そのころ、壁の内側では人々が一斉に蜂起していた。
蜂起とはいっても、寄ってたかって騒ぎ立てているくらいのもので、役人を斬って捨てるなどという真似はまずない。唯一武器をもつクルマン傘下の者たちが、脅しか、あるいはやむなく使用するくらいのものである。
下っ端役人のほとんどは買収されていたし、残りも歯がたたないとみるやあっさりと降伏。高い地位にいる者でも、祈りの時間に踏みこまれたのでは対応もしきれなかった。
これは蜂起の合図が、軍隊が外へでた後の祈りの時間を知らせるラッパであったからだ。
そしてアムタエルはこの蜂起を、神の教えに背いた者への戦争行為として、人々の祈りを免除させたのである。
残るはアバンタール最北に位置する、ハサットの宮殿だけだ。
「だれかおらんのか、だれか!」
この異変に、おそらく最後に気づいたであろうハサットは、どうすればいいのか分からず右往左往するばかりである。
不信心なこの男はよほどのことがないかぎり神へ祈ったりしないため、いつも通り昼の少しまえに起きてみると、もう回りには人の気配は皆無になっていた。
親衛隊は投降しても許されないだろうと、なんとか軍が戻るまでと頑張っていたし、使用人たちは話をきかされていたからその前に宮殿をでていた。
「金なら欲しいだけやる、だれか、わしを守ろうという者はおらんのか」
この期に及んで、宝石を抱えて離そうともしない。目が半ば虚ろで、この一月あまりの心的疲労と恐怖から、少し錯乱状態に陥っている様子だった。
「ハサット様、ここに私がおります」
「おお、ラカンシェか。やはりお前だけだなわしの味方は」
「部下と使用人たちには出入り口を固めさせております。いまごろはパシャ大臣が連中を蹴散らしているでしょう。とにかく、すわっておちつき下さい」
「そうか、それなら安心だな」
本当に安心しているのかどうか分からない表情で、ハサットはラカンシェの手を借りながら謁見の間の上座にすわる。
しかしすわった瞬間、その胸をラカンシェの剣が深々と刺し貫いていた。
「ふっ」
言葉はない。ただ息を吸おうとして、まず吐いたところで力尽きたのだ。
ゆっくりとうなだれるように事切れる。少しばかりこぼれていたが、手にした宝石は最後まで離さなかった。
「どういうつもり、なんだ」
ラカンシェは剣を抜き血を拭い、そう質問した背後のジョアンに、なにごともなかったようにきき返す。
「どうって?」
「あんた、この街を守るためだって、反体制組織を探れっていってたじゃないか」
「守ったじゃないか。こいつがすべての元凶だぞ、おかしなところがあるか?」
ここに至ってやっと、ジョアンは最初からすべて仕組まれていたのだと理解し、後悔したがもう遅い。
考えてみれば確かにおかしな点があった。 あれだけの情報をもち得ながら、一度として組織を潰そうともウォン以外の誰かを捕まえようともしなかったのだ。
「さて、お前はこれからどうする。打倒ハサットのために私に協力したのか、役人の手先として私に斬られるか、選べ」
ハサットを倒した事実を、ラカンシェは利用してこの街の領主におさまるつもりなのだろう。
しかしジョアンにすればどちらにしても、本当に心の底から人々を救おうとした人たち、ウォンやクルマン、クシャナのように命を投じた者まで裏切ったことになるのだ。
いや、この男が裏切らせたのだ。
「さあどうする」
いい知れない怒りがふつふつと湧いてくる。
「さあ」
抜刀が返答だった。
「これ以上、あんたのいうことなど聞くものか。誰が、聞くものか!」
「役人の手先か、まあいい。後悔するなよ」
ラカンシェが剣を抜いても、不思議と恐怖は感じない。
ついと踏みこんで振りかぶったジョアンの剣の、その軌道を予測してラカンシェは微妙に体位置をかえるが、実際に襲いかかったのは下方からの突き。
わずかにのけ反りながらそれを避け、引きざまに繰りだした一撃を、ジョアンは床に転がって避ける。
そして立ち上がったとき、服の二の腕あたりと、ラカンシェの頬に皮一枚の傷を見てとった。
