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 それからほどなくして、ウォンが捕縛されたとの噂はアバンタール中に流れた。
 アトサンははじめは信じていなかったが、きき回るうちに事実だと知ると、家のベッドに寝ていたジョアンの胸倉をつかんで無理やりひき起こし、やたらめったら怒鳴りつけた。
「やい、てめえどういうつもりだ! 聞きゃあてめえが買った喧嘩だってえじゃねえか! おまけに大将を連れだしたのもてめえだってえなら、帰ってきたのもてめえだってのは都合がよすぎるんじゃねえのか、あぁ?」
「仕方がなかったんだ」
「なにが仕方ねえってぇだ? 大将がてめえから捕まりにいったとでもいうつもりか!」
「どうも……そうらしいんだ」
 当然予想はしていたが、意外にもアトサンの反撃はない。
 なにかおもいあたるところでもあるせいか、眉をひそめて考えこんでいる。
 アトサンはウォンと一緒に住んでいたのだから、その意図が分かったのではなかろうか、というジョアンの表情に気づいて、
「そんなはずはねえ!」
 と今更のように怒鳴って飛びだしていった。
 同様にレムシャエルも、普段おとなしい彼女のどこにそんな力があるのかと驚くほどに、夜半に戻ったカリートルに噛みついた。
「どうしてラオシーが捕まらなければならないのです? 相手は殺そうとしていたと何人も見ていたのに、親衛隊の人はなにをしてもいいと、そうなんですかお父様!」
「そうじゃないが、殺してしまったという事実は消せない。どうにもならないんだ」
「じゃあお父様はラオシーを見殺しにするのですか? 私にはずっと部屋に閉じこもっていろというのですか!」
「軍務大臣に親衛隊をどうこうする権限などない! 早く寝るんだ!」
「ラオシーが死んだら、私も死にます」
「勝手にしろ!」
 なにをいっても無駄だとさとったレムシャエルは、自室に戻るやとめどなく泣き続けた。
 カリートルは憤然と寝室に一人、酒をあおってひたすらに考えに考えぬいたが、いい考えは浮かばない。
 激に制といい切り、ラカンシェを注意するよううながし、自分に書を与えた。
 理屈ではない、ただ確信のあるほどに、ウォンは殺してはならない者だと感じるのだ。
 一方、まるで荒れていない場所もあった。クルマンの屋敷である。
 屋敷のいつもの面々に加えてカハトゥがすわり、バジタヤとサイードは近々行われる取引の準備で忙しいと欠席している。
 そのなかで一人アムタエルは、クシャナの仇であるマルムーサを殺して捕まったウォンの胸中を察して泣いていたが、ほかは消沈した面持ちでおし黙るばかりだった。
「なんで、あんないい人が捕まらなければならないんだ。親衛隊員の殺しは死罪、なんとか助けられないんですか?」
 訴えるように回りを見渡したが、どこからも有用な意見も返事も、まともに戻ってはこない。
「あの人がいなければ、これからどうやって計画を進めればいいんですか?」
 カハトゥに向かって、クルマンに向かってさらに押したものの、やはり明るい返事はかえってこない。
「無理だ。いま騒ぎをおこせば、計画そのものを暴露させてしまうかも知れん」
「だからって  」
「いいじゃねえか」
 遮ったのは、アムタエルとおなじくらいの若い、ずっと前からクルマンの下で働いている者だった。
「姐さんが殺されたときだって、あの人は悲しむどころか葬式までさせなかったじゃねえか。今度だって、望む通りにしてやりゃいいのさ」
「悲しんでないだって? じゃあどうしてマルムーサを殺したんだ、ほかに理由なんかないだろう」
「そんなこと分かるものか、あいつはどうせトンレンだ。そんな奴の考えなんて知りたくもない」
 それからは堰をきったように、そこかしこからそんな類いの言葉が飛んできた。
 アムタエルは愕然とした。
 困窮して民族を問わず救いを求めておきながら、用がなくなったらいままでの恩も忘れて簡単に切り捨ててしまうような者を、自分の仲間だと信じていたことに。理由がただ異国人というだけだということに。
「やかましいねえ。すずめみてえにピーチクパーチクとよ」
「で、でも、ウォンさんが捕まったんですよ? これで騒ぐなっていわれても……」
「大体、俺あお前らをよんだおぼえはねえやな」
「心配じゃないんですか?」
「おめえさん、おかしいと思わねえのかい? どこの世界に白昼堂々人殺しをしといて、逃げもしねえでそれよりも弱っちい雑魚にとっ捕まる野郎がいるのさ」
「えっ? じゃあわざと捕まったっていうんですか? そんな、なんのために」
「それが分かりゃ、最初っからあん人に頼るなんざしねえわさ」
 こればかりはカハトゥも信じられないというように、口を開けたままで呆然としている。
 当然誰もがそうおもうだろう。いくらそこに策があろうと、理由が理由だ。
「計画を、吐きゃしないですか?」
 若いのが一人そうきいてみたが、クルマンに睨まれて縮こまっただけだった。
「吐いたってあん人は得をしやしないよ。仲間を売るような奴を、腹の黒い役人の誰が信用するさね。おまけに異国人だよ、体よく捨てられて終わりってえやな」
「じゃあ  」
「うるさいねえお前さんら。あん人はあん人の考えがあんのさ、俺らはいままで通りにやりゃあいいんだよ。それともなにかい? おめえら砂漠に雨でも降らせるってのかい?」
 砂漠に雨を降らせるというのはこの地方の諺で、できもしないのにやろうとするという意味だ。
 若い者たちもクルマンのいわんとしているところを察して、すぐにも全員が退散してしまった。ウォンのかわりを努められるのかというのは、まずもって無理な話だからである。
 カハトゥも礼をして帰ると、広々とした室内は急に静かになった。
「幻滅したかい?」
 なんのことをいわんとしているのか、それはアムタエルにもすぐに分かった。曾祖父ほど経験があれば、ひ孫の感情など手にとるように分かるのだろう。
「あいつらも異国人だからどうこうってんじゃねえやな。神様もいってるさね、異国人だからって差別しちゃあいけねえのさ。だけどねえ、人間ってのは欲に目がくらむと回りが見えなくなるもんさ。ありゃあ嫉妬だよ。あん人はなにをやらせてもできるからね、計画が成功すりゃあいい目をみるからねえ。かといって突くほど欠点もありゃしねえ、異国人なんてどうでもいいとこ以外はよ」
 アムタエルはなにか感ずるところがあったのか、黙ってそこから下がっていき、クルマンはごろんと横になると、青いねえと誰にでもなくつぶやいた。
