、宗教秘儀において大麻や鳥羽玉、ソーマにコカの葉、アヤワスカ、マジックマッシュルーム等の幻覚性植物を用いた記録もある事ですし。賛美歌や読経でさえ、連続した発声により脳内へ供給される酸素を削減させることで瞑想状態に導く役割を果たしています。昨今の新聞を賑わす新興宗教の教祖など単なる詐欺師です。天津教の竹内巨麿(たけうちきょまろ)然り、大本教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)然りです」
時代が要求する、との謂いはある意味正しい。
江戸期、伊勢御蔭参りが周期的に起ったように神州の皇民はすべからく狂信に駆られる性を先天的に備えているのだ。性にして、業。容易く断ち切れる枷ではあるまい。行き着く処まで到らねば決して目醒める事のない、盲目的な驀進を止めるすべは皆無。
私に何が出来る?
個人の力など、荒れ狂う奔流に投じる一石にも等しい。
私の長舌を拝聴した博士は嫣然と笑む。
「これは手厳しいご意見ですな。兎も角、美智子殿は詐術ではない仏理を探求しておいでだ。教授にも伺いましたが、論拠となる成果を見出しておられるのでしょう?」
「虚偽を相手に真実と信用させる為に、一片の真実を紛れ込ませるのは詐欺師の常套手段です。二千年に渡って記された膨大な経典の中から真実を掬い上げるのは砂漠において一本の針を見つけるようなもの。早々に労苦が報われる日は来ないかと存じます」
背筋に生じた氷塊を感じながら、私は逃げ口上を述べた。この謎めいたイスヴェス博士に研究成果たる『悟り』を得々と見せびらかすつもりは毛頭なかった。
それは猜疑心ゆえの警戒で、特に深い理由はなかった。
「蘭堂教授」
含みをもたせ、博士が呼ぶ。
私の態度から察したのだろう、イスヴェス博士はその矛先を変えた。そして、それは正しい選択だった。
「乾君、卿に実験の立会いを願おうではないか。何か示唆が得られるかも知れんぞ」
炯々と妖しく光る瞳に、拒絶の言葉は揮発した。
「蘭堂教授の許可が得られるのであれば、ご随意に」
私の精一杯の抵抗がそれだった。
今になって私は悔やむ。
たとえ研究室から放逐される結果になろうとも、私は拒むべきだったのだ。
人が知るべきではない真実は頑として実在する。
そんな警句を幾つ目にし、耳にしただろう。ところがこの時の私は全く理解してはいなかったのだから。嗚呼、無知とは実に恐ろしい。旺盛な知識欲に駆り立てられるままに研究に勤しみ、警句の意味を理解した時には、既に手遅れだった。
帝都は本郷界隈で古書屋を営む店主が自費出版したラブクラフトの翻案本で語られる異形神話を荒唐無稽な御伽噺と嗤うことは最早、出来ない。
神話に込められた一片の真実。
私は、知ってしまった。
戻れることならばあの日に還り、過日の私にそれ知るなかれと強く説得するだろう。叶うはずのない願いを思うのはあまりにも深い悔恨ゆえだった。
*
地下室特有の湿った空気が跫音を響かせる。
通路の防水が完全ではなく、浸水する地下水がぴとりと単調な音を奏で、跫音と和する。
機関の地下秘密実験室に向かう途中だ。
ランタンを掲げた私は先頭に立ち、行く手を阻む物々しい鉄格子の錠前に鉄の鍵を差し込んで回す。歯の浮くような軋みをたて、開いた格子戸を全員が抜けると確り施錠をしてから先へと進む。
「…………」
誰も口をきかない。
この陰鬱な、巣鴨の拘置所を連想させる場所で朗らかに会話を楽しめる筈もない。廊下に漂う強烈な消毒薬ですら太刀打ちできない、声なき怨嗟の気配。もとは白かった漆喰壁に深く染み込んだ血痕が、先史文明の文字を思わす不吉な図形を成している。
私は仏頂面で先を行く。