「なかなかやるじゃないか。だがお前にはここいらが限界だな」
なにげなく構えたそこに、隙はまったくない。このときに初めて、ジョアンは背筋にぞっとするものを感じていた。
そのころ他方では、アトサンが官吏の姿で宮殿内を走り回っていた。
ウォンの生存をひたすら信じて、である。 朝のうちに堂々と苦もなく入り、いままで調べていたが見つからず、この混乱に乗じて急いで回らなければならないからだ。
そして残る特別監房に誰にも見られないように入るや、案の定いちばん奥のところに看守が一人立っている。
アトサンははやる気持ちを抑えて、あわてた様子で近づいた。
「何用だ?」
「街の奴らが全員で蜂起したんだ。危険人物だから、中の囚人は移動しろとラカンシェ様からの命令だ」
「駄目だ。ラカンシェ様本人でなければ開けるなといわれている」
「それどころじゃないんだよ、ラカンシェ様も防衛に回っているんだ」
「駄目といったら駄目だ。戻ってそう伝えるんだな」
二人は互いに一歩も譲らずに、ううむと唸りながら睨み合った。
アトサンにすれば、開けてしまえばこっちのものという気持ちがあったからたかをくくっていたが、それにしてもこの期におよんで妙に律義でくそ真面目な奴だともおもう。
「おい、いいか 」
「二人とも、そのへんにしておいたらどうか」
とは死んだはずのウォンの声である。しかし確認しようとしたアトサンを、看守が制止した。
「いいんだその男は。それより開けてもらえるか」
そういわれるなり、看守は鍵をとりだして扉をあっさりと開けてしまう。
なにがなんだか訳が分からず呆然とするアトサンに、髪が短くなっただけのウォンは、以前とおなじく何事もなかったかのように笑った。
「旦那……」
死んでしまったのかとおもえたこともあったが、それでも生きていると信じていたウォンが相変わらずの姿でそこにいる。
がらにもなく目が潤み、手をとろうとしたが、
「老師に報告を。あとのことは予定通りに頼んだ」
「承知しました」
感動の再会どころか半ば無視されていた。 ウォンらしいといえばそうだが釈然としない。
「旦那、なんですかあの野郎は?」
看守の去ったほうを睨みながらのアトサンに、さては嫉妬したなと感じたウォンは、はははと諭すように笑った。
「あれは金で雇った者だ。お前のように志しあってのことではない」
「そりゃよーがすがね。どうしてこう、あっしはいつも格好がつかねえんですかねえ?」
半ばの責任は彼にあるとでもいいたげに、上目使いに見やるアトサンの視線を流して、ウォンはその肩をたたいてまるで散策にでもいくように歩きだした。
「この騒ぎのなかに死人を探して回るのは、さて漢(おとこ)であるや否やは愚問ではあるまいか」
「あーあ興ざめ興ざめ。一人で馬鹿みてるじゃねえですか」
「お前に黙っていたのはわざとだ。私がここにいれば、侵入しようとつぶさに警備と宮殿の構造を調べるだろうとな」
アトサンの目に輝きが戻る。
混乱直前なら侵入は容易であっても、肝心の監禁場所を知らなければどうにもならない。
調べ上げたそれを、図面にしろといわれれば、道具さえあればここでも描けたろう。
「いかに堅固な城塞であろうと、内部よりのそれには弱いもの。急ぎ内応し、外の味方を導き入れよ」
「がってんだ。親衛隊の奴らに目にもの見せてやりまさあ」
喜び勇んで走り去るアトサンを、ウォンは平素とかわらず見送ってから、別段急ぐでもなく、というよりは時間を計っているかのようにゆっくりと歩く。
そして途中で拾った剣を両手に持ちながら、謁見の間に入ると、ラカンシェとジョアンの決着はすでについていた。
「やはり来たか」
ふり向いたラカンシェと、マルムーサにつけられた傷とおなじところから血を流して倒れているジョアン。
力量差は圧倒的にちがったのだろう。ラカンシェの傷といえば、頬の皮一枚だけだった。
「大したことのない弟子だな。それともできの悪いほうが可愛いか」
「剣技とは己自身。基礎は教えても、奥義は己でつかまねばならない。古来英傑とはまさにそのようなもの」
