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 それから数日後、ふさぎこみ、意気消沈の極みにあったレムシャエルの元に、見舞いの花が届けられた。
 いったい誰が届けたのだろうとレムシャエルは首をかしげ、花瓶に入れて彼女のそばに置く侍女にきいてみるが、もっと奇妙なことに差出人は名乗らないようにと釘をさしたというのである。
 当然そのおかしな見舞人に興味を持ったレムシャエルは、何度か聞きだそうとしつこく迫り、とうとう耐え切れなくなった侍女があたりをはばかるように彼女の耳にそっと打ち明けた名に、まるで人生に光明が差したようにやつれた顔をほころばせた。
「ラオシーが私に?」
「おそばに置くようにと。名をだしては意味が無くなるからと言われまして」
 この花に秘められた意味とは何なのだろう、瞳を潤ませながら、レムシャエルはこの嬉しさを終わらせないように努めて考えないようにしていた。
 そこへ見舞人がきたと侍女が伝えにくるが、そのすぐ後ろから入ってきたのは、少しばかり目尻がつりあがったきつそうな女性。
「元気だった?」
「クシャナさん。はい、たった今なりました」
 なんのことなのかまるで訳が分からないが、まあいいかともってきた果物やおもちゃやらをレムシャエルのベッドの上に広げる。
 彼女は侍女にとっては処置に困る人物ではあるものの、レムシャエルにとっては唯一の友人ともいうべきものなので、困ったように見守るのがいつもの習慣になっていた。
 彼女の名はアムタヤ・クシャナといい、サントラ・クルマンの数多い孫のなかの一人である。
 顔は少々きついが女っ気もあり、学にもそこそこ明るく、器量もいい。しかしそれをことごとく食いつぶすほどに、とにかくずけずけとものを言うのが、彼女の唯一にして最大の欠点であった。
 実際、結婚はしたことがあるのだが、その式の最中に、夫、およびその両親をことごとく激怒させたのである。初夜どころではない。親類が心配した通り、彼女は一月とたたずに実家に戻ってきてしまっていた。
 彼女自身、結婚が嫌だというのでもないが、その放言をうけ止められるほどの寛容な人物など、皆無に等しいだろう。そのことで親類からとやかくいわれるのに嫌気がさしたので、クルマンの屋敷に逃げこみ勝手に住みついているのである。
 レムシャエルと知り合ったのも、可哀想だからという理由だけで、まったく面識のない状態から見舞いにきたのがはじまりだ。
 もっとも彼女はどこの人にでもそうしていたから、特におかしい点があったわけではないが、その言動が災いしているのか、侍女たちには暇つぶしにきているようにしか見えなかった。
「花? ふーんシャーがねえ」
 花瓶の花をまじまじと見て、クシャナはあいつがねえとぶつぶつ続けている。
「きっと、私のことを気遣ってくれてるのだと思います」
「そうなの? この前ふっといて勝手ねぇ」 あまりに率直すぎる言葉に、侍女はあわててなにか言い返そうとしたが、きいたレムシャエルは悲しむどころか小さくふき出している。
「前に、ラオシーがいってました。女性の扱いは、ひどく苦手だって」
「ほんとシャーにも困ったもんよね、こんなにいい女がいるのに、まったく往生際が悪いったらないんだから」
 なんでか小難しい顔をしているクシャナを見て、それもなんだかおかしくてレムシャエルは笑いが止まらない様子。
 クシャナの頭のなかでは、ウォンはすでにレムシャエルのものだという認識が成り立っていた。
 というのも、彼女にとってウォンは弟の扱いで、字であるシャオヘイのシャでよぶのは彼女一人、ウォンも彼女のことを姉上とよび、そのいうことには逆らいづらい唯一の人物である。
「あの不器用はどうにかしないと。今度、小突いて夜中にこさせようか?」
「クシャナさま!」
 噛みつかんばかりの侍女に、冗談だってばとか半ば本気だったようなクシャナに、レムシャエルは久しぶりに心底から笑っていた。「くしゅん!」
 同時刻、街中を歩いていてくしゃみをしたのはウォン。
 珍しく仕事もないので、日和もよいなか、散歩がてらジョアンにアバンタールを案内しようと外にでたのだ。
 彼は大体は知っているからと断ったが、では散歩にいこうと連れだされたのである。
「あなたに神の加護を!」
「なんだそれは?」
「はは、くしゃみの隙から悪霊が入ってこないようにっておまじないですよ」
「ほう、西方ではそのようにいうのか」
 などと他愛ない話をしながら、二人は特に貧困層の多い地区に入っていく。
 散歩がてらとはいうが、彼にとってはこうした人々の様子を見て回るのも兼ねているのだろう。
 いろんな人々からあいさつをされ、またあいさつをして、煙草の吸い過ぎを注意したり、喧嘩の仲裁をしたり、どこそこの働き手がいるなどと仕事を斡旋してやりもする。
 それどころか悩みを聞いてやったり、金銭のやりくりにも誰彼となく紹介してやったり、若者には学問の質問にうけ答え、井戸が足りないといわれれば自ら図面を引いてやったりもする。
 一般人とは一線を画している人物。彼のなかでうまく言葉にならないが、それがジョアンが初めて会ったときからの、ウォンの印象である。
 いったい何者なのだろうか。