「ササンガランの軍が?」
 次の日、アバンタール中が恐慌状態に陥ったのと同様に、報告を受けたカリートルも驚き、苦々しい表情になった。
 急ぎ馬を走らせて南門の外壁にたどり着くと、そこにはすでにラカンシェの姿があり、こちらに気づいての礼を半ば無視して荒野を見据えた。
「物見によれば、敵は約三千から三千五百といったところで、騎兵五百、弓騎兵千、歩兵五百から千、あとは従者だろうというところです」
「使者は?」
「いまのところはまだ。野営を完成させて降伏を迫ろうという腹でしょうな、話し合いという段取りではありませんから」
「かといって門を開けての先制攻撃も無駄だな」
「油断しきってる今しかないとおもいますが」
「騎兵と歩兵が分断して向こうに斬りかかるころには、矢の雨血の雨だ」
「それはなぜです?」
「馬から降りてる奴が一人もいない。それに相手が勢いづいてるうちは、手をださんほうがいい」
(いい目をしているな)
 とラカンシェがおもうのも無理はない。
 事実、野営のテントがちらほらと立ちはじめているが、その合間をぬって騎兵がぞろぞろと闊歩している。もちろんそうして先制攻撃を防ぎ、籠城戦にもちこむのが相手の意図なのだろうが。
(となると食料不足の現状をかなりの精度で確信しているな。まあこちらから情報を流してやってるのだから、そうこなくては話にならん)
「それに」
「まだなにか?」
「こっちにはそんなに兵はない」
(それはそうだろう)
 というのは素直な感想である。この十年で三度にわたる戦争を重ねれば、兵力は著しく後退するのは道理だ。
「東と西の門も閉めろ」
「ですが、隊商がまだ通過に手間取ってまして……」
「構わん  」
「ぎゃ!」
 奇天烈な叫び声の主を見ると、まだ二十ぐらいの青年があたふたと腰を抜かさんばかりに逃げていくところだった。
 敵軍にそんなに驚いたのかと、カリートルはそれだけをおもったが、ラカンシェにはそれがアムタエルであることを知っていながら黙っている。
 いまここで騒がれてほしくないからだ。
「とにかく構わん、どうせこの事態を知れば近づかなくなるだろう。それよりもここは軍事区域だぞ、さっさと民間人を追い出せ」
「まって、まっ、お待ち下さい、大臣様、だっ、げほげほ」
 またもや奇天烈な掛け声にふり向くと、階段を上ってきたのはカハトゥで、太っているせいかあわてているせいか、見事なまでにずっこけていた。
「なんだ? 待てというのは門のことか?」
「そ、そうです、そうでございます。私どもの荷がまだ届いておりません。どうか、どうかそれまでお待ち下さい」
 カリートルはカハトゥがクルマン傘下の商人であることは知っているが、それ以上のことはまったく知らない。
 逆に知っているラカンシェは、彼のこの嘆願にピンとくるものがあった。
「ならん、この街の安全を優先する。まさか交易品で、一月や二月延びただけで腐るものではなかろう」
「それはそうなのですが……」
 カハトゥの言葉の濁しかたに、ラカンシェはさらに荷の内容も分かった。どちらにしても後々必要なものだ。
「どうでしょう、あちらも攻める気配もなし、日没まで待ってやるというのは」
「貴様、乞食にばらまく金が必要だというんじゃあるまいな?」
「まさか、賄賂などと公言できませんよ」
 一瞬じろりと見据えられたが、手のひらを返したように高笑いすると、
「まあいい、神に感謝するんだな」
 といい残してさっさと帰ってしまう。
 カハトゥは何度も何度も二人に礼を述べたが、ラカンシェはカリートルが扱いづらくなっていくのに鼻を鳴らした。
「いやあ、ほんとうに危ないところでした」 クルマンの屋敷に戻ったカハトゥは、開口一番にそういってため息をつく。
 あれからずっと門につきっきりだったので、目に見えて疲れている様子だ。
「そうかい、そいつはご苦労だねえ」
「長期保存食もいわれた量は間に合いました。非常時でしたので、荷もろくに調べられずに済みましたし。どうしたアムタエル?」
 見ると隅のほうでしょぼくれている。
「やじ馬で壁までいってよ、パシャ大臣を見て肝つぶして帰ってきやがったのよ。あん人は強面だろうがよ、そんなんでおめえこれから大丈夫かえ?」
「いやあ、でもほんとに怖かったんですよ。いざってときあんなの見たら、自信ないなあ」
 ふたたびしょぼくれる彼に、二人は呆れ顔。これでこの運動の先頭の人間なのだから無理もない。
 そこへ静かにアトサンが入ってきたのに、クルマンはすぐにも顔色をかえた。
「場所は突き止めました」
「両親かい? 二人とも生きてるんだろうね」
「人質ですから。でもですよ御老公、大将が捕まっちまったってのに、ジョアンの野郎を助けてどうしようってんですかい? あっしはそこが合点がいきやせん」
「てめえの親分を信じられねえようじゃあ、子分は務まらねえよ盗っ人。それにねえ、俺あどうもあん人の考えが分かったような気がするのさ」
「えっ、そりゃどういうもんなんで?」
「確信もねえのにくっちゃべったってはじまらないやね。まあ俺らは俺らで、決まってることをやりゃあいいのさ」
「分かりやした」
 クルマンはキセルを叩いて煙草を捨ててから、なかの灰をとるのにぷっと吹いた。
「忙しくなるねえ」
 そうして人々が戦争の恐怖に脅え、その水面下で暗躍する者たちがにわかにあわただしくなるころ、それ以上にとり乱している人物がいた。
「ど、ど、どうなっとる、なぜ使者は戻ってこないのだ。三人もいかせてまだ一人も戻らぬではないか!」
 金細工の虎の像を、震える手でいじり回しているラクン・ハサットである。
「た、確かに年貢金は不足していたが、労働力を提供していたではないか、どこに不備があったというのだ。お、脅しなのだろうか? とにかく、いまは不足分を払って収めねば。ええいもう待てん。新しい使者をいかせろ」
 太った男がおどおどと歩き回るさまは見ていて気分のいいものではないが、すわっている者たちは耐えるよりほかはない。
 発言はないが、これは軍議である。
 はじめからハサットの独り言のくり返しで、かわったことといえば、時間が進み使者の人数が増えていることだけである。
 おまけに下手に発言しようものなら内通者と疑われ、身の危険にさらされるのだから始末が悪い。
 とはいえ発言できたとしても、ラカンシェから見れば居並ぶ大臣からなにか策がでるなどとは思えない。有能とおぼしいのは、本来ならいの一番にすわらなければならないカリートルくらいなものである。