「まあよいわ。ところでそいつは死にそうだぞ。いま手当してやれば助かるかもしれん」
「ここで敵対すれば弟子を見殺しかねん、とおっしゃるか」
「そうだ。お前が望んだとおりハサットはもういない。俺とお前が組めば、この街を足掛かりに周辺諸国を平定し、帝国を築くことができる。俺は皇帝、お前は丞相になるのだ」「そのためにあなたは私に近づいた」
「そうだ」
「はじめはパシャ大臣に近づき地位固めをしようとしたところに、私を知り、組織の動きを知った」
「運がよかった。いや俺の強運が引き寄せたというべきか」
「万民が変革を望んでいる、これを利用しない手はないと一気に支配者になる計画を立て、お膳立てが整うや私を捕まえ、万民の士気を上げるべくこれを処刑したと流布する。成功した暁には私を助け、ハサットを討ったとして支配者の座に収まる」
「すべてがそろっていたのだから、まどろっこしい手口はいるまい」
「さりとてここには、私の居場所などあらず。あるは志しある者の座す一席のみ」
なにやら雲行きがおかしくなっていることに、計画のほぼ成功した喜びから冷静でないにしては、ラカンシェは遅からずそれに気づいた。
ウォンにしてみれば彼の主張など児戯に過ぎない。
その野望のためにどれだけの命がうしなわれたのか、どれだけ志しのある仁義ある人物がうしなわれたのか、人々が苦しみ虐げられていたのか、憎悪が蔓延したのか。
「国家たらんとするは、覇にあらず仁と義に因って成すものなり。すなわちそれを徳と言い、すなわちそれを法となす」
「構わんさ、どのようなやり方でもな。俺に仕えろ。ここには俺たち以外に誰もいない、誰にも知られることもない」
「天知る、地知る、子知る、我知るものなり」
「お前は、名を上げたくはないのか、下らない人生を歩んで朽ち果てていきたいのか!」
「己を知る者は人を恨まず、命を知る者は天を恨まず」
「金か、いやちがうな。あのパシャの娘が欲しいのか、それとも領土か?」
「ただ仁者のみ、能く人を好し、能く人を憎む」
「俺が不服とでもいうのか、お前が支配者になろうというのか!」
「君子は器ならず。いわんや、君子は義に悟り、小人は利に悟る。以て其の巧言令色、少なし仁」
「貴様……」
「天網恢々、疎にして漏らさず」
「貴様ぁ!」
「其にありしは権欲。さりとて幼童に欠いた望を埋するには人命おびただしく失し、なおそれをして天下万民を手中にするは悪逆の非道なり」
「貴様になにが分かる。すべてをうしなった子供心に、世のすべてを憎まねば生き延びられない日々など、泥水をすすってなお生き延びなければならない生きざまを!」
「修羅の道を歩むに、師無きを所以とするや、それ小人の言なり。其は君子にあらず、覇道を以て天地人を語るは度し難し」
「教える者だと? 教団がなにをしてくれた、神がなにをしてくれた! 己の力で世界を手に入れようとしてなにが悪い!」
「天下乱るるは人和乱るるもの、それ君子にあらず、それ人にあらず、それ仁道にあらず」
「そういう貴様は、いったい何様のつもりだ!」
「義を見て為ざるは勇無きなり! 悪逆非道の輩、跳梁跋扈するは腐都の兆し、万民に苦心満つるは天地の和を乱し、それ屍山血河にて進むは覇道の所業にて、仁義礼律無き者は、天上八卦陰陽の言にて討つ。それ即ち天下王道を往くことなり」
「答えろ! 何様の、いや、貴様は何者だ? 言え! 誰に頼まれて俺を殺しにきた!」 明らかに動揺している様子がうかがえるほどに、ラカンシェはうろたえ、剣を抜いて牽制した。
ウォンをおそれたのではない。その背後にあるやもしれぬなにかにきづいたのだ。
周辺諸国にしてみれば、ササンガランでなくともアバンタールを喉から手がでるほど欲しいが、それだけの国力がないというのが実状だ。
しかしこの機に、自国寄りに染めてしまおうという諜者を送りこんでないとも限らない。
ラカンシェの知っている限り、ウォンは流れ者で学問に明るい医者でしかないとはいえ、調べのつかないさらに東方からの諜者でないという確証はない。
