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それからほどなくしたある日、でかけたウォンを後ろからつけて歩く一人の男の姿があった。
知っている者の間ではス カ ラ ベ(ふんころがし)とよばれている。いわゆる密告者や密偵じみた素性であるが、有益な情報をよくもち帰るほど目鼻がきくためにその名がついた。
しかしたかが町医者とみくびっていたのかどうか、市場まできたはいいが、ある商店に入ったきりでてこないのを最後に見失ってしまう。
商店といえどもひろくない。裏路地に回ったのではないかと探してみるが、どこにも見失いそうな要素などないのだ。
やがて少しばかりひらけた場所にすわっている老人を見つけて、誰か通ったかききだそうとしたが、男は言葉を口にしかけてどうしようかと迷った。
正気ではなさそうな様子。
老人はあぐらをかいて水煙草を手にしながら、大口を開けて空を眺めているのだが、目が虚ろで口からよだれが垂れそうになっている。
痴呆の気がある、とおもいはしたがそれどころではない。
「じいさん、誰か通らなかったか?」
返事はない、というより微動だにしない。
「おい、じいさん」
おそるおそる念をおして、そこで諦めた。 ところがそうこうしているうちに、食料などを買いこんだウォンとすれちがい、それからふたたび後をつけて、家につくと何事もなくおわってしまった。
もともと買いだしなどはジョアンの仕事であったから、これ以後は滅多に姿を見せないウォンに業を煮やし、男の依頼主はさっさと他の仕事を割り振ってこの件は立ち消えになる。
しかし男は核心まで迫っていたにも拘わらず、まるでそれに気づかなかった。
その時ウォンは、この男以外にも二人の尾行がいるのを知っていた。
ではなぜ平然としていたのかといえば、商店の裏口からでた先に、あのボケ老人がすわっているからである。
一見して普通の壁に見えはするが、老人のすわっている場所の後ろには錯覚を用いた巧妙な隠し通路があり、熟知している者でないと存在すら気づかない造りになっているのだ。
ウォンはそこに入りしゃがみこみ、尾行をまきながら悠々と会話をはじめた。
「金は受けとりましたかどうか?」
「反対する者はおりません。我ら全員、あなたの命に従いましょう」
老人のこの歯切れのよい言葉をきいたら、正気ではないと疑った男はどうおもうだろうか。それほどこの老人の芝居は徹底的であり、老齢というだけでは説明のつかないいくばくかの卑屈さすらあった。
「それをきいて安心しました。仕事をはじめているのが一人だけだったので、実をいうと少々不安だったのですよ」
「もう一人はじめております。あとは指示通り」
「それはありがたい」
「それよりもなにか聞きたいことがおありなのでは?」
「ご老人にはかなわん。ラカンシェの過去が知りたい、なぜゆすりたかりで跋扈するようになったか。別料金かね?」
「大金をもらいましたが、本来なら別料金。しかし後々の面倒をみていただくとなれば、後払いということにしておきましょう」
「かたじけない」
「しごく明快なものです。両親は役人に斬り殺されましてな、父親は役人でしたが潔癖の性でして、煙たがられた上に物取りの仕業に見せかけて皆殺しです。あの男は武稽古にでてまして難を逃れたと、そういうことです」「殺しを指示した役人は?」
「この世にはいません」
「復讐か?」
「そんな高尚なものではないでしょう。ただ邪魔だからですよ、無能でしたからね」
「なるほど、覇道に刃向かうに自らも覇道に足を踏み入れたか」
「ターレン、情を移してはいけませんよ」
「生憎、そこまで器は大きくない。世話になった」
そういってきた入り口とは別のところからでて、頼んでおいた品を裏口でうけとってから何事もなかったように家路につき、ここから尾行が再開するがそのまま終わってしまうのである。
家に戻ってから、老人にああはいったものの少しばかりおもうところがあり、ウォンはほんの数秒だが感傷に浸った。
役人に少年時代を奪われたのは、ラカンシェもウォンもよく似た境遇であったといえる。
だが生きるためとはいえ、半ば自暴自棄になり悪事に手を染めたラカンシェに対し、ウォンは偶然ながらも尊敬できる師を得て、いまだ未熟ながら仁者たらんと生きている。
師がいれば敵対することなどなかっただろう、というような妄想を語るつもりはさらさらない。
たとえどのような境遇であったとしても、奸賊であるならば必要に処するだけである。当然この二人とて、天下万民のうちにいるおなじ境遇の一握りにすぎないのだから。
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。不遇は同情するが、奴が覇道を往くならば、私は王道を往くのみだ」
次の日から、ジョアンに対する稽古は、文字通り血反吐を吐くほどの凄惨なものとなった。
まず朝から昼までぼろ布のようにされたあと、手当と休憩をかねて夕方まで眠り、その間にウォンは診察、夕方から夜中までふたたびぼろ布のように徹底的に打ちのめされる。 稽古というのは名ばかりで、実は自分を殺そうとしているのではないかと、ベッドのなかでジョアンが疑ったのも無理はない。
しかし連続した立ち合いにより鍛え上げられる集中力と、莫大なまでの死の恐怖に対しての麻痺が、たかだか数日の間に、戦場をさまよったのとおなじだけの経験を彼の体に刷りこませていた。
それはあたかも、ウォンが師である重慶しか見ずに、自分の力量を計りちがえていたのとおなじくするもので、剣技はともかく体捌きは類をみないほどに成長していたのである。
「明日はどうするかね?」
寝る前にこうきくのが、最近のウォンの日課で、
「やります」
と返すのがジョアンの日課であった。
そしていままで感じてきたことが、このころからより確固たる気持ちにかわりはじめているのに、ジョアン自身が認めるようになっていた。
実力はあまりにもちがうものの、師とよぶには年若いこの青年に魅かれていたのだ。
優、厳、剛、制を織り混ぜたつかみどころのない人柄、それがどこへ行くのか、どこまで行けるのか、その行く末をいつまでも見ていたい衝動にかられる。自分の過去に関わる全てをふり払ってでさえ。
それができないことは分かっている。
鍛え上げたはずの剣先をどこに向けるかさえも、おもい悩み、苛まされ、定まらないまま濛々漠々としているのだから。
それから数日して、もはや限界だと察したからか、ウォンはジョアンに湯にでも入って養生するようにといい残し、クルマンの屋敷に向かった。
