薄暗い部屋のなか、耐え難いなにかを押し殺したような声が響き、それにともないもだえ苦しむ有り様が手にとるかにきこえる。
「我慢しろ」
おそらく二十代前半とおぼしき男が、額に汗を流しながら言いきかせるためなのか、寝台の上でのたうちまわる男に向かってそうはき捨てた。
見た感じでは、医者と患者というごく自然な関係と見てとれるものの、時折悲痛にわめく男を治療しているには、ただ腹の上から手のひらでいじり回しているようにしか判断できない。
それを不安にしているのかどうか、患者の妻と子供、ほかにも知り合いらしき体格のよい男たちが数人、どれも判で押したように渋面のまま崩そうとしない。
だがそれが四半刻も続いたころに、ようやく患者は声を上げるのをやめて、家族や友人たちに楽になったとつぶやく。
医者はそれでもまだ少しばかり続けていたが、ようやく納得のいく結果がでたのか、手を離して汗をふきため息をついた。
「とりあえず治しはしたが、まだしばらくは痛みが残ったままだろう。眠らせるからよく休みなさい」
「すまねえ先生、手間かけさせちまって」
きいていても、医者は感謝の言葉にいちいちあいづちをうちながら、患者の眉間や首筋、額などに指をかるく押しつけ、それを続けているうちに感謝の言葉はつぶやきに、そしてかすかな寝息にとってかわっていった。
「これで一安心だろう。腹のなかで腸がねじれていた、しばらくは食事はスープ状のものでとらせなさい」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
治療に集中していたせいか、やけに渇いていたので水を一杯もらい喉を潤し、しかし治療代だと差しだされたわずかばかりの小麦は、やんわりと受け取りを断った。
「とっておきなさい。先の飢饉で苦しいでしょうから、私の心配などしなくてよろしい」
「ですが 」
「必要になったら分けてもらいにきましょう。それまで預かっていて下さい、いいですね?」
頭を何度も下げ、言葉もだせぬほどむせび泣く夫人をなぐさめ、子供たちに父親を看病するようにと言いきかせてから医者はその家を後にするも、その際に
患者の友人たちを離れた場所によびよせる。
「私はいきなりよばれたから事情はよく知らないが、あれは一体どういうことだ? 何カ所もの外傷とアザ。腸がねじれたのも、数人に袋だたきに、特に腹をやられたからその拍子になったような感じだ」
そういわれても、男たちは話すのをためらいがちに顔を見合わせるだけで、医者の顔色を伺ってどうすべきか決心がつきかねている様子に、話してみなさいと促した。
「それがラオシー(先生)、俺たちはただ仕事をしていただけなんですよ」
「そこに官吏のやつらがやってきて、家を建てるのに使うレンガの税を、まだ払ってないだろうって言いがかりをつけてきたんです」
「それで?」
「もちろん払ったっていいましたけど、あいつら最初から巻き上げるつもりだったんですよ」
「悔しいけど、俺たちはどうにかなるから……。でもあいつん所はまた子供が増えたばかりだし、それでつっかかってっちまって」
「袋だたきか。止めなかったのか?」
「止めたかったけど……俺たちは四人で、あいつらは十人くらいいたんで……」
そのときの情景がうかぶようで、医者は沈痛な面持ちで深くため息をつく。
彼らの立場からしてみれば、たとえ仲間が一人だけ痛めつけられていようと、自分の家族をおもい葛藤したに違いない。責めることなど、当然できはしなかった。
「治療代は俺たちも少しばかりだせます」
「私のことはいい。それよりも、彼は何日か仕事にでられないだろうから、分担してあいた穴を埋めてあげなさい」
「そりゃもう必ず」
「なにもかにも税、税、税。南方の飢饉の余波で食料が不足しがちだというのに、重税を敷くとは、領主はよほど御身が心配と見える」
「そんなこと官吏にきかれるとまた 」
「ラオシー! ラオシー!」
見れば息継ぎもままならず走ってくる男。格好からしてどうやら彼らの仲間のようだが、その表情は友人が心配だからというよりも、おなじことがもう一度起こったとでもいわんばかりの形相だ。
「どうしたんだ、やつならラオシーにちゃんと治してもらったぜ。それともまた誰かやられたのか?」
「違う、そうじゃねえんだ。ラオシー、に、逃げて下さい。さっきの官吏が、ラオシーが怪我人を治したのをきいて、腹いせにやっちまおうってこっちに向かってきてます」
「なんだって? ラオシー、はやく逃げて下さい。ここは俺たちがなんとかごまかしておきますんで」
「無理をするな」
「いや、今度こそ俺たちが 」
「これ以上怪我人をふやして、私の手をわずらわせるつもりか?」
「それは、その……」
「それにもう遅い。ほれ」
そういってあごをしゃくった先には、すでにこちらに向かってきている官吏たちの姿が見える。
言葉にした手前、いったんは医者をかばおうとした男たちだったものの、人数と小刀や槍といった装備にしりごみ、結局は彼の後ろまで下がってしまう。
そんな男たちには用もないのか、官吏はすぐにも彼だけをとり囲むが、逃げ場をうしなった医者はさしてとり乱した様子はなかった。
「貴様か、トンレン(東人)の ラオシー(医者)というのは。評判になっとるぞ、たいしたおせっかい野郎だってな」
「ラオシーとかよばせて偉ぶっとるそうじゃないか」
「それで、薬の税は払ってるんだろうな?」 その後もねちねちと言い掛かりのような言葉が続いたが、たしかに医者の格好はこの土地では特異で、この手の輩には難癖をつけられやすい風貌であることに間違いない。
街の人々が、このカサンとよばれる地方の典型的な服を着、頭に布を巻いているのとは対照的に、女性もかくやとばかりの裾の長いゆったりした服で、おなじく長い黒髪は三つ編みでたれ下がり、布切れみたいなぺらぺらの帽子を被っているのだ。これで医者だというのは、半年前まで誰も信用しなかったのをおもえば当然のことである。
「姓はウォン(翁)、名は レイホウ(蕾候)、あざな(字)はシャオヘイ(小黒)。トンレンとは故郷を、ラオシーとは医者をなんとよぶか聞かれたから答えたまで。加えて薬の税は麦一粒すら払っていない」
「聞いたか、ここにも罪人がいたぜ」
「正確には私は医者ではない、打活師だ。薬は必要としない、よって税を払う必要はない、罪人でもないわけだ」