「機関の要請なんだ。いいかね、乾君。そもそも──」
慌てて、小走りに近寄った蘭堂教授が小声で弁解するように宥めてくる。
ぼそぼそと囁かれた単語に、私は驚いて訊き返す。
「祖国遺産協会(アーネンエルベ)とは、また大袈裟な──」
言いかけて、蘭堂教授の真剣な面持ちに口を噤む。
通称、ナチ・オカルト局。
我が国の先史調査委員会に相当する、独逸は親衛隊(SS)の下部組織である魔術統括機関と聞き及んでいる。祖国遺産協会の関与が事実なら、私の研究に口を挟みたくもなるだろう。
独逸は──アドルフ・ヒトラー総統は来るべき第二次世界大戦を見据え、二足歩行搭乗兵器・装甲猟兵(イェーガー)の開発と並行して、強化兵士としての超人類(ユーベルメンシュ)を求めている。
科学と魔術、両面からの人為的進化促進手段の模索。
それが祖国遺産協会に下された研究命題の一つだ。
私が追究する『悟り』とは、すなわち過去二千年において唯一例しか成功事例のない、希少な超人覚醒の機序を指す。数多の修行者が聖人に続かんと瞑想に、研鑚に人生を賭けて苦行に勤しみ、志半ばで挫折した。手引きとして編まれた膨大な量の経典も、『悟り』の深甚さを仄めかすばかりで真理を明らかにしない。まるで、再現を懼れているかのように。
それだけに覚醒後に修得できる大神通──神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏心通を備えた超人をもって最後の大隊(ラストバタリオン)を設立するには充分過ぎるほどの意義がある。
新開発技術の軍事転用。
声高に有効活用とのたまう軍上層部の良識を問う。
近く伊太利を含めた三国同盟の調印が執り行われるとの噂だが、そこまで親密になる必要があるのか疑わしい。国家としての歯止めを失ってはいないか?
狂気に憑かれ行軍する軍靴の響きが聴こえてくるよう。
私たちは滅んでゆくのかも知れない。予感と呼ぶにはあまりにも諦念を孕んでいる。
選択されたこの道は、自滅の道だ。私たちはふえかつ増して地に満ちて、地に動くすべての生物を従え、海の魚と天の鳥を支配した。神の予定調和通りに。そして人が地に満ちた時、神はその永き眠りから目醒めると預言されている。
(大雄猛なる世尊は、久遠に入滅したまふと雖も
無量無数劫には、滅度もまた滅度せん)
否、否、否!
神は死んだ。死して夢見る神の復活を覆す為に私は『悟り』を求めている。
ちらり、博士を見やる。
言葉にしなくても態度が西洋人の驕慢を表している。極東の島国にどれほどの文明が育ち得るか、高みから見下す不遜な雰囲気。まるで知能程度の低い猿を眺めるような、碧色の隻眼が私を苛立たせる。
自分でもこれほどまでに反発心を覚えるのか、理解し難い。私は視線に憎悪の色が混じるのを感じ、なるべく博士の方を見ないようにした。
鉄の鍵、銀の鍵、金の鍵を順に用い、私に与えられた実験室の前まで来る。
三つの格子戸は外からの侵入者を阻む障碍であると同時に、内側に封じた被検体を監禁しておくための封印でもある。
今を去る事、数年前──。
岡山県津山市の外れ、人里離れた山奥の研究所から被検体が警備の目を掻い潜り、脱走すると云う事件があった。軍より委託された極秘研究の特性上、包囲捕獲よりも隠蔽工作が最優先されて残念ながら好ましかざる結果を残した。
脱走した被検体は戸数二十三の小村に逃げ込んだのである。
夜半に侵入した被検体は日本刀と猟銃で武装して短時間の内に民間人三十余名を殺害、実戦における有効性を証明したものの、停止信号を拒絶する最悪の欠陥を露呈してしまった。已む無く追尾した警備武官により射殺されたが、事件は内々に処理しきれず世間を大きく騒がせた不祥事となった。なにしろ司法省刑事局にかけた事実捏造の圧力も空しく、翌日の地方新聞に大見出しで戦果を暴露されてしまったのだから、堪らない。