ジョアンは自分を気遣っているのだとおもっていたが、ウォンにとっては、どうしても外せない用件があったのだ。
ほとんど開かれることのない、組織の幹部会議に出席するためである。
早目にきたせいか、屋敷にはまだだれも到着していなかった。
とりあえずいつものようにクルマンの診察をし、治療をしてから、会議を開くまでのあいだに動かないように、ツボをついて眠ってもらう。
手持ち無沙汰になり、一人茶を飲んでいるところへやってきたのは、情けない疲れ顔のアムタエルである。
「早いですねターレン。はあ、疲れますよほんとに」
まるで子供みたいにぺたんとすわりこんで肩を落とし、冷たい茶を一気に飲み干して、全身が脱力したのかとおもえるほどのため息をついた。
実際、革命運動の先頭に立つアムタエルは、協力者であるクルマンやその組織の人間よりも忙しい。
革命をおこすほど疲弊した都市とはいえ、力をもちながら時流の分からない者や、目先の富と権力につられて保守たろうとする者は多く、その説得に昼夜を問わず東奔西走しているのだ。
「ははは、大変でしょうが、上の好むところ、下、必ずこれより甚だしと申します。上に立つ者が汗を流さねば、下の者は心服しませぬ」
「ひや汗はよくでますけどね」
「それでも構いませぬ」
ウォンはかるく笑うが、アムタエルは笑えない。今まで説得の下準備はすべてウォンがやっていたのであるが、そうでなくなってから途端に不備が目立つようになり、改めてその重要さが分かったのである。
「ターレンがいないと大変ですよ。でもまた三回お願いしても戻ってはくれないのでしょう?」
「私はどうしても人目につきますゆえ、それはできぬ相談にございます。しかしながら、その仕事が円滑になるよういろいろと手をうっております。そう落胆なさいますな」
「私もターレンほど才能があればいいんですけどね」
「同種同率では埒がありませぬ、組織には多種多様が肝要にございます。それに私にできぬこともあります」
「できないこと? ターレンに? いったいどんなことです?」
「知ってのとおり私には姉がおりますが、どうにも鞘におさまりませぬ。自由奔放ゆえ婚式にかたどらずとも、女としての生き方をさせてやりたいとおもいますが、それほど寛容な人物、そうそうおりませぬ」
「そ、それで?」
アムタエルの顔色、なぜか青い。
「私は器にございませぬのでなんともできませぬが、その人物がやっと見つかりまして一安心しているところでございます」
「そ、そうですか」
この地方の者にしては珍しく、褐色よりはるかに白い肌をしているアムタエルは、もはや青いというより土気色に近く、ひや汗もだらだらとたれ流している。
「ははは、どうしました、四面楚歌でもありませぬでしょうに」
「い、いやその、私はですね、決してその、やましい考えでは……というか断固たる決意でありまして……」
「責めてなどおりませぬ。人は合縁奇縁と申します、それに貴方以外にあの口は享受できますまい」
「はあ、そういっていただけると、なんともはや……」
「姉上を頼みます」
心底からの気持ちに、深々と頭を下げたウォンを見て、アムタエルは驚きのあまり息がつまり窒息するかとおもった。
前々から真面目で実直であるのは分かっていたが、改めて頭を下げられると、まるで一片の不備も許されないようで重圧が肩にのしかかる。
「いえ、その、こちらこそよろしくお願いします。でもどうして知ったんですか?」
「ははは、言葉にするは恐縮ですが、寝相が悪いと何度も話されれば知れましょう」
そうときかされれば、アムタエルは再び青くなる。この先こんな話をクルマンからされたときにはどうしようかと、いまからおもいやられてならなかったからだ。
それから世間話を少し、ようやく迎えにきた使用人に案内されて広間に入ると、普段はほとんど揃わない顔触れが一堂に集まっていた。
「遅くなりまして」
「おめえさんが一等先にきてんだから、そんなこと気にしなくてもいいのさ」
クルマンをはじめカハトゥはもちろん、幹部であるバジタヤとサイード、ほかにもいくつかの地区のまとめ役が何人か。
これでやっと全員が揃ったというところだが、すでに空気は少しばかり不穏なものを含んでいる。やはり強硬派のバジタヤとサイードと、慎重派のカハトゥという対立がそうさせているのだろう。
実際はバジタヤらの人数が多いものの、それほど強く主張できないのは、同じ幹部でありながらもクルマンとカハトゥの世話になってきたところが強く、二人の手前では語調を落とすしかないからである。
しかしクルマンがかなりの高齢になり、隠居が見え隠れしてきたいま、裏ではいろいろ手をひろげているのは誰もが知っていた。
「もうはじまっているようですが、いかな議題ですかな?」
「いつ決起するかというものだよ。彼らは早ければ早いほどいいと主張しているのだがね、ターレンはどうおもう」
「さりとて、それがいかな理由による結論であるか、まずはそれを説明いただきたい」
「つまりだ」
少々芝居くさい咳払いをしたのは、口ひげ顎ひげを問わず立派な、穏和な表情をしたサイードである。
「アバンタールは現在、ササンガランの脅威にさらされようとしている。それに対して軍備も増強するだろうから、その前にやらなくては勝ち目などなくなってしまう」
そうだそうだと賛成の声が上がる。それに便乗してか、いつもしかめっ面のバジタヤが続けた。
「そもそも準備は整っているのだ、なにを足踏みする必要がある」
ウォンはそれらの意見をきいていちいち頷きながら、終わってからクルマンの顔色を見やる。
「おめえさんが軍師なんだ、きっぱりといってやってくんな」
「ならば申し上げましょう。早ければとの意見は、的をえているといえましょう」
ほらみろ、と一気にまくしたてようとした強硬派を、ウォンはしかしと遮った。
「早いだけでは善しとできませぬ。善く戦う者は、これを勢に求めて人に求めずと申します。いくら民衆のほうが数に勝るとはいえ、しょせんは烏合の衆、パシャ大臣をてこずらせることはありますまい」
「ならばどうするというのだ」
「軍を敵にはできませぬ。ましてササンガラ
ンの不穏なるいま、それを混乱せしむるは
一敗地塗 (いっぱいちにまみれる)となりましょう」
「ではいつ事をおこそうというのだ!」
「私に一計がこざいます。御老公のお許しがあれば、誰が声を上げるでもなく、決起する日を用意いたします」
「きいてみねえことには分かりゃしないさね。とりあえずいってみな」
「いえませぬ」
ほんの一瞬だけ沈黙があり、すぐにも室内は騒然となる。