「罪人をかくまい治療したろう」
「治療はしていない、見舞いにいっただけだ。その証拠に報酬はなに一つもらっていない」
裾から手をだしなにも持っていないことを示されて、官吏たちはなにも言い返せなくなり、いよいよ頭にきたのか一斉に槍を構えた。
「この野郎、調子づきやがって。お上に楯突こうってのか?」
「誰がこの街を守ってるとおもってんだ?」
「はて、民あっての政。その土台をなす、守るべき民に剣先を向けるとははなはだ本末転倒。欲に目が濁り、さては外敵と区別がつかぬか、はたまたこの都では強者に向ける武具は作れぬと見えるが、さてどうか?」
離れでは当然、ウォンの口利きをなんとかやめさせようと身振り手振りで伝えていたが、それをまったく無視した言葉は、官吏たちの褐色の肌をみるみる赤黒いものにかえていく。
「貴様!」
一人が躍りかかったのを機に全員が一斉に襲いかかってくるのを、ウォンは突きだされた槍に手をくわえ方向をそらし、仲間同士での相討ちにぬり替えてしまう。
図らずも刃がこちらに向かったのを見ては、さすがの官吏たちも驚きから混乱し、次の行動を躊躇せざるをえない。
ウォンは回りを槍に囲まれる形になっていたが、すぐさまくぐりぬけ、最上段の槍を押して十本すべてを地面に突き刺し、体勢を崩した一人を転ばすと、今度は十人全員が申し合わせたかのごとく横倒しに転がった。
見ていた者も、倒された本人たちもなぜそうなったのか皆目わからない。さきほどの怒気もどこへやら、状況を把握するのがまず先決になっていた。
「こなくそ!」
しかし立ち上がったときには槍はねじれたせいですべて折れており、はやくも剣を抜いた者もいたが、のらりくらりと避けられては仲間同士で剣を向けあっている。
「素手だ、素手で抑えつけろ」
一斉にのしかかり、押し倒し、殴る蹴るをくりかえす兵隊たちに、いつの間にか集まっていたやじ馬は一方的な展開に眉をひそめる。
ところがすぐにも抜けだしてきたウォンを見て、誰もが言葉をうしなった。殴っているはずの男たちですら、まるで気づいていないのだから信じられないのも無理はない。
ウォンは後ろから近づき一番上の者を押し潰すと、その腕の間に折れた槍の棒を通す。 突然の出来事に無様なうめき声を上げる官吏たちが、返り討ちにあったということと、自分たちがまったく動けなくなっている事実に気づいたのは、それからしばらくしてからのことだった。
「おいどけ!」
「誰の足だ、俺を蹴ってるのは!」
「腕が邪魔なんだよ!」
「てめえら、見てねえで助けろ!」
「貴様、こんなことをしてただですむとおもうなよ」
殺してやると含んだその視線を、しかしウォンはかるく受け流すにとどまる。
「これで私は失礼するが、もしまだ用があるのなら、軍務大臣の屋敷にでもきなさい。これから診療にむかうところだったのでね」
軍務大臣という言葉は、これ以上の罵詈雑言を黙らせるのに十分だった。
そして一層集まっていたやじ馬に馬鹿にされる官吏たちを残して、ウォンは高い階級の屋敷が多い北の地区に足を向ける。
時折すれ違う貧しい人々に言葉をかけるその彼の後方、少しばかり離れた所をいつの間にかつけて歩くわかい剣士がいる。
装備は一振りの剣だけではあるが、さきほどウォンが相手にした兵士のそれと比べても、明らかに造りのちがう大振りのものだ。
髪は黒く、肌は白い。この地方の者でないのは一目瞭然である。
それにもまして中肉中背の均整のとれた筋肉は、見た目だけでは分かりずらいがよく訓練されたものであり、ウォンを見据える眼光も殺気すぎず、かといって不自然なほどゆるんでもいない。
見る者が見れば、この青年が十分すぎる力量をもっているのを推し量れるだろう。
それにしても医者はまったく気づいていないのか、大臣の屋敷の近くまできて、人気が少なくなっているにも拘わらずふり返る兆候はまるでない。
そしてついと曲がったのを好機と判断したのかどうか、青年は小走りに駆けより、角を曲がったところで初めて、尾行していたはずのウォンを追い越したのに気づき息をのんだ。
「人をお探しなら、手伝いましょうかどうか?」
曲がる瞬間、視界に入っていたろうに、それと気づかせないまでの操気術は見事の一言につきる。
「い、いえ、後をつけた非礼はお詫びします。ただ、どうしても貴方と立ち合いたかったのです」
「さきほど、私の技をご覧になったせいですか。おやめなさい。いくら大道芸のように見えても、人に死を与えるのは造作もありません。争う理由もありません。お帰りなさい」
そう言葉を残して、ウォンは平然と背中を見せ立ち去ろうとするが、おさまりのつかない青年は強硬手段として音がきこえるよう抜刀した。
「斬りますよ」
返事はない。
しばらくためらったが、青年は意を決して横なぎにふり払い、だが何がおこったのかそのままふり抜くことができない。
柄を握る手は、いつの間にそこにいたのかウォンの手によって押さえられており、わずかの間にあっさりと形勢が逆転していた。
「相談があるのなら、聞きましょう」
額からどっと汗が吹きだす。彼との距離が離れていくのが見えても、戦慄の余韻のせいで筋肉がぎこちない感じがした。
「無礼と分かっていながら、お許し下さい」「それで、足下はなんとしたいのですかな?」
剣を収め、汗を拭き、改めて膝をつく。
「私はジョアン・オーレンと申します。単刀直入に、復讐がしたいのです」
「これはまた物騒な。して誰に?」
「メッサド・ラカンシェ」
「ほうほう、ご領主の親衛隊長と。人目をはばかるのも無理はないが、はてさて、私では練習台にはならぬのではないかどうか?」
「練習台ではございません。私では奴に太刀打ちできないとおもっている矢先に、貴方様の、その……」
「柔術」
「柔術を見て、私に足りないものはこれだと感じました。是非、その技を教えていただきたいのです」
「ふむ」
あごに手を当てて考えこむように、ウォンはしばらくそのまま自分を見上げる青年の目を見つめる。だが実直そうでありながら、ジョアンが耐えきれずになぜか目を伏せるのを、ウォンは見逃さなかった。
「よろしい。どれだけ相手をしてやれるか分からないが、それでよければ教えましょう」
「本当ですか? ありがとうございます」