 そのカリートルは、四人目の使者が指名されて青ざめたところにやってきた。
 考えごとをしているらしく礼もなし。
 それどころか分厚い絨毯に足をひっかけて、見事にひっくり返る始末である。
「パシャ、いままでなにをしていた!」
「敵情視察ですが」
「貴様、いまがどんな状況だか分かっているのか! て、敵がすぐそこまできているのだぞ!」
「知っています。ですが敵は対籠城戦の構えなのです。勝ち目はありませんな」
「ば、馬鹿をいうな、刺激などしてほんとうに戦争になったらどうする!」
「相手はそのつもりだとおもいますが」
「貴様、そ、そんなことをしてみろ、死刑だぞ、死刑にしてやるからな!」
「なるほど」
 というや、また礼もなしにでていってしまった。
「なんだ、なんなのだあいつは!」
 その直後、それと入れ替わりに入ってきた伝令は、カリートルと同じように絨毯に足をひっかけてひっくり返ったが、それよりも重大ななにかに脅えるように、その表情は蒼白で恐慌の破綻寸前だった。
「騒々しいな、なにがあった?」
「ササンガランの指揮者が分かりました」
「誰だ?」
「イツァーム・ラディンで、です」
「砂漠の毒蛇か」
 この場の誰もが身を震わせるなかで、その呼称を口にしたラカンシェは、苦々しい表情で笑いをおし殺すのに必死だった。
 しかしカリートルはそんなことはとうの昔に知っていた。いうだけ無駄だと、本当に報告しなかっただけである。
「本当にハサット様の命令を無視なさいますか」
 再び外壁に戻ったカリートルにそう聞いてきたのは、参謀のショーエン・アルカッタである。
 ここより少し西方で兵法を習ったというこの三十男は、外見はどこにでもいるような、おまけに特徴のない顔つきをしている。
「いまごろは金で解決しないことがわかって、布団でもかぶって震えているんじゃないのか?」
 事実、ハサットは宮殿の奥に入ったっきり、おそろしさのあまり一歩も外にでようとはしなかった。
「それはよいのですが、この作戦には重大な欠点があります」
「欠点? なんだ、いってみろ」
「食料がありません」
 いわれてから、カリートルはおもいだしたようにすたすたと歩いて、馬に飛び乗るやいなやどこかにいってしまう。
「先がおもいやられるな」
 とは、アルカッタは言葉にはしなかった。 彼の向かった先はクルマンの屋敷で、使用人たちはこの突然の来訪者に驚きを隠せず、それはクルマン本人も同様であった。
 これからというときに、よりによって軍務大臣みずから乗りこんでくるというのは、それ相応に尋常な理由ではあるまい。
 煙草の灰を捨てて腹をくくった。
「突然、邪魔をしてすまん。取り急ぎ頼みたいことがあったのでな」
「この非常時でさ、できることならお力になりやしょう」
 どうもこちらの動きを感づいたのではないと知ると、表情はかえないままでほっとした。
「食料を買い入れたい。千人分、最低でも一カ月以上を続けてだ。できるか?」
「千人分、でございますか?」
 とはカハトゥ。途中から入ってきたアルカッタとそれぞれの側にすわって、そう息をつまらせる。
 決起の日までにと溜めておいた食料を、そうそう手放せるものではないが、かといってここで妙に感づかれても困るからだ。
「そうだ。それと、知っての通り財政ががたついていてな、金が払えん。その代わり今度の戦争を終えたら、今後の交易の……あれを、ほら、あれだ」
「関税です、関税」
「そう、その関税をひき下げてやろう。どうだ?」
 戦争に勝つ見こみがあまりに少ないのに、これではほとんど徴発ではないか。
 だがそうひや汗を流すカハトゥとは対照的に、クルマンの目は鋭く輝いている。
 なぜ軍務大臣が関税の約束などできるのか、関税という言葉と、おそらく意味もろくに知らないだろう人物がである。
 入れ知恵は確実。しかし後ろのアルカッタではない。
 クルマンをはじめとして、カハトゥ以下はれっきとした交易商人であり、食料輸送などしたこともないというのを知っているはずだからだ。
 だとすれば誰の? 
 このアバンタールで、クルマンにしか頼めないと知っている唯一の人物。
「ようがす、お引き受けしやしょう。こちとら諸国を股にかけた商人(あきんど)、頼みの綱だといわれりゃあ断るわけにゃあいきやせん。顔見知りの連中から、かき集めて届けさせやしょう」
「ありがたい、助かった」
 カリートルはそういって破顔した。豪傑で知られた男のそれに、クルマンらは少なからず驚いたが、彼が去るまでそれは顔にはださない。
「御老公、いいのですか? 予定以上の食料の備蓄などほとんどありませんよ」
 カリートルが屋敷をでたのを確認してから、カハトゥは困ったように汗をふいた。
「心配なんざするこたぁねえやね。このケツの下にゃあごまんとあらあな」
「はっ? この下に、ですか?」
「あん人が俺にまずやれってのが食料の確保よ。腹が減っては戦はできねえってことさね」
 カハトゥはもちろん、クルマン自身もそのことについては驚きを隠せない。
 ウォンはこの事態を予想していたのではなく、こうした事態になるように策を弄していたのだ。でなければこれほど正確に、自然によどみなく進行するはずがない。
 そして次の日から、それと呼応するかのように奇妙なことがおこりはじめる。
 一つはカリートルによる軍事訓練で、しかも内容は走ってばかりという意味不明なもの。
 もう一つは食料を食いつぶしていくだけの街に、出所不明な食料が無償で出回っていること。しかしこちらはまったくの水面下で、他言しないというのが条件であった。
 アバンタールの街は、過去に例のないほど静まり返り、不気味なくらいの静寂は、まるで死の街にでもなったかのような錯覚をおこさせる。
 それを斥候よりの報告から知り、ササンガラン将軍、イツァーム・ラディンは副官に向かって大いに笑った。
「腹が減って死にそうだとは、このまま戦争をせずとも、皆殺しにできるかも知れんな」
「労働力をなるべく残すようにと、命令を受けているのではありませんか?」
「構うものか。死ねばほかから連れてくればいいのだ、そんな下らないことを心配する必要などない」
 それきり副官のほうは黙りこむ。口数が少ない方が、生き残れるのを知っているかのように。
 このラディン、別名を砂漠の毒蛇と呼ばれている不遜な顔つきの男は、連戦連勝の戦術をもって周辺諸国よりおそれられている。
 しかし内実はその残虐さ、狡猾さ、陰湿さなど、それら病質的なまでの性向がおそれられているのだ。