それはしごく当然の反応だ。なぜいえないのか、信用できないというなら一体誰が信用できないのか。
「御老公の前でいえないとはどういうことか! ここに裏切り者でもいるというのか!」
「謀は密をもってなすと申します。裏切り者がいるとは微塵もおもっておりませぬが、間者が居ぬとも限りませぬ」
「そんなもの、ターレンの弟子が一番怪しいではないか」
これにはカハトゥをはじめ、アムタエルもどきりとした。二人ともまさかウォンが裏切るとはおもっていなかったが、ジョアンに関してだけは助言できるだけの説明をもらっていないのだ。
しかしそれに対して弁明するわけでもなく、ウォンは突き抜けるような大笑いで一笑に伏してしまい、これには騒いでいた連中も言葉につまってしまった。
「あれは怪しいなどというものではごさいませぬ、正真正銘の間者でございますよ」
「なんだと!」
「ただし私の反間(二重スパイ)にございます」
全員がまたも沈黙。
彼らは基本的にいまでも商人であるので、ウォンが使うような、兵法用語とでもいうべき言葉はまったくといっていいほど知らない。
だからいつも理解できずに反論が腰砕けになったり、計画の立案から進行まで一切の口出しができず、カハトゥ以外の幹部連中は、一定して意見がまとまらず足並みが揃わないのである。
「あれがおりませぬでは私も情報を集められませぬ。またそうとなってはさきほどの下準備も、とうてい用意はできますまい。さて決断は二つに一つ、私にすべててをまかせるか、私を外すか、どちらかでございます」
全員の視線がクルマンに一斉に注がれるものの、彼は別段たいしたことでもないものを決めるみたいに、ほとんど間髪をいれずに好きにしなと言い放った。
「はなっからおめえさんの決めてきたことだ、いまさら引っこめるなんざ野暮ってもんさね。お前らも心配するんじゃねえやな、大の大人がみっともないったらありゃあしないよ。一等目をつけられてる奴が、いまさら寝返ったからってなにが得なものかい」
クルマンにこういわれては全員が閉口するしかない。確かに現場で労しているのは彼らではあるものの、策に関しては一度として使えるものを提言したことなどないのだから。「では私のやり方でやらせていただきます。皆様よろしいですね?」
念のためと見せかけて承諾を得るのは、こうした際の常套手段である。
バジタヤとサイードが信用ならないいま、こうしておけばクルマンかカハトゥになにかあっても、少なくとも制止力になるからだ。
当然、カハトゥはすぐに承知したが、バジタヤとサイードはしぶしぶといった具合に承諾する。
最後にアムタエルは、
「私は頭が悪いですから、全部ターレンにおまかせします」
と軽薄に笑った。
「私になにかあるといけませんので、念のためにいくつかの方法で知らせるようには致します。ご安心を」
「分かった、では以上で終わりだ」
カハトゥが閉会を宣言すると、誰かに怪しまれぬよう全員がまばらに帰っていく。そのなかでここに住むアムタエルは別として、ウォンだけがクルマンの体の具合を気にして残る。
もっともそれはただの口実である。
二人以外に誰もいなくなった室内で、クルマンとウォンは初めて対峙したときのように向かい合う。
そして話の内容を察しているのか、いつも不敵な笑みを絶やさぬ老人は、どこか年相応の表情を見せた。
「どうせあの二人のことだろう? 飼い犬に手え噛まれるかも知れねえなんざ、ざまぁないやね。金に目えくらむうちは、まだよかったんだがねえ」
「そのことですが、反骨ありて勇を惜しむと申します。専欲にとらわれておりますが、惜しむべき才にございます。策は万全ゆえ、天下安泰なる日まで捨て置きますように」
「おめえさんがそうしろってんなら、俺あそうするさね。しかしこうしてるとあんときをおもいだすねえ。ここまでやれるなんざ正直おもってなかったが、このまんま終わってくれりゃあ、あとはおめえさんに任せて隠居したいよ」
「私は器にありませぬ。将の将たるは、目下アムタエル一人にございます」
「しかし不思議なもんだねえ。俺んとこに転がりこんできた野郎が天下をとろうっていやあ、それとじゃじゃ馬の孫が一緒になろうってんだからよ。男と女の縁ってのも分からねえものだねえ」
「ははは知っておりましたか、まさに合縁奇縁でございます」
「それはそうとおめえさんのほうはどうなんだい。あれの弟になったんだ、正真正銘俺の孫だからね」
「正直、はじめはお断りしましたが、いまは迷っております」
「べらぼうだねえ、たまには色恋の本でも読んだらどうかえ」
「どうも、無骨ゆえ」
「まあいいさね、あいつらを頼んだよ。目え離すとなにやらかすか分かったもんじゃねえやな」
「ははは、意見は合いますが、目のうちにあってもききませぬ」
「全く、ちいとも可愛げねえやな」
二人して軽く笑うと、そこからは会話がぴたりと止んでしまう。
本題に入ろうとしているが、どちらからも切りだせないのだ。だがそこはやはり年の功か、クルマンがさらっと口を開けた。
「おめえさんのいいたいことは分かってるよ、とうの昔に覚悟は決めてあるさね。それよりおめえさんのほうが心配さ、これからだってえのに一人でしょいこむなんざ、他の野郎があんなにべらぼうじゃなきゃ楽させてやれたんだがね」
「これまでの恩義は、言葉にかえられませぬ。誠心仁義にて、必ずやお返しいたします」
「おめえさんの腹の中あ策と仁義がつまってるんだろうがよ、それはここにはありゃしねえ、おめえさんもここにはいやしねえんだ。そいつははなっから知ってたさね。礼をいいてえなあ俺のほうよ。おめえさんに会えてよかった、心底そうおもうよ」
ウォンは言葉もなく、ただ頭をたれるのみである。おそらく誰がきいていたとて、その根底の意味は二人以外分からないであろう。
しかしこれをきいている人物が一人だけいた。
アムタエルである。
彼はクルマンにクシャナのことをどう話したものかと、ウォンに相談しようとよびにきてたまたま聞いてしまったのである。
そしてそのあまりに真剣な口調に、立ち聞きしてしまった罪悪感からすぐに忘れようとして本当に忘れてしまったために、後日になって二人のこのときの心情を知る者は、永久にいなくなってしまった。
それからかわりなく数日がすぎた。
強いてかわったといえば、ジョアンがそうではなかろうか。
彼はこの半月あまりの修行の成果で、以前とは見違えるほどに成長し、生傷の数も極端に減っていた。
それこそ幾度となく死に際をさまよった成果であり、体捌きはウォンにして、
「呉下の阿蒙にあらず」
といわしめた。
「ありがとうございます」