「ただ私はこれから診療に行かねばならない。街の東、小川を渡った所に私の家があるから、一足先にそこに帰っていなさい。道々の人にきけば分かるだろう」
「はっ、いえ、しかし……」
ついていこうとなんとか食い下がろうとするものの、微動だにしないウォンにジョアンはたじろぎ、屈するように礼をしてからその場を立ち去った。
彼の背中が見えなくなるまで見送ってから、ウォンはふたたび歩きはじめ、ふと道端に出店を見つけぶらりと椅子にすわろうとする。
椅子には先客がおり、近づいてきた彼のために荷物をどかしてやるが、小さな紙切れを一つ残し、ウォンの方も服の裾を直すしぐさのついでにそれを拾い上げ、懐にしまい、かわりに財布を取りだした。
「おやじさん、冷たいものを頼めるか。今日は特に暑いせいか喉が渇いてね、三シーカぐらいかね?」
「おう、こりゃラオシーじゃねえですかい。いやいや金なんざいりません、あっしがおごりやすよ」
店の主人はそういって笑みを見せた。
「いやいや、そこまでは受けとれんよ」
「うちの母ちゃんの足の治療代も払ってねえんですぜ? それにそんくらいしなきゃ、ほかのやつらにも恨まれちまいまさ」
「そうかい、それなら今度だけはいただいておくよ」
主人の持ってきたとびきり冷たい茶を一口すすって、やっと一息ついた心地か、ふうっと息を吐きだした。
「例の件はいうとおりにしやした。取引の期日はその紙に。やつら誰に売ろうとしてるのか知ったら、胆を潰すでしょうな」
喋っているのは先客だ。しかし彼の回りにはウォン以外の姿はなく、またウォンもその言葉をきいて振り向くこともなく、他人にはばかられる会話らしく密やかなものである。
「ご苦労。それにしても変装にますます磨きがかかったな、危うく見逃すところだった」
「それだけがとり柄でさあね」
「褒めついでといってはなんだが、ジョアン・オーレンという男を調べてほしい。髪は黒いが、おそらく西の白肌の民だろうとおもう」
「こっちに感づいたんですかね」
「さあてどうか。頼んだぞ」
「分かりました。じゃ、あっしはこれで」
代金を椅子の上において、何事もなかったように去ってゆく男を見送るでもなく、ただのんびりと時間をすごしてから、ウォンは主人に礼をいって目と鼻の先の目的地に向かう。
その合間に渡された紙を一見し、すぐさま丸めてすばやく飲み下した。
軍務大臣のカリートル・パシャといえば、その勇猛さでは近隣の都市でも知らぬ者はないほどの名だ。
それを示すかのように、この弱都市であるアバンタールが、周辺の都市に差しだしている年貢金は遠方都市のそれより少ない。兵の数がすくないとはいえ、カリートル・パシャ相手では被害もこうむるだろうと妥協した結果である。
勇猛な武人としての殺伐さを反映してか、大臣という地位にしては、邸宅は少しばかり広い庭園のある小綺麗なだけの小さなものだ。
案内の者に従って、ウォンは建物の奥へと入り、何人かの侍女が待つ部屋に通される。 すると入れちがいに、高級武官らしき人物がでてくるのを見て、ウォンは通路の脇により頭を下げる。男はウォンのことをきき知っていたのかたいして気にもとめず、横目で一瞥しただけで早々と通りすぎた。
「いまの方は?」
「メッサド・ラカンシェ様です。最近はよくお顔をお見せになさいます」
「ほほう、あれがラカンシェ様ですか」
よく存じております、とはおくびにもださない。
静かに部屋に入ると、彼がきたのを知らされて、ベッドに上半身をおこした、褐色の肌に美しい黒髪の、まだ幼さの余韻残る女性を認めてうやうやしく頭を下げた。
「メイレン(美人)、お体の具合はよろしいでしょうかどうか?」
「いつもより楽です、ラオシー」
力無く笑った女性は、カリートル・パシャの一人娘のレムシャエルである。ふとしたことから、肺病をわずらっている彼女の主治医になったウォンは、週に一度はこうして診療に訪れていた。
そのレムシャエルの笑顔に笑顔でこたえ、帽子を脱ぎ、ベッドのそばの布団つきの椅子にすわる。
「背中を」
指示に従ってレムシャエルは背中を向け、しかしその服の背中をあらわにするのは侍女の役目であり、その広さも必要最小限でしかない。
しかしこの地方では女性は夫以外に肌をさらしてはならない戒律があるので、この程度でも見せられることは、それだけウォンに医者以上の人間としての信頼があるということになる。とはいえその信頼は、レムシャエルだけのものであることは、侍女たちには周知の事実であった。
滑らかな肌に指をあてがい、所々をたたいて肺を調べる。
「服を」
またも侍女が直すのをまってから、今度は目をひらき、口のなかを見、喉に手を当て深呼吸をさせる。
「足を」
侍女が足元のシーツをめくり、覗いた彼女の足を、断って手にとり足裏を指圧する。それで痛そうに表情を歪めるのを見てとり、丁寧にベッドに戻してシーツも戻させた。
「食事の方は?」
「はい、ラオシーに仰せつかった通り、メノとキリコを多めに入れておりますが、何度か息苦しくおなりになりましたので、一昨日よりクカイヤを少々含めております。ですが食欲がおありではないので、あまりおとりになられてはおりません」
「無理にでもとった方がよろしいでしょうか?」
とはレムシャエル。
「いえ、どうやら腸の具合がよろしくないので、このままお減らしになり、二、三日断食をなさったがよろしいでしょう。断食の方法はいつも通り。糖分と塩分と水分の不足に気をつけるように」
「かしこまりました」
診療はいつもこのような調子である。ほかの医者に比べて、体を調べればたちどころに症状と治療法を確定するウォンは、その正確さに反比例して診察の時間が極端に短い。
そのためもう少し話がしたいと、引きとめようとしたレムシャエルの言葉は、だが間が悪くも外から入ってきた侍女に遮られた。
「ラオシー、診察が終わり次第、お話がしたいと旦那様より言伝です」
「ちょうど終わった所なのでいまから参りましょう。ではメイレン、お大事になさいませ」
励ますように笑顔を作るウォンを、見送るレムシャエルの表情は、寂しさを含んでいるせいかどこかぎこちない。
侍女たちも、彼女の想いの深さがどれほどか知っていたので気の毒には感じたが、相手がカリートルでは慰めようがなかった。
カリートルは、建物をでたところに立っていた。