 尊敬に値する反面、軽蔑したくもあり、また親近感がありながら疎遠のようでもある。 冷徹で情熱家、策士であり楽観主義者、政治家のようなただの町医者、ことごとく矛盾していら立たしいのに何故か目を逸らせない。
 とかく不思議な人物だ。
 やがてふと入った誰もいない民家、その中央にぼんやりと立って、ウォンはどうしてかじっとそうしたままでいる。
「留守、じゃないですか?」
「いや、もともとここは空き家だ」
「じゃあどうしてここに?」
「昔この家に住んでいた子を診ていたことがあってね」
「よそに移ったんですか」
「死んだよ」
 平然としてはいたが、その寂しさを含んだ言葉に、ジョアンはとっさに言葉を返すことができなかった。
「流行病かなにかで?」
「栄養失調だ。重税でひどく苦しんでいたらしい、私も気づくのが遅かった」
「それでよそへ」
「父親は税のかわりに使役にとられて役死した、母親は絶望して自殺だよ。九苦災難の極みだな」
 ジョアンだってひどい話は知っているが、これはその中でもよりひどい方に部類するだろう。そういわれてみれば、うすら汚れた壁の染み一つ一つが嘆きによるもののようにおもえ、そしてより一層ウォンの背中は寂しそうに見えた。
「人の死が天命であるならばそれもよかろう。しかし彼らの死にどのような天意が? 少なくとも私はあの一家を忘れてはならないのだ、天意であればこそ、そうした意もあろう」
 自分にいいきかせるように語り、感慨に目を細める。やりきれなくなったジョアンがもうでましょうとうながして、二人はふたたび陽のあたる場所にでた。
 手近なところで昼食を食べ歩きながら、二人は階段を上り、アバンタールを見渡せる高台に立ってその風景を一望する。
 アバンタールはその北側を遠方よりの山脈から続く崖に覆われており、天然の要害としての役目を負わせ、雪解け水よりなる豊富な地下水によって潤っている。
 これがこの都を他の都市より重んじさせる要因の一つで、確固たる包囲戦ができない地形だからと正面決戦を挑むにも、相手がカリートルだからと尻ごみするという次第だ。
 自然、アバンタールは北より扇状にひろがり、南にいくほど低くなっていくという作りになっている。
 その南側を見下ろし、ウォンは清々しそうに深呼吸をして、おだやかな表情で美しいとおもわないかと問うた。
「そうですか? 私は故郷のほうが美しいとおもいますが。まああのタイル張りの礼拝堂は認めますけど」
 西方の白くきらびやかな建物を思えば、ジョアンにとってアバンタールに立ち並ぶものは美しさという点では格段に見劣りするだろう。
 確かに礼拝堂は色とりどりのタイルで幾何学模様をなし、類を見ないほどに美しく輝いているが、それ以外はレンガ造りに白い粘土質の化粧をしただけのものが延々と続いているのだ。
「西方の建物は大理石で造ったものもあると聞く。ははは、確かに私も故郷の方がよいとおもうが、そういうことをいっているのではない。このような厳しい土地にも、寡黙に生きる人々の強さがあるということにだ。もちろんご婦人もね」
「ご婦人ではなく、大臣の娘さんはでしょう?」
 ごまかすように咳をするウォンは、ジョアンにはまるで思春期の少年にしか見えない。「とにかく、それがいまや重税によって瓦解しようとしている。政治腐敗は末端まで浸透し、兵隊どころか親衛隊ですら利害によっては反乱し兼ねない状況だ。それで他都市の介入を招けば、いま以上に搾取されるのは目に見えている」
 そうきいて、なんだか意味深なものを含めた暗い予感に、ジョアンはどきりとした胸をおさえた。
 よく考えてみればウォンのいうところはもっともであり、領土欲に頼んで戦争をはじめようという君主は、世界中の至るところに掃いて捨てるほどいる。
 しかし彼の故郷は強大な国家であったから、常に戦勝国であり常に占領する側であり、占領される側のことなど考えたことなどない。
 そうして頭をもたげた疑問に、彼はウォンの背中を見た。
 なぜそんな話をするのか?
 聡明で見識も深いのだから、ジョアンがその理屈をすぐには理解できない、まして共にその腐敗と戦おうなどといわないだろうことは知っているはずだ。
 ならばなぜ?
「そんな話をするのですか?」
 愚問かも知れない。新たな疑問、この男は知っているのではないかという理由で。
「それは君が知っているのではないか?」
 見透かすような瞳、心臓に届く声。
 はっきりした理由もなく、ジョアンは目の前の自分より遥かに小柄な、年若い青年にうち負かされた気分に、ただ脱力感を感じて言葉を返せなかった。
 刹那それらの空気をすべて払拭する怒声が耳に届き、咄嗟に走りだしたウォンを少しばかり混乱したままで追いかける。
 そうして先程の貧困層の多い場所までくると、轟然たる罵声をとめどなく吐きだす群衆に阻まれ、それをかき分けていく間に周囲からラオシーと叫び声が上がる。
 後についているジョアンはその凄さにもみくちゃにされて正気に戻ったが、彼らのいわんとしているところを知って、この熱気のなかにありながら激しい寒気に襲われた。
 父親のいない家族、足の不自由な母親、税のかわりに今まさに連れていかれようとしている子供、それをなんとか助けてくれ?
(馬鹿いうな! こんな状況でまともに判断できるか!)