と礼は述べた。だがそれが褒められたのだとは、はるか後になってから知った。
しかし依然として剣技は稚拙なままで、強くなったとする印象は、体捌きの分が上乗せされているからである。特に重心移動が良くなったので、虚をつくのに磨きがかかっていたのだ。
カリートルも相変わらず、午後には部屋に籠もって書を読み、その言葉のいわんとしているところを理解しようと努めた。その甲斐あってか、このごろは誰かから陰口をたたかれるようなことはなく、むしろよくおちつき、貫録がでてきたと評判になっていた。
それを知ったハサットはまたも手をたたき喜んだ。この金の亡者は、それが覇気のなくなったためだと考えたらしいが、それで起こりうる弊害までは頭が回らなかったようだ。 ラカンシェも特には動かない。それこそ一時の平安が続いていた。
ウォンは相変わらず、レムシャエルに植物を送り、それを隠蓑にしてカリートルに書を渡していた。
あまりやりすぎるとレムシャエルの部屋が植物園になってしまうので、最近は数日おきにし、その代わり書の数は反比例して膨大な枚数になっている。
そしてそれらをいつも敷地外でうけとるのは、少し前から屋敷に入っているナクターシャという侍女である。
彼女はこの地方の女性には珍しく学に明るいほうで、父親が学者だったとかで自然におぼえたものであるが、その才知を買われてカリートル付きの侍女として働いている。もちろんウォンの書を読むのも彼女の仕事である。
「レムシャエル様にはお会いにならないので?」
「はてさて、毎回困らせてくれる。女性の性分は分からぬゆえ、なにを話してよいのやら。それに建前にも差し出し人は不明、言を残すのもはばかられる」
「旦那様も承知しておりますよ」
「だとしても。それはいいとして、大臣のほうをよろしく頼みますよ」
「はい」
そういって彼女が書を大事そうに抱えながら戻るのを見送ってから、ウォンは都の南側に下って回診をはじめた。
もうこのころからこの界隈には、病人ではない、しかし健康ではない人々があふれかえっていた。
理由はごく単純で、金がないから食料が買えず、栄養失調で体調を崩す者が多いのである。薬でどうにかなるものではなかったから、自然ウォンを頼るほかにないのだ。
その数があまりにも多いので、ウォンは指圧の方法をゆく先々で教えて歩いた。もはやそれ以外に大量の患者をさばく方法がないからだ。
「はてさて、そうと知れればアトサンは職を失うと嘆息するだろうが、医は仁術ゆえ、これも仕方あるまい。それより飢餓多きが気にかかる。余計な死人がでる前に、なんとか事なきを得ればよいが」
そう現状に対しての葛藤に、ウォンはこのごろよく苛まされている。
革命が早く成立すれば飢餓者は減るだろうが、時機を早めてそれが失敗しては元も子もない。悪くいえば、手出しのできない者は見殺しにするしかないのだから。
その帰りである。
通りを歩いていると、クシャナがこちらに向かってくるのが見えたので、あいさつをしようとしたが、そんな暇もなく問答無用にひっ張り回される。
「ちょっと姉上、なんなのですか? 自分で歩きますから離して下さい」
「そんなことどうでもいいから手伝いなさい、人手が足らないのよ」
「分かりました、分かりましたから離して下さい」
そこまでいわれて初めて気づいたようにあらとつぶやいて、クシャナは自分がつかんでいるウォンの三つ編みを不思議そうに見つめてから、物憂げにぽいと手放した。
「まったく、人に頼らず自分で歩きなさい」
姉上それはないでしょう、とはいわず、素直に気をつけますとだけ返しておく。興奮した彼女になにをいっても通じないのは、身をもって分かっているからだ。
「それで手伝いとは?」
「お手伝いをすることよ!」
今日は帰れそうにないなと直感した。
向かった先はクルマンの屋敷。その裏口から入って荷馬車を勝手口に回し、屋敷からいくつかの袋をかつがされ荷馬車に積みこんでから、それを引いてふたたび貧困区に向かう。
そうしてある場所まできたとき、クシャナは回りの人々を集めて、食べ物を配るから皆をよんできなさいと言い放った。
といってもきたそばから食料を求めて集まる者が多く、前々から彼女が屋敷のパンを勝手にもっていくときいていたが、やはりここかと納得する。
しかしここまで堂々と、かつ大量にやりくりするのは初めてだろう。
配るといってから、はたとそれに気がついた。
「鍋がないわ」
「竈(かまど)もありませんよ。だろうとおもって屋敷の者に大鍋をもってくるよう頼んでおきました。竈の方はレンガで即席に作ればよろしいでしょう」
クシャナはウォンの顔を見て、少し考えてからまた見て、また少し考えてから首をかしげた。
「私、シャーにいったっけ?」
「小麦粉、豆、姉上の来た方角をつなげれば、おのずと答えはなりまする。人手も足らぬのではありますまいか?」
回りを見渡すと、なるほどウォン以外に誰もつれてきていない。まともに動ける者がこの辺りにはいないというにも拘わらずである。
「それも手配しておきました。では作業にとりかかりましょう」
「あれ、レンガは?」
「ありまする」
ふり返ればそこにはもうレンガが山積みされている。いまの話をきいた人々が、あわててかき集めてきたものだ。
「シャー」
「はい」
「あんた気がきくわね」
「姉上ほどではございませぬ」
いいつつ、ウォンは早くも竈造りにとりかかっていた。
ここはアバンタールのなかでも特に貧困のひどい地区で、住人は食料が乏しいというのではなく、その日を生きていくのが精一杯のほとんど見捨てられた場所なのだ。
まだこの住人の数百人ですんでいるものの、アバンタールとササンガランの情勢を見込んだ他都市の商人が交易を見合わせている関係で物価が上がり、危機感を抱いた有力者から食料の買い占めに走っているので、必然その拍車のかかったしわ寄せがここで済む保証はどこにもない。
誰かが助けなければ、彼らは今日にも命を落とすかもしれない。
だが本来救いの手をさし伸べるべき役人は私腹を肥やし、同様であるはずの教団も一緒になって食料をしまいこみ、その機能をはたしていないのだ。
唯一クシャナのみがその役割を果たしているが、クルマンの台所事情も決していいわけではないものの、彼女の行動を黙殺しているのである。
一部の信者のなかには、クシャナには神のつかわした精霊がやどっているのだと信じている者もいて、それは教団から疎まれる結果になってはいるものの、彼女はそんなことを気にせず働いては、皆の母親のように慕われているのを喜んでいた。
彼女が望んでいるのはそれだけだったのかもしれない。