ウォンとは比べようもない巨躯に、二回りは違う手足とよく鍛えられた筋骨、肌の色と競い合わんばかりの豪快な顎髭、勇猛とよばれて恥じない不遜な顔つきは、生まれついての武人をおもわせる。
「ラオシーをおつれしました」
「お待たせしたようで」
カリートルは侍女を下がらせ、話を他人にきかせないためか、ウォンを連れて庭園の方へ足を向ける。
「それで、いつになったら娘の病は完治するのだ?」
「大臣、お言葉をかえすようですが何度も申し上げたはずです」
「森に住みついて暮らせというのだろう? だがどこにそんなものがある。この地はさいわい水が豊富だが、見渡す限りの荒野と砂漠に囲まれている」
「東へ山脈を二つ越えたところに私の故郷があります。そこは最適です。困難とおっしゃるなら一つ越えたところにも、西北にも国を一つ越えたところにもあります。大臣ほどの富をもってすれば、さして困難とはおもえませぬが?」
「できぬことはない。しかしあれに悪い虫がつきでもしたらどうする」
「なれば縁談をお持ちになられてからでも遅くはありますまい。レムシャエル様は生まれつきの虚弱、大事をとって二年も養生させますれば 」
「それができぬから困っている! いいか、貴様には関係のないことだ、この件には口だしをするな!」
頭を下げはしたものの、ウォンは内心ではかなりの驚きを感じていた。そんな話があったとも噂にすらきいていないのだから。
「ではお話は以上でしょうかどうか?」
「まだある。診療は今日限りにしてもらおう」
「私に手落ちが?」
「理由はいえん。とにかく今日限りだ」
こちらは、さして驚かない。異国の医者に娘を診させているのを、体面上のことで前々から気にしていたのは分かっていたからだ。 ウォンはカリートルに、処方は侍女たちがほとんど知っていると言い、必要ならよんでくれなどと、彼の感情をさかなでするようなことは言葉にせずその場を立ち去った。
ようやっと肩の荷がおりたようにため息を一つ、さしてこれからの用も特にあるでなし、とりあえずジョアンのことも気になったので家路につく。
ところが四半刻も歩かぬうちに、道端の露店の主人が妙な形の拳を作っているのを見かけ、ついっと立ちよると並べてある商品を品定めた。
「このショカの実をもらおうか」
「へい五シーカになりやす」
「なにがあった?」
「取引の事でもめておりやす、詳しくはカハトゥの旦那に。いやあ、うちじゃ調理はしてねえんですよ。なんならもう五シーカ足せばこっちのを二つつけましょう、またコトの店で頼んだらどうですか」
「じゃあそれももらおう」
泥つきの芋を受けとりそれを小脇に抱え、ウォンは道々を甘酸っぱいショカの実をかじりながら歩く。
しばらくして見えてきた、ここいらでは有名な大衆料理屋の看板をくぐると、迎えにでた給仕に買ったばかりの芋を渡した。
「たまたまこちらへ用事があり、昼をまだだったのでね。主人はいるかい?」
「はい、すぐにお伝えします。ラオシーが来たと知ったらお喜びになりますよ」
給仕が消えるが早いか、奥からでてきた五十はすぎたとおもえる少々小太りの男が、ウォンを見つけるなり満面の笑みをうかべた。
「やあやあラオシー、お久しぶり。まあ、とにかくなかへ」
「いや私はここでいい」
「なにをおっしゃる。ゆっくりしていって下さい、さあさあ」
半ば強引に押される形で奥に案内され、ひらけた中庭の、植物に囲まれた天幕つきの場所にすわらされる。
この中庭は、主人が気にいった客だけにゆっくりと食事してもらおうと、特別にあつらえた場所であるが、実のところウォンのような者と密談するための隠蓑なのだ。
実際カハトゥは裕福な商人で、この店は半ば道楽でやっているようなものである。四方を高い壁と植物に囲まれたこの場所は、密談はもちろん、隠蓑としての理由づけには申し分ない。
「取引でもめていると聞きましたが? 収拾のつかないほどなので?」
「値上げ、だそうだ。もちろん金などいくら積んでもかまわないが、派手にやりすぎると露見する恐れもあるのでな」
「ふむ、どうしたものか」
しばらく考えこみ、運ばれてきた料理をとりながらあてどなく話し、ふと一息ついて差しだされた酒を、ウォンはやんわりと断る。「おお、すまん。酒は駄目だったな」
「なるほど、それでいきましょう」
言葉を計り兼ねて、カハトゥは手をとめる。
「利を求むる者を、利を以て制す。取引を断り、金にならぬとおもわせるのです」
「しかし、問題は方法だ」
ウォンはカハトゥを招きよせると、そっと耳打ちをする。策をきかされてしばらく考えこんでいたカハトゥだったが、期日と準備の計算が終わり、膝をたたいてよしと頷いた。
「御老公のお耳にいれ次第、早速はじめよう」
「ではなにかありましたらいつも通り、アトサンに伝えてくださるよう」
「あの変装好きか、捕まらなくて困るのだがな。ターレン(大人)、君もれっきとした幹部なのだ、もう少し部下を増やしてもよいのではないか?」
「私はなにかにつけ人目をひきます。関わり深い者が多いのは不自然でしょう」
そういって帰ろうとするウォンを、カハトゥは見送りながら相変わらず堅いとこぼすが、彼は性分ですからと笑みを返しただけでふたたび家路についた。
歩いていると、役人相手の立ち回りをしてから四刻ほどしかたっていないのに、もう噂が広まっているのかやたらとそのことで声をかけられる。たいしておもしろくもない毎日をくり返している人々にとって、それはきっと胸のすくおもいだったのだろう。
と、いまさらながらに、ジョアンは大丈夫だろうかと頭にうかんだ。
ようやく家に戻ってくるや隣家の主人とばったり会い、彼が話をしようとこちらに向かってきたのを見て、もう何度目かの話をしなければなるまいとおもったが、そうでないことに気づくのにさして時間は必要なかった。
「ラオシー、さっきラオシーの家の前を官吏がうろついてましたよ」
「ああ、あれは 」
「官吏とやりあったそうじゃないですか、あいつら仕返しにきたんじゃないですかね。あんまり派手にやらないで下さいよ」
「ああ、いや、成りゆきでね」
「あたしらみたいな貧乏人は、ほかに診てくれる医者なんていやしないですから。なにかあったら相談して下さいよ」
「分かったよ、ありがとう」
