第三章
旅は、四日目に入っていた。
昨日は結局、欲張ってもうひとつ先の宿場町まで歩き――ステラが言うには、割と近いとのことだったのでそうした――おかげで町に着いたのは、陽が暮れる直前のことだった。
薄暮の中、ようやく町の明かりが見えたとき、ルフィルは心底ほっとしたものだ。夜に街道を歩くことは、さすがに怖くてできそうもない。
昨日、いろいろと荷物を売ったおかげで、少し荷が軽くなった。ルフィルの足も軽やかだ。ステラに掴まらなくても充分いける気がする。
と言っても、前を行くランドに追いつけはしないが。
ステラは体力の劣るルフィルに合わせて歩いてくれるのだが、ランドは相変わらずだ。
言っても無駄だから、これで我慢しないといけないのだろう。
ルフィルは早歩きや、ときに駆け足を混ぜ、ランドになんとかついていっていた。
「今日は早めに宿に入るわよ。あんな怖い思いをするのはもう嫌だからね」
夜の森を想像して、ルフィルは身震いする。
「お前、暗いのが怖いのか? 威勢が良いこと言ってるくせに意気地がねえなぁ」
「なによ、じゃあランドは怖くないっていうの? この街道は白骨街道って言われてるのよ」
ルフィルは皮肉を言われたことが悔しくて、言い返した。
「そんなもん、怖いわけないだろ。戦死した兵士の幽霊かなんか知らんが、全部ぶっ倒せばいいんだ」
自信たっぷりに、ランドは言う。確かにランドなら、本当にそれができてしまいそうではある。
「しかし、あんたたちよく喋るね。喋りながら歩いて疲れないのかい? お嬢ちゃんとか、特にさ」
ステラはルフィルとほぼ並ぶようにして歩いている。
「え、そうですか? わたし喋ってない方がイライラするんで――」
「お嬢ちゃんらしいね。ハハハ」
こうして一緒に旅をしてわかったのだが、本当にステラはよく笑った。雰囲気の面でかなり助かっていることは言うまでもない。
「黙ってりゃ、少しはマシに見えようかってもんなんだがな」
「なんですってぇ!」
そんなルフィルの様子を見て、ステラがさらに大声で笑う。
旅は、いたって順調だった。
昼過ぎ。ご飯を食べてから、しばらくたったときだった。
突然、ランドが左に曲がり、森の中へ駆け出した。
「ちょっと、どこ行くのよ!」
ルフィルもあとを追って、森に入っていく。
「感じるんだ。ここにはいる!」
「何が!?」
「強いヤツが!」
あっという間に、ランドの背中は小さくなった。
「……どうします? ステラさん」
「どうするもなにも、追うしかないよ」
二人は顔を見合わせると溜め息をつき、ランドを追った。
秋とはいえ、まだ夏が終わったばかりなので、森は鬱蒼とした緑に包まれている。陽の光もあまり差し込まず、昼なのにずいぶん薄暗い。
あと二ヶ月もすると地面が枯葉で覆われるのだろうが、今はまだ一枚もない。
「どこまで行ったのかしら。本当に勝手な行動ばかりとるんだから」
ルフィルは辺りを見回してみる。人影は見あたらない。
森の中は静まり返っていた。時々、遠くで鳥の鳴く声が聞こえ、ただでさえ気味の悪いのがいっそう濃くなった。
もしステラと一緒でなかったら、ルフィルは心細くてこんなところに一分たりともいられないだろう。
「少しは探す方の身にも――きやっ!」
突然、ルフィルは腰ぐらいの高さの何かにぶつかり、はずみで尻もちをついてしまった。
向かい合うようにして、男の子も尻もちをついている。
この子とぶつかったのだろう。ルフィルは遠くを見渡すように探していたので、下の方はまったく見ていなかった。
「あ、ごめんね。ボク大丈夫?」
「う、うん」
男の子はしばらくルフィルの顔を見つめていたが、急に顔を歪め、泣き出してしまった。
「大丈夫? どこか痛いの?」
「ちが、ちがう、どこも、痛くない、痛くない」
自分とぶつかったせいでケガをしたのかと思ってルフィルは訊ねるが、男の子は必死に首を振って否定する。
「み、見つか、らないの」
「何が?」
ルフィルは訊き返すが、男の子は泣きじゃくるばかりで一向に話が進まない。
「ね、とにかく泣かないで話してくれないと。お姉さんわかんないよ?」
しかし男の子は泣き止まない。
お手上げという感じで、ルフィルはステラの方を振り返った。
――選手交代。
「どうした坊や、何が見つからないんだ?」
ステラは男の子の背丈に合わせるように屈んだ。しきりに頭を撫でたりして、やさしく声をかけている。
男の子は次第に泣き止んで、袖で顔を拭き始めた。
――やっぱり、ステラさんにはかなわないや。
ルフィルはステラのすごさを改めて思い知ると共に、自分の無力を痛いほど感した。
「あのね、昨日、お母さんに頼まれて、山菜取りに来たの。でね、気がついたら、落っことしてたの」
男の子は思い出すとつらいのか、しばしば泣きそうになる。しかしそれをどうにか堪えながら、ぽつぽつと事情を話した。
「何を落としたんだい?」
「いなくなったお父さんがくれた……こんな丸っこいのが付いてるの」
男の子は手で輪っかを作って大きさを説明した。
「何それ? ひょっとしてペンダント?」
ルフィルの質問に、男の子は「うん」と頷いて答える。
――つまり、ペンダントを落としてしまって、それを昨日から探しているわけね。
昨日から――?
「坊やまさか、夜中も探してたのか?」
ステラも気づいたらしい。
「うん。探してた」
ルフィルは信じられなかった。こんな不気味な森の中――それも夜に、こんな小さな子が一人でいたなんて。
「家の人は心配してるだろう?」
「でも、どうしても見つけたかったから……」
「――あれ、お前ら何やってんの?」
ランドがひょっこり、茂みの陰から現れた。ランドの背の高さに、男の子が少し驚いた様子を見せる。
「……あなたを追って探しに来たのよ。そっちこそなんで急に戻ってきたのよ」
不満を隠そうともせず、ルフィルは言った。
「いや、急に気配が消えてな。風向きが変わったからかもしれん。――それよりこのガキは?」
ランドは、自分の太腿までしかない男の子を見下ろしている。
「あなたを追ってる途中で会ったのよ。そうだ、ランドも探すの手伝ってよね」
「何を?」
「この子、ペンダントを落としたって言うのよ。人手が多い方が見つかるのも早いしさ。下を見て歩き回るだけでいいんだから楽でしょ」
下を見て歩き回るだけ、では探していると言えるかどうか怪しいが、どうせランドに多くを頼んでも聞き入れてはくれないので、ルフィルはあえてそう言うに留めた。
「あーわかったよ。下、見とけばいいんだな」
それでもランドは面倒くさそうに言い、付近をうろつき始めた。ルフィルたちも手分けして探しだす。
一時間後。
「うわぁ!」
男の子の悲鳴が聞こえた。ルフィルとステラは急いで駆け寄る。
「どうしたんだい?」
男の子はぬかるみに足を取られて、すべって転んだようだった。あとでステラに聞いたのだが、森にはこういうぬかるみが結構あるらしい。
「だ、大丈夫だよ」
男の子は立ち上がろうとしたが、その瞬間、顔がしかめられた。
「捻挫したみたいだね。確かここに――」
ステラは自分の荷から薬と布の切れ端を取り出すと、すぐに治療を始める。
その用意と手際の良さに、ルフィルは舌を巻いた。
――さすがステラさんね。こっちももっと頑張らないと。
捜索を再開する。
「ったく、ホントに落としたのか? 家に忘れてきたとかいう、ふざけたオチじゃないだろうな?」
たいしたこともしていないくせに、文句だけは一丁前にランドは言う。
「そんなこと言う暇があったら、もっと探しなさいよね」
と、ランドの方を振り返ると、上の方の枝にキラリと光るものが見えた。
「あ、あれ」
ルフィルはもしやと思い、その木に近づいて見上げる。
まさしくそうだった。ペンダントが木の枝に引っかかっていたのだ。
「ねえ、あれがそうかな?」
ルフィルが訊くと、男の子はこくんと頷いた。左足には布が丁寧に巻かれている。
さっそくルフィルは木に体当たりしたり、幹を掴んで揺らしたりしてみた。しかし両手で抱えてもまだ余るぐらい太い木は、びくともしない。
「お嬢ちゃんじゃ無理だね。私がやるよ」
そう言うとステラは足元の手頃な小石を拾い、枝に向かって投げつけた。
小石は見事に命中し、枝はたわんでペンダントを手放した。ちょうど落下点にいたランドが、それを捕まえる。
ペンダントについていたのは、ガラス玉のようなものだった。ランドはそれを、険しい目で見つめている。
「何をそんなにじっと見てるのよ。気になるの?」
「あ、いや、なんでもないんだ、なんでも」
珍しく慌てた様子を見せ、ランドはペンダントを男の子に渡した。
「それにしても、なんであんなところにあったんでしょうね」
「さあ。鳥が運んだんじゃないかな?」
まったく木の上にあった理由がわからないが、深く考えてもしょうがないので、ルフィルは気にしないことにした。
「で、この子。どうしましょうか」
ルフィルは男の子を改めて見つめてみる。
癖のない黒い髪に、ころころと可愛い黒い瞳。雰囲気は違うが、ランドと同じ取り合わせだ。
「とりあえず、親元につれて行くことだね」
それはそうだろう。ここに置いていくわけにはいかない。
――そういえば、この子の名前をまだ聞いてなかったっけ。
「ねえボク、お名前は?」
「……エリシオ」
「お家はどこかなぁ?」
あっち、とエリシオは街道の東の方を指差した。
「――それって、ひょっとしてパオリニって町?」
パオリニは次の宿場町であり、もちろんルフィルたちが向かっていた町である。
エリシオは大きく頷いた。
「そっか、じゃちょうどいいわね。ねえランド、この子、負ぶってくれない?」
ルフィルは背後で暇そうに突っ立っているランドに言った。この子は足にケガをしているのだ。当然、誰かが負ぶさらないといけない。
「はぁ!? なんでオレが」
「だってあなたが一番力あるでしょ? 当たり前じゃない」
そのまま、いつもの口論に突入した。
「あなた男でしょ?」
「そんなもん、ガキ背負うのに関係あるかよ」
「大ありよ! だいたいパッと外見で見比べても、あなたが一番筋肉あるじゃない」
「だから、そこの町までなんだろ。背負うったって。お前がやっても全然問題ないじゃねぇか」
「あなたお昼わたしの倍食べたのよ!? それなのに力出せないっていうの?」
「飯の量は関係ねぇだろ。しょうもない理屈並べてんじゃねぇよ」
「しょうもない理屈だと思ってるのはそっちだけ――」
「はいはい、そこまでそこまで!」
ステラが手をパンパンと叩き合わせて、二人のケンカを打ち切った。
「子供が怯えてるよ、まったく。私が見てる分には面白いんだけど、ほどほどにね」
「あ、はい。すいません」
年長者らしいステラの注意にルフィルは素直に謝ったが、ランドは不機嫌そうな顔で何も言わなかった。
「この子は私が負ぶってくよ。さ」
ステラは、エリシオの前に歩み寄り、後ろ向きに屈んだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
それを聞いた瞬間、ルフィルとランドは吹き出してしまった。
エリシオは、ステラを男だと思っていたのだ。
「やっぱりあなただけよ、ランド。ステラさんがすぐ女だってわかったの」
「すぐわかりそうなもんなんだがなぁ。どいつもこいつも、なんでわからないんだが」
ルフィルとランドはさっきまでの言い争いが嘘のように、お互い笑い合った。しかし、ルフィルは後ろのステラがぽつりと漏らした独り言を聞き逃さなかった。
「もう短くしてる必要もないしなぁ。髪伸ばそうかな」
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二十分ほど街道を歩いて、ルフィルたちはパオリニに着いた。
パオリニは比較的新しい宿場町で――と言っても、町ができてからかれこれ二三〇年ほど経つらしいが――宿の数もドゥマのようには多くない。
町全体も、割と閑散としている印象だ。
エリシオを背負ったルフィルたちが町に入ると、道を掃いていたおばさんが、こちらを見るなり慌てて向こうに走っていった。
「みんな、エリシオちゃん見つかったわよ!」
戸惑うルフィルたちを尻目に、すぐに町の中心の広場に人々が集まってくる。
中には、今から人探しに行くぞ、という格好の者もいた。
やがて母親らしい、意外にまだ結構若そうな女が出てきて、エリシオは地面に降ろされるなり彼女のもとへ駆け寄っていった。
「お母さん!」
「エル!」
エリシオは母親に抱き上げられると、胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
母親はエリシオと違って、明るい茶系の髪をしていた。こうして二つの髪が並ぶとエリシオの髪の黒さが際立った。
「母さん心配したのよ、エルが殺人鬼に殺されたのかと思って」
殺人鬼――?