ただ寂しさを埋めるためにそうするなら、しばらくすればアムタエルがとってかわるだろう。そしてもうすぐ、こんな心配はしなくてすむようになるだろうとウォンはおもった。
そう信じていた。
しかしそれが破られたのはその夜中であり、家に到着して間もないときであった。
「姉上が?」
「とにかく、ターレン早くきて下さい」
ウォンをよびにきた若い者は、精悍な顔つきをしわくちゃにしていまにも泣きだしそうにしている。
状況がそれほど逼迫しているのだとおもい、無意識のうちに全力で走りだす。
クルマンの屋敷につくと、警備の者の案内が早いか、滑るように奥座敷に上がりこむ。 部屋に入ると、十数人の若い衆が一斉にこちらを向くなかをかき分け、アムタエルの抱えるクシャナのそばに膝をつき、その腹部一帯の鮮明な朱に、なにか言葉をかけようとしていたにも拘わらずそれをうしなった。
「いいんだよシャー、心配しなくてさ。皆もそう。だってさ、結婚できなかったのに、こんなにいっぱいいい男に囲まれてるんだもの、私、ほんとはいい女だったんじゃないかってさ、おもうよね……」
ふと戻りかけた意識で一気にそう喋り立てて、力つきるようにふたたび意識をうしなう。
室内に緊張が張り詰める。嫌な、体のなかにある刺のような緊張が。
ぼろぼろと泣きじゃくるアムタエルが、祈るようにクシャナの手首をおさえ、誰もが悲痛な面持ちとおし殺した嗚咽のままそれを見守る。
医者がくればなんとかなるかもしれないという一縷の望みにすがって。
だがその念が強まるほど、反対に彼女の命が薄まっていくようにも感じ、やがて鎮まり霧散し消えうせていく。
しんとした静寂を、アムタエルの慟哭が打ち破る。
それで誰もが知った。彼女がふたたび目を開くことも、口をきくこともないのだということを、その温かさが永遠にうしなわれたのだということを。
ウォンにもアムタエルにもクルマンにも深い関わりのあるクシャナは、しかし屋敷の若い衆にとっても姐御であり、貧困にあえぐ人々にとっては神の使いだった。
「すみません、俺が、俺がちゃんと姐さんを守れなかったばかりに、俺が悪いんです! 俺が……」
そばにいた男は右腕の肘から下がない。真っ赤な包帯のその腕が憎いかのように床に打ちつけ、泣き叫び、謝り続けた。
貧困区の配給は、日暮れからかなりすぎてようやく終わりをみせた。
どうせ明日もやるだろうからと、鍋などの上にテントを張ってそのまま思い々々に家路についたのだが、ウォンはクシャナを送らずに一人でわざと遠回りに帰ったのである。
警戒し、あわよくば遭遇を期待していたのは、ラカンシェよりの刺客か、或いは使いの者である。まさかそれにクシャナを巻きこむわけにもいくまいと考えていたのに、結果論として完全に裏目となったのだ。
クルマンは憔悴しきった表情でうなだれていて、アムタエルはただひたすら泣き叫び、若いものは嗚咽をおし殺すように泣いている。 やがて一人が立ち上がって部屋を飛びだそうとするのを、ウォンはまるで知っていたかのごとくふり向きもせず制した。
「どこへいくつもりだ!」
「決まってるじゃないですか、姐さんを殺した奴をぶっ殺しにいくんですよ!」
「そうだやっちまおう!」
「姐さんをこんなにしたんだ、ただじゃおかねえ!」
「ふざけるな!」
室内が憤然としかけたところを、ウォンの恫喝がそのすべてをうち消した。
立ち上がっていた何人かと、立ち上がろうとしていた残りの者は、ウォンの言葉がまるで信じられないといった表情で呆然としている。
無理もない。クシャナの弟である彼が、仇を討とうとしないとはおもわなかったからだ。
「どういうことです、ターレン。やったのは親衛隊のマルムーサだって分かってるんだ」
「そいつの怪我だけじゃねえ、姐さんを守って一人死んでるんですよ」
「あいつらをのさばらしといたら、姐さんがうかばれませんよ!」
「如何な理由があろうと敵討ちなどまかりならん! ここで不和にあい決起にはやまれば、それこそ奴らのおもうつぼだ」
「ターレンは、姐さんが死んだってのに悲しくはないんですか、悔しかあないんですか!」
「いまその道を誤ってどうする。姉上の死を無駄にせぬためにも、ここで堪えるよりほかあるまい。それとも、姉上の心苦の根源であった貧困の民をこれ以上増やそうとでもいうのか!」
そんなことは誰もが分かっている。
この計画が失敗するようなことになれば、ササンガランに占領されて、圧政の下敷きになって全滅は免れまいということなどは。
だがそれでも、そうと納得などできない、体中に充満する衝動を抑えることができない。
「もしでてゆくとなれば、口出しができぬようまず私を倒してからゆけ」
ゆらりと立ち上がったウォンの体術を知っているだけに、全員がおもわず尻ごみをしかかったが、それを押してなお、彼に飛びかかっても屋敷を飛びだしたい衝動に呑みこまれそうになる。
「馬鹿者どもが、なにをしている!」
しかし一触即発の均衡を抑えたのは、事態の気配を察して飛びこんできたカハトゥの一喝だった。
「でも 」
「うるさい! こんなときのこんな場合に騒ぎを起こすやつがあるか! いったい一番悲しいおもいをしているのは誰だとおもってるんだ!」
彼の恫喝もそうとうやかましかったが、カハトゥの言葉をきくうちに、若い者たちの憤りはどこかにふき飛んでしまったらしい。
確かにクルマンやアムタエルを見れば、いまクシャナのために悲しんでやらなければ、いつ彼女のために泣けるのだろうとおもえてくる。
あとはただ、嗚咽だけが部屋に満ちていた。
朝方、東の地平から光が射し始めるころ、ジョアンはかすかな物音に目をさました。
テーブルに突っ伏して寝ていたので、しびれていた腕をさする少しの間に、音源は庭に通りすぎているようだ。
「先生」
だが立ち上がって歩きだそうとしたその肩をつかまれ、ふり返るとそこには殺意じみた表情のアトサンが立っている。
「お前は外にでてろ」
問答無用のそれに、ジョアンは驚いたままの表情で、なんの感情も抱かずに表へとでた。
アトサンのあんな表情を見たことはない。色々な用事で出入りしていても、あんな内心の露骨な表情は。
その彼が庭にでると、一本だけ生えているマテバの木の下に、すがりつくようにして泣いているウォンの姿があった。
その泣きっぷりがあまりにも壮絶だったので、彼を見たとたん、アトサンの怒りも悲しみも肩代わりされたようで、妙に肩から力が抜けていた。
「旦那、旦那はよくやりましたよ。あそこで騒ぎを起こそうもんなら、なにもかも終わってたでしょうからね」