笑顔で別れながらも、その腹のなかはどす黒い。隣の主人はあいつらといっていた、つまり複数でありジョアンではないということ。
かといって素直にさきの官吏たちとは、軍務大臣という威厳がそれほど軽いとはとてもおもえない。
「つまり、そういうことか。はてさて?」
家に入ると、案の定ジョアンの姿はない。 仕方なくずらり本の並んだ棚から一冊を取りだし、読書をはじめる。
どれほどそうしていただろうか、気がつけば日は沈みかけ、空は赤く、辺りは明かりが必要なまでに薄暗くなっている。
とりあえず本を閉じ明かりをつけて、さて食事の支度でもはじめようかという矢先、ジョアンの声がきこえた。
「遅くなってすみません。勝手に入っては隣人になんといわれるか心配で。ついでといってはなんですが、せめての心使いとおもい、酒を買ってまいりました」
杯も一緒に買ってきたのだろうか、だがそれに注ごうとする壷を持つ手は、一体なにが理由なのか、もうすでに震えていてとり落としてしまいそうな気配がした。
「いや、私はいい。昔から酒は飲まないのでね、君の晩酌にでも使いなさい」
そうですかと残念そうな、それでいてどこか安心したようなため息をつくと、ジョアンはその壷を脇へおいやった。
「食事にしよう」
その日の夕食はパンと野菜を煮込んだスープ、それと茹でた豆がつけ合わせのように並んでいるだけ。なにかを期待していたわけではないものの、医者であるのに一度の食事がこれだけとは、正直驚きで声がでなかった。
「意外だったかな?」
「いえ、その……」
「無理をしなくてもいい。ただ分量はたりるよう作ったつもりだから、ほしいだけとりなさい」
「すみません、いただきます。しかしなぜなのですか? 先生ほどの腕をお持ちなら、もっとよい暮らしができましょうに」
豆をほお張りながら、ふむとウォン。
「よい暮らし、とはさていかなるものか?」
「それは、大きな家に住み、よい服を着、よい食事をとり……」
「美しい妻を娶って子供に囲まれて? あいにくと、私はそういった欲求がないのだ。それに私がそれを望むとどうなる?」
「というのは?」
「ほかの者より搾取するほかはない。苦しむ者をより苦しめるにすぎない、私はそういうやり方は好きではない」
ウォンは何気なく話していたのだが、きいていたジョアンは面食らった表情をしている。
たかが食べ物の話から、そこまで飛躍した考えがでてくるとはおもわなかったからだ。
「ただなにもかも望まぬというのではない。その時々に必要なだけ望み、手に入れればよいのだ」
「そのお言葉、心に留めおきます」
「それより口を動かしたらどうか? 冷めてしまったのではないか?」
そういわれて、すぐにもかきこんだ。
とりあえず食事を終わらせ片付けを済ませてから、ウォンは熱い茶を二人分用意し、ただ言葉もなくそれをすする。
飲み終わると、今度は小さな中庭に立ち、構える。そしてなにを目安にしているのか、時折前触れもなく踏みこみ突きをくり出し、またもとの構えに戻るをおなじように何度もくり返す。
稽古の様子が見れるとあって、最初は興味深く、食い入るように見据えるジョアンだったが、しばらく見ていてもいい加減ほかの動作に進む気配もないので、やがて飽きてしまって集中力も薄れていった。
「先生は、私のことをお聞きになさらないのですね」
動作を一通り終わらせてから、ウォンは構えを解き、ジョアンに向き直る。
「なにかいいたいことが?」
「えっ? いえ、素性の知れぬ私をどうして弟子にしてくれたのだろうとおもいまして」
「きく必要などない。少なくとも君の目は曇っているが、世を正しくあろうと見ている。それで十分だ」
本当にそれだけでいいのだろうか、という表情で、半ば呆れるように呆然とするジョアンをそのままに、ウォンはふたたび構え、さきほどとおなじ寸撃をいつ果てるともなくくり返していた。
それからというもの、そんな日が何日となく続く。
昼間はおもに診察、暇があれば読書、暗くなり本が読めなくなれば技の鍛練。その鍛練も、ジョアンは教えてもらえるまでひたすら待つという、それこそ型にはめた金物のように毎日続いたのである。
ただ近くで見ていて分かったのは、このウォンという人物が、医者としてはずば抜けた能力を持ち、異国人でありながら多大な人望があるということだ。
それは当然といえば当然である。切った張ったはできないと本人がいうように、外傷や致命的に手遅れでない病気ならば、体のツボを指でつくだけで完治、少なくとも進行は抑えることができる。また学問に明るく、世情に通じ、素手でありながら腕もたつとなれば、そうなるのが自然というものだ。
やがて一週間も過ぎたころだろうか、彼はまたもジョアンに留守番を頼むと、サントラ・クルマンという人物の診察にでかけていった。
その名をきいて、ジョアンは驚きのあまり返事ができず終いであった。
それもそのはず、サントラ・クルマンといえば周辺諸国を股にかける豪商一族の長で、アバンタールが故郷だとの理由から、いまは商いの一切を息子たちにまかせてこっちに隠居している。彼の一声で、周辺諸国の経済は破綻するとまで噂のあるその人物の主治医だとは、ともすれば弟子であるのが場ちがいと感じるのも無理はない。
彼のそんな心情を知ってか知らずか、ウォンは質素だが造りのしっかりしたその邸宅に、いたって臆面もなく入っていく。
おのおの武装した十数人からなるクルマンの警備も、恐らく外の人間が見たら不思議におもうだろうほどに頭を下げて迎え、使用人たちも一介の医者にはすぎるうやうやしさで案内する。そしてクルマン本人の寝室に入ると、隙間なく敷かれた絨毯に正座で座した。
正面にすわる老人は、豪商と想像するより小柄で、眉も髭も長い白髪のしわくちゃ顔。とはいえ、その本質を垣間見せるかのごとく、細い目の奥の瞳は重苦しいほどの威厳に満ちている。
そんな風貌であったが、ウォンの姿を見るなり、子供のように屈託のない笑みを見せた。
「お久しぶりでございます、御老公。お体の具合はよろしいでしょうかどうか?」
「なに、心配なんざいりゃあしないよといいたいところだがね、齢にゃあ勝てないさね。一月に一度はおめえさんにいじってもらわにゃあ、煙草ひとつするにもおっくうってもんさ」
「煙草はおやめになられたがよろしいと、はてご忠告もならず、馬に天意を語るがごとくとは」