その事件「津山三十人殺し」は犯人都井睦雄(といむつお)の名と共に、犯罪史上稀に見る大量猟奇殺人事件として記録された。
以来、煩雑な警備手続きの履行が研究員にも求められていると云う、顛末。
私は背後から死角になった、白衣の下に忍ばせた膨らみを撫でる。それでほんの少しだけ勇気が出た。
七桁の認証番号を揃え、ハンドル付きの分厚い鋼鉄製の隔壁を開くと、?然とした血臭が鼻孔を襲った。
そこは檻としか呼びようのない空間だった。入ってすぐの十畳は雑然と研究器材が並べられてはいる。けれども頑丈な鉄格子を境にした奥の六畳は打ち放しのコンクリートで囲まれた牢獄だった。隅の洋式水洗便器を除けば、一切の装飾を排された空間である。およそ人権を有する者が居住する場所とは云えまい。
静謐なまでの、寂。
小柄な被検体はその檻の中央で座禅を組み、仏像と化していた。
「近くで観察しても宜しいかな?」
イスヴェス博士に、私は首肯く。
被検体は痩身の、十に満たない少年だ。贅肉はおろか肉という肉が削ぎ落とされた躰付きをしているのは適度な運動が行えず、日光を浴びることができず、更にごく薄い粥を一日一膳しか与えられぬ所為だろう。
虐待とは違う。無論、犯罪者の類でもない。
少年は被検体として、確保されているのだ。
被検体の瞳には一切の昏い翳りはなく、澄んだ透徹さが窺えた。少なくともそこに理不尽な虜囚を憤る色はない。月輪を鏡の如く映す清水のように冷ややかに、落ち着き払っている様子が見て取れた。
幼くして即身仏の一歩手前と云った風情の被検体に垢だらけの作務衣はよく似合い、何より苦悶を刻んだ表情が苦行僧めいた雰囲気を十二分に醸し出していた。
「あの床の紋様は?」
「……曼陀羅図です」
博士が指した床を見、私は辟易した。この一週間余り被検体は修行のつもりか、己の指先を喰い破った鮮血にて曼陀羅図を描き、座禅を行っていた。
曼陀羅図とは本来、密教の世界観を端的に表現する宗教的絵画である。
サンスクリット語で「本質を得ること」を指し、完全なる境地──「悟りを有する場」を意味する。御仏を観想する一助となるだけではなく、密教の呪術祭儀「修法」を執り行うに必要な聖的空間を生成する役割をも兼ねる。
通常、大日如来を中心に据え蓮華状に配置された胎蔵界曼陀羅が一般に知られているが、コンクリートの床に描かれた血の曼陀羅図は性格を大きく異にする要素を備えていた。
見た目は西蔵土着の、土の壇上に彩色した砂で描く砂曼陀羅を連想させる。しかし共通点は簡略化した表現方法のみ。そこに描かれた血の曼陀羅図には凄惨としか呼びようのない、肝を冷やす地獄絵図が展開されていた。
被検体の少年のどこに、これほど昏い闇が潜んでいたのか。
何をして、これを描かせたのか。
陰陽合身する御仏は第三の瞳を輝かせ、両手に握る人間を頭から丸齧りにしていた。
性交の悦楽と、食人の背徳に御仏は気炎を吐く。
咀嚼する音が聴こえてきそうだ。
拙い表現力が逆に鮮明さを増している。ひとたび視界に捉えた者は、陰惨さに目を離したくても離せないもどかしさを覚えるのではないか。
そう。禁忌の秘仏が隠された真理を明らかに指し示している。
つい、魅了される。
そこに何者をも束縛しない完全なる解放があった。
そこに何者をも凌駕する力を体現した超越者の姿があった。
そこに唯、狂気のみがあった。
そこに──。
「興味深いですね。敦煌は千仏洞の外法曼陀羅図と合致する点が多々見受けられます」
「は? 今、何と?」
その奇天烈な曼陀羅図が何か、博士は知っているのか?