「私は、あの時になにもいってやれなかった、姉上に言葉をかけてやれなかった。あまつさえ泣くこともなく、謀(はかりごと)を最優先させた」
「きっと姐さんだってそう望んでましたよ」
「ずっと、何年もの間、仁者たらんと生きてきた。それがどうだ、唯一の親類が死に涙無く、その今生の死に際に言もなく、あげく敵方に知られぬよう葬儀もとり行うなとは! 私は、人ですらないのではあるまいか」
慟哭に身をまかせるウォンに、アトサンはそれ以上なにもいわずに、ただ黙ってすわっていた。
カハトゥの言葉を知っていたわけではないが、一番悲しかったのはウォンにちがいないだろうとおもっている。
他の者はクルマンかアムタエルだろうとおもったはずだ。しかし泣くこともできず気丈にふる舞わなければならないウォンの心中は、張り裂けんばかりの荷袋といっしょで、他の誰よりも限界に近かっただろう。
そしておそらく、涙を流すのは後にも先にもこれが最後だろうから。
その次の日から、ウォンはふたたび以前とおなじような生活をはじめた。
クルマンの屋敷もなにごともなかったかのように動きだし、クシャナは病気として食料の配布も他の者がかわり、周辺の誰に知られることもなくただ時だけがすぎてゆく。
ただアムタエルだけが、魂のぬけがらとなった体でぼんやりとすごしていた。
「どうです、たまには外の店にでもいって食事しませんか?」
それからほどなくして、クシャナの死を受け入れられるようになるころ、どことなく震える声でそうジョアンが珍しく誘いをかける。
ウォンもさして用もないので、ジョアンのいううまい店とやらに、彼の後についていく。
途中、乞食の格好をしたアトサンが心配そうな顔で見ているのを見つけたが、
『心配するな、いまの仕事を優先させろ』
と合図を送って追い返す。
二人が向かったのは街の中心にほど近い場所で、周囲の通行も激しく、活気もあふれているように見えるが、ここらへんにジョアンのいうおすすめがあるとはおもえなかった。 というのも兵士や官吏の宿舎がここより北に集中しており、そのせいで界隈では無銭飲食やいざこざが絶えずにおこっているのである。
とかく権力がすぎれば、人は堕落するという見本市のような場所だ。
「随分と歩くのだな」
「え、ええ。でも物が不足しがちですから、いい店は少ないでしょう」
「そうだな」
ウォンのなにげない言葉に、ジョアンは震える声でひどく動揺したように答える。
その後は声を発するのもおそれるように、目的地につくまでついに一言も話さなかった。
「ここです」
彼のいうおすすめの店とは、ウォンもその名前は知っていた。だがそれは味がどうというものではなく、役人、特に親衛隊の者が昼間から飲んだくれているという悪い話のほうでだ。
過去にどれだけのことがあったのか、おおよそ知ってはいるものの、彼は黙ってジョアンの後について入る。
席につくと、先客でいた数人の親衛隊に早くも目をつけられ、応対にきた給仕も、ウォンの顔を知っていたからひどく驚いた様子で注文をきいていた。
「とにかく料理はそちらにおまかせするとしよう。先に水をもらえるかね?」
「ラオシー、悪いことはいいません、店をかえたほうがよろしいです。役人たちは貴方を煙たがっていますから、あの親衛隊のやつらになにをされるか分かりませんよ」
「なるほど。だが私たちは食事をしたいのだ。ならばというのであれば、早めにすませて早々に立ち去ろう」
給仕はまだなにかいいたそうであったが、自分も巻き添いをくうおそれからか、それ以上は言葉をつなげずに奥へと消えた。
「珍しい奴がいるぜ」
給仕が消えてすぐ、あからさまにきこえるような大声で、こちらを酒の肴にしようという口調が耳に届く。
親衛隊の者は六人。どれもこれも風体は盗賊あがりに近い。
領主を守る親衛隊は、実はその規律や力量に照らしあわせてそうよべるのはほんの一握りでしかなく、後は単なる埋め合わせにすぎない。
では本物はどうしたのかといえば、前領主から仕えていた者の大半は、ラクン・ハサットのやり方につき合えず離反しほかの都市に飼われ、神の名におく社会正義を信じる者は弾圧されるか懐柔されたのである。
どのみち残っているのはろくでもない連中ばかりで、本物といえどその精神は本物ではなく、年功序列の仕業でしかない。
「異国の医者は手だけで病気を直すっていうが、本当なのかねえ」
「それどころか女の患者は丸裸にするって噂だぜ、役得だよな」
「俺も医者になりゃよかったぜ」
下卑た笑い声が、静かだった店内をにわかに騒々しくさせる。
ジョアンはむっとして睨み返したが、ウォンはでてきた水を涼しい顔で一口含んだだけだった。
「相手にするな」
「しかし先生」
「あの程度の挑発しかできない輩だ、大したことはあるまい。それにあの六人を一人で相手にできるのか?」
「できます」
「ならばその瞬間まで感情は伏せておけ。敵に先気をとらせてどうする」
正直、六人のうちの一人だけは相手にする自信がない。しかし勢い公言してしまったのは、自分はあれから強くなっているという自負によるものだ。
その一人は他の五人とはちがい、少しばかり整った格好をしているが、反対に人間味というものを大きく欠落しているような、命そのものを値踏みするような目つきをしている。
剣技だけならラカンシェに並ぶと目されている、タハリク・マルムーサである。
「おまけになにを勘違いしたのか、医者に弟子入りした剣士がいるって噂だぜ」
「悪いところをばっさりやってくれるんじゃねえのか、ラクダのこぶ切りみてえな剣でよ」
再度の下卑た笑いは、ジョアンが立ち上がったために遮られる。
それこそ乗ってきたとおもったらしい相手は、驚きもせずただにやにやと腹黒い笑みを浮かべていた。
「どうしたい、お前が見せてくれるのか?」
「よせよせ、どうせすぐ医者に泣きつくはめになるぜ。治せるかどうかは知らねえけどな」
「よせ」
乗り出そうとしたジョアンを、ここに至ってまだ冷静なウォンが制する。
「止めないで下さい。ここまで馬鹿にされて黙って 」
「店の迷惑になる。表でやりなさい」
一人で相手にできるといい切ったのだ。なにをかいいたげなのを呑みこんで、無論ですとだけつぶやいた。
「表へでろ! そんなに見たいのなら見せてやろうじゃないか!」
「おう、おもしろい見せてもらおう」
「みものだぞ、いかないのかマルムーサ」
奥で酒をあおっていたマルムーサは、仲間にそういわれても、さもつまらなそうに酒を注ぐ手を休めなかった。
「見るほどの価値もない」
「だろうな。ま、ゆっくりやってくれや」