 前をゆく師の心中は、さっき話のあった家族のことが渦巻いているにちがいない。もし冷静な判断力をうしなっていたら、最悪で相手を殺してしまうかも知れない。
 一瞬だが止めようとおもった。が、ウォンは群衆が途切れたさきですでに官吏と対峙していた。
「貴様、町医者。よくもあの時は恥をかかせてくれたな」
 子供を連れていこうとしている官吏は三人。
 内一人が歩みよってくるその顔を、ウォンはいつぞや地面にはいつくばらせた連中の一人かとおもいだし、しかし男に対して深々と頭を下げた。
 意外な展開に群衆がざわめき、残る官吏は早々に退散したいのか男をよび戻そうとしていたが無視され、一方泣き叫ぶ母親をジョアンが必死に抑えつける異様な光景。
 いつ暴動がはじまってもおかしくない空気のなか、だがその背中から感じる限り、ウォンは不思議なほど冷静であるように見えた。「なんの真似だ?」
「その親子の税を肩代わりしましょう」
「駄目だな。使役の人数が足らないと上からいわれている。子供を助けたいか?」
 男はナイフを抜いてウォンの手にもたせると、その刃を自分の首に押しあて殺してみろと叫んだ。
「俺を殺してみろ! そうすればお前も使役に送ってやる、あのガキを手伝ってやれるぞ! 貴様はここにいる奴らの代弁者だ、奴らは殺せといってるぞ!」
「おいよせ! 騒ぎを大きくするな!」
 制止は用をなさない。事実まわりからは殺気を含んだ、狂気じみた殺せという言葉が怒涛のごとく連呼されている。
 だが男はやってみせろと息巻くが、ウォンは至極冷静にそれはできないとつぶやいた。「臆病者が。それならこれはどうだ?」
 様々に投げつけられていたもののなかから、男は大きめの椀を拾い上げ足元に置いて、今度はナイフの刃をウォンの手首にあてた。
「どうだ、貴様の血でこれを満たせばガキを見逃してやる」
「馬鹿よせ、なに考えてやがる、俺たちまで巻きこむつもりか!」
「どうする、貴様が死ねばガキは助けてやる。うまくすれば、貴様もガキも助かるかも知れんぞ。どうする?」
 ウォンの表情は、ここに至って初めて怒気を含んだものにかわっていた。なにに対してなのか、なにをおもったのか。
 次の瞬間、血しぶきをあげてのけ反った男を見て、官吏たちは驚きつつも咄嗟に一人が剣を抜き走りよる。
 あれだけ騒いでいた群衆でさえ絶句し違和感のある静寂のなか、官吏はウォンに剣を向けて、だが殺気のやり場がなくなるほどの肩透かしをくらって、呆然とするよりほかになかった。
 彼の手首からは鮮血がふきだし、したたり落ちる血は足元の椀を凄まじい勢いで満たしてゆく。その光景を見て、とり乱していた男は、自分のそれが返り血であることにやっと気づいてやはり呆然となった。
 不思議な光景。
 一人の男が血を流し、それを整然と見つめる大勢の人々。
 ジョアンは飛びだそうとする自身の体を、歯を食いしばって抑えることしかできない自分を、ひどく情けないものに感じた。
「人をして其を何とするや? 金子を以て人の和を乱し、人重を計り、かくや国家至宝たる礎の子を酷搾するは、天上八卦の法に背く畜生のごとき所業なり。如何な理があるや、仁義礼律なきは悪鬼覇道に同ずるものなり」
 椀が満たされたのに、群衆はすぐさま怒涛のごとく帰れと連呼するが、あまりの激しさと、逃げ道のない事実に官吏は右往左往するばかり。
 そのなかで群衆を抑えているジョアンは、ウォンを助けろと回り中から小突かれながら、師の背中と対峙していた男を見た。
 二人を、ひどく滑稽におもった。
 人は怒りを感ずるときも、喜びを感ずるときも、その対象に自分自身を照らし比較する。
 ウォンが怒りを感じていたのは、あの官吏のようにともすれば法により人を傷つけ兼ねない自分、男が疎ましくおもっていたのは、ウォンのように人から愛されるようになりたいとおもいつつ、そうなれない矮小な自分。
 どちらも大してかわりはしない。ただウォンの方が、少しばかり意志が強かったというだけにすぎない。
 それが群衆には伝わらない。二人に共通した一抹の葛藤に、寂しさとももの悲しさともつかぬものが。
「望み通り血を満たした、返答や如何に? 終黙無応は納得がいかぬが故か? 地を朱に染めるは渇望が故か? 盟約が重きを知らぬならそれもよかろう。幼命と引き換えならば、これも天命なり」
 刹那、右手を手刀の形に、躊躇なく左の脇の下を突き刺すと、手首からは頭上を越えるほどの高さまで鮮血がふきだし、ウォンと地面を朱に染め上げる。
 群衆の殺気は頂点に達した。
 それでもなお見据えるその瞳と轟々たる罵声に、官吏たちは怖じけづき、子供もウォンもほうりだして一斉に逃げだした。
 それらの姿が見えなくなるころ、子供は母親のもとに戻り抱き合って号泣する。
 それを見届けて安心したのか、ウォンはかすかに笑みを作るとふらふらと倒れこむのを、ジョアンは飛びだして滑りざまうけ止めた。
「やあ、すまない」
「なんて無茶をするんですか!」
 怒鳴りながら服の裾を破いて包帯をつくり、おもったよりも深いきずをきつく縛る。
「あの程度なら死ぬことはないと分かったからな」
 逆をいえば、血をふきださせたときは死を覚悟していたということだ、しかも躊躇なく。
「だからって軽率すぎます、先生の命はそんなにかるくはないんですよ」
「子供より重い命はない。それを救うに、仁道を往くに悔いがあろうはずがない」
 そういったかとおもうと、その双眸は意識をうしなうのとおなじ早さで閉じていった。
「医者をよんでくれ!」
 次に目を覚ましたとき、薄暗い、見慣れた場所に寝ているのが分かった。
 ああ眠っていたんだなとぼんやり考えながら、いったい今までどれだけ眠っていたのか分からず、ジョアンに抱えられていたのがつい先程のことのように感じられる。
 いや、抱えられていた。
 首に回っている腕の主を探すと、すぐよこにクシャナが眠っているのが見える。
 血液を大量にうしなって冷えきった自分を温めてくれていたのだろうが、しかし足までからめて抱えこんでいるのはどうにも抱き枕の扱いである。おまけに寝言が多い。
 ひどく喉が渇いていたので、なんとか彼女を起こさないように起きようとしたのだが、脱力しきった体ではままならず、意に反してクシャナは目を覚ましてしまった。
「ん、んー、くあー、あれ? 起きたんだ」
「すみません、起こしてしまって」
 起きあがろうとするウォンを、クシャナはなかば強引に引き倒してひざ枕をしてやりながら、良いことをした子供をほめてやるみたいに顔を撫でる。
「きいたわよ、大変だったって。あんまり無茶するもんじゃないわ」
「あの子供は?」
「大丈夫よ、あんたは心配しなくていいの」 彼女の口ぶりからするに、ほかの者がよくやってくれたのだろう。
 人の手が触れる心地よさに、ウォンは再びまどろみそうになりながら、遠くからきこえてきた足音が迫ってくるのに顔を上げようとして、暴れだした枕に下へほうりだされた。