 敵を痛めつけ、弱らせてから徹底的に殲滅するその手口は味方でさえ嫌悪し、ときには味方でさえ巻きここんで恍惚とする、戦場以外では生きられない悪魔のような男である。
「まあ、あまりやりすぎて助けを請えぬほどでは、逆につまらんからな」
 再度の笑い。だが豪華な天幕に同席する誰もが、彼とおなじようには笑えない。少なくとも戦士としての誇りがあるのなら、民間人に手をださないのが不文律なのだから。
 そのような人物が相手だけに、何日かぶりに宮殿に入ったカリートルには、すれちがう誰もがなんとかしてくれと懇願してくる。
 それを適当にあしらいながら向かったのは、敷地の外れにある特別の監房で、主に要人暗殺や襲撃など、いわゆる反乱分子の類いをいれておくためのものだ。
 ところがなかには人影がない。そこで見回りの兵士を捕まえてききだしたのは、まったく予想外の事実だった。
「全員処刑しただと?」
「ええ、親衛隊が突然きて、毒殺して死体を運びだしていました」
「誰の命令だといっていた?」
「ラカンシェ様です、間違いありません。ハサット様に不安を抱かせるようなものは、一つ残らず処分するようにいわれていたといっていましたから」
 カリートルは急ぎラカンシェのところに向かい、何人かの大臣と話していた彼を見つけて、殺気じみた形相で詰め寄る。
 それを察してか、ラカンシェが話を中断しようという前に、大臣たちはそそくさと立ち去った。
「いまパシャ大臣の話をしていたのですよ。大臣ならばきっと敵を退けていただけるだろうと  」
「特監の囚人を処刑したそうだな。なぜだ?」
「もしやのとき、囚人が抜けだして暴れでもしたらやっかいですから。もちろん私は大臣を信頼していますが、ハサット様は結果をださないと安心しないでしょう」
「通達もせずにか」
「やつらの処分は親衛隊に一任されていますから、手順よりも時間を優先しました。なにか問題でも?」
「ない」
 言い放つと、その場からすぐに立ち去った。
 ラカンシェを殺そうとしてしまいそうだったからである。
 もしその者と内通していたと知れれば、自分は解任され防衛力は霧散するのが目にみえている。それだけはどうしてもできなかった。
 そしてその足でどうしてもやらねばならないことのために屋敷にもどり、自室の奥に隠すようにしまってあった箱からとりだしたのは、長く編まれた黒髪。
 紛れも無い、ウォン・レイホウその人のものである。
 カリートルはそれをレムシャエルに渡してやり、ウォンが死んだこと、そして救えなかったことを詫びた。
 レムシャエルが号泣するのに背を向けて、カリートルはふたたび教練場に馬を走らせた。
(砂のごとくふき流れながらも、敵を倒すこと以外、カリートル・パシャにできることはない)
 いいきかせるようなおもい。
(あいつは、なにを求めていたのだ?)
 ウォン死亡の報は、情報網を伝って組織にも流れてきた。
 アムタエルはあまりの落胆に涙もなく、クルマンは心労がたたってかそのまま寝込んでしまう有り様。異国人だと嫌っていた連中も、その生きざまの前には、さすがになにかいうことのできる心情にはならない。
 内心にも喜んでいたのは、彼を邪魔におもっていたバジタヤとサイードくらいなものであった。
 しかしただ一人、ウォンの死を信じない者がいる。アトサン・スーシである。
「旦那、あっしはね、いままでずっと大将と一緒にやってきたんだ。あの人が詰めの甘いようなことをしねえのは、よく知ってる。自分が殺されるようなことをするはずがねえ、なんの理由もなく殺されるような真似は絶対にですぜ。大将は死んだように見せかけるために一芝居うったんだ、そうにちげえねえ」
 そういって屋敷を飛びだしていったが、カハトゥもそうおもいたくはあっても、レムシャエルのところに遺髪があるとなってはそれも無理なことだ。
 その夜、一連の情報によって関係者の気が抜けたのを図ったように、カリートルの屋敷に忍びこむ一つの影があった。
 月明かりを避けて蠢くそれには、見回りの男たちもまったく気づかない。
 やがて建物に侵入して歩いていた女を捕まえ、その首筋にナイフをあてた。
「主人はどこだ?」
 女、ナクターシャは震えて声もでない。
「どこだときいている」
 とにかくなにかをいおうと口を動かしてはいるが、途切れ途切れで要領を得ない。
「恐怖で口をきけないか。まあいい、女の口を割らせる方法はいくらでもある」
 人気のない手近な部屋に、強引に彼女を連れこみ、侵入者は後ろ手に扉を閉める。
 数秒後、何事もなかったかのように彼女がでてくるところをカリートルは偶然見つけて、なぜなにももっていないのだろうとおもった。
 というのもそこは、酒や長期保存食を貯蔵しておく場所なので、てっきり自分の晩酌をとりにきたとおもったからである。
 しかし別の用事だったのだろうと、すぐに忘れようとして自室に戻ろうとしかけたとき、背後からの悲鳴に直感的なものが走る。
 ナクターシャとは別の侍女の視線のさきにある貯蔵庫の床に、胸に穴のあいた侵入者が転がっていた。
 それから半刻ほどたって、いつもの書を読む仕事にカリートルのもとにやってきたナクターシャに、彼は警戒するでもなく単刀直入にきいた。
「お前は何者なのだ?」
「この家の使用人にございます」
「安心しろ、さっきのことは他言無用にしてある。明日にでも使用人を一人葬式にだすが、それはお前ではない。ましてあの穴を開けた者がお前であることを知っているのは、私だけだ」
 どのような素性であれ、犯人だと知られた相手に素直に話すような者などいない。しかし回りくどくしても通用しないだろうと、彼はあえて無視したのである。
 ナクターシャは黙って右腕をおもむろにのばすと、それに左腕をそえた途端、袖の中から太い針のようなものが床に突き刺さる。左腕の位置をかえると、今度は肘のあたりから後方にとびだしやはり床に突き刺さった。
「見事なものだな。どんな作りになっているかはあえてきくまい。目的はなんだ?」
「この家の主人と、その娘を護るのが役目です」
「なんのために?」
「いえません」
「誰の差し金だ?」
「いえません」
 それで十分だった。
「奴は、こんな事態になるのを予想して手を打っていたのか。そうとは知らず見殺しにするとはな。だが依頼人は死んだのだろう、どうしてまだ続けている」
「依頼を完遂するまで、ここにおいていただきます」
「まあいいだろう。では別なことをきくが、あの侵入者はどこからだとおもう」