ルフィルは気になったが、この状況で誰かに訊くわけにもいかないので、心に留めておくことにした。
「ったく。自分の子なら自分で管理しやがれってんだ」
ランドはこちらにだけ聞こえる声で、母親を罵った。
「意地の悪いこと言ってんじゃないわよ」
ランドにそう言い返して、再びエリシオたちの方を向いたとき、ルフィルはエリシオの母親がこちらをじっと見ているのに気づいた。
思わず、ルフィルは軽く会釈する。
が、母親は何の行動も返さなかった。少しムッとくるが、もちろん表には出さない。
母親はランドをずっと見ているようだった。その母親の顔を、エリシオが不思議そうに見つめている。
「ジーンさん……」
母親はそう言葉を漏らした。ランドの雰囲気が明らかに硬くなる。
「ジーンさん……ねえ、ジーンさんなんでしょ? 戻ってきてくれたのね?」
母親はどうしたものか、大粒の涙をこぼしている。エリシオを置いて、今にもこっちに駆けてきそうな気配だ。
「…………ふざけるなよ……」
ランドは、横にいるルフィルでさえ聞き取りにくい小さな声でそう呟いた。目が血走り、殺気立った空気を放っている。
そして本当に、母親がエリシオを置いてこっちに迫ろうとしてきた。
すぐに周りの男たちが止めに入る。
「落ち着けミシル!」
「あれはジーンじゃないって」
「似ているけど全然違うって。よく見ろよ」
母親は狂ったように喚き散らしていたが、男たちに引きずられて奥の家に消えていった。
エリシオも年配の女性に連れられ、別の家に入っていった。
「すみませんね。せっかくエリシオを連れてきてもらったというのに」
今度は、白黒まだらの髭を生やした初老の男が近づいてきた。
「私が町長のベルタスです。どうです、お礼もしたいですし、少し私の家でお話でもしませんか」
案内に従い、三人はベルタスの家に通された。
「どうもすいません。先ほどはお恥ずかしいところを」
ベルタスは頭を下げた。
客間の長机を囲むように座る三人の前には、お茶が湯気をたてている。
「いえ、そんなお気になさらず――」
「おい、あの女は何だ。どうしてあいつのことを知ってる!?」
突然、ランドがルフィルの言葉を遮って、怒鳴りつけた。
「あいつって、その、ジーンとかいう……?」
そのただならぬ気迫に驚いて、ルフィルは思わず問いかける
ランドは答えない。ベルタスを睨んだままだ。
「早く話せ! あいつはここで何をしてたんだ!?」
掴みかからんばかりの勢いで、ランドはベルタスに迫った。ベルタスは明らかに困惑している。
「ちょっと落ち着きなさいよランド。ベルタスさん怯えてるじゃないのよ」
「これが落ち着いていられるか! オレは十年間、あいつのことをずっと――」
「静かにしなよ。あんたがそんなだと、聞けるものも聞けなくなるよ」
諭すようにステラがそう言うと、それが年上の貫禄なのか、さすがにランドも口を閉ざした。
場が静まり返り、ベルタスは、ふう、と息をつく。
「えぇと、何からお話したらよろしいですかな?」
「なんでもいい。知ってることは全部話せ」
苛立たしさを剥き出しにして、ランドは言った。
その様子にベルタスは眉をひそめるが、構わず話し始めた。
「……もう五年も前になりますか。彼とミシル、それに二人の子であるエリシオは――そのときはまだ赤ん坊でしたが――この町にやってきました。子供がすごい熱にうなされて助けて欲しいとのことでしたので、私どもは町で医者をやっているスヒュールという男に診せました」
「――あのガキは、あいつとあの女の子供なのか!?」
「ええ」
ランドの表情がみるみる強張り、机の上に載せた腕が震え出した。
「それが縁で、彼らはこの町に住み着きました。傍目から見ても仲のいい家族だったのですが、三年前、突然、彼は失踪したんです。ミシルに聞いても、わからないと言って泣き崩れるばかりで、いまだに理由はわかりません」
「それで、あいつはどこへ行ったか、わからないか?」
何かを堪えながら、それでもはっきりした声でランドは訊いた。
「さあ、私どもにはなんとも……」
「そうか…………」
それっきり、ランドは押し黙った。
部屋に沈黙が訪れる。
「あ、あの、ミシルさんがエリシオくんに言ってた『殺人鬼』って、いったい何なんですか?」
訊くなら今しかないと思ったルフィルは、さっきから言おうと思っていた疑問をぶつけた。
ベルタスの顔が急に曇る。
「実は私どもも困っているのですよ。このあたりに凶悪な殺人鬼がいるって噂が広まっていましてね。熊のような巨体で、髪の毛一本もない頭は傷だらけでとても見れたもんじゃないんだとか。実際、目撃者も出てるんですけどね。まあ所詮は噂ですよ、噂」
抱える不安を自分で打ち消すように、ベルタスは『噂』を強調した。
「そいつは、どこに出る」
普段よりもずいぶん低い声で、ランドが質問した。
「どこって、北西の森ですよ。街道沿いのね。目撃した人が言うにはですよ」
北西の森と言えば、さっきエリシオを助けたところだ。
そして、ランドが『強いヤツがいる』と言って、突然入っていったところでもある。
――ランドは聞き終わるなり椅子から立ち上がると、入口の扉に向かった。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
「そいつと戦う」
振り返りもせず、ランドはそれだけ言うと、外に出て行ってしまった。
「ちょっと待ちなさいよ、勝手に行動しないの!」
ルフィルは軽くベルタスにお辞儀をすると、慌てて追いかけた。ステラもあとからやってくる。
「ランド、あなたおかしいわよ、さっきから。いったいどうしたのよ?」
「関係ないだろ」
ランドはこっちを向かない。早足で歩き続ける。
「そのジーンって人と、何か関係あるのかい?」
やはりステラも、ランドの行動を疑問視しているようだ。
「うるせえよ!」
ランドは急に立ち止まり、拳を握り締めた。
「言ったって、お前らにはわからねえよ。これはオレ個人の問題だ。関わろうとすんじゃねぇ!」
ランドの激しい恫喝に、ルフィルたちはそれ以上訊く気になれなかった。
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どうしても『殺人鬼』と戦うと言いはるランドを、明日からでもそれはできるし体調も万全の方がいいでしょ、と何とか説得し、ルフィルたちは宿で寝る準備をしていた。
恩人からお金はとれません、と言うベルタスのはからいで、料金はタダである。
「まったく、どうしちゃたんでしょうね。ランドは」
ルフィルはステラに不満をぶつけた。
すでにランドはいつもの通り、窓際のベッドで熟睡してしまっている。
「何か、わけのわからないことで喚いたかと思うと、急に『殺人鬼』と戦いたいだとか――」
「でも、この男は強いヤツとやりたいっていうのが旅の目的なんだろ。だったら、別に筋は通ってるんじゃないか?」
「それはそうですけど……」
ステラの言うことももっともだが、どうもルフィルは納得がいかなかった。
何か強情というか、意地のようなものを感じるのだ。
「まあ人の過去なんか、詮索してもしょうがないしね。私だって、思い出したくないのに忘れられない人がいるしさ」
「え?」
意外な告白に、ルフィルは驚く。
「……ごめん。お嬢ちゃんに言うようなことじゃないね、こんなこと。――おやすみ、お嬢ちゃん」
そう言って、ステラは布団に潜りこんだ。
釈然としないルフィルであったが、訊き返すわけにもいかないので、そのまま明かりを消して横になった。
――その日は一日中、釈然としないことばかりだった。
朝。ルフィルはステラに叩き起こされた。
「ランドがいない?」
ルフィルは絶句した。しかもランドのベッドは、もうすでに冷たくなってしまっている。ずいぶん前に起きて行ってしまったらしい。
「どうやら、先に出てっちゃったみたいなんだよ。とにかく、行先はだいたいわかってるんだからさ。早く追いかけよう」
ルフィルは急いで身支度すると、町の西口を駆け抜けた。
「まったく、どこまで身勝手なのよ! もう!」
「文句言ってもしょうがないよ。今起こってることに対処してかないと」
喋っている間に、昨日ランドが突然走り出したあたりに着く。
まだ陽が昇ってさほど時間が経っていないので、森の入口に繁っている下草は露で濡れていた。服の裾が汚れたが、気にしている余裕はない。
森の中は木の根がぼこぼこ浮き出ていて、さすがに走るのは――特に慣れていないルフィルには難しかった。しょっちゅう足を引っかけて転ぶ。
「それにしても、広い森ですね」
こうして歩いてみると、全方位どこを見ても木ばっかりというのは、何だか奇妙な感じがする。北に山脈があるから方角には迷わないが、それがなければとっくに遭難しているだろう。
「山の南はずぅっと森だからね。開けた土地なんか、町の周りの開拓されたところにしかないよ」
たまに、ぱき、と小枝を踏んだ音が響く。
二人の話し声と、どちらかが枝を踏んだ音以外、あとは鳥の鳴き声しか聞こえない。
本当に静かな森だった。
「――ん、お嬢ちゃん」
「はい?」
「聞こえてきたよ、急ごう」
と言って、ステラはルフィルの前に出た。
「聞こえたって、何がですか?」
ルフィルも必死にあとを追いかける。
「剣の音だよ。――ほら、あそこ!」
ステラが差した指の先、確かに、何者かと剣を打ち合うランドの姿があった。
「早く行きましょう、ステラさん!」
ルフィルたちは、さらに足を速めた。
『殺人鬼』は、本当にいた。
長身のランドよりもさらに背が高く、横幅はランドの倍以上――その巨体は、ベルタスの言うとおり、まさしく熊を思わせた。
その巨体に合う服があるのも驚きだ。地味な色の、黒ずんだ茶色の上下を着ている。こんな色の服を着ているものだから、余計に熊っぽく映る。
そして頭は、ルフィルの予想以上に傷だらけだった。片目は潰れ、片耳は削げ、顔じゅうくまなく探しても傷ついていない箇所が見つからないほど、縦横無尽に傷跡が走っている。
これが、人間の顔だとは思いたくなかった。
『殺人鬼』は、体に合わせたような巨大な剣を握っていた。ルフィルの身長と同じぐらいありそうだ。どこであんな剣を手に入れたのだろうか。
その重そうな剣を、『殺人鬼』は片手で軽そうに振り回している。それも正確な太刀筋で。
そんな『殺人鬼』に、ランドは一歩も引いていなかった。
相手の豪剣を踏ん張って受け止めると、瞬時に攻撃に転じ懐に迫る。
しかし相手も、巨体に似合わない素早い動きで攻撃をかわし、また再び間合いを戻す。
今のところ、勝負は互角と言ってよかった。
「すげえぜあんた、オレをここまでゾクゾクさせるなんてよ!」
ランドは興奮の絶頂にいるようで、戦いの最中にもかかわらず、時折、恍惚的な表情を浮かべている。
突如、ランドが剣を寝かせ、突きを放った。
それにも『殺人鬼』は反応し、剣で打ち払う。
ランドの体勢が崩れた。
そこを『殺人鬼』は見逃さない。上段から一気に剣を振り下ろす。
ランドは地面を蹴って、間一髪、剣閃をかわした。
再びランドは突っ込んでいく。
ランドの攻撃は律儀、あるいは真正直と言ってよかった。何度かわされても、何度払われても、飽きることなく突っ込んでいく。
素直すぎた。普段、あれほどひねくれているランドが、剣に関しては素直すぎるのだ。
――今は照れてるだけで、本当はランドってもっと素直なのかもしれないわね。
ルフィルの脳裏に、そんな思いがよぎった。
「まずいよ。このままじゃ、あいつ負けちまう」
ステラが苦々しい口調でそうこぼした。
「えっ?」
「体力に差がある上に、動いてる量が全然違う。こっちが先にバテてやられちまうよ。あれだけの体格で、もしか体力がランドと同じ程度しかないなら話は変わってくるけど……」
「そんな……」
戦闘経験の豊富なステラの見立てだ。ほぼ間違いないだろう。
「ス、ステラさん、何とかできないんですか」
ルフィルはステラにすがりついた。
「……どうだろうね。たぶんあいつのことだ。ここで私が助けに入ったら、あとで逆に私があいつに殺されるかもしれない。戦いに関して、人の助けなんか絶対に借りたくないだろうね、あいつは」
ここは見守るしかないよ――とステラは付け加えた。
ルフィルの心に黒い影が降りた。
そりゃあ確かに、ランドとはそりが合っているとは言い難い。自分勝手で、他人のことなんかまるで考えないし、ろくでもない男だと思う。
でも、それでも。
死んで欲しいなんて、考えたこともない。いや、死んだら悲しい。死んで欲しくない。こんなに憎たらしい男なのに、死んだらきっと自分は泣いてしまう。
ルフィルは両の拳を強く握り締めた。黙って見続けることしかできないことが、悔しかった。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
もう何度目になるかもわからない攻撃を、ランドはかわした。
はっきり言って疲れていた。肩で息をしているし、足腰に震えがきている。汗で全身が気持ち悪い。
けれど、気持ちは死んでいなかった。
目の前の敵、『殺人鬼』をじっと見据えている。
――何が自分を、こんなになっても支えているのか。
――自分はなぜ強くなろうとしているのか。
ランドは自分以外の誰にも、その理由を吐露したことはなかった。
――誰かに喋ったら、それは弱音と同じだ。
だから、ランドは自分の中でだけそれを燃やした。心からあふれんばかりの、その思いを。
剣にすべてを込めて、ランドはまた相手に斬りかかっていく。
切先すれすれで、『殺人鬼』はそれをかわした。
「そろそろ、終わりにしよう」
初めて『殺人鬼』が声を出した。
思いのほか、流暢な喋りだとランドは思った。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
その声を聞いたとき、ステラの脳裏に昔の記憶が蘇った。
思い出したくないのに忘れられない人と、自分がいる。
二人は、仲良く遊んでいる。笑い合って、遊んでいる。
着ているものはボロボロ。だが二人の笑顔は、まさに幸せそのもの。
自分の隣で笑っているその人の剥き出しの右太腿には、大きな痣があった。
いつからあるのかわからない、大きな痣が。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
「……そうだな、終わりにしようや。オレも疲れた」
ランドは剣を改めて構え直し、姿勢を正した。
空気が、ぴぃん、と張り詰めていく。
もはや鳥の一匹さえ、鳴いてはいなかった。
お互いが微動だにしない。相手の出方を窺っているのか、構えたまま動きはない。
――先に動いたのは、ランドだった。
身を低くし、相手の足元に剣を打ち下ろした。
『殺人鬼』は、完全に不意を突かれたかのように見えた。
だが、そこからの反応が凄まじかった。
瞬時に剣を縦にすると、地面に打ち込むようにそれを突き下ろしたのだ。
『殺人鬼』の足の前に、剣の壁ができた。ランドの勢いは止まらず、そのまま相手の剣に向かう。
壁の、膝ぐらいの高さに当たり、衝撃で相手の膝の生地が少し切れた。
そこでランドの剣は弾かれるかと思ったが――そうはならなかった。
勢いを利用して、相手の剣の表面に自分の剣を滑らせた。
『殺人鬼』の顔はがら空きだった。
「があああっ!」
その瞬間、『殺人鬼』が吼えた。
そして、左手でランドの剣をはたき落とした。
『殺人鬼』以外の全員が、信じられないという表情に変わった。ルフィルも、ステラも――ランドまでもが。
それが、大きな隙を生んだ。
『殺人鬼』は、ランドの鳩尾を蹴り上げ――おそらく、足で攻撃されることをランドは予測していなかっただろう――ランドは吹っ飛ばされた。木に背中から激突する。
すかさず『殺人鬼』は間合いを詰めると、剣をランドの首に当てた。
「何か、言い残すことはあるか?」
ルフィルは、体が震えているのを感じた。
――止めなきゃ。ランドが殺されちゃう。でもどうやって? 自分の力でどうにかなるの? 相手は剣を手で止めるような、とんでもない男なのに?