「はっはっはっ、おめえさんも随分きついこといいなさる。だけどねぇ、あの日からオレに少しばかり楽しみが増えたからって、そのおめえさんの面を一月に一度しか見れねえってんじゃ、しばらくやめる訳にゃあいかないやね」
「私に力あれば、かような苦を成さずに済みますものを」
「いいのさいいのさ、おめえさんはよくやってるよ。年寄りのわがままさね。それよりも早いこと、このいうこときかないのを診てやってくんな」
そこで上半裸になったクルマンの体は、だが小柄な老人からは想像がつかぬほど頑健で、かついたるところに無数の古傷が走っている。
一代でのし上がるのに、才知や機転だけではどうにもならないと証明するかのような痛々しさだが、医者の身からすれば、作りすぎだとしかいいようがない。
ウォンはクルマンを寝かせると、筋肉の張り具合や内臓を調べ、全身至るところの健康状態を調べ上げる。
「肝臓がお悪い。酒の量が少し多いようですな」
「はっはっ、不思議だねえ。ちいっとまさぐっただけでなんでも分かっちまうってんだから」
「それだけではありますまい。酒、油もの、煙草は一度にとってはならぬとのご忠告、商人気質なら右より左に筒抜けとは、さては異な話でありましょう」
「死に際まで待てねえで、ついついつまみ食いよ。そればっかりが道楽だが、好いたもんにゃあ逆らいづれえもんさ」
あお向けに寝かせ、その脇腹と腹のいくつかの箇所に、鋭く指を突き立ててツボを刺激するものの、骨がある場所でも人差し指の第一関節まで入ってしまうような極端さだ。
これでは本当に治しているのかどうか、他人には分からない。そしてこれがこの都にきた当時、誰も彼を医者だとおもわなかった理由であり、自らを打活師とよぶゆえんである。
それが終わると今度はうつ伏せに寝かせ、腰の辺りにまたも指を何度も突き立てる。
これも腰の骨にかかっているだろうに、しかしクルマン当人は至って平気な顔で、むしろいくらか気持ち良さそうにしていた。
「これでよろしいでしょう。いつも通り、これよりしばらくは安静に、あまりお動きになさいませぬよう」
「分かってるよ。おめえさん、ほんと律義だねぇ」
治療が終わってウォンが正面に戻ると、クルマンは手をたたいて使用人をよびよせ、二人分の茶を持ってくるよう伝える。
茶を飲みながら、しばし息をついた。
「それで取引の件につきますが」
「ああ、ああ、噂は撒いておいたよ。しかしおめえさんの機転もきくね。ほかに売りたい奴がいるとなりゃ、さすがに値を張るわけにもいかねぇだろうからね。だけどなんだねぇ、兵隊が自分とこの獲物を売っちまうようじゃあ、この都も先は長くないねえ」
「人の成す、成さずに拘わらず、それすなわち天命にございます」
「おめえさんとこの若いのもかい? 話は聞いているよ。どうなんだい?」
「おそらくは領主の間者(スパイ)か、私を狙った刺客かとおもわれますが、どうも朽ち人ではない様子。いまはアトサンに詳しい素性を探らせております。図星となれば私は目立ちましょう、大事には供にできますまい」
「それはおめえさんに任せるよ。しかし一等役に立つってえのに、役がねえってのは残念だねえ」
「天命には従いましょう」
二人の会話は、なにも知らぬ人々は当然、彼らの下っ端でさえおいそれときいてよいものではない。ましてその敷地に間を悪く飛びこんでこようものなら、たとえ誰であろうと闇に葬られたかも知れないのだ。
そのような状況だとはもちろん知らず、有無をいわせず飛びこんできたのは咳きこみがちな少女、寝間着で裸足のままのレムシャエル・パシャだった。
「おい嬢ちゃん、ここはクルマン様の屋敷だ。会う約束がねえんなら帰りな」
「こちらに、ラオシーがいるはずなんです。よんで下さい」
「知らねえな。早く帰れ」
「いるんでしょ? 会わせて」
「しつこいな」
男がレムシャエルの肩をつかもうとした刹那、入り口の門がひらくが早いか、さっそうと突進してきた何者かが、問答無用で男に飛び蹴りを食らわせふっ飛ばす。
「アチョー!」
そして蹴られた男と横で見ていた男の首根っこを引っつかんで、強引に引きずりながら奥のほうへ消えていく。レムシャエルはもとよりほかの警備の者でさえ、あまりに突然のことに呆然と立ち尽くすしかなかった。
「いたたたたた、ちょっとアトサンの兄貴、一体なんだっていうんです?」
「ばばばばばば馬鹿野郎、あの人を誰だか知らねえのか!」
「知るわけねえじゃねえですかい、あんな小娘」
「ありゃパシャ軍務大臣の一人娘だ」
「ええっ! じゃあ御老公のことがばれちまったんですか?」
「いやそれなんだが、やっこさんうちの大将にホの字らしくてよ、二度と会えねえと分かったんで飛びだしてきたらしいんだ」
「そーなんすかー? ターレンもすみにおけないですね」
「まあ大将も若く見えるしよ、あのくらいが丁度いいんじゃねえかって馬鹿! そんな話じゃねえだろ!」
「へえ、すんません。あの、そいつ気をうしなってますけど」
「ほっとけ。いいか? とにかくこんなことでばれねえように、あの方を丁重に扱うんだぞ、扱えよ?」
「そんなに凄まなくても分かりましたって」
すると今度は手のひらを返したように丁重にもてなし、茶はだすわ服はだすわ、薬、医者、話し相手にはじまり、果ては踊り子でもよぼうかという始末。
丁重にといったアトサンも、またもや蹴りを入れずにはいられなかった。
「レムシャエル様が此処に?」
「へえ、かなりとり乱していました。早くいってやらないとまた……」
心底困ったような表情で見やるウォンに、クルマンはこれまた包み隠さず大いに笑ってやる。
「御老公」
「いいよいいよ、いってやんなよ。おめえさんはオレの孫みてえなもんさ。ひ孫の顔が見れんなら安いもんさね」
「お言葉ですが 」
「表の人間になるかならねえかの瀬戸際だといってるのさ。どっちにしたって、けりは自分でつけにゃあなるめえ? おめえさんを信用してるのさ、好きにしたって誰に文句はいわせねえよ」
途方に暮れるようなため息をしてから、おもむろに膝を正し、ウォンはクルマンに頭を下げて退室する。あまりの素早さに、アトサンもあわてて礼をしてから後を追った。
レムシャエルは、ひときわひろい客間の真んなかで上等な座布団にすわりながら、使用人の扇ぐ風に涼んでいた。