「風貌と動きから南東の者、ササンガランの手引きでしょう」
「徹底して弱らせてからたたくか、ラディンのやりそうなことだな。仕方ない、しばらく病気になるぞ」
「はい」
 そういうなり立ち上がると、ベッドに入るが早いかさっさと寝てしまった。
 カリートルが病にかかったという噂は、アバンタール中を震撼させた。頼みの綱の彼が動けないのであれば、この街の防衛力など皆無に等しいからだ。
 一方、カリートルの不在で格段に下がっていた士気のなかで、蜘蛛の子を散らすようにばらばらになりそうな軍を、アルカッタはよくまとめていた。というのも、
「脱走すれば即刻、斬首にする」
 といって五人ほど斬ったのである。
 頭がいいだけだとたかをくくっていた兵士たちは、その冷徹な捌きかたにびびって二度と脱走しようなどとおもわなかった。
 それと似たようなササンガランからの脅しは、ハサットに対してあれから延々と続けられている。七人目の使者がまたも帰ってこないのに、彼は発狂するのではないかというほど脅え、おそれ、のたうちまわっていた。
 実は最後の譲歩として、自分の命を救うかわりに、アバンタールを譲渡するとすでに売っていたのである。
 ところがラディンは使者を切り刻んで砂漠に捨ててしまった。勝つのは当然として、ササンガランの強さを周辺諸国に見せつけようというのが狙いだが、そこに趣味が含まれている感は否めない。
「パシャが、病気と称して医者にかかっている様子です」
「病気? どうせ一命を取り留めたところだろう。死ななかったのは残念だがな」
「将軍、敵方に潜伏させている扇動役の三人が戻りませんが、いかがいたしますか」
「抜けるに抜けられなかったのだろう。そんなものは捨て置いても痛くもかゆくもない、ほうっておけ」
 副官の男は、承服しながらも嫌な予感がしてならない。
 手駒の処分がどうというのではなく、本当ならもっと騒がしくなってもいいはずなのだ。
(数に勝る戦力はないが、新しい参謀というのが気にかかる)
 長期にわたる優勢な睨み合いが、士気を下げ規律を緩ませている。しかし才能乏しいこの男には、それをくい止める術がなかった。
 数日後、革命決行の日時がそれとなくアバンタール中に流れ、いままで食料をうけとっていた人々はその意味を事ここに至って初めて知る。
 準備は着々と進んでいた。
 しかしクルマンの屋敷内では、その意気込む部分がそげ落とされたかのように、暗く、深く静まりかえっていた。
 ウォンの死をきいて倒れてから、クルマンの容態は悪化し、床についたままで起き上がれなくなっていたのだ。
 もちろん八十を越える老齢につき老衰というのもあるだろうが、ウォンがいなくなったことへの心労がたたっているのはまず間違いない。
 同胞とか古参だとかいう理由での嫉妬はあろう。ただあのクルマンが気に病むほど信頼していたのは、本人の死と目の前の光景を見れば誰の目にも明らかだった。
「どうしてこう、いい人ばかり先に逝くことになるんですかね」
「アムタエル、御老公はまだ死んではいない、縁起でもないことをいうもんじゃない」
「ええ、そうですね」
 しかし危篤の老人を見守る彼の気持ちは、カハトゥにも分からないでもない。
 恋人をうしない、有能な仲間である親友をうしない、そしてまた祖父のようなよき理解者をうしなおうとしているのだ。
 おまけに横たわる老人は、威厳の感じたころとはちがい、痩せこけ、肌の色も日に日に死人に近づいている。
(すべて、神のおぼし召しなのかな)
 そうおもったとき、単なる偶然か、あるいは神の指示でもあったのか、クルマンは突如として意識をとり戻し、驚いていたアムタエルを見つめた。
「べらぼうが、なんてえ面ぁしてやがる、まさか仏でも見てるわけでもねえやな」
「そうですよ、そうですけどね……」
「いいかい、腹ぁくくんなよ。おめえがいくらだらしねえってったって、他の野郎がみんなやってくれらあな。肝心なのはびびらねえことさね。はじめるときにはじめ、終わるときによくやったっていやあそれでいいのさ、そういう野郎が、どんちゃか騒ぐのにゃあ必要なのさ。分かるかい?」
「はい、はい……」
「分かりゃあいいのさ。後はおめえの好きにすりゃあいいさね」
 涙声でまだなにかをいっているらしいアムタエルの言葉は、クルマンの耳にはもう届いていない。
 薄れゆく意識のなか、すぐにも天国に昇るのだと感じたなかで、走馬灯のように流れるものは、以外にもここ一年の記憶だけだ。
 サントラ・クルマンは貧しい家に生まれ、家族の大半が餓死、あるいは病死した。
 生きていくために盗み、それを元手にがむしゃらに働き、いつの間にか裕福になってからも、金を儲けていなければ生きていることを実感できないようになっていた。
 体がいうことをきかなくなりやむなく隠居したが、金を追うことから解放されてみると、自分にとって金以外にはなにもないのを知って不安になった。
 豪商サントラ・クルマンといえば、遠く東はウォンの生国、西はジョアンの生国にまできこえた名である。
 しかしこの周辺諸国に富をもたらしたこの老人は、別段あくどいことをしていたわけではないが、良いこともしていないのに気づき、尊厳というべきものを得るために革命をおもいたった。
 だが不思議なことに、その成就を目前にして消えゆく彼の脳裏には、悔しさよりもクシャナやアムタエル、そしてウォンにはもう会えないという寂しさがある。
 特にウォンが気にかかるのは、この死に際になってやっと認めた、あの年若いトンレンに対しての嫉妬からだろう。
 八十年の人生で手に入れたいとおもったものを、そいつはすでに己の内に秘めていたのだから。
(お笑い草だねえ。腐るほどの金なんかよりも、あん人のことが気にかかってしょうがねえなんざ。だけどよ、おめえさんどこに行くつもりだい。えっ? どこだっておなじかい。そうだねえ、年寄りのおせっかいだねえ)
 死に顔は、生前とは対照的に安らかなものだった。
 とはいえこんなことは当然、部外者に知られるものではない。屋敷にいる者は一晩を泣き通し、翌日その骸を地下室のクシャナの隣に寝かせ個々の仕事に戻った。
「ほう、出所不明の食料の報告はもうなくなったか」
「はい。おそらくはどこぞの商人が、隠しておいたものを高値でさばいたのではないかとおもわれます」
 その日の夜、部下の報告をきいたラカンシェは、安堵したかのような口調で内心ほくそ笑んだ。
「まあいい、犯人捜しはそれなりにしておけと警備長官に伝えてくれ。いまことを荒立てると、暴動がおこるかも知れん」
