ウォンには、結婚とか情愛とかを想うときに、必ずおもいだされる一人の少女がいた。
 名をウェンラン(穏麗)といい、ウォンの家とはほとんど他人ともよべるような間柄の遠い親戚だった。いまだからいえるのだが、お世辞にも美人とはいえない顔立ちであるのをよく覚えている。
 おとなしめのウォンに比べて、利発だったウェンランとはよく性格がかみ合っていたのかもしれない。
 だからか二人は、将来は一緒になるものだと信じて疑わなかった。
 十五の春先にそう誓っていたし、生計を立てるべく、村一番の針師だった父親のもとで一心不乱に勉強して、遠い地でおこった戦に出世をたのむ友人の誘いにものらなかった。
 それがもろくも崩れ去ったのは、十七の秋も深まった時期だった。
 そのときのことは鮮明におぼえている。
 空が澄み渡る少し風の強いその日、ウォンは親戚のじいさんが倒れたので、稲の刈り入れに駆りだされて家より遠く離れていた。
 今年は特に豊作とかで、稲の穂は地につかんばかりに傾いている。それを刈って束にして積み上げていくのは、いくら若いとはいえ重労働だ。
 そしてこの日何度もそうしたように、痛々しくうなりながら背筋を伸ばしたとき、家の方から走ってくる伯父の姿を見つけた。
 必死の形相、のどを枯らさんばかりのどなり声、まるで悪鬼に追い立てられているかのような焦燥ぶり。
 言葉はきこえなかった。だが直感的になにかを察したウォンは、彼に話をきいては逃げてくる親戚の制止を振り払って、家に向かって走り続けた。
(嘘だ、嘘だ)
 うわ言のようにつぶやきながら止まらぬ彼を、横合いから飛びだした伯父が肩をつかんで引きとめる。
「逃げろシャオヘイ! お前まで殺されてしまうぞ」
「いやだ、ウェンランが」
「おいっ待て、くそっ、シャオヘイ戻ってこい!」
 強引にふり払って走る。そこになにがあるか、自分がどうなるか、漠然とは分かっていても止まらない、止まれない。
「ウェンラン」
 それが彼女の名だ。小さいころから一緒に遊び共に理解し合い、愛し合った。ここがたとえ辺境の小さな村で、なにがなくともそれで足りないと感ずることもなく、武術に秀でたいとも学問に明るくなろうとも、それで出世したいとおもうこともなく、彼女と共に暮らし子供に囲まれ、それで幸せに過ごしてゆければそれでいいとおもっていた。
 広大な領土より、金銀の装飾品より、全土に知れ渡る名誉よりも大切な彼女が、自分にとってのすべてなのだ。
「ウェンラン!」
 いまにも彼女の叫び声が耳に届きそうで、それを拒絶するように無意識に叫ぶ。
 息苦しさを押して家のつらなる間を走り抜けるが、あたりにはもはや人影もなく、とにかく誰かいないか探して広場へとでる。
 その広場にでるや、目に入ったものは数十人にもなる兵士と、血に染まった砂、膝をついた父親と、剣をふり上げた兵士。
「父さん!」
 その死に際に声が届いたのかどうか、しかし親子は最後に目を合わせることなく別れを告げる。首を斬られ、頭は不思議なほどごろごろと転がった。
「こいつの息子か!」
 誰が叫んだのだろうか。呆然と立ち尽くすウォンは、兵士のうちの一人が弓に矢をつがえ、放ち、自分の腹に刺さるまでの一部始終を、まるで他人事であるかのごとく倒れるまでずっと傍観していた。
 当たりどころが悪かったのか、全身が硬直して動けず、声をだせず目の焦点すら定まらない。それに呼応するように呼吸も困難になり、痙攣が四肢を覆い、言葉にならない言葉をつぶやき続ける。
 おそらく彼は、自分が死んだと錯覚したにちがいない。それははた目に見てもそう感じるほどの症状であったし、事実しばらくほうっておけば死んでいたにちがいない。
 だから止めを刺しに来た兵士は、その様子を見て剣をふり上げただけで、なにもせずつまらなそうに立ち去り、ほかの兵士も用はなしたらしくすぐにも村からでて行った。
 後で知ったことだが、ウェンランの一族は一人残らず連れていかれ、北にある都で斬首にさせられたらしい。
 この乱世に林立する国々は、それは名だたる英雄豪傑によって統治されていたが、なかには腹黒い者、裏切り者なども多く、その者が殺される度に、血縁者から復讐されぬよう一族を皆殺しにするのは日常化していたのだ。
 となれば、ウォンの家族はなぜ殺されなければならなかったのか。
 村人が連れていかれるのを阻止しようとしたのはもちろん、普段からいがみ合っていた役人から金を渡された兵士が、どうも勝手にやらかしたらしい。
 風の噂だが、ウォンがこの村をでるのと入れちがいに入った豪傑は、信用ならぬとその役人を真っ先に斬ったということだ。
 とにかく一命をとりとめたウォンだったが、それから一週間ほどは痛みと高熱、そして吐き気に苦しみ続け、親戚一同の看護の甲斐あってか、半月ばかりで傷口もふさがり完全に回復することができた。
 だが正直、ウォンはなんのために生き延びたのかと葛藤するだけで、死なずにすんだことへの喜びはまるで微塵もない。
 家族は死に、生死の境を彷徨っている間にウェンランも死んだ。助けてくれた親戚でさえ、本来死ぬはずだったウォンをかくまっている事実に、いつ役人に見つかって自分たちに害が及ぶかと、疎ましがられるだけの毎日。
 自然と彼は誰も信用しなくなり、自然と家中の金と金目のものを持って村をでた。
 行くあてがあったわけではない。生まれてこのかた村をろくにでたことのない彼にとって、唯一知っているのは、父親の仕事につき添っていった隣の都だけだ。
 それから数日後、都に着いてまずやったことは、もち物一切を売って金を作り、名のある武芸者の家を訪ね歩くことだった。
 彼の素性を知っている者なら、その行動は奇異に感じたことだろうが、彼自身でさえその衝動にかき立てられたのには違和感をおぼええていたのだ。
 剣、槍、兵法、拳法とさんざん回ってみたが、当然そんな素性の分からぬ、ましていままで剣一つ握ったことのない輩を弟子入りさせようなどと、酔狂なことをいいだす武芸者はいない。それには出世狙いの若者が増え、そのなかでは持参金が少なすぎたという理由もある。
 途方に暮れはしたものの、素直に針師に弟子入りしようという考えはなぜかうかばない。
 そうして乞食同然で数日をすごしたころ、とある武芸者のよくない噂を耳にした。
 なんでもここより東の島国からきた者で、粗末な格好でろくに喋りもせず、弟子もいないくせになぜか金回りだけはよく、方々を回っては学問書や兵法書を買いあさっていると。その島国が大陸に攻めこむのに必要な情報を集める、諜者なのではないかと。
 ウォンは走った。諜者かどうかは問題ではない、教われるかどうかが問題なのだ。
 武芸者の家はすぐに見つかった。入り口のすぐ横に『佐久間』と書かれた木札がぶら下がり、おまけに通行人が前を通るのにどこかよそよそしかったからだ。
 しかし扉をたたいてでてきた住人は、小柄で普通の体つきの、おおよそ武芸者などとよべる風体ではない。おまけに質素で作りの粗雑そうな、裾のやたらひろい変な民族衣装をまとっている様は、都で目をつけられるのもなるほどとおもえる一風変わったもの。
「私を弟子にして下さい」