「先生、気がつかれた  」
「でて行けくそ野郎!」
 クシャナの投げつけた置物は、入ろうとしたジョアンの顔面に寸分違わずぶちあたり四散。激痛と衝撃にもんどりうって倒れた彼は、あわてて逃げるように走り去った。
「まったく、シャーもなんであんな怪しい奴を弟子にしたのよ。なんで下で寝てるの?」
「暑いですから」
 だらだらとやっとのことですわりこんだウォンは、さすがにそうとしかいえない。クシャナはあっそうといっただけで、ふとなにかをおもいだしてその顔を覗きこんだ。
「レムちゃんが心配してたわよ、顔見せて早く安心させてあげなさい」
 さっきまで寝かせておこうとしたくせに、今度は顔を見せてこいという切り替えの早い姉になにもいえず、ただはあと返事ともため息ともつかぬものを吐いた。
 それから数日後、回復したウォンがまず向かったのは、カハトゥのあの料理屋である。 いつも通り奥の中庭にくると、旅人の格好をしていたが、珍しくアトサンの姿があった。
「まず彼の話を」
 カハトゥはどっこいしょとすわりながら、そううながしてから煙草に火をつける。
「あの兄ちゃん、旦那のおもった通りでさ」
「ジョアンか? やはり刺客か」
「詳しくは分かりませんがね。それよりも根っからじゃねえって方ですよ、どうも親を人質に強要されているみたいで」
「助けられるか?」
「居場所がまだ。ですが絞りこんではありやす」
「頼んだぞ」
 それから早々に立ち去ったアトサンの姿が見えなくなると、カハトゥは顔をしかめながら煙草の火を消し酒に手をつけた。
「ターレン、差しでがましいかもしれんが、あの男からは手を引いたほうがいいのではないか?」
「弟子を捨てろとおっしゃるので? 荷になるようでしたら初めから弟子になどとりませぬ」
「そうはいうが、我々としては少しでも障害をなくしたい」
「それは私もおなじです。しかしそういうことではありませぬ」
 ウォンの含んだ言葉に、カハトゥもおもいつくことがあったのだろう。組織のなかにも諜者がいるらしいのだが、いまのところそれを見つけられないでいるのだ。
「弟子とは建前にございます。私は、あれが最後の最後で必要になると考えてそばにおいているのです。刺客かもしれませぬが、保護すべき証人でもあります」
「証人とはなんの?」
「確認がとれておりませぬゆえ、ここでは控えましょう。それよりも取引のほうはうまくいったので?」
「言い値ではないが、前よりは上乗せしてある、奴らも不満はあるまい」
「必要に足りたので?」
「少しばかり足りないが、なに贅沢はいえん。いやこんなことより、もっと君の耳に入れなければならないことがある。それも二つだ」
 無意識だろうが、身を乗りだしたカハトゥの表情が妙に真剣になったのを見て、不謹慎だろうが、なんだかふきだしそうになる。
「はて、もはや関わりあいにならぬ私の耳とは、さてはまたも縁談ですかな?」
「冗談をいっている場合ではないのだ。一つはバジタヤとサイードが最近派手に立ち回っていることだ」
 この二つの名は、組織の幹部二人のことである。
 とにかく目立つウォンであるから、あまりカハトゥ以外の幹部とは関わりをもたないようにしているため、どちらとも一度しか会ったことがない。
「私も端々が目につくとはおもっていましたが、さりとて御老公は御存じのはず。ならばしばしは捨て置くがよいでしょう」
「確かにそうだろうが、最近は一層ひどくなったようにおもうのだ、いつ親衛隊に知られるかと心配でならん」
「していま一つとは?」
「南にあるササンガランに、どうにも不穏な動きがある」
「ははあ、領主が度々年貢金を欠いていることに業を煮やしましたか」
「知っていたのか?」
「この幾月か、使役にとられる者が目に余ります。不足分を手っとり早く穴埋めしようとのことでしょうが、それでは先はありませぬ。本来アバンタールは北方山脈の切れ目に位置し、東西交易の要たるもの、現在は年貢金とやらで先延ばしにしてはおりますが、交易としての地の利は莫大。弱体をして組みやすしが兵法ならば、機は相手方にありまする。覇道を唱える輩には、絶好の機を逃す理由はありますまい」
「手厳しいがその通りだ。誰の生活も困窮している。頼みの綱のパシャ大臣でさえ、兵がこうたるみきっているのでは戦などできるかどうか。複雑な気分だよ」
 カハトゥの心配はよく分かる。もし現在のアバンタールの領主、ラクン・ハサットを倒すために革命をおこすにしても、軍は邪魔以外の何物でもないが、とはいえササンガランに蹴散らされて占領されたのでは元も子もない。
 逆にササンガランを破ったとしてもやはり邪魔になり、降参などしようものならこちらの計画はすべてやり直さなければならないはめになる。
 それで組織の足並みが揃わず、おまけに情報も漏れているかもしれないとなれば、カハトゥの心労は並大抵のものではないだろう。
「ですが私にはなんともできませぬ。さきの騒ぎもあります、親衛隊に目をつけられているでしょう」
「君以外に頼れる者がいないのだよ」
「アムタエルに人を使わせるが上策にございます。一計は貴方が授けなければなりますまいが、頼りにはなりましょう」
 と、いわれた途端、カハトゥが難しい顔をしてううむと唸って黙りこんでしまうのを見て、ウォンも今度は笑ってしまった。
 アムタエルの良いところを彼も分かってはいるのだが、しかし人を使うのがうまいというだけでは信頼できない、というカハトゥの意見もあながち分からないではない。
「ではこうしましょう。情報収集と武器調達は引き続きそちらにお任せするとして、調理の下ごしらえは私が」
「そうしてもらえるとありがたい。それでよい方法はあるのか?」
「完全独立なるが上策、年貢金の減額を中策、玉砕覚悟の戦端を開くが下策とありますが。ただし上策は金を、下策は人を必要とします」
「どちらもどのくらい必要なのだ」
「金ならば五万シーカ、人ならば少なくとも百人以上」
「中策は必要なものがないのか」
「強い軍勢をもつのに必要なだけが必要となります。安くはありましょうが、今後体制をかえるのが易くありませぬ」
「ううむ」
 またもカハトゥはうなったが、今度はそれっきりになってしまう。
 そうなるのも無理はない。
 いま以上にやりにくくなるのは容認できないし、五万という金も、さきの武器調達をはるかに上回る額である。百人という人数も、それなりに信用できる人選となると、ひき抜かれては困る数字だ。
「革命とは、いかなると足下はお考えか」
「うん?」
「いえ、なにをもって革命をなすかとお聞きになったがよろしいでしょう」
 いまいちカハトゥには、彼がなにをいわんとしているのか分からない。
「智者は天に逆らわず、時に逆らわず、人に逆らわずと申します。また、よく将たる者は機に因りて勝ちを立つとも申します。時はいまだ至りませぬ、くれぐれも独走なきよう厳なる通達を」
「それじゃあ、君はいまの情勢になると予測していたのか?」