思わず詰め寄った私を博士は軽く制する。
「いえ、小生の思い違いでしょう。このような極東の地に外法印を解する者など居るはずがありません。それよりも質問して良いですかな?」
仕方なく私は身振りで応じる。
「ではお訊きします。あの者は『悟り』を得ているのですか?」
「残念ながら、未だです。けれども高野山の阿闍梨に匹敵する、高い境地に達していると私は考えています」
「ほう、あの幼さで。通常の手段では到底そこまでの成果は見込めないのでは?」
巧みな誘導尋問に口が滑る。
「勿論ですとも。〈乳粥(スジャータ)〉と命名したこの霊液(エリクサ)があればこそです」
私は白衣から小壜を取り出し、中の霊液を揺らす。霊液自体は無色透明ながら、光の加減で玉虫色に映える。
幻惑的な輝きに、ぴくりとイスヴェス博士の眉が反応した。
「ほほう! 黒山羊の母乳ならば確かに!」
「黒山羊の、母乳……?」
得心に頷く博士は何を知っている? 何故、〈乳粥〉を黒山羊の母乳と呼ぶ?
そもそも〈乳粥〉は私の郷里である福岡県は旧家の土蔵に秘匿されていた古い経典──正確には、天台宗の留学僧円戴(えんさい)が唐より持ち帰った経典の写経──を元に着想を得て、私が独自に調合、精製した霊液だ。散逸した断片的な情報からの〈乳粥〉精製は並大抵の苦労ではなく、文字通り私の半生そのものと云えた。
それを一瞥にて見切られた私の立場は。
まして、黒山羊の母乳と呼称される同等の効果を持つ霊液が知られているならば益々聞き捨てならない。
「このような霊液が西洋には在ると云われるのですか、イスヴェス博士?」
ひたと睨みつけ、私は訊ねる。
一拍、間を置いて、
「生命の樹の実、と呼ばれる果実が旧約聖書に記されておりますな。一説では林檎を指すそうですが、それでは余りにも御粗末と云うもの。今は失われし神秘の樹が過去に繁茂していたと想像するのは浪漫的でしょうか?」
博士は何事もなかったように云う。宛然、私が幻聴を聞いたかのように。
私が次の言葉を探していると、博士は矢継ぎ早に質問してきた。
「その霊液はどのようにして、あの者に与えたのです?」
「隔日ごとに一滴を一椀の粥に混ぜて与えております。最初の食事から数えて四十二回になります」
「では、〈乳粥〉を直接、血液中に投与した場合、どうなるのですかな?」
嗚呼、何という笑みを博士はするのだろう。黒山羊の母乳について追及する気概でいた私は悄々と尻尾を巻いた。身震いを抑えきれず、瞳を伏せる。
イスヴェス博士は知っているのだ。
〈乳粥〉を与えられた者の末路を知りながらなお、私に訊いてくるのだ。
「乾君。ここはひとつ、卿の希望を叶えてみてはどうかね?」
横から蘭堂教授が口を挟む。
「教授!」
私の叫びは蘭堂教授に届いた筈だ。
この場で被検体を失うと研究に重大な遅滞が生じる事。また次なる被検体を補充されるのが、何時になるか不確実な事。そして何よりも〈乳粥〉の貴重性だ。
〈乳粥〉精製にかかる費用は莫大な額であり、予算認可を得るまでに機関と一悶着あった。単なる酔狂で無闇に浪費すべきでないのは蘭堂教授もよく理解している筈だった。
それなのに返答はこうだ。
「甘粕氏の後援を取り付けた。何も心配する必要はない」
元憲兵大尉で満州映画協会理事の甘粕正彦(あまかすまさひこ)の名前を出されて、これ以上渋る事はできなかった。満州に投下されたユダヤ人資本を采配する彼ならば自由に必要な額を融通できる。
それでも決定には相応の調整があったと思われる。
蘭堂教授の額をたらりと流れる脂汗がその証左だ。