 武芸者はなにも答えない。こっちの言葉が分からないのかともおもったが、その感情のまるでない目に射竦められて、ウォンは全身が硬直するほどの緊張に襲われる。
 体のなかも、心の奥底までも見透かされているような感覚、小柄なはずの武芸者の存在が、まるでこちらの意識を飲みこんでしまうかのごとき巨大さに膨れ上がった感覚。
 呼吸さえままならぬ震えが、まるで地が揺れているかのように錯覚させた。
 刹那、武芸者は一言も発さずに扉を閉め、それきりでてくる様子もない。
 門前払いはもう慣れていたものの、あの全神経が麻痺したかのような感覚はなんだったのか。いまでも胸を触ると動悸が激しい、あの人物は尋常ではないと直感した。
 それから、ウォンは扉の前にすわり、許しをもらえるまで待つことにした。食事もせず水もとらず、夜深がたとえ底冷えしようともそこから一歩も動かずにすごす。
 三日目の朝、突然扉が開いたかとおもうと、武芸者はさっさと家を後にした。
 このころにはウォンは周囲の住民からは気味悪がられていたし、このままここで朽ち果てるのも悪くないとおもうようになっていたが、夕刻になると帰ってきた武芸者は、まだそこにいたウォンの顔をじっと見やる。
 目を合わせなかったから、武芸者がどんな表情をしていたのか分からない。ただしばらく黙っていた彼は、扉を開けると、
「入るずら」
 と、やけに訛りの強い言葉を残し、扉を開けたまま去った。
「履物はそこでぬぐずら」
 一段高くなっている前に履物が並んでいる。なぜそうするのか不思議だったが、それがかの島国での習慣なのだと理解する。
「そこで待ってるずら」
 客間らしき部屋に一人残されたウォンは、薄暗い室内を見渡してしばらく途方に暮れる。まるで場違いなこの建物のなかで、自分は人生を過ごしてゆくのだろうかと少なからず不安になったのだ。
「足を出すずら」
 気配もなく入ってきたのには驚いたものの、いわれるままに足をさしだすと、武芸者は手桶に持ってきたぬるま湯に浸してやる。そうして湿らせた布でゆっくりと足を揉みほぐし、疲れと痛み、痺れをとってやる。
 この数日で、ウォンの足は寒さと圧迫と疲労のためにぼろぼろになっていたのだ。
 足が楽になると同時に、心の枷が外れたように涙が自然と流れた。
 なぜこのとき、なにに対しての切なさに涙を流したのか、それはいまになっても分からない。静寂だけがある室内に嗚咽が走り、あの辛苦のときからどうしていままで泣かなかったのか自問し続けた。
 武芸者は姓を佐久間、名を重慶といい、字は故郷の習慣によってない。年は三十をこえたばかりだろうが、どうも仏頂面で無愛想なせいかそれより年かさに見える。おまけに素性や過去の分かりそうなものなどなに一つなく、あるのは学問書や兵法書などの蔵書だけ。とにかくつかみにくい人物であった。
 それは万事においてもそうで、次の日の朝、重慶より早く起きて食事を作ろうとしたウォンは、すでに食事中の彼を見て、ふがいなさに自発的に食事をぬく。
 しかし次の日に早く起きても、すでに重慶は食事の支度の最中であり、その日も自発的に食事を抜くというようなことが続き、ついに四、五日もすると空腹のために倒れてしまった。ところがその看病のときに、粥を食べさせながら重慶のいった言葉は、
「自分のことは自分でやるずら」
 というものであった。
 そうした考え方を象徴するかのように、彼は昼に書を読み、夜に技を鍛練するのだがなに一つ教えようとはしない。ごくたまに、
「かかってくるずら」
「受けるずら」
 といってしごきはするものの、なにをどうするのかということは一切言葉にしなかった。
 もちろん最初はウォンも、とんでもない所にきてしまったのかも知れないと内心おもったが、日数がたつうちに、次第に先生の後についておなじことをすればいいのだ、という簡単なことに気づいた。当然上達の目安は、目の前の手本にどれだけ近づいたかというものだからはっきりしている。
 それからというもの、ウォンは重慶と共に食事をとり、彼の後ろから書を読み、おなじ型をおなじ速さと円滑さでできるよう鍛練に励んだ。
 記憶した書は数百冊にもおよび、あらゆる学問書、あらゆる兵法書に目を通し、ときには誰が書いたのか知れない兵法書ですら、一句を逃さずに理解するよう努めた。
 そうした知覚のせいか、体技のほうにもより一層磨きがかかる。
「九島流合気柔術は、なんでもできるずら」
 と重慶がいっていたように、打つ投げる絞める間接を固めるなどおおよそはでき、そのなかでもウォンが衝撃を受けたのは、相手の力を利用するという考え方だった。
 兵法ならいざしらず、大陸では武芸といえば豪胆や勇猛などが良しとされていたのだから、彼にとっては青天の霹靂といっても過言ではない。
 相手の気を知り動きを読み、その力を利用して渾身の一撃にかえる。ウォンはとり憑かれたように、それを率先して習得しようとした。
 いつしかウォンは、学問とよべるものなら名のある人物をことごとく凌ぎ、東西隣国の言語を数カ国語も理解し、戦国乱世に名を馳せる知謀の将に匹敵する才を持ち、豪傑に劣らぬ武術を身につけていた。
 もちろん家をほとんどでないので周囲の人間は知らず、師匠以外に比較すべき才をもたないためにウォン自身そうだとは気づいていなかったが。
 そうした日々が二年も続き、ウォンが二十になったある日、珍しく重慶に道場によばれ正面にすわらされた。
「おめも強くなったずら。おらにはもう教えることはねえが、九島流合気柔術には免許皆 きわめ 伝はねえずら。この道に極はねえかんら、この先おめがどうするにしても、精進続けるずら。ええな?」
 いまにしておもえばこのとき、重慶は身の危険を本格的に感じはじめていたからこそ、自分にいっておくべきことを伝えたのではないだろうか。
 とにかく長年の感謝の気持ちと、自分は一つを成し遂げたのだという充足感から深々と頭を下げるものの、この先どうするといわれたとき、ウォンは自分が進むべき道をうしなっていることに気づいた。
 鍛えた才をもって復讐するにも、その仇であった武将はもはやこの世にいない。もし生きていたとしても、何十万、何百万もの人民を戦火から救った人物を殺すのは、人道に沿った正義なのか。
 皮肉にもこの数年で得た知識で客観性をもち、感情論を排した思考をもてるようになっていたのが、余計に自身を悩ませている。
 針師も仕官もない、ただこの家だけが、ウォンにとってはいつの間にか世界のすべてになっていたのだ。
 そんなウォンのそれからを知っていたのかどうか、憂うように降りだした雨は、次第に雨足を強くしていつしか雷雨にかわり、三日三晩のあいだ降り続ける。
 確かに風雨は強いばかりだったが、そろそろ買いだしにでもいかぬと食事にも事欠きはじめるだろうとおもい、ウォンはずぶ濡れになりながら朝からそこら中を走り回っていた。
 そしてやっとのことでかき集めた食料を、寒さに震えながら意気揚々ともって家に帰ると、しかし湿気に包まれてどんよりと重苦しいだけのはずの空気が、抜き身でもあるかのように張り詰めているのが分かった。