そして利もなく命を賭けて人々を救おうなどという考えが、存在することすら彼には理解できなかったのだ。
「生国はここより遥か東方にて、師に英傑を持ち、生業を打活師とし、姓をウォン、名をレイホウ、字を侠(シィア)。仁者たらんとする者」
「国王(シャー)だと?」
それをきいたラカンシェは怒気に震えた。 ウォンにしてみれば、字をかえたのはクシャナに対しての礼だとしていたが、わざときき間違いするような発音にしたのも事実である。
戦いをこちらの流れにするために、精神を集中させないようにするためだ。
「殺してやる。貴様はもう用済みだ!」
空気が裂けたかとおもえる一撃。
ウォンは紙一重でそれをかわすと、流れるように二撃を返す、が、ラカンシェもこれを紙一重でかわした。
凄まじいばかりの集中力を物語るように、踏みこみに寸分の狂いはない。
五分と五分。
両手の剣をかざしてウォンが踊りかかった。
だがそれだけの訓練を積んだのか天賦の才なのか、合気に通ずるウォンのかすかな気を読んでいるらしく、どの傷も致命傷にはならない。
おまけに間断なく繰りだされる攻撃にも拘わらず、時折それを寸断する一撃が襲いかかるのである。かわすのがやっとという場面も珍しくない。
逆にラカンシェにしてもそれは同じである。
ラカンシェは防戦一方であるが、その実は必殺の一撃を狙っており、その証拠に捌き切れずに傷を負い血を流しても、捕食者じみたぎらぎらと光る目で見据えているが、ウォンはそれができるだけの隙を与えてはくれない。
まして未知の攻撃方法で襲ってくるのだ。
絶好の機会があっても、そこには剣が所有者なく飛びだし、それを弾いてしまえば相手に隙を与えてしまうと躊躇すれば、移動しながらふたたびそれを手にしたウォンがそのままの勢いで斬りかかってくるなど、まるで大道芸人のようなことをこの場でいとも簡単にやってのける。
それはまさに剣舞と表現するのにふさわしいが、酒の席でのものとちがい、美しくも実戦に適した凶悪な舞だ。
互いに五分と目した通り、決着は容易につきそうもない。
ところがきっかけは意外なところにあった。
ウォンが体重をかけたその足の下に、ハサットのあの宝石が転がっていたのだ。
一瞬に満たないわずかなずれが、ラカンシェの一撃を初めて致命傷にかえた。
「ぐっ!」
派手にふっ飛んだかとおもいきや、ウォンはそのまま転がって体勢を直し剣を突きだす。
しかしもとより、彼が力を逸らして傷を浅からしめていたことは分かっていたから、ラカンシェもわざわざ踏みこむような真似はしない。
だがウォンの胸に刻まれた傷がいくら浅かろうとも、致命傷であるのにかわりはない。 一瞬の静寂のあと、膝をついたまま不遜に待てと叫んだ。
「いつぞや私に体を触れさせたのは失策。未だ己の意志のみで動くと思うか」
体に細工されたのではという動揺は、微かだが確実におこった。
「聞かぬ!」
鬼神のごとき一撃。
しかし刹那に血を吹き上げたのは、無に等しいほどの躊躇をなしたラカンシェの両腕だった。
「おおおっ!」
懐に飛びこんだウォンをとらえ切れずに逃し、猛狂ったまま腕の傷をものともせず、渾身に背後をふり払う。
手ごたえはない。
それよりも、胸にある二つの冷たい感触が気になって仕方がなかった。
「貴様ぁ!」
もはや支えきれずに剣を滑らせ、血染めの腕で眼前のウォンにつかみかかるが、その時にはすでに余力など残っていなかった。
ゆっくりと崩折れるラカンシェに、いつぞやの拳法家を重ねると、師である重慶の亡いた夜をおもいだし、辺りを感慨深げに見渡してからようやく終わったのだと実感した。
「お前が五人目か」
「はい」
問いかけは、大きな柱の陰にされている。 どちらからも見ようとはしないし、また探ろうともしない。これだけの騒ぎのなかでは妙なことである。
「ジョアンはハサットを討ち取り」
と言いつつジョアンの剣を拾い上げて、それをあらためてハサットの胸に突き刺してから無造作に捨てた。
「協力者であったラカンシェ親衛隊長は、部下に殺害され、犯人は逃亡。ジョアンは彼を助けようとして負傷」
「ではそのように」