 だとすれば驚くべきことである。
 それを読んでいたとなれば称賛に値するものの、しかし当人ははぐらかすように笑っただけだった。
「よし分かった、なんとしても金を集めよう。なんとなればそれはとり戻せるものだからな」
 このカハトゥの返事も読んでいたのだろうか。彼はそうであるかのように、かすかな変化も見せずにかるく頭を下げただけだった。
 ちょうどその後、彼が家に戻るまでの間に、レムシャエルの部屋にはまた一つ草木が増えていた。
 そこそこにひろい彼女の部屋のにはもう十数本もの草木が並べられており、その空気の浄化作用によって、最近は心なしか咳などがおさまっている気がする。
 もちろんそれもあるし、一本増えるたびにレムシャエルの笑顔が増えているのも、侍女たちにはよく分かっていた。
 しかしカリートルは面白くない。
 この日もさっそく増えたのを見つけて、またかと苦々しい顔をした。
 誰がこんなことをしているのか見当はついていたが、侍女たちに誰だと問いただしても、レムシャエルにたしなめられるだけで聞きだせはしない。結局、
「そいつを枯らさないよう悪い虫に気をつけろ」
「は、ぷっ、はい」
「なにがおかしい!」
「お父様」
 といったやりとりを毎回くり返して、いかつい顔で口をとがらせて退散するのだ。
「やつめ、なにがそんな欲求は無いだ。あんなにこまめに贈り物など、下心がありありとしてるわ。いやいかん、冷静に、砂漠のように冷静にだな……」
 と考えて、これも毎回悩むのである。
 異国人であることと、少しばかり不可解であることを除けば、結婚相手にふさわしい人物であろうとおもうが、レムシャエル可愛さのあまり理屈抜きで大反対なのだ。
 反面、最近自分でも考えがまとまるようになったと感じているが、それに足る助言はその同一人物より与えられたもの。
 無骨と実直だけで生きてきたカリートルは、知恵熱がでるほど、その胸中は複雑なのである。
 しかし真面目な話、彼がいら立っている理由はほかにもある。
 アバンタールはすでに財政破綻の極みに達していると、金勘定のことなどカリートルには分からないが、財務大臣につまり金はないといわれれば納得できる。
「じゃあどうやって世のなかは動いているんだ?」
「金目のもので金があるように見せかけている。それでも年貢金で出る一方だからな」
 それでしだいに払いが滞っているとなれば、諸都市は黙っていないはずで、ササンガランを中心とした軍勢に占領されるだろうというところからカリートルにはよく分かる。
 だが重税で集めた金の大半は、ラクン・ハサットの懐に入り腐るほど溜めこまれているのに、この期におよんでも、さらに税を重くして対応しようなどといっているのだ。
 無謀にも、いい加減その懐から払えとカリートルは直言したが、
「なんだと? わしの金はわしのものだ、軍務大臣は戦のことだけ考えていればよいのだ」 と追い払われる始末。その上その仲裁に入ったのがラカンシェだから、よけいに腹立たしくて仕方がない。
 それで昼間からさっさと職務をほうりだして帰り、帰っては草一本でいらつくのである。
 そんなことを何日か続けているうちに、草と一緒に一枚の書が送られてくるようになった。
 あじな真似をとおもったが、どうやら恋文どころか、カリートルに渡してくれといわれたものらしい。
 しかし彼は学に明るくない。
 結婚の催促じゃあるまいなとぶつぶつ、字の読める使用人に読んできかせろとその書を渡した。
「兵は国の大事にて、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず」
 数秒の沈黙。
「どういう意味だ?」
「ええと、続きがあります。戦争は国の一大事であるから、それには万民の命と国家の存亡がかかっている。それを行うべき時には慎重に考え行動されよ」
 またも沈黙。
「つまりどういうことだ?」
「もう続きがないのですが」
 カリートルにはこの書にある言葉の意味と、この書を渡されたことの意味を、この時点ではまるで分かっていなかった。
 ところが次の日も書は届いた。またちがう内容である。
「百戦百勝は、善の善なるものにあらず」
 意味をきいたが、また分からなかった。
 しかし次の日もその次の日も、一日に一枚がかならず送られてくる。
「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」
「上善は砂の如し」
「柔弱は剛強に勝つ」
「これを望めば木鶏(もくけい)に似たり」
「君の読む所のものは古人の糟魄(そうはく)のみ」
「驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬(ど ば)も十駕(じゅうが)すれば、即ちまたこれに及ぶ」
「故にその速きこと風の如く、その静かなる こと林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、 動くこと雷霆(らいてい)の如し。郷を掠(かす)むるには衆を分 かち、地を廓(ひろ)むるには利を分かち、権(か)を懸け て動く。迂直(うちょく)の計を先知する者は勝つ。これ軍事の法なり」
 だがどれもこれもなにが言いたいのか分からない。そのうちに一日に数枚が送られてくるようになり、十日もすれば一冊分の量になっていた。
 なんの意味があるのだろう。
 これによってなにが得られるというのか、いいかげん怒る気はうせたが、ここまでくると逆に気味が悪い。
 それからさらに数日後、晩酌をもってきた侍女に、ふとレムシャエルの症状はどうかときいたところ、咳もなく良好だという。考えてもいなかった返答に、疑いたくなるくらいに驚いたほどである。
「治ったのか? 新しい薬でも手に入ったのか」
「いえ、その……」
「なんだ?」
「植物は空気を浄化する働きがあるとかで、部屋のなかでだけなら支障はないと。完治するわけではないと、そう言われております。あっ」
 気がついたがもう遅い。誰かにいわれたのを知られてはならないのに、カリートルがそれが誰であるかを知っているのにだ。
 しかし侍女が予想した通り、カリートルが怒りを爆発させる、ようなことはなく、意外にもそうかとつぶやいただけで終わってしまった。
「ここにあった紙切れを知らんか?」
「はい、私が預かっています」
「……なぜそんなものをとっておいた?」
「はい、かならずとっておくようにと言われまして」
 またもそうかとつぶやいただけで、それをもってこさせると、カリートルは一枚々々を壁に張りつける。
(剛ならば柔、激ならば制か)
 物事を感情的に考えすぎていたことに、いまここに至って初めて気づいた。
 レムシャエルの部屋にある植物一つをとってみても、そこには色々な意味が含まれている。この書一つ一つにも、多くの意味が含まれているのだろう。
(町医者が軍人になにを望む?)