 濡れて重くなった服をぬぎ捨て、五感を張りつめながら肌着のまま道場に向かい、咄嗟にも対処できるよう構えながら襖を開ける。
 しかし目に入った光景を、ウォンはしばらく理解できずにただ呆然と見とれていた。
 こちらをつり目だが穏やかな表情で見ているのは、拳法の正装の胴着らしきものを着た見たことのない人物、そしてその足元に横たわるのは血を吐いた重慶。
「逃げるずら、早く」
 喉を潰されでもしたのか、いつもの無愛想で重苦しい響きは微塵もなく、かわりに絞りだすような途切れがちな声が微かに届くほどでしかない。
 この拳法家が誰なのか、どんな流派を使うのか皆目見当もつかないし、まして重慶を殺そうとする理由も、あえて暗殺という手段を選ばなければならないほどのものは想像できない。加えて、夢にすら見たことのない重慶の倒される姿を、ウォンは愕然とした面持ちで見つめていた。
「なんの恨みもないが、君にも死んでもらう」
 無感情な声と意識、あくまで自然体な筋肉の動き、それらすべてが統括されゆらりと向かってくる様は、力をつけたはずのウォンにぞっと寒気をおぼえさせた。
(気がない)
 腐心して築き上げてきた合気の呼吸、その先気をとろうにも相手には気がまったく感じられず、一挙手一投足が場を乱すこともなく向かってくるのだ。まるで手も足もでず、金縛りにでもあったように微動だにできない。
 そのまま男の間合いに入った刹那、強烈な前蹴りが視界に入ったが、反撃どころか避けることすら間に合わず、かろうじて体を引き威力を半減させる。
 しかしそれでも金づちを打ちこまれたような衝撃にふき飛ばされ、反対側の壁に体を打ちつけ床に投げだされる。
 呼吸困難に咳きこむたびに、胸が熱く刺すように痛んだ。
(ひびで済んだか)
 寸分違わず心臓前の胸骨が、である。それと共に肋骨もみしみしと軋んでいる気がする。
 男がゆっくりと歩いてくる間に、なんとか立ち上がり構えをとったウォンであったが、もはや逃げること叶わず、ただ体の芯から凍りつくおもいがした。
 一撃を加えたとて逸らず、気を見せるような詰めの甘いこともない。誰の差し金であろうと、九島流合気柔術を暗殺するために特別に選ばれたのは明白だ。
「かろうじて減じたか。その才気は惜しいが、師匠が悪かったな」
 先手をとろうとみぞおちを突くものの、男には見えていたのか、それをうち払い、踏みこむと同時に肩口をたたきつけてくる。咄嗟に身をひくが、かわし切れずに左肩を強打し、またも壁に打ちつけられ、前のめりに倒れるところで顔面を蹴り上げられた。
 意識を半分うしないかけ、回転しながらうつ伏せに倒れると、ウォンは不思議なほど静かに自分はこのまま死ぬんだなと納得する。
 鼻はもげたような痛みに、胸の痛みはますます熱く、左肩の骨は折れたのかどうか、しかし痛みと痺れで千切れて無くなったのかとおもうほど感覚が無い。
 生き延びられる可能性が無いのだ。
 やがて眠れそうな夢心地が意識を包みはじめ、全神経が埋没していく感覚が五感を覆う。
「これで金一万とは易いものだ」
 途端に感じた気に、本人が驚くほど敏感に体は反応し、打ち下ろされた蹴りを避けざま、男の軸足の腱を手刀で斬るものの浅い。
「貴様!」
 力無く立ち上がり、右手だけを突きだすウォン。立ったはいいが、これからどうすればよいのか自分でも皆目見当がつかない。
 ただ勝機があるとすれば、手負いに傷をつけられて逆上した男が気をまき散らし、深手を負ったせいでウォンが無心となり、気の流れを一縷すら見極めている点のみである。
 男の筋肉はおろか、鼓動までもが湿った空気に乗って、頬を嘗めるように流れている気がした。
 刹那、五感の感じた通りに迫りくる蹴りを、ウォンは返そうと腰を落として紙一重でうけ止め、右腕でつかみ、ねじりながら渾身にはね上がり、蹴りの威力を利用して男を宙にほうり上げる。
 男は技を外そうと自分から飛ぼうとするものの間に合わず、軸足が地を離れると莫大な遠心力に逆らえずに、コマのようにきりもみながら頭を地にたたきつけ一瞬だけ嫌な音をさせた。
 勢いの止まらない男は、それでもなお糸の切れた人形のように、ぐったりとした四肢が回転しながら地をたたくが、それもしばらくですぐに収まった。
 半ば捨て身だったウォンは自分も地にたたきつけられていたが、顔を上げると、男の首はあらぬほうを向いている。
「ぬっ、くっ」
 蹴りを受けたせいで、胸骨のひびがいよいよひろがったらしく痺れるような痛みがあるが、それを推して重慶の元に近寄ると、愕然として言葉をうしなった。
「先生……」
「よぐやっだ。相手に気を持たせるのも技の一つずら、それにぐらべでおらはだみずら」
「そんなことはありません。先生に教わっていなければここまでできませんでした」
「気い抜いてこのざまずら。褒めんでもええ」
「すぐに医者をよんできます」
「無駄は分かってるずら」
 どうやられたのか想像し難い惨状は、人の生き死にを見てきたウォンですら目を覆わんばかりのものだ。
 額からの出血、両腕はどちらも数箇所でねじれており、肋骨はほとんど持っていかれた様子。そのうえ不自然な窪みが目立ち、左足は腱が切れ、比較的無事な右足ですら鞭でたたかれたような腫れがひどい。
 もちろん分かっていた重慶は、ウォンにここに残り遺言をきくようにいいきかせる。
「この家は、焼き払うずら」
「そんな」
「厨房の床に銀が埋まってるがら、おめはそれを持って逃げるがいいずら」
「先生」
「おめを、教えて良かったずら」
 ウォンを見つめながらそういったのが、重慶にとっての最後の言葉になった。
 仕官すれば丞相(じょうしょう)、或いは大将軍になっていたかも知れない才覚を持ちながら、人生の最後のときを薄汚れた家で人知れず迎えるとは、重慶の人となりを知っているからこそ納得できるものではない。
 だが想いは言葉にならない。
 ただ慟哭の涙だけが、此処にある全てを語っているようにも見えた。
 どれくらいの間そうしていたのか、涙は枯れ、痛みは鎮まり、彼方よりきこえる雨足がか細くなるころには、ウォンの瞳に迷いは微塵もなかった。
 やがて玄関があわただしくなるや、三人の官吏が飛びこんで剣を抜くが早いか、先頭の男の腕を払い、その胸板に肘の寸撃をウォンが入れるが早いか、残りの二人には判別がつかない。
 仲間がふき飛んだのに躊躇したときはもう遅く、懐に入られ、横をすり抜けざまに首筋に手刀をくらうと、瞬時に意識をうしないその場に崩れ去る。
 残り一人も、二人がやられるその僅かの時間に剣を突きだせはしたが、ウォンが避けながら剣を奪い、奪いながら肩より体撃でふき飛ばすと、壁にぶつかってそのままぴくりともしなくなった。
「まだやるかね?」
 そういって剣を投げてやると、本当なら最後に入ってくるはずだった男は、悲鳴を上げてこの場を逃げだした。
 なにもかもが仕組まれていたのだろう。殺せるならそれでよし、暗殺者が殺されても殺人の罪で処刑。増援も、ほどなく到着するにちがいない。
 ウォンは寝ている三人を外へほうりだし、玄関を固く閉じて、重慶にいわれた通りの身支度をすませると家中に油をまいた。