それから血痕を残さないようきっちりと止血をして、ウォンは何かに満足げにふり返りもせずその場を立ち去った。
それからは周知のことである。
戦場より踵を返したカリートルは、まず民衆の中心人物のアムタエルに迫ると、忠誠を誓うように膝をつき頭を垂れた。
これには誰もが驚いたが、人気の高かったカリートルが味方についたことで、これが事実上の聖戦として認知され、同時にアムタエルが時期領主だと確定した。
このときアムタエルがおちついた態度でうけ答えたが、実はびびりすぎてとり乱すこともできなかったという真相は、後の有名な話である。
そのころにはアトサンの工作が成功して、宮殿に民衆が侵入しはじめており、次いで軍が突入したことによって親衛隊は全面降伏することになる。
彼らは軍が勝手に行動をしはじめていることを知らされていなかったから、ようやく味方などいないのに気づいたのである。
それまでの業のせいか、彼らがどの組織や集団からも見放されていたのは皮肉ではないだろう。
しかしこれだけの大事にも拘わらず、民衆側の死者はわずか十人に満たない。
とはいえそのなかに含まれていない二人の名は、にわか領主のほうからは発表されてはいない。
バジタヤとサイードが、まさか宝物庫の宝をとり合って相討ちしたなどと、歓喜に沸く民衆に水をさすような真似はできないからだ。
そして救出されたジョアンも、戦死したラカンシェも、同時に英雄の名を冠せられた。 ジョアンは特に意識がなかったから、このときに事実と食いちがった証言によってそうなっていたことは、目を覚まして親衛隊長に任命されたときに初めて知るのである。
やがて一段落してから、新しい領主から新しい体制への演説がはじまるころ、横で感無量のおもいに浸るカハトゥの、背後に迫る一人の老人の姿があったことをほとんどの者が知るところになかった。
「なんの用だね老人」
「例のラクダ五十一頭の代金ですが、東の街のハジャールという商人に渡して下さいと、パシャ大臣にお伝え下さい」
「ラクダ? なんだねそれは?」
「それと東西寄りの諜者二人はきれいに片付けました。御用の際は手順を間違えぬように徹底して下さいと、そうお伝え下さい」
「老人、お待ちなさい。ご老人」
だが不思議なことに、杖をついて歩くその老人の姿は、みるみる離れてかき消すようにどこかへ失せてしまう。
「片付け、た? まさか暗殺(アサシン)者集団の生き残りか?」
ハサットが暗殺をおそれて集団ごと虐殺したのは五年ほど前である。とはいえ彼らの能力からして生き残っていても不思議ではない。
問題はなんのためにでてきたかだ。
「まさか」
諜者二人、暗殺、莫大な料金、とくれば一つの筋道が見つかる。
カハトゥの推測通り、バジタヤとサイードの傘下の者を詰問すると、それらしい人物と何度か会っていたことが分かって驚いた。
はるか以前から分かっていながら、ウォンが今日この日にこうなるよう仕組んでいたからだ。
歓喜の涙はいつの間にか、いまは亡き一途な年若い仲間のために流れていた。
そして歓喜の声が街中に響きわたり、国庫が解放されてにわかに混乱し、やがてそれも陽の沈んだ砂漠のように冷めはじめたころ、親衛隊長の仕事に忙殺されていたジョアンは、ようやく家に戻ることができた。
だがウォンがいないはずの家に明かりが灯っているのを見て、剣を構えながら用心深く覗くと、そこにあったのは人質になっていた両親の姿。
「二人とも無事だったのか?」
「おお、ジョアン。お前こそよく無事だったな」
正直なところ、ジョアンは両親のことを諦めていた。あのラカンシェが、まさか生かしておくはずなどないとおもっていたからだ。
「でもどうしてここに?」
「この家の持ち主の人に助けられたんだよ」
ウォンが頭に浮かぶが、そんなはずはない。
「もしかしてこの国の人で、ひげがこんな形の」
「そう、その人だよ」
アトサンである。
「その人はどこに?」
「さあ、旅にでるとかいっていたよ」
「それでこの家は好きに使ってくれっていっていたわ」
どうして旅にでる必要がある?