「……オレは、負けたのか?」
ランドは呟いた。目はどこを見ているのかわからず、力強さがない。
「そうだ」
『殺人鬼』はそれに同意した。
最期の言葉を聞いたと判断したのか、『殺人鬼』は剣を両手で持ち直し、振りかぶった。
ルフィルは思わず目を瞑った。
がきっ
変な音がした。おそるおそる目を開けてみる。
ランドと『殺人鬼』の間に、ステラが立っていた。
手にはランドとの戦いで根元から折れた剣を持っている。そのうちどっかの鍛冶屋にくっつけてもらうさ、と言って持ってきたものだが、それがみごとに曲がっている。
あの剣で、『殺人鬼』の攻撃を止めたらしい。
柄がないので、ステラはじかに剣を握っていた。切れ味の鈍い根元の方ではあるが、向こうの攻撃の衝撃が強かったのか、握った手からは鮮血が滲み出ている。
「ランド……一応断っておくけど、別にこれはあんたを助けたんじゃないからね」
ランドは返事をしない。先ほどから、目の焦点が合っていない感じだ。
「これは、私のためにやったことなんだ。――なあ兄さん」
『殺人鬼』の右目――無事な方の目が大きく見開かれた。
「その痣。兄さんのこと忘れようとしたつもりだったけど、やっぱり覚えてるもんだね。記憶の中の形と同じだよ」
「ステラ……なんでここに――」
さっき切れた右膝上の布の切れ目から、大きな痣が見えていた。
「もう勝負はついてるんだ。殺さなくてもいいじゃないか」
「慢心は、『強さ』の敵だ」
「強さ強さって、もういいかげんやめなよ兄さん! 私は兄さんが出て行く前が、一番幸せだったよ。そりゃ私たちは確かに貧乏だったよ。それに弱かった。でも、でも――」
ステラは、普段の彼女からすると信じられないくらい、落ち着きがなかった。
「ステラ、わかってくれ。俺は、弱いまま生きることはできないんだ」
「わからないよ。わからないよ兄さん……」
ステラは激しく首を振り、いやいやをした。
「だいたい、なんでこんな通り魔まがいのことしてるのさ!? 兄さんこんなことで幸せなのか? おかしいよ絶対!」
ステラは喚き散らした。その様は見ていてあまりにも痛々しい。
「どこかの領主に仕官するんじゃなかったのか? なんでこんな――」
「ダメなんだ」
『殺人鬼』は、静かに、だが重たい口調で、ステラの言葉を遮った。
「生まれの貧しい俺では、いくら戦果をあげても重用されることはない。あそこでは、幸せになどなれないんだ。それがわかったから俺は、今はこうして『強さ』の究極形を探している。……もうそれしか、俺の行ける道はなかったんだ」
付け加えて「いつか俺が金持ちになったら、お前を探して呼び寄せたいという夢もあった」と『殺人鬼』は言った。
ステラは嗚咽を漏らしていた。言いたいことはきっと山ほどあるだろうに、それを言葉にできない感じだった。
「…………今日はもういい。お前の顔に免じて、この男は殺さないでおいてやる。だが必ず、この男は殺すからな。近いうちに」
『殺人鬼』はそう言い残し、剣を担いで森の奥へ消えた。
三人は、誰一人としてしばらく動けなかった。
「……ねえ、そろそろ帰らない?」
たまりかねてルフィルがぽつりとそう漏らすと、二人は返事もせず、黙って立ち上がって歩き出した。枝にかけられたまま忘れられたランドの外套は、ルフィルが持ち帰った。
宿に着いた三人は、一言も言葉を交わさないまま、寝床についた。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
ステラは、夢を見ていた。
幼き日の思い出。
自分と兄と、二人の前には貧素な食事。
「またこれ? あたしもっと違うのが食べたい」
ああ――この頃はまだ、女の子っぽい喋り方だったんだっけ。
「しょうがないだろ。これでも盗ってくるの大変なんだからな」
食料を調達するのはいつも兄の役目だった。あるときは大きな屋敷の倉庫から、あるときは行商人の馬車を不意打ちで。
本当はステラも手伝いたかったのだが、兄は危ないから、と言って手伝わせてくれなかった。
「ほら、文句言ってないでさっさと食えよ」
兄に促されて、膨れっ面のステラは渋々食べ始める。
毎度のことながら、マズい。塩も何もないので、味付けというものは存在しない。
「ねえ兄ちゃん」
「ん? 何だいステラ」
「あたしね、大人になったら、もっといっぱい食べれるようになりたい」
この頃のステラの夢は、食べ物に困らない生活を送ることだった。食べ盛りの自分は、それしか考えていなかった。
「そうだな、それにはやっぱりお金がないとな」
「お金? どうやったらそのお金がたくさんあるようになるの?」
金の感覚はまだなく、言葉として知っていただけだった。
兄は腕組みをして、少し考える。
「うん、やっぱり強くなればいいんじゃないかな? どっかの領主の家来になってさ、そしたらいっぱいお金貰えるんじゃないか」
思えば、当時から兄の意識の中には『強くなる』ことがあったのだろう。
二年後、兄は突然ステラの前から姿を消した。拾ってきた机の上に、『旅に出ます、ダメな兄ちゃんでごめん』という置手紙を一枚残して。
突然すぎて、涙さえ出なかった。
これからあとは、苦難の連続だった。
盗みに入った家でうっかり捕まってしまい、顔は目立つからと、そこから下をくまなく痛めつけられたこともあった。
(このときは結局、隙をみて命からがら脱走した)
剣術を自分で修練し始めた頃。生半可な剣術で戦って脇腹に深手を負わされ、生死の境をさまよったこともあった。
お金に困って、売春婦まがいのこともやった。
――生きることに必死だった。
自殺することは考えなかった。いや、そんなことを考える余裕さえなかった。
兄のことは恨まなかった。どのみち、自分の力で生きていけない者は淘汰されていく。そう思っていた。
兄に対して寂しい気持ちや、言いたいことはあったが、自分は捨てられたのだとは思わなかった。
二十をすぎたころには、ステラは一盗賊の首領にまで登りつめていた。
兄のことは忘れようとした。もう会うこともないだろうし、知っているとそれだけでせつなくなる思い出だった。
そんな中、昨日、兄に会った。
兄は変わっていなかった。自分たちが貧しく不幸であったのは弱かったからだと、今でも思っていた。
自分たちは、決して不幸ではなかったのに。
兄妹二人でも、どんなに苦しくても、笑い合って生きていける幸せがあったのに――
気がつくと、ステラは目覚めていた。
シーツが涙で濡れていた。鼻がグズグズになっていた。寝ながら泣いてしまっていたらしい。
「なんで、なんでだよ……なんで…………」
ステラは同室の二人に聞かれないよう、声を殺して泣き続けた。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
朝起きると、ランドはすでにいなかった。ベッドの上に剣は置かれたままだ。
――明らかに、ランドはおかしい。
ステラはステラで、頭から布団をかぶってしまっていて、非常に声をかけづらい。
昨日のことなど、色々と訊いてみたいことはあったが、さすがにルフィルもそこまで無遠慮ではない。
ルフィルはステラをそのままにして、ランドを探しに行くことにした。
あのランドが、剣を残してどこか遠くへ行ってしまうとは考えにくい。近くにいるんだろう。
町の中央の広場では、子供たちが元気に遊んでいた。
エリシオの姿も見える。昨日、母親が錯乱してしまっていたので心配したが、大丈夫なようだ。
広場のはずれに視線を移すと、木の下にランドが座りこけていた。幹に体を預け、地面に座り込んでいる。ずっと子供たちを見ていたらしい。
「何してるのよ。こんなところで」
そう言いながら、ルフィルもさり気なく隣に腰掛ける。
「……青いな」
溜め息混じりに、ランドは言った。
「何が?」
唐突な言葉に、ルフィルは戸惑う。
「空が」
言ったきり、ランドは黙った。
確かに、今日の空は青い。この季節にしては珍しいほど、雲ひとつなく済みきっている。
しかしそんなことよりも、ルフィルはランドの様子が気になった。
心、ここにあらずといった感じなのだ。上の空というか、意識がここに向いていない。――まるで抜け殻だ。
「あのさ、何か悩みでもあるの?」
ルフィルは思い切って訊いてみた。返事はない。
長い沈黙が二人の間に流れた。
「……オレ、もう護衛やめるわ」
突然、ランドがそんなことを言い出した。
「何でよ」
意外な申し出に、つい声を荒げてしまう。
「もう、戦ってもしょうがないんだ。だから、お前といる意味がない」
ランドは、力のない弱々しい声で呟いた。
ルフィルは徐々に苛立ってきていた。
こういうハッキリしないいじけた態度が、そもそも自分は大嫌いなのだ。
「いったい何なのよ! ちゃんと理由を説明してよ。そうでなきゃ、契約解除なんて許さないし、させないわよ」
ルフィルは溜まったものを吐き出すように、さらに続ける。
「そんなに負けたのがショックだったの? たかが一回負けただけじゃないの。それぐらいでウジウジ――」
言い終えた瞬間、ルフィルはランドにものすごい勢いで襟首を掴まれた。
血走った目で睨みつけられる。
ルフィルは一瞬おののくが、ここで引いてはいけないと思い、負けじと睨み返した。
二人はしばらく睨み合う。
やがて顔の緊張をランドは崩し、自分から手を放した。さっきまでと同じように膝を立てて座りなおし、膝の間に顔を埋める。
「悪ぃ。オレ恥ずかしいよな。負けた挙句に八つ当たりしてさ」
懸命に泣くのを堪えているのか、ランドは少し涙声だった。
「分かってくれたんなら、別にいいわよ。他人に話したくないことだってあるでしょうし。わたし、あなたがちゃんと話せるようになるまで待ってもいいわよ」
「それはできないんだ……」
ランドは苦しそうに、そう漏らした。
「人に頼ったらダメなんだ。そんなのただの弱音なんだ。言い訳なんだ」
ルフィルは何も言い返せなくなってしまった。
ランドは、他人を強く拒絶してしまっている。
ここで自分がなぐさめの言葉をかけたりしたら、ランドはますます内に篭もってしまうだろう――そんな雰囲気を、今のランドから感じた。
非力で何もできない、帝国の皇女の自分には、打つ手がなかった。
……ランドはずっとこんなふうに、自分を縛りつけて生きてきたのだろうか。
人を頼らない、弱音を吐かない、言い訳をしない――『強く』なることが目的だと言ってきたランドは、それを守ることを自分に課していたのだろうか。
それがランドをこうして追い込んでしまっている原因だとしても――結局ルフィルにどうにかできるわけではない。
再び沈黙が訪れた。さっきよりも、さらに長い沈黙。
「なあ」
ランドが重い口を開いた。
「あのガキ、どう思う?」
「……あのガキって、エリシオくんのこと?」
ランドは頷く。
――質問の意図がわからなかった。
何を言い出すかと思えば、昨日助けた幼い男の子のこととは――いったいどういうことだろう。
「どうって……子供らしい純真さがあるというか――あ、あと意志が強いわよね。森で一晩明かすだなんて、あの歳でなかなかできやしないわよ」
とりあえず率直な意見を述べてみる。
「いや、そういうことじゃなくって、そのなんていうか、あのガキとオレが――いや、そんなことはどうでもいいんだ。……悪いけど今の話、忘れてくれ。悪ぃ」
一方的に話を打ち切られてしまった。
ランドは立ち上がり、またどこかへふらっと行ってしまった。
ルフィルはあとを追わなかった。
そのあと、ランドは陽が沈む少し前に宿に戻ってきて、一言も喋らずにすぐ寝てしまった。
ステラは結局、一日中起きてこなかった。
ルフィルは大きな溜め息をつきながら、燭台の火を消した。
間章 ある少年の話
その少年が生まれたのは、山脈の北にある町だった。
町の名はタティール。痩せた土地ばかりの帝国北東部に属する、これといって目立つもののない町だった。
少年は名を、ランド=フォーシスといった。
高くそびえる山脈は、この国において、あらゆるものを分かち隔てる。
例えば気候。山の南は比較的過ごしやすいが、北側の気候は厳しい。長い冬と冷たい北風、それと深い雪に耐えなければならない。
例えば気質。帝都で流行っているものが、北でも流行るとは限らない。北の人には南とは違う考え方や趣向があり、むしろ豊な南に対する対抗意識が強い。
例えば皇家の影響。北の領主たちの方が、帝国の威光を意に介さない。当然、専制的な領主も北の方が多く、比例して戦争も多い。
タティールも例に漏れず、領主の力が強かった。領主の居城からも比較的近く、町の商売人たちは常に領主の顔色を窺っていた。
少年の父の名は、ジーンと言った。
夜空のような黒い髪の男で、少年は父譲りの黒髪を誇りに思っていた。
ジーンは傭兵を生業としていた。剣の腕も立ち、領内ではそれなりに名の知れた男だった。
タティールには、傭兵たちの集まる酒場があった。そこで彼らはお互いの情報を交換し合う。