六人がぞろぞろとでていくと、静かになった店内に、初めは笑い声やら応援ともつかぬ中傷がきこえていたが、やがてそれらは罵声にかわり、いつの間にか怒号と叫び声にとってかわっている。
しかし残る二人は相変わらず静かに、マルムーサは酒を飲み、ウォンはでてきた料理を関心しながら食べている。
「ラオシーいいんですか? お弟子さんが殺されてしまいますよ」
「なに、いいのだ。ここで死ぬようであれば、どのみちこの先も強くはなるまい。それより名が通るだけはある、ぜひ調理法を習って帰りたいものだ」
「そんなこといってる場合じゃないでしょう」
「ははは、しかし私はこのナンとかいうもので具をつかむのが苦手でね」
「ラオシー!」
怒鳴ってからしまったとおもったのだろう、おそるおそるマルムーサのほうを見て、彼の流れ作業が滞ってないのに胸を撫で下ろす。
そこへ外からいましがたでていったはずの一人が、少々の切り傷と、蹴りをくらったらしい跡を顔にうかばせて、入ってくるなりマルムーサの名をよんだ。
「お前も手伝え! あの野郎ただもんじゃねえ、話がちがうじゃねえか!」
すると仕方なさそうにのっそりと、マルムーサは立ち上がるやゆらゆらとおぼつかない足取りででていく。
だがウォンはまだ食事を続けている。
とはいえ男の言葉は聞き逃さなかった。
「ラオシー」
「さて、腹も落ち着いた。いくらになる?」
「いいですよ、あいつらにいられるよりは安上がりですから」
「なるほど、では代金分の働きでもするかな。調理法は、またいずれあらためるとしよう」
そういいながら、さも散歩にでもいくような足取りでウォンは店をでてゆく。
最初の戦況は、ジョアンが圧倒的に優勢だった。
ウォンにいわせれば、剣技がいまだ稚拙だとはいえ、彼直々の仕込みを徹底的に体に染みこませているために、まずもって相手の剣はかすりもしない。
遊び半分だった彼らがそれに気づいたときには、すでに二人が負傷し、残り三人で囲んでも返り討ちにあう状況になっていたのだ。 そこへマルムーサがでてくると、無傷で多少なりとも息が上がっているだけのジョアンは、それに対峙するように歩を進める。
さすがに威圧感のある敵だけに緊張の糸を張り巡らせたが、ここに至って、ジョアンは酔っていた。自分自身の剣にである。
慢心が戒められるべきものだとは十分教えられていたにも拘わらず、やはり五人を相手に片手間で足りる実力をもつという興奮で忘れてしまったのだ。
それを知ってか知らずか、マルムーサはやはり冷静なままだった。
「お前とやりあうつもりはない」
「おいマルムーサ」
「騒ぎをおこしたのはお前らの勝手だ。俺に余計な仕事をさせるな」
「なんだと」
「一人くらいどうにでもなると言ったのはお前たちだろう」
いわれると五人はたじろんだ。
そうするとジョアンにもやっと話の流れがつかめてくる。
マルムーサの目的はウォンを殺すことであり、挑発してきたのはまずジョアンをたたき、ウォンがでたところでマルムーサがでる手筈だったのだろうが、こちらの実力がその予想とちがい手順が狂ったのだ。
「このまま引き下がれるか。あんたも相手になってもらおう」
ウォンの手をわずらわせたくないというおもいはあるが、手を借りたくないという気持ちもある。
「まあいい、酒気を抜くにはちょうどいい」
マルムーサは長めの曲刀をすらりと抜き、一見やる気のなさそうにだらりと構えた。
もちろんジョアンとてそのていどで気を抜くことはない。背の高いうえに腕が長い彼の間合いが、分かりにくいことは承知済みだったからだ。
しかし斬撃がはじまったとたん、その実力差は素人目にも明らかなほど、二人の差は歴然として一方的だった。
実際にはジョアンのほうが動きも機敏で、速さもマルムーサを上回っていたが、いくら虚と実を織り混ぜた幻惑的で苛烈な攻撃だろうと、あまりにも直線的なために攻撃の予測がついてしまうのである。
つまり慣れた者ならば、どんなに速かろうととるに足らないことなのだ。
何手か刃を交わしたが、すぐにも決着はついた。
ジョアンの突きをかわしたマルムーサが、彼の胸を袈裟斬りに斬っておとし、深手を負ったジョアンはすぐにも立つ力をうしなっていたのだ。
「ざまあみやがれ!」
仕返しをしてやろうと数人が剣を振りかざしたものの、その前にウォンが割りこむ。
「どけ!」
後ろからばっさり、となるところを、ふり返りもせずひょいとよけたウォンの横から、その男たちはあらぬ方向へひょいひょいと跳ね、なぜか地面へとたたきつけられる。
ある者は激痛に苦悶し、ある者は打ちどころが悪かったのか気絶していた。
「おやおや」
さもいまになって気づいた様子のウォン。マルムーサはそれを見て鼻を鳴らした。
「この界隈は官舎に近いわりに、道が悪いようですな」
「そうらしいな」
ウォンが投げたとおもえるが、そうした動きは誰も見ていない。
男たちは納得いかないが、それを口にだせないくらい、もうこの場は二人に呑まれている。
ウォンは倒れているジョアンのそばに膝をついて、その傷口を触るとなんでもないような様子ではははと笑った。
「なるほど傷は深いが、私の教授よりはましだろう。今後はまず精神面が課題だな」
そういいながら、体中の間接やまるで無関係ともおもえる箇所のつぼを突くと、不思議と出血が抑えられるのが感じられる。
それが分かるとウォンは立ち上がり、近くの者に手当を頼むとマルムーサに向き直った。
「私の弟子が騒ぎに関わったのはお詫びしましょう。しかし喧嘩は喧嘩。そちらの挑発にこの深手でございます。どうかここは禍根を残さず、水に流していただきたくおもいますがいかがか?」
「いいや許さん。弟子の不始末というなら、師匠の貴様が責任をとれ」
「してどのように?」
「俺とやりあって立てなくすれば許す。ただしお前が負ければ、そのまま地獄いきだ」
「はてさて、領主が身辺をお護りする親衛隊員の言葉ともおもえませぬが、一言一句たがわぬというのであればそう従いましょう」
「先生、これは罠です」
ジョアンの力無い声がきこえたが、ウォンはとり合わない。
「獲物ぐらいもったらどうだ」
「ご心配なく」
懐から取りだしたのは鉄扇。それを両手にもち、ひろげ、構える。
誰もがなにをはじめるのか訝しんだが、マルムーサだけはそれのもつ意味が分かった。
(こちらの攻撃目標の撹乱、視界の混乱、自分の攻撃を覆い隠す盾か)
「いいだろう」
いうが早いか斬り下げた一撃を、ウォンはゆるやかに避けて構え直す。その際の前後に広げた両腕を、まるで扇のように閉じたり開いたりする動きは、体術にしても実に奇妙に見えた。