最初に感じた疑問はそれだった。
アトサンに行くところなどない。女だって何人かいるだろうし、ましてこれからのアバンタールには彼にしかできない仕事が山とあるのにだ。
「ジョアン!」
両親との再会を断ち切って、彼はカリートルの屋敷に走った。夜が更けてきたせいか肌寒いが、それでもなお汗をふき出すほどにひた走る。
そしてジョアンが屋敷に着いたちょうどそのとき、カリートルが戻り門をくぐったところだった。
「大臣、じゅ、重要なお話が」
「どうした。とり急ぎ嫁が欲しいというのではあるまいな?」
いくら親衛隊長とはいえ、許可なくして敷地に立ち入ることはできず、ジョアンは門の外でわずかに白い息を吐いていた。
「僕がじゃありませんよ」
「知人などいないときいたが?」
「娘さんが唯一望んだ人物がいたでしょう」
カリートルはぞっとした。
彼のいいたいことと、ラクダ一頭分多い代金請求、それらからそれに足る経緯を一瞬で理解したからである。
信じられないといいたげな顔つきで、ともかくレムシャエルの部屋に急ぎ向かった。
そのころレムシャエルは、月光の差しこむ暗い寝室で一人泣いていた。
泣き疲れもあるだろうその弱々しい嗚咽。その手には、ウォンの遺髪が握られている。
彼女はその遺髪を手にしたときからずっとこうで、手放すこともなく泣き続け、ろくに食事もとらないので衰弱し、いつかの言葉通り本当に死んでしまうかも知れないと誰もが心配していた。
しかしふと唐突に涙が止まり、顔を上げるやその光景に息がつまる。
ベッドのすぐ向こうがわに、一人の人間がいつの間にか座していたのだ。
本来なら声を上げるべきところだろうが、彼女自身驚くべきことにそれが誰であるかを瞬時に悟り、逆にぎくしゃくと笑顔を作りはじめた。
「メイレン、泣いてばかりでは体に毒というものですよ」
おそらく初めて会った日から鬱積していたのだろう、レムシャエルはベッドを飛びだしてウォンにすがりついていた。
「ラオシーが悪いんです。心配ばかり、心配ばかりで」
「そうですね、そうでしょうね。私が心配ばかりかけているから」
そのまま泣き崩れるレムシャエルを、ウォンは抗うことなくうけ入れてやる。しかしその優しさになにかを感じとったのか、不思議と涙は止み、見つめながら寂しそうな表情を見せた。
「行ってしまうのですね?」
根拠はない、直感的にそう感じたのだろう。ただそれは正しかった。
「二年、いや三年になるやも知れませぬ。いや、ともすれば更に長く」
「待ちます、何年でも待ちます。ですからきっと帰ってきて下さい」
「必ず」
レムシャエルの記憶のなかで、それは初めてではなかったろうか。
ウォンが人に対する優しさや慈しみといったものではなく、本心から切なそうに笑ったのは。
いまの彼女にとっては、それで十分だった。
「レムシャエル、いいかね?」
その寝室にカリートルが入ってきたとき、彼女はいつも通りベッドに上半身をおこしていた。
ただここ最近とちがう点は、涙を流すかわりに微笑をたたえているところだろう。カリートルにとってはそれだけでも十分なくらいである。
「お父様、私、療養することに決めました。場所は、お父様におまかせします」
「ああ、そうか、それは良かった。あーそれでだな 」
と、いいかけようとしたカリートルの腕に後ろからそっと触れて、その続きを制止したのはナクターシャである。
それで真相が見えたのか、続きの言葉は呑みこんで忘れることにした。
「もう遅い。早く寝なさい」
「はい。お父様?」
「うん?」
「ありがとう。おやすみなさい」
ありがとうと聞いたとき、それを言わせるだけの相手を見つけたことと、そして親の手から離れたということに自嘲気味に笑った。
それからすぐに戻ると、門のところでは冷えきったジョアンが手をこすり合わせていて、親衛隊長としてなかなか滑稽な姿に思わず頬をゆるめた。
「どうでした?」
「なにを期待していたか知らないが、死んだ者は生き返らんよ。心配してくれたようなので教えるが、娘は療養しにいく気になったそうだ」
実際、ジョアンはそれほど頭のきれるほうではないが、カリートルが回りくどくなにをいわんとしているかくらいは察せられた。
どうせこの街にはその形跡などないだろうし、たとえ表層的であるにせよ、ウォンが死んでいるというのは事実なのだから。
アバンタールはいまだ、わずかではあるが喜びの喧噪に包まれている。
その様子を毛程も感じられないような遠く離れた場所に、ラクダを引く二つの影が歩いている。
ふと足を止めふり向いた片方を、もう片方の影が見やった。
「おっ、お守りじゃあねえですかい。さてはレムシャエル嬢ちゃんの髪ですな?」
「まあそんなところだ」
「しかしいいんですかい? 残ってりゃあ役職にだって就けるし、嬢ちゃんだってその方がいいでしょうに」
「彼女には時間が必要だ、少々強い意志とな。それに功成り名遂げて身退くは天の道なりともいう。これから復興という時期に、私がなんなりと手助けしたのでは、あたら有望な人材を埋没させることにもなろう。それよりお前の方はどうなのだ? 未練なしといい切れるか?」
「女以外ならないんですがね。だけど旦那の値は、金だの色だので計れるようなものじゃありやせんからね」
「ははは、一介の仁者たらんとする者にはありがたい言葉だ。さていくとしようか。仁道に終焉あらずだ」
「あっしはもちっと金になりゃ、ありがたく拝聴できるんですがねえ」
なるほどそれもありかと、ウォンはしばし楽しそうに笑った。
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