 燃えひろがった火は、瞬く間に家中を走り、すぐにも轟々たる炎が家を包みこむ。
 外を囲んでいた官吏たちも、勢いの強い炎に入るどころか近づくこともできず、かといってこの雨でも鎮火しそうもない様子に手をこまねいているしかない。
 その熱気が照りつけるなかで、ウォンは重慶に布を被せてやり、あらゆる想いと激情を超えた、心底からの感謝をこめて深々と頭を下げる。
 そして不意にもたらされた逃走の報に、官吏たちが駆けよったときには仲間が数名打ち倒されており、追っ手もその途中で全員が倒れ、そのままウォンの足跡と存在の痕跡は、一夜にして都から消えて無くなった。
 いくあてなどなかったが、東の国はあまり友好的ではなく交易も盛んではないため、自然と彼は西よりの交易路に沿って名をかえ姿をかえ逃亡を続ける。
 だが異邦人という負い目は、どこにでもつきまとい続けた。
 旅人ということで歓待されても、しょせんは旅人であり隣人にはなれない。しばらく滞在できたとしても結局は居ずらくなりでていくか、ひどいときはその地に留まることすら許されなかった。
 この頃になると、ウォンの考えの一つが確信に変わっていた。
 天下に人ありき、国、民族、土地、思想、血、文化、言語……ありとあらゆるちがいはあれど、人をして天下万民と呼べるなら、自分はそういった分類の外にいる者なのだと。
 人より上でなく、人並でなく、まして人より下でもない、善悪ともまた関係のない、微妙だが、深く、そして決定的に毛色の違った存在なのだと。
 水面に浮かんだ一滴の油のように、淘汰することもされることもなく、まして交わり均一になる訳でもない、ただ存在の許される存在。
 まるで砂漠で吹きつける風に奪われでもしたように、彼はいつしか成すべきことを見失い、体の動くままにすべてを成りゆきにしていた。
 しかしそれが、なぜか一人の男を助けた。
 もう何年かすれば回りの砂漠の砂にかわるだろう岩の陰に、一人の男が倒れていた。
 あたりにはぽつりぽつりと見える何体かの死体、日光を遮るための白い装束にある一点の赤い染み、うち捨てられた血のついた矢。
 おそらく隊商を襲って返り討ちにあった盗賊だろう、傷はどうも浅いようだが、強い日差しに脱水し衰弱しきっている。
 肌や唇はおろか目元も口のなかも乾ききり、手足を動かすも無理な様子で、目が陽に焼かれないようにそらし、おもいだしたように時折瞬きをするのが唯一生きている証しという有り様だ。
 わずかだがすぐそばの岩陰が日よけになり、体力の消耗を防いだのだろう。だがもう太陽が西に傾いているとはいえ、一日生き延びてどうするのか、まして底冷えする砂漠の夜をこせるのか、そう考える力も残っていない。
 その視界に、突然降ってわいたかのごとき人の顔。見慣れぬ東方の人間をどうおもったのか、だが助けを求める力もなければ、助けてもらおうとも考えつかない。
 ふと男が立ち去ったあと、日陰がなくなったとぼんやり考えたくらいだ。
 それから幾刻かがすぎ、男が次に目を覚ましたのは日が沈んでしばらくしてからのことだった。
 なぜかひろく深い穴の底で星空を見上げており、そばにはたき火があり、いましも目の前でなにやらやっているのは昼間のトンレンである。彼はそこらの死体から引きはがしてきた服で、昼間の日光をさえぎる天幕を張っていた。
 その作業が終わりたき火のそばにすわると、こちらが目を覚ましたのに気づいて、家畜の胃袋でできた水筒を差しだした。
 男も何気なしに受けとり口に含むと、潤いを渇望していた体の方がもはや止まらず、一抱えもある水筒の中身を全部飲み干してしまう。
 それで意識も真っ白になったらしく、差しだされる食料もがむしゃらにかぶりつき、気がついたのはようやく人心地ついて一刻ほど眠ったあとだった。
 男は星読みが出来るから、夜が深まっているのが分かる。トンレンは相変わらず、たき火の番をしていた。
「あんた、どうして俺を助けたりしたんだ?」
「さあ」
 という答えに、男が妙に感じたのは当然だろう、それがありありとしている態度なのだから。
「盗賊なんだぜ」
「知っている」
「治ったら、あんたを刺しちまうかも知れないんだぜ」
「返り討ちにしよう」
 その日の会話は、これで終わった。
 次の日、砂漠では毎日続いている灼熱の気候が、いくら天幕で日光を遮り風通しがよくなろうと、やはり容赦なく二人を襲う。
 ところが土地人である男が辟易しているにも拘わらず、トンレンはわずかばかりの汗だけで平然と寝ているではないか。なにか特別なものでももっているのだとおもったが、
「鎮繰、陰の呼吸法だ」
「俺にも教えてくれ」
「一朝一夕に覚えられるものではない」
 と、にべもない。そしてそれは夜になっても変わらず、男が毛布にくるまっているのに、東人は涼しい顔をしてたき火の番をしていた。
「あんた、名はなんていうんだ?」
「ウォン・レイホウ、字はシャオヘイ」
「アトサン・スーシだ。しかし医者にしちゃ、変な治療のやり方だな」
「正しくは医者ではない」
「じゃなんだよ」
「打活師」
「東の国には、妙な技を使うのがいるって聞いたが本当だな」
「針治療だが針がなくてな。正確に刺せば指でも応用できるのが分かった。礼をいう」
「へっ、そりゃどうも」
 そういってアトサンが毛布にくるまると会話はうち切られるが、次の日の昼間は口を開くのもつらいほどの熱波にあてられ、結局喋りはじめたのは、ウォンがたき火を起こしはじめてからだった。
「傷は、どうにか塞がったようだ」
「そうか」
「だけどなぁ」
 アトサンはそう呟いてから岩に寄りかかり、どことなく感慨深げに空を見上げる。
「助けてもらったけどな、正直なところ感謝はしてないんだ。俺の親は子供のころに使役にだされて死んじまってよ、生きるために盗みをしたんだが、ある日ドジを踏んで街から逃げて盗賊に入ったのさ。だが見ての通り使い捨てだ。仲間はかなわねえと見たらさっさと逃げやがった、いや、もう仲間じゃねえか。だからよ、こうして生きていることが居心地悪くて仕方ないんだ」
「私も似たようなものだ。ただ、私は人を生かすより殺すほうがひどく面倒くさく感じる。死にたくなったら自分で始末をつけてくれ、手のほどこしようがないほどにな」
 生死とか善悪とかを計っているのではなく、ただこの世のなにもかもから自分を切り離そうとしている、アトサンにはウォンの横顔がそんな風に見えた。
 とりあえずアトサンの傷が塞がったので、朝夕の涼しい時間は街に向かって移動することにする。
 昼と夜は移動した先で穴を掘り、寒暖をやりすごすのを何日もくり返し、水も残量の心配があったものの、底をつく前にはどうにか大きな都にたどり着いた。
 このころになると、アトサンの目は助かったときの空ろなものとはちがい、なにかしら決意じみたものを感じさせる輝きを備えている。それは都に近づけば近づくほど、強く、そして揺るぎないものに変わっていた。
「このあたりで、別れるとしよう。もう、会うこともないだろうな」
 そう口火をきった矢先、アトサンは何もいわずに、ウォンの前に両手両膝を地につき平伏する。彼の意外な行動に、さすがにウォンもすぐには言葉を返せなかった。