「それくらいは構わないのでは?」
「軍の士気にかかわるだろう。いま動いてもらう訳にもいくまい」
 なるほどと部下は感心して下がり、それと入れちがいに入ってきた、背の低く、やせ細った、醜悪な部類に入る顔の男は、卑屈さをまとった態度でラカンシェのそばにすわった。
「なにか新しい情報でもつかんだか」
「当然でさ。二つありますが、一つはすげえやつなんで、へへっ、今日は倍は貰わねえと」
「きいてから値段は決める。そうだったな?」
「ですが今日のばかりは……」
「とにかく話せ」
「へへっ、そうしましょう。一つは例の出所不明の食料のことなんで。犯人は分かりませんが、なくなったわけじゃありませんぜ」
「報告にはなかったな」
 いいつつも、そのことについては予想がついていた。
 というのも、役人の末端ともなればこき使われる割には給料が安く、住人にはよく恨まれるので食料を手にいれるのが一苦労なのである。
 どちらについても同じようなものなら、目先にあるのがものをいう。
「下っ端の役人は食い物で買収されてるんでさ、へへっ。もう一つは反乱分子の決行日時が分かったんですがね」
「待て、小声で話せ」
 男はラカンシェの耳に近づいて長々と話し、彼はその答えに納得したのか不敵に笑った。
「そうか、よくやってくれた。ご苦労だったな」
「へへっ、なに隊長のために働いてますから」
 腹の黒い上っ面だけのこの男に、ラカンシェは報酬を渡してやると、男はそのずっしりとした重みを感じて下卑た笑いをもらした。
「こ、こんなにいいんですかい?」
「ああ、それだけの働きをしたのだから当然だ。そういえば、このことは誰にも漏らしていないな?」
「へへっ、そりゃもう」
 そのままそそくさと下がろうとした男は、金のことで頭がいっぱいだったのか、後ろのラカンシェの動きにはまるで気づかなかった。
 それから少しばかりしてよばれた二人の部下は、心臓を一突きにされて絶命している男を見つける。
 こいつがラカンシェの情報屋だったことを知っているから、部下たちはこの状況に困惑した。
「これはいったい?」
「そいつがササンガランの諜者だったのが分かってな。処分しておいてくれ」
「この金は?」
「活動資金だったのかもな」
 二人はその答えを手間賃とうけとり、それ以上はなにもいわずに片づけはじめた。
 それからほどなくして、突然カリートルが元気な姿で、というより何事もなかったかのように軍に戻り、兵士たちの士気を大いに高潮させた。
 しかしそれは静かに、あくまで静かに内に秘めてのものである。
「なにかかわったことは?」
「脱走兵を五人ほど斬ったことぐらいでしょうか。ほかにはなにも」
「その脱走兵というのは出戻ろうとしたからか?」
「えっ、ええ、そうです」
 アルカッタはぎくりとした。別にやましいことがある訳ではないが、カリートルはいつの間にか別人のように鋭くなっていたからである。
 以前なら間違いなく、脱走兵といってササンガランの者と気づくことも、それとない言葉でやりとりするような器用な真似もできなかったからだ。
「敵の様子は?」
「たるみきってますな。壁上の兵に飯抜きで警備させたのは正解でした、飢えで苦しんでると信じきってます」
「内通者を騙してわざと逃がすこともな」
「知っていたので?」
「あるつてでな。軍に食料があるのを知って驚いてたよ。さすがにああいうやり方はおもいつかなかった」
「その者は?」
「砂漠の砂にきいてくれ」
 なるほどと感心するよりない。豪傑できこえた男が、これだけ短期間で知謀を兼ね備えるのを目のあたりにすれば。
 そして戻ってきたカリートルがまず最初にだした指示は、食料と酒をだし、それを食って飲んでさっさと寝ろ、というものだった。
 次の日、朝飯をすませた軍に号令をかけ集めると、カリートルはゆうゆうと馬にゆられながら南門に向かう。
 兵士たちは完全武装の上、行き先で訓練をするという雰囲気でもない。
 おまけに完全武装とはいえ敵に比べれば貧弱で、騎兵は四百、弓兵にいたっては二百しかなく、重装備とはかけ離れた内容である。
 一人残らずが不安になった。
 まさかこのまま戦争をするのではないかと。
 当然何人かは戦列を抜けだそうと、あるいは抜けだしたが、それもカリートルから感じる威厳ともいうべきものにあがらえず、それを完遂した者はいない。
 やがてそのままアバンタールをでてしまい、後方で南門が閉められると、兵士たちの不安は一気に高まった。
 しかしカリートルはおちつき払ったようすで、彼らの注目にも臆せず、全軍を一人々々なめるように見渡した。
「退路はない。戦いに勝ち生き残るか、負けて死ぬかのどちらかだ。だが飢えでくたばる前に、ひと暴れしたくはないか? 勝ちなら保証してやるぞ、どうだ?」
 決して鼓舞するでもなく、恐怖で縛りつけるでもなく、まるでこれから狩りにでもいくような気さくさでいるのを見て、アルカッタは感心せざるを得ない。
 まさかこの兵法の皆無といっていい土地で、兵士を勢いづかせるのに言葉を選ぶとは。
 それが図にあたったのだろう。最初ざわめきだったものが、やがて歓声にかわり、そしていつの間にか勝鬨にとってかわっていた。 それを見て満足そうに、カリートルは笑みをうかべる。
「こんなときになんだが」
「はい」
「ナクターシャを妻に迎えることにした」
「あいつをですか? あっ、いや、それはおめでたいことです」
「お前も裏道ばかり歩いてないで、いまのまま続けてみたらどうだ?」
「考えておきます」
 自分の正体を前々から知っていたのだろうか。しかし正体を知られるほど恥ずべきことはないとおもっていたのに、カリートルにいわれると不思議と自然にうけ入れられる。
 反対にあわてたのはラディンである。
 目を覚ましてみれば、敵の戦列が組まれているのだ。
 急いでこちらも準備を整えさせ、半ば酔っ払っている者もおかまいなしで、戦列を組ませ対峙させた。
 しかし耐え切れずにでてきたかとおもう一方、よくもこれででてきたと半ば呆れているのも確かだ。
 この砂漠の多い土地の戦い方は、昔から弓が主力と決まっている。
 というのは弓騎兵で遠方から射合い、頃合いを見計らって騎兵と歩兵が突撃するのが唯一といっていい戦術であるから、まずどれだけ優秀な弓騎兵をそろえているかが軍の強さを示しているのだ。
 それが一騎もない。馬が調達できないというのが真相だろうが、まともな構成でないのは誰の目にも明らかだった。
