「五十嵐先生。本当に、今まで有難うございました。」
 そう言って、彼は、深々とお辞儀をした。
 西の空は、沈む夕日で、真っ赤に染まっている。
 仕事を片付け、駐車場にやって来た五十嵐は、一人の男子学生に
会った。
「先生が来るのを、ずっと待ってたんです。」

「大学を卒業する前に、きちんとお礼をしたかったから。あの会社に入
れたのは、先生のおかげです。」
 とれかけの赤いパーマをかきあげ、彼女は変な顔をした。
「私は、別に何もしてないよ。」
「いえ。先生が認めてくれなかったら、絶対、無理でした。」


 秋も終わりの頃。就職担当の彼女の元に、彼が相談に来た。学
校推薦で決まった会社を辞退し、自分で探し内定をもらった会社に就
職したい。しかし、彼の研究室の教授は反対している。学校推薦を断
るのは、後輩含め、皆に迷惑をかける、とんでもない話だ、と。
 話を聞き終わって、彼女は訊ねた。
「でも、その会社に入りたいのでしょう。」
 彼は、うなずいた。
「じゃあ、そうしなよ。会社が学生を選ぶように、学生も会社を選ん
でいい。自分の人生は、自分で決める事なのだから。」


「本当に、先生のお蔭です。」
 彼は、申し訳ない表情で、再び、お辞儀をした。五十嵐は慌てて
手を振る。
「ああ、もう!希望の会社だからって、入社してからが勝負でしょ
う。これから、頑張るんだよ。」
「勿論です。」
 彼は力強く答えた。

「先生は、未だ、助手を続けるのですか?」
「うん。」
「先生は、成果を十分だしてるし。もう、助教授になっていいと思う
な。」
 彼女が研究室の助手になり数年が経った。同年代の男の同僚は、次々
に助教授になっている。彼は、彼女が未だ助手であるのは、大学の古い
体質のせいだと思っている。
 彼は顔をしかめる。
「今の日本の大学にいるなんて、先生には勿体無いですよ。」

「何故、先生をしているのですか?」
「うーん。ストレートに聞くね。」
 彼女は、おどけてみせた。
「研究も好きだけど。教える事が好きなのかもね。山中君のような、
若い学生さんとお付き合いするのも楽しいよ。」
「先生は若いですよ。」
 彼女は、笑って、続ける。
「まあ、現実問題。子持ちにとって、大学は、企業よりも融通がきく
し、仕事を続けやすいからね。」

 風が吹いた。
 駐車場の隅で咲く桜の花びらが、風に飛ばされ、ひらひらと
二人の上に舞い落ちる。今年の桜は、早く咲いた。
「..良かった。最後に、満開に咲く桜が見れました。」
 桜を眺めつつ、彼はつぶやいた。
「五十嵐先生みたいな先生が、もっと大学に増えればいいのにな..。」

 五十嵐は、時間が気になりだした。約束に遅れてしまう。ポケット
に手を入れ、車のキーを探すと、彼も気付いた。
「今日は、バイクじゃないんですか?」
「うん。これから、子供を迎えに行くんだ。」
「健一君、元気ですか?」
「ああ。学祭の時は有難う。すごく喜んでたよ。」
「健一君、可愛いですね。先生に良く似てますよ。」
「そうかな。ありがとう。」

 彼は、思い出したように、笑った。
「最後に、先生の赤いバイク見たかったな。バイク、イイですね。
俺も乗ろうかな。」
「バイクは楽しいよ。鼓動が体に伝わってくるトコとか、風にのる感
覚とか。」
「前、高速で、先生がとばしてるの見ましたよ。真っ赤でよく目立つし
。」
 五十嵐は、大声をあげて笑った。
「ははは。変なとこ、見られちゃったな。いちおう、これでも安全運
転だよ。」
「先生みたいな人が、案外、タイプだったんだけどな。」
「はははは。」
 五十嵐は、さらに大きな笑い声をあげた。

 彼は、荷物を肩に懸けた。
「先生。お時間もらって、すいませんでした。」
「成功したら、連絡頂戴。教え子だって、自慢するから。」
「是非、そうなりたいですね。」
 彼は愉快そうに笑った。そして、言った。
「今まで、本当に有難うございました。では、お元気で。」


 一度も振り返らなかった、彼の後ろ姿を見送って、彼女は車に乗
った。エンジンをかけ、アクセルを踏む。お気に入りのロックが
流れる。小気味良いビートがはしる。
 夕暮れ時の切なさには、激しいロックがよく似合う。

 五十嵐は気付いていた。彼が自分に好意を抱いてくれていた事を。
けれど、自分は結婚しているし、子供もいる。十近くも年の離れた、
三十路の女でもある。
 いや、本当に好きならば、大した障害ではないだろう。ただ、彼に
は、広い社会を知って欲しい。大学という、非常に狭い限られた空間で、
なく、広い世界で、色々な人と巡り会い、恋をして欲しい。
 そんな事を思った。

 車は、真っ直ぐに、子供が待つ幼稚園へ向う。
「何故、先生をしているのですか?」
 彼の言葉をふと思い出した。
(何故かって?そりゃ、こういう素敵な思いができるからかもしれん
よ。)



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