「礼などいらんぞ」
「あんたに、助けてもらったのはやっぱり感謝してねえ。だけど俺は、あのときに生まれかわったとおもいたい、いままでの罪を償ってみたいと、あんたを見ておもったんだ。俺を、あんたの下で使ってくれ」
 まるで祈るように頭を下げるこの元盗賊を見てどうおもったのか、ウォンは感傷を想い巡らすように一度目を伏せ、少しばかり寂しそうに遠くを見つめた。
「罪を咎むる意は、人をして善なるを知る所に有り」
 それを聞いたアトサンは、どう動いたものか計り兼ねる。それはウォンが故郷の言葉で喋っていたからだが、誰に語っているのでもないその独白は、彼自身に向けられたものだということだけは表情を推して知れた。
「で、俺は、その  」
 アトサンの言葉は、一帯に響いた悲鳴によってかき消される。見れば少し離れた場所でにわかに人だかりができ、医者をよぶ声がちらほらと聞こえたときには、もうウォンはそちらに向かって走りだしていた。
「あっ、ちょっと俺は? ったく、どうして俺の人生ってばこう、しまりがねえかな」
 彼がぶつくさいいながら後に続いたころには、人ごみをかき分けてその中央にすわりこむ少女の傍らに、のぞきこむようにして膝をついていた。
「大丈夫か?」
「あなたは、医者ですか?」
「そんなようなものだ」
 少女はそれなりの家柄なのか、心配そうにつきそう侍女が二人ほどうろたえている。
 ウォンの見たところ少女は呼吸困難に陥っており、それはすぐに肺の病を患っているせいだと理解できたので、とにかく処置を急がねばならなかった。
「アトサン、クスとメラン、それにパシュタラを粉末にして持ってこい!」
 刹那ぱっと投げてよこした銀貨に、アトサンはその意味を理解して顔をくしゃくしゃにした。
「それじゃ旦那……」
「早くいけ!」
「がってんだ! ちくしょう、どけどけ!」
 慌ただしく走りだした彼を尻目に、ウォンは少女の病の深さを読みとってひや汗を流す。恐らくここ数年のものではない、生まれながらにしての埃などに弱い肺病だ。
「治療は荒療治になる、よいか?」
 少女はこちらを見てはいないがもとより断れる状況でもなく、息苦しい仕草ながらも小さく頷いた。
 それを見てとるや、ウォンは少女の両脇腹をつかみ、親指を肋骨の内側に押し上げては下げる。侍女たちはなんやかやと回りで喚き立てたが、そんなことで止めて間に合う治療ではない。
 呼吸を助ける腹の筋肉の痙攣を抑え、ウォンは人心地ついた少女の上半身を正し、その両肩口と鎖骨の中央を人差し指で力強く突きはなつ。
 治療ではないのか、と誰もが疑い唖然とするのを無視して、ウォンは少女の襟を有無をいわさず引き下げ背中をあらわにする。
 女性が首以下の肌を人前にさらさない習慣の生まれだけに、これにはさすがに少女も体を縮め、侍女たちも肌を隠そうとしたり抗議したりと大慌てである。
 しかしなおも治療を続けるウォンの指先を見て、侍女たちはぎょっと目を見張り、背筋に寒気を覚えずにはいられなかった。
 それは筋肉や脂肪とはちがう柔らかくない部分、脊髄のそれに当てられた指は、第一間接までが文字通り突き刺さっているのだ。
「息を小さく長く吸い、止め、小さく長く吐きなさい」
 とはいえそれについて命や症状に別はないようだが、あれだけの抗議が、それよりはぴたりと止んでしまった。
「旦那、もってきましぎゃ!」
 アトサンが戻ってくるなり、頼まれものを投げだしそうになるくらい驚いたのも無理はない。いくら治療とはいえ前述の理由のなか、それを良家らしき女性を相手に衆人環視にやっているのである。
 そもそもこれが治療であると知っているのは、ここではアトサン一人なのだから。
 どうにも気まずく重い空気のなか、彼はせめてもと少女から目をそらしながら、
「もってきました」
 とつぶやいた。
「全部を混ぜて火を入れ、香にしろ」
「香って、こりゃ食い物ですぜ?」
「早くしろ」
 釈然としないながらもいわれた通り、やじ馬の一人から煙草の火を借り香にする。
「メイレン、この煙をゆっくりと吸いなさい。肺の隅々までいき渡るようにゆっくり、深く」
 少女がそのように煙を吸う様子からは、もう息苦しい気配などまったく見てとれない。あれだけ騒いでいる内に、いつの間にか治っているのに誰もが驚いたものの、それをした本人はいたって当然のごとく、少女の衣服を正してその背中を優しく撫でさすっていた。
「旦那」
「確かにこれは食物だが、香辛料には薬効があり、使い方次第であらゆる病に応用できる。本来なら食して日々の病を防ぐように使うが、いまはその暇がなかったのでこのようになった。メイレン、ご気分は?」
「はい、すっかり」
 ようやくこちらを向いた少女に、ウォンは安堵の笑みを浮かべながら、袖を伸ばしてその涙や鼻水を、もう一方の袖で薄汚れた顔を拭ってやる。
「これでメイレンが元通りになりましたな。病は根深い肺病とお見うけしました。これから街中を歩くときは、よく洗って天日に干した目の細かい布を口に当て、それを通し息をするようになさりなさい。決してご無理をしてはなりませぬ」
 いうなり返事も聞かずにすっくと立ち上がり、頭を下げ、そのまますたすたと歩きだすウォンに、アトサンはなにかいいたそうにしている少女と交互に見やってしどろもどろするばかりである。
「ちょっと旦那、旦那」
「私はレムシャエル・パシャと申します。お礼を、せめてお名前なりともお教え下さいませんか」
「旦那、旦那ってば」
「ウォンと申します。宿無しですからしばらくはそこらに巣くっていましょう、用件あらばお探し下さいませ」
 といって立ち去る彼に、驚き、または感嘆としていた人々は、その後ろ姿になんといっていいか分からず、礼を貰うとか家を探すとかいい合っている二人をただ見送るばかりであった。
 その奇異な東人医者の噂がアバンタール中にひろまったのは、彼らがここに到着してからほんの二日ばかりのことで、どこでどうきいてきたのか、空き家を見つけた矢先に患者が飛びこんでくる始末である。
 その噂というのもそういった類いのものには必ずつく尾鰭が、殴って治すとか、無くなった腕を生やしたとか、一度殺してから生き返らせるとか、異国人だとおもっていいたい放題である。そういう経緯から、半分の患者にはお帰り願う有り様だったのだ。
 しかしまた数日もたつと、今度はきちんとした風評が立つようになった。それと共に、今まで疑っていた人々が大挙して押しよせ、またも大変な混雑を招いたのだが。
 そのウォンは患者たちに、病気予防のために香辛料の使い方を惜しげもなく説き、それをいさめるアトサンの言葉を退ける。
「教えなきゃそれだけ金になるでしょうに」
「医の道は金子を以て語るべからず、人を知り、ただ仁を以て成す」
 といわれれば生まれ変わるといった手前、アトサンも閉口するしかない。
「それにそれ以上、香辛料臭くなりたくはなかろう?」
「それをいわれると弱いですがね」
 さすがに昔とった杵柄というべきか、香辛料をかき集めてくるのはアトサンの仕事で、そういった取引組合にどう入れ知恵したものか、大量にしかも安く仕入れてくるのである。