陛下の助言機関である元帥会議すら左右できるとの言を信じるならば、機関は相当に広く深部までこの国に浸透している事になる。
そうまでして、〈乳粥〉の成果を見せたいのか。
「乾君、卿をお待たせしてはいけない」
蘭堂教授は重ねて云う。否を云わせぬ迫力がある。
国の威信とやらを発揮したいのであれば、致し方あるまい。機関に所属した時からこの日が来る事を恐れ、また、心待ちにもしていたのだから。
「承知、しました……」
私は折れた。
逡巡を振り払い、被検体の名を呼ぶ。
「都井辰雄(といたつお)君、こちらに来て裸になりなさい」
電源を入れられたように、被検体は座禅を解くと従順に動き出す。
遺伝改良を重ねて機関が誕生させた第七世代の強化人間──の失敗作だ。父親にあたる「津山三十人殺し」の犯人に被検体の個体識別名は由来している。そのために未那意識下に刷り込まれた暗示が私の言霊を唯一絶対の勅命とするよう、調整には確実を帰している。
呼吸するな、と命じれば被検体は忠実に遵守し、数分後に窒息死するだろう。
被検体は黙したまま作務衣の帯を解き、するりと足元に落とす。
肋骨が浮き出た、皮ばかりの貧相な体格が露になる。
「もっと、こちらに」
命令に被検体の少年は従う。
「──あ」
私は素早く鉄格子の隙間に手を差し入れ、少年の小さな突起を掴んだ。
暗示の所為で抵抗できない少年を見下ろしつつ、私はゆっくりと手を動かし始める。
「乾君! 何をしているのだね?」
「何って、教授、ご覧になって解りませんか?」
蘭堂教授の非難に応える間も手を休めはしない。技巧を凝らすまでもなく敏感な部分は反応を示し、硬く隆起して灼熱に脈打つ。
立派な姿だった。
ちらり振り返ると、蘭堂教授の達磨のように真っ赤な顔が見えた。私は魅せつけるように手の内でそそり立つ雄姿を愛撫する。蘭堂教授のとは比べる気にもなれない。
「どう? 気持ち良いでしょう?」
両手で鉄格子を握り、快楽に耐える少年の耳元で囁く。
切なげな喘ぎが止めようもなく漏れる。
本当に、可愛らしい。
私は嗜虐心をそそられ、一気に動きを激しくさせた。
必死に絶頂を堪えている姿がたまらなく、愛しい。
二人に見られている所為か、私まで常になく興奮を高める。
「──う」
唐突に、少年は果てた。
自慰の禁止を徹底させたおかげか、私の手では受け止められないほど大量の白濁した液が迸ると、飛沫は白衣まで汚した。
濃密な獣の匂いが実験室に立ち込める。
「これで、心残りはないわね」
少年の瞳が微かに揺れる。
私に向けられる少年の視線は幼くとも男のそれだった。私という煩悩が少年の『悟り』を遅滞させていると見抜きながら、あえて挑発してきた。
愉しかった。
でも、それももう──お仕舞い。
汚れた手を拭い、注射器を用意すると私は気持ちを切り替えた。
冷静に被検体を扱う研究員のそれへと。
注射針を小壜に刺し、〈乳粥〉を吸い上げる。僅か数滴の──摂取許容量を大幅に越えた〈乳粥〉が注射器内部に満ちる。
私は陶然と眺め、唇を噛みしめた。
「腕を出しなさい」
素直に差し出された被検体の腕を酒精で拭き清める。被検体は細く薄目を開いた全くの無表情へと戻り、快楽の余韻さえ残っていない。
かえって私の方が狼狽えた。
前にも一度、別の被検体で好奇心の赴くまま同様の実験を試みている。経典の記述に拠れば、〈乳粥〉を食せばかの聖人ゴータマ・シッダルタの如く人としての枷を解かれ、大いに大悟し、解脱を得る筈──であった。
それが如何してあのような結末に。