 だが書から伝わってくるそれに、悪意は微塵もない。
「怒る者は常の情、笑う者は測るべからず」
「淵中の魚を知る者は不祥なり」
 新しい書はまた増えている。
 カリートルは不気味にもそれに見入ったままで、その日は珍しく、侍女は夜食をもっていくこととなった。
 次の日から、カリートルはどこかおかしくなったと、ハサットをはじめ、大臣たちも一兵卒から屋敷の使用人まで、彼をよく知るレムシャエルでさえそう噂するようになった。 どこが、という具体的なものではないのだが、ハサットに対して税金の話をもちだし、
「わしの金をどうしようとわしの勝手だ」
 といわれればさっさと退席し、急に部下たちと意見を交わすようになったとおもえば、突然ささいなことで怒りだしたり、街中でなんでもない雑用を手伝ってやったり、宮廷内の使用人たちに世間話をきいたり。
 ふたたびハサットに話をもちだして、今度は恫喝されると突然笑いだし、退席したかとおもえば庭園で仁王立ち。
「パシャ大臣は、頭がおかしくなったのではないか?」
 ここに至れば、それは疑いようのない事実として扱われていたが、逆にハサットは手をたたいて喜んだのである。
「これであの口うるさいのがいなくなった。しばらくはあのままでいてほしいものだな」「少々気の毒ではありますが」
「大臣になれない自分がか?」
「そこまで欲はありません」
 実際、大臣になれないことには不満もあったが、カリートルの次にはラカンシェが大臣となるのは、ハサットとの間ですでにとり決められているのである。
 確かに実直を絵に描いたようなカリートルよりは、話の分かるラカンシェのほうがいい。とはいえそのラカンシェ本人は、この事態をそれほど楽観的に見てはいない、というよりはむしろ警戒心を抱いた。
 カリートルは狂ってなどいない。事実を知らない者で、それに気づいたのはおそらく彼一人であろう。
 特に軍事に関係があるときには、それはより顕著になるからだ。
 あれだけ勇名を馳せた猪突猛進の徒が、戦術的な動きを訓練させているのである。ちかごろ抱えたショーエン・アルカッタという参謀が細かい指示をしているものの、結局はササンガランの動向を注視しているカリートルがやらせているのだ。
 どのていどか分からない。だがウォンが関わっていることだけは確かだろうと、それだけが明敏に判断を下させていた。
 一方その疑われている本人は、どうすればいいのかとレムシャエルが相談によこした侍女に、いきなりかるく笑ってみせた。
「なに心配することはない。大臣は人としてよりよくなろうと模索している最中であるから、今のところはいうことをきいてあまり干渉しないようになさい」
「はい。しかしレムシャエル様は、旦那様の行動が、もし信仰の戒律を破ったりなどしたらと心配しておいでです」
「安心するように伝えて下さい。そも戒律を破るようならもうしているはず。そうではなく信仰に相対する心構えを正しているのだと」
 納得がいかない顔をしながらも、侍女は不承不承に帰っていく。
 そうはいったものの、ウォンも正直なところ少しも心配がないではない。
 カリートルの人生において得難かった知識は、混迷濁々としたその心に一筋の光明のように感じたにちがいないが、その反面、それを信奉するあまり盲目的になってしまうおそれがある。
「上善は砂の如し。はは、まさか水ではなく砂ということになろうとは」
「なんですかそれは?」
 後ろでは木刀をもったジョアンが不思議そうな顔をしている。これから稽古をつけてくれることになっていたのだが、間が悪く侍女がきて中断していたのだ。
「砂は風で飛ばされてしまうほど無力で、形なくあらゆる事情により姿を変える。器に入れればその形に、積めば山をなし、周囲に合わせて千変万化する。しかし砂漠のように確固たるものになれば、その牙城は突き崩し難い。そのように変化をうしなわず、かつ己をうしなわぬ生き方は最上の人生ということだ。本来は水でたとえるのだが、こちらには砂しかないのでな」
「はあ」
 とジョアンは曖昧な言葉で、分かったような分からないような顔をする。もともと雄大な大河や砂漠がある地で生活したことのない彼には、それらの存在に対する実感がまるで湧かないのだから仕方がない。
 とにかく中断していた稽古を再開しようと、二人は庭先にでて相対する。
 しかし構えようとして、ジョアンはためらいがちに木刀を下げた。
「先生、一つ質問が」
「なんだ?」
「いままで指示はなに一つされなかったのに、どうして急に教えを下さるのですか?」
「君は学ぶということの意味をどう捉えているのか?」
「教えを正しく発揮することです」
「それならば教えを享受するのは、君という器でなくともいいことになる。万人のなかには君以上の才ある者もあろう。ちがうか?」
 こう言い返されては、ジョアンも内心おもしろくなくむっとした。
「人の歩む道はそれぞれちがうとおもいます」
「そうだ、先人の轍を踏むだけでは学んだとはいえん。学んで思わざれば即ち暗く、思いて学ばざれば即ち危うし、という言葉がある。確かに学ばねばならぬが、それを理解し体躯に宿らせ、己のものにしなければ学んだことにはならぬのだ」
「それでは別のものになってしまうのでは?」
「別にせよと言っているのではない、己のものにせよと言っているのだ。様々なものを師とし、日々学べ。たとえば私が本を読んでいたとき、なぜ君は後ろから共に学ばなかった?」
「それは  」
「理由はどうあれ、忍耐を身につけるにはよいのではなかったか。いわんや、学ぶとはそういうものである。剣は手の先にある道具にすぎん。たとえいかな名剣であろうとも、その者が暗愚で扱うに値しないのであれば、名剣なる輝きなど霧散し、ラクダのこぶ切りにも劣る」
 ここまでいわれれば、さしものジョアンもなるほどと納得せざるをえないが、とはいえ最初の疑問にはまるで答えていない。