 そのせいかアトサンは都一の香辛料臭い男になりつつあったのだ。
 そんな日々が幾々と続いて数カ月が立つころ、ここの生活にすっかり慣れたウォンの家には、訪れる患者の数はめっきり減っていた。
 香辛料の調合に引き続き、数多の病気予防や治療の知識などをひろめているから、よほど重い病気でない限りは、ウォンに時々診てもらうだけでよくなっていたのである。
 もちろん昔から民間に伝わっているやり方はある。しかしウォンの教えるものはみな学問的で、正確な裏打ちあってのものであるからより効果的なのは当然のことだ。
 それもあってか医者の類にしては貧乏で、三度々々の食事には困らないが、貯めた金で集める蔵書も、読み終わると近所の学問所や習学所(学校)に譲ってしまったりと、狭い家が実に広々としていた。
 それについて不満がない訳ではなかったが、アトサンはだがそれでもいいのだとようやく分かってきた。自分がそうおもえばおもうほど、彼は他の人間の枠外にいる人物だということだからだ。
 ウォン自身もそれでいいと信じていたのかも知れない。
 いや、心底ではそれで救われているのだと信じようとしていただけかも知れない。
 そのおもいが破綻したのは、それから間もなくのことだった。
 はじめはとるに足らない、少しばかり急ぎの診療を頼まれたものだとばかりおもっていたが、到着するなり一足早く息を引きとったと知らされた。
「そんな馬鹿な」
 患者はまだ子供の少女で、生まれつき心臓の弱いところが問題だったのだが、まだ成長期でもあり、適切な処置ができれば人並みの生活ができる目測は立っていたのである。
「どうしてこんなことに。私の処置が間違っていたのか?」
 痩せ衰え衰弱しきって眠る少女に、ウォンは生気が抜けたように膝をつき、ただただ疑問をくり返すばかり。
「旦那、いま親類に話をきいたんですがね、税は払えねえ食い物はろくにねえってほどひどい有り様だったそうで。栄養失調ってやつですよ、旦那が悪いんじゃありません」
 だがアトサンの言葉にはこたえず、押し黙るばかりである。悪くないといってみたところで、それに気づかなかった自分を責めるような人間なのだから慰めにもならないだろう。 しばらくそのまま時がたつと、不意に表が騒がしくなるのがきこえた。
 立ち直れないくらいに気落ちしていたウォンは、娘がどうのと騒いでいるところからすると、急報を聞いて父親が戻ってきたとおもったのだが、どうも様子がおかしいので涙を拭って表にでる。
 すると目に入った光景に、状況を把握できずにしばらく呆然としていた。
 わめきたてる父親と、それを抑えつけ連れていこうとしている官吏が数人、それが往来のまんなかで口論となっているのだ。
 なにが原因かは分からないが、ともかく一時的にせよ、家に戻って葬をださせてやらねばならない。ウォンは臆することなく、そちらのほうへ近づいていった。
「もし、何用かは知らぬが、この者はこれから葬をださねばならぬゆえ、後日私が責任をおいて連れ上げるということで、本日はお引きとり願えぬか」
「なんだ貴様」
 この官吏たちの長だろう少しばかり年かさの男は、奇異な服装をした異国人を見て、めんどくさそうな風に顔をしかめた。
「その者の娘を治療していた者だ」
「ふん、医者か。貴様には筋合いのないことだ、口だしをするな」
「葬に割く慈悲もなしか? 是非なしか!」
「医者だかなんか知らんが、ならばこいつの滞納している税を肩代わりするか? 二千シーカにもなるぞ」
 ぎりっと、息がつまるほどの歯軋りをきいて、アトサンは背筋がぞっとする。そして後にも先にも、ウォンの心底からの怒りを見たのはこのときだけだった。
 なにが許せないといえば、この男がその理屈を当然のごとく口にしていることだ。
 税を滞納するというのは罪としてしかるべきものではある。その上ここアバンタールは周囲を強力な都市に囲まれ、安全を確保するために各都市に年貢金を払っているのだから、税が重いのも仕方ないのかも知れない。
 だがろくに交渉も行わず、ただただ保身のためにそうとり決められたのだとしたら、それが立法というのは間違いだ。アバンタール領主、ラクン・ハサット二世という人物はそういう人となりで、この都市の政治も、いつのまにか汚職と同義にまでなり下がっていた。
 おまけに金が払えないのならどうなるか。財産を没収してまだ足らないのなら、労働力として各都市に連行され、様々な使役に駆りだされるのである。
 それもどういった使役かは分からないが、相当の酷使を受けるようで、大半がそのまま帰らないか、半死人のようになるかのどちらかだった。
「なんなら貴様が使役を買ってでるか? 俺はどちらでも構わんぞ」
「人民搾取が立法か、終生因果の愚を犯すが役人か! 礼律無き地を治むるは、盗人跋扈するがごとしとはこのことか!」
「いうじゃねえか。貴様どうあっても俺たちの邪魔をしたいらしいな。おいお前ら、ちょっとこいつを黙らせろ」
 父親を黙らせ連れていくのに二人が残り、その他の官吏が数人こちらに走りながら、手持ちの棒を構えてウォンを囲む。それに対峙する彼はまったく物怖じせず、だらりと構えをとった。
「人命ことごとく国家盛衰の土台なり、これを腐し混弱しむるは即ち晩国の兆しなり」
 小難しい言葉を並べたてられて困惑したものの、ようするに自分たちがろくな役人ではないといわれたのを知ると、数人が一斉に飛びかかり、ウォンもそれに対抗すべく若干腰を落とした。
 しかし次の瞬間、アトサンに後ろから体を抑えつけられ、避けることもできないまま無防備な頭部に一撃を食らった。
「旦那早まっちゃいけねえ!」
 燃えるような痛みのなか、きこえるのはうめき声と八方からの罵声だけになった。
 それからどれくらい時間がたったのか、ようやく自分を認識できるころには日が西に傾き、気温も下がりすずしい空気が体を包みこんでいる。
 とはいえ顔をはじめ全身が熱を持ち、筋肉を少しでも動かす度に鈍い痛みが走る。役人が怖くて助けにもでれず、心配そうに遠巻きに見ている住人から目をそらすと、すぐ横には自分とおなじようなアトサンが倒れているのが見えた。
「何故邪魔をした? 奴らごとき瞬きする間に倒せたものを」
「旦那、俺は旦那が強えのは知ってたよ。もとは泥棒のはしくれだ、あんたの普段の足捌きを見てりゃあ分かるさ。だけど旦那、あんたは国ってもんを分かってねえよ。頭ぁいいが体で知らねえ。あんな雑魚いくら倒したってわんさかでてくる、いつか捌ききれなくなって逃げるしか手がなくなる。確かにこの領地は腐ってるが、やるならいきなり領主をやんなくちゃならねえ、それができない内は絶対に逆らっちゃあならねえんだ」
 意外にも、それへの返答は力無い笑い声だ。それを聞いてアトサンは、この一件で彼の心がねじ曲がらなかったのを知って安堵のため息をついた。
 二人はよろよろと立ち上がり、互いにもたれあいながらふらふらと家路につく。
 そしてその傷が癒えるころ、例の父親が死んだという風の便りをきいて、少女の母親が生きる望みをうしない自殺したという噂を耳にする。それを耳にすると、ウォンは心なしか悔しそうに目を伏せた。