私は同じ過ちを繰り返しているのではないか。不安が私の手を小刻みに震わせる。
「美智子殿」
絶妙な瞬間を捉えたイスヴェス博士の呼び声。身を固くした私の内部で、何かが断ち切られた音がした。それは世界との決別の調べにして、異界への足跡を記した証。
私は無様に注射器を被検体の腕に突き刺し、〈乳粥〉を一息に注入する。
「──ん」
微かに顰めた被検体がよろめき、鉄格子から離れる。ふらりと後退り、そのまま血の曼陀羅図の上に尻をつく。
「拝見しましょう」
変化は、突然だった。
博士の声が消えぬうち、
ぱしり
と、乾いた音がした。
誰がそれを内部より頭蓋骨を破砕する音だと看破し得たであろう。
痩せ衰えた被検体の何処にそれだけの水分が蓄えられていたのか、全身に浮かんだ汗は玉となり、滝のように流れて床に広がってゆく。
それのみに留まらず、マラリア患者の如く痙攣する様は宛然、被検体の人間性が発する断末魔の叫びそのものであった!
高血圧に耐えきれなくなった血管が各所で破裂し、躰を朱に濡らす。
と、被検体の口がかぱりと開いた。
「ゐるるるるる、あひゐううう!」
低い、魂を砕く咆哮。
それはうねり、伸びて、天上の──もしくは地獄の音楽のように響いた。
その異質さ。決して相容れぬと本能が金切り声で拒絶する。
人の声帯はあのような声を出せる構造をしてはいない。
つと、視界がぼやけた。
私は慌てて目元を拭って驚いた。
泣いているのか──私が?
激しい恐怖の為か、あるいは感動の為か、自分でも区別できずに混ざり合った衝動が溢れんばかりに躰を駆け巡る。火照る躰が無性に震えて止まらない。
被検体も哭いていた。
「ひゆるいいい、るううううう!」
強烈な、雄叫び。
それが渇望なのか、歓喜なのかはわからない。それでいて、美しいと思う。
私の、美の観念が崩れてゆく。
被検体の眉間が裂けた。
「ひいい!」
蘭堂教授が思わず声をあげた。
裂けた眉間から現れた邪眼がぎろりと睨んだのだ。視線に込められた意思は人以上の高度な知性を感じさせ、かつ、狂暴な獣性を備えていた。
「これからが、始まりです」
私は知っていた。それは博士も同様だった。
「終わりの始まりが、ですね」
ステッキを床に突き立て、博士は云う。
変生が、始まった。
筋肉が一気に膨張する。変色した肌の角質層が硬化し、ぬらめく鱗めいた模様を成す。その上を黒々とした剛毛が覆い、そよぐ。
手足の爪が猛禽のそれと変じ、被検体の背後から黒い何かが勢いよく広がる。
翼だ。それも皮膜で覆われた翼だ。
骨格自体が得体の知れぬ応力を受け、軋みながら変形し、関節が捩れる。
人としての形を捨て、人でない何かへと変容してゆく──人でなしへと。
私たちは無言のまま、生誕の儀式に集う祭司ほどに無力で、粛々と見守るだけだ。
両肩から黒い瘴気が吹いたかと思うと、それはのたうつ蛇の如き触手となる。
異形化する体のあちこちで無秩序に裂け目が生じ、一つは爪が生え、一つは瞳を覗かせ、一つは小さな牙を並べた口となった。
あらゆる生物を混ぜ合わせた、渾沌の異形。
平安の貴人は闇に潜む異形を総じて「鬼」と呼んだ。
「実に素晴らしい! だが、惜しい事に人としての部分を残している」
博士の指摘は正鵠を射て、私は恐懼するしかなかった。
鬼の頭部は被検体、都井辰雄の顔を些かも損なうことなく使用しているのだ。
目と目が合ったと思った瞬間、鬼は跳躍していた。鋭い爪を振りかざし、獲物を襲う獣の如く。あるいは、己をこのような浅ましい姿へと変えた張本人への復讐か。
それとも──恋しき女を己が腕に抱きたいと願う、慕情か?