「なぶり殺しにされるためにでてきたようなものだな。こっちは三倍もいるんだ、昼の飯までには終わるだろう」
「準備は終わりました。はじめさせますか?」
「パシャはどうしている?」
「し、将軍、報告します。敵はお祈りをはじめています、まったくの無防備です」
 副官との会話に割って入った一兵卒の言葉に、ラディンは耳を疑って外に飛びだしたが、そこには言葉通り神に祈りを捧げている敵の姿がある。
「馬鹿か奴らは? 戦争中は免除されることくらい知っているだろうに。それとも敬虔なところを見せて、命乞いでもしようというのか?」
「ですがいま攻撃などしたら、我々の信仰心が疑われますよ」
「戦闘準備に先に入ったのは奴らだぞ。こっちが待つ理由などない。すぐに弓騎兵を前にだせ」
 命令が伝わると同時に、ササンガランの弓騎兵千騎が一斉に馳せ、その後ろからは歩兵を中心に、両翼に騎兵がついた突撃態勢の戦列が続く。
「勝ったな」
「とかラディンはおもっているだろうな」
 祈りを捧げるふりをしながら、その尻目に迫りくる弓騎兵を見てアルカッタはつぶやく。
「いいか、まだだぞ、まだだ、まだだ、まだ、まだ、今だ!」
 千騎が弓に矢をつがえ狙いを定めようとしたとき、アバンタール軍がにわかに動いたかとおもうと、猛烈な砂煙がたちこめその姿を見失ってしまい、矢を放つかどうか躊躇した。
「構わん放て!」
 千本もの矢が空を切る。
 一瞬だが暗くなったとおもえるほどの量、もし一本が一人に当たれば、これだけで即時に戦闘が終わるのだ。
 誰もが砂煙の薄れるのを待ち焦がれた。
 しかし晴れてみてそこにあったものは死体の山ではなく、陽の光を反射してまばゆいばかりの、盾で固められた異様な陣容であった。
「矢をつがえ、放て!」
 千騎が慌てて第二の矢を射ようとするが、目標はまぶしく狙いが定まらず、盾は矢が逸れやすいよう湾曲している上に、前面と上方を覆い、よほど頑丈に作られているらしく貫通することもない。
「左右に回れ!」
 してやられて頭にきていたのか、弓騎兵隊長はあからさまな敵の弱点に飛びついた。
 気づいたころには時すでに遅し。布と砂で隠された落とし穴にはまり、総崩れになった両翼に、アバンタール軍の矢が襲いかかった。
「いつの間にあんなものを……ええい奴らを下がらせろ。金のかかる矢を浪費させるつもりか!」
 伝令が届くや、すぐさま弓騎兵は隊列を乱しながらも退却をはじめ、そのかわり退きざまの砂塵の向こうから迫るのは、千弱の歩兵を中心に両翼に騎兵五百がついた地鳴りの姿。
 それが隊列を整えるために一旦停止するのを、しかしアバンタール軍に見ている暇はなかった。
「盾捨て! 盾捨て! 迅速に位置に戻れ。いいか、敵が動きだしたと同時に展開しろ。来るぞ、八卦の陣!」
 寝かせていた馬を立たせ飛び乗り、自軍の遥か前方に盾を障害物がわりに捨てた彼らは、ササンガランの歩兵部隊が一歩を踏みだしたとたん、誰も見たことのない奇妙な陣形をとりはじめる。
 騎兵四、歩兵四に分かれたものが、二重の円の内側を歩兵、外側を騎兵が描くように配列し、内外それぞれが円を描いて逆方向に回転しはじめたのである。
「騎兵、前にでろ!」
 歩兵とはどうせ足並みもそろわず、また盾の障害物と落とし穴の範囲からすれば、歩兵たちと肩を並べるひろさはないと騎兵隊長は判断し、馬の腹を蹴って先行した。
 そこに功名心がなかったとはいえない。
 それどころかまだ楽勝と気負いがあったから、後々の戦利品の分配のためにも結果をだしておきたかったのだ。
 ところが意外にも、ぶつかった先頭の兵士は少しばかり躊躇してその速度をにぶらせた。
 敵外円の騎兵は、こちらを右手に見て回っている。
 こちらの剣が届かずに、向こうの剣ばかりが馬の頭を叩きその馬が暴れだし、斬りかかろうにも狙いを定めた敵兵士は走りすぎ、すぐ次の兵士が斬りかかってくるのだ。
 おまけに騎兵一部隊がすぎるごとに内円から矢が射かけられ、それを知らない後続は次々と左右両脇で同じ目にあい混乱に陥る。
 その隙に乗じて二重の円の中心に引きずりこまれると、あとは槍ぶすまによってみるみる早さで全滅していた。
「歩兵くるぞ、円を直せ、陣形を整えろ!」
 アルカッタの叫びに呼応して、兵士たちは歓声を上げる。
 それに感化されたのか、ササンガランの歩兵部隊の足が止まった。
 騎兵が勝手に先行したとはいえ、想像を絶する短時間での全滅を目のあたりにして、薄っぺらな闘争心は萎縮し、恐怖が頭をもたげ伝染し始める。
「早駆けは終わりだ、突撃体勢をとれ!」
 相手がこないのを好機と見たアルカッタは、歩兵を中心に、両翼に騎兵を突出させた陣形を展開させる。
 それを見たササンガラン軍は直感で理解したのだろう、敵に包囲殲滅される前にと、千人弱が武器を捨てて一斉に逃げだした。
「馬鹿めらが、なにをしている! おい、逃げてきた奴らに矢を射かけてやれ」
「ですが自軍ですよ、それより一旦退いて体勢を立て直したほうが  」
「兵士の数が多いほうが逃げだすなど、そんな馬鹿なことがあるか! 小姓にも武器をもたせ、全員をださせろ!」
 そう叫ぶが早いか、その小姓のいる後方からどっと悲鳴が上がり、それらはラディンがふり返るより早く次々と横を走り抜けていく。
「な、なんだ?」
 ただならぬ気配。
 陽が高くなり日差しが強まっているにも拘わらず、ラディンはぞっとした。
 見れば遥か後方、南にある砂丘の頂上に五十ばかりのラクダ騎兵が並び、悠然とこちらを見下ろしている。
 その中心にいる人物、長大な大刀に長い柄のついた見慣れない剣を持ち、褐色の巨躯をあつらえたような荒々しい大きなラクダに乗る、カリートル・パシャを見たとき全身の血の気がひいた。
 逆光に立つその姿は、確実に殲滅するという畏怖を与えたからだ。
「いつの間にあんなところに」
 副官が驚愕する暇で、ラディンはすぐさま逃げようと必死に馬を探したが、混乱のさなかで見つけたにも拘わらず、後方よりのそれと前方より押し戻された兵士たちによって捕まえることができない。
「くそっ、どけ、どかんか!」
 その様子を、カリートルは見定めていた。
「このままなら昼飯までには終わるな」
「やつらの食料をいただきやしょう。いつかやつらの所に攻めこんだときにでも、返してやればいい」
「そのときはまず攻めてくれるなというだろうがな。いくぞ!」
 蹄とラクダ特有の鳴き声を轟かせて彼らがなだれこんできたとき、ササンガランの兵士たちには迎え撃つ余裕もなければ気力もなかった。
「はあっ!」