 その夜、夕食を早々と済ませてさっさと片づけを終わらせると、ウォンはアトサンにでかける旨を告げる。
「珍しいですね、旦那がでるなんて。急ぎの用ですか?」
「いやなに、大したことではないのだ」
「こりゃまた。さては随分色気がねえとおもってたら、小気味いいのでも一人できましたか」
「まあ、そんなところだ」
 留守を頼むといってでていったあと、まだずるずる食べているアトサンは、内心なんだか嬉しそうにへへっと笑いながらスープをかきこんだ。
「そこらに女のいる俺とは毛色がちがってたが、ようやく旦那にも女の一人もできたか。あのレムシャエルって娘がどうもくせえなあ」
 といい終わってから、突然なにかをおもいだしたように青ざめると、アトサンはまさかとつぶやいて、皿をほうりだしそれが地につくよりも早く家を飛びだしていた。
 この日の星空は、格別に美しいような感じがしていた。
 澄み渡る空に珍しくも流れ星が幾筋か見え、いまこのときが特別なもののようにおもわれたからであるが、肌寒さもあり、老人は一度身震いをして部屋に戻る。
 やたら豪勢でだだっ広い室内の、一段高くなった上座にすわり、横の煙草入れからキセルを取りだし煙草を詰め、火をつけうまそうに煙を吸いこみ、この部屋に充満しろといわんばかりにおもいきり吐きだす。
 その煙が薄まるなか、老人は自分の真正面にすわっている人物を見て背筋を凍らせる。
 いつ、そもどこから、物音気配すら発さずにそこにいるのか。この都で警備厳重といえば、領主かこのサントラ・クルマンの館かというなかを。
 身震いはどうにもならないが、驚きはおくびにもださず、クルマンはその人物をじろりと睨みつけた。
「おれを殺しにきやがったな」
 その東方の異国人風の人物は、伏せていた目を向けると、クルマンの先手にはまるで動じずに真正面から見返した。
「此処に在るは天真君子にあらず。天下万民を虐辣しむるは、国家土台をないがしろに、我欲を貪り悪言雷同する輩、即ち人道を往かぬ輩跋扈するは、太平乱す下の下策なり」
 ウォンの言葉に、クルマンはふんと鼻で笑って耳を傾ける。殺しにきたのではないらしいと分かると、随分おもしろそうなネタだとおもわれたからだ。
「義を見てせざるは勇なきなり。仁を以て成さざるは奸、礼を欠くは不徳、律無きは災乱、即ち前途没する兆しなり。此の地、天地人より人の和を欠き、縦横無尽たる人道、奸賊跋扈し、仁道歩む天命の輩、地に埋もれ霧散するや現世に人在りや?」
 おそらく自分でも抑えがきかないのだろう、クルマンは全身に粟立つ感覚に酔いしれ、目を輝かせて仰々しくにやりと笑った。
「天下万民をして税重きに憂い、国家官々は無実の法を拝し、君主は我欲に重きをおく。時勢乱世の天下なればこそ、集心堅束し四面楚歌を打破し、没落を防がぬは興国無き廃墟、生ける屍のごときが往来する腐都となりましょう」
「そいつは困るねえ」
「如何に成すが万民前途の暗雲を払うか、官々職務の正を以て仁政を成すか、隣都同等に意を通じ、子孫安堵の情を成すか」
「さあてねえ、どうするね」
「天下奸賊を排し、相応の人を君主とし、その兵悉く掌握せしめるなり」
「そいつあ  」
「仁義礼律無き者は、天上八卦陰陽の言にて討つ。それ即ち天下王道を往く事なり!」
「賊か!」
 クルマンがその警護の者に気づき制止するよりも早く、筋骨隆々とした巨躯が踏みこみざまウォンに斬りかかる。
 だが次の瞬間、クルマンはキセルを落とし火傷を負うまで気づかないほど、長年世界の表と裏を見てきた彼でさえ驚愕のまま呆然となる。男は部屋の反対側まで投げ飛ばされ、天地逆の格好で白目を見せていた。
 そして真に驚くべきは、二回りも大きい相手を投げたにもかかわらず、この青年が中座になっている、しかも片膝をまったく動かさずに成したということだ。
「あいつはあいつの仕事を果たしただけのことさね、それともその両の目には逆賊にでも映ったかえ?」
 ウォンはそれには答えず、お騒がせをといっただけで膝を正した。
「おめえさんのいうことは一理ごもっともだが、そんなこたあちらっと歩けばいやでも当たるわさ。おれは一見お断りだよ、そいつを抜刀の下ここまできて話すようなことかい、洗濯女とでも洗い場で喋ってりゃいいことさね」
 驚きをふり払い、余裕をとり戻したように見えるが、まだ半信半疑なだけで内心では続きをききたいのだ。
「洗濯女の言や否や? 天下万民たらしむは天下に生ある故、それ言たるは誠にあれば即ち真理なり」
「ほう、そうくるかえ。だがね、洗濯女の言葉尻に命かけるなんざお断りだよ。おめえさん、そいつも埃と一緒に流しちまうつもりかい」
「元より  」
 眼前に、ウェンランの姿がよぎる。
「一度死んだ身にございます。ならば足下の真理とはいかなるか」
「釈迦に説法とはいうが、しっくりしねえじゃねえかえ? まるでおめえさん、おれが腹んなかに真理を溜めているみてえにいうじゃねえか。しょぼくれた隠居じじいを脅しにきたんなら、前置きが随分長えようだよ、どうなんだい?」
 きかれて、だがウォンは答え兼ねた。
 世情に憤激したとはいえ、感情的にならず正しきことをいっているつもりではあるが、この小柄な老人は底深く、世間話に耳を傾けているごとく飲みこんでいるように思われる。
 その沈黙を破ったのは新たな警護の者。さきほどの男の様子を見にきて室内を見るや、あっと声を上げて抜刀する。と、おもいもかけずクルマンより一喝された。
「べらぼうが! おめえの目ん玉は節穴かえ? 斬る斬らぬが分からねえ刀なら、ラクダのこぶ切りにでもやっちまいな」
 それよりそっちのやつを起こしてやんなといわれれば、男としてもそうするよりほかはない。ちなみにラクダのこぶ切りとは、無意味なこと、つまり役立たずということである。
 しかしクルマンは、そんなことはさっさと忘れたように、先程の問を改めて問い詰めるかの視線をウォンに投げかける。
「こと足下の風評人となり、故郷憂うその心中お言葉を人づてに知り、憂国問うに足る人物と見ました」
「ほう」
「足下にあるや財会党、我にあるや信武策。なお疑を以て相対する意義ありや?」
「無いものを互いに持ちあってるねえ。ごもっともだが、おめえさんがそうだとは限らねえ」
「それ将たる者には、必ず腹心、耳目、爪牙あり。我はもとより、その才知おぼしきを見出すもまたしかり」
「ほんにそうなら、確かに大助かりだあね。それはそうと、そこの盗っ人、こっちにきな」
 三人目の警護の者につれられて突っ立っていたアトサンは、取引の時に一、二度顔を見せただけで、いきなり盗っ人と見抜かれ度肝を抜かれる。この警護の者にしても、無理をおして案内してもらっただけなのだ。
「へ、へえ」
 何かしらぎくしゃくしながらそばにすわったアトサンに、ウォンは一瞥もしないが、心中ではひや汗をかいていたのではなかろうか。次第々々に、流れがクルマンを上にしてきているのだから。
「おめえ、腹ぁ切る覚悟はあるかえ?」
「とと、とんでもねえ。あっしは小者ですから、そんな度胸ありませんや」
「おめえの先生がよ、おれと組んでこの都全部を救いたいとこういってるんだが、いかんせん信用ってのは大事さね。仲間に命を投げさせる男なら信用もするが、どうだい、大義名分に命を投げるかえ?」