それは生気を抜かれたように呆然とした表情ではあったものの、失礼とウォンの声がきこえ姿が見えると、すぐさま転じて晴れやかに、そして正面に座そうとした彼に飛びついていた。
「メイレン」
「苦い薬を飲まされて、私、我慢できずに吐いてしまいました。それで咳が止まらなくなって、どうしてラオシーはやめてしまわれたのですか?」
「メイレン、落ちついて」
「ラオシーじゃなかったら、私は一生治りません」
「落ちついて、目を閉じて下さい。失礼」
そういって右手の手首と後ろの首筋を指圧し、とりあえず興奮がおさまるまで圧し続ける。されているレムシャエルの方も、余っている手を、ウォンに従うように彼の手に重ねてじっと動かない。
アトサンは使用人を退出させると、自分も奥に下がる。ウォンはレムシャエルを楽にすわらせ直し、自分もそのすぐ前に座した。
「ご気分はよろしいでしょうかどうか?」
「はい、おち着きました。すみません、とり乱していたようで」
「ならばお話しいたしましょう。私は、メイレンにはもう治療が必要ないと判断したのでございます」
「ですが 」
「そもそも打活師とは、人にある回復力をとり戻すに過ぎませぬ。これ以上の治療は、自然の回復力のなかに浸る以外にはあらずと、大臣にも申し上げております」
「ならばラオシーもご一緒にきて下さい。とても、心細いのです」
ここまでいわれれば、彼女がなにをいわんとしているかは、事情を知らぬここの使用人にでも分かることだ。しかもこの地方では、女性からこのように求めることなど稀で、これを知ったらカリートルは卒倒するか剣を抜くかのどちらかに違いない。
「私は、遥か昔に情愛を棄てた者です。それにはお応えできませぬ」
おそらく、この答えは彼女が一番おそれていたものだったにちがいない。表情一つ変えずにいってのけた彼とは対照的に、レムシャエルは悲しみに顔を歪め、流す涙を隠すように手で覆い、声もなくただ嗚咽だけが時折もれる。
かける言葉はない。ウォンはしばらく黙ったまま彼女が泣き止むのを待ち、静かに、努めておち着いた口調で語りかけた。
「屋敷までお送りしましょう」
道中、どれだけの想いを巡らせどれだけの意味を見出そうとしたのか、彼の真意と胸中をどれだけ理解したのか、レムシャエルは屋敷に戻るまでただ沈黙を守り、侍女たちにベッドに寝かされたその時、屈託のない真っすぐな瞳のままで一言つぶやいた。
「私に、生きる喜びを下さい」
ウォンは答えなかった。彼女の前では言葉は価値をなくしそうだったからだ。
静かに、正座のまま床に額をこすりつけんばかりに頭を下げ、憂いに満ちた表情でその場から立ち去った。
後ろ髪引かれる想いがない、といえば嘘になる。だがそれはレムシャエルに対して、彼女のか細い肢体をこの胸に掻き抱くという情愛に対してではなく、一人の人間を心から愛する行為そのものについてなのだ。
「先生、私は、一体こんなところでなにをしているんでしょうかね」
涙なき慟哭のように顔をしかめる。自嘲しながら、切なさに耐え兼ねてまぶたを伏せる。
ついと足を止めるが、心の整理がついたらしく、またいつも通りに歩きだした。
そして門のところまできたあたりで、蹄の音も高らかに一騎駆けで飛びこんできたのは、戦もかくやといわんばかりに血相を変えたカリートル。
ウォンの姿を見つけるやいなや、馬を降りるが早いか、剣を抜いたとおもう間もなくこちらに踊りかかってきていた。
「貴様か、娘を連れだしたのは!」
ふり下ろされるのは大振りの曲刀。それを紙一重でかわし、体位置を入れ替える。
振り向きざまの横なぎをまたも紙一重に、左腕をとり体勢を崩してから突き放つと、カリートルの巨体はどうと音を立てて地面に突っ伏した。
「落ち着きを、大臣。誤解していただくは不本意にございます」
「誤解だと? ぬけぬけとよくいうた!」
がばと跳ね上がり三度挑みかかってくるカリートルに、ウォンは初めて構えを見せ、額を狂いなく両断するその太刀筋をかわし、すれちがいざまその巨体を投げ飛ばした。
「貴様ごときに……」
唾を吐きだしながらの苦渋の言葉は、親としてのそれと同時に、男としての意地と軍務大臣の意地がかかっているといいたいのだろう。全軍の頂点に立つ者が、武道の心得があるとはいえ、たかが町医者に負けるわけにはいかない。
しかしふたたび立ち上がろうとして、カリートルは剣を支えにしたのだが、かんじんの剣そのものが無いことに、しかもそれをウォンが持っていることに初めて気がつく。それほど、彼の技が鮮やかだったという証拠だ。
罵声のかわりに歯軋りを一つ。
ウォンは持った剣をふるわず、鞘におさめるように左手に下げた。
「大したお怪我はありませぬかどうか? こうでもせねば私が大怪我をしますゆえ、やむなきとご理解いただきますよう」
そういって静かに近づくと、ウォンは剣をカリートルの鞘に戻し、倒れたままの彼を両手で助け起こしてやる。
悔しいだろうが、それでまだ反撃するような安い武人でないと知っているからだ。
「負けたとはおもわんぞ」
「勝ち負けはありませぬ。大臣が剛ならば私は柔、激ならば制にございます。用途を同ずるものではありませぬ」
感心はしたかも知れない。だがカリートルは鼻を鳴らしただけで、庭園のほうへあごをしゃくった。
「望みはなんだ?」
「その話は終わりになりましたはずですが」
「軍務大臣として話している」
「おなじです。私はそういう欲求なき者にございます。レムシャエル様にもそのようにお話しました」
「では何故連れだした!」
「連れだしたのではございませぬ。レムシャエル様は当面の治療に嫌気がさし、私に相談しに参ったのです。軽々と薬を用いれば、いままでの治療は無となりましょう」
「そんなことはもうどうでもいいのだ。妻はあれを生んで死んだ、あれは妻の分も幸せにと願い育ててきた。あれが貴様を好いたというのならそれもいいだろう、だが貴様がこの都市に帰属するのでないのならば認めるわけにはいかん」
「私の分に余ります。ラカンシェ様などよろしいのでは? 心配の余りよく見舞いにこられるご様子」
「本気でいっているのか!」
「毛頭ありませぬ」
勢いにまかせてその胸倉をつかんだものの、眉一つ動かすことなく答えたこの男に、カリートルはおもわず手を緩めるほどの寒気を覚える。
「貴様、何者だ?」