本来、傭兵は個人営業なので一人一人が商売敵のはずなのだが、山の北では町ごとの連帯感が非常に強く、こうした集まりは北部一帯のどの町にでもあった。
戦いが多く仕事に困らないので、個人間のギスギスしたものができず、こうした仲間意識を生むのだろう。
ジーンは、よく息子のランドをその酒場へ連れて行った。
傭兵たちは、ランドを可愛がった。ランドはそうやって遊んでもらえるのが嬉しくて、また今度も酒場へ連れてって、と父にせがんだ。
父は嫌な顔をせず、酒場へ行くときランドに声をかけてくれた。
酒場へ行くと、ジーンはよく褒められた。こないだの戦いではすごかっただの、あんな剣さばきは生まれて初めて見ただの、とにかくよく褒められた。
父はそのたびに謙遜して、別にたいしたことないよ、と言ったが、そうやって父が褒められると、まるで自分が褒められているような気がして、ランドはすごく嬉しくなった。
自慢の父だった。
少年が八つのとき。父は突然、姿を消した。
理由はわからない。とにかく、いなくなった。
残されたのは、幼いランドと、ランドの母。
母の名はアシーナといった。
元々、体の丈夫な方でなかった母は、それ以来、床に伏すことが多くなった。
必然的に、生活はランドが支えることになった。
父は顔が広く、また多くの人に好かれていたので、ジーンの息子だと名乗れば人々はランドにもできる仕事を紹介してくれた。
彼らに、父のことで何か心当たりがないか聞いたが、皆同じように首を傾げるばかりだった。
ランドは一生懸命働いた。皆ランドの家庭事情を知っているので、食べ物を分けてくれたり、仕事を早めに切り上げてくれたりと、色々気遣ってくれた。
だがランドは、それに甘えすぎることはしなかった。
いつか父が帰ってきたら、いっぱい褒めてもらいたかった。自分の頑張りを、褒めてもらいたかった。だから、他の人の助けはあまり借りたくなかった。
ランドは父を信じていた。
絶対帰ってくると、信じていた。
父がいなくなって、二年の月日が流れた。
ランドの手は、およそ子供らしくない、ごつごつした働く男の手にすっかり変わっていた。
タティールは、冬を迎えていた。
城の屋根も、山の尾根も、軒の下も、どこもかしこも一面雪で真っ白く染まり、体に痛いぐらいの冷たい風が、休むことなく吹き荒れる。街角では幼い子供たちが、息の白さを競い合っている。
そんないつもの冬であったが、ただひとつ、例年と違うことがあった。
戦争のさなかだった。
隣の領主とは、以前から領地を巡っていざこざが絶えなかった。それがいよいよ本格化し、ついに全面戦争に突入することになったのだ。
町がピリピリした空気に包まれていった。
物資は何から何まで接収され、父の知り合いだった傭兵たちは次々と戦地へ赴いて行った。
町の活気が失われた。
人々の多くは戦争に疲れていた。領主たちのくだらない意地の張り合いに振り回されるのはいつも普通の人々であり、そんな彼らの顔から生気が失われるのは、ある意味当然のことと言えた。
その日も、雪が降っていた。
昼過ぎ。家に三人の兵士が訪ねてきて、物資の供出をお願いしたいと言ってきた。
ランドの母は、体は弱かったのだが、代わりに気の強い人だった。兵士たちの申し出を頑として断り、ウチには領主にくれてやるものはひとつもないよ、と言い放った。
兵士たちは、激しく母を罵った。それでも母は従わず、痺れを切らした兵士たちは母を縛り上げて強引に家の中のものを運び始めた。兵士の一人が母を外に連れ出す。
「やめろ! 母さんを返せ!」
ランドは何度も兵士の足に食らいついた。けれども子供であるランドではどうにもならず、何回も同じように撥ね飛ばされた。
「クソガキが。……母親があんなでは息子もこうなるんだな。いいか、お前の母親はこれから城の地下牢にぶち込まれるんだよ。ま、すぐ処刑されるだろうがな。最近の領主様は、お気が短くていらっしゃるし」
兵士は唾をランドに吐きかけてそう言うと、馬車に母を押し込んだ。
馬車はすぐに駆け出した。
「母さん!」
靴を履く手間も惜しく、ランドは裸足で雪道に飛び出した。馬車を必死で追いかける。
「来ないで!」
母の意外な言葉に、ランドの足が止まった。
「ちゃんと帰ってくるから。いい子にして待ってなさい!」
――思えば、それは我が子を巻き込みたくない、母の思いやりだったのだろう。
ランドは呆然と立ち尽くすしかなかった。
雪と空気の冷たさを忘れてしまうほど、ただそこに突っ立っていた。
気がつくと、夜になっていた。
ランドは、自分が今何をすべきなのかを考えた。
――母さんを助けにいかないといけない。父さんが帰ってきたとき、母さんがもうこの世にいなかったら、何て言えばいいんだろう? 母さんを守るのは、ボクの役目なのに。
ランドは裸足のまま、城に向かって走り出した。
走っている途中、足の裏から、そして爪からも血が噴き出した。
それでもランドは走り続けた。そのうち、足は痛みも何も感じなくなった。
城は――戦時下だったこともあり、多くの兵士が警備にあたっていた。かがり火の周りに、幾人もの兵士が立っている。と言うより、寒くて火のそばから離れられないようだった。
城といっても、帝都にあるような立派なものではない。屋敷を二つ三つ繋げたような、不恰好な建物だ。
問題は、地下牢の場所がわからないことだった。ランドは途方に暮れかけた。
だが諦めたりすることなど許されない。何が何でも、母を探し出して助けないといけないのだ。
ランドは城の裏手に回った。通用口と思われる戸がそこにあった。意外なことに、鍵がかかっていなかった。
そこから、ランドは忍び込んだ。
城の中は、明かりがほとんどなかった。警備兵の数も外の多さに比べると圧倒的に少ない。
ランドは、下へ降りる階段を探した。走ると足音がするので、急ぐ気持ちを押さえながら早足で探し回った。
ほどなくして、階段は見つかった。まだ年若い、見張りの兵が一人座っていたが、大きな船を漕いでいた。
ランドはその兵士の腰から鍵の束を取ると、階段を降りた。
牢は、廊下の両側にずらりと並んでいた。
明かりなどないので、どこに母がいるのかわからず、ランドは小声で母を呼びながら歩いた。
「ランド! 何しにきたの!?」
するとしばらくして、横から母の囁く声がした。
「何しにって、助けにだよ」
鍵束の中から適当に鍵を取って、鍵穴に合わせてみる。合わない。ランドは次の鍵を取った。
「ランド、家へ帰りなさい」
母は囁き声でなく、しっかりした声で言った。
「シッ! 聞こえちゃうよ」
「いいから黙って聞きなさい。母さんはね、ここにいても平気なの」
「明日殺されちゃうかもしれないんだよ!? そんなこと言って――」
「黙って聞いて。母さんの、最期のお願いだから」
母はすでに死を充分覚悟していることを、このときランドは悟った。
「真っすぐ家に帰りなさい。ランドはいい子だから、ね」
母は鉄格子の隙間から手を伸ばすと、ランドの頭をやさしく撫でた。
「でも、でも父さんが戻ってきたとき、母さんがいなかったらぁ」
ランドはとうとう堪えきれず、泣いてしまった。熱いものが頬を伝わる。
「大丈夫よ。父さんは強いから。もちろんランドも強いよね。なんたって、父さんの子なんだから。さ、もう行きなさい」
階段の方から小さな足音が聞こえてきた。さっきの寝ていた兵士が、鍵がないのに気づいたらしい。長い階段なので、全部降りるには少々時間がかかる。
「さあ、早く!」
母はランドの背を勢いよく押した。そのまま、ランドは走った。
階段の下で兵士とぶつかった。兵士は何やら喚いていたが、構わず走って城を抜けた。
城を抜けてからもランドは走り続けた。どこなのかわからないところを走った。泣きながら走った。雪の降る中を走った。雪の上も走った。
その夜はずっと走っていた。ずっと泣きながら走っていた。
冷たくなった頬に、流れる涙が温かかった。
心の中で、色んな思いが行き場を求めて暴れていた。
自分ひとりでは何もできないことが、悔しかった。
涙はずっと止まらなかった。頬を伝う涙の筋は、一晩かけても凍らなかった。
明け方近くになって、ランドはどこだかわからない広場にたどり着いた。
そこで、力尽きて倒れてしまった。
どれぐらい倒れていたのだろうか。ランドは周りの騒がしさで起こされた。
目の前に人垣があった。その向こうに木の柵。さらに先には、何人かの兵士がいる。
「これより重罪人の公開処刑を執り行う!」
兵士の一人が柵の中で叫んだ。ランドはまさかと思い、人波を掻き分けて柵の前までいってみる。
――母が、いた。
何人かの罪人と縄で繋がれ、引かれるままに歩いている。
ランドは叫びたかった。母を大声で呼びたかった。
――できなかった。
母の行いを、無駄にしてはいけない。裏切ってはいけない。その思いが自分にそうさせなかった。
母は中央の木に縛られ、首筋に剣があてがわれた。
母が殺された瞬間のことを、ランドは覚えていない。
うな垂れた母の首からおびただしい量の血が流れている光景と、押さえきれない自分の体の震え、それと、唇から口の中全体に広がった、鉄臭い味。それだけが、頭の中に残っている。
母の死という事実があまりにもショックだったため、頭が過程の記憶を撥ね飛ばしてしまったのかもしれない。
なかば無意識的に、ふらふらとタティールの方へ歩いてきたランドは、気がつくと家の裏にある山にいた。本当にすぐ裏手にある小高い山で、父がいたころはよく一緒に遊んでもらったところだった。
精根尽き果てたランドは、深く積もった新雪の上に身を投げ出した。雪が自分の形に窪む。いまさら、雪の冷たさは気にならなかった。
ランドは自分を責めた。なぜ、あそこで引き下がってしまったのか。無理にでも母を連れて帰るべきではなかったのか。そもそも自分が強ければ、兵士に母を連れていかれることもなかったんじゃないのか。
自分が強かったら、もっと強かったら…………強くなりたい。強く、強く――
こんなとき父がいれば、とランドは思った。
――父がいれば、こんなことにはならなかっただろう。どうして父は今ここにいない? 自分たちを置いてどこへ行った?
ランドは、生まれて初めて父を憎んだ。
――父は、自分と母を見捨てたんだ。許せない。強くなって、いつか必ず復讐してやる。探し出して、自分と母が受けた痛みを思い知らせてやる。
そう心に誓った。それが生きる目標になった。
ランドはタティールを出た。この町にいたら、自分は事情を知る人たちの好意に甘えてしまって、強くなれない――そう思った。
父が残した剣を手に、南へ下り、山に篭った。
すぐに父を探しに行かなかったのは、今の自分では返り討ちにされるのがわかっていたからだった。
毎日、剣の修行に明け暮れた。
素振りや木への打ち込み、高低差のある山道を走ったりもした。動物を狩ることも、修行になった。
六年間、そんな毎日が続いた。ずっと、父への憎しみが消えることはなかった。
一六の春、自分の強さにある程度自信を持ったランドは、山を降りた。
人間相手に自分を試してみないと、もう気が済まなくなっていた。
六年ぶりにタティールに戻ってきたランドは、まずあの酒場を訪ねた。戦いのことに関する情報なら、この町でここ以上に集まるところはない。
ひょっとしたら、父がここにいるんじゃないかと少し思ったが、やはりそこにその姿はなかった。
久々に見る主人の顔は、ずいぶん老けていた。
内装も少し汚れた感じがした。しばらく壁を塗り替えていないようだった。
傭兵の顔ぶれも、見たことのないヤツがいたり、姿の見えないヤツらも何人かいたりと、ずいぶん入れ替わっていた。全体的に、若返っていた。
ランドは名を聞かれると、ランド=クライトと名乗った。
クライトは母の姓だった。父の姓を名乗る気にはなれなかった。
ランドは、自分の正体を話さなかった。六年も経って、誰もランドのことに気がつかなかったし、ランドもくだらない馴れ合いのようなことは望んでいなかったので、それでよかった。
そして、仕事を求めてあちこちを旅している傭兵であると、自分のことを説明した。
そうすると主人は、昔、ここにもランドという男の子がいたことを話し始めた。
すぐに店内は、思い出話に花が咲いた。父の話になると、ランドは苛立ちを悟られまいとして、机の下で拳を強く握り締めた。
やがて、ランドの母が処刑された話から、領主の話に移った。傭兵たちは領主のやり方に不満を漏らし――中でも褒賞の額に対する不満が多かったが――ランドによその領主はどうなのか、などと尋ねてきた。
ランドはもちろんそんなことは知らないので、適当に返事をした。
「お前さんは、もう聞いておるか? この町に関することで」
主人は、ランドを試してきたようだった。初対面のよそ者が信用されることなど、あるはずない。この行動は当然だろう。
――さて、この町のことで何か……?