 いや、それをふまえているからこそ、ウォンは長々と話をしたのだろう。そう、含んだ笑みが見えた。
「人はすべからくそうして学び、英傑なる者はすべからく英傑となる。しかし時間がない。君に教えねばならぬことは山とあるが、花が咲き、散るだけに相当する時間しか残されていないのだ」
 なにに対しての時間なのか。そう息をつまらせるジョアンの心を見透かし、断ち切るようにウォンは鉄扇を構えた。
「構えて、隙あらば撃ちこんできなさい」
 そういわれ構えはするものの、木刀と鉄扇ではあまりにも間合いがちがいすぎる。
「いいのですか?」
「きなさい」
 しかし踏みこんだ瞬間、木刀の剣先ははじかれ、その額に鉄扇が寸止めされている。
 いったいいつ踏みこまれたのか、いったいいつはじかれたのか、生まれ故郷でも名の通った剣士だった彼に、不覚にもそれが分からなかったのだ。
 できの悪さを叱責するかのように鉄扇がかるく触れる。そのつめたさに触発されてか、ひや汗がどっとでた。
「踏みこみが、まるで見えませんでした」
「見えるようになりなさい。剣士としての強    つまび さとは、詳らかにすればそれに必要なものは常人より上でなくてはならない」
 構えを解き、つかつかと離れていくウォンは、手近な小石をひろってジョアンにもそうさせてから、手前に投げてみろという。
 彼がいわれた通りにすると、すでに投げていたウォンの石が、ジョアンの石が手を離れるか離れないかのうちに胸に当たる。
「いまのが私と君の差だ」
「でも先生は先に投げてましたよ」
「君が投げようとしてからね」
「投げ方のちがいじゃなくて?」
「人にはそれぞれの速さというものがある。撃ちこみしかり、速きものが強きものでもある。強い風が速いのは分かるだろう。私は君が撃ちこもうとした瞬間とその先を読んで、最短距離に撃ちこんだ。自らを上回る速さのものを、人は認識できない」
「撃ちこむ瞬間を? それはどうやって分かるものなのですか?」
「こればかりは言葉では教えることができない、体得しなさい。人をはじめ、動物や草木、天地の間にあるものはすべからく気を発している。五感を研ぎ澄まし、四方よりの気を察し、その気に和となし同ずれば、相手の先手をとるなど訳はない」
「じゃあいつもの稽古は、そういったものに時機をあわせて動いていたのですか」
「風が吹くのや葉が落ちるのや、風鈴が鳴るのや、まあいろいろだがね」
「先手を……」
「合気に通ずればそれができる。相手の先気 を読め、先の先だ」
「先の先……」
 そしてウォンはふたたび構えると、ジョアンの欠点を見透かすようにじっと見据える。「今から私が撃ちこむ、私から一本とれれば今日のところは終わりだ。だがとれなければそのまま容赦なく撃ちこむ」
 ぐっと、ジョアンの顔も真剣味を増す。しかし一息も経たないうちに撃ちすえられ、早くも地面にぶっ倒れていた。
 それから何度となく撃たれ、ひざまずき、倒れては立ち上がり、立ち上がっては倒れる。
 しまいには何度そうなったかも分からず、意識は朦朧とし、体中がぎくしゃくしていうことをきかず、自分でも立っているのが不思議なほどだった。
 そしてふいにウォンをよぶ声がして、彼がそちらに気をとられたところにジョアンの一撃が迫っていたのだが、体中の痛みですぐには引けない。
(しまった)
 致命傷になるやも知れないとおもったが、ウォンはこちらを見さえもせず、何事もないように鉄扇ではじきすたすたと玄関に歩いていってしまう。
 我が目を疑いながらも、これで休憩できると安心して緊張がとけたのか、突然痛みが倍化して襲いかかり、立つどころか倒れたまま動くことができなくなる。
 自分の未熟さをまざまざとおもい知らされたが、いまは痛みでそれどころではなかった。
「大丈夫か」
「なんとか」
 返事ができたのはほとんど意地であるが、顔の向きを変えるところまではいかない。
「用事ができて出掛けねばならなくなった。自分で手当をして寝ていられるか?」
「できます、大丈夫です」
 ウォンにはそれが無理だろうことは分かっていたが、その意地を買ってなにもせず出掛けていく。
 その予想通り、それから必死に起き上がろうとしたジョアンだったが、ウォンが家をでてすぐに気絶してそれきりであった。
 しかしそれほどの先見眼をもちながら、目の前を歩く者がくることは、まったくといっていいほど予想していなかった。
 メッサド・ラカンシェの使いである。
 才智ある人物だと見抜いていたから、いままでの流れも革命分子のことも、自分がどういった者であるかもラカンシェにはほぼ筒抜けているとはおもっていた。
 これが策であろうことは分かってはいるが、表向き断る理由もないのに行かぬわけにはいかない。その細やかな策の弄し方に、以前よりも警戒すべきように察した。
 ラカンシェの邸宅は、彼が親衛隊長であるにもかかわらず、他の高給取りとは一線を画し、アバンタールのいわゆる裕福な地区の最南に建てられている。
 富を手にしたら必然と北へ向かうものだと誰もがおもうなか、彼は民衆に常に接し、ときとして施しもするために、周辺の住民や貧民の目には悪徳役人とは映っていないようだ。
 そのため、その小銭目当てに集まる乞食が、この一帯には多く見られる。
 それらも含め、ウォンを見かけた者たちは、この珍客にどちらかといえば好意的な興味を示した。
 それがラカンシェの狙いではあるまい。
 いや、正確にはそれだけが狙いではあるまい、というべきだろう。
 民衆の支持をとりつけるには、彼らに信頼されている町医者と仲がよいところを見せるという、これほど手軽で効果の高い術策はほかにない。
 しかしこれは副次的なものにすぎず、おそらく本意は違ったところにあると見ていた。 数多い英傑、奸賊の地に生まれ育ったウォンにとって、それだけのことが見抜けないわけがない。