が、鉄格子に遮られて爪は無情にも届かない。それで断念するかと思いきや、しがみついた邪魔な格子を力任せに開け広げようとする。ぎしぎしと鳴り、徐々に歪みつつある太い鉄棒を見て、その怪力を推して知るべし。
「蘭堂教授!」
「う、うむ!」
叱咤に間髪入れず蘭堂教授は壁の配電盤に飛びつく。
刹那、部屋の照明が明滅する。
「ぎぎやおうう!」
魂消る叫びと共に肉の焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
鉄格子に高圧電流を流したのだ。
通電した鬼は筋肉が収縮する所為で手放す事もできず、痙攣する全身から白い煙を立ち昇らせていた。
「教授、もういいでしょう」
合図を送ると、漸く高圧電流から解放された鬼は素早く奥へと退き、恨めしげな唸りを喉元で漏らす。
「凄まじい──ものだな」
流石の蘭堂教授も感歎を抑えきれぬ様子。
名状しがたき醜悪な姿へと変じながらも、人である事を捨てきれない悲喜劇。物云わざる瞳で何よりも雄弁に物語る願いを無視できるほど、私は冷血ではない。
「ですから申し上げた通り、研究は未だ未完成と云わざるを得ません。──博士」
私は懐から抜き出した拳銃を博士へと向けた。
国民歩兵公社製の弐拾参式拳銃だ。
「何の真似かな、美智子殿?」
ひたと据えられた照準の先で、落ち着き払ったイスヴェス博士が笑みを浮かべる。
矢張り。
天啓にも似た衝撃。私は畏怖に打ちのめされた。
イスヴェス博士はまるで銃弾ごときでは命に別状はないと確信しているように泰然と、紳士的に振舞っていた。
「失礼致しました、博士」
私はくるりと拳銃を回転させ、銃把を博士に向けて差し出す。
「実弾が六発、装填されています。試しに射撃してはもらえませんか?」
「ふむ。まあ、やってみましょう」
博士は受け取り、安全装置を解除すると無造作な仕草で檻に向けて発砲した。
六連続して轟く銃声。
耳を聾する痛みに顰めながらも、私は驚嘆していた。
両手で保持していてさえ、その暴れ馬のような拳銃を使いこなせる者は少ないと云うのに、どうだ。その六発全てが命中弾となり、鬼の躰を破壊する。かすめるだけでも深く肉を抉る銃弾が命中したのだ、それも致命傷となる各部位に。
「ふむ……」
博士が不服そうに鼻を鳴らす。
通常の人間なら即死の銃撃である。事実、鬼は重傷を負い、床に倒れ臥した。
ぴくぴくと小さく動く指先が停止し、じき死に到るだろう──そんな観測は次の瞬間、脆くも裏切られた。
ぐいと力強く握られた、拳。
見る間に流血は途絶え、息を吹き込む風船のように復元再生してゆく筋肉。
驚異的な速度で自然治癒してゆくのだ。
「銃弾だけでなく、刃物等の通常武器では有効な攻撃足りえません。炎や酸なども試してみましたが、驚くべき耐性を示しました」
「その性能の高さは理解できました。しかしながら意のままに制御できてこそ、兵器と呼べるのではないのですかな?」
そうなのだ。刷り込んだ絶対催眠さえ、〈乳粥〉で変生した鬼には無効化される。本来、枷を外す因子を持つ〈乳粥〉ならば当然の結果とも云えるが。
率直に私は認めた。
「それが今後の研究課題です。但し、緊急停止手段は用意してあります」
私は全弾打ち尽くした拳銃を返してもらい、回転部から空薬莢を排出して一発の特殊弾を装填し直す。
「よく見ていて下さい」
私は鉄格子越しに狙いを付ける。
都井辰雄の名残となった、硝子玉のように虚ろな瞳を。