「まさか、内乱でも起こそうっていうんですか?」
あんな領主である。そろそろ、人々が我慢できなくなってもおかしくはない。それに、さっきまで領主の話をしていたではないか。
ランドは、かなり確信めいた予測をもってカマをかけた。
「ほう、知ってましたか。よそにもう知れ渡っておりますか?」
予感は的中していた。どうやら、住民が起こす蜂起に、傭兵たちも乗るつもりのようだった。
「それに、オレも混ぜてくれませんかね」
ランドがそう切り出すと、その場にいる全員に怪訝な顔をされた。確かに、今日来たばっかりの男がそんなことを申し出るのは、かなり不自然である。
だが、ランドは母を殺された恨みを忘れていなかった。
「オレの兄貴が――傭兵だったんですけど、昔、処刑されたんすよ。あの領主に。捕虜んなってここに連れてこられて、すぐ殺されたとか。だから――」
口からでまかせだった。
しかし、それで彼らは信用してくれた。本心からあの領主を殺したいと思っていることが、彼らに伝わったのかもしれない。
一週間後。
蜂起のときを迎えていた。
空は厚い雲に覆われ、普段より暗い夜だった。
陽が昇る前に、ケリをつける計画だった。人々は固まって城を目指した。
城の目前まで迫ったとき、そこには驚愕の光景が広がっていた。
重装備の兵士がずらりと居並んでいたのである。
どうやら、情報が漏れていたらしかった。
しかしここまで来て、あとに引けるはずがなかった。
戦闘が始まると、頭数に勝る反乱軍はその数の多さで対抗した。
だが、そもそもの戦闘能力が違っていた。装備の質も違った。
戦況はこちらに不利に思われた。
「おい、そろそろ行くぞ」
小高い丘から戦場を窺っていたランドは、すぐ後ろから声をかけられた。
あの酒場の常連の一人――ハンクだった。
ハンクは傭兵としてはベテランの域に入る、四〇目前の男だった。
ランドの父より年上だったが、ハンクは父を非常に尊敬していた。幼いランドに向かって、ことあるごとに父のすごさを語ったりしたのは彼である。
「そうですね」
ランドは剣を抜き、丘を駆け下りた。すぐに兵士の姿が迫る。
兵士の顔めがけ、目いっぱいの力で剣を振り下ろした。
顔を覆う兜の正面が、谷型にへこんだ。
「痛ってぇ!」
ランドは思わずそう叫んでしまった。予想以上の衝撃に、手のひらが痺れた。
「お前――」
ハンクは首にある鎧の隙間に剣を突っ込んで、兜のへこんだ兵士の息の根を止めると、すぐにこちらに駆け寄ってきた。
「剣を使ったこと、ないのか!?」
「……やっぱり、わかりますか」
ランドは、剣は力だけでどうにかなるものではないことは知っていた。例えば木に打ち込むときでも、正確な角度で打ち込まないと手が痺れる。そういう技術的なものが必要なことはわかっていた。
だが人間相手に振るったことがないために、対人間の、あるいは対鎧における打ち込みの角度がわからなかったのである。
ハンクの目をごまかせるはずがなかった。
「じゃあなんで、あんな嘘をついた? 自分は長いこと旅をしながら傭兵をしているって――」
そう言っている間にも、次々と兵士は二人に襲いかかる。ハンクはそれらを難なくさばきながら、背中ごしに訊ねてきた。
「知られたく、なかったんです。自分の正体」
「それって…………お前、まさか――」
――ここまできて、もう嘘をつく気は起きなかった。
「…………お久しぶりです。ハンクさん」
「お前、あのランドなのか? ジーンの息子の? 本当にそうなのか!?」
ええ、と短く答えた。言いながら、力でもってランドは新たな兵士を押し返す。
「なんで、なんで黙ってた!」
「あとで話します! 今はそんな余裕ないでしょう!?」
戦場でこれ以上、込み入った話をするのは無理があった。
ランドとハンクは兵士を薙ぎ倒しながら、城に向かって前進し続けた。
戦っていくうちに、ランドは剣を打ち込む角度がわかってきた。
熟れすぎて地面に落ちた木の実みたいに、次々と相手の顔がひしゃげていく。
もともと膂力はあったので、コツさえわかればランドにとって相手を倒すのは難ないことだった。
ランドは自信を深めていった。自分の力は屈強な兵士相手でも充分通用する。自分は強くなった。あとは父を探すだけだ――
この日初めて、ランドは人間を殺した。特別な感慨はわかなかった。
剣を振れば相手は傷つき、ときには死ぬ。そんなことはランドにとってすでに当たり前のことだった。だから、相手を叩き潰す感触を得ても、驚くことはなかった。
調子づいたランドは、目に入る兵士を片っ端から倒しまくった。
……このときの活躍がもとで、のちに『すごい少年剣士を見た』という噂が北部一帯で流れることになるのだが、それは当時のランドには知る由もないことだった。
戦いは反乱軍の勝利で幕を閉じた。
領主は首を斬られ、領内全土にその首は晒された。
人々は城に火を放った。城は火の粉を冬の空高く巻き上げ、陽が昇るまでにすべて焼け落ちた。
再び、あの小高い丘に二人はいた。
真っ黒に焼け焦げた城の残骸や、今にも臭ってきそうな無数の死体が、そこから一望のもとに見渡せた。
「そうか、そんなことが……」
ランドはハンクにすべてを話した。母が殺されたこと。父を憎んだこと。ずっと山にいたこと。
そして、これから父を探し出して、自分の受けた苦しみを思い知らせてやるつもりでいることも。
「なあ、ランド。ジーンはさ、お前たちを置いてどこかへ行ったのは、きっと何か理由があるんだよ」
ランドはそれに無言で応えた。
長い沈黙。二人の間を冷たい風が吹き抜けていく。
「――どうしても、行くのか?」
「ええ。これから、山の北一帯を探し回って、それでも見つからなければ南へ行ってみようかと思います。自分のことは、皆には黙っておいて下さい。自分は、誰の力も頼りたくないんで」
ランドは戦場とハンクに背を向け、歩き出した。
「おい、ランド! 待てよ」
「……何です?」
ハンクの呼びかけにランドは立ち止まり、振り返る。
「お前は、誰も頼りたくないって言うが、それは他人を信用できないってことか?」
「そうじゃありません。ただ、どうしても、自分の力でケリをつけたいんです。……すいません」
再びランドは歩き出した。
「ランド――いつかまた戻って来い。……死ぬなよ」
それに右手を上げて応えると、一度も振り返ることなく、ランドはその場をあとにした。
その後、風の便りで、タティールでは自治会議内の対立から再び争いが起こり、兵力が疲弊したところを新たな領主に攻められ制圧されたと、ランドは聞いた。
第四章
あれから二日が経った。
三人はいまだ、パオリニに留まっていた。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
ここ何日か、晴れの日が続いている。秋だというのに珍しい。
ランドはそんな青空を、昨日も今日も同じ木に寄りかかって見つめていた。
爽やかに晴れ渡る空の、透き通る青さが恨めしく思える。きっと空には、悩みなど何もないのだろう。
……恨めしいのだが、それでもランドは空から目を逸らせないでいた。
人間を超越した特別で強大な力を、この高い空からひしひしと感じてしまうのだ。
だから目を離せない。心奪われてしまう。
――負けてしまったのに、もう『強く』はなれないのに、それでもまだ自分は『強くなること』に憧れている。それを望んでいる。
諦めの悪いヤツめ――ランドは自嘲気味に唇の端を歪めた。
なんだか、あいつの――親父のこともどうでもよくなってしまった。
恨みがなくなったわけじゃない。ただ、追いかける気がないというか、『強く』もない自分では会ってもどうすることもできないんじゃないかと、ランドには思えてしまうのだ。
そうして考えごとをしていると、子供たちのにぎやかな声が広場から聞こえてきた。毎日毎日、よくもこう飽きもせず疲れもせずに遊べるものだとランドは思う。
今日はエリシオの姿が見えない。またあの母親にお使いでも頼まれたのだろうか。
まったく、あいつはどうしてあんな女と――考えかけて、ランドはやめた。これ以上あいつのことを考えても、虚しいだけだ。
あいつのことも、あの親子のことも、もう別にどうでもいい。
エリシオと自分が兄弟であることも、自分以外誰も知らない。真実は、これから先もずっと自分の中にだけ閉じ込められ続けるのだ。
だから、自分がヘマをしない限り、バレることもない。自分とあの親子は、またそれぞれお互いの生活を続けていくだけだ。
――そもそも、エリシオはあいつの子供だ。自分の知らないうちに生まれた、あいつの子供だ。
自分はエリシオを、もっと嫌悪すべきなんじゃないだろうか。エリシオ本人に罪はなくとも、あいつの子供であるのだから……
あいつが、父が憎いのなら、エリシオも憎むべきなんだ――
ランドの心の中で、黒い何かが渦を巻いていた。それが回転するたびに心が悲鳴を挙げるのだが、ランドはその声を無視し続けた。
あたりの風景が橙色に染まりだしたころ、ひどく慌てた様子で宿に近づいていく人影に、ランドは気づいた。
あれは――あのガキの母親だ。
一目散に宿に駆け込んでいったが、何かあったんだろうか。妙な胸騒ぎを感じる。
ランドは彼女のあとに続いて、宿に入っていった。
あれ以来、何かやる気になったのは、これが初めてだった。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
窓から茜色の光が差し込んでいる。もう夕暮れだ。今日もこの町から動けなかった。
ルフィルは歯がゆさを感じていた。
二人の様子は一向に回復しない。ランドは朝方にふらふらと外に出て広場の木に寄りかかると、何をするでもなく、一日中ぼうっとどこかに視線をさまよわせている。
ステラは部屋どころか、ベッドからさえ一歩も出てこない。別室を頼んで用意しましょうか、と訊いてみたが、返事はなかった。
ベルタスの好意で宿代は取られていないが、ずっとこのままでいるわけにもいかない。
しかし、いったいどうしたらいいのだろう。
二人に話しかけても、無視されるか生返事ばかり。完全にお手上げだった。
動く気力が二人にない以上、先に進むことはできない。
――なんでこう、わたしは何もできないんだろう?
ルフィルは、今日何度目かになるかわからない溜め息を深々と吐いた。
いっそのこと、二人をここに置いていってしまった方がいいのだろうか。そこそこのお金はあるから、新しい護衛を雇うぐらいならなんとかなる。
それでもなぜか、ルフィルはあの二人を放っておけなかった。
理屈で言えば正しくないのかもしれない。それでも置いて行けなかった。まだ会って数日しか経っていないのに、だ。自分でも不可解な気持ちだった。
思い返せば、自分の身分を気にしない人間とこんなに長く一緒に行動したことが、かつてあっただろうか。
いつも側にいたのは、『皇女』であるところの自分を護る衛士や、皇家に仕える侍女ばかり。他の人間と親しくすることなど許されなかった。
何度か彼らの目を盗んで屋敷を抜け出すこともしたが、それでも外の人間と親しくなることはなかった。
自分の方から、どこか、壁を作ってしまっていたのだろう。
子供の頃から父に、お前は世間に知られたら危ないんだぞ、とよく脅された。ルフィルは父ほどの危機感は持っていなかったが、心のどこかにそれが刷り込まれていたのかもしれない。
そのとき、部屋の扉が激しく叩かれた。
「すいません! ランドさん、ランドさん!」
声には聞き覚えがあった。パオリニに着いた日に取り乱したエリシオの母親、ミシルだ。
ただごとではない様子に、ルフィルは急いで扉を開ける。
「どうしたんですか?」
「あ、あなたは、一緒にいた――それよりランドさんは!?」
ミシルは、乱れた茶色い髪を直しもせずに詰め寄ってくる。
「ひ、広場の木のところにいるはずですけど……いませんでしたか?」
ルフィルはミシルの勢いに気圧されていた。
「え、あ、そうなんですか? どうもすみません」
頭を下げる時間も惜しそうに、回れ右をしながら小さく礼をしたミシルは――当然、前をよく見ていなかった。
進行方向にいた人物を避けることができず、勢いよくぶつかってしまう。
「きゃあっ!」
ミシルは勢い余って尻もちをついてしまった。
ランドが眉根を寄せたしかめっ面で、それを見下ろしている。
「あれ? ランドどうして――」
「あ、ランドさん!」
ぶつかった相手がランドだと気づいたミシルはさっと立ち上がると、一枚の紙を取り出した。
「今日家にこんな手紙が来て、それでエルがいなくて、今からお伺いしようと思って、それでそれで――」
ぶつかったことで、頭の混乱がさらに増したらしい。ミシルは用件をまとめきれないまま、ランドに事情を説明していた。
ランドは手紙を乱暴にひったくり、目を通した。みるみる顔つきが強張る。
「どうしたの……?」
ルフィルはその様子に不安を感じた。
「あのガキが、『殺人鬼』にさらわれた」
ランドは、さらりと言った。
「えっ」
「返して欲しくばランドという男に、こないだの森まで今夜中に来いと伝えろ。来なければこの子供を殺す、だと」
「そんな……」
「あいつは、オレを殺してこないだの始末をつけるつもりだろう。あのガキはオレをおびき寄せる人質だな」
ミシルの慌てぶりとは対照的に、ランドは落ち着き払っている。
「それで、どうするのよ?」
「何が?」
「だって行けばランドが殺されるし、行かなかったらエリシオくんが殺されちゃうんでしょ? そんなの選べないじゃない! どうするのよ!?」
そう、これはどちらを選んでもつらい結末しか待っていない、苦しい選択だった。
「迷うこたぁねえよ。オレが行く。もう惜しい命でもないしな」
だがランドはそういうことを気にする様子もなく、どこか達観したようにそう言った。
――その、自分から投げ出してしまっている言葉が、ルフィルは気に入らなかった。
「いいかげんにしなさいよ! こないだからグズグズしちゃって。何よ、あなたまだ生きてるじゃないのよ。一回負けたぐらい何よ!」
ルフィルは一気にぶちまける。
「あなた、強くなりたいんでしょ? それって、一度負けたらそれでダメになるものなの? 違うよね。例えば、世界最強の剣士がいたとして、その人は子供のころも含めて、人生の中で一度も負けたことがないと思う? そんなことないよね。そこであきらめなかったから、最強になれたんでしょ、その人は!」
――ずっと苛立っていた。
ランドが落ち込んでいるのを見ると、イライラしてたまらなかった。
確かに、ランドが今自分の中で苦しんでいることはわかる。それがルフィルの力でどうにかなるものでもないことも、わかる。
だからといって、何も言わないのはやはりルフィルにはできないことだった。
言いたくてしょうがなかった。けれど自分が言ったところで――そういう悩みがここ数日ずっと、ルフィルの心の中をぐるぐる回っていたのだ。
――やっぱり、わたしはこれでいくしかないんだ。
こっちまでおかしくなったら、たぶん相手もいつまでもおかしいままだ。だから、自分がまず普通に戻らないといけない。
一人で内に抱え込んで、思考の迷路に入りこんだって答えは出ない。もちろん最終的には自分で答えを見つけるしかない。だけど、その過程で誰かの言葉や行動が手助けになってもいいはずだ。
だから、自分と言い合うことで、ランドも何か解決の糸口を見つけられれば……そんな気持ちもルフィルにはあった。
睨まれるかと思ってルフィルは構えたが、ランドは目を大きく開いてこちらをじっと見てくるだけだった。
何だか、ここ数日でランドが一番生き生きした目をしている気がした。
しかし、それもやがて沈んだ表情に戻る。
「もういい。それも、全部終わったことだ。――もう行くぞ」
ランドはそう言って、剣も取らずに廊下の奥に消えてしまった。
「ちょっと、勝手に行かないでよ!」
ルフィルはランドの剣を取り――意外に重いので一瞬よろけてしまった――あとを追おうとした。
「お嬢ちゃん、私も行くよ」
そのとき、ルフィルは背後から誰かに――いや、後ろには一人しないない――ステラに呼び止められた。
布団から半身を起こしたステラの目は、泣き腫らしたのか、真っ赤に充血している。
「ステラさん、もう大丈夫なんですか?」
言ってからルフィルは「しまった」と思った。せっかく立ち直りかけているのに、変に気を使っているようなことを言っては逆効果だ。
「ああ、もういいよ。迷惑かけたね、お嬢ちゃん」
だがステラは、後悔するルフィルの表情を見つめながら、やさしく返事をした。おそらく気遣ってくれたんだろう。
ルフィルは申しわけなく思った。
「私も行くよ。あの様子じゃ心配だからね。それに、私にも関わりのある問題だし」
布団から起きたステラは身支度を素早く整えると、「急ごう」と声をかけてきた。
「その剣、私が持ってあげるよ。お嬢ちゃんには重いだろ?」
「え、でも、わたしこれぐらいしかできることがないし――あ、ミシルさん、必ずエリシオくん、連れ戻して帰りますから!」
ずっとこちらに不安げな視線を送っていたミシルにそう告げると、二人は宿の主人にたいまつを借り、すぐに駆け出した。
町の西口の手前で、ランドに追いつく。
「あ、何だ? お前ら来なくていいのに」
迷惑そうな顔で、ランドは吐き捨てた。
「どうしてそう、人の好意を素直に受け取らないの!? はいコレ!」
息を荒げて整えながら、ルフィルは剣をランドの前に突き出す。
「別にいらねぇよ。戦いに行くわけじゃないんだし」
「ああもう! いい加減に――」
苛立つルフィルの肩を、ステラがスッと押さえた。
「ランド。話がある」
いつもより幾分低い、深刻そうな声で、ステラは切り出した。
「何だよ?」
「『あれ』は、私の兄だ。それはもう知ってるな?」
ランドは無言で首肯する。
「兄にこれ以上、人殺しをさせないでやってくれ。それを止められるのは――ランド、お前だけなんだ」
ステラは悲壮感に満ちた目でランドを見つめている。ステラの背はランドの顎付近ぐらいなので、見上げていると言った方が正確かもしれない。
ランドの顔つきが曇る。
「……無理だ。あいつにかなうわけが……。こないだあんたも見ただろ?」
ステラは首を振る。
「頼む。何とかしてくれ。もうたぶん、私でもどうにもならない。お前しか頼れる人間がいないんだ。頼む………」
そしてステラは、頭を下げた。
ランドはうつむき、押し黙る。
無言の時間が続いた。
やがてランドは、ゆっくりと顔を上げた。
「…………保障はできない。あいつに会ったとき、オレの中に戦う気持ちがあるかどうかわからない。だけど……」
逆光の中で見るその表情は、ここ数日の冴えないそれではなかった。何かを掴んだような、引き締まった顔になっていた。
「とりあえず、やってはみる。このままじゃダメなのは、自分でもわかってるからな」
ランドは剣を受け取り、いつものように腰に下げた。
「――行くか」
意思を篭めた調子で、ランドはそう言った。
ルフィルとステラは、力強く頷く。
自分がついていくと足手まといになるかもしれないことは、ルフィルの頭にまったく登らなかった。
ランドもステラも、ルフィルのことは何も言わなかった。
三人は西から街道へ出た。
茜色は暗みを増し、闇が街道を支配し始めていた。
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道を歩きながら、ランドはさっきの自分を振り返っていた。
――オレは何で、あのガキをすすんで助けるようなことを言ったのだろう。
憎んでいるはずなのに。
だのに、自分が死ねばいいみたいなことを最初に言って――普通、逆だろう?