「一介の打活師にございます」
カリートルは、そのまま手を離した。
彼は勇猛果敢で直情型なせいか、知略という面から見れば多分にお粗末な人物である。それは本人も自覚しているほどだから、この状況で理知整然と乱さないウォンに、少なからずおそれを抱いたのだ。彼の言葉通り、激に制なのだと。
「私の故郷では、こちらとは比べるべくもない大きな戦のある地でした。数多くの将が名を馳せ、統治者の人となりが重視される気風でございましたので、私を含め、誰彼となく人を見る目は確かなものがございます。はばかりながら、きき流していただけるのであれば、独り言を申しますが」
最初面食らった表情をしたがようやく飲みこんだのか、カリートルはついと横を向いた。
「ラカンシェ様は知謀の才がすぎるほどにあります。昔と人がかわったと噂にあり、いまの善人ぶりは作りものと推せます。謀は望を以て成すとの言葉もあり、人望を欲するとは、ラカンシェ様は大事をお考えになっているのではともおもいましょう」
「昔から、なにを考えているのか分からない奴ではあるとおもっていた。だがなぜ奴は娘に近づくのだ?」
「私見でよろしければ、申しあげますが?」
またもカリートルはついと横を向くが、
「ご忠告と申したほうがよろしいでしょう」
ばつが悪そうに顔をしかめた。
「親衛隊長は親衛隊長にすぎませぬ。欲の業は権力に集約されます、まずは地盤固めが必要となりましょう。そして人とは、身内への情は棄て切れませぬ」
「そういうことか、やつめぬけぬけと」
「それがご忠告にございます」
なんのことをいっているのかさっぱり分からず、カリートルは眉をひそめた。
「成す事がおありならば、何事にも真意を読み、まずは冷静になさることが肝要にございます」
いまにも怒鳴り散らそうとしていたところに、釘を刺された状態になったカリートルは、またもやばつが悪そうに顔を歪めて、なんとか感情の整理をつけて高ぶりそうな気持ちを鎮める。
このように実直なせいか、いまさらながらにカリートルは、なぜウォンがこれほどまでに親切にするのか疑問を感じた。誤解かどうかに拘わらず、さっきは殺そうとまでした相手に、どうして自分の得にもならないようなことを進んでするのか。
「貴様は、どうしてそんなに親切にするのだ? レムシャエルを望むでもなく、地位を望むでもなく。狙いはなんだ?」
「なにもありませぬ。見ての通りの町医者、人助けが骨の髄まで染みこんでいるのでありましょう」
「心まで治療するとでもいうのか」
「心苦は病に勝る病とも申します。人は満たされぬとおもい悩みます。それを満たされていると気づかせるのも、医者の役目でありましょう」
「妙なことを考える、だからやたらと誤解を招くのだ」
「心に留めおきましょう」
頭を下げた後、見るとカリートルの視線は遥か後方にあり、その先にふり向くと、そこには馬に乗ったラカンシェが見え、いまにもこちらに向かってくるところだった。
「奴め、性懲りもなく」
「日々かわらぬ砂漠のごとき平静を、人には砂漠を乱せませぬ」
伝わっていたのかどうか、ラカンシェが憂いの表情を見せたのにも心乱さず、カリートルは常時平素に対応した。
「お戻りになられていたのですか大臣。レムシャエル殿の姿が見えぬとの急報をきき、いままで探しておりました」
「もう見つかった。いまは部屋で休ませている」
「そうですか、安心しました。事をきき及んだときは、たまらず馬を走らせ方々を回ったのですが。そちらは噂の町医者ですかな?」「ウォン・レイホウ、字をシャオヘイと申します。栄えあるメッサド・ラカンシェ親衛隊長のお耳に入りますは、光栄に存じます」
「貴様のような異国の者が、噂にならぬはずはない。聞けば腕前は確か、民にも慕われているそうな」
「恐縮にございます」
「それで、さきほどはどのような話をされていたのですか?」
「うっ、いやそれは……」
言葉通り砂漠のごとく平静を保っていたカリートルであったが、ラカンシェにかるくさぐりを入れられただけで少なからずたじろいでしまう。いいえて妙だが、見たまんまなのも砂漠のごときであった。
「それは主治医であった私のほうから。話から推するに、レムシャエル様は症状がかるくおなりになったために、気分転換にと無理をされた様子。街中の悪い空気を吸いこみ、今は容態を悪く、侍女たち以外には誰とも会わせぬようにと進言したところ、大臣は意気消沈したものです」
「お気持ちはよく分かります、大臣。町医者、何とかレムシャエル殿の助けになりたい、何か方法はないか」
「いまはまだ養生し、レムシャエル様の治癒力に頼るほかありませぬ。お二方には話もありましょう、私は失礼を」
ラカンシェはまだなにかいいたそうではあったが、深々と頭を下げてそれを受け流し、そのまま足早にその場を立ち去る。
カリートルがどのように受け答えるか少々不安が残ったが、いつまでもかわりに答えるのも不自然だし、わざわざ布石を敷いたのだから、まさか妙に勘ぐられることもないだろう。もしそうだとすれば、それは自分に対してのものだ。
どうしてそのようにばかり考えるのだろうか、ウォンは帰る道々そう自問した。
レムシャエルにとっては人生の転機となるほどの大事であったはずなのに、それを知りながら拒んだ自分は、一連の事の一粒にしか見ていない。
いつから自分は謀略家になったのだろう。目的とは無関係な者の人生に、楔を打ちこむような真似をする人間になったのか。もっと、丁重な言葉は見つからなかったのだろうか。
「成すべきと信じた信念のために、人のなんたるかをうしなったのでしょうかね先生」
ただうつむき、かける声にも無反応な彼を、道ゆく人々がどうおもったのか分からない。
しかし言葉通り無反応なほど、そしてどう歩いたのか覚えがないほどに、いまの彼はあまりの切なさに心が萎縮しきっていたのだ。「先生おかえりなさい。かなり前に若い女性が……先生?」
ジョアンの声も届かず、そのまま狭苦しい書斎に閉じこもってしまう。あの女性のことでなにかあったのかと心配はしてみるが、食事を持っていってもまるで意に介さない。たまにはこういうこともあるだろうと、ジョアンは仕方なく一人で剣の稽古を始めた。
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