──左様なら。
地下実験室に銃声が哀しく響く。
狙い過たず第三の眼が出現した額を打ち抜き、鬼は反動でわずかに後退する。
「銃弾は無効なのでは?」
博士の不審に私は沈黙で応えた。
鬼の、強く殴られたとでもいいたげな表情が不意に強張る。
血が止まらない。
再生が始まらない。
額を中心とした困惑の表情に亀裂が走り、崩壊は劇的に始まった。皮膜の黒い翼は垂れ、剛毛は抜け落ちる。皮膚の表面を覆う鱗が続いて剥がれ落ち、萎びた地肌を露にさせる。
変容の工程を逆に観るようだった。
咆哮に込められていた圧倒的な生気が依代となる器から遊離してゆく。
「おお、毀れてゆく……」
あまりにも呆気ない、幕切れ。
後には乾燥した、黒ずんだ抜殻しか残されていなかった。
「今の銃弾の弾頭には──何が?」
「残念ながら、博士にもお答えしかねます。そうでしょう、蘭堂教授?」
「あ……うむ」
つられて頷いた蘭堂教授に私は北臾笑む。
歯軋りしそうなほどに爛々と瞳を燃やす博士に、私は内心喝采を叫んだ。
イスヴェス博士も人の子なのだ。
紳士然とした仮面の下には、きちんと生臭い感情を隠し持っている。初対面の時に感じたあの違和感は、単に私の気の所為なのだ。
安堵に頬が緩む。
おそらく連日の研究続きで精神が疲れていたのだろう。被検体も喪ってしまった事だし、暫く研究から離れて休んでみても良い。
「美智子殿」
再び仮面を被った博士が夢想を破る。
「何か?」
「大変素晴らしい研究を見学させて頂きました。つきましてはほんのお礼に──」
博士は思わせ振りに懐から、和綴じの古びた本を取り出す。
「本当は満州国の防疫研究室に寄って七三一部隊に所属する石井四郎(いしいしろう)氏にこの本を託すつもりでしたが、どうやら美智子殿の方が有効に活用して下さると小生は思うのですよ」
差し出された本にはこう、墨跡も鮮やかに記されていた。
『妙法蟲聲經』──と。
*
貪るように私はその経典を熟読した。
〈乳粥〉の着想を得た誤字脱字だらけの写経とは違い、原本となるイスヴェス博士から託された異端の経典はあからさまに真の理を物語っていた。
戦慄と共に私は知った。
真実を秘するのは故なき理由からではない、と。
後戻りは最早許されなかった。妄執に憑かれた私は完全なる〈乳粥〉精製に着手した。
不眠不休の毎日。
日々を数えることすら忘れ没頭したのは、あるいは凶夢を畏れた所為かも知れない。経典で暗示される、太洋の海原に沈む瑠璃宮殿の威容が私の脳裡に焼き付いて離れない。異様な角度を感じさせる光景は時を経るにつれ現実味を増し、私を駆り立てる。
焦燥と畏怖。不断に訪れる法楽の戦慄き。
白く変じた髪を振り乱しつつ、私は遂に完成させた。
そして──。
嗚呼、潮騒が聴こえる。
安らぎに満ちた誘いが私を導かんとしている。
幻覚ではない。
いよいよ、私を解放する時が近づいているのだ。
経典を焼き捨て、〈乳粥〉をすべて飲み干した。
それが私を阻害した人への──束縛した世界への、意趣返し。金輪際、私がこれから得る解放の栄誉に浴する事なきように。
慾情にも似た、感情の高まり。
来る!
断続的に襲ってくる眩暈に溺れてしまいそうになる。閃光が頭蓋で炸裂を繰り返す。
目醒めよと呼ぶ声が聴こえ、私は『悟り』を開く。
解脱。
涅槃に達した私は、歓喜を叫んだ。
了
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