ひょっとして、自分はエリシオのことを憎んでいないのだろうか。
あいつのことは今でも憎い。会って殴ってやるぐらいじゃ気がすまない。
だけどエリシオのことは――いや、そんなバカなことがあってたまるか。
――オレはあのガキが嫌いだ。そうなんだ。そうに決まっている。
ひょっとして、あいつへの憎しみも、本当はもうないのだろうか。この憎悪は嘘っぱちで、ただ、今までやってきたことを否定したくないから……
いや、そんなバカな。それこそ無茶な話だ。
あいつは自分と母さんを捨てたんだ。だから――
ランドは湧き起こる疑いを、必死に押さえつけていた。
それを認めて受け入れることは、父がいなくなってからの自分を、丸ごと否定してしまうことだと思った。
そんなことは絶対にできなかった。
過去を否定できないから、『強さ』を求めた生き方が間違っていたなんて思いたくないから、自分はもっと『強く』なれると思ったから、もう一度剣を取ったのに。
それでもまだ、自分は過去の自分を裏切ろうとしているのだろうか――
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ステラが持つたいまつの火が、一歩ごとに揺らめく。
夜の街道は寂しいぐらい静まり返っている。石畳を踏む音だけが聞こえた。
ルフィルたちは普段よりも身を寄せ合い、例の場所へと向かっている。
「もう少し離れろよ。歩きにくいだろ」
ルフィルは暗がりが怖いので他の二人にくっついて歩くのだが、ランドは近づき過ぎだと文句を言う。
しかしさしものランドも夜は慎重なようで、ルフィルでも充分ついていける速さで歩いていた。
今夜は満月だった。地平線すれすれのところから、黄色い光条を放っている。まだ光が弱いので影はできていない。
もっと時間が経って青白くなってくると、街道の石畳に多くの木影が伸びるだろう。
視線をもっと上空に移すと、昼間から続く晴天に幾千という星が競いあって瞬いている。あんまり数が多いので、いくつか落っこちてしまうんじゃないかと心配になるほどだ。
もしこれが曇り空だったら、ルフィルはもっと恐ろしい思いをする羽目になっただろう。
聞くところによると、月のない晩にはこの石畳がほのかに光ることがあるらしい。なんでも、死者の怨念が石畳にまとわりついていて、それが昔の恨めしい気持ちを思い出して怒っているのだとか。
さすが、白骨街道の別名を冠するだけのことはある。
その様を想像して、ルフィルは思わず身震いした。
「このへん、だったかな?」
ステラがたいまつを森の方に傾ける。見覚えのある枝ぶりの木が、そこにどっしりと構えていた。
闇の中から幹の茶色だけが切り取られて出てくると、正直、変な感じがする。こうして夜に見てみると、なかなか木にも迫力があった。
三人は森へと分け入った。
森に入ると、頭上に繁る枝葉に月星が遮られた。闇はいっそう、その濃さを深める。
時々、地面に出ている木の根にルフィルはつまずく。
「それにしても、なんで『殺人鬼』はこんなところにわざわざ呼び出したのかしらね? 寝込みを襲えば手っ取り早いのに――って、別に襲われた方がよかったって言ってるわけじゃないのよ」
自分でも恐ろしいことを言ったと思い、ルフィルは思わず補足を入れた。
「たぶん兄は、町中で騒ぎを起こしたくないんだと思う。だから森の中にまで呼び出したんだ。……根はいい人だから」
ステラは溜め息をついた。たいまつの炎が大きく揺らめく。
「兄は、自分たちが貧しいのは、弱いからだって考えてたんだ。いや、本人の口から聞いたわけじゃないけどね。書き置きにそんなことが書いてあったから――それで、私を置いて、旅に出てしまったんだ。それからどんなことがあって、今あんなことをやってるのか、詳しくはわからないけど」
淡々と、ステラは語る。
「私は……確かにあのころの私たちは弱かった。だけど、決して不幸というわけでもなかったんだ。少なくとも私は、兄さんと二人でも楽しかった」
『兄』が『兄さん』という言い方に変わっていたが、ステラはそれに気づいていなかった。どうしても、気持ちが出てしまうのだろう。
「今の兄さんは、生きるために必要なもの以上の『強さ』を求めていると思う。それがまわりの人間を不幸にするだけでじゃなくて、関係のない人間をも巻き込んでしまっている……」
そこでステラは、ランドの肩を掴んだ。
「もし、もし仮にだ。兄さんを殺せそうになったときは、迷わず殺してくれ。それでしかもう、たぶん、兄さんを止められない」
ランドは返事をしなかった。
それを肯定と受け取ったのか、ステラもそれ以上言わなかった。
町を出て一時間が過ぎた。
ルフィルたちは、森の奥深くまで進んでいた。
「ひょっとして――わたしたち、道に迷った?」
不安を隠せず、ルフィルは二人に訊いてみる。
「かもな……」
「ううん。暗いから自信ないね」
……不安はさらに増した。
「ねえ。いつまでに来いとか、そういうのは書いてなかったの?」
「いや、今夜中としか――」
突然、ランドが立ち止まった。
「どうし――」
ルフィルも言いかけて、そこで気づいた。
目の前に、巨大な男が壁のように立ちふさがっていた。男の肩には、怯えた顔のエリシオが乗っている。
「遅かったな」
『殺人鬼』は、怒るような言葉とは裏腹に、口調は物静かだった。
「その剣……何度やっても無駄だということがわからんか」
「ステラ……結論が出たぜ」
ランドは『殺人鬼』の言葉を無視し、背後のステラに声をかけた。
「バカみたいだけどさ、オレ、またやる気になれてんだ。この勝負、乗るぜ」
ランドは外套をルフィルに投げつけると、剣を構えて『殺人鬼』の顔を見上げた。
そのとき、強い風が襲ってきた。頭上の枝葉が大きくざわめく。
しばらくして風は止んだが、たいまつの火が消えてしまった。
重く湿った闇が、ルフィルの上にのしかかる。
何も見えなくなった。
今夜は満月だから、目が慣れれば少しは見えるかもしれない。けれどもそんな楽観とは関係なく、暗闇に対してルフィルはものすごく不安になった。
思わず、手近な幹にしがみつく。
「約束通り来てやったんだ。そのガキを早く渡せ」
ランドの声が、前方の闇から聞こえた。
「いや、お前を殺すまでは約束は果たされてない。まだだ」
今度は『殺人鬼』の声。
「手紙には、オレを殺すということは書いてなかっただろ。おかしいじゃねぇか」
「呼び出した理由ぐらいわかるだろう? つべこべ言うな。お前は今から死ぬんだからな」
「兄さん、もうやめてくれ!」
さらに、ステラの悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「それ以上強くなってどうするんだ? 何にもならない! これ以上、不幸な人間を増やしてどうするんだよ!」
自分の言葉ではきっと止められないだろう――さっきステラはそう語っていた。しかし実際に本人を目の前にして、どうしても言葉を押さえられなかったらしい。
ルフィルはそんなステラの行動を、もちろん責める気になどなれなかった。黙って耳をそばだてる。
「ステラ……」
「兄さんは今、幸せか? 戦えば戦うほど虚しさを感じてるんじゃないのか? だったらもうやめなよ! 誰も兄さんを責めたりしないから! 他の道が選べたはずだとか、そんなこと言わないから!」
ステラの声と同じ音源から、鼻をすする音が聞こえた。
「……確かにこの道は、かつて俺が旅立ってまで目指したものとは違うだろうな」
「じゃあ――」
「だがなステラ。この道は、一度進めばもう戻れない――そういう道なんだ。やり直しはきかない。後ろに道はなく、前にしか進んでいくしかないんだ」
『殺人鬼』の声には、迷いらしきものが少しも感じられなかった。この道に殉じても悔いはない――そんな思いが込められている気がした。
「兄妹ゲンカは終わったか? そろそろ始めようや」
ランドはほとんど、以前の調子に戻っているようだ。
――よかった。って、なんで血の気の多い男に戻ったことを喜んでるのよ。
ルフィルは安堵感を感じている自分に対して、驚きを隠せなかった。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
「そうだな」
そう言って、目の前の『殺人鬼』は、背後の木にエリシオを縛りつけた。
ランドは長い山の生活で、夜目は鍛えられている。火が消えても、すぐに視力は回復した。
よく見ると、エリシオは口に猿ぐつわ代わりの布を噛まされている。観念してしまったのか、暴れている様子もない。
『殺人鬼』も剣を構える。
「先日の戦い、なかなか楽しかったぞ。お前は俺がやってきた相手の中でも、五指に入るだろう」
『殺人鬼』はこないだのときより、饒舌に喋ってきた。気分がいいのだろうか。
「だから今夜も、楽しませてくれよおっ!」
言うやいなや、『殺人鬼』はいきなり間合いを詰めてきた。
その勢いで、豪快に剣を叩きつけてくる。
いくら夜目を鍛えてあるといっても、昼間と比べれば圧倒的に視覚は弱まっている。少しの油断や緊張感の欠落が、大きなあだになる。
ランドは反応が遅れた。
だが幸運なことに、『殺人鬼』の繰り出した剣はランドの背後の木にわずかに引っかかり、途中で勢いが殺がれてしまった。
それでも辛うじてのタイミングで、ランドは剣をかわす。
今、木に擦ったことから考えると、『殺人鬼』は暗闇での距離感の取り方が完璧ではないらしい。
おそらく、自分の方がよく見えているはずだ。
ランドは自信を持って、ある行動に出た。
身を低くし、自分の体の下に刀身を隠すような格好で、『殺人鬼』に突進したのだ。
――こいつは、剣がオレの体の陰になっていることがよくわからないはず。反応は必ず遅れる!
ランドの読みは的中した。自分の間合いに入った瞬間、一気に剣を突き出すと、相手の右脇腹に刺さった。
すぐさま、ランドは横に剣を引く。ステラと戦ったときのことがヒントになった。
「ぐっ」
『殺人鬼』のくぐもった声が聞こえた。
そこで怯んでしまう相手ではない。すばやくランドは飛び退き、間合いを戻す。
一瞬遅れて、さっきまでランドがいたところを相手の豪剣が通り過ぎた。
これしかない――ランドはそう思った。
相手の視覚が自分より劣っているのならば、それを利用する。そうするしか、勝ち目がない。
ランドは、剣を死角に隠して間合いを詰める作戦に出た。
今度は左脇の後ろに隠して、再び近づいていく。
「いつまでも姑息な手が通用するかあっ!」
『殺人鬼』は怒号をあげ、ランド目がけて剣を振り下ろしてきた。
しかしやはり、目の確かでない攻撃は正確さに欠ける。
ランドはそれをかわし――危ういところだったが――『殺人鬼』の間合いの中に入ると、剣を真横に薙いだ。
今度も手応えがあった。おそらく胸のあたりだろう。
また同じように跳んで、間合いを戻す。
――いける、充分いけるぞ。
ランドは自信を深めていた。
向こうの言うとおり、姑息なやり方かもしれない。だが、元々劣っている自分が勝つには、こうでもするしかないのだ。
ランドはまた、間合いを詰めた。今度は剣を逆手に持って、右脇に隠している。
『殺人鬼』も、近づくランド目がけて攻撃してきた。向こうの方が早い。しかも――
――やべっ! 避けきれねぇ!