 先陣のカリートルの掛け声がきこえるや否や、それが敵であることも忘れたように、敵陣は左右に分かれ道ができあがる。
 そこを無人の野を往くがごとく走り抜けると、カリートルは大刀を振りかざし、馬に乗りこれから逃げようとするラディンの上半身をふき飛ばして宙に舞わせる。
 そしてもはや呆然と見過ごすしかない敵のなかを、五十騎は無傷で通り抜け自軍に合流した。
「た、退却、退却しろ!」
 おもいだしたように叫ぶ副官の声で、恐怖の伝染した兵士たちは、とるものもとりあえず一斉に逃げだした。
 しかしカリートル自身は勝利の喜びを感じることもなく、アルカッタや兵士たちの賛辞にもうわの空で、ある夜の出来事をおもいだしていた。



「尋問、ですか?」
「そうだ。少し騒がしくなるかも知れん、その間よろしくやっててくれないか」
 ウォンが特別監房に入れられてから二日ほど経った夜中に、突然やってきたカリートルとアルカッタに官吏は驚いたが、手渡された金を見てそれはすぐにも忘れた。
「ええ、じゃあ終わったらよんで下さい。そこら辺をぶらついてますんで」
「頼んだよ」
 そのころにはすでに、カリートルはウォンの前に座している。
 かわったところといえば少々ひげがのびたことぐらいだろうが、ここに入れられてこれほど冷静な人間も珍しい。
「いくら私でも、ここから連れだすことは難しい。親衛隊殺しともなれば、反逆罪だからな」
「毛頭逃げだそうとはおもってはおりませぬ。君子は死すども冠をぬがずと申します。これも天命によりましょう、未練を説いてもはじまりませぬ」
「力になれなくてすまん」
「ははは、なにも頭を下げることもありますまい。韓信の股くぐりとおもえばなにほどのことでもありませぬ」
「そうだが……」
 とカリートルは言葉をつまらせる。
「ならばそろそろ本題に入ってもよろしいのでは? 官吏をあのままで人目につかぬとも限りませぬ」
「うっ」
 感づかれていたというより、見透かされたというのが正しいようである。
「囚人の身にこんなことをきくのは心苦しいが……」
「ははは、気弱でございますな。確かに三倍の兵力に策なしでは心細くにもなりましょうか」
「なぜ知ってる?」
 こればかりは本当におどろいたが、それを知っていてもおかしくないとおもえるから実に奇妙である。予測において、こうなることは予見していたのだろう。
「確かに、これだけの兵力では相手に深手を負わせることができても、勝てはすまい。だが勝たねばアバンタールは砂塵と帰すだろう。正直言って駄目なら駄目でいいが、奴らをたたきたいというのは、武人としての、男としての人としての意地だ」
「よろしいでしょう。ではまず食料を集め一月おとなしくなさい」
「一月? どういうことだ? いや、そもそもそれだけの量がどこにある」
「かの大商人サントラ・クルマンなら集められもしましょう」
「金もない」
「かの老人は交易商人であり、交易にとって害とは高い関税にありまする。それをひき下げるとあれば、元はとれると算段はつきましょう」
「うう、む。それで?」
「敵はこちらを兵糧攻めにすれば、まともに戦えないと信じきっております。それに一月もたてば、おのずと士気も下がりましょう。次に戦いは南門正面で行います。でてすぐに門を閉め  」
「背水の陣か」
「水はありませんが、そうするよりありますまい。陣の両側には夜中に穴を掘って布と砂で隠しておき、まず弓騎兵のそれを堅固な盾で防ぎます」
「防ぐと次は歩兵が突撃してくる」
「それをこう、このように」
 いいながら彼が床に石ころで描いたものを見て、カリートルはその意味が分からない。 いったい二重の円に兵士を配置してどうしようというのか。弓ののちに突撃という方法しか知らない彼にとって、それを覚えるのに何度もきかねばならなかった。
「これは八卦の陣と申します。これよりの動きは多種多様、その陣容は百八になりますが、それはおいおいでよろしいでしょう。その間に東側に作った隠し通路より五十も敵陣の後ろに回せば、混乱するのは請け合いにございます」
「こんなに走ったら馬が使いものにならんぞ、それはどうすればいい」
「この位置に、ラクダを用意いたします」
「ラクダ? どうやって?」
「用意いたします」
 ここは牢であり彼は囚人なのだ。それでも用意すると断言する姿に、しかし間違いはないだろうと納得できる。そしてそれ以上、深くきこうとはおもわなかった。
「だがこれでも全滅させられるとはおもえん」
「全滅を望むは下策にございます。囲師(いし)には必ず闕(か)き、窮寇(きゅうこう)には迫ることなかれと申します。追い詰められた者は死に物狂いになります、将を討ち取れば兵たちは霧散しましょう。捕虜も寛大に放つのが上策にございます」
「そんなことをしたら合流してまたやってくるではないか」
「さて遥か四方を見渡して、ラディン並の将などそうはおりますまい。さりとて三千以上ともなれば、はて、集められる都などいくつあるやら」
「ううむ。しかし協同することも考えられる」
「包囲網ならご安心を。古来よりアバンタールは交易の要、東西諸国はササンガランには賛同いたしませぬ」
「なぜ分かる?」
「賛同いたしませぬ」
 それ以上はきかない。ただつくづく敵に回さなくてよかったとおもうだけである。
(激に制か)
「分かった。その策を用いよう」
「大臣、よろしければ腰のものをお貸し願います」
 立ち上がったカリートルの腰には護身用の小刀しかないが、少なくとも囚人の頼みごとではない。
 しかし彼は別段躊躇せずに渡してしまう。 ウォンはそれをもって後ろ手に、自分の長髪を切り落とし、小刀と一緒に差しだした。
「これは?」
「遺髪にございます。天命により朽ちることを厭いはしませぬが、己の証しを留めとうございます。お邪魔ならいかようにも」
「確かに、カリートル・パシャがうけとった」
 それだけをいって牢をでる。
 やり切れないおもいがあり、なんといっていいか分からなかったからだ。
 それがいまや現実のものになっている。
 勝敗どころか生きながらえることすら危うい状況だったのに、いまでは勝鬨がその巨躯を包んでいる。
 心地よい耳鳴り。
 そのなかで近づいてきたアルカッタは、しかしここに至ってなお破顔ではなく、不敵な笑みをうかべているカリートルを見た。
「門を開けさせろ。まだ一仕事残っているだろう?」



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