 門をくぐり本宅に入り、奥に通されて寝室に入ると、ベッドに横たわりながらも、ラカンシェは少し顔をほころばせてよくきてくれたとまず礼を述べる。
 ウォンも一礼を返しながら、丁寧にあいさつを述べた。
「まあ堅苦しいことはなしだ。使いの者にきいているとおもうが、最近どうも体の調子が悪い。とにかくこう、体がだるくてな」
「私はこの地の医者とは療法を異にします。その法は医者になく、易く言い、打活師と申します」
「よび方はなんでもいい。とにかく診てくれ」
 親近感をもたせるためなのか笑みを見せるが、少々きつい目元ではそれもどれだけの効果があろうか。
 ウォンは静かに近づき、肌着一枚の彼の肉体をまざまざと見るにつれ、筋骨隆々とした骨格から繊細一途の剛の太刀とみた。
 初撃で敵を断ち、乱戦ともなれば一撃ごとに屍体を残し、その道をふり返れば屍山血河に極まるだろう。ジョアンの虚をつき幻惑を駆使して相手を屠る剣筋とは、まったく異にするものである。
 だがそれはおくびにも出さず、診察のために足をだすよううながし、足の裏を指圧してその具合をはかる。
「少々痛みがあるやも知れませぬ」
 その言葉にはたかをくくったが、予想以上の痛みに、ラカンシェはおもわず全身をこわばらせる。
「どうやら胃と肝臓がよくないようで。胃は心苦にてその支障をきたします、しばらくは職務を忘れたがよろしいかと。肝臓は油、酒、煙草につきますれば、不調なり際には控えたがよろしいでしょう」
「どちらもむずかしいことをいうのだな」
 治療のために体に指を突き立てるのに驚きながら、ラカンシェは努めて冷静を装いながら、おもいだしたように世間話をはじめた。
「そういえばお前は体術が得意だそうだな」
「柔術と申します。まだまだ未熟者ですが」
「私とやったらどちらが強いだろうか、手合わせしてみるか?」
「親衛隊長にかなう道理がありませぬ。さりとて剣を用いたとて、児戯に等しいでしょう」
「謙遜だな、官吏たちを相手に立ち回った噂はきいている」
 治療はもう終わったのか、ふいにウォンの手が止まる。乗ってきたかと、ラカンシェは内心ほくそ笑んだ。
「おそれながら、ご注進申し上げます」
「いってみろ」
「政(まつりごと)、市と刑にありと申します。民の商い成り立たず、刑罰重きはこの都に荒廃を招きましょう」
「いいたいことは分かる。だが私の任務は領主を守ることだ、政治への口出しはできん」
「重々承知の上にございます。しかしラカンシェ様だからこその忠告なれば、御領主も耳を傾けましょう」
「聞きはせんよ。それよりもそれだけの才覚をもってすれば、大臣ぐらいの職は勤まるのではないか? お前がやってみたらどうだ、それなら紹介してやってもいいぞ」
 もし本当にそうなるのであれば異例の抜擢だろう。
 なにしろ二十三の若者に都市一つの運営を任せようというのだ、誰もが承知しないことは予想できるが、ラカンシェにはウォンにそれだけの才能があるのは分かっていたし、なにより彼が必要であるのだ、という事実すべてをウォン自身読みとっていた。
 遠回しであるのは当然で、そしてこの誘いがウォンをよんだ本題であろう。
 実質的な権力をもつという魅力はあるが、しかしその策はどうしても承服できない。
「ご冗談を。歴々の大臣は立派な方々ばかり、私など足元におよびませぬ」
「そうか、残念だ」
 その後はたあいもない話をそこそこに、ウォンは頭を下げその場を辞した。
 使用人が渡そうとした治療代は、外の乞食にでもやってくれと手をつけずに帰路につく。
 心外だが、少しばかり焦りをおぼえていた。
 目的を達するにはラカンシェのほうが遥かに有利であり、障害も少なく、今度のように行動も大胆にとれる。ただ待てばよいのだから、どうこちらの虚をついてくるのか分からず、不安がふつふつと湧いてくるのを感じた。
(覇道豪傑にして策士か。やりにくいほどこの上なきに、肝心の人となりが分からぬとは)
 人の心理が行動を決すると、それを熟知しているだけに、過去のあいまいなラカンシェを相手にするのは少々分が悪い。
 彼は数年前まで、がらの悪い連中と遊び歩き、裕福な者のなにやら秘めごとをつかんでは、そうした連中とゆすりをして暮らしていたらしい。
 それがある日、捕まって牢屋に入れられると、神に悔い改めよといわれたとかで、突如信仰厚き好青年に生まれかわってしまった。
 誰もが信じなかったが、牢屋からでた彼が人々のために一所懸命になって働く姿を見て、少なくとも改心したのだと認められるようになり、仕官して出世し、親衛隊長にまで上りつめたのだ。
 ウォンはもちろんそれを信じていない。
 しかし事実はどうあれ、官吏はともかく親衛隊の評判が落ちたのはその後で、彼自身に悪評はついて回っていないのだから、表面上であれ、これを敵視して民衆に反感を抱かせるような真似はできようはずもない。
 だからこそ、ここでウォンが必要なのだ。 才覚は十分であっても、ラカンシェには莫大な富もなければ権力的な背景もなく、親衛隊長という希薄な権限は、倒壊寸前の領主と表面的な民衆の信頼のはざまで揺れている。 頼りになる友人も部下もない。
 頂点に立てたとて、それを下支えする人物がいないのだ。
 政治や軍事に明るいウォンがいれば、なんとでもなる。そしてウォンが頂点に立つような器ではないことは、恐らく見抜いているのだろう。 (しかし弊害、それ将たるは八悪ありというが、あの方も君子の器ではない)
 家に戻ってみると、ジョアンはまだ庭で倒れたままで、傷の手当をしてやってからベッドに寝かせてから、ウォンはまるで昔の自分のようだと笑った。



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