ランドは自分のミスを痛感した。相手の目が自分より利かないといっても、攻撃がすべて失敗するとは限らないではないか。
後悔してもすでに遅い。
ランドは急いで剣を通常の位置を戻し、攻撃を受け止めようとした。が、とても間に合いそうにない。
体を後ろに倒して、左手を地面につきながら何とか受けきる。
……この体勢は、次、を考えた場合、明らかに不利だった。
ランドは背中を蹴り上げられた。
「あかはぁっ」
自分でも情けないと思う声を漏らしながら、ランドは吹っ飛んだ。石ころみたいに地面を転がって、木にぶつかってやっと止まる。
『殺人鬼』はゆっくりとした動きでこちらへ近づいてきた。まるで、もう勝負は決まった、とでも言いたげな動きだ。
ランドは死を覚悟した。
――まあ、戦いの中で死ぬのも、悪くないかもな。道に殉じて死ねるのだから。オレは自分を裏切ってない。それでいい。
ところがランドの前に立った『殺人鬼』は、意外なことを言った。
「つまらないな。お前はこんなもんなのか?」
何を言っているのか、意味がわからなかった。
つまらない――自分が弱いから、満足できないということだろうか。
しかしこっちは一度負けているわけで、そんな自分にそういう期待をすること自体が、そもそもおかしい。
「これがお前の限界なのか? そうなのか? どうなんだ?」
浴びせかけられる質問に何か言い返そうとしたが、ランドは体が痺れて思うように喋れなかった。全身の痛みで、気を抜くと今にも意識が飛びそうだ。
「…………例えば、だ」
何やら考え込んでいた『殺人鬼』は、ここで妙なことを口にした。
「ここで俺が木に縛りつけている子供を殺すか、あるいはいっそ、もっと残酷に腕を片方ずつ斬り落としていくとかしたら、お前はもっと強くなるか? なれるのか?」
――あのガキを、エリシオを殺せばオレはどうなるかだと?
そんなもの、どうもならないに決まっている。むしろ好都合だ。
自分はエリシオが憎いのだから。
ランドは『殺人鬼』にそう言ってやりたかったが、当然、まだうまく喋れない。
結果的に、無視する格好になった。
「何も言わないということは、そうして欲しくないんだな? そういうことだな?」
『殺人鬼』はそう受け取ったらしい。ゆっくりとエリシオの方に歩み寄る。
そのとき、ずっと沈んでいたステラが勢いよく立ち上がり、駆けた。後ろの方でそれに気づいたルフィルがステラの名を叫んでいたが、構わず一直線に『殺人鬼』目がけて走る。
「兄さん、やめるんだ!」
ステラは『殺人鬼』の腕にしがみつき、哀願するように叫んだ。
「邪魔だ! どけ!」
『殺人鬼』は躊躇なく腕を振り払い、ステラを撥ね飛ばした。
「俺の邪魔をするのなら、ステラ、お前でさえ容赦はしないぞ!」
激しい恫喝をステラに浴びせると、『殺人鬼』は剣をエリシオに向けた。
ランドは視線を、剣の柄から先へと無意識的に移し――
エリシオと目が合った。
意思の強い目をしていると思った。こんな状況で、思ったほど錯乱している様子もない。さっきは観念してしまったのかと思ったが、むしろ肝が据わっているんだろう。あの目はそういう目だ。
――さすが、剣で名を馳せたあいつの子供なことはあるな。
こんな状況にもかかわらず、ランドは妙な納得をしてしまった。
次の瞬間、エリシオの左手が飛んだ。
いきなりのことだったので、ランドは体の痛みも忘れて、思わず、あっ、と声をあげてしまった。
エリシオは絶叫した。
布できつく猿ぐつわをされているので、その声は小さくしか聞こえてこない。しかし気が触れたようなエリシオの動きは、確実にランドの目に入った。
首を盛んに激しく動かし、何度も悲痛な叫び声をあげながら、足をばたつかせている。斬られた左手首を右手で押さえているが、指の間から絶えることなく血が滴っている。
左肘を曲げて傷口を自分で見ては、エリシオはいっそう激しく暴れた。手首から目を逸らして、気になってまた見てしまって、暴れて――それを繰り返している。
さっきまでの表情との落差もあって、あまりにも痛々しいかった。
気分が悪くなってきたランドは目を背けようとしたが、どうしても目が離せなかった。
不意に、エリシオがランドの方を向いた。
潤んだ瞳と見つめ合う。
ランドの中で、何かがはじけた。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
「どうだ! まだダメか? 次は足首にするか?」
『殺人鬼』は、抵抗しない相手をいたぶることが楽しいのだろうか。そんな感じの大声でランドを挑発している。
ルフィルの目は、なんとか状況がわかるぐらいまでにはなっていた。
エリシオは狂ったように暴れている。無理もない。左手を斬り飛ばされてしまったのだから。むしろ、こうなるまで心がもったことが奇跡なのかもしれない。
ルフィルは絶望的な気分になっていた。
足が震えて、木に掴まっていても立てなくなった。地面に座り込んでも震えは止まらない。歯の根が合わず、カチカチと音がした。勝手に出てきた涙が頬を伝った。
このままでは、エリシオは確実に死ぬ。ランドも死ぬ。
一番、最悪の結末だった。
垂れてくる鼻水を拭くことさえ意識に登らず、ルフィルは目の前の現実をただ見ることしかできなかった。
そのとき、ランドが剣を地面に突き立てた。それを支えに、ゆっくりとした動きで立ちあがる。
『殺人鬼』も、ランドが立ったことに気づいた。首をランドの方へ動かす。
ランドの手は震えていた。そんな手で何とか剣を握り、構える。
「……ざけんな…………」
かすれた声でランドは呟くと、『殺人鬼』に近づき始めた。
ランドからは、何か異様な雰囲気が漂っていた。荒い息づかいはここまで聞こえ、足取りもおぼつかない。いかにもつらそうだ。
だが何か、弱々しさや危うさとか、そういうものがまったくない。
何かに憑かれたというか、まさにそんな雰囲気を放っている。
『殺人鬼』は動くことなく、じっとランドが近づくのを待っていた。その空気を感じて、手を出しあぐねているのだろうか。
急にランドは歩みを止めた。肩を上下させ、息を必死に整えている。
そして突然、ランドはルフィルにも聞こえるぐらい大きく息を吸って、
「がああああぁぁぁああっ!」
吼えた。
さっきまでの動きがまるで演技だったかのように、一気に『殺人鬼』に迫る。
『殺人鬼』はそれに少しも慌てる様子はなく、さらりと剣で攻撃を受け止める。
ランドは怯まず、そこからさらに猛烈な連打を相手に打ち込んでいった。
『殺人鬼』も負けてはいない。しくじることなく、冷静にすべての攻撃に対応している。
「ぎぃいいぃぃやぁああぁぁああっ!」
またランドが吼えた。
そして、まるで体当たりでもするかのように、『殺人鬼』に向かって飛び込んでいった。
素人のルフィルから見ても、それは捨て身の攻撃に思えた。あれだけ近づくと、もし攻撃をかわされでもしたら最後、致命的な一撃を喰らうことになる。
ランドは腕を絞って剣を引くと、槍のように素早く突き出した。
自分の頭上――『殺人鬼』の顔目がけて。
「小僧ぉぉ! 舐めるなあっ!」
『殺人鬼』は、こないだと同じように手ではたき落とそうとした。
腕がしなり、ランドの剣の影と重なって――
鈍い音がした。
剣影は手の影を通って、先端が『殺人鬼』の顔の影と混ざり合っている。
ランドはさらに踏み込んだ。
「やっ、がっ、ぐぎぃいぃぃああっ」
『殺人鬼』は苦しげにうめいた。剣影が細くなったり太くなったりするたびに、ひときわ苦しそうな声をあげる。ルフィルは、思わず耳を塞いだ。
しばらくして、頭の影から剣の先が飛び出てきた。と見る間もなく、すぐに剣は引かれて手の影からも外れて、ランドの近くに戻った。
『殺人鬼』の顔の前後両面から大量の飛沫が飛び散り、『殺人鬼』はそのまま前のめりに倒れこんだ。
ルフィルは何が起こったのか理解した。ランドの剣は『殺人鬼』の手を貫通し、顔面に刺さったのだ。そ子を強引に力で捻じ込んで、頭まで貫いてしまったらしい。
「兄さん!」
ステラが『殺人鬼』の元に駆け寄る。
ランドはそんな彼らには目もくれず、エリシオが縛られている木に走った。エリシオはすでに気を失ってしまっている。
「おいルフィル! 町へ行って医者を呼んで来い。早く!」
自分が呼ばれているのだと気づくのに、数秒かかった。
「う、うん」
ルフィルは立ち上がると、回れ右をして走り出した。
一刻も早く、医者を呼んでこなければならない。それが、今の自分にできることだ。
月を左手にして走れば、森は抜けられるだろう。
いつのまにか、体の震えは治まっていた。
――初めてランドに名前を呼ばれたことには、気がつかなかった。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
ランドはエリシオを抱えると、その頬を何度か叩いた。
「おい、大丈夫か!」
起きる様子はない。エリシオの左手首からは、今も血が途切れることなく噴き出している。
「……出血の、ショックで気を失った、人間を、寝ている人間と同じにするな。早く、止血しろ」
『殺人鬼』の声だった。ゆっくりとした口調で、苦しげに喋る。
泣きながら彼の体を揺すっていたステラが、驚きのあまり一瞬固まってしまった。
「兄さん! 喋っちゃダメだ、すぐ治療――」
「しなく、て、いい。頭を貫かれて、死なないわけが……」
『殺人鬼』の右目には、ぽっかりと穴が空いていた。さっきランドが目から刺し込んた剣を引き抜く際、眼球が一緒に抜け出てしまったのだ。
「……小僧、お前は、なぜ、勝て、たと思う?」
「なぜって――」
思いつく理由は、一つしかなかった。
「あの子、助けたいと思って、捨て身の……仕掛けたからだ。その気持ちのあるなしが、俺とお前を分けたのだろうな。……ステラ、この男、を、恨むなよ。俺は、こいつ、しか、止めてもら、え、なかった…………それから」
そこで突然、言葉が途切れた。
いくら待っても、次の言葉は継がれなかった。
「兄さん、兄さん!」
揺すっても呼びかけても、もう何の反応も返ってこなかった。
ステラは再び、声をあげて泣き出した。
ランドはつらくなって見ていられず、二人に背を向ける。
――オレは、このガキを助けてしまったのか……
もう、気持ちを押さえつける必要もなかった。
エリシオはエリシオとして、つまりあいつとは切り離して見るべきなんだ。
ましてや、こいつはオレの――たった一人の弟じゃないか。
自分はこいつの、エリシオの兄貴なんだ。だから助けたんだ。何もおかしいことなどないじゃないか。
ふと気になって、エリシオの顔を覗き込んだ。枝葉の隙間からこぼれる月の光のおかげで、はっきりと表情が見えた。
眉や口元が苦しげに歪められている。汗がじんわりと浮かび、口で激しく息をしている。
「頑張れ、もう少しだ……」
ルフィルが置いていった自分の外套を細く裂き、それを使って止血しながら、ランドはずっとエリシオを励まし続けた。
数分後。ルフィルが医者を連れて戻ってきた。
ランドはエリシオを預けると、そのまま意識を失った。
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あれから二回の朝を過ぎ、もうすでに陽が高く昇っていた。
ルフィルは宿で旅支度をしていた。
あのあと大変だった。すぐに町唯一の医者、スヒュールの家でエリシオの手術が行なわれ、ルフィルはミシルと共に一晩そこで明かした。
幸い、手術は成功。と言っても、左手がもう元に戻ることはないのだから、素直に喜べなかった。
ルフィルは何度もミシルに謝ったが、あなたたちは何も悪くありません、と逆に気を使われるばかりだった。
現場では町の人を何人か動員して、気絶したランドと放心状態のステラ、それに『殺人鬼』の遺体を町まで運んだようだ。広場に布をかけられた遺体が置いてあったのを、昨日の朝ルフィルも見ている。
『殺人鬼』の遺体は、森のあの場所に埋められることとなった。
昨日の昼、町の男衆が埋めに行き、顔色のすぐれないステラも同行した。
ルフィルはステラの気持ちに配慮して、それにはついて行かなかった。
ランドはあの夜倒れてから、ずっと今朝まで寝ていたのだが、起きると「すぐ戻る」と言い残して、勝手にどこかへ行ってしまった。もちろん剣は置かれたままだ。
ステラはまた布団の中だ。結果だけ見れば、状況は以前とまったく変わっていない。
ルフィルは、ステラを置いていく覚悟を決めていた。ランドともその方向で朝に話をし、昼には出ることを決めた。
――仕方がないのだろう。
殺したのはランドなのだ。自分の兄を殺した相手と一緒に旅をするなんてありえない。
さすがに、もう立ち直れないかもしれない。
自分が同じ立場だったら、絶対立ち直れない。久しぶりに会った兄――それがたとえ狂ってしまっていたとしても、兄は兄なのだ。殺されればショックに決まっている。
――やっぱり、置いていくしかないよね。
さっき買ったばかりの食糧を詰めながら、ルフィルは決意をさらに固めていた。
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ランドは以前と同じ木にまた寄りかかって、空を見上げながら考えごとをしていた。
――その気持ちのあるなしが、俺とお前を分けたのだろうな。
『殺人鬼』が遺した言葉。勝者と敗者を分けたものは、その気持ちのあるなし――
それならば、自分が彼に勝てたのは、そういう気持ちがあったからなのだろうか。
その気持ちが――エリシオを助けたいと思った気持ちが、一度負けた相手に勝つ要因になったのだろうか。
『強さ』は、そういうことで変わることがあるのか……?