 ウォンは振り向きもせずクルマンを見据えたままで、アトサンにはその横顔だけがはっきりと映る。
 嫌な予感は的中していたのだ。
 香辛料を買いつけに駆けずり回るうちに、否が応にもクルマンの組織と関わりあいを持ち、彼らがやたらと情報を集めているのにピンときたアトサンが、革命でもやるみたいだとウォンに話していたのである。
 クルマンは確かに、その手中にある商業組織を使ってアバンタールの領主を代えようとしていたが、いかんせん商人の集団である。
 情報収集能力は格段に高かったが、どの情報をどれだけ集めればよいのか、どう使えばよいのか、指針も策も立たないために漠々濛々といまに至っている。
 事を成せば、必然的にサントラ・クルマンの名が残る。
 そのためには文武の学に明るい指導者がどうしても必要だが、とはいえそんな死に際を腹に含んでいるような弱気なことは口が裂けてもいえない。
 それはウォンもおなじである。
 間違ってもアトサンに死んでくれとは頼めない。心苦しくても黙っているよりほかはないが、ただで死んでくれとはいわず、用がすめば自分も腹を切るという確固たる信念がその横顔に満ちている。
 アトサンはなにかいおうと少し身をのりだしたが、躊躇して引っこみ突然、 「だぁ  っ!」
 と叫び立ち上がったかとおもえば、ふり返ってだんと腰を落とした。
「どうせ大将に拾われた命だ! こんな小者の命で満足ならこの首すぱっとやってくれ。痛くないようにな!」
 大見栄きってタンカを吐いたわりには、首を叩くその手がへろへろと震え、最後に本音がでるようならけっこう未練はあるのだろう。
「おめえ、そいつを斬んな」
 些事だといわんばかりにクルマンに顎をしゃくられ、警護の者も進みでるにはでたが、賊かどうかも分からないのに果たして斬ってよいものか躊躇する。
「斬れ!」
 半ば仕方なく、恫喝に後押しされる形で剣を振り下ろすが、まるでアトサンの首をすり抜けるようにして空を斬っただけだった。
 誰もが息を呑んだにちがいない。
 謎はあまりに簡単なものだったが、実際の行為は尋常なことではない。
 それはウォンが剣の腹を凄まじい速さと力で押して軌道をそらしたからであり、その証拠に踏みこんだせいでまたも片膝立ちになっている。
 言葉もなく、ただ彼は鬼になりきれない自分に、悔しさの表情で目を伏せた。
「やはりできねえかえ」
 どうしてよいのか、誰も動こうとしない。
 クルマンはおもい通りになって機嫌がよいせいか呵々大笑するなかで、ウォンは自身の力足りなさにがっくりと膝を戻し、アトサンは気をうしなってこてんと転がった。
「おめえさんに会わせたい奴がいる。おい、あいつをよんできな」
 警護の一人が走っていくがはやいか、クルマンは新しい煙草を詰め直し、腹の底まで深く吸いこんだ。
「そいつってな、まあおめえさんと同様にくせのある野郎だが、異国の言葉は分からねえからそれは汲んでやってくんな」
 がんと、金づちでぶん殴られたような衝撃。
 努めて冷静にいたつもりが、内々興奮のあまり故郷の言葉で喋っていたのだ。
 他国相手に商売をしてきたクルマンなら、東西数カ国語は話せよう、かけ引き以前にこちらの浅さは露呈していたのだ。ウォンは恥ずかしいやら情けないやらで顔から火がでそうだった。
 そうこうしている内に連れてこられた一人の青年。年はどうもウォンより若いようで、平凡だが人懐っこそうな顔かたちをしている。
「アムタエル・ハッサンといいます。ええと……」
 こちらの名乗るのを求めているのだろう頭をかいて愛想笑いする彼を、もし道行く人々が見たらおそらくそれには気づくまい。
 しかしウォンには、常人の気づかないその器の大きさよりも、器そのものの底知れない深さに感銘を受けた。
「姓をウォン、名をレイホウ、字をシャオヘイと申します」
 彼がこの一介の青年に対して膝を正し、頭を下げている姿を見たとき、クルマンを除いたほかの者はなぜそんなにもうやうやしくするのか理解に苦しんだ。
 実際、意識をとり戻したアトサンがその様子に驚いて、
「ありゃ誰なんすか?」
 ときかれた警備の者は、ただの反領主活動家と知っているにもかかわらず、
「誰なんだろうな」
 と首をかしげた程である。
 それはハッサン自身が一番感じていたことだろう。
 何しろあーだこーだと吹聴していて、官吏に睨まれたからここに逃げこんだだけの男であるのに、頭を下げた相手は人望、才覚、文武と揃い、町医者であるのがおかしな程の人物なのだ。
 しかしウォンにしてみれば、ハッサンは確かに文武なし、才なし、人望というよりはむしろ知名度すらまったくなしと見れるが、それ以外、即ち人々の上に立つ寛容さという点で自分を遥かに上回っているのである。
 人をまとめてゆく者は才ある者をうまく使えればよいのであり、それに秀でているハッサンを見たとき、ウォンは仕えるべき人をそこに見出したのだ。だからこそ、彼に対して礼をつくしたのである。
「まあまあ、そんなにしないで頭を上げて下さい。私はそんなに偉い者じゃないんですよ」
「見りゃ分かるわべらぼうが。そいつに礼をいいな、おめえのやることに力になってくれるとよ」
「本当ですか、いやあ、それは助かる。なにせここに来るまでも、衣食に事欠くほどだったもので」
「ですが三度頼まれねば、正直協力し兼ねまする」
「こ、こ、こやつ、希代の英雄になぞらえおったわ」
 してやられたとばかりに呵々大笑するクルマン、そして彼に言葉の意味を説明されやはり笑うハッサン。
 楽しいが涙が溢れそうな心情。
 友人とか仲間とか、ごく当たり前の存在がいままでの自分にどれほど欠けていたのか、その大切さを改めておもい知って、嬉しさのあまり言葉が嗚咽にかわりそうになる。
 恐らくウォンのいままではこれからのためにあり、すべてがここからはじまり、なにがしかを成していくのだろう。
 そのなかでふと入り口に見えた、切なそうな目元のレムシャエルの姿。
「先生」
 気がつくと周囲は驚くほど暗く、すぐ横に立っていたのはジョアンただ一人。
「食事ができましたよ」
「ああ、分かった」
 返事をしながら自分が家にいるのに、どうも眠っていたらしいことにようやく気づく。
 食事をとりながら、しかしあの時にレムシャエルはいなかったはずだとおもいを巡らせる。昼間のことがよほど気にかかっていたのだろうが、なぜあんなに切なそうな表情をしていたのだろうか、そしてそれが分かると、ウォンは悲痛さを押し殺すように目を伏せた。
(生きる意味を下さい)
 結局はおなじなのだ。無意味ともおもえる過去に苦しみ苛まされていたのは、ウォンだけでなく人としての生き方を欠いたレムシャエルもそうであり、唯一異なる点は、ウォンが存在意義を見出したのに対して、彼女はそれをうしなってしまっただろうということなのだ。
 自分にいまさら資格などあろうか。とはいえ、少なくともそれに足る希望は与えてやりたいとおもった。



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