マルムーサは相手に隙を与えず、次々と攻撃を加えてくる。ウォンは避けて避けて避けていたとおもったら、なぜかマルムーサが蹴りをくらって一歩後退しているではないか。 あまりに速いとはいえ、蹴り終わりしか見えないのには誰もが目を疑った。
「やるな」
大振りのない、隙のない小刻みな攻撃に、さすがのウォンも服を斬られ血を飛ばしたが、どれも紙一重でかわし軽傷ですんでいる。
それでマルムーサは力んだのか、ふと大振りになった一撃を見逃さず、避けざまに閉じた鉄扇で左肩を打ちすえた。
その膝が地についたのを見て、周囲にどよめきが走る。
まさか都随一とよばれたラカンシェと並ぶ剣士が、剣をもたない者にやられるとは想像していなかったからだ。
「油断したな。俺の負けだ」
「ではこれで」
軽く礼をして鉄扇をしまいながら、ふり返り歩きだそうとしたウォンに、マルムーサは躊躇なく斬り下げる。だが誰かが驚きの声を上げるより早く、またもふり返りざまがら空きの背中に鉄扇をたたきつけていた。
「がっ!」
今度ばかりはまともにくらったらしく、背骨が軋み、衝撃が背筋を突き抜けて胸を直撃している。生まれてよりいままで、こんな痛みはついぞ受けたことなどなかった。
「申し訳ありません、どうもお聞きちがいをしたようで。対決において相手に背を向けるなど、闘義の礼に失しました。では改めて続きをいたすとしましょうか」
「貴様ぁ」
ウォンの嘲りの態度がもはや腹に据えかねたのか、マルムーサは血の唾を吐いて、ぎらぎらと狂気に満ちた双眸をこちらに向ける。
しかしそれでも、ウォンはため息まじりに大きく息を吐きだしただけだった。
彼にいわせれば、マルムーサの力量では遠くラカンシェには及ばないばかりか、権謀術数にも暗いのだからその評価は過大しすぎだろう。
とはいえ性格上そうおもわせておくのが最良であり、ラカンシェにとっては、いまがまさによりよく使えるときなのだ。
謀略の手駒として。
奇声を上げて躍りかかるマルムーサの攻撃は、一太刀ごとに死を招く、自命を顧みない捨て身に近いものであるが、それはかえって気をまき散らすことになっているので、先気をとれるウォンにとっては危険とよべるものではない。
しかしあえて、彼はその攻撃を薄く、あくまでも薄く受けて派手に血を流して立ち回る。
相手を追い詰め、自らの側に優勢があると、自分にその裁く権利があると、うしなうものなどないとおもわせるために、その心理をつくために。
「死ね、死ね、死ね!」
その瞳の色が恍惚に彩られたのを見て、ウォンは防戦より一転、鉄扇で剣をうけ止めた。
「私を殺して貴方になんの得がある? 住民には疎まれ、役人からはおそれられるだけではないか」
「金よ。貴様を殺せば一万になると、ラカンシェがそういったのさ」
「ラカンシェ様が?」
少しばかりわざとらしいと思ったが、図ったとおり優越感のなかでは気づかなかったらしい。
「この芝居には貴様の弟子も一枚かんでるのさ。裏切られた気分はどうだい?」
「では姉上も貴方が」
「あれは五千だった。犯してもいいといわれていたが、あの女、大騒ぎしやがったからな」
「もはやこれまでか」
鍔ぜり合いにも飽きたか、マルムーサはウォンをはねのけて、肩を落とし膝をついた彼を悠々と見下した。
「地獄で姉弟仲良くすればいいさ」
一刀のもとに首を切り落とそうとした剣は、なぜかウォンの編んだ髪の先端をはらんで空を斬り、それを疑問におもう間もなく、彼は激しい衝撃にふき飛ばされた感覚のなかで事切れた。
おそらくマルムーサが最後に見たのは、後方にいた仲間の姿だったろう。
回りにいた者たちも、彼が斬り下げた後は、ウォンが膝でその両肩に乗っている奇妙な光景からを見たのである。
ただし首が反転して、だが。
マルムーサの死体がゆっくりと倒れ、ウォンが再び地上に下り立ったとき、場は厳粛なまでに静寂に包まれていた。
「姉上をうしない、それに足る分は悲しんだ。地獄だろうと会うのは、残った者がその遺志を適えてからである」
目を見開いて絶命しているマルムーサにつぶやくようにそう話しかけ、やがてきこえてきた祈りの時間を知らせるラッパに、人を殺したとはおもえないほど明るく叫んだ。
「なにをぼうっとしているのか。さて義務を怠ったとあっては、神に顔向けできないのではないかどうか?」
義務という言葉に触発されて、周囲のほとんどの者は一心不乱に祈りをはじめる。
こんな事実を認めたくないのだ。
たとえ親衛隊をどれだけ忌み嫌おうと、それを殺せばどんな扱いをうけるかを知っているから、関わりあいたくないので自然こうした態度になる。
もはや救いの手をさし伸べた者であろうと、彼らはこれを助けようとはおもうまい。
ジョアンはそのやり切れないおもいをもちながら、なぜか祈りを捧げる人々を寂しそうに、それでいて慈しむように見つめるウォンの視線に困惑した。
いや、こうなることを知っていたのだ。知っていてこの選択をしたにちがいない。
しかしウォンがそばに立って笑ったとき、それを言葉にすることができなかった。
「剣は小手先の道具。剣に舞い、剣のなんたるかを知る者は、それに心酔するべからず。精神面が課題だとはいったが、教えている時間はなさそうだ」
「先生」
「お前はお前の道をいきなさい。その前途に万難あろうと、決して避けてはならん。いついかなる時であろうと、その一挙手一投足は己のものであると知れ。そしてたとえ過ちを犯そうとそれを正す限り、仁と義に生きる限りは天意が宿ろう」
「でも私は 」
「明鏡止水。まずはそれを己のものにせよ」
「でも先生は 」
「天下王道を往く者に犬死にはない」
マルムーサの死にあわてふためいた親衛隊の男たちは、とにかく祈りの言葉が響くなかを、彼の死体を処理し、ウォンに縄をかけてひっ張っていく。
なぜこの選択を?
ジョアンに答えはでない。
ただそれが確実であるのは、おとなしく捕縛されたことが証明している。
「先生……」
傷がおもったより深いのか、体がおもうように動かない。
それでも師の姿は確実に離れていくのに、誰ひとりとしてそれに意見しようとする者はいない。
自然、涙があふれてきた。
ウォンの捕縛には自分も関わったし、ここに至って誰も助けてくれないのも知っていただろうに、どこに命をかける理由があるのか。
異国人として忌み嫌われ、努力して信頼を勝ち得ても、それは本心からのものでは決してない。
それを甘受するのが彼の生き方なのだろうか。だがジョアンには、祈りをささげている者たちを見る限り、そんな不条理なことは納得できなかった。
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