心が揺れていた。
それは、自分が信じてきた『強さ』の範疇に収まらないことだった。
誰かの命を背負うことは、弱味や弱点を持ってしまうこと。だから誰もにも頼らず、一人で戦うことこそが『強さ』への唯一の道であると信じてきた。
――その弱点が、新たな『強さ』を引き出すことがあるというのか。
信じがたい話だが、現に自分はそれを証明してしまった。疑う余地はない。
そのとき、誰かが後ろから近づいて来た。
「あ、やっぱりここにいたんですか。もう起きて大丈夫なんですか? 昨日まで寝てらしたのに」
ミシルだった。すっかり憔悴しきった表情をしている。相手にそれを悟らせまいとする振る舞いが、かえって痛ましく映るほどだ。
ここ数日、心労が絶えなかったのだろう。無理もない。
「ちょっと、お話があるんですけど。付き合ってもらえますか」
そんなことを、ミシルは言い出した。
話の内容は予測がついた。あいつ――親父関連に決まっている。
断る理由はなかった。
ランドはミシルに促されるまま、彼女の家の裏手に案内された。
町外れにあるミシルの家の裏手は、すごく荒れていた。雑草が伸び放題で、手入れなどされている様子はひとつもない。
あとから住み着いた人間には、こういう場所しかあてがわれないのだろう。そういうところは、北も南も同じである。
「その、お話というのは……」
ミシルはひどく言いづらそうにしている。
「あれだろ、あいつの――ジーンのことだろ」
だから助け舟のつもりで、ランドはそう言った。
「ランドさんは、ジーンさんの息子なんでしょう?」
いきなり、面食らってしまった。
「ジーンさんから聞いてました。故郷に、息子と妻を残していると。あなたの微妙な北なまり、そしてなによりその顔――そうでないはずがありません」
「で、でも、最初会ったとき――」
予想外の言葉を聞いた驚きが治まらない。ランドはうろたえた口調になってしまった。
「あのときは、その、ランドさんがあまりにもジーンさんに似ているので……どうもすいませんでした」
「い、いや、もういいんだ。済んだことだしな」
――まあ、別にあいつがこの女に説明してたっておかしくはねぇか。
ランドはそう考え、とりあえず自分を納得させた。
「で、何か話があるんだろ」
「ええ。でもジーンさんのことじゃなくて、実はエルの――エリシオのことなんです」
これまた意外な言葉だった。
「……その、すまなかった。左手――」
「いえ、もうそれは……私はあの子が、生きて帰ってきてくれただけでも嬉しいんで……」
ミシルは泣きそうになって、そこから言葉が継げなかった。
ランドはミシルが落ち着くのをじっと待つ。
沈黙が流れた。
「…………ランドさんは、あの子を弟だと――?」
「そりゃ、父親が同じなんだしな」
ランドがそう言うとミシルは顔を曇らせ、暗い表情でうつむいた。
それを見て、ランドの頭の中にある予感が生まれる。
「まさか……そうじゃないのか?」
ミシルは黙って首肯した。
「え、あ……え」
――正直、ショックだった。意味不明な声が漏れてしまう。
しかし、それでエリシオに対する気持ちが薄れるとか、そういうことは不思議となかった。
「他の男の子供なのか……?」
「いえ、そうでなくて……」
なかなか、次の句が出てこない。
じれったい思いにかられたが、ランドはミシルの言葉を待った。
「あの子は、拾い子なんです」
その言葉には、少し影があった。
自分が実の母親でないことに、エリシオと血の繋がりがないことに、無意識的な劣等感を感じているのだろうか。
「元々、私はドゥマの娼婦でした。あの町は歴史があるから、大きな娼館街があるのはご存知ですよね? そこで娼婦をやってたんです。」
うつむいて下を見たまま、まるで地面を這ってくるような重苦しい口調でミシルは続ける。
「そこでの暮らしは、楽じゃありませんでした。ろくな休みもなく食事も満足になく――それである日、娼館を脱走したんです。すぐに追っ手が来て、掴まりそうになって森の中に逃げ込んで、そこを助けてくれたのがジーンさんだったんです」
自分も苦労しただけに、こういう他人の苦労話はよくわかる。ミシルが受けたつらさを想像しながら、ランドは耳を傾けた。
「翌朝、ジーンさんに手近な町まで送ってもらったんですけど、そのときに赤ん坊のあの子を森の中で見つけて……私、実は娼婦になってすぐのころの流産が原因で、子供ができない体になったんですけど……それで、どうしてもこの子を育てたいと思ったんです。そしたらジーンさんが『子育てには父親が要るだろう』って言ってくれて。ある程度育つまで一緒にいてくれることになったんです」
「で、ある日突然いなくなった、と」
ミシルはこくりと頷いた。
「私、本気でジーンさんを愛してました。だから、最初はつらくてつらくて……でもエルの顔を見たら、落ち込んだ気分は吹き飛びました。私は、この子のために頑張らなきゃって思ったんです」
「その……こういうことを聞くのは品がないかも知れんが、親父とは、その、に、肉体関係とか、あったのか?」
ランドは顔が熱くなるのを感じた。今ミシルが言った「愛していた」という言葉に反応して訊いてしまったが、どうもこういうのはやっぱり苦手だ。
「いえ……そういうことはまったく――だから、その、ジーンさんは浮気とか全然してませんから」
一瞬、ミシルに母が死んでいることを説明しようか迷った。
だが言えば、また要らぬ同情をされるだろう。
ランドは「そうか」と言い返すに留めた。
「ジーンさんは、どうして急に旅立ってしまったんでしょう……何か、心当たりとか、思い当たるところとかないですか?」
「そりゃ、こっちが訊きてぇよ。オレはずっと、あいつを追って旅をしてんだから」
「そ、そうなんですか?」
この様子じゃ、あいつに関する情報で収穫はないだろう。
「今日の昼には出発する。エリシオに左手のこと、謝っといてくれ」
「あ、あの」
ランドは宿に戻ろうとして歩き出したが、ミシルにすぐに呼び止められた。
「もし、旅先でジーンさんに会えたら、私のこと、伝えていただけませんか?」
「……わかった。よろしく伝えとく」
こんなことを言ったが、ランドは父を許したわけではなかった。
勝手にどこかへ行った無責任な父を、簡単に許せるわけなどないのだ。
だから、ミシルには悪いが、この返事はたぶん嘘になるだろう。そんな上機嫌な再会になるはずがないのだから。
本当のことを言わなかったのは、ミシルに嫌な思いをさせるのが躊躇われたからだった。
――別にこの女を思いやる必要もないのにな……もう会うこともないだろうに。何やってんだオレは。
他人のことを気にする自分にどこか違和感を覚えながら、ランドは宿に足を向けた。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
ステラのベッドの横に、ルフィルは立っていた。
とりあえず起こして、言うべきことを言わなければならない。
「あ――」
あの、と言いかけたそのとき、
「わっ!」
ステラが布団の中から勢いよく顔を出して、大声を出した。
「きゃっ!」
びっくりして、ルフィルは後ろのベッドに尻もちをついてしまう。
「ハハハハハ! 驚きすぎだよ、お嬢ちゃん」
ステラはこちらを指差して爆笑している。顔色はまだ幾分悪いが、その笑顔には無理をしている感じはない。
「き、気づいてたんですか?」
「まあね」
まだ心臓が激しく脈打っている。まったく、こういうことをされるとは思いも寄らなかった。
「もう、いいんですか?」
失礼かとも思ったが、時間も惜しいのでルフィルは遠慮せずに訊いた。
「ああ。本当に、迷惑ばっかりかけたね。ごめんよ」
「いえ、だってあんなことがあったら、たぶんわたしだって……」
ルフィルは両手を胸の前で振って否定した。どうもステラに謝られると、こっちが何か悪い気がしてきてしまう。
「荷物の用意してたんだ」
ステラが、ベッドの脇に置かれた荷物を見て言った。
「ええ」
ここで言うべきことを思い出した。
今日の昼、この町を発つ。だから、ここでステラとはお別れだと――
ステラが元気になったといっても、ランドとステラが一緒に行くことはありえないのだ。
「ステラさん、その……」
「ん? 何だい?」
「わたしたち、今日出発しようと思うんです」
「へえ。そうなのかい。じゃあ私もさっさと準備しなくちゃね」
と言って、ステラは自分の荷物をベッドの上に引っ張り上げた。
――私も、って…………えええ!
「ス、ステラさんも一緒に来るんですか!?」
驚きで声が裏返ってしまった。
「おいおい……勝手に置いていかないでおくれよ」
ステラは半分呆れたような声でそう言う。
「でも、ランドはお兄さんを――」
「ああ、そのことか。それなら私の中でケリは着いたんだ。色々、割り切りっていいのか踏ん切れないところがあって、ずっと布団かぶってたんだけど――もう心配しなくていいよ」
ルフィルは事情が飲み込みきれなかった。
ステラがランドと一緒に旅をしてもいいと言っていることはわかる。しかし――
「確かに、普通なら憎むんだろうね。あいつ――ランドのことを。でも兄さんは、あいつを恨むな、と言ったんだ。死ぬ間際に。だったら、私があいつを恨んだりするわけにもいかないだろ? だいたい私が殺してくれって言ったんだし、恨む資格がないよ」
荷を詰めながら、ステラは続ける。
「それに、私自身が見たいんだ。ランドが、兄さんを倒したあの男が、これからどうなっていくのかをね」
ステラは顔に、微笑みを浮かべていた。
「これからも三人旅だね。至らない女かもしれないけど、改めてよろしく。お嬢ちゃん」
ステラは手を真っすぐ差し出した。
「え、あ、はい!」
その手を、ルフィルはがっちりと握り返した。
ベルタスに挨拶を済ませた三人は、町の東の入口に向かっていた。
長い間滞在して迷惑をかけたことを謝ると、ベルタスはそれらを咎めず、「また来て下さいね」と言ってくれた。
「……これでまだ帝都まで五分の一ぐらいの距離なのよ。この調子だと、いったいいつ着くのかしらね」
ルフィルはうんざりした口調で不満をこぼす。女の子の足が筋肉質になってしまっては、可愛げも何もあったもんじゃない。
「まったくだ。いったいいつまで、世間知らずなお姫様のやかましいお喋りを聞かなきゃならねぇんだ?」
「なんですってぇ!」
ルフィルが憤慨して叫ぶと、それを見ていたステラが大声をあげて笑った。
「待ってぇー!」
そのとき、後ろから三人を呼び止める、幼い声がした。
エリシオだった。
「どうしたの? エリシオくん」
ルフィルたちは驚いて振り返る。エリシオの左手には白い包帯が巻かれていて、それを見ると少し心が痛んだ。
「こ、これ」
エリシオの手には、初めて会ったときに探したペンダントがあった。
「お兄ちゃんたちにあげる」
「え、でも、これ大切なものなんでしょ?」
確か、幼いときにいなくなったお父さんから貰ったとか、そんなようなことを言っていたはずだ。
「うん。でも、ボクが一番大事だと思ってるものじゃないとダメだから。お兄ちゃん、助けてくれてありがとう」
エリシオはランドに向かって礼を言った。気恥ずかしいのか、ランドは頬を赤らめている。
「お母さん言ってたよ。お兄ちゃんのおかげで、ボクは助かったって。最初はお兄ちゃんのこと、怖い人だと思ってたけど……」
「いや、いい。気にするな」
ランドは肘でルフィルを盛んに小突いている。恥ずかしいからさっさとペンダントを貰え、ということらしい。
ルフィルは屈んで、ペンダントを受け取った。
「あら?」
よく見ると、ガラス玉の表面に何か書いてあった。
「何か書いてあるわ。なになに、ランドとアシーナ……って書いてある」
「お父さんの一番大切な人たちの名前なんだって。お母さんが言ってた。元々、これはお母さんがもらったものなんだ。お母さんは大切なものだと思ったから、お父さんに返そうとしたんだけど、お父さんはもう心に刻みつけてあるからそれはいらないって。――それで去年の誕生日に、お母さんがボクにこれをくれたんだ」
エリシオは懸命なようすで説明した。
「このランドって、あなたと関係あったりするの?」
軽い冗談のつもりで、ルフィルはランドに問いかけた。
「んなわけねぇだろ。バカが」
ランドは少しも顔色を変えず、かえって貶された。
「じゃあね、坊や」
ステラがエリシオの頭を軽く撫でた。
「……エリシオ、元気でな」
「もう一人で夜の森に行っちゃダメだからね」
三人は町の門をくぐり、街道に出た。
エリシオは、見えなくなるまでこちらに手を振り続けた。
再び、街道の旅が始まった。
森の緑が徐々に薄れて、葉が茶けてき始めている。風に湿り気を感じる。
秋が、段々とその気配を増してきているようだ。
「そういや、報酬の話はどうなったんだ?」
ランドの一言で、ルフィルは現実に引き戻された。
「……すっかり忘れてたわね。今日の宿に着いてから相談しましょ」
「おいおい。しっかりしてくれよ」
そんなルフィルの様子に、呆れたようにランドは呟いた。
――いっそのこと、そっちも忘れてくれればよかったのに。
そんな都合のいいことを考えてもしょうがない。ルフィルは頭の中で金勘定を始めた。
「ランド」
ステラが不意に、ランドに声をかけた。
「何だ」
歩みを止めることはなく、ランドは話の先を促す。
「その…………ありがとう」
「ん?」
「いや、兄さんを止めてくれて……」
「ああ……その、あれでよかったのか?」
確かめるように、ランドは訊いた。
以前なら、自分のしたことに疑いなど抱いていなかったランドが、ステラに確認を求めるようなことを言ったことに、ルフィルは内心驚いた。
「――ああ」
ステラはランドに同意して、そこで会話が途切れた。
ランドは勝手にすたすた歩かなくなった。一番前を歩いてはいるが、ちらちらとこっちを振り返ってはペースを調整している。
さっきといいこれといい、どういう心境の変化だろうか。
ルフィルには見当がつかなかったが、結果として他人を思いやれるようになれたのならそれでいいか、と思った。
「ところで嬢ちゃん」
ステラに突然、呼びかけられた。
「何です?」
「思ったんだけどね、さっき、なんで私を置いていくってことしか言わなかったんだい? ランドを置いていく発想だって、あり得るだろ?」
「へ?」
予期してなかった質問に、ルフィルは変な声を出してしまった。
「いや、だって、ステラさんは塞ぎこんでいたから……」
「私が布団から起きたあとでも、私を置いてくようなこと言わなかったかい?」
ステラはニヤニヤ笑いを浮かべている。
ルフィルは気づいてしまった。ステラが元に戻ったとわかった時点で、ランドと別れてステラと行くことも選べたのだが、それがまったく頭に登っていなかったことに。
みるみるうちに顔が熱くなって、全身、嫌な汗が噴き出してくる。
「喜べランド。お嬢ちゃん、あんたが好きなんだと」
「そんなことないですって!」
「うるせえ。静かにしろっ!」
否定するでもなく、むしろ拒絶するように言い放ったランドは、耳を赤く染めている。前に回って顔を見たら、おそらく火にあぶられたように真っ赤だろう。
ステラはそんな二人の様子に腹を抱えて笑っていたが、ルフィルはもちろん笑う気になどなれなかった。
――ランドったら、そこまでわたしのこと嫌いなのかな? 別に好きになれなんて言わないけどさ。
また、無言の時間が続いた。
「ああ――」
今度はランドが口を開いた。
「その、なんだ。……二日前はありがとうな」
誰に言ったのかわからなかった。
「それ、わたしに言ったの?」
とりあえず、ルフィルはそう訊いてみる。
「…………お前の言った言葉のおかげで、オレは今ここにいるんだ」
ランドはルフィルの質問に答えず勝手にそんなことを言い、それっきり黙った。
――何よ、もう。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよね。
ルフィルは苛立ちながら、二日前に自分が何を言ったのかを思い出そうとしていた。
街道の上を、穏やかな風が吹いていた。
(終)